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PENCO.30

 私たちが車へ戻るとペンコは起き出して、うわっずる、とだけ、また眠りの中へ帰っていった。
「ペンコしょっちゅうずるいって言うよな」とクスノキ。
 ささらは「起こしてあげれば良かったね」と、「口癖みたいなもんだよね」と私。
 慣れた手つきでカングーを走らせる。
「いい車だね」
「でしょー」
「うん、乗りやすくて運転しやすくて、でもちょっと癖があって」
「愛着湧くよね」
「欲しいもん」
「まー、そっちだといらないもんねー」
 十五分ほどの運転で、少し見覚えのある、ささらの家へ続く道に入る。
 これほどまでに暗い公道があってもいいのか。
 生き物の気配を感じない夜道は余計に空恐ろしかった。
 立ったときの肩くらいの高さに小さな灯りが遠くに見える。
 ひとまずそこを目指すが、そこがゴールだった。
 藤富、の表札が淡く照らされている。
「あ」と減速する。
「どうした?」とささら。
「表札光ってたっけ」
「あ、消し忘れてた、ってかつけ忘れてた?」
「初めて見た気がする」
 大きく膨らんだ右折にGを感じる。
 適当な場所に車を停め、着いたー、と首を回した。
 みんなが家の中へ入ってからようやくペンコは起きて、小走りで玄関の方へ走っていった。
 外よりも寒い室内で、ささら以外はストーブの前に寄り集まる。
 彼女は簡単に火をつけて、お酒飲む?、と立ち上がった。
 私たちは震えながら頷いて、微かな炎に手をかざす。
 足音が遠のき、ふわあっと温もりが広がっていった。
 まだ誰も上着を脱いでいない-前すら開いていない-のに、ささらは薄手のセーター一枚で戻ってきた。
 思えば彼女は昔から薄着だった。
 しばらく付き合ってみよう、と数週間ほど付き合ったことがあったはずで、その頃に何度か一緒にお風呂へ入ったが、彼女の体は薄くて、だから脂肪も筋肉も印象的なものはなくて、どうしてひときわ寒さに強いのだろう。
 出身地がどこだったか思い出せないけれど、特徴的なほど寒い土地ではなかったはずだ。
 環境に対して対応する力が高いのだろうか。
 ペンコが極端なほど寒さに弱いのは知っているけれど、私もあたるちゃんもクスノキも凍えている中でささらが平気な理由が見つからない。
 抱えられるくらいの盆に徳利が二本と人数分のお猪口が載っている。
 ストーブを囲んだ中央に盆が据えられた。
 私とささらでそれぞれ八分目まで注いで、一斉にお猪口を手に取った。
 全員が一息で飲み干し、クスノキとあたるちゃんが二杯目を注ぐ。
 二杯目は時間を置いて二口、三杯目は短い間隔で四口、四杯目はまた一口で、そうして火は大きく育ち、私たちは内側にも熱を感じ始める。
 あたるちゃんと私は上着を半分くらい脱いで、クスノキも前を開けた。
 ペンコだけが震えているようにも見えてくる体勢でいる。
 体が暖まるとそれぞれの匂いや日本酒の匂いが知覚されるようになった。
 クスノキの強い香ばしいような、あたるちゃんのしとっとしたレモンのような、ペンコの粒状に甘い、ささらの濡れた古木のような、熟れた果実にも似た大吟醸の、めいめいの匂いが、起き上がったみたいに分かる。
「買ったやつ」とあたるちゃんが立ち上がり、何故かみんな式台に置いたままの袋を取りに行った。
 戻ってきた彼女を中腰で迎え、袋を受け取る。
 盆の上に取り出して並べ、またしばらくお酒だけが続いた。

 一時間か三十分か経ってようやくペンコがコートを脱ぎ、私たちの円は少し広がっていた。
 この短い時間にどれだけ飲んだのか、普段の量や酔い具合とあまりに違うために分からなくなってしまう。
 ついつい進んだからといって酔いが酷いわけでもないし、まだ大丈夫だろうと立ち上がってぐらつくようなこともない。
 焼き鳥や煮魚の缶詰はもう空っぽで、あとはするめやジャーキー、ナッツなどの乾き物ばかりだ。
 クスノキが何度目かのトイレに立ち、その後ろ姿を眺めていたあたるちゃんがつられたように立ち上がる。
 残りの三人は彼女を見上げ、「だし巻き、つくります」と告げられた。
 私は膝を立てたまま寝転んで、つやつやした天井を眺める。
 ペンコとささらは小さな声で何かを話していて、戻ってきたクスノキが私のお腹辺りを跨いでいった。
 何となく窓際に目がいき、寝転んだ彼と目が合う。
「疲れてないのか?」
「うん?」「あ、運転?」
「とか」
「全然、短かったし、道もね」
 クスノキの声は畳を通して背中側から響き、私の体の中を通って聞こえてくる。
 私は左手を伸ばし、胸の上にあるクスノキの右手の甲に触れた。
「ほとんど分かんないな、指」と彼は言う。
「うん、なんかまだ感覚が薄い気がするけど」
 つわーっ、と、熱されたフライパンへ溶き卵が流れ落ちた音が聞こえる。
 左手がクスノキの胸に触れ、彼は右手を伸ばして私の左腕の付け根を握った。
 そこから肘を少し過ぎるあたりまで、程よい力で揉みほぐされていく。
「血行が悪い」と呟いて、また根本から、先より少し強い力が加えられた。
 私は右の側頭部から後頭部にかけて二人の緩い視線を感じていて、それに気が付くとクスノキの手が性的な感覚に接続され始める。
 視線を天井へ戻し、濃淡を空見して何かを形作った。
 仔犬、かまぼこ、ビーカー。
 温度計、風呂桶、樹木。
 カンテラ、烏、小人。
 フライパンが五徳にぶつかる音が木の爆ぜる音に混じっている。
 下腹部に集まっていた血が散らばったように意識から外れ、体が汗ばむくらい熱くなっていた。
 しゅちっ、とライターの音が聞こえ、右目の端に細く渦巻いた煙が二筋よぎる。
 足を伸ばして息を深く吸い込んだ。
 もう出汁巻の匂いが鼻の中にあった。
 二人はまだ何かの話をしていて、切れ切れに聞こえる声は真面目そうだ。
 私は血中や体内のアルコールを思い浮かべる。
 誰かの頭の重みが右腿にのって、「明日もどっか行きたいなー」と、ペンコの声が近くなった。
 途端にささらの声も聞き取れるようになり、「でもペンコが行きたがってたところは大体閉まってるよ」と答える。
 菱形に近い皿とあたるちゃんが戻り、見上げていた天井が隠れた。
 ささらが私とペンコの交点から-だから彼女が見えていた天井も見えなくなった-身を乗り出し、盆の上を片す。
 お皿が置かれ、天井が現れた。
 私とペンコは体を起こし、ストーブに向かって座り直す。
 膨らんで揺れる出汁巻が食欲を呼び起こした。
 四人がほとんど同時に箸を取り、一切れずつ一口で食べる。
 あたるちゃんは各々が何か言うまで少し離れた位置に横座りしていて、うわあ、とか、うま、とか、あー、とか、うまいな、とか、そんな声が出ると箸を取るために腕を伸ばした。
 味付けもタイミングも量も最適で、知らないうちになくってしまう。
「隠し味的に雪雀ちょっと入れました」とあたるちゃんが言って、「だからこんなに合うのかな」とささらが呟いた。
「雪雀?」とペンコ。
「ずっと飲んでるだろ」とクスノキが答え、また寝転がった。
「あ、これ、そうなんだ」
 私も寝転がって、そうするとペンコも右腿に頭を載せる。
 じゃっじゃっ、と擦れる音がして私の頭が浮いた。
 さっきまでの姿勢でずれたあたるちゃんが持ち上げていて、その隙間に両膝が差し込まれる。
 上目遣いで彼女を見、目が合うと優しく瞼を閉じられた。
「水族館は?」とペンコの声が、あたるちゃんの後ろの方から聞こえる。
「開いてないじゃないかなー、あとで調べてみるけど」
「何ですか?」
「明日どこ行くか考えてるんだって」
「あたるも何かない?」、ペンコの顔があたるちゃんへ向けられたのが分かる。
「うーん」と決めかねる彼女のお腹がくるくる鳴っていた。
「クスノキ送ってからさ、そのまま家に戻るのはあれじゃん」
「まあねえ、でも思いつかないなあ」
 暗さが何段か増して、彼女の手のひらの冷たさを感じる。
 骨が小さそうな、だから、柔らかい範囲の広いような手のひらだ。
 眉の下と鼻梁の付け根が冷やされ、漏れ出たみたいな眠気が全身に広がっていく。
 ほぐされた左手から徐々に弛緩していった。
 浅く短な眠りが繰り返され、いくつも夢を見る。
 歩道橋の上でけん玉を練習する夢、波打ち際をくねくね走る夢、街中ですれ違う人みんな何かを散歩させている夢。
 首がずっと伸びていって、というのは感じないけれど、頭だけがどんどん下降していく感覚があった。
 くぐもった声が色んな方向から聞こえてきて、私は後頭部で何かを割きながら落ちていく。
 きぬずれや声を包むようにストーブの小さく乾いた音が散らばっていた。
「腹減ったなー」とクスノキ、私は頭の中で「確かに」と返す。
 ペンコは「分かる」と言って、「ファミレス行く?」とささら。
 私は思わず「うわっ」と声を出した。
 視線が集まって、あたるちゃんの手が離れる。
「どうしたの?」とペンコ、「や、あまりにもファミレス最高過ぎて」と、固く瞬きを繰り返しながら体を起こした。
 クスノキとささらが笑い、「何か嫌な夢でも見たのかと」とあたるちゃん、「行こー!」とペンコが応える。

 すぐそこ、とは言えないファミレスまではささらが運転してくれた。
 ジョイフルという名前で、何故だか懐かしい気持ちが湧いてくる。
 広いのに間隔の狭い駐車場で何とかカングーを停め、溢れ出るように車外へ。
 天井があるせいか、屋外よりも空間の広がりを感じる。
 暖色でまとまった店内で、いくつかのグループが話し込んでいて、私たちもその中へ加わった。
 クスノキとささらが並び、ペンコを真ん中に窓際があたるちゃん、通路側に私が座る。
 私とペンコとクスノキはちゃんとお腹が空いていて、チキン南蛮、チキンステーキと明太パスタ、ミックスグリルを頼んだ。
 人数分のドリンクバーと、あたるちゃんとささらの軽食、私たちもつまめるようなものも頼んで、クスノキと私がジュースやらを取りに立った。
 ランニングあとの高揚感、だから私の体に収まりきらない興奮が浮き足立たせる。
「楽しそうだな」とクスノキは笑って、楽しいよー、と腕に抱きついた。
「ペンコなんだったっけ」
「レモンスカッシュ的なやつ、なければファンタの何か、って言ってた」
「ありがとう」
 最初に出てきた唐揚げとフライドポテトをつまみつつ、煙草を吸いながら何でもない話が延々に続く。
「クスノキ明日帰らずさ、このままささらんとこに住み着こー」とペンコ。
「前例があるから怖いですね」
 ささらは「確かに」と笑い声をあげ、私は何も言わずに微笑んでいる。
「引っ越すときは俺も合流するわ」と、そんなこと考えてたんだ、と嬉しくなってしまう。
「いいですねえ、何かお家もささらさんの家も、私たちの過ごし方に合ってますよね」
 私は頷きながら「確かにね、ちょっと広めの部屋が二つ、隣り合ってるってのがいいのかも」と返す。
「私はどこでもいいから、次はどっちももうちょい広いとこ行こうよ」
「それもいいね」
「ささらはいつまでこっちにいるの?」とペンコは手を伸ばし、グラスを包む彼女の指に触れた。
「今年は、少なくともまだ半年はいると思うなー、来年はまだ全然分かんない」
「海外とか、も有り得るんですか?」
「有り得るね、今だって台湾かオスロにいたかもしれないし」「オスロ!」
「え、そうなんですか」
「何か言ってたねそれ」
「覚えてる?」
「うん」
「台湾と宇和島は同じような条件だったんだけど、オスロのはちょっとその時の私にはハードル高くて」
 ペンコは「どういう?」と、ささらの指をたたた、たたた、たたた、と撫でている。
「んー、新しい陶器ブランドを立ち上げるのにって、職人さんたちに教えたり、デザイン出したり、あちこち営業行ったり、今は小さいけど、工場で生産できるように釉薬とか土とか、いくつもいくつも試したり、波佐見焼きがフィーチャーされたの知ってる?」
「何か見たことあるかもー」
「うん、そういうふうに、愛媛には砥部焼があるんだけど、昔からあるいいものを、盛り上げようって」
「すごいなー、オスロのはそういうのじゃなかったの?」
「そっちはもっと一人で頑張らなきゃいけなくて、というか、藤富ささらの作品、として作っていかなきゃいけなくて」
「それも楽しそうじゃん!」
「いいね」
「うん、今だったら、チャレンジしてるかもしれないけど、その時って別にそういうことにあんまり興味もなかったし、あとわたし言葉覚えるのめちゃくちゃ苦手なんだよね」
「言葉?」とあたるちゃんが首を傾げる。
「うん、何か手先でもの覚えるのは得意なの、目瞑ってても大体何でも当てれるし、点字もすぐに覚えられたし」
「点字!すご」
「で、好奇心も強い方だから、色んな人と話したい気持ちも強いし、英会話習ったり、集中的に勉強してみたりしたんだけど、全然駄目なんだよね」
「何か意外です」
「そう?」「耳もそんなに良くないと思うし」「つぐみはそういうの得意じゃない?」
「うーん、でももうほとんど話せないと思う」
「え、話せたの?」
「一人ですらすら話すのは難しいけど、大体意思疎通は取れてたよ」
 ほぼ同時に全ての料理が運ばれ、テーブルの上は途端に賑わった。
 ペンコは指を離して、どうしてか両手を愛おしそうに擦り合わせる。
「何で今は駄目なんですか?」
「や、そもそも単純に、そのとき大学で仲良かった人がポートランドの人で、その人と話すために覚えたようなもんだし、あっちが合わせてくれた部分もかなりあっただろうしね」
「むしろ二人の間でだけ通じそうだな」
「うん、そんな感じだと思う」
「でもつぐみは耳いいじゃん」
「どうかなあ、大抵は何言ってるかは分かるけど、それって単語覚えてる数が結構あるってだけな気もするし」
「エビフライ一口ちょうだーい!」「そういうもんかなー」
「ミックスグリルのエビフライやるわけないだろ」
「ケチだなー」「ペンコはオスロに何か思い入れがあるの?」とささらが訊ねた。
「ううん、ムンクの絵が好きなだけだよ」
「叫びの?」
「うん!チキン南蛮は?」
「ん、あげるよ」
「やったー、見習いなよークスノキー」
「ミックスグリルのエビフライはミックスグリルの要だろ」
「私は叫びより接吻と吸血鬼が好き」
 ささらと私は同じ声で「ああ」と漏らす。
「全然知らないです」
「ペンコはエッチングのが好きでしょ」とささらが言う。私もそう思ってた、と言いたい。
「さすが元美大生!あれが一番好き」
「どこがいいの?」と、私は半ば身を乗り出す。
「うーん、これはストーリー的に観過ぎてるんだけど、ほんと、やっと会えた二人が、しかも出会い直したってか、初めて会ったわけじゃなくて、多分、このあとまた長い間会えなくなることが二人とも分かっててね、この瞬間のためにこれまで生きてたくらいの勢いでキスしてるの、裸で、カーテンも開いたままで、結構近いところに同じくらいの高さに建物も見えるのに、でも二人とも、肉感とか混ざって描かれた顔のとことかはエロく見えるんだけど、手!、手は全然これから先が予想できないところにあって、だからその、とにかく今この目の前にその人がいることを心底喜んでるみたいな手の位置というか、確かめてるみたいで」
「これですか?」とあたるちゃんがiPhoneをテーブルの中心へ置いた。
 私とささらが思い浮かべていたものだ。
「それ!肩と背中にあるでしょ?これが胸と腰だったら、展開というかセックスしそうじゃん、でも首から下に全然やらしさが感じられなくて」
「ああ」
「どこも同じ質感なのはエッチングのせいだけど、私が感じてることとマッチしててさ、全部一緒なの、全部なくなるし、全部ここに留まらない」
 私はペンコの話に耳を傾け、チキン南蛮はどんどん冷えて硬くなっていく。
 明太パスタを巻き続けるペンコは立ち上がりそうな勢いで話していた。
「遠近感が薄いのもみんな同じ位置にあるみたいだし、足元、ここ、何かこんなサイズのものが立つには点が小さいじゃん?、描かれてるもの全部が不安定で、色んな部分が色んなことのメタファーなんだけど、それでしかないようにも見えて」
 あたるちゃんも真剣な表情で、右手でつまんだフライドポテトが萎びていく。
 食事を続けているのはクスノキだけで、それでも顔はペンコへ向けられていた。
「言われるとそういうふうにしか見えない」とあたるちゃん。
 ペンコはやっとパスタを食べて、もぐもぐ聞こえてきそうに噛んだ。
「二人は?好きな絵教えてよ」
「私はー、結構昔からジョンルーリーの絵は好きだなー」
「どんなだっけ、名前は聞いたことある気がする」
「まだ好きなんだね」
「うん、あ、それそれ」
 腕を伸ばしていたあたるちゃんは手を引っ込める。
「へー、なんか意外かも」
「観てるとじわーってやる気湧いてくるんだよね」
「やる気?」とクスノキが訊ねる。
「うん、頼まれたもの作ったり、自分のために作ったり、色々あるんだけど、どうしてもこう、自然に体が動き出さないときってあるじゃん?」
「あるな」「うん」
「そういうときに眺めてるとふっと軽くなるんだよね」
「へー」とペンコは小刻みに頷いた。
「うん、だから好きな絵ってか、好きな画家かな、ごめん」
「つぐみは?」
「私はずっとベーコンかなあ」
「二人とも意外だなー」
「ずっと言ってるよね」
「うん、ベラスケスの絵を下敷きにした絵があるんだけど」とあたるちゃんの顔を見る。
 彼女は「ベーコン ベラスケス 下敷き」と調べ、見知った絵が表示された。
「あ、観たことあります」
「うん、かなり有名な絵だけどね、惹かれるんだよね」
 すでにかさかさし始めた平皿のライスを一口食べた。
「すっごい音聞こえてくる気がしない?」
「音がすごい?音量?」とあたるちゃんは目を上げる。
「あ、音量、画面が暗いし表情も表情だから恐ろしい場面にも見えるっちゃ見えるんだけど、そういうのあんまり関係なしに、こんなに音が聞こえてくるような絵って他にあんまり観たことなくてさ」
「顔の、口辺りだけくっきりしてるのも、叫びそのものっていうか、おっきい声ってそんな感じじゃん?」と私は身振り手振り、何の意味があるのか。
「そう見える、というか、そう感じてくる気がしますね」
「接吻と比べるとその、ストーリー的なものがかなり希薄じゃない?」
「あー、妄想はできるけどね」とペンコ、「苦しそうには見えるもんね」とあたるちゃん。
 半分齧ったエビフライが明太パスタの皿の端に置かれ、ペンコは「ありがとー」とチキンステーキを一切れミックスグリルの鉄板の上へのせる。
「あるからいいよ」とクスノキ、私は「クスノキは好きな絵とか、画家とかいる?」と言った。
「いや」と何か思い出すように首を傾げ、「いないな」と続く。
「自分の興味で絵見に行ったこともないしな」
「お塩取ってー」
 私はペンコに小瓶を手渡す。
「あたるちゃん何か飲む?」
「めんどくさいのでもいいですか?
「え、いいけどそんなのある?」
「じゃあ、ティーバッグのピーチかマスカットお願いします」
「あー、おっけー、ささらは?」
「オレンジジュース」
「はーい」
 擦り切れているのに不思議と柔らかいフロアを横切った。
 饐えた匂いと下水の匂いで店内は充満しているが、嗅覚は適宜麻痺する。
 私は髪をほどいて頭を振った。
 首筋から頭へかけてあった強張りがましになって、知らないうちに上がっていた肩が下がる。
 マスカットはなかったけれどピーチの方はあって、包装を破いてカップへ、コーヒーマシンの湯を注ぐ。
 その間にオレンジジュースを入れて、マシンにうつった自分が澄香に見えた。
 ただそう見えただけで、掻き乱されるような部分は残っていない。
 瞼を細めてまじまじと見る。
 ほんの少しだけ顎のラインが変われば、あとは鼻筋か、彼女へ特にどのような印象も持っていない二度目か三度目かに会う人なら騙せそうだ。
 行きにも通り過ぎたテーブルの四人組が私を見る。
 男が二人、女が二人で、それぞれに一人ずつ私を目で追った。
 視線というのはきっと見える見えないとに関わらず、距離に限界があるように思う。
 振り返ってみたところでその姿が正解を表すのかは分からないけれど、男の視線の方が、長く私へ接触していた。
 それはしかし、私の見当識の範囲が狭いのかもしれない。
 最初にペンコと目が合って、それからあたるちゃん、クスノキ、と視線が接木されるようにつながる。
 ささらは一瞥で湿気たナチョスを食べた。
「女の子かと思った」と、席へ着いた私へペンコが言う。
 それぞれの前にグラスとカップを置き、「髪下ろしてんのみたことあるじゃん」、と髪を括り直した。
「いや、つぐみってことは分かるんだけど、何かそれとは別に」
「パフェとか食べない?」とささらが話を逸らしてくれる。
 目配せもないし、声の調子も変わらない。
「あ、食べたい!」
 もう意味のない「つぐみは?」という問いかけと視線でささらの意図を知る。
「私も食べようかな」、視線をメニューへ落とし、私たち二人に流れて過ぎた時間を思った。
 まだ二桁ではないから長いとは言えないのかもしれないが、一番古い友人であることを忘れていた。
 チョコケーキを二つとパフェを二種類頼むことにして、ボタンを押して店員を呼び寄せる。

 二時間くらいはジョイフルにいたのだろう。
 空の暗さが深まっていて、冷気も鋭く執拗だった。
 カングーまでみんな小走りで、どっちが運転する?、というようなやりとりもなく、左の方を進んでいた私が途中でキーをキャッチする。
 暖房をかけ、しばらく黙ったままでじっとしていた。
 ささらですら少し震えているくらいだから、ペンコは見るまでもない。
 温度を上げて風量を落とす。
 何となく覚えた道を思い浮かべながら車を発進させ、ラジオの音量を下げた。
「着いたら起こして、どこでも」とペンコは揺れた声で言って、クスノキが返事する。
 あたるちゃんは両腕をヘッドレストから前へ出し、私の胸で何かのリズムを取っていた。
 あくびが出て、思い出した家の寒さに震える。
 椰子の木はこの寒さをどう感じているのだろう。
 騙された、というような生体的な反応なんかはあるのだろうか。
 落語家みたいな、遠くへ飛ばすような抜けのいい声が聞こえる。
 ささらはテクストを打っているのかiPhoneを小刻みに操作していて、ブーツを脱いだ足を私の腿の上に投げ出していた。
 体温が高いのか私の体が冷え過ぎているのか、眠った小動物くらい暖かい。
 少しだけ速度を抑え、右手でささらのふくらはぎを脛側から揉む。
「あー、いいねー」と、ばさっと手を下ろし、すぐにまた同じ動作へ戻った。
 筋肉がないみたいに均一に柔らかく、手の中で収まりのいいところがない。
 革とクッション越しに鼻歌が聞こえ、あたるちゃんは頬か額をつけているのだろうか、初めから耳の奥で鳴ってるみたいだった。
「何の歌?」
「え」と彼女の声が鮮明に、ちらっと振り返ると目が合った。
「歌ってました?」
「鼻歌だけどね」
「全然意識なかった」
 彼女の指先が肩へ触れる。
「気にしないで歌ってて」
 その手が伸びて私の視界を隠すのが想像された。
 そのときの私がペダルを踏み込まなければ、特に何も起こらないはずで、しかしそうしないかどうか。
 もう少しでペンコの誕生日だった。
 私たちは何をあげよう。
 まだ何も思い付いていなかったけれど、喜ぶ姿が浮かんでくる。
「あたるちゃん歌上手いでしょ?」
「いやあ、どうだろ、下手ではないと思いますけど」
 もしくは、伸ばされた彼女の手が私の首を掴んだとして、体は咄嗟にブレーキペダルの方を選ぶだろうか。
 理容室で剃刀が首元に滑るときと同じような考え方に捕らわれていた。
 あたるちゃんだけではない。
 ささらだって、私の顎を蹴り抜くことができた。
 その場合、私の体は瞬時に力んで弛緩するはずで、ペダルは、ハンドルはどうなるのか。
 すぐ左手のガードレールへ突っ込んで、くるっと天地が入れ替わるのもしれない。
 私はどうしてそんなことを望んでいるのか?
「つぐみ、次のコンビニ寄ってー」
「おっけー」
 前を走るトラックが道を譲ってくれる。
 自然に目や指先が送られて、ほとんど知らないうちに追い越してしまう。
 ささらの足が腹に食い込んで、ふっと離れた。
 ナビ上にあるローソンはなくて、その少し先にセブンがある。
 減速し左折、幹線道路沿いらしい広々とした駐車場へカングーを停め、ささらは足を折り畳んで靴を履いた。
 起きていたのは三人で、ドアへもたれかかったペンコ、にもたれかかったクスノキの二人を起こすべきかどうか。
「一旦このままにしとこうか」と言って、「そうですね」とあたるちゃんが次ぐ。
「ま、トイレ行きたいだけだから」とささら、それでもあたるちゃんと私も外へ出た。
 ハイライトとアメスピを交換し、私たちは灰皿のそばで彼女を待つ。
「ペンコよく寝ますね」
「ね、何もしてないとき全部寝てる気がする」
「ですね」
「コーヒー買うけどいる?」
「あ、じゃあホットで」
「はーい」
 二口深く吸い込んで、灰皿へ落とす。
 ドアを抜けるとちょうどささらが出てきて、「コーヒーは?」と声をかける。
「あー、アイス、小さいので」
「はーい」
 氷の入ったカップを二つ持ってレジへ。
 どこかの内側からよく見知った人を眺めると、途端に私たちの差異が露わになる。
 このような今があったかもしれない、と私より先に体が思うのか。
 二人を知らなくとも、今そこで笑い合うささらとあたるちゃんの姿はその日の私のハイライトに成り得る。
 だから、そうだ。
 私がいてもいなくても、あらゆるものはあったし、あることが、最も端的に表されているのだろう。
 そこに見える人がよく知っている人であればあるほど、そこに浮かぶ表情に既視感があればあるほど、私のいくつもの過去にも接続され-それはその本人とも関係のない同種の表情にも繋がり-思い出から私が消えていく。
 体感を伴った可能性や不可逆さは、何故だか私を安心させる。
 できあがったコーヒーを二人へ、その間に私のアイスコーヒーが抽出され始めた。
「はい」と手渡すとき、「え」、「何ですか」、と言われることを願っていたような気がする。
 それは「ありがとー」、「つぐみさんは何にしたんですか」だった。
「アイスラテだよー」と言う私の声は震えている。
 くるっと回って歩き出し、涙がいくつか流れた。
 私が何に感極まったのか、今でも分からない。
 マシンの前に戻ると出来上がっていて、取り出したまま蓋を付けずに外へ出る。
 その短い間にペンコが外へ出てきていて、「起こせよー」と突進してきた。
 液面を見ながら彼女を受け止め、「ペンコは?なんか飲む?」と言う。
 腕を閉じながら「ホット、のコーヒー」と聞き、後ろ歩きで自動ドアの前まで進んだ。

