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 判批判な文章を書くと、物凄く嫌な気分になった。思い返して 思い直しても、でもさ、と思ってしまうのは消えないけれど、書きたくない、書いてはいけないと思った。
 書いて初めて、批判的でない心持ちみたいなものを抱いたことに、がっくりした。書かなければ、そういったことが起こらなかった訳ではないだろうが、書く前の考える時間のあいだにそうならなかったことを残念だと思った。万全でなければ何かを批判してはいけないというか、判断してはいけないというか、それを書き起こしてはいけない気がして、そうであれば万全などが訪れることはなく、それ万全であってもしていいことではなく、そういった事柄について何かを表していいという状態は来ないと思いつつ、万全を目指しつつ書かれた、表されたのなら、それは必要なものではないかと思い、じゃあ万全を志向したのかと考えると、そんなことはなく、書いていて初めて志向し始めただけで、それが無意味だったかと考えると無意味ではないが間違っていると、書いていて思い、どうも、こういう書いていて思い至る、書いていて出会したものへ頼り過ぎていると思った。

 朝早くに起きて昼前、昼過ぎまで動いて二時間くらいの昼寝をすると一日の時間がずいぶんと伸びる。窓を開け放して近くに座ったり寝転んだり、ちょいとベランダへ出たり、そのとき何かしていてもしていなくても気がひゅうっと抜けて気持ちいい。冷えた空気の心地好さがこの先どんどん厳しくなっていくと思うと寂しい。もうすでに夜中や早朝の散歩やサイクリングでは手がかじかんで耳が痛くなってしまう。

『漂流船』は相変わらず読み進められず、同じ光文社古典新訳文庫から出てる『罪と罰』と河出文庫の『カフカ式練習帳』をぱらぱらめくることにして、俵万智さんの『プーさんの鼻』を持ち歩くことにした。ここ一ヶ月は映画を観ることと本を読むことと毎日の散歩が塞ぎそうな気持ちを支えてくれているように思う。
 去年の十月はどうやら落ち込み気味だったようで、ああだこうだ言いながら角っこにぶつかりながら過ごしていて、それを思うと今年の十月はさっと空気が抜ける程度には日々を健やかに過ごせているみたいで、それは良いことで、残りも来月も再来月もそうであればいいと願うばかり。

 『プーさんの鼻』いい。いくつかの歌を引用したいのだけど、改行してしまうので叶わない。音読したくなる。歌集を初めてしっかり読んだ気がしつつ、読んでいると狭い穴から押し出されて一気に広がるみたいに景色や連想的に出てきた考えがあらわれて、基本は五七五七七で文字数としては短く、どんどん読み進められるはずが、読み方が分からなくなってしまう。分からないというか、そういったものが消えるまで読み進めなきゃいいんだけど、いつもの読書スピードじゃないことや興味が先行して読み進めたく、でも前の歌の何やかやが頭に残っていて、なんというか読みづらく感じてしまった。短歌や詩が読めないと思っていたのはこういうことなのかもしれない。
 それにしても『プーさんの鼻』もそれを読むことも浮かぶものも何もかもがいい。喫茶店で咽び泣きそうになりながら、笑って誤魔化して、次へ次へと映像を重ねていく、短歌を読むって、こんなに楽しいのね。    
 流行っているところを見ると、というか当たり前なんだけど、多くの同年代の人はこんな楽しみをずっと前から知っていたのか、と思う。短いのにこんなにどうして、と思ってしまうのは、短歌という字面のせいか、長短で何かを計ろうとする浅薄さか、知らぬ楽しみを知ることの大きな柔らかい豊かさと底見えぬものに対す恐ろしさに身震いする。しばらく、リズムの掴みにくい本を読むのに難儀するだろうと今から心配になっている。