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 毎日の食事が本当に億劫で、お菓子やら袋麺やらを食べ続けているのはきっと良いことではなくて、でもとにかく作って食べるのが苦痛に近い。なんでもかんでも「まっ、そういう時期そういう時期、こうだからこう、こうじゃないからこうと決めつけんとこうぜ」と言い聞かせているのがいいのかもしれないからどうと決めつけんと行こうぜ。明らかに料理するのが楽しい時もあるんだし。

 年々一人きりでいる時間の過ごし方が分からなくなってきている。なんか中高生の頃の方が上手く過ごして、誰かといる時の澱を処理できていた気がする。今でも一人きりの時間がないとどんどんおかしくなっていくのは変わらないけれど、いざ一人になるとただ寝転んでいるだけのことが多いような、無駄にしているような、そんな感じがある、でもそういうふうでも一人で過ごすと「さあ、また人と関わろう」という気力みたいなのが復活することも確かだから、中高生の頃よりも人と関わることで溜まる何かが増えているのかもしれず、あんまりごねごね考えるのはよして寝転んでいよう。一体全体いつも誰に、何に対して文章を書いているんだろう。お互いのことはさておき、お互いの提示するものを全部理解し合える相手を探しているのかもしれない。

 十キロ以上の散歩がしたい。目的なく十キロ越えて歩くのってまあまあ常軌を逸してる気がするんだけど、どうなんだろ。旅先で荷物を持たずに観光地でもなんでもないところを歩き回りたい。ちょっと恐いくらい心安らぐ。ごくたまに出会える美味しいカフェラテの飲める店を発見するとうっすら、生きてて良かったなと思う。旅の間ずっと色んな感情が敏感になっている気がする。
 住んでいるところやその近くに良い店をいくつか見つけておくと、そこへ訪れるときに少しだけ旅を思い出してモードが切り替わる。ほんとそういう良い店って良い、めちゃくちゃ良い。仲の良い人たちと良い店を営みたい。美味しくて個人的で暖かな店をしたい。

 去年の末くらいからyurinasiaという人のダンスを毎日のように見ている。ダンスそのものや曲もいいんだけど、踊っている間の表情がとにかくいい。踊れるというのは一体どのような気分なんだろうか。なんとなく神聖なもののような気がして手を出せないで何年も過ぎてしまった。
 テンポに限らずのれる曲を聴いていると体が動いて、どんどん音楽の一部になっていく感覚がある。良いライブを観ていて、俺より音楽にのっている人を見たことがないなと勘違いしてしまうほど、のれる曲にのっている自分は体全体で動いていて気持ち悪い。それでもやっぱり気持ちが良い。その、勝手に動いていく体や気持ち良くなって解放されていく体や単純な羞恥心を、自分の意思でコントロールして踊りに変えるっていうのは一体どういうことなんだろう、なんて凄いことなんだろうか。
 岡村靖幸の若い頃のライブ映像を観ていると、音楽とくっついている感じがするし、そのダンスの気持ち悪さとあまりの激しさに笑ってしまうし、やっぱりとことんかっこいいし、俺も自分たちの音楽と融合したい!と思ってぐらぐらする。

 ここ三週間くらい結構元気に過ごせていて、でも誰かと何かを共有したい欲を抑えるのに疲れている。絵や音楽や本や場所や、それぞれの好きなものや嫌いなものやその他何でも、何でもかんでも共有というか、分け合いたいと思っている。何か手助け出来ることがあればしなくちゃ!何か言えることがあれば言わなきゃ!と左回転の円錐がおでこから前に突き出していて、数日前にその回転の速度がピークに達し、それから回転数が落ちている。飛び出ている部分も少なくなって、また別の円錐が頭頂部の裏側に底面を向け先端がへその方へゆっくり進んでいる。おでこから出てる円錐がなくなってしまえばお終いで、あとはまたしばらく内側の点に吸い込まれそうになりながら頭頂部の裏から進んでくる円錐の痛みに耐えるしかない。眼球の裏側の方にうっすら白い大きな花弁があって、そこに光が当たって透けているのが目玉の前に回って見える。