 残りの道はペンコが助手席へ座った。
 思いたいことが溢れていて、私は三人の会話へ混ざれない。
 クスノキは眠っているのか瞼を閉じているだけか、静かにもたれかかったままだ。

 家の中の底冷えはさっきよりはましだった。
 炭化した薪を掘り出して、そこから火を熾していく。
 私とクスノキはそれぞれ端に座った。
 窓のそばの畳には液状に感じる冷気が溜まっている。
 隣ではペンコがぶるぶるしていて、あたるちゃんとささらは平気そうだった。
 左目の暗闇を何かが通り過ぎ、自動的に目がそちらへ向かう。
 短そうな尻尾の先が見えた気がしたが、痕跡らしきものは見当たらない。
 後ろの方が明るくなって、火が膨らんだことが分かる。
 暖かい空気が漂い始め、体が重くなった。

 交互に大きなあくびをしながら、誰もシャワーを浴びに行かないし、このまま寝よっかとも言い出さない。
 余ったおつまみを食べることも雪雀を飲むこともないし、まとまりのある会話もなかった。
 五人ともがただ火を眺めていて、おそらく誰も何かを考えているわけでもない。
 火は私たちの疲労感を吸い取って、勢いを増してゆくように見える。
 クスノキが立ち上がったのも三十分くらい経ってからで、起きてからだと怠いからシャワー借りる、と言ってふらふらと廊下へ出ていった。
「ささらもどう」とペンコが言って、あたるちゃんが私とささらの顔を見る。
 彼女は私の目をちらっと見てから「あー、どうしよっかな」と立ち上がった。
 そのまま明確な言葉を残さずに廊下へ、左側の暗がりへと歩き出す。
 何も聞き取れない声がひとしきり届き、風呂場の扉的な開放感のある反響音が聞こえた。
 ペンコはストーブと平行になりながら寝転んで、私とあたるちゃんの上へ足を伸ばす。
 がーっ、と弓形に、お尻が浮いて落ちる。
「座り疲れましたね」とあたるちゃん。
「確かに」とペンコが言って私も頷く。
 私とささらはクスノキの同じ部分に惹かれているような気がしてならない。
 あたるちゃんは「ちょっと待って」、と足を抜き、頭上の電気を消した。
 閉じた襖に私と彼女の影が映って、ということは元々目に見えない薄さで影があったのだけど、そこにも私たちはいたのか、と思う。
「いい感じー」
「和むね」
「眠くなりますね」
 私は二人の表情を見ていた。
 ペンコはいまだ眠たそうに緩慢な瞬きをして、唇は繰り返し「ぱ」とか「ま」とか、母音が「あ」の一文字を形作っている。
 長いまつ毛の影が揺れているあたるちゃんは、高校生の頃の彼女を思い出させた。
 しがみつきそうな悲痛さや掴み取ろうとするような必死さはなく、ただ抗っていた。
 吹き消されてしまわないよう、低い重心で構えてるみたいだ。
 いくつかの層を抜けて笑い声が聞こえてくる。
 私たちはその方向へ目や顔を向けた。
 まだ見えない二人の顔が微笑んでいるのが分かる。
「起きたら何しよっか」、とペンコが呟いた。


PENCO.29

 陽が落ちてすぐ、よく分からないくらい大きなショッピングモールに併設された映画館へ到着する。
 ごった返した駐車場をうろうろしていた。
「やばいね」とペンコが言って、「みんな集まるからね」とささらが答え、「お腹空きましたね」とあたるちゃんが言って、「な」とクスノキが答える。

 十分以上は探し回っていた。
 ようやく見つけたスペースへカングーを停め、腹立たしいくらいの隙間を抜けて車外へ出る。
 みんなポップコーンのことなんて忘れていて、とにかく何か食べたかった。
 軽い散歩くらいの距離を歩き、フードコートで腹ごしらえすることに、テーブルを見つけるのにもしばし時間がかかる。
 あたるちゃんと私はモスバーガー、クスノキとささらはカレーを、ペンコは銀だごで、それぞれに買い集まった。
 人も多いがそれ以上に騒々しい。
「一口!」と人差し指を立てるペンコへバーガーを向けると、たこ焼きを一つくれた。
「たまに食べると美味しいね」と彼女は言って、私も同じようなこと言う。
 クスノキもささらも黙っているところを見ると、多分、カレーなのにそれほど美味しくはないのだろう。
 私は今から一番近い映画を調べるが、本数がある割にどれもぴんとこない。
「どうしよっか」と四人へ画面を向ける。
 誰も何にも惹かれず、それなら、とにかく今から観れて一番短い映画にしようということになった。

 またまあまあな距離を歩いて映画館へ。
 映画館へ来たなあ、という感慨のために設えたみたいな内装で、瞬時にわくわくしてしまう。
 まとめてチケットを買ってるあいだ、二人が売店の列に並び、二人はトイレへ行った。
 五人で映画を観るなんて初めてのことだから、チケットの総額に「こんな映画に?」とたじろぐ。
 ささらとあたるちゃんに合流し、注文するものを聞いてから今度は二人がトイレへ、そのすぐ後でクスノキたちがやってきた。
「あたるちゃんはキャラメルのとメロンソーダ、ささらはホットコーヒーだって」
「うーん、じゃあ、あれでいいんじゃない?」と彼女が指を差す。
「クスノキは?」
「俺は塩とジンジャーエールかな」
「私もメロンソーダ!」
「おっけー、どっか、ソファとか空いてれば待ってて」
「え、いるよ」
「気にしなくていいけど、ありがとう」
「じゃあ俺は座っとく」
「うん、あたるちゃんたち見かけたら声かけて上げて」
「分かった」
 列は微動だにしない。
「つぐみは何がいいの?」
「どうしよう、キャラメル食べたいけど結構お腹いっぱいなんだよね」
「私食べれるからあの、あれ!、ペアセット二つでいいじゃん」
「いける?たこ焼き二十個ぐらい食べてなかった?」
「たこ焼きなんかほとんどポップコーンじゃん」
「そうかな?」
「つぐみ少食だよね」
「そうかな」
「あたると同じくらいか少ないときもあるし」
「まあ」「ペンコが食べれ過ぎなんじゃない」
「そんなことないよ」
 家族連れと二人組が多いが、一人でいる人も、友人同士らしい三人から四人くらいのグループも多い、だからとにかく人が多い。
 開場のアナウンスが響いている。
 数分おきにどこかのスクリーンが開いて、ぞろぞろと人が出てきて入っていった。
 私たちの観る映画もいくらか前に呼び出しが始まっているが、まだ注文すらできていないし、何なら間に合いそうもないけれど、どうでもいい映画だったからこれはこれで楽しい。
「行列にいらいらしない人だね」
「仕方ないしね」
「いらっとするのってそういうの関係ないでしょ」
「まあ、そうか」「する?」
「する」
 言われてみれば、これまでも行列自体に苛立ったことはなかったかも知れない。
 天井のスピーカーから、音量自体は小さいのに割れた音が流れている。
 ぎぎがごごがが。
 遠いところに来たな、と体感が広がっていく。
 旅行先で映画を観るのが初めてだったのを、映画館で聞いたことない音で思い出したのだろうか。
 ペンコは左右に揺れながら、数秒ずつ片足立ちになって時間を潰している。
 何となく左斜め後ろを振り返るとクスノキたちが座っていて、私はいつソファの位置を知ったのだろう。
 手を振るささらに手を振り返し、前を向く。
 こきりこは結局どこへ行って、どこで死んだのか。
 まだ生きている可能性もなくはない。
 元々野生だったのだし、ささらが拾ってきたときだって比較的元気だった。
 野生で生き残るためのあれこれが、あんなに短い期間で失われるとも考えずらいし、体つきも小さくはなかった。
 私にとってこきりこは、ささらが特別かわいがっていたから愛着の湧いた猫であって、それまでやそのあといた猫と変わりはないはずだった。
 それでも、そのこと以上に何か記憶の中に引っかかる感触があって、ささらとは別にあの猫を思い出すことがあった。
 それも結局は、ささらが可愛がっていたからこそ、私は彼に気を配っていたし、その他の猫以上に気持ちを推し量ったりもしたはずで、だけど思い出の中では、私にとっても特別な猫だった。
 私は何を考えたがっているのだろう?
 そのものの死やなくなってしまうことを恐れるものが、私にとって特別なものだった。だから、どれだけ大切な本や映画も、私に覚えられているから特別ではなくて、いつなくなってしまってもいい、いいというか、特別なものではなかった。
 学生の頃毎日のように一人か誰かと連れ立った定食屋も、もういい。大切なものと特別なものは全然違っていた。
 考えがまとまらない。
「さっきペンコが言ってたこと考えてたんだけどさ」
「さっき」
「車の中で。そういうこと、ペンコもあったの?」
「あったよ、たくさんある」
「覚えてない?」
「言葉の方?」
「そう」
「まだぎり覚えてるのもあるよ、でもそういうのは、なんか起こった時に、あ、そういえばあの人ああ言ってたなー、ってレファレンスとして出てくる」
「まだ一部にはなってないんだ」
「そう、でも何度も思い出すし、その度にだんだんその人抜きに思い出しはじめる」
「ああ、なるほどね」
 いくつかレジがあって、それぞれに一組ずつ、私たちは同時に二番目だ。
 真ん前の男女二人組はどうしてかまだ注文するものを決めてなくて、財布も出していない。
 何がどうなってそんなことになるのだろうか。
 右端の店員が「お待たせいたしました、二番目でお並びのお客様、こちらへお進みください」と声を張り上げる。
「いらっしゃいませ」
「ペアセットを二つ、飲み物はメロンソーダが二つとジンジャーエール、ホットコーヒー、単品のオレンジジュースのM、でお願いします」
「かしこまりました」
 レシートを受け取り、どこで待つべきか分からないまま横へ、そのような人たちがたくさん待っている。
 あたるちゃんたちが立ち上がったような気がして、それはそうだった、三人は列を迂回して私たちの元へ、待ち人はそうして増えていった。
「先に入ってていいよ、一人で持てるし」
「そんな」とあたるちゃんが言って、「何でもいいしね」とささら、クスノキも今回はここに残った。

 十分ほどしてトレーを二つクスノキとペンコが持ち、オレンジジュースは私が持った。
 もぎりの元へ、五人分のチケットを広げて出し「左手奥、六番シアターです」との案内を受ける。
 私たちの他にもそこへ向かう人たちがいて、近づくにつれ盗撮防止の映像が流れていた。
「ぎりぎり間に合ったね」と声をかけ、四人とも不思議そうな顔で振り返った。
 数歩歩いて「ほんとだ」とペンコが言って、ささらは「よく聞こえたね」と言う。
「そう?」
 私たちの席はE列の真ん中から左右に二席ずつで、暗転中にそこへ辿り着いた。
 クスノキ、ささら、ペンコ、私、あたるちゃんの順で、トレーはペンコの席に二つとも置かれた。
 無言のまま飲み物が配られる。
 腕を伸ばしてポッコーンを適当に取り、左手に受けてつまんだ。
 もうつまらないけれど観るしかない。
 意外に塩のポップコーンが美味しいことと、あたるちゃんが食べさせてくれること以外、何も心躍るものはなかった。
 彼女は何度目かのあと私の手を制し、「何味がいいですか?」と、彼女の、通るというよりも芯がしっかりあって澄んでいる声だから聞こえる音量で囁いた。
 私は頷き、手前の方を指さす。
 しお?、と口を動かして、その仕草に一瞬間固まって、もう一度頷いた。
 退屈でもないし面白くもない映画で、目自体は忙しく動くのだけど、何か思いや考えが進むわけでもないし、これはと感動するような演技や台詞もない。
 時間に総量があるとすれば、この二時間近くを生み出した者には厳罰が執られて然るべきだろう。
 ささらとクスノキは頭を寄せ合って眠っているようだ。
 際限なく運ばれるポップコーンを食べながら、スクリーンの左端の方を見て目を休める。
 いつだったかに吉祥寺かどこかで観た映画のことを思い出していた。
 薄暗いマンションのロビー、階段下にあるポストをチェックする若い男、赤い服、ナイロンジャケットを羽織っていて、ダイヤルを回す前に手を擦り合わせていた、冬だろうか、見事に生え揃った短めの顎髭を左手で撫でながら、空中で器用にチラシや封筒を選別している、男の部屋はがらんとしていて、物が少ないわけではなくて、ものとものの間隔が広く取られている、鳥の鳴き声と川の流れる音、窓が開いたままでどこかへ出かけていたようだ、上着を脱いでバーガンディのセーターに着替え、煙草をくわえたまま部屋の中を歩き回っていた、夜道、男はポケットに片手を突っ込んで、やはり右手で、本を読みながら歩いている、前を歩くサラリーマンの二人組は酔っているのだろう、覚束ない足取りで左右へ振れる、男は二人組に気が付いて歩く速度を落とす、煙草を取り出してくわえ、本をジーンズのヒップポケットへ、丸めるようにねじ込んだ、細くも太くもない歩道だ、左手は一車線ずつの道路で、右手は植え込みとそこから伸びるがたがたとした堤防のようなもの、男は目についた拳大の石を手に取る、立ち止まり、左側の男へ向けて思い切り投げつけた、遠目で見ても凹んだことが分かる、一歩分前へ、深い穴へ落ちたように画面外へ、夕方のスーパー、男はカートを押している、カゴの中にはニラと豚肉、いくつかの調味料にスナック菓子。
 私はこんな映画をどこで観たのか。思い出せるのだから観たのだろうが、観たという行為自体の記憶はない。
 噛み忘れていたポップコーンで口がいっぱいだ。
 右手を斜め前に出し、もう大丈夫、と振る。
 あたるちゃんは私の目を見ながらポップコーンを近づけ、押し込むように食べさせた。
 ストッパーがあるみたいに、音が出ることを躊躇って噛むことができず、かといって次のポップコーンまでに一粒だって飲みくだせない。
 昨日から、もしくは知らないうちに年を越していて今日は、あたるちゃんは私をからかいたいらしい。
 涙目になりながら、オレンジジュースで流し込む。
 口元でだけ笑った彼女は満足したのか映画へ目を向けた。

 エンドロールが終わって場内が明るくなり、私は長いため息をつく。
 お腹もいっぱいだったし喉も痛かった。
 他の客が大体出て行くまで席についたまま、私たちは話さない。
「やばすぎ」と、最後の一人が見えなくなってからペンコは立ち上がり、まだ寝ているクスノキを起こした。
 ささらは背中を伸ばしながらうなって、ぱっと立ち上がる。
「とんでもなかったですね」
「むしろすごいものを観たね」
 清掃するスタッフと入れ替わりで外へ、すぐそこに待ち構えている別のスタッフへトレーを手渡す。
「ささら、家で映画観れる?」とペンコ。
「Netflixか近所の、あ、閉まってるかも」
「じゃあなんか観よ」
「口直しですね」
「よく寝た?」と私。
「六割寝てたな」
「意外と起きてたね」

「帰りは任せてー」と言うささらにキーを投げ、私は後ろに座る。
 真ん中にあたるちゃん、その隣にクスノキ、ペンコは前に乗りたがって、空いてきた駐車場を抜ける。
 窓の外の景色はどこも、大抵は信じられないほど暗い。
 いくら出歩く人がいないからといって、もう少しは街灯があってもいいはずだ。
 私は帰りは高速に乗るつもりだったが、ささらもそのようで、行きとは違った道を進んでいた。
 クスノキもペンコも眠って、静かなドライブだった。
 ささらはラジオを小さな音で流し、懐かしさを呼び起こすために作られたようなソウルミュージックが流れている。
 幼い頃を思い出すが、類する思い出はない。
 運転席の後ろだったから見えないけれど、ささらは「悪くないな」と言いそうな顔をしていたはずだ。
 気怠いくらいの夜に親しい人と車に乗るのは全く、悪くないなとしか言えない。
 あたるちゃんの重みを右半身に感じる。
 車の中で起きているのは私とささらで、会話もないのにお互いが起きていることさえも、互いに分かっていた。
 高速道路へ移っても景色は同じようなもので、むしろいっそう均一化して、さっき通った道を走っていたとしても気付けない。
 どうしてこれほど暗いままにしているのだろうか。
 何も起こっていないのにずっと喜びがあった。
 佐和子から連絡があってそれは「あけましておめでとう。いつ空いてる?」とのことで、私は挨拶と五日が空いていることを伝えた。
 小さな寝息が三つもあると、眠気が誘い出されたように現れる。
「運転大丈夫?」「いつでも代われるよ」
「全然、トイレ大丈夫?」
「私は大丈夫、みんなは知らないけど、ささらは?」
「そんなだけどパーキングとかなさすぎるから次行こうかな」
「おっけー」

 その会話から内子PAまでも大した時間はかからなかったし、なぜかそれ以降にSAもPAもなかった。
 滑り出るように車の外へ、ささらと私はトイレへ向かう。
 起こすべきか迷ったけれど、どこかで降りてコンビニにでも行けばいい。
 二手に分かれて数分後、自販機のそばで煙草を吸った。
「明日クスノキ何時に帰るの?」とささらが言って、そういえば何時だったろう。
「あー、聞いてないな、どうなんだろう。三ヶ日は休みって言ってたけど、明日一日で帰りきるのかな」
「そっか」
「ささらは?いつから仕事?」
「六日だね」
「結構余裕あるね」
「そうそう」
「今年もずっとこっち?」
「去年よりはそっち行くこと多いかもしんない、泊めてくれる?」
「どれだけいてもいいよ」
「今年はそっちで年越ししてもいいかもね、もしくはみんなでどっか行くか」
「それもいいなあ」
 体が勝手に震えるくらい寒いが、空気が澄んでいて心地がいい。
 どちらからともなく、自販機で温かいコーヒーを買う。
「なんか、前につぐみのとこで会ったのと、クスノキの印象変わった」
 何か仕掛けられているのかと身構えるが、そんなこともないか。
「そう?」「どんなのからどうなったの」
「かなりざっくりしてるけど男版つぐみって感じだったのが、全然似てないなって」
「男版私は私じゃん」と軽口を挟む。
「そうなんだけどね、つぐみはそんなに異性って感じしないから」
「ふーん」
「なんかだから、このメンバーに、ってわたしは抜きでね、このメンバーでクスノキの立ち位置というか、いる理由が分かんない、ってのはきつい言い方だけど、そんなふうに感じてて」
「うん」
「それがさ、昨日?だっけ、みんなでバーベキューして二人で結構話し込んでたんだけど、分かったっていうか、あ、全然思ってたのと違う人だったって」
「うん」
「あ、だから、特にいい印象も悪い印象もなかったところから、素敵な人だなーって」
「口数が少ないしね」
「うん、絶対それもある。前回ほとんどわたしたち話してなかった気がする」
「何にせよ仲良くなってよかったよ」
「うん」ささらはそこで口ごもり、私はどうして彼女が思い煩っているのかが分かってしまう。
 戻ろっか、と言い出す前に-そもそも何故そうしたのか?-短く息を吸って「しちゃったんだよね」と言った。
 驚き過ぎず、知っていたことも悟られないような声で、とにかくそういった意識の元で、「そうなんだ」と答える。
「なんでわざわざ?」と私は訊ねた。
「うーん。大人になってさ、こういう感じで集まれるのって、わたしはあんまりないから、なんか水を差すようなことしたくないなって」「遅いけど」
「や、そんなの、気にするのも分かるけど全然、みんな好きにすればいいじゃん」
「うん、あー、そう言うの分かってて言ったのかも」
「確認?」
「そう、かな」
「またしたいから?」と私は笑う。
「だね」、と、二人の間にあった、ようにしか思えない澱みかけた空気が抜けた。
 彼女に照れたところがなかったことで、本当に申し訳なさを感じているんだ、と半ば感動していた。
 私は後になって、どうしてその人を好きになったのか、繰り返し繰り返し気付かされる。
「戻ろっか」
「だね。寒い」
「運転、どうする?」
「あー、じゃあ、お願いしてもいい?」
「おっけーおっけー」

 行きが下道だったからか、そもそも距離が短いからか、帰り道の八割を走ってもあっという間だった。
 ささらは寝ることもなく、あたるちゃんを起こさないくらいの音量で、私と話していた。
 大学での時間を思い出しながら、ああでもないこうでもないと、もう既に思い出せない話ばかりしていた。

 家から最寄りだけど遠いセブンの駐車場へ車を停め、一応みんなに声をかける。
 何故か順に起きてきて、寒さについて一言漏らした。
「なんか買って帰るけど行く?」
「ペンコもほらー起きてー」とささらが肩を突っつく。
 ぐずぐずと動き出さないペンコを置いて、妙に目が冴えた私たちとふらつく二人で店内へ。
「明日何時に出るの?」
「明日、ああ、昼過ぎに出る予定」
「まだチケット取ってないの」
「まあ、いけるだろ」
 特に欲しいものも見当たらず、おつまみになりそうな缶詰や乾物を見繕う。
 店内の光量と外気の冷たさに、二人は徐々に目を覚ました。
 あたるちゃんはパックの卵をカゴへ入れ、「だし巻き作ります」と言った。
 クスノキとささらは「おおー」と声を漏らす。
 店の中から助手席のペンコを見ると他人のように見えた。
 それはそれで正しいけれど、もっと、物質的でない隔たりが感じられる。
 特にしたいわけでもない会話の最中、その間に漂っている空気の層みたいなものが、ここにもあるようだ。
 ぼーっとしているとカゴが引っ張られて、「俺が払っとく」とクスノキが言う。
「ありがとー、煙草吸って待ってるよ」と答え、私はあたるちゃんを探し、連れて出た。
「寒さちょっと慣れましたね」と彼女は言って、あ、ありがとう、とライターの火を受ける。
「そんな気もする」
 レジの前でクスノキとささらは何やら楽しそうに笑っている。
「なんか二人いい感じですね」「サイズ感とか」
「え、ああ、確かに」
 確かにそうだ。
 肉塊として、不釣り合いなところがない。
 クスノキは単体で見ても大きいけれど、ささらは小柄ではないし、骨か筋肉か、しっかりしたつくりに見える。
 守衛として二人が門を挟んで立っていたとして、かなり安心感があるはずだ。
 あの位置にあたるちゃんが立っていれば、クスノキの堅牢さに比べてやわに見えるし、ペンコは小さい、しかしそういう組み合わせは溢れているし、何故それだと均衡が保たれていないと感じるのか。
 私が立っていたとしても、ささらほどしっくり来ないはずで、多分、私もクスノキも裸だったらぴったりだ。
 でもそれはクスノキのもっているその場を規定する力に対して、おそらく、私が着痩せして露呈しない筋肉の部分が足りてないということで、でも、それはあまりに肉体にフォーカスし過ぎている。
 あたるちゃんが「サイズ感とか」と言ったから考え始めたが、それにしても、各々の大きさはいつでも大体同じで、しかも五人でいるあいだのクスノキの場を醸成する力は今に比べて弱いのに、クスノキと誰か、を比べると途端に、こっち側のことばかり考えてしまうのは、やはり単に彼が大きくて分厚いからだろうか?
「ペンコはハクビシンみたい」とあたるちゃんは助手席を指差した。
 うん、細長い生き物が丸まっているように見える。
 彼女は服を着ていても着ていいなくても、細い、とは思わない、むしろ、意外にふっくらしていて、肩幅も狭いとも広いとも、どちらかと言えば広く感じられる。
 ただ小柄なだけで、それも特に小柄というわけでもなくて、肩幅と同じようなどちらかで言えばといったくらいのもので、私が感じる存在感みたいな、ここにペンコがいる、と感じられる力は五人の中で突出して強い。
 細長い生き物が丸くなって眠っているようにしか見えないのは、実際、目を凝らしても細く見える部分も長く見える部分もないし、意味が分からない。


PENCO.28

 どこかへ行くか家にいるかと話し合うでもなく駄弁って、そのまま家にいることになった、というか、いた。
 朝昼兼用の食事に雑煮と、車に置きっぱなしだった、と持ってきたおせちを食べる。
 大体同じ味付けだからこそ、それぞれの味が分かりやすい。
 雑煮はあたるちゃんと私が拵えて、三つ葉の代わりに余っていた春菊を細かく散らした。
 台所に立っているあいだ、彼女は私の足に足でじゃれついている。
 用はないらしい「つぐみさーん」と何度も呼んで、その度に私は「ん?」と顔を向けた。
 何があって彼女は今日こんなふうなのか、分からないけれど、楽しそうにしているなら何だっていい。
 私は神様へ五つ願い事をした。
 ペンコが悲しむことのないよう、ささらがいたい場所へいれるよう、あたるちゃんが寂しい思いをしないよう、クスノキがどこかへ消えてしまわないよう、何事もなく家に帰れるよう、そのように願った。
 熱い出汁の匂いが膨らんだり萎んだりしながら台所に充満する。
 私はあたるちゃんを抱き寄せて、しばらく互いの唾液を欲しがった。
「どうしたんですか」と言わないから、多分、彼女も今日の彼女の違いに気がついている。
 少しほつれた吊り紐を見ていると目のどこかに涙が滲んできた。
 何も言い出さないで料理に戻って、仕上げていく。
 テレビのつくる正月らしさというのも多大なもので、面白くもないし興味も惹かれないのに、こうしてだらだら眺めているだけで正月であることが意識の中で強まっていく。
 火をつけないで煙草をくわえて数分が経った。
 ささらは-内容にしては-大きな声で「あ」と言って、ペンコに耳打ちする。
「え、あ、ああ、いいよいいよ」「気にしないで」と彼女は言って、だから私とあたるちゃんは何を言ったか分かったし、後でペンコが言った通りのことで合っていた。
 昨日買った小さなみかんをいくつか向いて机の上にひろげる。
 大体クスノキとあたるちゃんが食べて、ささらは一つも食べなかった。
 こんなに予定のない旅行は初めてだったが、退屈ではなかったし、慣れていないからこの時間の何もなさに気が向くだけで、満ち足りてはいた。
「つぐみさん、初日いつですか?」
「初日?」「働き始め?」
「うん」
「あー、帰った日の次の次の日だったかな」
「なんだ」
「被ってない?」
「その前の日です」「なんか想像つかない」
「働いてるのが?」
「はい、まったりしすぎて、これからもこうな気がします」
「まあね、すっごい落ち着いてるよね。気分が」
「ですね。なんかこう、寒いしお家から出たくないとか、めんどくさいとかじゃないし、でもめちゃくちゃ楽しいかっていうと、そういう激しい感じもないし、これでいいやあ、って」
「すごい分かる、なんかしたい気もするけどこれでも全然いいなー、って思いつつ過ごしてるこれでいいやって」
「ぐるぐるしてますね」
「してるね」
「なんか映画観たいかも」とペンコ。
「高速で一時間かかるかかからないか」、とささらが振り返った。
「え、近くにないの?」
「松山まで出なきゃね」
 どうしよー、とペンコが左右に揺れる。
「私が運転しようか?」と全体へ向けて言った。
「何がやってるかなー」とささらは机の上のiPhoneを手に取る。
「私はお外出たいです、今、映画はどっちでも」
「俺も、俺は何でもいい」
「これってのは何もないね」と、確認するみたいにペンコを見た。
「じゃー、とりあえず出よう!」
 と、私たちは上着だけ取って外へ、ぬかるんでいた地面もいつの間にか乾いていて、低い位置のボンネットの上をキーが飛ぶ。
 何とかキャッチして解錠し、寒さから逃げ込むように車内へ。

