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 最近観たり読んだりして考えたことを書いてみる。考えたとは言えないことも書いて、考えてみたい。

 まずは映画。基本的にストーリーが無くとも、出ている人の演技が良ければ、なんだっていい。それは小説でも似たようなもので、物語らしい物語でなくても文章そのものが良ければ、なんだっていい。どちらも曖昧な良ければだけど、どれほど話が破綻なく淀みなく進んでいても、てにをは等の初歩的な部分での不正確さがなくても、筆者独特の語り口やリズムや小説内でのリアルさがなければ、全く読み進めることができない。すべて繋がって成り立っているから、切り離すことはできないけれど、「物語」そのものに、その小説なり映画なりの、存在の由縁が寄りかかる割合が多ければ多いほど、時代の移り変わりに取り残されてしまう気がする。その「物語」が時代に「全く」そぐわなくなってしまうと、もう誰も読まないし観ないんじゃないか。

 そうでなくて、文章そのものが時代性や風俗とかけ離れた地点で、かけ離れることなんてないけど、書かれたものは何度も読むに耐えうる(という表現は少し卑下している気がするけど)のではないかと思う。

 だから、ではないな、それで個人的には単純に物語が面白い(伏線の先が気になる、わくわくする)ものも好きだけど、やっぱりただそのもの(文章、演技)が面白いものが好きで、映画は演技を写して、小説は文章を書き連ねて存在しているのであって、その根本の興味深さが鳩尾あたりをぎざぎざさせる。

 で、最近観た映画は1『カメラを止めるな!』2『オーシャンズ83『きみの鳥はうたえる』4『ゲット・アウト』5『ラブ&ドラッグ』、大体どれも物語ありきで笑ってしまう。

 それで、この中で『きみの鳥はうたえる』がほとんど唯一、小説を原作にしているけれど物語然としていなくて、再観に耐えやすいように思う。

 123は二回観て45は一回観て、もう一度観たい、恐らく来年も再来年も何度か観たいと思っているのは、やっぱり3の『きみの鳥はうたえる』でそれは、江本拓さんや染谷将太さんや石橋静河さんや渡辺真起子さんや萩原聖人さんの演技が良かったからで、もちろん、その演技の良さは監督や脚本やショットの積み重ねや台詞に寄るんだけど、それでも、強く惹かれるのはその人たちの無言でも成り立つ存在感や物言わぬ間の表情や立ち振る舞いで、物語よりも演者の演技にこそ揺り動かされるているということと大きくずれてはいないように思う。
『カメラを止めるな!』では濱津隆之さんや真魚さんの演技に、僕のこの映画への好みや評価が保証されている。なので、最初の三十分くらいはやっぱり観るのが少し辛い。

 25は割に何も考えずに観れるし、当たり前だけど、あれこれ小難しく考えることもできる。でもその物語の有無と関係なく、なくはないが、ケイト・ブランシェットさんの演技だけで、ジェイク・ギレンホールさん、アン・ハサウェイさんの演技だけで観ていられる、予感がする。カタカナの名前に「さん」をつけるのは何か気持ち悪い。

 今書いていて気が付いたけど、その、この人の演技だけで観ていられるだろうという予感を感じられる人の演技が、自分の中で良い演技で、そういう意味で物語よりも文章や演技を重視している。なんらかの物語ありきでその演技が生まれているんだけど、予感なので、とりあえずそれは置いておいて。

『ゲット・アウト』は物語の部分もなかなか楽しめて、ダニエル・カルーヤさんの演技も良かったので、かなり面白く観れた。でもやっぱり物語の割合が強く、もう一度観ようとは思えず、ダニエル・カルーヤさんが主演の別の映画があれば、そちらを観たいと思う。

 単に何を面白く感じるかというだけなんだけど、物語がくっきりしているものでも、着目しているのはそこではなくて演技や文章で、個人的に、踊りを踊れる人が好きなのと似ている気がする。その人なりの何らかの身体性を感じるものに目がいく。

 映画の話をしたのか分からないけれど、次は小説。最近読んだのは宮本輝さんの1『夢見通りの人々』2『命の器』3『生きものたちの部屋』4『錦繍』中原昌也さんの5『待望の短編は忘却の彼方に』舟越桂さんの6『個人はみな絶滅危惧種という存在』佐藤泰志さんの7『きみの鳥はうたえる』と通読せずに家にあるものをぱらぱら。順番としては5671234

 どの作家も初めて読んだ。舟越桂さんは彫刻が好きで、何らかの表現を取る人は長い文章を書けないといけないと考えている身として、読んだ。中原昌也さんと宮本輝さんは何年も名前だけ見知っている程度で、佐藤泰志さんは映画を観てから読んだ。

 それで、今後もう一度読むかもしれないと、今の時点で思っているのは6714は読んでる最中、それぞれの登場人物にぐぐっと入り込んで涙が出そうになったり、喫茶店なんかでハハッと笑ってしまったりしたけれど、恐らくもう読み返さない。5はもしかすると読み返すかもしれない。

 この文章を書き出したのは4を読み終わった直前で、良いものを読んだあとは、やはり文章を書きたくなる。

 それでも物語というものがあるといえばあるし、ないといえばないと言える67だけが、自分にとって再読に耐える、手当たり次第本を読む合間にも時間を割きたいと思えるもので、優劣ではなく、単なる好みとして、文章そのものを重視していることが如実に現れることが面白い。

