Cave一覧

1657字

 いつもより、今回のは縦読みだよなー、って気分が強いpenco、自動的に固定されゆく文体と、意識して組んでってるのがどっちもかなり縦寄り、てかまあ縦で右から左へ書いてんだからそりゃなって感じだけどそれでも。
 想定しているよりも、横の左から右読みは流れが早まってしまう。
 なんとなく終点がちらちら見えてる気がするんだけどなー、なかなか、まだ複数いて、あみだくじ的に、今どこにあるのか分からないし、分かった時点でその終わりはなくなる。

 そろそろmmhも書き進めたいんだけど、俺にとってなくていい、よろしくない辛さがあるせいか、無意識がそっちへ向かない。
 起きて、ふらふらあくびしつつパソコン開いて、さらに開かれるファイルは自然にpencoだし、そうすっとその日mmhが開かれることはまあない、大体ない、そんなにない。
 単純に、想定したよりも遥かに長くなりそうで、そうなるため?、そうなるから?、そうなりゆく?、途中の、ある方がいい中弛み的な場面を書くのがつまらないのもあるだろうな。
 必要かどうか後で消すかはさておき、ある方がいいし、ある方がいいなら、一旦書き切るまでの今に書いておく必要!がある。
 あとあれか、当初は真逆のpencoのおかげで進んでいたmmhの何かしらが、その力に圧されて、一時的に消えた気もする。
 いまんとこ、300000字はいかないが250000字はいくって気配と予想。

 そのあとはどうするんだろうか、短いものをぽぽぽっと書くのもいい。
 時間及び集合的で朧げで経験的で自律的な現実から脱せるものは、ぱっと、焚き火を眺めるか何かを書くか体が壊れるレベルの運動か音楽を爆音で聴くかセックスか極めて局所性の高い読書くらいで、なら、受動性と能動性が一番わけのわからない具合で混ざっている書くことを選ぶが、何かを書き続けるのは、その他のぱっ系の中では最も過酷で、その過酷さは受動性と能動性が望んだように、あるいは望んだ以上に混ざり合うまでの道のりの長さに拠り、そのほかぱっ系はそこまでは割としゅしゅっと到達する代わりかなにか、虚脱状態になりやすいし、じゃあ、そうなりにくいものを選ぶとセックスしかないが、一人でできないところに難ありで、なら、やっぱ何か書く必要があるのだけど、書き続けるために持っているべきものは何か?

 俺よ!俺を助けてくれ!って感じ。

 ちょうど5/1から新生活が始まるので、2022年の4/30まで日記つけよう、と思いはじめる。
 月一回か二回かをまとめて、12回か24回、で、しかし旅は省こう、というか別の感じで日記を書く。
 やっぱ住んでるところでは旅行に来たみたいに、旅行先では住んでるみたいに、感じたいし歩きたいし書きたいし、過ごしたい。飛んでかないように書く必要がある。

 身近な人が理解できる夢!的なものや、目標!的なものをつくった方が、俺自身も生きやすいかもしれない。
 俺はもう、好きだった寺社仏閣気兼ねなく行くこともできないし、これまでと同じ量では書いた気も描いた気も撮った気もしなくなったし、思い付いてしたあらゆる行動が全て無意味だと思うようになったし、本当に人の言葉に左右、影響されやすい。
 結局のところ、行くし描くし書くし撮るし思い付いたらするけれど、ある人のある場所ではそれは、まったくよからぬことだと、思う-知っている-そんな気がしてるってところから抜け出さねばならぬ。
 俺には体と感情しかない。
 確固とした考えなどというものがなく、だから他人の言葉で極端に一喜一憂して、それを永続的に引き摺る、雑魚。

 長旅に出たい欲ごりごり。

 机と椅子を買ったので、これからはそこで書ける。
 これまでの全ての原稿を生んだキッチンのカウンターとはおさらば。
 新居でもキッチンで書こうかと思っていたけれど、居心地は好くなさそうだったし、しゃあない、机で書けるの超楽しみだなー。

 久々に、あれ?これはマジで体が固定されてる?って感じの起き上がりたくなさに包まれた、肩と腰がころ石的な硬さ。


2076字

 で、4/22もpeで、3400字程度で8枚。
 ここ何日か頭が働かない。

 寺本愛さんの個展と庄司朝美さんの個展を観に行きたい。

 新居に持っていく紙系の選別に迷い過ぎて脳が妙に疲れる。
 増える速度からすると一冊も必要ない気もするけれど、あればあるほどいいし、呼び込むためにどれもこれも必要な気もする。
 結局は、ここ数年で読み返したことを思い出せるもの、になるのだけど、「いや、でも・・・」を完全に拭い去れないし、仕方なく持っていくものが現れると「いやいやいや、じゃあこれも!」ってな具合で、ほぼ初期段階に立ち戻ることとなる。