 後ろではクスノキを挟んで、しかし二人はまた言い合いをはじめ、彼は瞼を閉じて腕を組む。
 ささらと私は半笑いで、あまり関心を向けない。
 この短い時間で何が発端となったのか、「そっちがでしょ」とか、「だからそれは違うって」とか、「言った通りじゃん」とか、内容が分かるような言葉が全然聞こえてこなかった。
「高速の方がいい?」と誰にともなく声を出す。
「どっちも別に走ってて楽しい道ではないよ」
「どっちでも」と、ほとんど怒声に近いペンコ。
「急ぎでもないし、しばらく下道で行こうか」
「そうしよー」
 発進してしばらくすると二人は静かになったけれど、騒がしい沈黙でもあった。
 ささらは相変わらず、ドライブ中に読書ができる人だ。
 自分自身で想像するだけで酔ってしまいそうになる。
 新年早々に映画を観るのは久しぶりのことだったし、とりあえず外へ出たことは気持ちが良かった。
 ナビによると高速でなくても二時間もかからない距離で、私はもう下道で最後まで行くつもりになっている。
「何読んでんの」、私は彼女を見てしまわないように言った。
「山尾悠子の『夢の遠近法』」
「小説?」
「うん」
「さすがに本屋はある?」
「近くに?、あるよー、新刊のも古本屋も」
「昔は映画よく観てたけど、今はどうなの」
「うーん、本読むことの方が多いかなー、やっぱ、どうしても時間つくれない」
「そうだよね」
「つぐみは?」
「最近だと映画かなあ、あんま読めてないかも」
「学生ん頃はつぐみ異常だったもんね」
「そう?」
「うん、はたから見てるとね」「この人いつ寝てるんだろうって、一緒に住んでて知ってるのに思うもん」
 そうだったのかもしれない。体感をもって思い出すことはできないが、当時から遠く離れたと思うのは、時間を割く物事が減っているからだろうか。
 ささらはいつでも本を読んでいるイメージが湧くし、思い出としても多いけれど、学生だった頃にフォーカスすると、暗い部屋でテレビの前に座っていた姿が浮かんでくる。
 片膝を立て、開いた足の方に飲み物やお菓子を置いて、何本も続けて映画を観ていた。
 テレビ台の下から何故か引っ張り出されたプレーヤーの上、左端に私が借りてきたもの、真ん中に彼女が借りてきたもの、右端にささらが借りて観終えたものが積まれている。
 今ではどうやっても観たことを思い出せない映画がたくさんあった。
 彼女は本や絵の話はしたがったし、価値観を共有したがったけれど、映画はそうではなかった。
「何観てるの?」、と私は何度訊ねたことか、その度に少しだけ恥ずかしそうな表情で、投げ出すようにタイトルを教えてくれる。
 私は逆で、本や絵の話はあまりしたくなかった。
 その頃であれば、私はどちらへ対しても入れ込み過ぎていて、そのものが私を表しているように思えていたのかも知れず、直接個人的な話をされるよりも照れがあったのだろうか。
「こきりこ覚えてる?」、首元が冷えるような視線を感じ、彼女を見やる。
「覚えてるよ」「思い出した」
「この前ささらが家に来たでしょ、その前の日かな、ペンコがささらって楽器の名前?みたいな話があって、その少し前に猫のこと考えてたんだけど、あ、その猫の名前こきりこだった!って」
「うん、そう」「いなくなったとき、なんて慰めてくれたかは覚えてる?」
「や、覚えてない、し思い出せないな」
「そっかー」、彼女は下唇を突き出しながら何度も頷いて、少し勢いをつけてシートへもたれた。
「覚えてるの?」
「ううん、でもねー、なんかそれから何年か、本当、なんて言えばいいか分かんないしつまんないけど、ものすごく支えになったの、こう、もうあらゆる意味で」
「ん?」
「だから、こきりこのことと切り離されて、わたしの中の基盤?、そういうのになったというか組み込まれたっていうか」
「うん」
「でも、その感触って言えばいいのかな、なんかそういうのがあまりに大き過ぎて、うー、はっきりし過ぎてかな、言葉の方思い出せないんだよね」
「それでいいじゃないの?」と、ペンコがにゅっと顔を出す。
 ささらは「え」と言って、「まあ、そうなんだけど」
「今でもその手触りみたいなのはあるんでしょ?」
「まあ、あるかな、ある気もするしない気もする」
「あると思うよ、そういうのって絶対なくならないようにできてて、だから忘れるんだよ」
「どういうこと?」とあたるちゃんが次ぐ。
「だから、その、猫のことで落ち込んでたささらに、猫のことで落ち込んでるそのささらを励まそうとして、つぐみはそのとき何か言ったわけでしょ?」
「うん」と私は頷く。
「そういう、限定された状態で、そこへ向けて言ったことがさ、だからその言葉の源みたいなことから離れてもささらに残ってたのは、猫のことと関係なくささらに足りなかったものだからでしょ?」
「うん」とささらが頷く。
「で、多分、ささらのそこはずっとつぐみのその時の言葉なんだよ、これからずっと」
「うん」とあたるちゃんが頷く。
「だから絶対なくならないし、それがささらの一部としてあるためには、こう、文言?、表面的な部分は忘れられた方がいいんだよ」
 ペンコはささらが言ったことを噛み砕きながらも、全く別の話法で言い表した。
 彼女の声に、思い出せないこと自体、だから言葉そのものを忘れたことへ対する悔いや、誰へ向けてか、申し訳なさのようなものを感じたから、そんな言い方をしたはずで、でもその妙な反復が、ささらの後悔に似たものをなしくずしにした。
 きっと、こきりこがいなくなった後の私も、今のペンコのような声で何かを言ったのだ。
 釣り合った言葉が出てこなくて-彼女も返答を求めているわけではいだろうし-しばらく沈黙が続いた。

 私はとりあえず目についたローソンの駐車場に車を停め、「何かいる?」、と振り返りつつ訊ねる。
「私も行くー」とペンコがドアを開け、「私も」、「あ、じゃあ」、とクスノキ以外みんな外へ出た。
 両脇の二人がいなくなると彼が眠っていることが分かって、それが分かると肩から力が抜けた。

 ペンコは「どうぞどうぞ」と言いながらカゴを持ち、私たちはそこへお菓子やら飲み物やらを入れていく。
 二周ほどしてから「ポップコーン食べないの」と彼女が言って、私たちは棚へお菓子を戻していった。
 結局、人数分のコーヒーとピノを二箱買って車へ戻る。
 いつの間にかクスノキは外で煙草を吸っていて、さっきのは勘違いだったかも知れない、コーヒーを手渡し、ピノを一つ口へ入れた。


PENCO.27

「家と職場のちょうど真ん中で、いい感じに忙しいときよく来るんだよね」と、店主が下へ戻ってからささらは言った。
「浅いマンデリンって珍しいね」
「だよね?あんま見たことないから飲んでみたんだけど、それからずっと好き」
「私も、初めてです」
 窓際のペンコは「へー」と、外の様子を眺めている。
「ここのね、マグとかお皿とか、大体わたしのつくったやつなの」
「え、すご」と振り向く。
「へえ、楽しみです」
「それで知り合ったの?」
「そんな感じ、たまたま来たらそうだったから話しかけてみて、めっちゃいい人だしさ」
「いい出会い方だね」
「だよね」
 商店街を歩く人はほとんどいない。
 全長からすると三分の二ほどを歩いただけだったけれど、その六割がシャッターを降ろしていたから当然なのかもしれない。
 夕陽に変わる直前の陽が、アーケードのガラスを通り抜けて差し込む。
 深い茶色の木材のおかげか、店内から外の寒さを想像することができない。
 私は三人の会話を聞くともなし聞きながら外を眺めている。

 私とささらとペンコの前に小ぶりだがどしっとした、藍色より濃い青のマグが置かれた。
 あたるちゃんはワイングラスみたいに膨らみのあるガラスのカップで、これはさすがにささらの作品ではなかった。
 中央には全体に波打ったような薄い丸皿が、大きなシフォンケーキを載せて配される。
「一つならみんなで食べて、夜ご飯も食べられるでしょう?」と彼は言って、淡い笑顔を向けた。
「おじちゃーんありがとー」
「ありがとうございます」と、輪唱のような声。
「ゆっくりしてってね」
「うん!」
 どうすればこのようなバランスになるのか、キャラメリゼされたシフォンケーキは柔らかさも軽さも損なわれていない。
「美味すぎじゃない?」とペンコは歓喜して、私たちも同意する。
 夕ご飯はもういいからホールで食べたい。
 コーヒーも不思議な味わいで美味しい。
 華やかさと重い味わいがいい塩梅で、温かくてもたくさん飲めてしまうし、マンデリンに感じやすい土の香りも立っている。

 一時間ばかりそこにいて、帰る頃にはすっかり夜だ。
「帰り私が運転しようか?」ということで、私が帰路をを担当する。
 体が予期していたよりも遥かに運転しやすかった。
 ささらは助手席に、ペンコはまた眠っている。
「最近どうなの?」、と思えばここにきて初めて、空間的に二人きりなったささらは言った。
「最近、どうだろ」「毎日楽しく、うーん、昨日は楽しかったなーって日が毎日あるよ」
「つぐみは基本的にいつもそうじゃない?」
「まあ、そうだね」「仕事も別に変わりないし、今までと変わりないな」
「絵は?」「もう描かないの」
「描いてみようかな、とすら思わないな」「二年くらい前までは結構、思うことはあったんだけど」
「ふーん。もったいなく思っちゃうなー」
「好きだった?」
「うん、好きだし、いいと思う」
「何か、満足しちゃってる、というかしてるんだよね」
「性生活に?」とささらは笑い、私はこういう部分でもペンコと彼女に相通ずるものを、事前に感じていたのか。
「言うまでもなくね、でもそれだってその時々?、パートナーがいてもいなくても、不満って感じたことないんだよね」
「学生の頃とか、すっごいそういう話、最近誰とどんなことしたとかって聞いてたから、まあそうなんだろうね」
「それはささらが聞くからじゃん」
「まあね」「あー、だから、別にしてもしなくても、そういうことに特に執着がないってこと?」
「うーん、好き嫌いで言えば病的に、本当に病的に好きだと思うし、当時、学生の頃?とかはきっと私の及ぶ範囲手当たり次第って感じで、だから不満を感じてたのかもしれないけど、思い返すと別に、ずっとどっちでも良かったのかもなって」
「まあそれも普段の、その、事後的な気配がないときとか、映画とか本の話、に限らず、話してるときを思うと分かるな」
「そう?」
「うん、こんなにあれこれ知ってるのに、今でも引いて見ると性欲ない人に見えるもん」
「何でだろう」
「実はある人なんだ、とも思えない」
「人一倍ある気がするのに」
 ささらはひととき笑い声を上げて「それは多分事実だね」と言う。
 それは多分事実だ。
 でも、ささらが言ったことを、私は知ってもいた。
「他の三人はどうですか?」、身を乗り出したあたるちゃんが言う。
「クスノキは実はある人、ペンコはつぐみに近いけどある人、あたるはねー、あたるはめちゃくちゃある人、に見える」
「大体合ってます」
 言葉にされるとそうであるように思えるが、「どこで判断してるの?」
「いやー、もう全身の雰囲気としか言えないなー、だって別にそれぞれとそれぞれの性的な話いっぱいしたわけじゃないし」
「別に他の人からも聞かないし?」
「うん、だからわたしの中での印象でしかない」
「これまで会った人に似た人がいるとかでもないんだよね?」
「うん、ほんと、優しそう、とか、恐そう、とか、そんなのと同じ」
 慣れない土地の夜道の運転は心地好い。
 ほとんど街灯に照らされない道は清潔に見えたし、どこまでも走っていけそうに広々と感じられた。
「でも、かなり正確な気がします」
「そうかなー、わたしはどう見える?」
「ささらさんは、ほとんどない人に見えますね」
「うん、正解」
「恐そうとか優しそうとかって、この人性欲強そうとかより日常的に思いそうだし、しかもそれが正解か不正解か知る機会が多いからさ、結果的に大体当たるけど外れることもあるなーって、でも性欲に関しては結構、関係性の進み具合に準ずるからデータが溜まりにくいのかな、あ、だから、他のと同じで、大体当たるけど不思議に思うというか」、ささらは身振り手振り説明してくれるけれど、一体どの動作が何を表しているのかは分からない、けれど分かりやすくなっていることだけが分かる。
「この五人はある程度、その、ささらさんからするとそういう、性的な?こととは切り離されてるけどもう他人ではなくって、その、印象も色んなフィードバックがあるから、性浴って一つにフォーカスしても精度が高いんですかね」
「うん、そうだと思う、今、このメンバーだから当たるし、だから不思議に思えるけど、全然関係ない人も含めば他のとおんなじくらいになりそう」
 ナビを見ていても、総距離が体に入り込んでいないからか、どこをどれくらい走っているのか、走っていたのか、後どれくらい残っているのかが判然としない。
「あたるからするとつぐみはどうなの?」
「ささらさんと同じで、あ、思うことが一緒で、ない人に」
「見える?」
「はい」
 海鳥たちはこの時間、一体どこで体を休めているのだろう。
 何もいない岩の先を見て思われるが、その他の野生動物だって、どこでどうしているのか検討もつかない。

 肉屋は途中に現れる小さな町にあって、短い行列ができていた。
 店や街の規模からして、年の瀬も押し迫ったこんな日に開いていることも人集りがあることも信じられない。
 三日か四日前から年末年始の休みを取っていても何の違和感も抱かないはずだ。
 眠ったままのペンコを置いて、私たちは列に並ぶ。
「鶏肉がめちゃ美味しいんだけど、鳥多めでもいい?」
「私は全然、それでいいです」
「私も、うん」
 すぐに私たちの番が来て、ささらが呪文のようにあれとこれとそれと、と注文を通していく。
 ここはさすがに、と私は会計を済ませ、小さ過ぎる駐車場へ。
 ペンコは車の外にいて、心細そうにドアへもたれかかっていた。
 私たちを見つけると「あー!」と声を上げる。
 ささらが「ごめんごめん」と言って、彼女はすぐに大人しくなった。
 また同じ配置で座り、エンジンをかける頃には眠っている。
 私はクスノキへ「お米炊いておいてほしい」とLINEを送り、車を走らせはじめた。

 クスノキは縁側に座って煙草を吸っていて、私は反射的にiPhoneを見た。
 了解、以外の連絡もないから-結果的にも-想像するにたまたまさっき出てきたのだろうが、小走りで彼の元へ駆け寄る。
「おかえり」と言う声は震えていないし、顔色も悪くない。
「ただいま、ずっとここにいるわけじゃないよね?」
「え?、ああ、違う」
「良かった」
 彼は立ち上がってサンダルを履き、二人でトランクの荷物を取りに行く。
「ただいまー」
「火熾したけど良かったかな」
「え?」
「ストーブ」
「あー、もちろんもちろん」
 クスノキは訝しげな表情で、多分ささらはこれから始まる夕食に紐づけて驚いていた。
「今日は焼肉だよ」と私は告げ、クスノキは返事と感嘆の間で「おお」と言う。

 ペンコはあたるちゃんに支えられるみたいに、まだ眠ってるくらいの足取りで家へ入る。
 私たちは台所で荷物を降ろし、「外でやるのか?」とクスノキ、私はバトンを渡すようにささらを見た。
「外だね」
「じゃあ、俺は火用意しとくよ」
「あ、ありがとー、えー、玄関出て左、裏に物置があってー、そこに」
「探してみる」
「じゃあお願いしまーす」
 悪気もない自然な会話の制し方に、私はうっとりしたような心持ちになる。
 私にはできないし、ここにいる誰もが会話が断ち切られたことを分かっているのに、嫌な気分になった人は誰一人いないことも共有されていた。
 ペンコはストーブのそばで丸まっている。
 また三人で諸々の準備を進めていくあいだ、部屋のどこかしらからごとごとと物音が聞こえた。
 広くはない作業スペースの前を、言葉もなく器用に入れ替わっていく。
 私は自然に、カウンターの向こうを見るように何もない壁を見、その時々で背後にあるはずの調理場の代わりに小さな机を振り返りかけ、窓の外の街路を見るように冷蔵庫のある方を見てしまう。
 あたるちゃんにもそういう素振りがあって、二人とも慣れない場所での作業であるということ以上に、まだ人の家に対する緊張感が残っているように思える。

 縁側からほど近い位置にコンロが置かれ、その向こうにアウトドアチェアが二脚、右手に折り畳みのテーブルが設置されていた。
 ストーブの火とは違って見える。
 クスノキはテーブルの届かない方の椅子に座って火を調整していた。
 私はペンコを起こしに行って、ささらとあたるちゃんは食材を持って外へ。
 なかなか起きないペンコも「バーベキューするよ」と言った途端に体を起こした。
「バーベキュー?」
「うん、もう準備終わったからすぐ始まるよ」
「やったー」と、ゆらりと立ち上がり、私のあとを着いてくる。
 二人分の上着を持って、私たちも外へ出た。

 割に大きな網だったから、それぞれ食べたいものを各自で焼いていった。
 昨日と同じ日本酒を飲みながら、私とあたるちゃんはタンとセセリから食べ始める。
 ペンコは色んな肉を少しずつ同時に焼いて、クスノキとささらは脂っこい部位を一枚ずつ焼いてビールを飲んでいた。
 鶏肉は胸肉ですらしっとりと旨味が強く、それでいて歯切れも良くってどんどん食べ進めてしまう。
 私たちは食の好みが近くて-それは食べ方や味わい方もそうだ-何か食べるたびに「これ美味しいですよ」、「これいいよ」と伝え合った。
「あ、そうだ」と、右側の椅子に座ったささらが立ち上がる。
 薄暗闇に消え、小さな鉄板を持って帰ってきた。
 そのまま玄関から中へ、しばらくすると窓が開いて袋の中華そばと水滴のついた鉄板を手渡される。
「端の方で焼きそばつくろうよ」と玄関から向かいながら言って、クスノキが立ち上がって準備を始めた。
 ささらが腰を下ろしてから「あ」と言って、私は「ソース?」と腰を上げる。
「上の段にあると思う」
「おっけー」
 靴を脱いで縁側から中へ、蒸し暑いくらい熱気で満ちている。
 冷蔵庫を開けてすぐにソースは見つかって、ついでに醤油と砂糖を持って外へ戻った。

 全員が食べ過ぎていたし飲み過ぎていた。
 珍しくささらも素面には見えないし、誰も口を聞かない。
 動き出せたのは寒さのおかげで、そうでなければそこで眠っていてもおかしくなかった。
 ペンコが初めに「凍死する」と家の中へ逃げ込み、つられて私とあたるちゃんも入っていった。
 急いでストーブの前に集まって体を暖める。
 それから三十分くらい、クスノキとささらはまだ何かちびちびと飲んだり食べたりしていて、私たちは眠気とシャワーの浴びたさの狭間でふらふらしていた。

 次に動き出したのは私だ。
 私たちは寝転がって丸まったペンコを挟むように三角座りでいて、ふと立ち上がって、それから「そろそろ立ちあがろう」と思いつく。
 あたるちゃんは私を見上げ、何かを察したペンコも目を覚ました。
「シャワー浴びてくる、さすがに」と歩き出し、右足首を彼女に掴まれる。
「連れてってー寝ちゃうー」
「ちょっと待ってて、スペース確認してくるから」
「なくてもあっても一回戻ってきて」
「分かったよ」
 廊下の突き当たり、右手に洗面所があって、同時に脱衣所でもあった。
 妙に天井が高く、長細い箱に入り込んだような気分になる。
 右側にくすんだ緑の扉、そこがお手洗いで、左手、擦りガラスの向こうが浴室だ。
 あまりの寒さに体を震わせ、ガラス戸を開く。
 想像なんてしていなかったけれど、予想外に広い浴室で、湯船でさえ大人が二人でゆうに足を伸ばせる大きさだ。
 数センチ開いた蓋から湯気がのぼっている。
 私は戸を閉め忘れたまま、いさんで和室へ戻った。
 二人ともさっき見たままの姿勢で、周囲も揺らめいて見えるくらいうつらうつらとしている。
「かなり広いよ、入るならすぐ入ろう」と声をかけた。
 真っ先にあたるちゃんが立ち、「入りましょう」と言う。
 どこから起きていたのか、ペンコは悔しそうな声で「あー」とだけ発して手を伸ばした。
 二人でその手を取って廊下まで引きずっていく。

 脱衣所は二人に譲って、私は突き当たり、裏口のありそうな膨らみで服を脱いでいった。
 寒さは露出した肌からするすると内側へ滑り込んでくる。
 桶か何かで湯を浴びる音が続き、結構な量の湯が溢れる音がしてから、風を切らないようにゆっくりと進む。
 二人とも湯船の中にいて、まだ眠そうな顔をしていた。
 頭上の窓から淡い月とその光が見える。
「先洗ってて」とペンコ。
 冷え切った木製の椅子に腰掛ける。
 痛い気がしてくるほど冷たい。
 体にかからないようにシャワーの温度を調整し、手の甲でぬるくなったのを確認してから浴びた。
 戸に背中を、だから斜めになって頭や体を洗っていく。
 気分も汚れもさっぱりしてくると眠気は後退していったが、代わりかなにか、満腹感が増したようだった。
 ペンコはしっかり瞼を閉じ、あたるちゃんは一体どこを、何を見ているのか分からない目をしている。
 私たちはいつからか、瞬きでさえ会話ができたけれど、今の二人からは何も想起されない。
 すべての動作を最小限に、二人へ泡や飛沫が飛ばないよう注意した。
 まだ冷えたままの浴室の中では、その動き方は正しかったようで、冬場の自宅でシャワーを浴びている時よりも温まった部分がひやりとしない。
 ただ背中に湯を浴びながら「どっちが先?」と、水滴の垂れた目を瞬かせる。
 あたるちゃんは「あ、じゃ、私、浴びます」と言って立ち上がり、残像が見えそうな緩やかな動きでシャワーヘッドを受け取った。
 なみなみ注がれたグラスを持つように、そーっと湯船へ体を浸す。
 壁を背に、ペンコの浮いた膝の下と腰の後ろへ足を伸ばした。
 瞼を閉じたまま顔を向け、一体どうして分かったのか?、ゆらーっと背中から流れてくる。
 氷みたいな肩が胸に張り付き、私は背もたれになった。
 そのまま頭を倒し、眠過ぎる、と声を出す。
「起きてたの」
「ずーっと起きてる、さっきも」
「さっき?」「ストーブの前?」
「うん」
 ペンコは私の指を湯の中で握ったり離したりしている。
「あ」と言って、「初詣」と続く。
 私も「あ」と言って、「忘れてた」と返す。
「行きたいけど無理そう」
「じゃあ私もいるよ」
「いいの?」
「絶対風邪ひくし、みんな忘れてたでしょ」
「私も、今思い出しました」、と、泡だらけのあたるちゃんは言う。
 久々にペンコの目に光が差し、「起きたら行こー」と拳をあげた。

 ストーブのある和室へ戻るが、信じられないことにクスノキとささらはまだ外にいた。
 クスノキは左手に、ささらは右手にお猪口を持ち、何かこれまでとは違った親密さが見てとれる。
 どちらかの口がしばらく動き、どちらかが口元を抑えて笑う。
 ささらは自然に、しかし空いた右手を使って、わざわざ体を捻らせてクスノキの肩か太ももへ触れた。
 私は口角が上がっていることに気がつく。
 礼儀というか何というか、しゃがんだ私は襖をゆっくりと閉める。

