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 一年ちょっとぶりに短歌、のようなものを、でも本当に分かんないな。前のを読み返してみても、同じように分からないのに、変化しているのは興味深い。
 短歌を詠む動きは、何かをじっと見つめることを促す、当然か、でもほとんど何も分からない状態で触れ合ってみるとそれすらもわくわくする。促すってか同質?
 小さく密で、空洞のある、透明度の高いものを作る行為、何かを思って覗き込むと「うわー」って、結局、だから、形状的には整っていて、ぺろんとめくると飛び広がるもの。短編に対する苦手意識と、映画をつくることは(俺には)できないってのが混ざったものを短歌に対して抱く。
 色んなものの差が分からないまま好奇心の赴くまま俺もついて行って、ちょろちょろして、それで細かな部分を何も理解せずに帰ってくる。それでいて、そこかしこに通過したからこそついた痕跡のようなものが見えてくる。

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 そんな量があることと、そんな量が同じくらいの大きさの頭に収まっていることに慄いてしまうような人の死は、全くどのような形としても現れない自身の内側のものたちが、俺の死後どこへどうやって消えていくのか分からないことに対する素朴な疑問とぼやぼやした勿体なさ、その二つの最大形がのしかかってこようとする。
 で映画、試しに『パターソン』を久々に観てみたところ、やっぱ「もういっぱいですー」って感じで最後まで観れなかった。ングレィツな本はあると浮き上がるくらい嬉しいんだけど、こういうところで自身の機械的な脆弱さが分かりやすく出てくる。
 というかそれって、俺は映画を観ている最中、受けた映像から別の映像を出力して観てるのかな、あ、そんなことないか、単にどこで出てきていても、映像を観る行為そのものに疲れてるだけだ。
 でもそうか、画面に映ったものから別の映像を出すことも出来るのか、なるほど、次の映画が楽しみになってきた、映し出す必要のない本をもりもり読みつつ観よ。

 爪をガラス質っぽいちょび深緑に塗って、いつも通り少し動きが細やかになる。ただ、それは今回気付いたことだけど、細やかさは出来にどれだけ満足しているかで変わってくるということ。
 いい感じのときはがさつに動いて剥がれることを恐れている、やっぱりそれは美しいものを自分勝手に乱してしまうことへの結構病的な危機感、恐怖由来かもしれない。

 読んでいる本から、倉橋ヨエコを聴きたい気分に。Apple MusicのFor Youもうちょい気張って欲しいって、毎度かなり微妙なラインで違う、けどそんなもんか、仕方ない。あと、シンプルなメロディが繰り返されて、リズムが込み入った曲も聴きたい。巨木の影で陽の匂いをかぐときに合う曲。