 大き過ぎない川の側で煙草を吸いながら焚き火にあたりたい。立ち上がった腰くらいの高さの火柱や舞った火の粉を見て、ふざけた話を三時間くらい休みなく話したい。
 少し前に友人含め三人で焚き火をして、割り箸や枝に刺したチーズとウィンナーを焼いて食べながら、ぺちゃくちゃくだらない話をして笑って、空気の乾燥と煙と話し過ぎて喉を痛めたのが楽しかった。仲の良い人たちだけで火を囲んで飲み食いしつつ話し込むというのは、体の澱みを解消する行動の中でもトップクラスで、それでいて一人になったときの反動が少ない。ただはっちゃけて朝まで遊んでっていうのは楽しいんだけど、単なる酷い疲れとあまりの何でもなさに数日間塞ぎ込んでしまう。ただ楽しいだけって本当にたまにでいいよね。
 荒れた海のそばで太い丸太を組んでその火を囲みたい。軽いバーベキューなんかもして、酒を一滴も飲まず煙草吸いつつ、夜が明けるぎりぎりまで話し込んでいたい。心踊る催しの時ほど酒はいらない。酒を飲んで己を曝け出すようなとんでもなくださいことはしたくない。素面のままどんどん先鋭化していくのがおもしろい。どんどん捻れて尖って朝に浜辺を散歩する人や犬が大量の燃え殻と砂浜に突き刺さった棒状の何かを数本目にするといい。

 みんなと同じようなことでしか悩んでいないはずなのに、こんなに何にでもアクセスできるのに、解決策もヒントも全く見当たらないのは何らかの捻れに挟まっていて、本当はちゃんとあるのに見つからないだけに違いない。「んー、なんか違うんだよな」しか思えない、何もかも違和感しかない。違和感の大きさ多さに胃がむかついて気持ち悪くなってしまう。誰と何時間話し込んでも、何の助けにもならないのは、あまりにも助けを求め過ぎているのかもしれない。解決策を!解決策を教えてくれ!せめてヒントでも、お願いします。ヒントを!ヒントをください!何かヒントのヒントを!お願いします。頼みます!ヒントのヒントを!ヒントの気配のあるものを!お願いですから、どうかヒントに練り上げられそうな何かを、教えてください!お願いします!本当に、何か触りだけでも何か、本当、お願いします!頼みます!どうか、どうか。と思い過ぎているのかもしれない。結局どんな何事も自分のことしか考えていないことにゲロが出そうになるし、本当に自分のことだけを考えてる人と自分のことしか考えてないけれど回り回って他人に良い影響を与える人の後者になりたいし、いつまでしょうもない訳分からんことを考えることに時間を消費するのだろうかと恐ろしい。

 熊本市現代美術館での『バブルラップ』を観る予定で、それが今、相当楽しみになっている。ぐらっとくる作品を見つけられれば旅中なのと相俟って、良い思い出になるだろう。
 去年行った清春芸術村をたまに思い出す。『高橋コレクション 顔と抽象-清春白樺美術館コレクションとともに』を観て、いくつかの絵にぐらっとした。ただそれよりも頻繁に頭に浮かぶのは清春芸術村自体で、ラ・リューシュを正面から見た映像や光の芸術館の二階に差し込む陽やルオー礼拝堂を遠くから眺めた映像や茶室徹のまわりをうろうろ歩き回った感触や目線で、展覧会に関わらず何度も訪れたいと、光景や体感が掠めるたびに思う。自然の中にある美術館へ行くと、しばらく経って思い返したときに絵よりも美術館そのものや敷地内の風景が蘇ってくることが多い。実際そこにいるときは絵に集中していたのになと不思議な気持ちになる。どうしてそういうふうになるんだろうか。

 毎日数枚は描いていた絵も、飽きてしまってまったく手をつけていない。今まで過度に時間を割いていた物事にまた取り組む気力を、今回の旅で再び起こせるといい。曲を作ったり絵を描いたり文章を書いたり写真を撮ったり旅をしたり、そういったことで悩んだり考えたりすることは、何に対してそう感じているのか割と明確で、上手くいけば解決できるし、苦しんでいるその状態は健全なのだと感じられる。朝目が覚めたときに、何かを見聞きした訳でもなく歩いている途中に、ベランダで一服しながら夕陽を眺めているときに、死にたくなってしまうのと比べると、どれだけ苦しかろうが全く何の問題もない。

 親族の誰かに何かを話すと、後日別の身内からその話について一言二言あるというのが気持ち悪くて、家族なんだから普通のことのような気もするけれど、もう何も大切なことは話すまいと決め、友人が信用に足る人なのかどうか知るためにありそうな暴露話をしてみるというのを中高生の頃していたことを思い出し、悪いことをしたなと今さら謝りたい気になっている。大体の人は別の誰かにその嘘の暴露話をしていて、何日か経って別の友人からその話を振られ、どうして言っちゃうんだろうと恐ろしくなっていた。もっと他に話すことあるだろうよと思う。

 今いる友人との関係がどんなふうになっていこうとも、どのように終わるとしても、今出来ることは全てしなくてはならない。ほんと難し過ぎない?こんな難易度なのに誰かと一緒にいる人多過ぎない?俺は本当に今関わっている人たちからして良い人間でいられてるんだろうか。全く分からないことが散りばめられ過ぎて乗り物酔いみたいな気持ち悪さが体に現れる。