 窓際に布団を並べて敷く、我先にとペンコはストーブの側を取って、「つぐみは真ん中」と指示を出す。
 言われた通り、敷布団の上に腰を下ろし、まだ立ったままのあたるちゃんへ目線を向けた。
「大丈夫ですよ」と彼女は答え、電灯を豆球に変えてから左端、私の右側の布団の上へ座った。
 ペンコはもう薄くて保温性の高い毛布と羽毛の詰まった掛け布団の下にいて、仰向けのままiPhoneをいじっている。
 私たちはまだ座ったまま、特に何かしたりせず、ぼんやりとも何か考えたりせず、ただいた。
 時折、窓の向こうから笑い声とくぐもった爆ぜる音が聞こえ、いつもとは違う場所にいることが意識される。
 ねーねーこれ見て、と、ペンコが馴染みのない生き物が走り回る動画を見せてくれた。
「かわいいね」
 ささらの笑った声がよく聞こえるのは、いつもの十何倍もクスノキが話しているからだろうか。
 彼女は自分自身の言葉にあまり笑わない人だから、そうなのだろうけれど、上手く想像ができない。
「盛り上がってますね」と、あぐらをかいた足首に開いたままの本を載せたあたるちゃんが言う。
「みたいだね」
「あんなに話すクスノキくん初めて見たかも」
「あたるいつからクスノキのことクスノキくんって呼んでるの?」
「え、いつからだろ、あれ、呼んでました?」
 私は体を後ろへ倒し、両肘をついて二人の視界を開く。
 さして含みのない声で「ささらとああいうの見て妬かないの?」とペンコは訊ねた。
「うーん、言われたらというか言われ続けたらそうなりそうな気もするけど、別に今は」
「ふーん」
「ペンコだって、つぐみさんと佐和子さんに妬いてはないでしょ」
「え、何それ、関係ないじゃん」
 私は当然、不穏な気配を感じる。
「どう?」
「別に、どっちでもいいでしょそれは」
 ペンコは片肘をついてあたるちゃんを見上げている。
「何?」
「何って、なんでそんなこと聞くの」
「ペンコから聞いてきたんじゃん」
「だから、それは今関係あるけど、あたるのは関係ないし」
「そう?同じでしょ」
 思えばこんなに刺々しいあたるちゃんの声を聞くのは初めてだったが、喜ばしく思っている場合ではない。
「何が同じなの」
「答えたくない、答えにくいって分かってることをわざわざ聞くのが」
「ちょっとからかっただけでしょ、あたるはわざわざ聞いたのかもしれないけど」
「つもりじゃないからっていい訳じゃないよ」
「うざ」
 一体何が起きてしまったのか。
 おそらくこの数分の中に原因はなくって、もっと前にあった。
 私は目玉だけを動かして、ストーブの陽炎に隠れる。
 あらゆる出来事は、選択を間違わなかったから起こるのだと思われた。
 飛び退っていくような考えが私の中で湧いてくる。
 彼女たちは-もちろん私も含めて-ここに至る全ての原因となり得る場面で、間違った方を選ばなかった。
 間違った方を選んだからといってよろしくはない出来事が起こるなんて単純すぎる。
 もっと複雑であるべきだとも思えたし、それが事実だとも思えた。
 間違ったことと正しくなかったことはイコールで結ばれず、間違ったことと間違わなかったこと、正しかったこと正しくなかったこと、としか成立しない。
 二人は黙ったまま、iPhoneを見始めないし本も読み出さない。
 あの時ああしていれば、の「ああ」として挙がる選択肢は、その時には可能性としても含まれていなくて、その場に漂ってもいない。
 必ず、その場では起こり得ない物事が「ああ」として思われる。
 ペンコは泣きそうなのか怒っているのか、震えた声で「ごめん」と呟いた。
 数秒に感じられる一瞬の間があり、「うん、私もごめんなさい」とあたるちゃんは答える。
 彼女は身をよじって腕を伸ばし、足の上に投げ出されたあたるちゃんの手に触れた。
 顔を伏せたペンコから涙がぽたぽた落ちているのが、私にだけ見えている。
 あたるちゃんは触れ合った手を注視していたし、私がつられて泣いてしまってはいけない。
 窓の開く音、どたどたと足音が続いて二人の声がする。
 続く音に私たちは音を立てずに急いで布団へ潜り込んだ。
 同じ布団の中にいるペンコは泣き声のまま「まじ?」と囁く。
 襖というのは意外にも遮音性が高いみたいだが、子犬がボウルの水を飲むような音は聞こえてきた。
 掛け布団を被ったままあたるちゃんも擦り寄ってきて、「ですよね?」と言った。
 私は「多分?」と答え、しーっと、暗闇で人差し指を立てる。
 私たちはそれぞれに対してかなり明け透けだったけれど、ささらに関しては免疫がないというか、そういった接点がないように思えて、三人ともが妙に緊張していた。
 普段なら、つまりこことよく似たつくりの自宅-割と広い部屋が隣り合っていて、互いに気がついている状況-で同じようなことが起こっても、それは私とクスノキだったり、ペンコとクスノキだったり、あたるちゃんと私だったり、クスノキとあたるちゃんだったり、ペンコとあたるちゃんだっり、その複合だったりするわけだけど、ある面では慣れてしまって「お」くらいで済むし、それでもやはり少しばかりは強張るが、これほどまでに慌てたりはしない。
 ペンコが唾液を飲み込む音が聞こえる。
 クスノキの聞いたことがない、私たちが発させたことのない声も聞こえた。
 三人ともが笑い出してしまいそうな気配がある。
 何が込み上げてきているのか、楽しくて堪らない気持ちになっていた。
 私たちの体温で布団の中は汗ばむほど暑い。
 少なくとも、ささらは私たちほど気にしないはずがなくて、今すぐ眠ってしまいたくもあった。
 二人が今どんな体勢なのかは分からないけれど、誰が何をしているのかは確信がもてる。
 私にとって、音から想像される像にはいつもあまり立体感がない。
 局所的な映像が浮かぶというのか、さっき聞いた足音だって、縁側や畳の上に並ぶ四つの足、それも膝から下しか浮かんでこなかった。
 シネマスコープみたいな形で、常に上下が断ち切られている。
 私には今、どうにかして咥え込んだささらの口元と、どうやってか彼女の中に入った指先だけが自動的に出力されていた。
 もう誰も、何も言わない。
 私たちは体を縮こめ、ほとんど一つの布団に包まって息を潜める。
「ゴムある?」とささら。
「持ってきてるわけないだろ」とクスノキ。
「んじゃー、待ってて」と立ち上がる音が聞こえる。
 意味もないのに瞼を強く閉じ、不自然にならないよう頭を外に出した。
 静かに襖が開き、擦れた音がする。
 足元に冷ややかでぬるい風が過ぎ、多分、彼女は膝をついた。
「あったかなー」と独り言が聞こえ、「ペンコが持ってた」とクスノキが声をかける。
 私たちは一斉に心臓が跳ねた、はずだ。
「あ、そうなの、じゃあ、ごめん一個もらうねー」と、ふぁさふぁさした、誰かへ向けたような響きも独り言の響きもない声で言った。
 ペンコは体をびくつかせ、それは真横の私だから気が付く程度だったけれど、私もどきりと弾む。
「寒過ぎない?」、と言いながら襖が閉じ、私たちは瞼を開けて小さく長く息を吐いた。
 二人の音を聞きたい、というより、何がしかの音が私たちが起きていたことを露呈してしまう何かへ繋がりはしないか、と聞き耳が立っている。
 だからこの数ヶ月で聞き慣れた、隣室からの性行為の音との差に、この音を聞いてみたいという方へシフトしてしまいそうになった。
 よくある表現、それは映像的にも文章的にも、「獣のような」というのがあって、二人の吐息はまさにそういった類だ。
 声を省けば、多分、クスノキは今下で、ささらが上、お互いそれほど激しいストロークではないはずで、だから声の獣性は行為の程度とはあまり関係がなさそうだった。
 ここに至るまでの、二人に内在された、こうはならなかった時空を押しのけた何かが獣性そのものか、内在していた。
 そうだからかどうか、あたるちゃんの手に触れたりペンコの匂いを感じたりした時のように、私の欲望が刺激されることはなかった。
 まだ気が張っていたから、私に考えられたあれこれの成否は全く分からない。
 誰かが感受しなくても存在するものを感受して発展させるから、私はここにだけいて、それはしかし私の存在する理由ではないことと両立した。
 ペンコは私のTシャツの左袖を握り込んでいて、もう涙の気配はない、つまり湿り気がなくなった。
 鼻先が左肩について、呼吸のたびにそこだけしっとりと重みを増す。
 あたるちゃんの手は私の下着の中にするりと入ってきて、反射的に、そうか彼女は二人に刺激を受ける側だった、と思い出すように思った。
 私が彼女に畏れに近いものを感じていたのは、今隣の部屋に満ちている獣性のようなものの一端に触れたか全容が透けて見えたからだ。多分。
 右肩にのった彼女の表情は見ることができない。
 瞼を閉じたままか、開いていたとしても何も見ていなそうな、とにかく集中しているような雰囲気はあった。
 合わせていた膝を開き、少しだけ掛け布団の下に空間が生まれる。
 彼女の手の動きはそれで分からなくなって、しかし大体同じ布の下にいて、勘のいいペンコがいつ気付くだろうか。
 私の体もあたるちゃんもそんなことは構わないらしく、粘度も指の動き方も増していく。
 耳の裏の窪みから首へかけて熱がこもっていくのが分かる。
「起きてる?」とペンコが囁いて、いくつも合わさって体が跳ねた。
「起きてる起きてる」と掠れた声で答え、どうしたの?、と訊ねる。
「ううん、あたるは?」
「起きてますよ」
 私はむしろもうばれたかったし、いつもならそれで良かった。
 多分、今日のペンコは不機嫌になるし、そうなるとさっきまでの言い合いがぶり返してしまいそうだった。
 それで音が立つかも知れず、私はそろそろと両膝を立てようとするがあたるちゃんの左足首で静止される。
 私は舌の両脇を奥歯で噛んだ。
「ただのかくにーん」とペンコは言って、くるっと背中を向ける。
 さっきまで私たちは三人で一塊だったから大丈夫だったけれど、離れてしまえば彼女は気付くのではないだろうか。
 あたるちゃんはここぞとばかりに指を器用に動かせる。
 私は胸のあたりに冷たさを感じて、それは彼女の唾液だった。
 どれだけ集中していたんだ、と笑ったのは次の日だから、そのときには何もない。
 せめてペンコが眠ったのが分かるまで我慢しようと思ったが、無駄だった。
 へその辺りまで熱くなって、すぐに冷えていく。
 彼女は消え入る声で「はい」と囁いて背を向けた。
 私にはもう隣室の物音は聞こえていなくて、頭の中で鼓動が、手足は緊張したまま強張っている。
 瞼を閉じて開けば朝だ。

 眠った気がしないし、年を跨いだ気もしない。
 私だけが布団にいて、広げられた布団も私のだけだ。
 上半身を起こし、首をひねりながら背中を伸ばす。
 布団には飛んでないが、Tシャツや下着は駄目だ。
 気配からするとみんな隣にいて、そーっと起き上がってザックから下着とフーディを取り出す。
 廊下に面したガラス戸をこれ以上ないくらい静かに引き、脱衣所へ向かう。
 状況としては違うが状態は同じで、中学生の頃の朝を思い出した。
 ちょろちょろと流した水で洗い終え、洗濯機の中へ放り込む。
 ついでに洗顔やら化粧水やら何やら済ませてしまう。
 スペースを出て曲がったところにあたるちゃんが立っていて、くすくす笑って踵を返した。
 先導されるまま奥の和室へ、おはよー、と声を掛け合う。
「あれ、もう着替えてる、あ、下はまだか」とささら。
「もう出るの?」
「いや、もうみんな出れるは出れるけど、初詣!、忘れてたから」
「着替えるよ」
 また隣へ移動して服を着替える。
 少し張って「近いの?」と声をかけた。
「結構近ーい」とのことで、上はそのままで穿き替える。
 居間に戻ってペンコとあたるちゃんの間に腰を下ろし、そういえばあったテレビをみんなと同じように眺めた。
 机の向こうで並んで背中を向けたクスノキとささらは、昨日のあれは幻だったのか、特段いつもと違った態度でない。

 空全体に薄く雲が広がっている。
 私たちはサイコロの五の目のように歩いていた。
 ささらとクスノキを先頭に、真ん中にペンコ、後ろ二つをあたるちゃんと私。
 それぞれの間隔は伸び縮みして、十五分ほどの道のりを進んでいく。
「大丈夫でした?」と言うあたるちゃんの意地悪さは自然だった。
 彼女はぼてっとしたMA-1のポケットに手を突っ込んでいる。
「まあ、何か色々、ばれなくて良かったよ」
 一体彼女の今日の自然さは何だろう。
 歩き出すとささらたちの距離はいつもより近いようにも見えたし、私はふくふくとした気持ちで、思いのほか寒い外気の中でも気分がよかった。
 ペンコはくるくる回ったりしながらも黙って歩いている。
 たまに私たちを振り返って「遅いよー」と言うくらいだ。
 全身が硬直していたからか、腰の怠さがまだ残っていた。
 冷ややかさを感じた後に若干の暖かさがある海風を抜けていく。
 二人の笑い声が風に巻かれ、いくつかの方向から聞こえてきた。

 しばらく歩くと-二十分くらいかな-遠目に明るく白い鳥居が見えてくる。
 鎮守社だろう。
 鳥居と賽銭箱、本殿と呼べばいいのか幣殿と呼べばいいのか、とにかく、小さな社がある。
 手水舎もなく、寛容な神なのだろうか、私たちは順に小銭を入れ、錆びた鈴を鳴らした。
 意外に涼やかな音がして、寒さが一段増したようだ。
 鳥居の真新しさに対し、社はかなり古びていて、しかし崩れた箇所はない。
 押し黙ったまま手を合わせ、ペンコとささらが最後まで残った。
 私は一番初めに参拝を終え、すぐそこのカードレールに腰掛ける。
 背後、数メートル下の方に海があって、自由自在に動き回っていた。
 ここまで難なく会話していたから、みんなが黙ると波の音が騒がしい。
 煙草をくわえ、こちらへ向かうクスノキへ手を挙げる。
「火あるか」
「うん、ちょっと待ってね」
 あたるちゃんは私たちの間へ、そのすぐ後に二人が頭を上げて振り返る。
「つぐみ寒くない?」と、歩いてくるささらが言う。
「まあまあ」と答える。
 帰り道は下り坂となって、行きの七割くらいで帰った。


PENCO.26

 一人当たり十五個くらい稲荷寿司を食べ、三回から四回取り分けて鍋を平らげた。
 誰も一言も発さずに寝転がったまま、ただ煙草を吸うだけの生き物だ。
 左手の指先がペンコの右手でいじくられている。
 動きと言えばそれと灰を落とすために体を起こすくらいで、降る雪と同じくらい静かな時間だった。

 薪ストーブと鍋で暖まった体にアルコールが巡っているのが分かる。
 さすがに顔を赤くしたささら以外、泥酔に近い。
 耳のそばに心臓が置かれていた。

 どれくらいそうしていたのか、ばっと立ち上がったささらに声が出そうなるくらい驚いた。
「今日は疲れたでしょー」と言いながら奥へ、床の間の横にある押し入れから敷布団やらを出してくれた。
 ストーブのある部屋、窓側に二組、廊下側に三組、生成りのカバーのかかった布団が敷かれていく。
 クスノキは一組目が用意された時点で立ち上がり、ゆらゆらと歩いていった。
 私とあたるちゃんは洗面所で顔だけ洗ってから部屋へ入る。
 当然クスノキはもう眠っていて、ささらはお酒を、ペンコはお茶か何かを飲んでいた。
「おやすみなさーい」と、あたるちゃんはクスノキの隣の布団へ、私はとりあえず部屋の境目の柱にもたれて座る。
「お水かお茶か、飲む?」
「お水欲しい」
「氷は」
「いらない」
 足取りも確かなささらを見ているともはや恐ろしい。
「強過ぎない?」とペンコが言って、私は深く頷く。
 はいどうぞー、とコップを受け取り、二口で飲み干した。
 一体何合飲んだのだろう。
 一本目の一升瓶はとっくに空いていて、三升は飲んでいないことは分かるのだけど。
「ペンコは、大丈夫?」
「私もお茶飲んでる」「くるくる」
「ささらは全く?」
「いや、酔ってはいるよ」「真っ直ぐには歩けない」
「そう?」
 それは絶対嘘だ。
 あたるちゃんとクスノキの寝息が聞こえてくる中、タイミングを逸した私たちは無駄に起きていた。
 歯磨きをしに三人で洗面所へ行って、そのまま寝ればいいものを、また卓袱台のところに戻ってしまう。
「明日は何しようか」とささらが言って、どうしよー、「したいこととかは?」、なんだろー、と無意に流れていく。

 細い薪を焼べに立ったささらに続き、私とペンコが移動したのは一時間半ばかり経った後だ。
 私たちは窓側の布団にもぐり込み、火に照らされたささらの横顔を見る。
「そっちで寝たい」とペンコは言って、私は左手で掛け布団を持ち上げた。
 転がってすぽっとはまって、ささらの笑い声が聞こえる。
「ささらは?」「寝ないの」
「シャワー浴びてから寝るよー」「おやすみ」
 私たちは返事をしたか、思い出せないくらいすぐに眠っていた。

 とてつもない量の鳴き声で目を覚ましたのは昼過ぎだ。
 左腕がひんやりと、感覚がほとんどない。
 首だけ起こして見回すが、まだ誰も起きていなかったし、鳴き声の主もいない。
 そろそろと腕を引き抜き、身震いしながら火を熾す。
 和室というのはこれほど底冷えするものなのか。

 安定した火をつくるのに苦戦して、布団へ戻るとペンコが起きた。
「おはよー」
「声やばいね」
「飲み過ぎだー」
 私は肘をついて彼女を見下ろす。
 ペンコのこしょこしょした声は、遠くに見える凪いだ海を思い起こさせた。
「意外と二日酔いじゃないよね?」
「そうかも、声だけー」
 鼻先が赤いと何歳も若く見えるが、どういう関係があるのだろうか。
 耳と口で話しているみたいに近い。
「みんなは?」
「まだ寝てるみたい」「クスノキは間違いなく寝てる」
 轟くようないびきに笑い合って、ついでに合った目が、自然に唇へ滑る。
 同時に首を伸ばし、意外に冷たい唇を感じた。
「旅行だー」とペンコは呟くけれど、そうかな。
「そうかな?」
「うん、なんかそんな感じ」「ベルトくらい外して寝なよ」
「そっちこそ」
「あれ」
 お互いの冷え切った手が下腹部へ至る。
「お腹壊しそう」とペンコが笑って、私の中に、おどける彼女を黙らせたい欲求が湧いた。
「ね」と言って、指はもう熱くてぐちゃぐちゃした中に沈んでいく。
 指先を曲げて手前へ、体に寄せるように手首を動かした。
 下唇を噛んで黙ったペンコに、私は暴力的な欲望を抱いていた。
 奥歯を噛み締め、彼女の手の動きと自分自身の衝動を我慢する。
 二人とも声は抑えていたけれど、泥泥した音がくぐもって響いていた。

「あー駄目だ」とペンコ。
 私は徐々に動きを緩め、ぐだっとした彼女から指を離す。
 揃ってばたんと仰向けに、深いため息をついた。
 足で掛け布団を蹴っ飛ばし、「あっつい」と洩らす。
 Tシャツの内側で指先を拭い、「雪止んだね」と声をかけた。
「うん?、あ、ほんとだ」
 ひねった首を起点にくるっと、肘をついて仰向けになった。
 私は起き上がってあぐらをかき、ペンコの肩に右手をのせる。
「我慢できるもんなの?」
「え、あ、セックス?」
「それもだけど、出してないじゃん」
「今はわああってなってるけど、しばらくすれば落ち着くよ」
「そういうことじゃなくて」
「落ち着かせていいのって?」
「そう」
「や、まあ、私だけのことじゃないし」
「ふーん」と、感情の読めない声で言う。
 私は姿勢を低く、小さな声で「ここでしよう」と返す。
 にやっと笑ったペンコは立ち上がり、見事な忍び足でストーブのそばへ。
 しゃがみんこんでがさごそとザックを漁る。
 振り返って三人を見やるが、起きてくる気配はない。

 ペンコが戻ってきて布団を頭から被る。
 膝までパンツを脱いで、彼女がコンドームをつけた。
 それぞれの角度的に、後ろから挿れることにして、その方がもしもの時に都合が良さそうではあった。
 根元まで埋め、右肩に顎をつけて息を吐く。
 長い間どちらも身じろぎせず、私の痙攣したような、ペンコの伸縮したような、互いの体の働きへ意識を向けた。
 ぎがっ、と音がして、一気に収縮する。
 私たちは顔を起こし、クスノキの様子を注視した。
 最初に弛緩して、それから彼女は顔を下ろす。
 体は判断の先にあった。
 私は打ち付けないように躙り寄るみたいに動き始める。
 ペンコは私の親指の付け根を噛み、私はその痛みへ集中した。
 頭の中で、明らかに焼き切れそうなほど熱くなっている部分がある。
 柔らかさや湿った温かさが、一部ではなくて全身で感じられた。

 誰かが少しでも動くたびに私たちは止まって、呼吸を整えた。

 どれくらいの時間そうしていたのか。
 その直後はもちろん、今でも正確には分からない。
 腰まで布団を下げて深呼吸を繰り返す。
 体を巡る空気が冷えていたということは、薪ストーブは消えていたのか。
「あ、やば。生理きたかも」とペンコが立ち上がり、私は微睡んだまま片目で彼女を見上げる。
「まだ起きてて」と言いながらどこかへ。
 すぐに戻ってきて「ゴム」と一言、私は急いで取ったコンドームを結んで渡す。
 私は自信がなくて体を起こして待った。
 尾骶骨からポールが伸びているみたいに上半身がくるくる回っている。

「大丈夫?」
「うん、まだ何も」
「痛み止めとか、ナプキンとかあるの?」
「うん、一応」「旅行中にくるはずではあったから」
「なんか、そういうのあんのかな、刺激されてホルモンのバランスがどうとか」
「多分あると思う、前にもあったし」
「そう、あ、マフラー巻いて寝る?」
「ううん大丈夫、寝よ、もう無理」
「賛成」
 私たちはほとんど母音だけで話していた。
 どちらも瞼を開けていられなかったし、火を熾す気力もマフラーを取りに行く気力もなかった。

 目覚めるとペンコの他には誰もいなくて、割と大きめの火を抱えたストーブと、床の間の前に積まれた布団があった。
 三人は隣の部屋で卓袱台を囲んでいて-コンロがついていたから-雑炊か何かを食べている。
 体を起こし、彼女を起こさないように布団を出た。
「あー、おはよう」
「おはよう。いつ起きたの?」
「いつって、もう昼過ぎてるよ」
 ささらとあたるちゃんの間に腰を下ろす。
「おはようございます」「おはよう。まじかー」
「雑炊食べる?」
「食べたいな」
 溶けた雪で光った垣根と、遠くまで伸びた青空が早朝にしか見えなかった。
「あとでコーヒー淹れて」と、私とあたるちゃんへ向けて言う。
 食べ始める前に仕切りを閉め、こちら側の窓を開けた。
 水気を含んだ冷たい風がゆっくりと流れ込む。
「私じゃあ淹れてきます」
「ありがとー、なんでも使っていいから」
「はい」
 クスノキは煙草に火をつけ、後ろ手で体を支える。
「いいとこだね」
「でしょ」「ぼーっとするのも考え事するのにもいい」
「結構こっちにいるの?」
「ちょうど半々かなー」
 コーヒー豆が砕かれる音が届く。
 ささらを除く四人は、もうこの家に馴染んでいるようだ。

 雑炊を二杯食べ、あたるちゃんの淹れてくれたコーヒーを飲む。
 すでに帰りたくなくて泣きそうだ。
「今日は天気良さそうだし、初詣行こうよ」とささら。
「近くにあるの?」
「ちょっと歩くけど」
「いいね」

 ペンコはそれから三十分後くらいに起き出した。
 私とささらの隙間に体をねじ込み、お腹空いたー、と、小さなあくびを繰り返す。
 暖かく湿った空気が勢いよく広がっていった。
「あれ、クスノキは?」
「何かちょっと歩いてくるって」
「あ、雑炊食べたい!」
「コンビニとか、行きたいところあったら車出すから」
「あー、じゃあ食べたらドラッグストアとコンビニ行きたい」
 私は一応クスノキへLINEを送って、裸足で縁側へ出てみる。
 煙草をくわえ、海の気配のある方へ体を向けた。
 何となく潮風のような匂いがあるけれど、実際どれくらい近くにあるのだろうか。
 火をつける頃に出てきたあたるちゃんは指を組んで体を伸ばし、ふぅ、と息を吐く。
 後ろに回したままの手で窓を閉め、「寒いけど気持ちいいですね」と言った。
「うん、四国でも全然違うね、寒さの質が」
「ですねえ、ざっくり南に進んでるのにどんどん寒い」
 煙は冬の景色によく合っていて、正しいことをしているような気分になる。
 窓越しに聞こえるペンコとささらの笑う声も今の光景と合っていて、私がここにいることを保証してくれているように思えた。
 素朴な晴々しさが湧いてきて、私はあたるちゃんへ笑いかけた。
 彼女も微笑んで、「朝、どうでした?」と、意地悪な表情へ変わる。
「ばれてた?」
「起きてましたよ」「間接的な仕返しです」
 私は何故こうもわくわくしているのだろうか。
「どんな感じ?」
「うーん、してみると楽しくなってきますけど、やっぱ、さあ今から言うぞ!みたいなのが必要です」
「ペンコはかなり自然だもんね」
 半分くらい吸った煙草を手渡す。
 私とペンコだけの時間だった朝が、あたるちゃんと接続されたことが嬉しいのだろうか?
 そうだとして、愛する人に「あった」時間を知られる、知られていたことを知らされることの、何がどう嬉しいのか。
 確かさを証明されたということなのかな。
「初詣なんて久々だなあ」と呟く。
 裂け目から現れたように煙が浮かんだ。
「私も、多分年変わってすぐ行く感じだよね」
「ぽいですね」
 あまりに広い空でたなびく雲へ目線が逸れる。
 差し出された煙草を受け取り、静かに深く吸い込んだ。
 足も手も悴んでいたけれど、なかなか動き出せないでいた。

 私とあたるちゃんは後部座席へ、ペンコは助手席に座って出発した。
 クスノキはまだ適当に歩くから、家に帰る頃に教えてくれ、とのことだった。
 最寄りのコンビニまでは十五分とかからない距離だったし、ドラッグストア-くすりのレディ-もすぐ近くにあった。
 どうしてそんなふうにしたのか、無駄にとしか思えないくねくねした道を進む。
 ペンコとささらは家から続いた話をしていて、私たちは黙って後ろに座っていた。
 あたるちゃんと私は不意に手を繋いで、何故かその繋ぎ目をぼんやり見ている。
 私はまだ、朝から連続した喜ばしさを考えていた。
 それは半分以上嘘だ。ただ勘が働くままにしていた。
 その都度、私たちを突き動かすものが必ず、体の外のどこかにある。
 そのものが予想されることはないし、兆しをちらつかせたもりしない。
 ただどこかにそのままあって、私たちが発見するのを、待ってもいない。
 汗ばんでくる手のひらに、簡単に情欲が湧いてくる。
 ささらは「夜何食べたい?」、と振り向いて、一瞬だけ目線を下に落とした。
 続く言葉は私たちが発するはずなのに、微妙な間にペンコが振り返る。
「あー」と、顔の右側で笑って、「また鍋でもいいなー」と前を向いた。
「私も鍋、か焼肉」
「お寿司食べたいです」
「焼肉こないだ食べたじゃん」
「お寿司かー、どこも開いてないかもしれない」
「じゃあ、スーパー行って考えよう」
 人差し指の先で手のひらをなぞる。
 あたるちゃんは少し体をびくつかせ、瞼を細めて私を見た。
 指と指の間、余ったような部分に彼女の薄い爪を感じる。
 ローソンに着くまで互いに弄って、エンジンが切られると疲れが押し寄せた。
 二人とも呼吸が浅くなっていたようで、外に出て息を吸うと胸の辺りがぴりぴり痛んだ。
 ドアを閉め、二枚のリアガラス越しに目が離れない。
 横腹に衝撃が、ペンコのタックルで、私は何とか持ち堪える。
「いちゃつきすぎ」と笑う声音で言われ、店内へ。
 スーパーへ行くのを加味すると何も欲しいものはなかった。
 どの棚も二回ずつ見て一足先に店の外へ、煙草を吸って三人を待つ。
 ガラス越しに三人を見ていると三姉妹のように見えた。
 ペンコが長女でささらが次女、あたるちゃんは末っ子か次女らしいが、ペンコとささらは長女と次女以外にはありえない。
 どのポジションにも特別な印象もないけれど、一度思われるとそれで固まった。
 煙草は冬にだけ吸えばいいのかもしれない。
 手の中に収まりそうな小さな鳥が飛び去っていく。
 甲高い鳴き声に応える鳥もいないし、そもそも周囲に鳥類がいないから、私へ向けて何か言ったのだろうか。
 あたるちゃんが先に出てきて、「クスノキくんもいたら良かったね」と言った。

 すぐそこのドラッグストア、入り口から散り散りに見て回る。
 かなり広い店内だったけれど、一周歩くうちには三人の姿を見かけなかった。
 私は空のカゴを持ったまま、誰ともなく探し歩いている。

 ペンコを生理用品のコーナーで発見し、彼女も私を見つけた。
「いいのあった?」と、よく分からないことを言いながら近づいていく。
「いつも使ってるのないし何かせっかくだから、と思ったけどない」
 私は一つを手に取る。
 周期的に日々使うものにしてはバリエーションの多い割に、裏面の説明で理解できる違いがそれほどない。
「ありえないくらい買う気しなくない?」とペンコは言った。
「まあ、ジャケ買い的なのはないよね」
 二人で、というか主に私が「これは?」と、あれこれ手にしてみる。

 車へ乗り込む前にクスノキへ連絡する。
 縁側に座って待ってる、らしく、ささらへ伝えると「鍵かかってないからどうぞー」と言った。
 私はそれを送って、ドアを開く。

 スーパーはレディから十分もかからない場所にあって、長辺はIKEAとかCOSTCOくらい長い。
 奥行きが短いからか、中へ入るとそれほど広くは思わないけれど、それにしたって、あれこれ買い集めていくと疲れることもできる。
 カートを押す私の周りを三人がぐるぐる入れ替わっていく。
「だんだん焼肉の口になってきた」とペンコ。
「一応グリルはあるよ」
「お寿司よりお肉かも、でもちょっとお魚も食べたいです」
「私は何でも良くなってきたな、何か干物買って一緒に焼く?」
「あ、それでいいかも」
 じゃお肉屋さん行こう、とここでは野菜やら干物やらタレやら、肉以外の何やかやを買っていく。
 私はささらに背中を押されるままに進んでいった。

