1258字

 初日1900字となり、そこからほとんどずっと2000でたまに3000か4000、初日の数が全体に影響するのは何でだろう、おもしろい、けど『重力の虹』量書こうと思った際に600日も草稿にかかると考えるとよろしくない。
 だーれが読むんだ?って量のものを書いてみたいけれど、まだ200000字を超えられない馬鹿がほざくな、気張れ。

 とりあえず手首を固定する意識を強く持って、そうなって、まし?と聞かれるとましかも、くらいで、手首が壊れる懸念、それに反して鍛えられていく体、どうすればいいかと思うけど、慣れずに同じ手法を試せるのはいい。
 気化した何かで頭が痛い、一枚半で手首が痛い、眠い、お腹や頭が痛い、回す金がなくて色がない、とかそういった苦だけがある。
 気に入った!わーい!ってのを繰り返していると、ああっ、息がっ、って感じ、つまんないからころころして、それでいてすぐに慣れる、でも、今で言うと、確実にその行為が原因である手首の鈍い痛み、のおかげで慣れることがない、というか慣れることが出来ず、それでいてその方法を長く試していられる。それだけが今のところいい。

 とにかく長大で、その存在そのものが気持ち悪いごちゃついたものを書かなくてはならない。

 そういうわけで来月用に『重力の虹』(上)を買った。読めるかな?ってのと楽しみすぎる!ってのが良い塩梅。
 積まれた柳美里の『永住する死と生』かボラーニョの『2666』にしようかと思ったのだけど、『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』から気になっていて適当に買ったタカノ綾さんの画集のタイトルが『重力の虹』と繋がっていたので前述通りの『GR』、うひょー!!
 で、系統の違う薄い文庫本はどうすればいいんだろう。もし読み終えたらどうしよう、買い足すには既に重いし、一体俺は何を読めばいい?って気分になるのは明白で、何となく家ある文庫本もしくは薄めの単行本がお供になりそうな。

 俺自身に書きたいことがなくて、書きたい欲望だけあるのは無限にいつまでも書けるってことにならないかな、と思いつつ、書きたいことを書くということをもうちょっと詰めて考えた方がいいのかもしれないとも思う。
 詩を読みたいが、まだ読めない。読みたいし必要な気もしているけども、まだ読めない。いつか読めるのか、誰の詩を読み始めるのか。誰から広がるのか。
 佐治春夫さんが言ったように関係性しかなくて、俺は俺を突き詰めて他者と認識できて初めて、書きたいこと、のようなものを見出せるのかも、こっちに引っ張って来られるのかもしれない。
 同じく、観測される光について、粒であり波であること、そのことを、今はまだ、というような連なりの中で装飾として使う以外、その文章の塊の強度を著しく下げてしまうのではないか、それは時間の経過によって損なわれる物事全般に通用する?、その時その時での前提、仮説としての認識が足りなければ、何かを確立するためにそれら不確かで脆い柱を用いることは愚かではないか。