ねっころがって、新しく買ったのや引き出してきた本を積んでその上で、分厚い本を読んでいるとものすごく楽しい。
まず高さのちょうど良さが楽しさすらあるし、積まれた七冊の本からも栄養が届いているような、今読んでる本を読む時間で、置かれた本たちも摘み読みしてるような、そんな気になってくる。
七冊中五冊が新しく買った古い本と新刊、二冊がいつ買ったっけ?ってな具合のまあまあ厚めの本。で、その二冊は何回読んでも読めなかったのだけど、なんとなーく五冊と繋がる、が、多分今回もその二冊は読み終わらない、が、五冊読むのには必要そうで、その五冊はきっと読み終わる。
というような読書方法を取るようになったのは、ここ二年くらいだと思うが、何でそうなったか、何故できるのか、できるというか、予想や予感があるのか、でもそういうことを考え始めると本に手が伸びない。
で、また短歌的なものについて。茶杓の露ほどのコツのような、じゃないな、方向性のようなものが分かって、分かったような気になりわくわくするんだけどそれは、歌ってのは意識しないと語りかけようとし始めるんじゃないかなーってことで、何でもかんでもぼんやりしているから気付くのに遅れた。
で、基本的に人と語り合うことなんて、語り合えることなんて何にもないよね、と思っているから、俺が思う歌の持つ自然な動きと自身の前提的な意識が合わさって、「できたー!」、「え、なにこれ?」というような状態を招く、のかな。
で、やっぱり写真を撮りたい気分。何でもないものを何でもないまま、過不足なく撮りたい。その何でもなさは、小説で言うところの性描写や会話みたいなもので、あー駄目駄目、またそんな適当なこと言っちゃ、何でもないけど興味だけ惹かれるもの、誘導なくドラマ性のないもの、そんなもん意味ある?、うーんんんんん。
別の、興味が向いて始める物事よりも腰が重いのは、外に出て彷徨う必要があるからで、それは体を疲れされ、疲れた体はちょっとだけ、暗い気分を招き始めることがあるからで、したくないことをなるだけしないのは疲れたくないからで、現時点での写真は疲れるだけの可能性が高く、前段階で何の納得もないからか、でもまあそんなこと言ってないで撮りたいなーと思ってるなら撮りなさいダボ!
で、昨日から絵が始まった。びっくり落書き!って感じで、は?って気分でありつつ、やっぱ体を動かせるのは心地がいい。