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 だいたい一回で飽きるのに、四回行って、次も機会があえば行きたいと思っているイベントがある。一度目は住んでる町であったかなり小規模なもので人もまばら、二度目は東京であった大規模なもので相当数の人がいて、三、四度目は住んでる町であった中規模なもので、中規模といっても住んでるところからすると大規模で珍しく、人も大勢いた。たまたま見つけたり、楽しみに日々を過ごしたり、わりに大切なイベントだと思っている。
 それで三回目には感じず、四回目に感じたたことがあって、それは、イベントの区切り等で主催者が話しているあいだに騒がしく帰っていく人を見かけたときに、珍しさや楽しさや話のタネになるだろうものだけを手に入れようとしている浅ましさで、もちろん、そうじゃないんだろうけど、そう感じてしまう自分の軽薄さとともに、浅ましいと感じてしまった。
 普段ないものを与えてもらっているのだから、話の途中で帰るならせめて静かにするべきだし、拍手の一つや二つあって然るべきだし、まだその場にいる人たちのことを考えた動きをするべきだと思う。キリのいいところまではいたんだからさ、プラスに働く何かを全く感じなかったというのは考えづらい。キリのいいところまで我慢してたのなら仕方ないというか、それでも何かあるだろうと思うけど。
 それで、それは、常識や暗黙の了解に成り果てる前段階の心の働きというか、ただ何かを受け取ることに過度に徹しているように思えてしまう。日々の中の突起をつくってくれたそもそもの人や、集う見込みがあって発案された結果集い、その空間の空気感を多く担った人たちへの配慮は、つまらない常識や、くだらない暗黙の了解や、凝り固まった礼儀ではないだろうよ、なあ!みんな!と思ってしまう。
 心底しょうもない年上の眠ることすらできないつまらない話の途中で「ちょっと、つまらないので帰ります」と言ってもいいし、かなり効率の悪い指示を出す輩の言葉は無視して新しく方法を考え出すのもいいし、年齢の上下や性別や生まれや学歴や職歴で臆することは一切ないし、失礼な物言いをする人にはその人の立つ位置まで降りていってやって言い返してもいい、と思っているけれど、これに尽きるが、日常にないものを提供してくれる人には一定の礼節というのが必ずあるんじゃないかと強く思う。
 それと同時に、やっぱり、そういった日常的な事柄から外れたことを、礼節を持ちつつ享受するにはそれなりに訓練のようなものが必要だよなと感じた。東京と比較するその行為自体に気恥ずかしさがあるけれど、そのような日々の営みから少しズレた体験の数の多さは、そこに住む人たちを知らず知らずのうちか、そういった体験との付き合い方を育んでいくのだろうかと、二度目に東京で訪れたイベントを思い出して、思った。そんなさ、年に一回あるかないかのイベントなんて、浮かれちゃうじゃんね、と思い、一体いつもいつも何様なんだよ俺はと思い、いやでもさ、普段礼儀正しいような人が酒が入って下劣になったりするのを見たときと似たような感じよ!なんか嫌じゃん?なんかさ、なんか、いいんだけど、なんか、嫌ってか落ち込んじゃうじゃん、もっと、こうなんか、なんかあるでしょ!って思っちゃうじゃん?と思った。

 それで、上記のようなことをぼんやり考えながら晩ご飯を食べていて、好きなものやことの、改善すべき点というか、見つめ直す点というのか、圧倒的な弱点なのか、脆弱さを認めると言えばいいのか、とにかく、何かそのものの存在の根底を崩すような何かついて、考えて探し出して、それを、知っていなくてはいけないと思い始めた。
 生まれつき耳が聞こえない人にとって音楽は振動を体で受けたり、それで揺れたり踊ったりする人を見ることになるのか、後天的に耳が聞こえない人は譜面を読むことが最も音楽を感じられることになるのかというようなことを考えていて、絵や小説もまず目が見えるというのが、何と言えばいいのか、多くの人が感受する方法でというのか、目が見えなくても、解説や朗読を耳で聞けば見ること読むことと同じようなことだろうと思うし、むしろ細部が漏れ出ていかない気もするし、ようは、音楽にとって聴こえる聴こえない、絵や小説にとって見える見えないは、当人にとっては千差万別あれど、音楽を、絵を、小説を破壊してしまう要素でこそあれ、そのものではない気がする。単純に、それを「それ」たしめる点を探し出し、知っておこうってことだけど、まあ、それは、それで。
 オランダ語で書かれた小説は僕にとって、言語を勉強して読む気がなければ、置きものか譲るものでしかなく、小説でなくなるけれど、そういう極端なものでなくて、そういう極端なことも考えた方がいいのかもしれないけれど恐らく答えらしきものすら出てこないので、読めたり聞いたりできる範囲の小説で、その小説がなぜ小説なのか、その、というか、何故その書物を小説とみなしたのかということを考えたい。

 長々と言葉足らずで意味の分からないことを書いて飽きた。それはそうとボクシングと踊りと演技への憧れのようなものが年々強くなっていて、苦しくさえある。ボクシングと踊りは同じところからの発露で、演技をしたいというのは子どもの頃の体験からきているような気がする。ただ勝負事へのはまり込めなさや己の身体や顔の醜さなどが先行して、スタート地点を押しやって、まず面倒だということも合わさって、実行に至らない。体を鍛えたりシャドーボクシングをしたり人気のない道を散歩しながら聞く音楽で踊ったりイマジナリーフレンドと話したりするしかない。
 踊りと演技は一人で出来るとして、ボクシングも一人で出来ればいいのになと思う。イッセー尾形さんに倣って一人芝居をして、その中で踊りながら人型のサンドバッグを無言で殴り続けよう。見ているお客さんがいるとして、恐らく知人で、僕が一心不乱に人型のサンドバッグを、踊りを交えて小一時間殴り続ける姿に恐れ慄いて席を立てば舞台は成功と言えるだろう。
 終演のブザーが鳴り幕が降り、彼らは何か一言と思って楽屋を訪れるが、廊下の先から、ついさっき客席で聞きつづけて見切りをつけたぼすっぼすっという音が聞こえてくることだろう。