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『あせとせっけん』の新刊を読んで、なんか結構久々に出てくるキャラ(八重島麻子)にぎーっと締め付けられている。話的にもぎーって感じで、多分それもあいまってる。
 読んでる最中に「おうおうおうおうおう」ってキャラは男女問わずたくさんいるけれど、読み終わってこう「おうおうおうおうおう」が続くのはいつぶりか、と思うと多分、中高生くらいの頃の岡田和人作品の女の子と『エア・ギア』の野山野林檎以来かもしれないと思いつつ、一体そういう好みっていつ形成されるの?、で敬称略で書くのに抵抗がある己が気持ち悪いけれど、八重島麻子さん、野山野林檎さん、と書くのも気持ち悪いし、今書いてみてぐっと存在が立体的に近付いた気がして吐きそう。
 で、『あせとせっけん』を読んでいて、いやもう何の話なんだろって思うけど、小説でも漫画でも映画でもドラマでも、AがBを思ってBだけに言った、見せた、したことを俺たちに示さないでおくれよ、と思う。仕方ないことでしかないけれど。
 よくできた映画を、覗き見している気分で観てしまうタイプだからそういうことを考えてしまうのかもしれない、なんか、話とかキャラとか、コントロールしないでよ、とまあまあ引きずるくらい悲しい。

 それで、ぼーっと「なんか思い出しそう、なんか、作品と、作者、なんか、信頼、なんか」と考えていて、棚の本をこれか?あれか?これか?と読み直して発見した。
 2015年に出た『職業としての小説家』で見つけた、『〜著者と読者のナチュラルな、自然発生的な「信頼の感覚」です。多くの読者に「村上の出す本なら、いちおう買って読んでみようか。損にはなるまい」と思ってもらえるような〜』それと、『著者と読者が個人的に直接取引をしている(「お兄さん、どないですか。ええもんありまっせ」)ーそういう親密なフィジカル感が欠かせない〜』で、これは最近聴いた曲からもちらちら思い出しそうになっていた。
「ひゃーここダサいなー、あれ?、俺涙が」って感じの曲が好きで、それはもう自分にとってとにかく一つの指針に近い存在感であって、久々に聴いたゼリ→の『体温計』で改めて実感した。
 サビで毎回声が野太く伸びるところがあって、初めて聴いたときも今も笑っちゃうんだけど、直後、というか重なるくらいの速さで、じわっと涙が出てくる。
 それで上の話に戻って、サビで毎回声が野太く伸びるところ、があるからこそ信頼している気がする。
 それは例えば小袋成彬『Gaia』の彼のパートの歌詞のバランスからも感じる。ダサさっていうのは作品全体の雰囲気よりもその人により近い、単純に人間味のある部分ということになるかもしれないし、個性が滲んだ部分であるのかもしれないし、身体性の発露ということかもしれないし、まあ多分そういうことなんだけど、とにかく俺は小袋成彬さんやYAFUMIさんが新譜を出せば「おっ!聴いてみっか!」となる、それはやっぱり『「村上の出す本なら、いちおう買って読んでみようか。損にはなるまい」』的な信頼があるからで、こんなごねごね考え始めたのは多分adieuの曲を聴いたからだと思う。

『強がり』という曲があって「いいなー」と思って聴いていたんだけど、懐かしい感じもしつつ作った人を確認すると小袋成彬さんで「あらら、そうなのか」とがくっと聴く気が失せてしまった。
 これはまずカバーソングばっかりの歌手を自分でもちょっとどうなのそれってくらい嫌っていることが前提にうっすらあって、今回はadieuの声で完成している訳だから全く別なんだけど、この先新譜が出てもまず気になったタイトルの作者を調べてしまうし、いいもんはいいから聴くけれど、信頼みたいなもの発生しない。歌っている人がメロディと詞を両方つくっていて欲しいと願ってしまう、かなり強く。
 で、それとは別に、tricotの新譜に入っている『真っ黒』が良くて、ボーカルの方が作っていて、今までぱっと目につく曲は挫折して聴けなかったのに、今後新譜が出たらとりあえず聴くバンドになった。
 これはもうただこっちの意識の問題なんだけど、当てはまるものが多過ぎて、根本を探したい。