 鼻かみ過ぎて頭と耳がやばめ。

 ぐーっと元気なくなってくると全く同じ結果になるお金の計算を何十回と繰り返したりして、さらに元気なくなる。

 借金が鼠算式に増えていく。

 そんなつもりなかったんだけどなあってことが多過ぎるというのは、完璧に選択を間違えたということで、現実的なことを何一つきちんと、かなり根気強くしないと考えられないのは、そろそろもう駄目っていうか、俺自身を滅しかねない。
 精神的にはとっくの前に死んでいる気がする、もしくはもう少しで尽きる。
 蘇る可能性のために、肉体を殺さないよう、何かを書き続ける必要がある。
 目が覚めて寝るまで、一切の隙間なく書き続けられれば、肉体を死なす時間はなくなる。

 たかが言葉でしかないのに、それを用いてあらわすものが、さらに程度の低い、思いやら意思やらで、じゃあ、重視すべきはその表面じゃね?
 表面にあらわれている、じゃなくて、あらわした、のなら、まだあらわしていない思いや意思を相手が汲み取ることを期待してはいけない。
 八割くらい、曲解、誤解した相手より自分の言葉足らずでしかない気がする。

 俺は身内からの、(笑)的なものや、何の意味があんの?的なものに怯え過ぎている。
 その他の誰かから届く上記の二項目に無頓着なのは、その反転的な反応なのかもしれない。
 で、じゃあなんで怯えているのか、???なぜ???、その一言で思い出す同種の言葉が多いのかな、そうかもな、それに何の意味が?の後ろにには無数の異音同義の言葉が連なっている。
 その他の誰かから届くものは大抵各一回って感じ、不特定多数ってのはまさに、特定できないたくさんでしかなく、身内から届くそれらは各何百回?って感じで、何度もそんなことを言われる側にも問題はあるし、ほとんど反射的に言ってるようにも見える、が、でもやっぱり物量が持つ妙に高い信憑性や圧力はあって、じゃあ、俺はそれに怯えているのかもしれない。

 で、4/23もpencoで4137字、10枚。
 何か一言!でも書かなければ訪れないだろうに、mmhへ意識が向かん。

 今日、4/24もpencoで10枚。

 その日が過ぎて、夜、夜中に書かれたものは良くない気がする、てか、起きてから十何時間か経った後の文章か、時間帯に関わらないな。
 よっぽど気合い入れてっていうか、その日一日の疲労に気付かないうちに書ければ、そんな時間に書かれたものも残る。
 早寝早起きすべし!

 先に推敲してから4/25もpencoで4029字、10枚。

 引っ越したら「うーす」って感じで会える友人がいないのは結構やばいね。

 何か最近ちょっと調子わりーなーって思ってたけど、まず寝不足、で、摂取カロリーが基礎代謝量の半分ほどで2L近いコーヒーと三箱くらいの煙草のせいだ、とさっき気付いた。
 空腹状態でないと書けないために「あとで食べよー、でも腹減ったしコーヒーと煙草で誤魔化そー」となり、寝不足のせいで停滞している間にそれが増える。

 てか引っ越したらネット環境整うまで連載更新出来ないかもしれないのか。
 都度感想があるのがおもしろいのに。

 猛烈な早寝早起き、4/26もpencoで10枚。
 とにかく動悸と息の吸えなさが著しい、老化している。

 十回くらいまでの原稿を推敲し予約、4/27と4/28と4/29、何となく書きたい場面がいくつかあるが、その前に終わりそうな感じもする。
 明日も推敲に充てる。

 今月は248枚ちょっと、駄目駄目な2月3月と比べるといいけど、やっぱ毎日10枚、じゃないにしても、換算で300枚超えてなくちゃーとは思う。
 四ヶ月で613枚ちょっと、ここから同じペースだと、五月から八月、九月から十二月の残り二塊として、1800ちょいか、むーん!

 ぽろぽろぽろーって感じで旅行したい欲が高まってきた。

 しかし、荷物多すぎ。
 家具ゼロなのに、本やばい。いまだに全部置いていくか、多いなーって具合で持っていくか決めかねている。
 新生活!みたいな言葉に則って、心機一転!、ほぼ無で行くのも激烈に魅力的だし、かといって、それなら何故置いておくんだ?捨てるか売るかしろ!って気分にもなる。
 予定のない手ぶらに近い旅が好きな人間からすると、引っ越しのあれこれに勝手に混乱していく。
 どうせあちこち彷徨うからこそ、拠点が変わった際にそれまでのすべての紙物があるかどうか、どんなのがあるかってのが、迷いどころ。


1850字

 そいで4/14は寝坊により友人と会えず、来週へ、でpe追加の2133字。

 昨日今日(13.14)と天候でか脳が浮腫んでいる。

 早起き、4/15はpe4009字の10枚。

 ふざけた早起き、4/16は全体の推敲。

 わがつまさんのアルバムやMVが出て、聴き続けているのだけど最中に「すげーーー」とじんわり思うことがあり、それはなぜ?とぼんやり考えていたところ、多分、それぞれがそれぞれのためにあるからかもなーって。
 歌声、メロディ、オケ(トラック?伴奏?)、歌詞、と大まかに分けて、どれもがそのためにある、と感じる。そのためにというか、卵とニワトリ的な、どれが先かはさておき、どれかの要素が必要とする要素が、きちんとその時間に配置されている。
 整合性?必然性?とか思うけど、そういう言葉に吸収されるのを、思い付いた俺自身が指をくわえて見ているのはよろしくない。
 声の質から、緩く流れていくように聴こえるときがあるけれど、個々の繋がりの強さから、隙がないように思うし、歌詞が声よりもかちっとしているから、結果的に疲れないのに「いいーー!」ってまま聴き続けられるような。
 で、それって当たり前のことのように思えて、実際は全然そんなことになってない曲がこの世に蔓延り尽くしている、から、すげーーーってことなのかもしれん。
 相変わらず『転々』の2:55〜の数秒は陽の下で聴くと召される。