 ささらがこの土地でカングーを選んだのは正解だ。
 行きと同じく快適な車内のまま帰り道を辿る。
 カーブか多いからか、別に覚える意識もなく通ったからか、同じ道なのに全く記憶にない。
 今度はあたるちゃんが前で、ペンコと私が後ろだった。
 ペンコは私側にある海を見つめている。
 遠くに岩の群れが合って、風に煽られた海鳥がその先端に、体は休まるのだろうか、それで?
 二人はあたるちゃんの撮る写真の話をしていた。
 私はこの数ヶ月、彼女がカメラを持っていること、そのレンズが私たちに向けられることを気にしなくなっていた。
 気が付いたらシャッターを押した後だった、というのが多いこともあるだろうけれど、とにかく、そのものも動作も、彼女にぴたっと寄り添っていて、あくびで開いた口を左手で抑えるのや、笑うとできる目尻の皺というよりも横線や、歩いていると左へ傾いていくのや、それと同じだ。
「残したい!っていうか撮りたい!しかないかもしれません」
「向いてんじゃない?」
 真ん中の席に詰めてきたペンコが肩に頭をもたせかける。
「無駄なことしてる気になってくる?」
「はい、ささらさんもありますか?」
 私たちは黙って海を眺める。
「もちろんあるよ」
「もうお皿なんてこの世にいらないじゃん?」
「数的にはそうかもしれません」
「木切って焼いてさ、朝から晩までどろどろで、そんなことまでしてする意味なんてないでしょ?」
「うーん」
 いつもより濃いペンコの匂いがする。
 私は何故こうも容易く欲情してしまうのだろう。
 クスノキやあたるちゃんやペンコに対して、何かを我慢することが難しい。
「二人とも、残したいって気持ちが強ければ、何か意味付けできたかもしれませんね」
「ね、でも、いらないと思うなー」
 どこかを左折して、別の町へ辿り着く。
 多分、駅に近づいているのだろう。
 ペンコはいつからか眠っていて、小さな声で何か言っている。
 長い寝言を聞いたのは初めて、返事しそうに、頭の重さから眠っているのだろうと黙ったが、それで良かった。
「たまたま、誰にでもできることじゃないことで、その中で好きんなったのが何も残んないことなだけだし、そうじゃない可能性もいつかまではあったんだろうし、てかこの先にもあるし、今はそうなってるって、それだけ」
「やりたいこと以外続けられない人でしょ」
「そうですね、きっと。意識したことないけど、思い出してみるとそうだった気がします」
「うん、何しててもあーって思うことあるけど、あーって思う時間ごと好きかもなーってことから選ぶしかないよね」
「そうですね、しかも選べないし」
「そうそう、今これ以外にしたいことなかったらそれをするしかないなーって」
「うん」
「あーってなってそれもしなくなるのは何か悪いじゃん」
「何に対してですか?」
「自分。今日はいっぱい働いて疲れたから甘いもの食べるぞーとか、明日は休みだからずっと行きたかったとこ行こーとか、そういうのも超大事だけど、何か実際それって別に自分を大事にしてるわけでもない気がして」
「そう言われるとそんな気がします、そういう、息抜きみたいなことの方がその、私が聞いたみたいなもっと不特定な何かを納得させるものっていうか」
 ぐらぐら揺れる頭は、どうやって支えるべきなのか。
 どこに触れても起こしてしまいそうで、肩の角度やお尻の位置で調整するしかない。
「こんな、わたしのざっくりした話が通じる時点であたるはわたし側の人だと思うけど、ま、年上の戯言だと思って聞き流してて」
 片側二車線の道路脇には大抵の店が揃っている。
 お、と思うようなところはないけれど、生活するには事足りるし、気になるような店もちらほらとあった。
「どっか、コーヒーでも飲んで休憩しよっか」とささらが振り返り、私は小さく頷く。

 見たこともないくらい巨大なアーケード街の近くに車を停め、私たちは車を出る。
 ペンコはしばらくぐずるように引っ付いていたけれど、しばらくするとはしゃいでいた。
 ほとんどの店はシャッターを降ろしていたが開放感がある。
 住宅街へ伸びる交差点に建った喫茶店へ入った。
 外壁が道に沿ってカットされていて、同じように角の多い店内、正八角形を半分に切ったみたいだ。
「いらっしゃい、お、久しぶり」と、カウンターの内側にたった睫毛以外は真っ白な店主が言う。
「おじちゃーん、ごめんね最近忙しくて」
「仕事の?」と仰向けの手を私たちへ向ける。
「ううん、友達だよ」「上でもいい?」
「そうか、もちろん」「待っててねメニューとか持っていきますから」
「はーい」
 狭く急な階段を上がる。
 一階と同じつくりで、四人がけのテーブルが二つ、窓際に短いカウンターとスツールが二脚置いてある。
 下では扉があった位置に大きな窓がしつらえてあって、商店街やその奥に伸びていく住宅が見えた。
 右側のテーブルへつき、店主を待つ。
「いいとこそうだね」と私。
「ね」と向かいのあたるちゃんが言って「でしょ」とささら。
 きょろきょろしたペンコは「好きだなー」と囁く。
 わずかな音を立てて彼は上がってきた。
「お待たせしました。はい」
 お冷と細長いメニューが四セット、それぞれに配られる。
「ありがとう、浅いマンデリンって今日ある?」とささらは首を傾げる。
「ちょうど三日前に焼いたのがあるよ」
「やった、じゃあそれのホット一つ!」
 さーっと目を通した私も「あ、すみません私もそれでお願いします」と言った。
「私はアイスコーヒー、えー、コスタリカの中深でお願いします」
「どうしよー」
 ささらは「一緒のにする?」と声をかける。
「じゃあそうする!」
 彼は終始にこにこと、姪か娘を見るような表情でいた。


PENCO.25

 ホームはさっきまでと比較できないほどに寒い。
 全員が上着の前を閉め、体を寄せ合った。
 十分くらい前に返事があったささらは駅前にはいなくって、私たちは建物の中へ戻る。
 タクシーで向かうべきなのか走行中なのかが分からない。
「さっきはなんて?」とペンコが震えている。
「『OK!待っとくねー』って」「でもそれを忘れてるのか向かってくれてるのかは分かんない」
「電話も出ない?」
「今のところ」「既読もつかないね」
「十分くらい待ってみましょうか」
「そうだね」
「寒すぎるー!」
 クスノキは「やばいな」と身震いする。

 積もった雪が舞っているのだろうか。
 駅前の狭い道路が烟っている。
 SLや立った牛の像が見えるが、本当にそうなのかは分からない。
 タクシーや迎えの車が数台ちらほらあるだけで、私たちのような旅行者はあまり見当たらなかった。
 冬の宇和島というのはそれほどメジャーじゃないのかな。
 積雪量としては確かに松山の辺りと比べると少なかったけれど、冷気がさらに鋭く、それでいて滲むように増していく。
「あ、繋がった」
「あれ、もう着いてる?」
「着いたよ」
「ごめん、今から出る!、か、タクシーで来る?」
「じゃあこっちから向かうよ」
「ほんとごめんね、待ってる!」
「うん」「住所は昨日送ってくれたのであってるよね?」
「合ってる合ってる、今日はお鍋だよー!」
「ありがとー、じゃあ後ほど」
「はーい」
「なんて?」
「今から出るっぽいからタクシーでこっちから行こう」
「そうしましょう」

 小刻みに震えながら外へ、一番初めに目についたタクシーへ乗り込む。
 私は助手席で、住所を告げて所要時間を訊ねた。
 後ろで三人は一塊になっていて、特に真ん中のペンコは顔色すら悪く見える。
「ペンコ大丈夫?」
「ぎり大丈夫、じゃない」
「じゃないんだ」「割とすぐ着くみたいよ」

 広々とした道路脇に、椰子の木がすらーっと並んでいる。
 その景色に「おお」とも思うが、雪と相俟って不思議な光景だったし、これが初めての宇和島で見る景色としてはあまりに印象的だった。
 何となくカーブが多いような、ぐわんぐわん車体が揺れている。
 ささらは「食べられないものある?三人に」とLINEを寄越していて、私はまた振り返って声をかけた。
 誰も鍋に入れそうなもので食べられないものはなく、その旨を伝える。
 私は「今日は鍋だってさ」と、前を向いたまま言う。
 長いあいだ車内で待機しているからといっても薄着なドライバーがちらっと私を見、「何鍋?」とペンコが答えた。
「何だろう、聞いてみる」
「鍋って聞くだけでちょっとあったかいな」とクスノキが言って、そうかな、と思いつつ、見えもしないのにとりあえず頷く。
「クエだって」
「クエ?」
「魚ですね」
「でかいやつだろ?」
 ペンコの声だけは揺れたまま、あたるちゃんもクスノキも少しは暖まったようだ。
 私ももうマフラーも取って前を開けていた。
 ささらから送られてきた写真のせいか、そのものを見たわけではないけれど、町に対して懐かしさのような、既視感とは違った感慨があった。
 もう忘れてしまった思い出を、話して聞かされたときと似ていた。
 クスノキが大きな欠伸をして、私に移る、そうしてペンコが小さく欠伸して、あたるちゃんへ移る。
 通り過ぎていく町並みに、きっとずっと家の中やその周囲にいるのだろう、と予想が立てられた。
 それはそれで、私は良かった。
 この旅行を楽しみにし過ぎているようにも見えたペンコやあたるちゃんは、それで大丈夫かな。
 瞼を閉じているのは、まだ寒いのか車酔いしたのか。
「じき着くよー」と、後ろへ声をかける。
「腹減った」とクスノキ。
「今日はお酒飲みたいですねー」とあたるちゃん。
「ストーブとかあるかな」とペンコ。

 ささらの家は、標準的な、と言いたい平家で、生垣から家屋までに広いスペースが確保されている。
 左手の縁側の前には木材が積まれていて、右手にはうっすら雪の積もった燻んだ黄色のカングーが停まっていた。
 藤富、という表札に立ちすくむほど時間の流れを感じる。
 彼女の手を取って、その甲へ頬をつけたい。

 何か音を聞きつけたのか、彼女は戸を開けて「早いじゃん」と、薄手のセーターのまま私たちの元へ歩み寄る。
 小さな荷物、私とペンコのザックを手に、さあさあさあ、と先導した。

 横長の小ぶりな土間で靴を脱ぎ、敷居を跨いだ時点で気付かれた暖かい空間へ、ペンコはほとんど走り出していて、熱源へ向かっていった。
 玄関から伸びる細長い廊下の左右にいくつか部屋がある。
 入ってすぐ右手に台所、その前には溜まりのように広がりがあって、小さな机と二脚の椅子。
 その向かいは広い、十三畳あるのだろうが、詳しいことは全く分からない。
 この家とセットみたいな卓袱台があり、座布団は一枚もなかった。
 多分、本来であれば襖があるのだろう、その部屋から廊下と並走するように奥へ、半分くらいの広さの部屋が続いている。
 だから今は、宴会場か修学旅行先の寝床のように広い。
 板の間には掛け軸があり、雪山と何らかの鳥が描かれている。
 そのそばには何故か、割と大きな薪ストーブがあって、足の下には小さな四角形の板が、畳のために?、敷かれていた。
 ペンコはそのそばにうずくまって震えている。
「ごめんね、ちょっと勘違いしてた」と、荷物を彼女のそばへ降ろしながら言った。
「や、タクシーすぐ乗れたし、大丈夫」
「お久しぶりです」
「あたるー、元気だった?」
「うん、元気です、ささらさんも?」
「超元気、あ、できてるよ」
「お鍋?」
「違う違う、二人のお皿」
「あ、やったー!」
「わーい」とペンコは立ち上がり、その勢いのまま厚手のコートを脱いだ。
「ペンコも元気そうね」
「元気だよ、あ、今みんなで暮らしてるの知ってる?」
「あ、言ってなかった」
「みんな?」
「そう!、私とあたるの住所が変わりましたー」
「クスノキは?」
「いや、俺は前のまま」
「うん、いいじゃん」「どう?」
「楽しいですよ、毎日」
「何か変わった?」
 あまりに広い部屋の中、誰もがストーブの脇に立ったまま、ちょこちょこと動いている。
「どうかなー、生活的には変わんないかも」「ね?」
「そうですねえ、意識的になんかこう締まった感じが、ありますけど」
「うん」
 そうこうしている内にクスノキが板の間の前に腰を下ろし、見上げる目線で私たちを促した。
 ペンコは当然ストーブの真ん前に座り込んで、一人分あけてクスノキ側へあたるちゃん、向かい合うように私とささらがぺたんと座った。
 私は斜め後ろから、あたるちゃんとペンコと話すささらの横顔を眺めている。
 私は、自分自身が知覚していたよりも彼女に会いたがっていたようだ。
 ささらは私の視線に気が付いていて、時折、唇の端でだけ笑った顔を向ける。
 私はその度、ささらのこれから先の幸福を願わずにはいられない。

 一時間ほどゆっくりしてからか、あたるちゃんと私はささらと一緒に台所に立って、クエ鍋の準備を進める。
 クエの処理は終わっていたから、出汁をあたるちゃん、野菜やキノコを私が切る。
 ささらは洗い物を済ませ、小ぶりな稲荷寿司を用意していた。
 彼女はお猪口で何かを飲んでいて、しばらくすると私たちにも勧めた。
「宇和島のってわけじゃないけど、愛媛の日本酒だよー」
「相変わらず飲み続けてるね」
「まあねー」
「あたるちゃん飲む?」
「いただきます」
「じゃあ、私も」
 ささらの使っているお猪口も可愛いけれど、私たちに配られたのもぽてっと可愛い。
 折り曲げた手の窪みにぴったりで、これを持っていたくて酒が進みそうだった。
「美味しい」と眉を上げたあたるちゃんの口へ、ささらは稲荷寿司を食べさせる。
 一言、やば、と言ってもぐもぐしていた。
「飲みやすいね」
「うん、その割に味の情報量多くて楽しいです」
「私もいなりちょうだい」
 ウォルナット材くらい色の濃い稲荷寿司はもちろん美味しい。
 中は酢飯で、油揚げの厚みや柔らかさも完璧だ。
 合わせた日本酒と違って、出汁の後味が強く広がっていく。
「この組み合わせはもう、危ないね」
「でしょ」「最近は結構こればっか食べてる」
「クエ鍋も?」
「クエは、レアだね」「お魚自体は割ともらえるんだけど」
「お仕事は、年末年始は完全に休みなんですか?」
「そうだねー工場が閉まるから、何か作りたくならない限りは休み」
 温かい出汁の匂いが部屋に広がっていく。
 手際良く灰汁を取り除くあたるちゃんと日本酒を飲み続けるささらに挟まれ、白菜と春菊をざくざく切って舞茸としめじをほぐす。
 開け放たれた戸からは二人の姿は見えない。
 私は廊下に出てペンコとクスノキを窺う。
 柱にもたれたクスノキは瞼を閉じたまま煙草を吸っていて、やけに馴染んでいた。
 ペンコはさっき見たままの姿勢で-うつ伏せで肘をついたまま-何かを読んでいる。
「つぐみー」とささらの声、ペンコと私は多分、同時に顔を向けた。
 返事をする前に顔を戻すと目が合ったから、きっとそうだ。
 手招きして踵を返す。
 小走りくらいでやってきたペンコと台所へ戻った。
「いい匂い」
「もうできるよ」
「あ、ペンコも飲む?」と、ささらがお猪口を掲げる。
「三人でずるー」
「ほら、これもあげるから」
 彼女は悶えるように堪能し、そのまま後ろの椅子に腰掛けた。

「煙草吸っていい?」とペンコ。
「あれ、灰皿渡さなか、あ、こっちでね」
「うん!」
「じゃー、これ」と、深い赤でごつごつした手のひらサイズのお皿を渡す。
「ささらは?今は」
「吸うー」、にやっと笑って振り返ったささらにペンコが抱きついた。

 薄い卓上コンロと歪で深い土鍋を持って、卓袱台のある方の部屋へ移動する。
 私は野菜を盛った木製のザルを、あたるちゃんんは丸くて大きな陶器のお皿のクエを、それぞれ手にしていた。
 ささらとペンコはコップやお猪口、一升瓶と緑茶も持っていた。
 それで私は、ここでのささらの荷物の少なさにようやく気が付いた。
「なんか、もの少なくない?」
「え?」と彼女は体を向ける。
「あ、ああ、職場の近くにワンルーム借りてて、大体そっちにある」
「ああ、なるほど」「本すらないもんね」
「そうそう」
 クスノキが卓上へ置いたあれこれを整理していく。
 ぽとぽと落ちるように雪が降っている。
 それぞれに腰を落ち着けて、私は稲荷寿司の載った楕円で平坦なお皿を取りに立った。
 背後から「あ、ごめーん」とささらの声を聞きながら台所へ。
 あらゆる物の配置が家とは違っていて-どれくらいの時間、彼女がこっちで過ごしているのかは分からないけれど-ささらの輪郭が濃くなったように思う。

 私が戻ると、鍋に蓋がされ、待つだけとなっていた。
 稲荷寿司と茗荷を酢でつけたのを摘みつつ、五人がお猪口を傾ける。
 他の三人だっていつもに比べればかなり早いペースで飲んではいたけれど、ささらとあたるちゃんのペースは尋常じゃない。
 互いの近況を、だからようやっと会話らしい会話が聞こえてくる。
 私は片手を後ろにつき、たまに鍋の灰汁を取りながら四人を眺めていた。


PENCO.24

 食べ終えるまで、どうあればバーベキューで、なんならそうじゃないのかを口々に、みんなにやけていたから誰一人-当然だけど-真剣には考えていない。
 鍋やホットプレートを囲んで食事を摂っているときにも起こったことだから、多分そうやって一つの器、と言っていいのか、そこからそれぞれの小皿へ、口へ、と。その隙間を縫って結びつけるみたいに、くだらない会話が続いていく。そういう話をしたい気分になりやすい。
 というか、そういう会話をしたい気分の日に限って、何かを囲んで食事を摂る。というより、そういった会話が広がっていった過去のいくつもの食事から、任意で、その日の夕食なり朝食なり昼食なりが欲望されていく。

 食後に薄いアイスコーヒーを二つ、重いホットを二つ淹れる。
 クスノキ以外の三人でソファに収まり、彼は煙草を吸いつつ燃え殻を眺めていた。

 その日の夜は短い。

 みんなペンコに揺さぶられて目を覚まし、昼までに家を出た。
 いつぶりかの東京駅だ、混雑した構内をきびきび歩き、改札を抜けてから駅弁や飲み物を調達する。
 私とあたるちゃんは眠たいまま、それには明確に理由があった、元気そうなクスノキとペンコへついていった。

 四人中三人が幕の内弁当で、クスノキは稲荷寿司と缶ビールを選んでいた。
 彼は二人がけのシートに座っていて、その隣は同じような図体の、しかしスーツを着た男だった。
 通路側から私、あたるちゃん、ペンコの順で腰掛け、新横浜辺りでもう飽きていた。
「耳気持ち悪い」と言ってからペンコは黙っていて、私とクスノキもしょっちゅう煙草を吸いに立った。

 京都へ差し掛かり、その少し前からクスノキは隣の男と何かを話している。
 笑い声や各会話の第一声だけが聞き取れたが、新幹線の隣り合った初対面でそんな声量の会話をするだろうか?

 やけに静かだ。
 ペンコはどこかから眠っていて、私とあたるちゃんは集中しきれないまま本を読んでいた。
 誰かに朗読してもらえれば、もう少しは意味が結びつきそうだ。

 車内販売のカートからポッキーとコーヒーを買って、それからあたるちゃんへ声をかける。
「あ、じゃあ私もコーヒー」
「もうひとつお願いします」とテーブルの上のカップを指さした。
 クスノキ、たちと言う方が正しいか、彼らはつまみと缶ビールを買い足して、それから先も何かぶつぶつと盛り上がっていた。
 私には、新神戸を過ぎてからの記憶がない。

 岡山駅を出る頃にはもう日が暮れかかっていた。
 クスノキ以外の三人はホームで体を伸ばし、ペンコのあとを歩いていく。

 想像していたよりも大きな駅で、しかし簡潔に外へ出られた。
 さっきまで東口に進んでいたはずなのに、というようなことは起きない。

 駅前はがらんとした広場で、空間に対して人が足りていなかった。
「こっちですよ」と、おそらくホテルへと促すあたるちゃんと、その真反対へ進もうとするペンコ。
 私はもう一度体を伸ばし、小さなザックを背負い直す。

 桃太郎通りへ渡り、なかばペンコを追いかけるように歩く。
 きょろきょろしてしまうけれど、特に目を引くものはなかった。
 全てが初めて見るのに真新しくない。
 どことなく不安定な町に見えた。円錐の底面、その裏にあるような、とまではいかないまでも、足を動かすたびにぐらつくみたいだ。
 ペンコとあたるちゃんは体まで軽くなったように楽しそうに歩いている。
 クスノキはいつも通りだ。
 彼が動じる場面や時、土地はどこかにあるのだろうか。
 私たちは改札を抜けてから無言だった。
 その心地好さは、朝から昼へかける室内でそれぞれが好きに過ごしている時間と似ていた。

 細く、長そうな川を右折する。
 あたるちゃんはいつ地図を覚えたんだろう。
 いつからか彼女が先を歩いている。

 またどこかで右へ折れ、ぽちゃっとした新しいホテルへ着いた。
 ペンコはほとんど小走りでロビーへ。
 効き過ぎた暖房が蒸し暑く感じさせた。
 フロントの男はあくびを噛み、各自住所や名前を書き込んでいく。
 二部屋取ってあって、私はペンコと同室になった。

 五階でエレベーターを降り、508と509に分かれる。
「夜ご飯までどうする?」
「私は耳まだ気持ち悪いから休むー」
「俺も」「俺は耳あれだけど、飲み過ぎた」
「じゃ、私も、部屋にいます」
「おっけー、私はちょっと出てくるね」

 荷物を置いてわりとすぐ、私は鍵を持たずに外へ出た。

 進んだ道を戻り、岡山駅へ入る。
 地下の狭苦しい商店街をとろとろ歩きながら夕食のことを考えた。
 まだ胃袋が私に追いついていないのだろう。
 何も思い付かない。

 目についた店で甘いものを、と適当に歩き続けていた。

 狭い店内、というかほとんど通路に開け放たれた店で、冷たくて甘いスイーツを食べる。
 薄茶色でしゃばしゃばした蜜にかき氷みたいなのが浮いていた。
 噛めば甘いもちもちした何かがあり、枸杞の実?、もぱらついている。
 自由にタンクから注げる烏龍茶も美味しかったし、また食べてみたくて名前を覚えたのだけど失念してしまった。

 難なく地上へ出、川沿いの道まで戻る。
 ウッドデッキを見つけたので降りていって、ぼんやり流れを眺めた。
 煙草をくわえ、しゃがみ込む。
 指先が川面へ触れた。
 いくつも水流があることは分かるのだけど、これほどまでに分裂しているものか。
 力を抜いた指の先が不規則に弾かれていく。
 濡れた手でライターを探って火をつけ、川の中へ戻す。

 五分かそこらだ、煙草が消えてから立ち上がったからそのはずだ。
 軽く二十分は経ったみたいだった。
 少ない階段を上がってアスファルトへ立つ。
 方向感覚の強固な人へついて歩いていたからか、細かな道順が思い出せない。

 そのウッドデッキを起点に、見える範囲の小道すべてへ歩み入る。
 三つ目に正解を選び、宿へ帰り着いた。
 ロビーはまだ蒸し暑く、フロントでは恐らく続きのあくびを噛んでいる。
 六階で降り、数歩進んで間違いに気付く、階段で五階へ降りた。
 鍵がないと内廊下へは入れないようだ。
 少しのあいだ食い下がってみるが、破壊するか向こうから開けてもらう以外にない。もしくは上下のどこかから解錠音を聞きつけるしかない。
 連絡するのも不躾な気がして、一階まで降りていく。
 エレベーターに乗って五階へ、509の扉をノックした。
 あたるちゃんが出て、あれ、とお互いに声を出す。
 短い廊下の奥、ベッドの端にクスノキが座っていた。
 私は508だったか。
 おそらく岡山でしか見られないテレビ番組が流れている。
 クスノキは私へ目を向け「よお」と、声を出さずに言った。
「間違った」と言うのもなんだし、「体調とかどう?」と、どちらにも向ける。
「私、は全然、大丈夫です」
「俺も、もう行ける」
「おっけ」と、体をずらして508をノック、ペンコは扉の前にいたように現れた。
 すぐに509の扉に気付き、あれ、と、「もう出るの?」と続けた。
「や、二人ともあれ、体調どうかなって」
「そう、で?」
「まあ、いつでも出れるらしい」
「じゃあ、三十分後!」と、私の袖を掴んで引き入れる。

 そのままの勢いで固いベッドへ倒れ込み、ほどけて天井を見上げた。
「耳どう?」
「だいぶまし」「耳鳴りもないし、酔ったみたいなのもない」
 ペンコは足をぱたぱたと、少し遅れてスプリングが揺れる。
 私はむしろこの方が酔いそうだった。
「何してた?」
「特に」「駅の方まで行って、地下街?、みたいなとこでよく分かんない甘いの食べた」
「ずるっ」
「ずるくはない」
「旅行、っていうか、長い距離移動するとむらむらしない?」
「何が?」
「うーん、性欲と焦りみたいなの」
「だから三十分?」
「どうでしょう?」と言って私に跨り、どうでしょう?の顔のまま固まって黙った。
「私、私はー、寂しいのと、性欲も言われたらそうかもって感じ、かな」
「寂しい?」「そんなに家好きなの?」
「それもあるかもしれないけど、もうここが懐かしい気がして」「宇和島も、ささらも」
「まだだよ」
 体を倒してずるずると、ベルトを外す音が部屋に鳴った。
 準備できてるじゃん、と言われて顔を起こし、「確かに」と返事する。
 確かに、性欲と思えるものはいつもより湧き上がっていた。

 彼女がコンドームを持ってきていたから良かったものの、もしどちらも持っていなければどうしたのか、私は途中からもう声以外何も我慢できなくなっていた。
 それにしても一箱は多いだろう。
 ペンコはほとんどいつも通りに声を出していたし、509はまだしも、507の人はいるのだろうか。
 慣れないベッドで動きづらいし、あれこれと、もう思ってみても意味のないことが去来するのに、きっかり三十分以内に全部が終わった。
 裸のまま天井を見上げて息を整えたのは最後の五分ほどで、その中で着替えも済んだ。
「ね?」と言って起き上がり、逆再生したみたいに着込んでいく。

 私はマフラーを、ペンコは手袋を、不必要にも思える防寒具の仕上げに選んでいた。
 先月だったかに彼女に似合いそうな-腕が細くて長いから-ぽってりした、遠目にはミトン型にも見える手袋をあげた。
 秋から冬にかけていつも着ているような、だから深い緑色と薄い辛子色、の前者、しかし私はまだ彼女の冬の装いを今年分しか知らない。
 お返しに、とトパーズみたいな色のマフラーをもらった。薄く長いからくるくると巻いて、外に出てしばらくするとじわじわ暖かくなってくる。
 夏に比べて少しフォーマルな服装のペンコを見るのが楽しかった。
 彼女のタッセルローファーと私のスリッポンが並んでいる。

 廊下で落ち合って階下へ、ひとまず駅へ向かって適当に歩いていった。

「腹減ったー」と、先頭を歩いたり最後尾にいる私のそばへ寄ったりするペンコが言う。
「何食べる?」
「みんなは?」
「俺はなんでもいい、けど、辛いと嬉しい」
「辛いのですか?珍しいですね」
「辛いのかー、いいかも」
「どかっと食べちゃうよりいいかもね」
「じゃ、なんか辛いの探しましょう」
 川のそばを歩いている、電話越しでしか聞いたことのない、いつもささらのそばにある川を思った。
 早く彼女に会いたい。