 だけど近いうちに宮本輝さんの別の小説も読もうと決めている自分もいて、物語と文章を完全に切り離せない当たり前ことを体感している。67以外の文章が面白くないと思っているわけでは決してなくて、そもそも読み切った時点で、自分にとって、なにがしかの影響を与えるものであり、良い文章であることは間違いなく、何十年も書き続けられる作家の文章そのものが一切の面白さを含まないわけがない。でも当たり前に、古いと感じるし、何かに対しての激しい軽視が気になることが多い。

 短歌や詩を読めないことを加味すると、当然、何やかやの物語を求めているんだろう、もしくは短い文章の中の物語を想起させるものを感じ取って、読めないのかもしれない。長い物語を書けない自分を直視したくないのかもしれない。理路整然とした破綻のない文章を書けないことを認めたくないのかもしれない。

 ただ文章を書いていけばいくほど、過去についてにせよ現在についてにせよ、必ず進行があり、物語がなくても読めるのはそのおかげで、全く移動のない文章というのは読んだことがない。

 立ち尽くしている主人公が、座っていても何をしていてもいいけど、その場の事物を書いても、目をつけた順があり、書いた順があり、思った順があり、やはり動きがある。男は立ち上がって、もう一度座った。としても動きがあり、男は立っている、と書いても動きあり、男、立っている、と書いても動きがある。
 全く身動きの取れない状態の人物を主人公にしても、小説世界の中で動きがないだけで、何らかの動きはある。過去を思い出したり、どのようにして身動きを取るかと考えたり、諦めて何も考えていなくても、動きはある。動きの一切ない小説を、小説になるのか分からないけれど、読んでみたい。ここまでこの文章を読んで、そんな小説を知っている方がいれば、教えてください。

 フランシス・ベーコンが物語を感じさせない絵を描きたい、というようなことをー正確な表現は分からないーインタビューで答えていて、何で急にこれを書いたかというと思い付いただけで、脈絡はない。でも物語を想起させない何かというのは、とても素敵だと思うし、見てみたいし読んでみたい。散歩の間中、やれあの壁のシミが顔に見えるだの、そこの舗石が犬に見えるだの考えている僕には不可能かもしれないけれど、そんな何かを作ってみたいとも思う。

 それで、上に書いた小説や映画を過ぎて、合間に新しく聴けるようになった曲や、前に読んだ本や映画や音楽や散歩道を通って、ずっと愛について考えている。というか何年もずっと考えていて、それでも、俺には到底理解できない愛ということ以外何も分からない。感傷的な行動や自我やらは糞食らえと思うし、そういったことから推測する愛というのなら、分かり過ぎるし、そういうものではない気がするし、至極当然に様々な形があるが、形を変える前というか、根源的なもの、自分にとって根源的な愛ってなんだろうと考えると、途端に何もかも、文字通り、何もかも分からない。

 何年にも渡って浮気されていて、ある日なにかでそれに気が付いてなくなってしまうものは愛なんかではないと思うし、それを我慢して関係を続けていくのも愛ではないし、気がつくまでの日々に愛されている愛していると感じているのならそれでいいし、それが根源的な愛の一部であると思うし、だからと言って許すだの許されるだのではないし、裏切られた裏切ったでもない。
 気が付かなかった己の浅はかやらバレないように気遣っていた相手を思えば、何も問題はない気がするけど、もちろん、大問題ではあり、前提として「ちゃんと」愛し合っているのなら、肉体的な事柄は重要ではない気がする。それでと「ちゃんと」愛し合っているということが皆目見当つかないために、自分自身が見抜けなかった程度の低さや相手を責める浅ましさに、感傷的に溺れてしまう。
 くだらない愛についての物語が多過ぎて、あまりに多過ぎて「これも一つの愛の形」だなどとのたまってしまう。それでそれが一つの愛の形ではないかと言うと、そうではなく、それも一つの愛の形なのだけど、そうではなくて、根源的な変質する以前の愛を垣間見たい。
 何をしても相手を許す、赦すことも別に愛ではないと思う。何をされても我慢できる、するではなくて、できることも愛ではないと思う。決まった人がいながら、肉体的な事柄にだらしないからといって愛がないわけでもないと思う。自我や自己の何らかの達成のために「利用」するのも愛ではない。それが分かったからといって、自分が何か一段、人間としてのステージを上がったとも下がったとも思えないし、そんなことはどうでもよく、単なる興味で知りたい。

 そういうものがいくつかあり、少なくはないと思う今まで読んだ本や、いくつかの映画を観たことで発生した何かで抑えられる、抑えられている自分の病的な怒りや、前述の通り愛や、その他いくつかの、恐らく分からないまま死んでいくのだろうと予感させる何か。

 ヒモになるというのは、資質以前に資格があるのだろうと思う。資格のない人がヒモになれば、当人は程度の差こそあれ「どうせ・・・」みたいな感傷的な自嘲に苛まれるだろうし、相手も愛ではなく思い出や情けで関係を続けることになるだろうし、まわりのー日常的に愚痴を聞かされたりしていない限りー全く無関係の人間も口を挟むのだろうと思う。そういう人たちは何がどう転んでも口を挟むけれど。

 それでヒモになる資質はあれど、資格はないなと感じている私は、資格をもつヒモとその相手との関係を、羨ましさを含んでいない「いいなあ」と思う。そのどこかに、知りたいことの一部がある気がしてしまう。

 小説と映画のことを書こうと思ってたのに。