 三週間くらい心臓がきんっ!って痛むのと動悸がずっと続いてるが、激しく動いた後など、ではなく、なんだ?

 これはもう「俺は」ってことでもない、0と100を行き来して、最終的に、その間の数の隙間(50と51の狭間とか)へ減り込む人は、そこにいるだけであらゆる人に迷惑かけることになる。
 それは、改札の前で立ち話する奴や傘を盗む奴よりも悪質で、避ければいいし濡れたらいい、実質的な不利益を、長期的に他者へ与えることになる。

 二回目の連載、というか公開というか、で、ただでさえ書かれていくものに書かされているのに、原則として前回の原稿へタッチできないってのが、なかなかおもしろい。
 上がった二回目の次の次の次の次の次の次の原稿くらいまで来ていて、だからまだ「あ、たしか違ったな」と、一回目二回目のことを思い出せるが、これからどうか、どんどん触れられない領域が増えていく。
 何となく4000字前後、8000字前後、と公開して、次は12000字前後を予定している、とするとその次は4000字前後になるのかな。
 さらに何となく、100000字いかないくらいで終わる気がするし、120000字くらいのような気もしてる。
 ちょっとずつpeで書かれることが判明してきてたのしい。

 前日から雨降りの4/17はpe4019字、10枚、頭がぼんやりし過ぎて進まない、雨の降らないかさかさの場所に住みたい。

 翌、4/18、数秒で4436字、と追加で2162字、計16枚。追加の方は60倍かかった。うざ!
 何かを書くたびに、それまで書いていたあらゆるものが崩れ、書けない時間があったりするのだけど、今回はいくつか前からそれが起こりはじめ、今日は一瞬、そこに張り付けた。

 予定通りに12000字前後が第三回。

 とにかく頭痛と心臓が揺らぐ。

 遊びそびれた友人と、また脳味噌が溶けた。
 昼飯食べて茶とバータコしばき歩き、間食食べて歩き、の間に300000字くらい話した気がする。

 明けて4/20、前日休み、人と会った翌日、二度寝、により1500字ちょいの3枚ちょい、危惧していること三連にしても少ない、が、とにかく書く!ってことの練習にはなる。

 翌4/21も頭に靄が満ち満ちている。
 昨日に引き続き、推敲に時間を割く。

 書き進んだことで、干渉できる原稿が後ろに溜まり過ぎた気がしてきた。
 何週間か週二くらいで更新すれば、間に合わねー!って気分を味わえるかもしらん。

 俺!が!こ!れ!を!し!て!る!くらい思えるものが、小説書いてる最中の一瞬、セックス、散歩、脳溶け系の会話、散歩の延長的な撮り歩きの一瞬、絵の描き始めと途中の一瞬、しかない気がする。
 広義の仕事中に、そんなこと霞も思ったことがないし、この歳になってそんなことをしている時点で、俺だけが悪いために、誰かのせいにして束の間だけでも楽になることもなく、早く帰ってどばとばしてー!って感じに飲まれる。

 そういうわけで、三週間ほど水曜と日曜に更新してみよう。
 俺に追いつけ俺!って気分。

          


2259字

 それから、4/5はpe978字とmmh4239字、12枚ほど、途中で京都に出て『JUNK HEAD』を観る。
 何度飲んでも伊良コーラは美味いしおもしろい。

 映画を観るスイッチが入った気がするが、何を観よう、適当にとにかくマイリスト的なのに溜まっているのを消していくか。
 無理矢理スイッチした気もするため、ごりごり観ていけばいいか。

 翌、4/6はpe、mmhともに4000字ちょい、20枚ほど、から『影裏』を観る。

 翌、4/7はpe4668字、mmh4392字で22枚で、二月も三月も超えた、やっぱ書けばいい。
 書き始めることで、そこにはまだ書いていないがずっと先に書かれることが分かる。
『カフェ・ソスペーゾ』を観る。

 前日から引き摺って、4/8は頭が動かない。
 弱過ぎる。
 で、pe4084字、mmh1220字、13枚。

 いつのまにかmmhが150000字を超えていた、200000字書いたときよりも更に、100000字超えた後の数万字は良い意味で何でもない、大体100000字まで行ったということはリズムが生まれていて、そこから先はそれを乗りこなしつつ、探究を進めるという感じがある、これは今回200000字を越えるのかもしれない、書く力は着実についている、peは26000字辺り、もう!?って感じもあるけど、そりゃそうか。
 しかしまだpeの方は暴れていて分からない。