 ロータリーには車が溜まっていた。
 地下へは降りず、周辺から探すことにして、すぐ近くにアーケード街を見つけた。
 シャッターを下ろしたままの店が目に付くけれど、それまでに歩行者をほとんど見なかったし、空間から滲んで出てきたか配置されたようにも思えるまばらな人通りはあった。
 規模やラインナップから、旅行者を対象にしているのかも分からない土産屋が二軒もある。
 あたるちゃんもペンコもそれでも楽しそうな気配があったし、クスノキはあまりにいつも通りだから、居心地の悪さは感じていないようだった。
 私は一番後ろから三人を眺めて歩く。

 辛いものが食べられそうな店ということで、ベトナム料理屋へ入ることにして、奥まったテーブル席へつく。
 片言だけどだけど身振りや視線には何の違和感もない店員がメニューを持ってきて、きまたらよんでね、とキッチンの方へ。
 クスノキは「美味そうだけど何か分かんないな」と言って、ろくに見ずにページを繰っていく。
「空いてそうだし頼みながら聞こうよ」とペンコが言って、頷いたあたるちゃんが手を挙げた。

 年齢がまったく思い浮かばない店員は「どう?」と言って、私たちはとりあえずフォーを二つと、生春巻きと蒸し春巻きを頼む。
 名前からサラダとは思えない濁点ばかりの何かと、「辛いのってどれ?」と訊ねたクスノキとあたるちゃんのフォーが辛くなった。
「どれも、からめできる」と彼は言っていたから、私はコムガーを辛くしてもらい、ペンコのバインカンはそのまま、食後にベトナムコーヒーと揚げバナナ、チェーも二つ頼んだ。

 運ばれたどの料理も、滋味とは違った長く緩やかな満足感があった。
 中華料理やタイ料理などと比べると、一口目に衝撃的とも思える味がなく、ゆえにか飽きずに食べていた。
 ペンコはヌクマムを大量にかけているが、私は香りや味よりも、単にその濃度が苦手だった。
 あとで追加した蟹の揚げたのも美味しかったし、普段あまりない食感でおもしろい。
 卵料理や鶏肉を食べるたびに思うことと同じで、脱皮したばかりの蟹がどうしてこんなに存在するのだろう?
 タイ料理屋でもソフトシェルの蟹のカレーを食べたことがあったし、きっとそこかしこの店にソフトシェルの蟹が使われているはずだ。
 一体いつまで脱皮直後の蟹がいるのか。

 決して単体では美味しいと言えないコーヒーとコンデンスミルクの組み合わせが堪らなく好きだった。
 これ以降でも以前でも、そこで飲んだベトナム式コーヒーを超えるものはないし、油が浮くくらい深く焼いた豆をわざと放っておいて、だからコーヒーの味を雑然と、それだけではいらないようにしてみても、輸入食品を扱う店で何種類かのコンデンスミルクを試しても、そのどの組み合わせも近づかない。

 すぐにホテルへ戻るのも味気ないから散歩しようと、全くどこをどう歩いたか思い出せない道を歩く。
 クスノキは珍しく微笑んでいる、ようにも見える表情で、くわえたままの煙草を何度も吸いかけた。
 無駄な買い物がしたくなる時間だ。

 宿の近くの川より二十倍くらい太い川があって、そのそばで煙草を吸ってから帰路につく。

 あたるちゃんは駅からここまで一度もiPhoneを出していないのに、宿までするする歩いていった。
 私たちは自然に後方へ、振り返るあたるちゃんとぽつぽつ話を続けた。

 最寄りのセブンで飲み水などを買い、明日の集合時間を決める。
 ペンコとクスノキはホテルの朝食を摂りたいらしいが、私たちはいらなかった。
 チェックアウトが十時だから十時集合で、とペンコが言って、そのようになった。

 フロントの男は相変わらず眠たそうで、私たちの会釈へ返ってきた動きはうつらうつらとしていただけなのかもしれない。
 荷物のない方が狭く思えるエレベーターへ乗り、五階で降りる。
 扉の前、「あたるは?どうする?」と、唇の左端でだけ笑ったペンコが訊ねた。
 みんなの顔を一瞬で見回して、こっちで、と509を指さした。
「じゃ、おやすみー」
「おやすみなさい」
「おやすみ」
「おーう」
 部屋の中は柔らかく暖房が効いたままで、「鍵二個あると便利」とペンコは言った。

 私たちの家より狭い浴室でシャワーを浴び、彼女と交代する。
 じきに民謡みたいな節回しの歌が聞こえてきた。

 眠いわけでもないのに意識が切れ切れになっていて、ニュースの内容が把握できない。
 ペンコがシャワーを浴び終えたことも、大きく跳ねたスプリングで気がついた。
「疲れたの?」
「や、なんかぼんやりしてる」
「疲れてんじゃないのそれ」
「結構元気なつもりなんだけどなー」「旅行慣れしてないのかな」
「それもあるだろうけど、普通に、ちょっと前に怪我してたし、色々」
「色々」「まあ、そうか」「ペンコは?大丈夫?」
「うん、もう全快!」
「今日以外のでは?」
「私も、元気なつもり、てかそう感じてる?」
「うん、そうも見える」
「じゃあそうなんじゃない」
「なるほど」

 隣室から笑い声や話し声が聞こえる。
 多分509からで、だからクスノキとあたるちゃんの声なのだけど、そうとは思えない。
 ペンコはにやにやしながら耳を壁にあて、声を聞き取ろうと努める。
「分かる?」
「んーや、なんにも」
「でもゴムあげたから何か前兆あるかなって」
「なるほど」

 岡山県内のそこかしこで事件や事故が起こっていた。
 アナウンサーは電報のように淡々と概要を説明していく。
 私たちはヘッドボードにもたれかかり、肩を抱き合ってテレビの画面を注視していた。
 興味はなかったし-残念なことに-同情も湧かない。
 焚き火を眺めることと人集りをビルの高層階から見下ろすことの間にある見方だった。
 他人事でもないし自分自身へ引き付けることもない。
 疲れているということなのだろう。
 いくつか前の事故からあたるちゃんの艶やかな声がすっと聞こえてくる。
 その度ペンコは私をちらっと見上げる。
 ほとんど動きのない、眉が視界の端で揺れるから気付ける程度の視線だ。
 何かしらが軋む音やがぶつかる音も時々聞こえてくる。
 私たちは嬉しい気持ちでいて、だからなのか、じっとしたまま、聞き耳を立てるでもなくテレビを見ていた。
 クスノキの声、というか、あまりに振動でしかない音は聞こえてくるものの十分の一ほどで、それも今思えばそうだったけれど、その時はもっと広い間隔で壁を抜けた。
 私のお腹の上に灰皿を置いて、私たちは煙草を吸っている。
 細く開けた窓から、その薄さの刀身のみたいに鋭く冷えた空気が入り込み、シーツの下で汗ばむくらいの足元を過ぎていった。
 もう何度も繰り返されたような出来事だったし、またそのような場面に選ばれたことが嬉しい。
 私はペンコのつむじ、互いの角度から、そのそばへ鼻先をつける。
 汗とペンコとペンコの汗の匂いがして、彼女は私の首、陰った部分へ鼻をつけた。
 私も、私と汗と私の汗の匂いがするのだろうか。
 次第に様々な音の感覚が狭まっていく。
 話し声からするとそれほど薄くはないだろう壁を、やすやすと通り抜ける。

 あ、と二人同時に声を出し、だからそれは向こうの二人が動きを止めたことに気がついた。
「もっとあげても良かったな」とペンコが言って、「長いから?」と訊ねる。
「うん、多分、二人ともこのままいきたいってところ何個も我慢してそうだし」
「一個しかあげなかったの」
「うん、もったいないから」
「なるほど」

 重なった笑い声が聞こえ、涙が出そうになった。
 私はまだ、自分自身が何の最中に幸福を感じるのか明確でない。
 ペンコも漏れ出すようにんふふと笑い、私は目線を下げる。
「いいね」と彼女は言って、私の中で多幸感が増した。
 目が回りそうだ。
 煙を深く吸い込んでみんな誤魔化して、寝よう、と声をかける。

 八時過ぎに地震で目が覚めた。
 それは間違いで、ペンコがベッドに飛び乗っただけだ。
 朝食べいくよーと、私は腕を引っ張られ体を起こす。
 背中へ回って押し、端へ擦っていく。
 スリッパを履いて立ち上がり、伸びをしてから「私朝いらないよー」と言った。
「いいから」
 とりあえず服を着替え、歯磨きして寝癖のまま部屋を出る。

 朝食の会場-夜はただの居酒屋-で、同じような二人を見つける。
 向かいに座って「おはよー」と、あたるちゃんも寝癖だらけで、「つぐみさんも」と言った。
「どちらにされます?」と、友達のお母さんみたいなおばちゃんが私たちの元へやってきた。
「え、あ、和食で、お願いします」
「じゃあ洋食で!」
「はーい、ちょっと待っててね」
「あたるちゃんは?」
「和にしました」
「俺も」
 ペンコは「やったー」と言った。
「何が?」と訊ねると「ちょっとずつおかずもらえるじゃん」と返す。

 部屋へ戻ってベッドへ倒れ込む。
 宿で出る食事は多過ぎるか足りないか、今回は言うまでもない。
 ペンコは互いのお腹をさすって、よく食べたね、と言った。
「あとちょっとで出る」
「まだ1時間あるから寝てな」
 言われた通りに、というか言霊だったのかもしれない、瞼を閉じる。

 十分前に目を覚まし、ペンコを起こしてから荷物を詰めたり寝癖を直したり、軽くベッドを整えたり灰皿やその他もろもろを片したり、慌ただしく過ぎていった。

 ロビーへ降り、無事に四人でチェックアウトを済ます。
 いつもより強く感じる陽の中を駅まで歩いた。
 小川が異様なくらい煌めいている。
 あたるちゃんはまだ寝癖だらけだったけれど、むしろそういうセットにも見えた。
 ペンコ以外の足取りが重いのは同じ理由だ。
「まだ直後と変わんない」
「ですよね」
「駅弁は?」
「食べられるはずがない」
「えー、もったいないよー」
 あたるちゃんは嫌そうな声で「食べれるの?」と言う。
「余裕だよ」とペンコが返し、えー、と首を振る。
 高い建物が少ないからこんなに日差しを感じるのだろうか。
 見上げた範囲でもちらちらと雲があるのに眩しかった。

 がらんとして大きな駅から、しおかぜ、へ乗り込む。

 また並びで座って、今度はクスノキと私、あたるちゃんとペンコ、みんな窓の外の景色を眺めていた。
 松山までの二時間くらい、私は見飽きることがなかったが、ペンコとクスノキはそうでもないらしい。
 本を読み、ビールを飲んでいる。
 あたるちゃんと私は通路を挟んで話しながら、二人ともちらちらと海へ目を向けた。

 松山駅へ着く頃にはお腹も落ち着いていたけれど、何かを食べたい気分ではなかった。
 ペンコは言っていたように駅弁を食べていたし、クスノキも今すぐ何か食べたいわけではないだろう。
 ここから二時間もしないうちに宇和島へ着くことを考えると何も食べない方が良さそうだ。
 そんなふうなことをみんなに言って、構内のコンビニにだけ寄ることとなった。

 それぞれ適当にお菓子や飲み物を買って、宇和海の待つホームへ向かう。

 思っていたよりも宇和海はローカルな気配があった。
 岡山とは冷気の質が違っていて、体の芯が冷えていく。
 列車の中はこれまでと同じようなものだったけれど、外だけ見ていると通勤通学に使いそうな、しかしまあ使うのか。
 そう、だから二人がけの座席が向かい合って配置されていそうな見た目だった。
 私とあたるちゃん、ペンコとクスノキで座って、一時間半ほどぼーっと過ごす。

「着いたらささらさんが迎えに?」
「そのはず」
「はず」
「うん、結構ささら抜けてるところあるから」
 ペンコは「連絡すれば?」と、クスノキを避けて言った。
「うん、してるんだけどまだ返事ないし、返事あっても忘れてることあるからさ」
「駅から遠いんですか?」
「五キロか六キロ?かな」
「あ、じゃあ歩いていくのは無理か」
「まあね」
「ね、あたる昨日どうだった?」
「昨日」「聞こえてた?」
「めちゃくちゃ聞こえてたよ、ね?」
「まあところどころ」
「じゃあ聞かなくても」
「辱めてやろうと思って」
「なんで」と言いながらあたるちゃんは笑っていて私も、あまりに脈絡がなくて笑ってしまう。
「ペンコ、小さい頃とか、好きな人に嫌なことする人だったでしょ」二人とも、本当に意地の悪い声でないから妙な気がかりがない。
「今もだよ」
「ちょっと気持ちは分かる」
「でしょ?」
「つぐみさんはそんな感じしないけどなあ」
「うん、あんましないようにしてるから、多分」
「すればいいのに」とペンコは言って、何か返す前に背もたれの方へ消える。
 クスノキは瞼を閉じ、首の角度からすると眠っていた。
「あたるちゃんは?そういうのない?」
「うーん、そうされるのは気にならないですけど、そういう意味では気持ちも分かんないかも」
「好きな人にそうする人の前例とか存在とかを知ってるからその、それがそうだって分かるけどってこと?」
「うん」「そんなことしなくてもいいんじゃん、とも思いますし」
「うん、それも分かる」
「そんなことしても嫌わないでって思うくらいには思ってる、ってこと?」
「あー、そうかもしれない、だから、そんなことしても嫌わないでしょって高括ってるってわけじゃなくてね」
「うんうん、だから別に嫌な気持ちにならないのかもしれません」
「でも、何かそういうのも関係ない気もする」
「関係ない?」
「うん、そういう、ああだからこう、とかじゃなくって」「ただ単にそうってだけで」
「ただ単にそう」
「うん、私やペンコが、どこでどう育っても、誰から生まれてても、今何をしてても、誰と出会っても」
「分かるような分かんないような」
「何か前提、というか大元の欲求みたいなのがあって、その歪んだ現れ、みたいなことじゃん?今のは」
「うん」「ああ、そういう、変化系みたいなことじゃないってことですね」
「うん、そう、夢占い的なものじゃないっていうか」
「何かそう考えた方が嬉しさが増しますね」
「嬉しさが増す?」
「実はストレートに伝えてるんだって思うと、愛しさが増すっていうか」
「ああ、確かにね」
 列車はずっと同じ方向へカーブしているようだ。
 体が傾いたまま、自然に元には戻らない。
「でもしないんですか?」
「何か私はペンコみたいに明るくならない気がする」
「それは何となく想像つく」
「だよね」
 海を遠く離れ、誰も-と言っても私とあたるちゃんは-窓の外へ目を向けなくなっていた。
 お菓子を買わなかった私で、少しずつ空腹感が大きなっていく。
 私は、私と澄香に対して考えていたことを新たにした。
 根源的な欲望はやっぱり私から、発生していたんだ。
 捩くれた形での再現ではなかった。
 そう思おうとしていたことこそを、彼女は気持ち悪がったのだろう、とも思える。
 言い訳ばっかすんな、と。
 ペンコが身を乗り出し「でも、つぐみのいつもの態度、というか、私たちに対する姿勢の冷たさって、変形だよね」と言う。
「しないようにしてる分?」とあたるちゃんが振り向いて、振り返る。
「そうかもしれないけど、冷たいかな?」
「冷たいっていうか冷めてる感じはありますね」
「あるある」
「自覚なかった」「それはでも、変形かも」
「言動はそうでもないけど、態度は冷たいよ」
 そうだったっけ、と思うが、「だったっけ」と思った時点でそれはそうだった。
 見覚えもない町や風景が過ぎていく。
 何を見ても新鮮だったけれど、体感も失うくらい前には見たことがあった。
 視界の近くを通るものが少ないからか、風景がゆったりと、だから見えているものとの親和性が高く思えているのだろう、気持ちの中に騒がしい部分がない。
 私の考えていることや感じることは、大抵は外側にあって、それで時々、今そこで何を思っているのか分からなくなってしまうのだろうか。
「まあでも突き放す感じはないですよね」
「うん。それはない、かな」
「良かったよ」
 にやついたペンコは「言っとくと今もそうだけどね」と言って、また背もたれの方へ。
「そうかな?」とあたるちゃんを見る。
「うーん、どうだろう、何か大体いつも、そんなことないことも分かるんだけど、その分かってるつもりのものより、楽しくないのかな、とか、悲しくないのかな、とか、怒らないのかな、とか、そういうことは思います」
「え、ああ、今もそういう感じ」
「若干ですけど」
「きっと10くらい楽しいんだろうな、って思うけど見えてるのは7だなーって」
「そんな感じ」
「ペンコやクスノキは?」
「あー、ペンコは、その10だとしたら13くらい」と笑う。
「分かる」
「クスノキさんは5だとしら5って感じ」
「それ、私たちと単位も違う?」
「あ、そうかも、なんかもっと目盛りが広い感じします」
「それも分かるなー」
「うん、だからその5が、さっきまでの10の半分ってことじゃないっていうか」
「だね」
 車内で話しているのは私たちだけで、ここにいるのも私たちだけだった。
 今になってそれに気が付いたのは、多分、車内があまりにうるさいからだ。
 路面電車と比べてみても、いや、比べるまでもなく騒音が入り込んでいた。
 さっきから遠くに見える白い霞のようなものは雪だろうか。
「あれ雪?」と私は窓の外を指差した。
「雪?」テーブルの上でお菓子の袋をいじっていたあたるちゃんが顔を上げる。
「あっちの方、しろーいとこ」
「あ、雪かも、四国って雪降るんですか」
「知らない、あったかいイメージあったけど」
「ですよね、宇和島もかなあ」
「すぐそこに九州、大分か、あるからそんな寒い気がしなかったけど」
「ひゃー」とシートへもたれ、そのまま瞼を閉じる。

 私以外の三人が眠って-ひとまず瞼を閉じて?-ふと尿意に気が付いた。
 ノイズからして必要もないのに静かに席を離れ、後方へ進んでいく。
 立ってみると振動の激しさも相当なものだった。

 客席のあるスペースよりもいくらか古い設備に見えるデッキを抜け、二両分後ろのお手洗いに着いた。
 どうしてこうも閑散としているのか。
 設計ミスにも思えるほど揺れているし、狭い。
 片側の壁に寄りかかったまま、というか体を押し付けたまま用を足す。
 トイレを出て歩き始めてから腹が立ってきた。
 左右に振られながら、ぽつぽつ座った人たちを通り過ぎていく。
 誰もが見るともなしに窓外を眺めていて、その横顔だけ、表情が分からなかった。

 二両分歩き、席へつく。
 ペンコもあたるちゃんもクスノキもいないし、私たちの荷物もない。
 私がトイレへ行っている間に宇和島へ着いたのだろうかとも思うが、まだ列車は走っている。
 連絡がないのもおかしいし、体が身動きを取れない。
 横顔?
 私はお手洗いへ向うとき誰かを見ただろうか。
 弾けるみたいに立ち上がって歩き出す。

 四両分歩き、クスノキのつむじを見つける。
 扉のすぐそばで呼吸を整えて席へついた。
 まだ動悸が続いている。
 私は明らかに、この三人をこれまで以上に特別だと感じていた。
 それは私の制御できる範疇をとっくに超えていたし、これから先もおそらく、どうすることもできないし、するべきではないのだろう。
 私とクスノキ、私とあたるちゃん、私とペンコ、とそれぞれで切り分ければ、それに類する人や出来事はあったはずだ。
 それが一堂に起こったことはないにしても、それぞれに対してだって、今までにないものが湧き起こっていた。
 私にとってのそれぞれが、どうして私にとってのそれぞれなのだろう。
 今では私は、ささらのことを忘れている時間が多くなってしまった。
 石尾さんだって、佐和子だって、澄香だって、タスキだって、ここに書いていないたくさんの人だってそうだ。
 私は実生活で-ここに書いているよりも-彼らのことを忘れていて、考えることができないし、思い出すこともない。

 車窓の外では、もう見飽きてしまいそうな景色が流れていく。
 持ってきた本へ視線を落としている時間が増えていたし、隣、通路を挟んで隣とその隣、眠っている人たちへ目を向ける時間へ置き換わっていった。
 私はさっき、夢占い的なものじゃないっていうか、とあたるちゃんへ言った。
 だけど、私がこれまで望んでされたこと、それが澄香へ対して欲望していたことの反射でも間違いではなかった。
 それは「今日は普段履かない色のスニーカーにしよう」くらいのものと同じだ。
 私はその日の数%、数十%を澄香になりきっていたし、別の日には私でしかなく、また違う時間では澄香でしかなかった。
 ただそうしていただけだ。
 私は以前にも全く同じことを考えていたはずで、出発点だけが違っていた、道筋もゴールも同じなのに気持ちが晴れた。 

「もう着きますか?」と、あたるちゃんの声が聞こえ、テーブルの上で組んでいた指をほどく。
「あとちょっと」
 なあー、と伸びて、私は肘掛けを上げて無防備な上半身を抱きしめる。
 ひらっと落ちてきた腕の重さを、捻った肩や背中に感じた。
「どうしたんですか?」
「ごめん、何か込み上げてきた」
「寂しさとか?」
「ううん、ざっくり、恋しさ」
「みんなに?」
「うん」
「一回離して」
 私は名残惜しくも体を離す。
 あたるちゃんは「はい」と言って腕を開いた。
 また体を捻って抱き締める。
 何かの段階が私の中で変わっていた。

 それから何分か後に起きてきたクスノキとペンコも抱き締めさせてもらって、からかわれながら宇和島駅へ到着した。


PENCO.23

 深まっていく冬の初め、十二月の二週目だったか、私は久しぶりに怪我をした。
 包丁で指先を切ったのだけど-その包丁が研ぎたてで、行き過ぎた不注意の結果-三ミリほど断ち切ることとなった。
 一体何を、そんなに力を込めて切っていたのかは思い出せない。
 ナポリタンやカルボナーラ、パスタ全般へ加えるパンチェッタを切っていたような気がするが定かではない。
 数秒なのだろう、容易に数分と感じる時間、まな板へと流れていく血、呑気な「あー、廃棄しなきゃなー」という文言が頭の中で過ぎていった。
 あたるちゃんの小さくはない悲鳴で気が付いて、それまではぶれていたみたいな、だから感じていなかった、ひとまず叫びたくなるような痛みが重なった。
 奥歯を噛み締め、何故か片方の瞼もきつく閉じる。
 数人いた客に見えないよう、左手を握り込んでロッカーのあるスペースへ。
 このくらいの怪我は、どうしていいかが分からない。
 つまり病院への行き方が分からない。
 救急車を呼んだ方がいいような気もするし、タクシーか何かで向かうべきである気もする、行く必要もないのではないかとさえ思う。
 ロッカーにもたれるように座り込み、駆け寄ってきたあたるちゃんへ「あれ、捨てといて、重井さんか三谷さんに連絡取って、これから頼めるか確認お願いします」と呟いた。
 彼女は「病院」と漏らし、私は頷く。
 干してあるタオルを引っ掴み、指先を重点的に包んで縛った。
「もう昼も過ぎてますし、私ならとりあえず一人で大丈夫です」
「うん、ありがとう」「ごめんね、タクシーと、こういう怪我何科に行くべきか調べて欲しい」
「うん、任せて」
 胸の辺りまで響く痛みと赤く色付いていくタオルで、大した量は出ていないだろうに意識がぼやぼやと広がっていく。
 あたるちゃんはiPhoneを激しく操作し、「タクシー十分くらいで着きます」と言った。
 短い時間でどうしてか嗄れた声で礼を言い、両瞼を閉じる。
 目覚める直前まで夢を見ていたときのような曖昧な時間、「形成外科?、が良さそうです」、「調べますね」、と聞こえた。
「総合病院でもいいし、小さいのでもいいから近い順にリストアップして、紙にお願い」
「はい」
 床が柔らかいのは私の勘違いだろうか?

