シャワーを浴びながら「そういえば、できちゃった婚って急に授かり婚って言い直された気がするな、何で?何か気持ち悪いなあ」と思い始めて、何でかなーと考えて、『授かる』を目的のための能動の末に起こる現象だと感じていることに気が付いて「あ、だから、でき婚を言い換える形での授かり婚って言葉が気持ち悪いのか」と納得して、え、じゃあ何で言い換え始めたの?とそれは残る。
「さあ、子どもを授かるぞー!」とセックスに励む人々を想像すると「がんばってー!!」と思うが、(予定はなかったけれど、子どもができた・・・、体裁的にも産まれてくる子どものためにも『できちゃった婚』って響きは・・・)という人々を想像すると「気持ち悪」と思う、というような全くどちらも、実際にいたとしても本当のことは分かり得ないであろう物事の想像でほっこりしたりイライラしたりするのが疲れる。
そもそも『授かる』って言葉の響きが、種類すら異なる上位に位置するヒトから与えられるようなものってか、ことだと思っているのが不思議で、そこに自身の明確な意思が必要だと感じてるのも更に不思議。
で、多分そんなふうに感じる言葉を『できちゃった婚』の代わりとして使う浅ましさを気持ち悪く思ってるってことなのかな。
それなりの働き、動きがないと授けられることも与えられることもないとして、働かざる者食うべからず的なものだとして、何となくぼんやり色んな人を思い浮かべると「俺がありとあらゆるモノを持っていたら、彼ら彼女らにどんどんあげたい」と感じているのに気付いて、それはその人たちが「普通」に「ちゃんと」生きていることと関係なくそうしたい、というか、何をしてようが何をしてまいがそうしたいということで、それはその人たち自身が動きそのものってことなのかなと疑問が出てきて「いやでも、その人たちとの今までの交流(相互の働きかけ)から『何にせよ』と思ってるわけであって」と、結局互いに何かを与えているって事で、何の話?って感じ。
芳文社コミックスいいかも、と思って『の、ような。』『伊勢さんと志摩さん』『カラーレスガール』『夜と海』『アタリ』を買ってみて、結構どれも良いなか、『違国日記』と『水は海に向かって流れる』も買ってみて「そりゃそうですよ、売れに売れて作者の求めるだけのものが行き渡りますように」という気分。
今まで気にかけなかった「このマンガがすごい!」をチェックした方がいいのかもしれないと思って、全年通して見てみると「それそんなに?」と思うものもたくさんあり、やっぱいいや、となる。ありとあらゆるものがそうなんだけども。
そういうことも含めて目にしやすいってだけの気もしつつ、良いものがきちんと表に出てきている、という感じがするし、作家それぞれのその都度の行き着くとこに行き着けば作品はどーんと出てくるもんなんじゃね、と思って希望に満ち満ちる。