 とろとろ進み、4/9はmmh779字、pe3376字の計10枚。
 リアルタイム以降初めて『モテキ』のドラマ版を観る。それが面白いか面白くないかは別として、凝りまくっていていい。

 四月に入って一冊も本を読んでいないし、読む気も起きてはこない。

 旅行してー!って気分が強まってきた。
 地方もいいし都会もいい、ではなくて、地方はいい、都会はいい。

 起きてるうちの七割くらい、お腹空いたなあ、と思ってる気がする。

 最近また書いてる最中に歌い過ぎて喉がずたずたになってきた、が、ところどころ歌い方も分かってきて、ついつい上限を超えてしまう。
 以前200000字書いたときに聴いていた曲が聴けなくなっていることに気が付いた、苦しさが蘇る。

 掴めんペースで4/10はpe8252字、mmhは多分400字以下、どこから書いたか分からなくなった、とりあえずは20枚。

 二つの原稿をがっつり行き来しはじめて一週間、煙草吸う量が三倍くらいになって困る、沈思黙考タイムが増える。
 一旦、数分離れたい、ってことが増えたということ。

 書けば書くほど、書くことで救われる日はないと確かになってくる、ようやく、そんなことを霞も求めずに書くことができる、死ぬか蒸発するか以外で俺が救われる道はなし。
 孤独は外圧としてあるのではなくて、内側から鬼棘玉として体を突き破りやがる。

 またもmmhは、何か一言あれば、という状態に陥りかけている。

 今日はこっちだけかなーとpe5000字ちょっと、12枚ほど、煙草は半分以下までになった。

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2021.4/12
 前日バス。
 一睡もできず、非常によろしくない!

 ジョナろうとするが残念ながら、コロナ云々で開いていない。

 日比谷から三軒茶屋。
 ピカソってデニーズ。
 ようやく腹を満たせた。
 ヒッチハイク中のどこかで見かけたことが、寄った気さえするがどこだったかな、熊本なような気が。
 多分、ここのデニーズはずいぶん前に来たことがある、そのときは煙草吸えたなー、激烈に古い型のエアコンも思い出す。

 あちこち寄りつつ、しもきた。

 でっかい犬や小さい犬をたくさん見かける。

 そろそろな、とObscure Laboratoryへ。
 中深のアイスラテ、結構いい。

 すぐそこの無添加薬膳スープカレーCOSMOSにて昼食、結構いい。

 結構いいってのは、それを摂取するのにあんまり疲れない感じで、なかなか最高って感じ。
 美味過ぎる!ってのは疲れる。

 ベスト10へ逃げ込み、しばし眠る。

 目覚め、徒歩渋谷。
 途中、DYにてBRのPCCをS!
 首都高のそばを歩くと様々な思い出が蘇り、混ざり、いつだっけ?今だっけ?さっき?三年前?
 道玄坂を下っていくのは、高校生くらいの頃を思い出し、楽しいような切ないような。

 うろつき、久々に凪でラーメン。
 びっくり美味い。
 これは数ヶ月に一度にした方がいい。

 異空間的な喫煙所で一服し、東京。

 彷徨い彷徨い、コロナによる短縮、どこもかしこも閉まっている。

 鍛冶橋より帰!

 18キロあまりの散歩。
 たくさん話した。
_

 帰宅後の4/13はpe4511字の11枚。
 何とかしてとにかく書く必要がある。

 翌、4/14もpeを4007字で10枚。
 友人との予定のために極早朝に書く。
 しかしmmhは書く気すらも消失してしまった、peと真逆であるが故に、初めの方はどちらもが促進剤になっていたけれど、今はpeが予期せぬ方へ進んでいるのに着いていくのが手一杯になっている感じ、なのかな。

 現在、mmh157179字、pe51367字、休み含めて、二ヶ月弱、一ヶ月弱、直近の200000字がトータル三ヶ月くらいだったか、だからmmhはもうちょいかかりそう、休み過ぎてる!と嘆いた前回にも関わらず今回も休み過ぎている。
 純粋な無の休みってよりは、体を壊す系の読書に充てられたことだけが良いが、それなら今みたいに、書く気のない日は別のものを書くべきなのかもしれない、読むよりも。

 映画を観るスイッチが入った気は完全なまやかしだった。      


2737字

 眠気に気付かぬよう気付かぬよう、体が震える食事と心地好い散歩、バスまでの時間が伸びていく。

 県庁に侵入、という気分で来館。望んでいたものはなかったけど楽しいので良し。

 なんだかんだで3月は63枚、1月から徐々に減っているままだけど、2月との差はそれほどなかった、16枚差、6400字の差。


2021.4/1
 そういうわけで、極小旅行。

 やっぱ爆睡できるとバスは楽でいい。寝過ごすことを恐れなくていいし、耳の負担もそれほどないし、何かとそわそわすることが少ない

 有楽町辺りうろつき、ドトール。煙草吸いつつ、当然ルイボス。ここ最近、カフェインを摂りたくないが色のついた飲み物がいいなーってときの筆頭に上がる。美味しいか不味いか分からない良い香りのする枝をしゃぶっている気分がある。