 タクシーが着いてすぐ、私はあたるちゃんに先導されて外へ出た。
 ドアを抜けて席へ、彼女は「すみません、これ、お願いします」と、いくつか紙片を手渡し、運転手は妙に落ち着いている。
 私は多分もうほとんどまともな意識はなかった。
 とてつもない眠気に微睡んでいる。
「形成外科のある病院を一応リストアップしてあります、近い順に書いてあるので、お願いします」と、私の左腕に触れながら「店戻るね、連絡ください」と続けた。
 初老に差し掛かったような運転手は振り返り、おそらく、私を数秒間見つめていた。
「すぐ着きますよ」と呟いて、ざっと目を通したような紙を助手席へ、車を走らせる。
 そのときの私ですら短く感じたのだから、きっと店から歩いても十五分とかからないだろう病院へ、到着してすぐに彼は車を出、「待っててください、どのくらいの怪我ですか?」と言った。
「多分、数ミリ?、指先を切り落としました、血は、落ち着いてるけど、うん、まだ出てます」
「分かりました」
 ドアが開いて閉じ、何分か経って医者とともに彼は現る。
 私は二人に脇を支えられ、確かに微妙な足取りだった、院内へ、すぐに診察室か何かへ通された。
 はっとして運転手へ「ありがとうございます」と伝え、彼は頷くだけで踵を返す。
 同じような経験を何度も経たような慣れ方だ。
 怪我の原因や過程を訊ねられ、よく分からないけれど「そこ?」と思うような部分へ包帯を巻かれ、それは止血の処置だったのだけど、私はベッドへ誘導される。
 あれこれと治療の方法を説明してくれるのだけど、ほとんど何も分からない。
 乾かさないように、と言っていたような記憶が-その後の私の生活から振り返ってみても、それで合っているのだろうが-うっすらと残っている。

-補足4・タクシーの運転手は数ヶ月に一度は怪我人をどこかの病院へ運んでいて、今年、手首から先を怪我した乗客は彼で四人目だった。-

 湿潤治療、というのが私への処置らしい。
 巨大にも思える防水の絆創膏的なものと飲む痛み止め、これまで見たこともない名前で奇抜な色合いのチューブの塗り薬を処方された。
 誰もいなければ苦戦しつつも一人で張り替えられるけれど、誰かがいれば、大抵はクスノキかペンコが取り替えてくれた。

 五日ほど仕事を休むことに、レンタルした映画を日に三本か四本観て過ごしていた。
 ペンコやあたるちゃんはその五日間、夕方まで家を空けていて、クスノキは真ん中の日曜だけ付き合ってくれた。
 夕方から夜までは四人で散歩に出たり、私は初めから、誰かは途中から、映画を観る。
 どうしてそんなに映画を観たのか、クスノキのいた日曜以外、佐和子が遊びに来ていたからで、それは「今度は本当に振られた」と言っていたからだ。
 今度は、も、本当に、もいまいちよく分からなくて、しばらく話を聞いて一ヶ月近く前に彼女が言っていたことを思い出す。
 私たちは『マンチェスター・バイ・ザ・シー』を、『コンセント』と『カケラ』を、『スナッチ』を、『教授のおかしな妄想殺人』や『her』や『THE MASTER』を、『キャロル』を、『アレノ』を、『LOVE【3D】』や『セブン・デイズ・イン・ハバナ』を、『リィリィ・シュシュのすべて』や『リップヴァンウィンクルの花嫁』を、『やさしい人』を、『天才スピヴェット』を、『エース・ベンチュラ』や『マジェスティック』を、観た。
 初めて観る映画と二回目の映画が半分半分くらいで、佐和子はどれも観たことがあるらしかった。
 私からすると有り得ないことだけど、佐和子は-観たことあるし覚えてるから、と-ペンコとあたるちゃん、もしくはどちらかが帰ってくる時間になると躊躇いなく家を出た。
 久々に手当たり次第、一日のうちで集中できる時間をほとんど全て映画に捧げるのは気持ちが良かった。
 ペンコは帰ってくるとすぐ、佐和子の匂いする、と私を見る。
 それは非難の眼差しではなく、ただの確認、私には-そんな気もないし、実際伝えてもいたけれど-分かってるよ、という目だ。
 彼女はいつもクレームブリュレみたいな香水をつけていたから、確かに、その場にいなかったペンコにはいっそう感じられただろう。
 というか、佐和子以外に香水をつける人もいないから、何かしらの香りがそこにあれば、彼女がいたということになる。
 佐和子は朝から軽く飲み始め、私は付き合うような気持ちでコーヒーを飲んだ。
 毎回「飲めよー」と彼女は誘うけれど、なるべく体が温まってほしくないから、するするとかわしていく。

 三日目にはもう、何かにぶつけなければ痛くなかった。
 傷口がうっすらとも塞がったようには見えないが、何か変わったようだ。
 壁や人、シンクやベッド、何にどれだけ優しく当たろうとも痛みは大体同じで、手首から肘の中間、肘、そこから肩への中間、肩、肩甲骨の上部まで、鋭くぎざぎざした感触が通り抜けていく。
 捻挫すら経験したことのない私にとっては、それは大怪我のうちにカウントされる。
 利き手でないことは運が良かった。

 体が上手く扱えないことも起因の一つだろうが、復帰して数日は精神が動作に馴染めなかった。
 習慣に近いような行動ですら、少しの問題で離れていってしまうのかと感心すらできる。
 あたるちゃんや三谷さんのサポートがなければ、また怪我をしていたことだろう。

 宇和島行きのチケットを買ったのは十二月の二十四日だ。
 私としてはあまりに間近であるために、しばらく記憶に残っていた。
 クスノキの年末年始の休みがずれそうだということで様子見していたからそうなったのだけど、それにしても近い。
 ペンコは毎時間とも思い出せるくらい、二十日を過ぎた辺りから「まだ?」とか「分かった?」とか、そんなことをクスノキへ訊ねていた。
 直で行けば昼前に家を出て、ささらと合流できるのは夕方、陽も落ちてしばらく後になるだろう。
 話し合いの結果、二十九日の夕方に岡山駅前で一泊、翌日に松山を経由して宇和島へ、クスノキは二日に帰宅し、あたるちゃんとペンコと私は四日に帰ることになった。

 私とあたるちゃんは二十九日までの数日を無為に過ごした。
 何となく、怪我もしたくないし-私は増やしたくもないし酷くなってもほしくない-体調を崩したくもなく、二泊三日とか三泊四日以上の旅行に何が必要か分からなくて、常に旅先のことを考えている。
「冬だし着替えは少なくていいでしょ、下着だけ日数分で」とペンコは言って、私たちはそれに従った。

 私はクスノキの顎髭を唇で挟むのを気に入って、何かする気も起きない空いた時間、だいたい彼の髭をじゃりじゃりと擦り合わせていた。
 クスノキはそんなことが行われていないみたいに、本を読んだりiPhoneで何かを見たりして、私を気にかけない。
 大抵、私はそのまま首筋へ、鎖骨へと甘噛みを移していく。
 くたくたのTシャツをたくしあげていって、少しずつ移動していった。
 私は四つ足の何かしらの生き物で、クスノキの体を愛でている。
 まだ冷たい舌先を、さらに冷えた体に這わせていって、同じくらいの温かさになるころには臍の下くらい、きりきりと生えた毛に至った。
 ここまでも、彼は特に何も変わらない。まだ本かiPhoneを見ているし、態度としても気配にしても、私を認識しているのかもあやしい。
 それでもウエストのゴムを噛んで脱がそうとすると、腰を浮かせてくれる。
 どこからかは知らないけれどその時点で、口だから脱がせづらいというのを超えて、引っかかってずらせない。
 私はきっと嬉しくて、力を込めた口元が緩んでしまう。
 トランクスを何とか脱がせていってそれから、口いっぱいに含んだり舐め上げたり、そうしてようやく、クスノキは腕を下ろして溜息をついた。
 四つ足の生き物は、そのときクスノキの体で最も温かくしなやかに硬い部分を愛おしむ。
 もうずいぶん前から、彼に顎髭があろうがなかろうが、目にしていないから無関係に思えるけれど、私は明らかにいつも以上に興奮していた。

 年内最後の営業日だ。
 どうしてか私は一人で店にいた。
 シフトの関係上、朝から夕方の手前まで、このまま切り盛りしなくてはならない。
 あたるちゃんはお姉さんと-彼女は結局、千葉だったか神奈川だったかへの転勤で、大して離れた場所には住まなかった-どこかで会っていて、その他の人は何をしているのかも知らない。
 店長は「行けそうだったら手伝いに行くよ」と言っていたけれど、昼を過ぎた今、まだその姿はない。
 だからもういい。
 例年、なぜか年末年始の計六日間、だから二十六から二十八、五日から七日は忙しくなった。
 基本的には常連客ばかりで、いつもより遅れる配膳にも、一人の今日は優しく見守ってくれている。
 どうしてか、私の名前を覚えている私は顔も覚えていない男ばかりが、「来年もよろしくね」というようなことを言い残していった。
 にっこり笑って、曖昧な返事。
 何かを納得したような表情で帰っていく。
 不思議だったけれど、いい気分でもあった。

 退勤後、私は街を歩いている。
 よく知ってはいないが何度か話したことはある、程度の誰かに会いたかった。
 何か映画を観て帰ろうかとも思うけれど、澄香に会いそうな気がしてやめる。
 そもそも彼女はどうしてこんなところにいたのだろうか。
 そんな疑問がおかしいのは分かってはいた。
 昭和通りをだらだら歩く。
 彼女と私の生活圏は重なっているのかもしれない。
 むしろここに住んでいるのか。
 私には澄香が武蔵野市にいるイメージが定着しない。
 杉並区にも練馬区にも世田谷区にも、とにかく東京のざっくりと西側を歩いている彼女に違和感があった。
 それは、澄香との思い出の大半が同じような場所-青山か広尾、たまに目黒-で成り立っているからだろうが、もっと根本的な、だから彼女がこれまでずっと西東京のどこかに住んでいたとして、それでもなお、それ以前の彼女との接続がないとしか思えない。
 自分でも何に固執して、何を考えているのかが分からない。
 どうにかして、澄香に会ったことを否定したいのだろうか。
 感覚としてはそういうわけではなかった。
 信じられない、とも言えた。
 彼女も私も、人違いをしたのではないかとすら思えた。

 吉祥寺通りを北上し、目についた店でハンバーグを食べる。
 明日の今頃には岡山にいるのだろう。
 それもまた信じがたい出来事だ。

 煌々と、しかし薄暗い店内は賑わっていた。
 初めて入ったのは私だけなのだろうと、特に、店主らしき人と客の間に会話や目配せがあるわけでもないのに分かる。

 もう宇和島から帰った日々を過ごしているようだった。
 まとまった時間を抜けた後の、間延びした空気が漂っている。
 肉汁が小さく跳ねる鉄板へ、視線が固定されて動かせないでいた。
 ぼんやりしているわけではないのだけど、行動と思考や感情と推論、そのほか何やかやがずれているようだった。

 テレビ番組が流れているわけではなかった。
 黎明期の作品らしきサイレント映画が映し出されている。
 騒がしい店内で、簡単にその半径三十センチ余りの空間が静かに見えた。
 耳鳴りにも感じる静けさが、首筋の辺りに潜んでいる。

 年始より、何かが始まる気配に満ちた街を歩いた。
 年末のそういった雰囲気は私の気分を落ち着かせてくれる。
 小舟の底で寝転がって読書してるみたいだった。
 視界の両端に船のへりが見え隠れし、視界の大部分を-それだけでは進路や辺りの状況を判断できないために-何の意味もない空が占めている。私の意識は本へ向かっているのだけど、ちくわのような形状で向けられている。そのような、中心を欠いた意識でもって文字を追っている。しかし、中心を欠いている状態で完成するちくわが、私の意識の形状の比喩として持ち出されることは正しいのだろうか。例えば、これが会話だったとして、クスノキなりペンコなりあたるちゃんなりに「なんかそときの意識、意識っていうか自分自身の心持ち?、的にはこう、真ん中がないっていうか、ないからどうしたって言われたらあれなんだけど、ちくわみたいに、こう周辺だけあって、あ、でも、ちくわのあれは周辺ってわけでもないか」と言われれば、私には伝わる。だからそれは「うまい棒」でも伝わるしバウムクーヘンでも伝わってきた。円筒やトンネルでは伝わらない気がしたが、それも何故かは言えない。

 物足りないような気で駅へ進み、結局、久々にオデヲンへ寄った。
 興味も惹かれるものはなかったけれど、一番短いタイトルのチケットを取った。
 十五分ほど辺りをうろついて、座席についてすぐ眠りの中へ入り込む。
 夢の中で映画を観ていた。きっかり、体の外で流れている映画と同じ時間、頭の中で観ていた。
 私はそれから、体外での映画を見返すつもりはないし、今となってはタイトルも思い出せないから、そのときの私が観ていた映画が、本当に私の頭の中の映画だったのか、本当にそれだけだったのかも知れない。
 主な登場人物は二人いて、一回きりか二回くらい出てくる人は十五人ほどいた。湖畔沿いの町の話、みんな修道僧のような面持ちで、柔らかそうなつなぎを着ている。多分、もうそんな映画はない。でも私には、目で観た記憶があった。あった、というか、そう記憶されていた。
 エンドロールの明滅に目を覚まし、周囲を見やった。
 数人いた客はもういなくて私は一人、D-8に座っている。
 太ももの間のカップではポップコーンが湿気ているはずだ。
 何粒かまとめて口に入れ、噛み砕かれずぎちぎちになっていくそれを飲み込む。
 信じられないくらいの人数がこの映画に関わっていた。いったいどこにこれほどのエキストラがいたのか?
 その疑問は、私の夢の映画のせいだとは分かっているけれど、実際に今湧いてくる違和感に抗えないでいた。

 駆け込むように改札を抜け、ぼとぼと落ちるみたいに階段を降っていく。
 ホームにはまばらな人が、遠くから見ていても寒そうだ。
 ペンコにLINEを送って、最寄り駅まで迎えにきてもらえることになった。

 私の向かいに座った男は浅い眠りと覚醒を繰り返し、その度に疲れていった。
 私は本を開いて、紙面を眺めている。
 文字の意味を捉えることができないで、ただその形の連なりが目を過ぎていく。光景が浮かびそうな淡い感覚があったけれど、その景色と紙上に定着した文字たちとの連関を見いだせない。

 すり抜けるようにホームドアを通り抜け、アスファルトへ触れた瞬間、座席に置いたままの文庫本が気付かれる。
 ペンコはホームまで上がってきていて、階段を目指す私を、私はそこに立ったペンコを、同時に発見した。
 鼻の下までマフラーを巻いた彼女に気が付くと、それまであったことも知らなかったものが慕わしさへ変わっていく。
 私は小走りで、彼女はそこに立ったまま緩やかに腕を開き、そして抱き合った。
「あたるとクスノキは外で待ってるよ」と、春みたいな声が耳元に響く。
「みんな来てくれたんだ」と私は独り言を、返答もないのでそれはそのままの姿だ。

 改札の向こうに二人が見える。
 駅員が操作する端末へ、私は乗車賃を、ペンコは入場料を払った。

 いくつか24時間営業のスーパーへ寄り、これから軽く食べようと、焼肉のための食材をみつくろっていった。
 牛タン、豚トロ、セセリ、カルビ二種類とハラミ、センマイ、ミノ、あとはキムチとサンチュなど。
 炭酸水とレモネードの原液も買って、ペンコはトッポを二箱もカゴに入れた。
「帰ってからと明日の分」、と、そこへ目を向けた私へ言う。
 二日続けて食べるような、というより、食べる予定を立てるようなお菓子だったろうか、と思い始めたが、彼女の勝手だ。

 膨らんだレジ袋を手分けして、駅と家の中間にある公園で煙草を吸った。

 真後ろにある、だから森に思える暗闇で、何か小さな生き物の動く音が聞こえる。
 ペンコと私、あたるちゃんとクスノキ、でそれぞれベンチに腰掛けていた。
 何故だか気分が昼の間にあるようだった。後ろの鳥だろう生き物は、頭上を過ぎていくはずだし、いくつもの声や陽光の反射があるはずだった。

 立ち上がったクスノキを先頭に公園をあとにして、帰路を歩く。

 テーブルの上に小さな七輪があって、炭の入った小箱がある。
「なにこれ」と無意味に呟いた。
「七輪、知らないの?」とペンコ、心配してるような声だ。
「知ってはいる」
「あ、じゃあ、こっちのが美味いじゃん」
「まあ。いいのかな」
「窓開ければ大丈夫じゃない?」

 クスノキはすらすらと火を熾し始めている。
 私とあたるちゃんは肉や野菜の準備をし、わかめのスープを用意した。
 買ってきた肉を大皿に並べ、薄く切った野菜も添える。
 目しばしばしてきた、と彼女は言って、ソファのペンコの元へ逃げてった。
 キムチやセンマイも小皿に分け、タレをいくつかに注いでいく。

 ペンコが窓を全開にして、あたるちゃんは角度をつけた扇風機をそこへ向けた。
 順番が決まってるみたいに濃淡のある煙がつられて流れていく。

 それぞれ二膳ずつ割り箸を取り、好き好きに食べ進める。
「貝とか、魚とかも買えばよかったね」と私は言って、「バーベキューじゃん」とペンコに言われる。
 確かに、と思いかけ、そうかな?、と声が出た。
「串とか、あの銀色の。ないし、外じゃないもんな」と、多分クスノキは私側だ。
「串はあれだけど、ほぼ外じゃない?」
「砂入ってきますしね」
 じゃあ、あたるちゃんはペンコについたか。
「まあ、外だとして、でも、七輪だしさ」
「だな」
「んー、このタン美味しい!、あたる食べた?」
「あ、食べます」
 クスノキは私をちらっと見た。
「使う道具は国々で変わるんじゃないですか?」とあたるちゃんは続け、「でしょ?」とペンコがつづく。
「つぐみ、これ、焼けてるぞ」とクスノキは言った。
 焦げかけたミノを飲み込んで、「あれじゃない?、私たち、トングの代わりにお箸使ってる訳じゃないし、タレも、ソース?の代わりじゃないじゃん」と言う。
 しばらく沈黙が続き、「明日からの準備、終わりました?」と、誰にという声じゃない声が響く。
「俺はまあ、もうバッグに入れるだけ」「私も」「私もー」
「でもさ、貝とか魚焼いたらさ、トング使わない?」
「あー、確かに、それならよりバーベキューですよね」


PENCO.22

 私は毎日に飽きていた。
 そうじゃないふりをすることはできないし楽しくもあったから、結局はよく分からない気分で、私はだから、私に飽きてきたのかもしれない。
「へー、そういうこともあるんだー」くらいでいいから、日々知らなかった私を知ってみたいのだろうか。
 考えれば考えるほど、そうなるだろう行動から遠のいていった。
 私にはその都度、体の動くままにするか、思い付いたものとは逆に思える行動を取ってみることしかできない。

「いい感じだった人に振られたー」と言って、佐和子が店に来たのは十一月の半ば、それにしたって寒い夜で、店の中でさえうっすらと凍えていた。
 あたるちゃんもいて、彼女はそこで初めて佐和子と会った。
 佐和子はあたるちゃんの存在を無視して話をしていて、私にとってだけそれぞれに親しみがあって、だからそれは当然なのだけど、私の考えていることや思いなどは、ここでは本当に何の意味もないのだと気が楽になった。
 彼女は、この人が佐和子さんですか、というような目を向けて、私は半分くらい頷く。
「今日は飲むから付き合ってよ」
「最後までだからちょい遅いけどいい?」
「当たり前でしょ」
 じゃあ、と言ってそういうことになった。

 締め作業を終え、あたるちゃんはどうする?、と、すかさず「この子?」と佐和子が訊ねる。
「この子もその一人」と私は答える。
「来なよ」と佐和子が声をかける。
 一瞬、多分お互いにペンコのことを考えていた。
「お家でもいいですか?」
「お家?」「あたしの?」
「あー、なるほど」「はい」
「どういうこと?」
「今、三人で住んでるの、もう一人いるけど、正確には宿泊し続けてるから」
「なんだっけ。ペンコ、とこの子と」
「うん、クスノキと私」
「クスノキ?」
「うん」

 私は一応夕方には連絡していたからそれで良かったのだけど、どうして佐和子がついてくるのか分からないまま、彼女は私たちと一緒に家へ帰った。

 ペンコは誰が見ても不機嫌で、私はびくびくしながらも佐和子の愚痴を聞いている。
 彼女はわざとらしいくらいにペンコを気にかけないし、あたるちゃんはあたるちゃんでペンコの側へついているような雰囲気だった。
 私以外の三人には、それぞれ何かしらの意図があるようにも見える。
 なるべく佐和子の声や話に意識を合わせ、痛いぐらいの二人の気配をやり過ごした。
「それって振られたうちに入るの?」
「興味ない、ってはっきり言われたらそうでしょ」
「どういう興味のなさか分かんないじゃん」「人全般なのか、佐和子がその人にあるような部分での興味はないのか他にも」
「誰でも彼でもそんなふうに考えてないよ」
「そうかなあ」
「うん」「まずそんな層みたいに自覚してる人が『興味ないんだ』なんて言わないでしょ」
「うーん」
「別にそんな含みあるっていうかこれからずっとみたいなの望んでないし、かるーく付き合いたかっただけだから」
「なるほど」
 佐和子を体を傾けて、「ペンコちゃんはどう思う?」と訊ねる。
「私はこの話に興味ない」
「怒ってんの?」
「怒ってるってか、普通に呆れてる」
 私は背もたれに体を押し付け、物理的にも距離を開こうと試みる。
「呆れてる?」
「うん、意味分かんない嘘ついて、私がそれ知ってるってことは誰にも聞いてないでしょ」
「まあね」
「でしょ、なのにもう知ってるていで話しかけてくるとことかにも」
 数秒の沈黙。
 どこに視線を、ピントを合わせていればいいのか分からない。
 二人はそれぞれの目に何が見えているのか。
「あたしやっぱ苦手」
 助けを求めるように私を見る。
 どうすればいいんだ?
「苦手ってか嫌いでしょ」とペンコは言って、ね?、というような目で私を見る。
「まあ正直ね」
 あたるちゃんは未だ物言わぬ調度品みたいにじっとしていた。
「そっちもそうでしょ」
 どこにも微笑みすら浮かんでいない人は、思い返してみると久々だ。
 特にこの二人はほとんど常に、目元や頬や唇のどちらかに薄く笑みが滲んでいるし、そうでない顔を思い出すのも難しいくらいだった。
「いちいち聞いてこなくていいじゃん」
「確認だよー確認」
 ペンコは真顔で指の爪をいじりつつ、佐和子はそれでも目を見据えているような表情でいる。
 一体どのような目的があって、佐和子はペンコがいるここへ来たのか、ペンコはここに佐和子が来ることを了承したのか、まだ何も理解できない。
 嫌っている理由が特にないように、このような状況にも、どんな意味もないのかもしれない。
「どうして謝ったりしないんですか?」とあたるちゃんは言う。
 唐突で、だからこそか素朴な声音だ。
「何について?」
「嘘ついたことです」
「あたるだっけ」
「はい」
「無口だなーと思ってたけど、そっち系か」
「そっち系?」
「謝る謝らない、とか、そういうどーでもいいことにこだわるタイプ」
 どうしてこの組み合わせでもこうなるのだろうか。
「どうでもいいですか?」
「そうでしょ、じゃあ今から謝ったとして、それで何が解決するの?」
「別に特には」
「でしょ?」
「はい、だから、ただ礼儀の話です」
「礼儀」「やっぱそういう感じね」
「どういう感じでもいいですしペンコに謝ってってわけでもないです」「どうしてかなあって、本当にそれだけ」
「謝ることじゃないって思ってるからじゃん」
「それで、私たちの関係が変わったとしたらどうですか?」
「それは微妙だなー、でもそういうわけでもないでしょ」「もし、もし、はなしで」
「まだ分かんないじゃないですか」
 二人は見つめ合い、その目の間を何かが行き交う。
 私には知覚することもできないけれど、それぞれの表情が少しずつ変わっていっている点で、何かしらがそこにはあるのだろう。
 というかこの場で、私が自信を持って知覚できているものなどないと言っていい。
「これはもし、とかそういう話じゃないです」
 うんざりした顔で天井を見上げ、ため息、「ペンコよりあんたの方が苦手」と言う。
「帰るわ、また二人で会おー」と、二人が何か返す前に佐和子は立ち上がった。
 私は玄関まで佐和子を見送る。
 靴を履いて目が合い、同時に「ごめんね」と言って、「何が」とかぶった。
「また近々店行く」と佐和子。
「私も行くかも」と私。
 扉を開け、階段を降りていく彼女を見つめた。

 リビングへ戻ると、二人は私を睨みつける。
 私が何かした気さえしてくるような視線だけれど、ひとまずは私に向けているとも思えた。
 無言のまま二本か三本まわした煙草を吸う。
 ペンコの怒った顔は可愛い。
 頬の大体真ん中、頬骨の少し下の辺りに窪みができている。
 私は自動的にこれまでの恋人を、鼻の先にあったほくろや不気味なくらい曲がる関節を、一部分の癖毛や恒常な体臭を、大き過ぎる声や痛いくらいざらついた舌を、思い出した。
 それらは-ペンコの頬の窪みも含め-どうしてかそれ以来、私の前に現れない。
 そして、その現れなさから私は、彼らや彼女たちを尊いものだと、今では感じていた。
 当時であれば、特に愛着の波紋の出発点だ。
 私は、私がなぜ今そんなことを思い出しているのかが分かり始める。
 私は、これまでのようにその一点を以って、彼女を特別な存在だとはみなさない。
 私は、それがあろうとなかろうと、ペンコのことをこのように思い出す。
 次第に私の口元は緩んで、怒りははっきりと私へ向けられた。
「何」
 とりあえずの「ごめん」すら出てこない。
 あたるちゃんは私を見定めるような視線を向け、それでいて何も考えていないし感じていないようだった。
 それは私が今何も考えていないし感じていないことの反射だとしてみて、反射でなく、としか思えないそれまでの怒りみたいなものは、どれくらいそうなのだろうか。
 仏像の目元、赤色や青色に塗り分けられるその、色と感情や表情の結びつきは、どれくらい強固なのか?
 私は、さっきまで何を感じて、あるいは見て、もしくは内耳や肌などで、当然その複合で、何を感受していたんだろう。
 対面する二人の人間の体温は、さっきまで確かに上がっていたのかもしれない。
 暖かさは簡単に炎と結ばれ、炎は安易に暖色で思い浮かぶ。
 怒りはその中でも分かり易いもの、怒鳴るだとか罵声を浴びせるだとか、そういった激しく散った印象でまとめられていた。
 勢いのある無秩序性は揺らめく炎や火の粉と連結する。
 何がどれだけ欠けていれば、私はさっきまでの二人が怒っているのだと判断しなかったか。
 私は今すぐにペンコと、体中の皮膚を合わせたかった。
 挿入する必要もされる必要もない。
 その欲求が微塵もないとは言えないまでも、確かに求めているわけでもないし、やっぱり必要ではなかった。
 どのような欲望が、私の肌に彼女の肌を求めさせるのかは分からない。
 それでもなお、言葉にできるくらいはっきりとそう思えてしまう。

 次の日の午前、佐和子は宣言通り、予想より早く店へ来た。
 開口一番に「もう絶対バッティングしないようにして」と言って、それはまあペンコとあたるちゃんへ会うことだろうが、短い間、今日の予定を頭の中で繰った。
「てかどうやって仲良くしてんの、あの二人と」
「普段は、というか、佐和子に対してはなぜかあんな感じなだけで、いつもは違うよ」
「分かってる、ただの嫌味」
「むしろ何で、佐伯さんとも仲良くならないのか分かんないよ」
「佐伯さん?」
「あー、あたるちゃん」
「あー」
「ペンコのときみたいにこう、一目見てってわけじゃないでしょ?」
「や、今思えばほとんどそれ」
「えー」
 なるほど、と納得できるようなことも、私にはまだ思いつきもしない。
「ていうかあたしと気の合うやつがあの二人も同時に仲良いのほんとに分かんない」
「嫌味でなく?」
「うん、想像できない」
 私とそれぞれは変わらないから、セックスがあいだにあるかないかは無関係に思えるが、それが理由なような気はしていた。
 私とペンコやあたるちゃんが見知らぬ人であって、そうして佐和子と出会っていても今と大差ないだろうか。


PENCO.21

 あたるちゃんと私はソリオに乗って、彼女の家へ向かっていた。
 軽トラックでは大袈裟だろうし、この軽自動車ですら役不足だろうけれど、段ボール一つであっても電車に乗るのは面倒に違いない。
 私たちはペンコのバンドの曲を流して-彼女が十九歳の頃の声だ-氷川台の近くまで走った。

 きっと また 会えるよ
 あなたのいる 風景に
 きっと 今までも
 過ちなどは ないように

 どうかしてたの
 分からないままで 思い出にも残らない
 一人きり 見つめる湯気
 体温は
 低いけれど
 声がしたの 初めて
 日暮れの前に
 重なった肌は
 言葉の生まれる前だったから

 きっと また 会えるよ
 あなたのいる 風景に
 きっと 今までも
 過ちなどは ないように

 ペンコはそう歌っていた。
 彼女の声が最も響く音域で、だから鍵盤で言えば真ん中の辺りのAから左側、一オクターブ下のAまでで大体は完結している。
 話しているときも大抵はその辺りの音であるように思うけれど、歌声は柔らかく嗄れていてそのおかげかどうか、体の奥へするっと入ってきて残った。
 何年も前の彼女が考えていた、いや、その瞬間で捉えたものか、それが今の私にも届くそのことに-それが音楽で、映画で、小説で、とにかく記録されたものの定義の一つでもあるのだけど-まず感動して、初めの方、だから二週間ほど前の雨の午前中、はらはらと涙が流れた。
 私とあたるちゃんは妙に真剣な面持ちで彼女の歌声を聴いている。
 あなたのいる風景に会えるのが誰なのか、今までも過ちなどはないようにとはどんな時制なのか、体温と声が聞こえることはどんな関係にある?
 不思議な歌詞だったけれど、そう、だから耳でメロディと一緒に聴いていると違和感がなかった。
 勝手な想像よりも遥かに巧いギターも、私を感極まらせる要因の一つで、ペンコの姿やこれまでがより現実へ迫り出した。

 あたるちゃんの荷物は小さめの段ボール三つに収まっていて、私は思いがけずお姉さんと対面することとなった。
 確かに「あたる」を漢字で表すのは難しいけれど、「ちはる」なら漢字でもいいんじゃないか、とは思う。
 私は彼女がいることに驚いたし、ちはるさんは私が若い男であることに驚いていた。
 あたるちゃんは意外と慌てたりもせず私を紹介し、私も動揺していることを悟られないよう頭を下げ、その隙に呼吸を整えた。
 この三週間余り、あたるちゃんとはほとんどずっとセックスばかりしていて、だから、そんな人の肉親に会うのは何か畏れ多いような気分でもあったし、ここへ来る前にもしていたから単純に、勘のいい人なら分かるだろうし、多分それが私を動転させていた。
 とりあえず荷物を車へ積んで、それでは滞在時間があまりにも短いためにしばらく、ちはるさんが淹れてくれた紅茶を飲みながら話をした。