 そろそろ旅の準備を始めなくちゃいけない。おそらく今回はテントなしだから、それに合わせて衣類や装備を整える。本は一冊だけで、旅先に良い本屋があれば買い足そう。ただでさえ何を読めばいいのか分からない今の状態で、旅に持って行く本を一冊決めるというのはかなり面倒でわくわくする。中断しやすそうな本を見つけないと。

 ここ三日くらい誰とも合わず一人で過ごしているのだけど、なんのかんの誰かと過ごす日が続いていたからか、ぐぐぐっと自分の内側にめり込んで落ち込みそうになっている、と思っているだけかも知れず、原因を決めないでおこうと思うのだけど、落ち込みかけているのは事実で、なので、というか何となく、ご飯を食べるときやレポートを書くときに生放送をしている。ほとんど誰も見ていないけれど、同時に行う作業が増えると良い感じにリラックスできる。レポートを書きながら音楽を聴きながら生放送しながらコメントをチェックしながら資料を見ながらみたいな、あんまり無意識に処理できないものをたくさん並べていると、そのどれもに集中できて良い。一つの物事をし続けるというのは、今のところ相当の覚悟を決めて己を捻じ曲げないと出来ないことで、トータルするとめっちゃしてるじゃーんというのが心地好い。

 それでも本は一ヶ月近く読めていない。読みたい本は何となくあるし、山ほどあるのに「買わないと、もう本ないよ」というような状態でもないし、時間がないわけでもないし、読みたいなとも思っているけれど、いざ手に取って読み始めると全く進まない。手当たり次第ぺらぺらめくっていっても全く魅力を感じない。
 その代わりか何なのか、音楽は新しく見つけたのも以前から聴いているのもどちらも大体滞りなく聴ける。『幻とのつきあい方』『まともがわからない』しか聴けなかった坂本慎太郎が、『タコ物語』『空洞です』しか聴けなかったゆらゆら帝国が、出てるアルバムほとんど全部聴けるようになった。
 坂本慎太郎は『ナマで踊ろう』、ゆらゆら帝国は『ミーのカー』がどんどん入ってくる。何度チャレンジしてもインストが聴けないのだけど、坂本慎太郎の方はまず第一にその音を聴きたいと体が思っていて、今までにないことでまず驚いている。そこからメロディやボコーダーの可愛さに心動かされている。ゆらゆら帝国はかなり単純に「かっけぇ!」と思いながら時折「すげえ!めっちゃ変!やっぱかっけぇ!」と思い、休み休み聴いている。
 落ち込んでもないし元気でもないしそのどちらでもない真ん中でもなく、やや下がり気味の最近の体にぴったり『ナマで踊ろう』がはまり込んでいる。「めちゃくちゃ悪い男」「ナマで踊ろう」「あなたもロボットになれる」が特にいい。濃いねずみ色の日に聴くと若干落ち込んでしまうのだけど、その他大体どんな日でも心持ち穏やかに聴いていられる。コンセプトがヘンテコでそれを思い出しながら聴くと少しぞわっとして、その聴こえ方の差にも惹かれる。

 誰かが精神的に参っていたり死にそうになっていたりすると元気が湧いてきてしまう。「やーいやーいざまあみろー」ってことではなくて「何とかしなくては」というような方面で、だから元気というか単純に力が湧いてくるのだろうけど、うっすら楽しくなってしまっていることもあり、やっぱり元気が湧いているのだと思う。うっすら楽しい原因は何だろうと考えてみると、まずシンプルなところで、非日常的な状況であるってことで、次に何故かお互いにお互いの内側を晒すチャンスだと思っている節があることで、次に今のこれを乗り越えればその先我々は更に親密になれるだろうという予感があることで、次にその彼なり彼女なりを支えることがいっときでも出来たなら信頼を寄せてもらえるのではないかという期待があることで、多分この四つが大きなものだと思い至った。最後の方に心配であるとかちょっといい格好をしたいとかなんとかがあり、それらは別に楽しさには繋がっていない。ちゅうことは、結局何もかもで、楽しいことや心地好いことを求めているってことなんだろうか。

 それはそうと、一週間近く朝に眠って昼に起きているこの生活こそが、落ち込みかけている要因なんじゃないかと急に思い出し、眠りづらい体が鬱陶しい。他の人はどんなふうに寝ているだろう。睡眠導入剤は飲んだことがないけれど、市販のもの処方されるのも効く薬が少なく、ライフハック的な方向から良い睡眠へ近づきたい。ストレッチするとかホットミルク飲むとかそんなふうなコツがあれば是非とも教えて頂きたい。