 これまでは思わなかったのだけど、直近の新宿宿泊とその前の銀座宿泊により、二つの街が混ざって迷いかける。
 イメージとして、東京駅を真ん中に置いて右、てのもどう見て?って感じだけど、とにかく右と感じる方、つまり銀座、と新宿駅を中央に据えて右、と感じる歌舞伎町のペッパーランチからブルボを結んで更に秋葉神社と花園神社を結んだ歪四角形、が混ざった。
 猥雑さと道の歩きやすさ、ぼんやりしている際の迷いかけ度合いで、あ!、と気付くのだけどそれでも。
 それがさらに混濁し、新宿を歩いてる最中に国際フォーラム行くかー、東京を歩いてる最中にマルイアネックスでもぶらつくかー、と思い始める。

 そいで日比谷から中目黒。

 で、ONIBUSのホットラテ飲みつつ、俺の鳩にしたい鳩を発見し、挨拶を済ませる。今思い出しても俺の鳩にしたい。絶対に。

 目黒川の左右の盛り上がりに詰まった桜の花びらがいい。

 坂、坂、坂。

 西郷山公園を練り歩き黒犬の痕跡を探る。
 このあいだも見かけた、陽光を浴び集めるおばさんがやはりいた。

 蔦屋行って、最近は割と朝やら昼やらに行くなーと思いつつ、突然ウンベルト・エーコとアントニオ・タブッキが気にかかり始める。何故か?
 共にイタリア文学のコーナーにあったため、二人が同時というのは、まあまあ、そりゃな、とは思うが、滅多に読まない海外の作家でも最近読んだディーノ・ブッツァーティがイタリア文学なので、何か俺はイタリア文学にー読んでもいないのに!ー惹かれる訳があるのか。何故か?
 家に本が山とあるため我慢して、どこで買ったか失念していたが「もう一本おなじ色ほしー」と思っていたペンを発見し、当然もう一本と別色数本を購入し退店。

 歩き、歩き。

 ナチュロでSCHO-KA-KOLAなるものを買い、食べながら引き続き歩く。結構うまい、味の推移が分かりやすくて満足度が高い。

 腹減ったなーと久方ぶりに俺流塩ラーメン行って肉みそバターを食べ、激満腹にて忍び足。

 何かを食べるたびに「まじで胃小さくなったなー」と思うが、一体いつの胃袋を思っているのか、いい加減覚えなさい。しかしいっぱい食べたい気分のときはまだまだ結構やってくる。

 歩き続ける。

 軽く店々を見つつお腹を落ち着け、丸山珈琲のアイスラテ、非常に上質なスタンダードという感じ、近くにあれば朝夕で週6杯は飲むタイプ。

 希望を持ってIKEAを覗き、カップを買う。
 これまでに何度か、主にお冷の入ったコップだけど、「これかわいー」と喫茶店なり何なりで思い、確認するとIKEAだったということがあったことを思い出した。

 当然SPBSを物色。

 ワープ。ワープ。ワープ。

 ドンキ、ウェルシア、就寝。

 なぜか最近は渋谷よりも新宿が好きになっている。酒も飲まないのにどうしてか。
 代官山から中目黒辺りは変わらず好きで、目的なく歩いているときにも心楽しい。

2021.4/2
 毎度お馴染み、ぎりぎり過ぎるチェックアウト。

 数日前に食べて「美味い!欲しい!」と思っていたbelle plageが高島屋に入っていたため買いにゆく。今回の旅行の小目的であった。
 三種のサブレ、おまけのキャラメル味。やっぱ美味い。

 ブルボでアイスラテ、ベンチでサブレと二重共食。

 もちろん歩く。感覚としては南下。

 原宿。Healthy TOKYOでCBDのカプセルタイプ。
 アイスコーヒーとチェリーコークも試してみる、が、かなり無、流石に歩きながらチルすんなって感じかもな。
 市販の薬とかほとんど効いたことがないのも関係あるのかな、と思う。

 なんだかんだ好きなんだろうね、IKEA、歩き、彼女はりんご飴を買っていた。何切れかもらう。美味い。

 宮下公園であって、MIYASHITA PARKではないんだよなって感じが抜けない、が休憩し、空腹に気が付いたために近くのGuzman y Gomezにてブリトー、ナチョフライ、タコスを喰らい、大変ちょうど良い満ち。

