何年かぶりに『この人の閾』読んだら、前と違った感じ方でめちゃくちゃ笑えた。ここ数週間、結構前に読んだり聴いたりしたものと直近のものを適当に取り入れてるような、それでそうすると、直近のものを以前の何かに対しての目で見て、結構前のものを直近に対する目で見ている。
子どもや孫に、これおすすめ、って感じであれこれ考えると、わざわざそれを知らせたかった理由がシンプルな形で浮き出てくる。
神の視点に近い三人称で書く方が、極めて純粋な一人称で書くことよりも書けることが少ないんじゃないか。
と、そう考えたこともないし、試しがてら書いたこともないのにぼんやり思い始めるのは何だろか、というかその初めの点は何か。書きたーいと思いながら書かずにいて、書きたーい書きたーいの隙間に、その書きたいものの景色なり一行目なりが出てくる感覚と近いけれど、大抵実行されずに消えていくから、多分似ているけれど大事なところが違っている。
国語辞典をゲットして、読んでもいないのに、積まれた小説やらとは違った高揚感を抱かせてくる。やっぱ、色んなものがぐちゃぐちゃごちゃごちゃしてるものが好きなんだろうな、辞典なんてまじのカオスじゃん、いや、外枠が整ってる、というのか、ぱっと見「ああこれは○○っすね」と言える、言えてしまうし実際それでもいいくらいの、覗いてみると「ぎゃっ!」って感じのものが好きなのか。それってだから、まだ友達とのセックスとか、親類と激しい喧嘩をするとか、ヒッチハイクとか、音楽聴きながら散歩しつつ読書するとか、その時間その空間がぅぅぅぅうううって感じで捻れている状態にいるのが好きってことか。何とか形を保っていて、その実もうめちゃくちゃっての。でも多分、きっとそういうのを嗜好し続けるのってよくない気がする。
何か思い付くとき、世界中でそれ的なものが満ちたタイミングだったってのを、誰かから聞いたか何かで読んだかして、まず俺らはでっけえ思考する何かの一部、諸器官か、と考えたのは今で、最初は「俺ごときが思い付くようなことっすから、そりゃそうっすよ」ということで、それは文章と繋がらない。で、それをぎゅるぎゅる考えてみると、自信や自己肯定感などというものは肥料にもならんクソみたいなもんで、諦めるというわけでもなく遠くに見つつ邁進、精進、鍛錬することが我々に課せられた唯一絶対の物事である!ってがっちごちの気分になるので、この数行はどうでもいい。
とにかくすれすれ、あまりにも頬に近い指先は、その気配からしてもう触れているのと違いはなく、そういった近付き方、寄り添い方で。
あらゆる推進力から走り去って、その運動の運動で運動していく、あらかじめ決められた地点へ、発起こそ作為的だけど、完全な迷子で、そんな様子で。