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 結構前に変えたきりだった文庫本の棚をいじり、不定期に読み返すのと「むーん!」を基準に、そうするとほとんどが下の段へ送られていく。
 一段目には十冊もない。もっと厳密に選べば半分くらいになりそうだけど、きっとそれが正しい。たかが知れた読書量で、そういった本が少しでもあるのは幸運というほかないし、今後も現れるだろうって確信的な予感がある。
 定点となる本をいくつも持つことで、求めている何かの輪郭がほんの少しだけ見えてくるような、それでいて、自身がどこか、決して戻って来れないところまで飛ばされるのを繋ぎ止めていてくれる、が、それはあまりよろしくなく、希求的に遠地を目指す必要が出てくる。

 とにかく本屋へ行って、そこにある本を見る、引っかかるものを探す、見つける、そうして別の方法で再度その名前を見かけた本を買う、っていうのを二、三年織り混ぜていることに気付いた。
 自身を信用できないから、自分だけで本を買うと、それだけでくたびれて読むに至らない。感覚、眼球、肌を頼りに歩き回る、どこかで再会する、とりあえず買う、読む、読む、読む、調べる、以前のどこかと繋がる、気付く、読む、歩く、目をつける、というのを繰り返している。
 引用部や紹介記事だけで買った本がそれほど迫ってこないのは、運動線が断ち切られているからか。
 小さな連結部を覚えておく。同じ書架に、展開されて置かれた本、何か気になるな程度。その二段下、適当に引き抜く、装画に惹かれて調べる。どちらも買わずに帰る。それを何度か。別のところで、展開されていた本の名前を見つける。買う。その中で比重の大きな本の作者と二段下で気にかかった本の作者は、当たり前のように同じ。
 展開されていた本を買った日は知らないうちに、死んでいなくなった作者の誕生日と繋がっている。
 で、それらの小さな繋がり自体は、その強度、深度はどうでもいい。ただ、そういったものしかもう俺には読めなくなってしまっている。

 言葉になっていない状態より前のことだけを書き続け、それを足がかりにして考えることしかできない。
 それは、パラ読みで次の文章が書けることと似ている。異なった言語で同じことを表すこと。翻訳。

 整理したりまとめたりするのが好きだから、何でもいいから書くことは理に適っているのかな、人と話すと話す前よりもめちゃくちゃになってしまうが、こうやって書いているときと話しているときの感じは同じ。
 でも、少し前に言ったことは、少し前に書いたことよりも覚えていられないから、それがとっ散らかる理由かな、が、長く話していると相手や自分の言葉を引用することが増えていくから、他の物事と同じように全部覚えているのかもしれない。