 さまよい。

 都内にいてこれといってしたいことがないとき、更に空腹でないとき、散歩以外、こんなに店があるのに何にもすることがない、と何度も思う。

 ない本ないかも、と思える東急百貨店のジュンク堂でアントニオ・タブッキ『とるにたらないちいさないきちがい』を買う。

 で、Fuglen行ってアイスラテ、仰天の美味さ。なんらかの不正を疑いたくなるほどはっきりとした黒糖の後味。うますぎる。

 雨。小雨。通り雨。

 ヒューマントラストシネマに戻り『ホムンクルス』、ひっさびさの映画館での映画に原作けっこー好きなんすよねーって具合で行くのはよろしくない気もする。

 ある作品で表面的に、は?、と思うことを一旦肯定し、構造の、は?、に着目する。

 新宿に戻る。コロナの影響を初めて実感した。

 コンビニ飯をもりもり食べてバスを待つ。

 これで二日間0字。
 帰宅後の4/3は4268字。

 諸々により30日辺りからまともに睡眠を取れていないのが、少しだけ精神を蝕んでいる感じがある。ちゃんと寝なくちゃいけない。

 俺はとにかく才気煥発でなく、であれば持っているべきまっとうな、分かりやすいガッツが全くない。

 久々にしっかり眠り、雨のせいかそれでも眠いというかぼーっと、4/4は4000字ちょっとを二つ、peとmmh、計20枚ちょっと。
 で、急に「『PENCO』週刊連載しよー」となった、刊行物ではないけれど、まあいい、習慣連載の週刊、毎週バージョンってことで。

 昨日からCBDのカプセルを飲んでみているが、特に効果を感じない。
 まず一粒、数時間後に四粒、が昨日。
 一粒、数時間後に一粒にしよーと思っているのが今。
 やっぱりこれまでの医薬品の効かなさ、と無関係ではない気がする、が、成分を摂取をしていることに変わりはないため、無自覚の内での恩恵を得るために飲んでみる。


2017字

 そいで、2/27、2/28の6600字ほど(PE)は一部吸収され、解体後に固まった。
 で、3/1はまだそのことに気がついておらず506字、は?、で、3/2は元々の(mmh)が1018字で2/27からのは830字。
 多分がっかりして、3/3、3/4は本読みに充てられている、3/5は552字(mmh)、3/6は205字(mmh)、この辺りでPEは吸い込まれた。
 以下mmhのみ。
 で、またぎゃーとなって、3/7は手書きで468字、ここいらでパソコン以外での書けなさにやられはじめていた。
 手書きとメモを併用しつつ、3/8は1600字、3/9は800字、3/10は1000字、3/11は1200字、3/12は892字、3/13は1464字、少しだけ使用感を掴み始めるが、14と15は本読み。
 が、手書きとメモで書く方法がつまんないし、よくもないことに、気づき、16〜18は本読み、そのタイミングで久々のパソコンでの3/19は朝からちょちょっとで6738字、うぜー!

 読書が今までと違う強度、深度でできているのは良しとして、進捗があまりに酷い。

 それにしてもmmhを測り間違えていた。けっこうな大きさな気が、ようやくしてきた。

 書きたいし書けるのに、ごたごたに裁断されている、あれこれ試したけれど芳しくないために、最もましな方法で一旦は気張るしかなくなった。

 忙しさを自覚してから無視しつつこなそうとすると、まあまあ脳がやられてくる。かといって忙しいと自覚しつつ無視もしないで向き合うと、その渦に足下払われて頭を打ち付けるはめになり、結局まあまあ脳がやられてくる。

 ぼーっとしているときに入って来る会話で「こっちは〇〇なのにー、あの子はー」的なのがあると「何の関係があるんですか?」と、まずもって俺がその人たちと無関係で、全然別の空間にいても訊ねに行きたくなる、「何の関係があるんですか?」と言われるだろう。

 少し前なら元気なくなってたああだこうだに肉体的に、ハードの面で対応できるようになってきた、少しずつだけど。

 久々にaikoの曲を聴きつつ、初めて集中して聴くと変過ぎてびっくりする、かなり有名な曲ですら「めちゃあたってね?」が頻出、宇多田ヒカルさんよりも割られた言葉、歌詞に対して「え?」と思う回数が多い。逆にってか、SHISHAMOのってか、宮崎朝子さんの声から飛んで聴けるようになり、ここ最近あれこれと聴いているってか、よく思い出してみると昔からちょくちょく聴いていた。

 で、PEは『PENCO』でmmhは『まばらめいた人々』、で、どちらも仮題、しかしmmhは軽く200000字いっちゃいそうな気もするし、このテイストであれば行かずとも当初の100000字前後予想は大幅に超えるだろうな、何千字が削って今は12万字前半、180000字あたりで終わるか。

 あれこれこだわる方が長期的には楽でいい。
 微妙なことばっかりしていると悲しくなってくるし。
 てな訳で、量や速度にこだわりたいところをシフトして、やはり、とくにこだわるべきは、遅々として少量であっても毎日書くこと、のみ。

 LUPICIAのマスカット、美味い。
 栗のお茶とともに幸福の香り。

 眠気が隅々まで完璧に詰まっていて、むしろ「眠いなー」とは思わず、寂しいくらいの、子供がぐずる気持ちが分かる、とかでなくて、ぐずりそうになっている。

 で、3/20は2246字、うーん。
 捻出できず三日間は本読み、うーん。
 で、3/24は1007字、うーん。
 二日消え去り、3/27は1541字、うーん。

 本読みは二十数冊、ひとつきでこのくらいは久々、ってか初かもな、中高生の頃にあった気もするが、その頃的な分量でー分厚すぎる本が三、四冊あるためー換算すると四十冊ちょいとかになりそう、薄い本ばっか読んでたんだねー、と懐かしく思う。