 別れ際の会話。
「あたる、大丈夫ですか?」
「え、はい、全然」「職場が一緒なので、こう、シフトが被ってない時間で食事を用意してくれたりも」「二人いると何かと生活も楽ですし楽しいですよ」
「ああ、そう、料理好きだからどんどん頼んでやってください」
「はい」
「そのお、二人は付き合ってるの?」「姉ちゃん」
「いえ、そういうわけではなく、同僚で友人?、です」「もう行く」
「もう?」「ちょくちょく帰ってくるし、越してからもたまには行くから」「もう行きましょう」
「うん」「お邪魔しました、あたるさんのことは任せてください」
「うん、うん、あなたとのことは心配してないです、あたるが心配で、うん、よろしくお願いします」

 澄香を思い出すから、というか、私と澄香のことを思い出すから、あたるちゃんとちはるさんが同じ空間にいるのを見るのは息苦しいところがあった。
 彼女たちは必要に応じ、自己催眠的に、でもどこか本質的に私たちの親代わりをしていて、いつまでも手を繋いで歩いている母娘みたいに奇妙な距離感があった。

 車に乗り込んですぐ彼女は深いため息をついて、私も静かに息を吐いた。
「すみません」と言って、色々、と付け足す。
「ううん、分かるとは言えないけど分かるよ」

 遠回りで家へ。
 運び入れた段ボールを開け、服やら本やら調理器具やら食器やら下着やら靴やらを出して整理しても二時間と掛からなかったし、部屋の様子もさほど変わらなかった。
 足りないハンガーをどこかで買えば、それでおしまい。
 下着や肌着を分けて入れられるような棚もあればいいか。

 ダイニングで向かい合い、いくつかの取り決めを考える。
・食事は作りたい人が、作りたい時に人数分つくる。
・外食をする場合や誰かを連れてくるときは一報。
・問題があればそれが何でも、なるべく早く伝え合う。
 あとはお好きに。
 そんなところで、わざわざ決めるようなことでもなかった。
 それから、「私は同僚?、友人ですか?」と彼女は訊ねた。
「あの場ではね」「多分、私たちは恋人だと思うよ」
「私たち?」
「クスノキと私とペンコとあたるちゃん」
「ああ、なるほど。なんとなくうん」「あ、でも、まだ四人でしてないですよ」
「や、まあそれはそれで、関係ないっちゃないでしょ」
「ま、そっか」

 駅前に出て、それから電車。
 渋谷まで出て適当な雑貨屋を見て回る。
 スクランブルスクエアの上の方でハンガーを手に入れて、ひとまず棚は今度でいいか、ということになった。
 神南の方へ、アイスラテで休憩を取る。
 外のベンチへ座り、先取られたような郷愁が体に満ちていった。
「今日から新生活だね」と、平静を取り戻すために素直で気持ちの悪いことを言った。
 私はいつからか、素朴で純粋なもの、あえて言葉にする必要も感じられないものを低く見積もっていた。
 あたるちゃんは、そうですねえ、と言って、何かお揃いのもの買いましょうよ、と続けた。
 それで私は救われる。
「多分、これからペンコも合流しますよね?」「だからなんか、また買い足せそうなもので」
「うん」「いいね」

 あれこれ案を出し合って-小さめのブランケット、丈夫なグラス、地味だけど色の種類が多そうな茶碗・お箸、など-結局は無難にマグカップを買うことにした。
 そうしてパルコやら西武やらヒカリエやらに寄りつつ駅前へ、なんのかんのと、常時十五色ほどはあるらしいマグを見つけた。
 私は夕暮れに淡く浮かぶ薄い紫色、あたるちゃんは翳る寸前の青空の水色を選んだ。
 両手で包んでみるとちょうど口の部分が手のふちへ沿うような、小ぶりで厚いマグだった。
 長い思案、クスノキには灰がかった焦茶色、角度によっては深い青にも黒にも見えるものを選んだ。

 掃除も兼ねてさらに整頓していく。
 街のように雑然とした押し入れは、概ねあたるちゃんの尽力で綺麗になった。
 それぞれのものを小さくまとめて区分けできるものがないから、私と彼女の下着や肌着はそっと、半分に折ったまま広げられたシートの上に並んでいる。
 ポールは八割ほど空いていて、あたるちゃんの衣類がかかっても四割くらいの余裕がある。きっとペンコの服は少ないから、あとはやっぱり細かく分類しておける何かが必要になるのだろう。

 私たちは休憩のたびに裸になって連なって、もう終わってもおかしくない作業が際限なく延びていった。
 途中で映画も観てそれは、『雨の日は会えない、晴れた日は君を想う』だった。
 どの映画でジェイク・ギレンホールを見てもジェイク・ギレンホールでしかないのに、どうしてその役の人でしかないのだろう。『ドニー・ダーコ』でも『ナイトクローラー』でも『ブロークバック・マウンテン』でも、あまりに麗しく哀しい目や、常に不満そうで華奢な唇は何も変わっていないのに、それが役者です、ということなのだろうが、そうでない「あ、これも出てたんだ」的な役者も同時にいることで、不可解なこととして思われる。
 劇的なはずなのに、彼らのシーンは淡々と進んでいった。
 そのような-取捨選択された日常を「日常」だと、誰の人生に起きるわけもないことが等しく誰の人生にでも起こりうるものだと、あらゆる景色に機能などないのだと-見せる技術とは、いったい何が大きく担っているのだろう。
 私は基本的に粛々と進んでいくものが好きだった。それは小説でも映画でも音楽でもドラマでもなんでも。しかし、対象が静かに流れていくが故に?、盗み見ているような気分になることも多かった。だから、好きな○○は?、という質問に答えられるほど好きになれたものがない。
 それでも、そんな質問を介さずにそういった話題がのぼったときに名前をあげる作品はもちろんあって、その共通点はなんだろう?
 多分「作家性」とも言えないうちにそこへ回収されてしまったような滲みがあるかないか。だから、あらゆる作品の中、そこでの遍く事象は意味が付与されていて、そこから漏れたものがどれだけあるか-当然、そこからの好き嫌いもある-作者が語りたいもののために差し出した自身の完全な一部がそこにあるかどうか、そういった共通項があるようには思えた。
 というか私にとってそれは、なにも作品を消費する時間だけに当てはまることではなかった。
 いつか疑問に思ったような、それぞれの第一言語はなんだろう、とも通じているような、私はペンコやクスノキやあたるちゃんと、どの領域であれば、互いを開示し、無欠な一部を交換、あるいは捧げることができるのか。

 私はあらためてあたるちゃんの体を見る。
 馬鹿なことを考えていると、すぐに感じやすくなって涙になる前の何かが込み上げてきた。
 あたるちゃんは私の人差し指と中指を噛みながら、途方もなく激しく動いている。
 ペンコが言っていたようなことが本当だとしても、彼女とのセックスでは私は、わざと冷静な部分をつくっていないとすぐに終わってしまうということもあった。
 観念的な世界とここは遠く離れているけれど、その間に障壁のようなものはない。
 それは、私たちの体が普段、観念的でも実在的でも理論的でも実践的でもないからで、私たちの体には、ただそこにあること以外の付加価値も、賦与された概念もなかった。
 だから怖かった。
 彼女と混ざり合っていると少なくとも私の体は、ある部分ではどうしようもないぐらいほどけていくのに、ある部分はそれ以上ないくらいに固定されていく。
 だから怖かった、はこの行に書かれるべきだ。
 咥え込まれた指からつたった唾液がぽつぽつと、私の腹に落ちてくる。
 もう今日ですら何度目か、ゴミ箱の中を確認しないと分からない。
 私の体が、最も信用できない他者だとして、どうして彼女の体は、最も信用できる他者なのか。

 二人が帰ってくる前に掃除を済ませ、シンプルな-鶏肉と人参とじゃがいもが具材の-グラタンとオニオンスープ、バゲットを用意した。
 私はこれまで割と真面目に体の弱い方だと思い込んでいたけれど、どうもそうではないらしい。
 ペンコはなぜかパエリアを持って帰ってきて、夕食はちょっとしたイベントのように盛り上がった。
「食べたらシャワー浴びて寝る」と、帰ってきてからもう三回は言ってるクスノキは、年に数回ある繁忙期の真っ只中にいるみたいだ。

 食後、眠りについたクスノキを見守ってから、肌寒いような気もする夜道を三人で歩く。
 ペンコは最近よくフーディを着ていて、今日は目がひりひりするくらいに濃い橙色だったけれど似合ってはいた。
 季節から分かることの一つに、ペンコは私たちの中で最も寒がりだというのがあって、彼女が家にいる間はもうクーラーをつけることもなくなっていた。
 クスノキは温度に対して特に何も言わず、あたるちゃんと私はかなり暑がりだ。
 私は三人とあらゆる季節、天候を過ぎてみたいと、願いを込めて歩いている。

 秋になる前に、ペンコは大量の本と数着の衣類とともに私たちの家へ越してきた。
 その気持ちがあれば今更でも何でも、ささやかな歓迎会のようなものを開くべきだろうと、私とあたるちゃんは-もちろんクスノキの分も-必要以上の料理を作った。
 最後に机の上に余った料理を見て一息つくまでがセットで、それから二日くらいはその残り物を食べて楽しさを引きずる算段だ。
 彼女の家に二つあった本棚は一つだけ運び込まれ、本もいくらか処分されていた。
「全部持ってきてもよかったのに」と、しょうのないことを言う。
「読み返してないのもめっちゃあったからちょうどよかったよー」「千都にあげたりもしたし」
「そっか」
 おおかたの予想と違わず、部屋の様子はそれほど変わらなかった。
 あたるちゃんの時と同じように、今度は軽トラックを借りて一人で、ペンコの家へ向かった。
 覚えている道のりの半分ほどで到着する。
 段ボールが八箱と本棚、それだけだ。
 帰りは助手席にペンコが乗って、歌を歌ってくれた。
 できることなら瞼を閉じて聴いていたい。

 クスノキもあたるちゃんもいない日だったから、本棚を運ぶのにはかなり苦労した。
 問題は足元の砂粒なのだろうが、これほど急な階段だとはそれまで気付いていなかった。
 踏ん張るとほんの少し体が沈んで、いちいち重さを再認識することになる。

 ペンコが加わったことで新たに増えた決めごとは特にない。
 これまでの一ヶ月余りは、大体半々で私かあたるちゃんがみんなの食事を用意していて、ペンコもそれを担当するだけだ。
「なんか悪いな」とクスノキは言って、その度に私たちは「別にいいじゃん/気にしないでください」と返す。
 三人分も四人分も大して変わらないし、クスノキは美味しそうに料理を食べてくれるから、私としてはむしろ嬉しいことでもあった。
 変わったことと言えば、家賃と光熱費をペンコと私が支払うようになったことぐらいだ。
 あたるちゃんはペンコが越してきてから二週間近く、折に触れて「やっぱり、払わせてください」と言っていた。
 私は毎回「初めから、払わなくていいってことで暮らし始めたしさ」と言って、彼女も毎度「全然そんなの、三人でならお金貯めながらでも、これまでより余裕あるくらいですから」と言う。
「それに、そういうつもりで来たけど、正直なところ出ていく気湧かないです」
「そう?」
「ここじゃなくても、なるべく四人でいたいですし」
「それは私もそうだよ」「でもまあ、気が変わるかもしれないし、とりあえず今年いっぱいは様子見ってことでどう?」
 数秒の間。
「分かりました、すみません」「ありがとう」
「うん、ま、食費とか消耗品とかはこれまでも適当だったし、今年は家賃とかもそんな感じで思っときなよ」
「うん」「なら、せめて今年は私がご飯作ります」「多めに」
「それで、気が落ち着くなら」「ありがとう」
「任せてください」
 しかし、やったかいだ。
 私は別に、私が全て払えるのならそれで良かったし、そうしたいような思いすら持っているのに、どのようにしても誰かは何かを気にしてしまう。
 だけど何となく気持ちは分かる。
 私にとってそれは、積極的に洗い物をすることと似ていた。
 だから、それぞれによく使う茶碗やコップがあり、愛でているようなマグやお皿があり、それを、いつか割ってしまうかもしれない未来を含んで今ここで綺麗に洗うことが、思いをや態度をそれぞれに示すことであるように考えていた。
 本人がそれらを損なう将来を、あらかじめ他人である私が奪っておく。
 光熱費やら家賃やらはもう少し広く、本当にそう思っているかは抜きにして単にそれを払うことが普通のことだと、それを免れていること自体に違和感があるのだと、そうは思う。
 でも多分、あたるちゃんが思って言っていることは、私にとっての洗いものに近い。
 何かを維持するため、進んで責任を負いたいのだ。
 ペンコも「えー、別にいいのに」と言っていた。
「お姉さんお兄さんに頼りなさい」とへらへら笑っている。
「有り難いですけど、来年からは払います」
「ふーん」「まあ、好きにしなー」

 私たちは何故か、これまで以上に大抵の時間を四人で過ごすようになった。
 食事も散歩も、今までと比べものにならないくらい一緒にしたし、映画を観にいったり美術館へ-ペンコの働いている、彼女が言っていて想像していたよりも立派なギャラリーにも-行ったり、ファミレスや居酒屋、動物園や植物園へ行ったりもした。
 名前をつけるまでもない道を何時間も歩いた。
 オーナーの鹿島さんは手足の長い痩身の女性で、ペンコと話すときだけはまとわるような声を出した。
 鹿島さんがペンコを気に入っているほど彼女は鹿島さんへの関心はないようで、ペンコが誰かをはぐらかしているところを初めて見た。

 初めて四人でしたのはペンコが越してきた一ヶ月後、だから秋の只中、もうただ立っているだけで汗ばむような日がなくなった頃だ。
 愉快ではあるのだけど予想通り、瞬間的に逡巡するような間が頻出した。
 それに合わせて連帯感も、三人か二人でするかのあいだに位置していた。
 その楽しさは肉体や精神の喜びから訪れるものというよりも、ただこの状況や状態の異様さが面白いというのに近い。
 だからか四人でしたのは一回きりで、それからはこれまで通り-回数はどうしてか格段に増えた-三人ないし二人でするようになった。
 確かに、クスノキとあたるちゃんを眺めていると、彼女の体はここにはないように見えた。
 クスノキには私にある怯えのようなものがないみたいだったけれど、その代わりにか、悦びが増幅しているふうでもない。
 私は、有り得ないものに出会したような目で、そんな二人を見ていた。
 だからこうなってるんだ、という点で当たり前なのだけど、それぞれがそれぞれに与えるものはまるっきり違っている。
 四人でベッドを彷徨っているとき、そのことが改めて強く意識にのぼった。
 私はクスノキへ、あたるちゃんへ、ペンコへ、このようなものしかあげられない、それは同質に反転し、私はクスノキから、あたるちゃんから、ペンコから、このようなものしか受け取れない、それは同音意義的に変容し、私たちは互いに、このようなものしか明らかにできない。
 実際には、特別な人などいなくて、そんな空間しかないのではないか?
 順接はない。私たちは、そこにいた、だけだ。
 そのことをよく覚えていなくてはならない。

 ペンコが選んだのは、曙みたいに薄いけれど映えるオレンジのマグだった。
 私は四つのマグカップを小動物のように慈しむ。
 きっとあたるちゃんもペンコもそうだ。
 クスノキだって、たまにはそうだ。

 夜中に目を覚まし、壁にもたれて煙草を吸う。
 あたるちゃんとペンコを見ていると「彼女たちはここで暮らしているんだ」と、そうでしかないことが愛おしい。
 ここにも順接はないのか。
 暮らしているからどうとか、どうだからこうとか、そういったものがなく、その事実だけが喜ばしさの起源になっていた。

 ここには接続詞で結ばれるものはないのかもしれない。
 ここではあらゆるものが等価に独立している。

 私たちは不気味なほど似ていなかった。
 似通った部分といえば、私と昨日の吉祥寺駅前で最初に目についた人や、ペンコと明日の最後にどこかで会う人でも共通しているようなものだけだ。
 目と鼻と口とと耳、とまでは言えないまでも、誰もが、もしくは、人を三十くらいの数で類型化する際に重なるような部分だけだ。
 だからこそ、私は犯罪めいたもの、もっといえばインセストタブーを犯しているような気分になるのだろうか。
 外面上でなく惹かれる部分を、どのようにも説明できない。
 私がクスノキで、クスノキがあたるちゃんで、あたるちゃんがペンコで、ペンコがクスノキだった場合でも、私たちは今のような共犯関係にあったに違いない、と思えるのは何故だろう。
 澄香に言われたように、私が死んだとして、澄香の中で私がどれくらい死ぬのか分からない。
 何も変わらないのではないか。
 彼女はああ言って何か清算できたのか、私にはそんなふうに思えなかった。
 二人の代わりに死ねばいいと、思っていなかった時間さえあの言葉で書き換えられ、憎しみや嫌悪が増してしまったのではないだろうか。
 それはでも、私がそれから、彼女の前で幸福そうに笑っていた過去を思い出すたびに懺悔したくなるようになったから、思うのかもしれない。
 彼女が、「気持ち悪い」、「あんたの全部」と言っていたことを思い出すと私は、事実であるようなことに気付く。
 私がこれまで欲求したあれこれは、私が澄香へ対して欲望していたことの擬似的な解消であるような、クスノキやペンコに道具のように使われるのも、石尾さんに暴力的に支配されるのも、私が澄香をそうしたかったのではないか、私はだから、組み伏されることを望むとき、自分自身を澄香だと考えていたのかもしれない、彼女はその全てを気持ち悪いと言ったのではないだろうか。
 そうであるならば、私はもう戻ってくることもできない混乱に陥ってしまうだろうことが分かる。
 なるべく、その思い付きを否定はしないまま、保留したまま、しかし、そんなはずがない、と自身を保たなくてはならない。
 仮にその気付きが真実だとしても、それはまだ事実ではなく、私がそれを認めてしまえば、事実になってしまう。
 私は確かに、私として、ペンコやあたるちゃんやクスノキとの交わりを楽しんでいたはずだ。
 その事実だけを守らなくちゃ、私はこれからもう、まともに生きていくことができなくなってしまう。
 澄香とは明らかに違ったこの体へ、私は集中する。
 ペンコの体の中の温かさや、クスノキの精液の味や、あたるちゃんの艶っぽい嬌声を、私の体で受け入れて、記憶の貯蔵庫へ納め直していく。
 現在時の澄香と私の差異に注目する。
 私は誰のことも憎んでいないし、誰かへの呪いの言葉も持っていない。
 そのことを彼女との最大の相違点として、私に固有のものだと思い込む。
 言葉や声で押さえつけられた何かを、私の言葉と三人の声で覆す必要があった。
 私は一人、ダイニングの椅子に腰掛けて思い巡らせていた。
 秋の長雨が落ち着いた、澄んだ空の心地好い木曜の午後だ。
 あたるちゃんもペンコもクスノキも、朝から働きに出て、久々に一人での休みだった。
 これまで-澄香に会って二ヶ月近く経っていた-運良く考えずに済んでいた物事が、噴出している。
 もうほとんど混乱しているのだろう。
 はたから見れば、私はマグカップの前に座り、読書に疲れた目を休めている人に見えただろうか。
 開かれた本は、その直後から読まれず、頭の中の文字と声で、耳すらも疲弊していた。
 みんなが帰ってくる前に、立て直さなくては。
 私は、私がされてきたように澄香を犯す。
 澄香は、私がしてきたような反応を返す。
 踏みつけられ、嘔吐している。体液を垂れ流し、狂乱している。打ちつけられ、泣いて喜んでいる。
 私は本当に、そんなことを澄香にしたい/したかったのだろうか?
 分からない。
 そうでしかなかったようにも思える。
 そうだとして、いつからそうだったのか。
 これまで掠めたこともない思い付きが、どうしてこれほどまでに私を捉えるのだろう。
 これは直感とは言えない、だから、無意識下で不連続に無秩序に考えられていたことが繋がったわけではない。はずだ。
 幼稚な空想、頭の中が四つの部屋に分かれていて、そこにスクリーンがかかっている、同時に四つの映像がそこに写っていた。
 今の私を後ろから眺めている、澄香を嬲る、ペンコやクスノキやあたるちゃんと歩いている、薄暗がりのどこかでうずくまっている。
 最後の映像はなんだ?
 見覚えはないけれど、その映像から受ける肌の感覚や立ち上がる匂いには懐かしさがあった。
 出力が変わる。
 私の後ろ姿を見つめる一つ以外、どれもその暗がりの中での私へ向かった。
 中途半端な三角座りで、ぼんやりとつま先の辺りへ視線を飛ばしている。
 引き締まった冷気が体に張り付き、そのまとわり方は熱帯夜の湿り気と同じだ。
 不快だし、じわじわと染み込んでくる。
 風が吹いているのが音で分かる。隙間風のようなものも入ってきた。
 粗雑で大きな木箱の中にでも私はいるのだろうか。
 陽の光は感じられないが、内側は真っ暗闇ではないし、なら当然、外もそうではないのだろう。
 ここに座って本とマグの間を見ている私の視界はちかちかと、瞬くたびに小さく鋭い痛みとともに明滅している。
 外部や他者からの働きかけがなければ、私は拘泥したまま、空想を断ち切ることができない。
 そこがどこであるのか、私にはよく分かっているはずだった。
 そう思えるくらいの既視感が、皮膚にも残っている。
 彼女は一体いつ、どのような形でそれを知ったのだろうか。
 私も彼も、多分そのような秘密を抱えていることに長けている。
 罪悪感もなければ、隠し事をしているような意識も持たない。
 おそらく石尾さんが故意に伝えたんだろうし、その点での疑問はなかった。
 もっと具体的な、季節や時間、場所や状況、思惑や言葉、そういったものへの、部外者的な興味がある。
 夕食どきだろうか、いつもみたいに表参道や乃木坂あたりのレストランで向かい合っていたのかもしれない。
「俺はさ、もうずっと長いこと君の弟と寝てるんだ」とでも言ったのか。
 だから、彼の気はどこかで変わったのだろう。
 澄香を観察の対象みたいに思っていたところから、傷付けてみてその反応を探る当事者の位置へ。
 きっと彼と私が会わなくなっていた頃だ。
 何か、暇を潰せるものが欲しかったのだと思う。
 それまでの彼が私を、性別や年齢に関係なく、何人もの人へあてがっていたことと同じだ。
 私は石尾さんに対して初めから終わりまで、その直後から今までも好意のようなものすら持たなかったけれど、彼のそんな態度は、私のどこかしらを修復できない状態にはした。
 何をしても-彼との一対一で直接的な接触がなければ-喜びも悲しみもしない私に飽きたから、澄香を痛めつけることにしたのだろう。
 澄香は多分、泣き喚いたり彼をなじったりもしなかったのではないか。
 意味もない、「どういうこと?」、と彼女は訊ねてみたりしたのかもしれない。
 そういう部分で、私は彼女を赤の他人だとは思えなかった。
 姉弟だからといって、その上にも下にもいたのだから、生まれた順が二番三番だからといってより似てるとは思えないけれど、ショックの受け方やそのやり過ごし方はほとんど同じものだった。
 むしろそれは、祖父母にそういった傾向が強かったのだろうか?
 私たちは両親のことを遠い親戚だとしか思えなかったし、関わった回数は両手で数えられる。
 四つ上の姉が当時、自身の生育環境に深く傷ついていることは容易に見てとれた。
 私はその点、特に不自由も苦痛もなく育っていた。
 例えば、私が生まれる寸前、だから姉が四歳か三歳末などに、彼女は祖父母の元へ預けられ、そのままそこで過ごしたのかもしれない。
 私には両親と同じ空間で、寝食を共にした記憶がひとつもない。
 祖父母が父母であり、姉もまた父母であっただけだ。
 しかしそれでも、この人たちは本当は父でも母でもないんだ、という意識がなくなることはなかった。
 なんて強力なのだろう。

 ペンコが暮らすようになってから、クスノキが家に帰る日を見計らって何度か千都さんが泊まりに来ることもあった。
 そういう日には、私とあたるちゃんは部屋をうろうろと、キッチンに立つ二人を意識しながら歩き回っている。
 大抵いつも立っている場所、時間にそこから離れていることが落ち着かない。
 クスノキがいなくて千都さんも来ない日は、私たちはトランプや人生ゲームなんかをして、それからセックスをして眠る。
 あたるちゃんとクスノキはどの組み合わせであっても、程度の差こそあれ、同じ印象を抱いた。
 私やペンコはそのメンバーによってがらりと変わる。
 ゆばりにまみれたあたるちゃんは、法悦したような表情を浮かべている。
 私たちにはそのような趣味はないから彼女に頼まれてそうしていても-異様さに毎回驚くだけで-普段と特に変わりのない心持ちだった。
 そういうふうに分かりやすい、というか、これといった欲望があるのもあたるちゃんとクスノキの二人だけだ。
 ペンコも私も、その都度、その誰かにして欲しいことが定まらない。
 あれこれ変わっていくわけでもなく、なんだってよかった。

 毎週一度、ダイニングのテーブルに置いたiPhoneでささらも交えて夕食を摂る。
 彼女が定期的に連絡をよこすのは珍しいことだったし、何かしら不思議な気分で楽しかった。
 ペンコは「早く会いたいよー」とささらを慕っていて、私は眉尻の下がるような暖かな気持ちになる。

 私はこれまでになく仕事に勤しみ、収入を1.3倍くらいまで増やした。
 使い道は別に決まっていなかったけれど、なんとなくそうなった。
 何かがずれていて私はぎこちなく、ぼんやりと日々を過ごしていたように思う。
 アルバイトに注力していたのも、多分そのせいだろう。
 なるべく勝手に、私の時間が過ぎていけばいい。

 冬になると、クスノキは顎髭を生やしはじめた。
 よく似合っていたし、私にはちょっと困るくらい色気を感じさせる風貌で、ゆえに彼も困ることになった。
 二人からは「似合いすぎてそれっぽすぎ」と意味が分からないような、でもまあ何となく分かるような、そんなことを言われている。
 私は多くの時間を、顎髭を唇で挟んでぐにぐにと、ニュース記事を読んだり調べ物をしたり、彼にくっついてだらしなく過ごしていた。
 彼の上にあって私の下にある厚手のブランケットみたいに、そんなふうに私を認識しているようだった。
 だから私も、特に何も考えずにただそこにしなだれている。

「多めに払うから」と言ってペンコはその冬中暖房をつけっぱなしにしていて、時たま濡れたタオルをぶら下げたりなんかすると快適な冬だった。

 ランニングを再開し、そこへあたるちゃんかクスノキが参加することもあった。
 一人で走るときには音楽を聴き、二人で走るときにはペースを落として日頃のあれこれを話す。
 キロ五分前後か六分から六分半。
 二キロ地点で汗が流れ始め、五キロを超えると少し落ち着いた。
 五キロから八キロくらいを、週に三回、一日おきに走る。
 そのうちの一回をクスノキかあたるちゃんと走り、ペンコは絶対に走りたがらなかった。
「こんなに寒いのにありえない」と言って、何度誘ってみても立ち上がりすらしない。


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