21年生きていて最も凍えた午前中、欠伸と震えが止まらなかった。最も厳しい山歩きでもあった。ただどれだけ険しくてもその瞬間は楽しく、もっとかかってこんかい!と思う。
昼はムーライトクッキーと買っておいた甘食とわざわざ持ってきたコーヒー。食後、どしゃ降りの雨が止んで陽が強く降り注ぐようにと願いを込めて交信。願いは届かず、届いたのか、帰る頃になって強く差し込んだ陽が冷え固まった体を暖めてくれた。
宿に帰り、辺りを散歩。温泉街らしいが今は名残しかなく、うら寂しい。小さな商店でポテチとポッキーを買い、散歩を続けながらバリバリポリポリ。流れの強い川のそばに足湯があり、しばらく今日の疲れを癒す。左耳の聴覚が濁る水温。今日の晩御飯はカツと鯖焼き。美味い。
宿から見える建物がやけに格好いい。調べてみたけれど設計者が分からない。藤森照信さんの建築を思い出す造形。
基本的に、勝ち負けを競うことはどうでもいい。というかそういったものに情熱を抱けない。けれど、険しい山を登ったり、急な流れの川で泳いだり、荒れ気味の海で泳いだり、そういう自然に対しては負けてたまるかと熱意を持ってしまうし、どうすればそうであるのかは分からないけれど、勝ってやろうと本気で思ってしまっている。しなる笹に顔を打たれたのは、かき分け方や踏み付け方を誤ったからであって、笹は何もしていないのは当たり前なのに、やってくれたなと思い、次は打たせんぞと思う。また、草木が生い茂り過ぎた獣道を歩いて、上手い具合に抜けだせたとき、見たか!山!!と思い、見落としていた枝の先が目を突きそうになり、やるじゃないかと思う。そういった繰り返しがあり、下山する頃には勝った気も負けた気もしないまま誇らしい気持ちでいる。これは何だろう。適当なことを言えば、山やそれを構成する草木は何もしていないというのは勘違いで、実は靴や手の先や視界や耳を媒介にして勝負を挑んできているのかもしれない。
何かの花を見て〇〇だなあと感じ、花言葉を調べてみると、感じたのと同じことが書かれているときに考えることと似ている。多くの人がその花を見て、見た目で〇〇っぽいと感じやすいだろうことを勝手に花言葉として付けただけで、実際花は何も言ってない。でも、感じやすい人が、花が送る何かを感じ取って言葉に表したものであるとも言える。だからなんだって感じだけど、そんな感じ。
窓辺でぼんやりしている。今日は早く眠れるといい。