 どうせこのまま書き続けられないし、とその時間の終わりの訪れよりも早く切り上げなければ、書き始めさえすれば絶対に2枚、予想より時間が長ければ5枚、という感じがある。
 書く時間、というのの連続性を気にしなければ、何があろうと毎日2枚、800字は書けて、ひとつきで大体24000字は確定、少な、でも確かか。

 俺は身体や身体性にとらわれすぎているのかもしれない。
 体が弱いってか、頭痛か腹痛か筋肉痛か耳鳴りか目眩か動悸か何かしらがずっとあるからだとは思うけど、それがベースになってしまっている。

 やはり、3/28は800字ちょい。

 本をたくさん読むことで、ようやく人並みになり、そこから離れればいいものを、そのまま読み続けた結果として外れた気がする、ので、もっともっと読めば、人並み並みに戻れるのかもしれない。

 200字に行かぬ3/29、3/30は1383字、3/31は3000字ちょっと。
 書けば書ける、ということを確認し続けている、が、明日から小小小旅行。

 


3305字

 ニュートラルな脳から、でろでろに溶けたところ、ごちごちに固まったところ、それぞれに到達するまでが恐ろしく速いような感じがある。
 そこから元の位置に帰ってくるまでは、行ってしまう時の何倍か十何倍かの遅さでしか進まず、俺はいつまでもでろでろしたままかごちごちしたままで、そのほんの数秒後に浮かぶ名案らしきものとは程遠いことばかり、言い、行い、あれ?と思う。

 思い返してみて、「まあ、そんなこともあるよね」、「あのときはああだった」、「あれは、○○がああだこうだして、そうなったんだろうな」と、どんな小ささでも思うことのできない過去の行いに苛まれる。
 それを行なったのは、あらゆる意味で、俺でしかないのに、今の俺、超近未来の俺、とは少しの繋がりも見えず、しかし完全に俺が行なったことではあり、どうすればいいのかと、慌てている。
 あれはああすればよかった、と後悔することはできない、それくらいこの体にあれがない。
 御伽噺のように、誰にも見分けられない形で、俺によく似たオレが、それらを行って、その罪なり罰なり何なりを、俺が被るのはいい、まだいい、むしろいい、それらを行なったのは俺でしかなく、言葉遊び的にしか響かないが、今の俺ではない、二時間前の俺でも、「二時間前の俺でも」と書いた俺でも、椅子から立ち上がるだろう俺でも、二年前の俺でもない。
 数時間後以降の俺と、それらを行なう前後の俺以外、それらとは隔絶されている、が、あらゆる意識は今にしかなく、気分だけで言えば、謂れのないあれこれで糾弾されている、俺が、俺に。
 みんなはそれをどう受け流しているのか。ノウハウ本出てるかな。

 そんで、2/27から書き出された。
 別のものが。一時間半から二時間の間で4200字ほど、悪くはないペース。
 何か、うーん、うーん、と思っている時期に読み始められた『小説のデーモンたち』で、古川日出男さんがいくつも同時に書いていると知り、思い付くとかそんな次元のことでもないように思うけれど、「あ、そうすりゃいいや」と、新しい、ノートに書き込まれた冒頭部が書き起こされた。
 やっぱりなんだこれ?ってのが出てくる。

 脳が確実に破壊されている。

 自己憐憫から己を隔離する。どんどん突き放していく。
 自責的に過ぎるから基本的に出来ている、というか意識せずともそうなっていることの方が多いけれど、小説を書いているとちょろろっと滲んでくることがあり、それはまあ自己憐憫だけではないのだけど、あれこれとともに消す作業が推敲なのかもしれない。

 翌日、2/28は2400字ほど、まあでも多分、4000字ペースかな。
 一月は223枚、二月は73枚、89200字、29200字、差やば、し、少な、だめだめ、だめだめ。

 で、久々に『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです 村上春樹インタビュー集 1997-2009』を読んでいると「るつぼのような小説を書きたい(『1Q84』前夜)にて、古川日出男さんと対談されていた。
 わお!、何より先にー『gift』や『沈黙』や『アビシニアン』、また『沈黙/アビシニアン』を読むきっかけになった『八本脚の蝶』よりもさきにー彼自身の声を読んでいたのか!、これにより『沈黙/アビシニアン』やらを過ぎて熱くなっていた自身が、何もかも間違いではなかったと証明?、された。
 で、わお!、大学生の頃に図書館で読んで以来「買うかなあ、別にいいかなあ、買うかなあ』と悩んでいたユリイカ総特集、『奈良美智の世界』にて、昨日買って今日、ぱらぱらと飛ばし読みしていたところ、「転ぶこと、立ち上がること」との題で、また声が!、わ!