 こう、たまに誰かの相談や愚痴を聞いていると「じゃあ一体俺のことは誰が知ってくれるんだ?」と怒りみたいなのに絡め取られそうになることがあるんだけど、少し時間が経つと「開示する気もさらさらないのに何を抜かしとる」とまた別の怒りみたいなのに包まれそうになってしまう。理解されなかった過去のあれこれや、それに関係したり関係しなかったりする理解されないだろうって諦めや、理解されてたまるかという変な強がりや、理解されたところで一体どうなるってんだよという嘲りや、でも理解されるというものを味わってみたいというようなのでぐにゃぐにゃ体を折り曲げて大声をあげている。きっと多くの人がこうで、大勢の人が悩んでいることを悩むことは馬鹿らしいことなんじゃないかと思い始めるのだけど、全くそんなことはなく、ほんのり恥ずかしいけれどそのまま悩み続けて考え続けることだけが残された手段なのだと当たり前のことに気付く。
 ただ初めから「じゃあ一体誰が俺を・・・」と思わないで済むのならその方が後の心持ち的には楽で、どうすればそうできるだろうかと考えてみるが、とりあえず自分が最も自分のことについて分かっていない現状ではそれには程遠く、とにかくしたいことをしたいようにどんどん推し進めるしかないような気分になっている。

 少し前まで意識的に聴いていた音楽は苦痛になってしまい、聴くのをやめた。危うくそのバンドたちを嫌いになるところだった。「バンドたち」と書いて敬称について悩んでいることを思い出しのだけど、まとめ方が分からず、書かない、ならば消せばいいのに、全部出たままで残しておこうと今決めたので残しておくことにする。いずれ書いて整理したい。

 原作本を読んでみようとチャック・パラニューク『ファイト・クラブ』、本谷有希子『生きてるだけで、愛。』、小野不由美『残穢』、鈴木光司『リング』を買ってみたが、「生きてるだけで、愛。」を無理矢理読んだだけで、他は全く進まないし、唯一読んだものも一切何も残っていない。今はエッセイや紀行集や対談集みたいなのの時期なのかもしれない。そうなると家にある未読の本の中から、宮地尚子の『傷を愛せるか』、デイヴィッド・シルヴェスターの『フランシス・ベイコン・インタヴュー』、村上春樹の『ラオスにいったい何があるというんですか?』が選ばれるのだけど、そのどれをも読みたくない、と書いているとほんの少しだけ『ラオス~』が読みたいような気がしてきたが、おそらく読まず、潔く諦めてしまったほうがましなような気がしている。それで、少し前に友人たちに本をたくさん渡したことを思い出し、その中にこそ今の気分にぴったりと合う本があるのではないかという気になってきて、でも絶対にそんなことはないという確信もあり結局、諦めようと今決めた。

 今年に入ってから落ち込んでいる日が少なく、何とかしてこの状態を伸ばせないものかと考えてみているが、いまいち分からない、そもそもどうして落ち込まずに済んでいるのかが分からない。第一、何をそんなに落ち込む必要があるんだよ、と今では思うし、その時の自分のことを思い返せない。というようなことを毎回思い何度も書いている気がする。あまりに過去を参照できないので、何度も同じことを書き残すことは大事だと思う。
 ただ何となく、そろそろ落ち込みそうな気もしていて恐れている。一日の内に暗い時間が増えている。でも久々にヒッチハイクでの旅を予定しているので、それが健やかな状態を引き延ばしてくれるといい。
 行ってみたい場所をピックアップしつつ、今回もとにかく、変な人に会えるかもしれないことが楽しみで仕方ない。今までの旅のメモを見返して、この人たちを越える人が現れるんだろうかと少し不安になる。いつも越えるんだけど。というかまた別の種類で面白い。
 観光名所のような場所へは一切立ち寄らず、カフェや本屋ばかり寄ってしまうのはいつものことで、荷物をどこかに置きっ放しにして軽装も軽装でそういったところへ行くと「住んでたっけか」というような気分になり、それが何故か心や体を癒してくれる。行きたい展覧会があるとそれを最終目標にして、あとは流れで決めていくこともあり、それはそれで楽しいし、今回は行きたい展覧会もカフェも古本屋も一応は決まっているので過剰に楽しみで、当日まで何とか持ち堪えたまま過ごせそうな気がする。

 以前にも書いたような気もするけれど、バンドのメンバーを僕含めた三人にしてから本当に楽しい。他のメンバー二人もそう考えていて、長い間お世話になっている方も「三人になってからの方が楽しそう」と仰っていて、その三人の確かだけど曖昧っちゃ曖昧な気持ちの部分が、長年観てきたからというのもあるだろうが、そんなに漏れ出るものなのかと、今さらながら改めてバンドっていいなと思い始めている。
 全員の技術が格段に上がった訳でもないのに、出来ることが増えた。単純な心持ちの風通しが良くなるだけで、こんなにも違うのかとは思うし、驚く。 

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