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 これしよう!と決めて、体の具合を考えつつも継続できることを考えると俺は、自分が思っているほど怠惰な人間ではないのかもしれない。体調を崩すことと嫌悪感のあるものを極端に避けていることで、俺は何て怠けた奴なんだろう、と思うし、まあきっとそうなんだろけど、かなり深く掘ったところにみえる根っこは真面目なのか、というか、避けてるってかめちゃくちゃ手を抜いてしまうことが、怠け者だと烙印を押す原因か、ってことはやっぱり根っこはだらしない奴なのか、あれ。
 考えることを覚えたのが高校二年生くらいからな気がして、それ以前の記憶の無さと合わさってかなり恐ろしいし、それ以来、性欲と怒りをコントロールすることにエネルギーを使い過ぎているような気分で、まだ十年も物事を考えてないのか、本当にしょんぼりする。

 推敲しようとして、今までと意識が違うからか思うように行かず三日間本読みに使う、と、なんとなくプリントアウトして紙の上でチェックしてみようかと思い立った、のでそうしてみる。紙に印刷するだけで、パソコン上で読み進めるときほどすらすら流れていかないから、その分ごりごりいけるのではないかと予感がある。推敲するタイミングを間違えた気もしつつ休みを取る、頭を冷やす必要、太陽の光を浴びる必要があった。毎日更新していくことの意味を捉え直せということで、向上的、試作的要素を持たない継続は無きに等しい。
 で、『バードマンあるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』を観て、中学生か高校生かぶりにレイモンド・カーヴァーを引っ張り出してきたのと新しく買ったのを読み、削ぎ落とされ方とそれでも膨らみのある物語の質感に驚いた、昔読んだときは「おもしれー」くらいだったんだけど、考えることを得た俺は「おもしれー!すげー!」といったところ。ただ、この文体、書き方で長編を書こうとすれば一体どうなるんだろうか、と思う、恐ろしい数の材料がないと書き進められないんじゃないか、膨らんで突き当たり、膨らんで突き当たりというのを繰り返していくんじゃないかと思い、あひゃあひゃあひゃあひゃあひゃ。
 で、家にある本で目についたものをぱらっていると、ありがとうございますって感じの、そこに書かれた文字、単語が、別のイメージを揺り動かしてくれる、声を見つけた。俺はとにかく、画家や彫刻家の言葉に導かれる。絵をやる人は文章を書かなくてはいけないし、文章をやる人は絵か彫刻をやらないといけない。俺は四輪駆動の生き物で、各タイヤを整備し続けなくてはならない整備士であり、大元のエネルギーを切らさないように各所のスタンドを記していく地図係でもある。それがどんなものでも、自身が自ずから変容していかなくちゃ何の意味もないし、そこに細くても太くても一貫性のようなものを見つけるのは自分ではない、とっちらかしたまま邁進するほかない、どのような分岐点に立たされていても、進んだ先は選ばなかった方の道を含んで伸びている。
 絵が少し行き詰まっているが、それは一分に満たないメロディに変換され、三日間の休息と読書を義務付けた。区切るためにまとめて撮影し、目が覚めてすぐに描き始めなかったことで、単純な面倒くささが絡んできて、何かを試すことが求められている。
 つくづく、一つの物事に集中できないことを意識する、いくつかのことを並行して、同時に、ねじれの位置で、規則的に、適当に、配置し直し、混合して、パッキンで混入を防いで、抽出して、気化して。ぎゅる!ぎゅる!って感じでポイントごとに集中すること以外、偏頭痛の種と暗い気持ちの気配を生むばかりで、何も進めることができない。

 とにかくここ数ヶ月、レイモンド・カーヴァーを除いて、読書が楽しくないし、それは最近のことで、音楽も、これこれこれだよ!ってくらい気分に合ったものを見つけ出せないでいる、それが、うっすらずっと、おーーーーーーーーいって気持ちにさせやがる。