2018.6/1

 10日目。うすうす飽きてきた。誰が読んでいるか分からない、でもごく少数の誰かは読んでいる、というこの感じは中学高校生の頃のブログを思い出す。そのときは何だかんだ交流があり、日々おもしろく過ごしていたけれど、やはり今と変わらず日記かどうか分からないものを書いていた。

 話し方が似たり、同じ言葉を使ったり、その人が話していたことをその人がいない別のタイミングで無意識に話していたり、その話をその人に話していたり、その人がしていることを自然にしたり、したくなったり、そういうのを最近羨ましく思ってしまう。そういったふうに影響を受ける人って基本的に、その人と触れ合っているとき、良い意味でぼんやりしていて、その人の何やかやがすうっと染み込んでいるんだろうなと思う。個人的には近しい人からのそういうことが極端に少ないように思う。誰かと話していたり、何かに触れたとき、頭の中が文字で埋め尽くされてしまう。
  絵をじーっと見ていると、全くしていないんだけど、足元がぐらぐらしている気がして、視界の絵以外が靄がって、気持ち悪くなってしまうことがある。ただその感覚というのは数秒のことで、その後には「全くしていないんだけど、足元がぐらぐらしている気がして、視界の絵以外が靄がって、気持ち悪くなってしまう」のようなことを考え始めている。理解しようとしてしまう。理解できるものへ変換しようとしてしまう。感覚を感覚のまま、その感触、その時間の記憶をしまっておく、だけで留めていられない。
「この人のこういう言葉の使い方は独特だな。多くの人が○○と言うのにな。気をつけよう」
「面白い話だなあ。あそこでああいう身振りをするのかあ。だからよく分からんっちゃ分からないのに、何故か分かるのかな。気をつけよう」
「あんまり見ない○○方(飲み方、吸い方、読み方、見方、歩き方、弾き方、歌い方、描き方、書き方・・・)だな。ここに至る歴史があるんだろうな。いや、完全に無意識で、それが一番体に合っているのかな。まわりにいた人がたまたまそうだったのかな。気をつけよう」
 みたいなふうに止めどなく淀みなく話している最中にも勝手に文章が浮かんでしまう。良いぼんやりの仕方を修得できれば、その場をもっと楽しめたかもしれない、なんとも言い難い深みのある人間になれたのかもしれない。気をつけよう、と思ったあとに、じゃあ自分はどう言うか、どうするかというのを考えて実行し意識せずとも出るまでそれを続ける。けれど、むしろ一体どこに自分はいるのだろうかと思う。
 無意識である時間が長い、というか頭で細かく文字化していなかった幼少期に触れ合うことが多かった人たち、好き嫌いはあれどもある種の信頼を感じる何かをつくっている人、水のあるところや火の近くでほとんど無で話し込んだこと、そういったものからの影響ばかりが残り、表れている気がしている。
 頭で考えすぎ、考えるな感じろ、としか言えないんだけど、かといって考え過ぎているとは思えないし、仮に考え過ぎているとしても、そんな人間が取るような行動とは思えないことばかりしている。