 てなわけで、渾身の著作であろう『聖家族』。

 二日で2000字ちょっと。書く時間がないにしても酷い。

『聖家族』をがりっごりっぼりっと読み進めている、文体の強度に意識が向く、少し前に読んだ『沈黙/アビシニアン』との差、差というか質の変わり方、思えば初めて二段組の小説読むな。
 開かれた、二枚の紙面上にいる時間の長さがいい。

『沈黙』を読んで感じられた類似性ってのは、共通して村上春樹さんに影響を受けているからだろうと思うが、俺はやっとその類似性を感じられる地点へ来たということで、それは、文章そのもの、文体そのものに受けていた、覆っていた影響を脱した、脱し始めたということで、それは、もっと深いところへなりを潜めたということで、だから、ようやく、ここからか。
 つまり、彼の語ること、その文章の表面上で展開するあれこれ、を直接、無意識的に、持ち込まずに済んだということで、それを経てようやっと、語られたこと、展開されていたことの、正しい意味、というようなものを掴んだ。
 ここ最近のいくつかはそこを抜けたあとに書かれ、今書かれているものは、さらにもう少し先で書かれている。
 というか本から受ける影響が少な過ぎる、読書量が少な過ぎる、ため、たくさん読んだ作家、が、限定的で、そりゃ俺のようなもんはそうなるわな、といったところ。
 じゃあ、相変わらず全然読んでいないのにどうして這い出てきたのか?、たぶん、それでも書いたから、書いているからで、相対化することができるようになったのだろう、と思う。
 彼に特徴的な比喩、ではない、文章上の跳躍、意識されないリズムに支えられた読み易さ、ではない、別のリズムを持った平易な文章、等々、何日か前のノートに書かれてあった、概ねそうだと思うよ。
 そう、そしてそれは、「同時多発的」と聞いたり読んだりして、俺の中で思い起こされるものが「9/11」以外にないこととも繋がる、他であまり聞いたことがないために、その言葉を覚えた場面すら覚えているような、だからそれは圧倒的な読書量の不足、書く時間の不足と繋がっている、何度もそれらを通過すること、しかし「同時多発的」というのは、身体の感覚としてはかなり強くある、俺の中で起こるありとあらゆるモノゴトは「同時多発的」ではなく同時多発的で、その同時多発的が「同時多発的」に回収、吸収、されないために、同時多発的なモノゴトをいくつも通過する必要がある。
 なので、とにかく書くしかない。読書量の不足を嘆いている場合ではない、というか、誰と比べてるんだ?
 思えばいつのまにか、仕事を終えて疲れ果てているときの書けなさを、ただ疲れている、ただ眠たい、ただやる気が起きない、だけ、なら書け!、と思うのは、仕事を終えた後に書かれた『風の歌を聴け』や『1973年のピンボール』が体の外へ、相対化かされたことの、俺の中でだけの証拠、だと、そんなふうに?
 脳が硬直していなければいつでも書ける、はず。
 そんなことも、思考ビギナーには数年、実践をもってようやく思考される。
 自分自身に対して、がっかり、か、よくやった、しかないのはよろしくないね。

 ノートに書かれてあることと、このiPhone上でのメモと、小説、では、それぞれに覚えのなさが違っている。

 それで、短歌。以下、ノートに書かれたものもの。

「あくる日の 私を試せ 何度かは 間違うだろう 今日の言葉を」と2/19に。

「騒ぎ立つ 牛・豚・鳥と 私たち 過ごす時間は わずかだけれど」と2/20に。

 私はもっと、感じたことを表に出してみるべきだ。

 非破壊的な破壊、ノミを手にして削り取る行為、としての詩を書く動き。

 疲弊している際に行える物事を、いくつも確認してみる。
 それが、イコールで、「いつでも行える」・「平常であれば更に良く行える」物事ではないと重々承知の上で。

 必要以上に見える程度がちょうど必要なのである。

 死は内外にあり、生は内部にしかない。
 引き寄せられても見えない。
 見えているそれが、中にあるものと同じかどうか分からない。
 見当たらない。

 自己実現した上での芸術?
 生きる、生き延びるための技術、そうするために何が、どう作用、どう変化していくのか、その過渡期的様子の固定物。この今と連なる時間。

 何かあるならここまで来い。

 物語が散逸しないための、物語を同一地平に縛るための、歴史、史実。

 なるほどね。


4090字

 とか言いつつ2/11も休んで京都に眼鏡を買いに出るが、いいねーってのが見つからずサングラスを買う。
 冬の建物内の暑さやばすぎ、出たり入ったりしてるうちに熱中症的な熱のこもり方で、寝不足とあいまってふらふらしていた。
 飲みたかったコーヒーはなかなか美味くて、あんまし他では飲んだことがない風味があり大満足、京都はひと月かふた月に一回行く程度でいい。
 非常に良いノートとオリジナルグレーズド買って、新たな仲間、ぴーなっち、とともに帰宅。

 そんで、PLAZAで流れてたyungbludの『mars』がめちゃいい。
 うわー!懐かしー!って感じだったのに2020年の曲で、声が割と聴いたことありそうでないようなそんなような。

 予定になく休むことになると原動力が一気に失せる。

 継続する必要があるものを始めたり、何ヶ月か続けるのはそんなにエネルギーがいらず、年単位で継続するのと、ぶつっと切れたところからもう一度始めることは、別方向だけど結構うんとこしょどっこいしょっ的なのがいる。

「欲望は悪いもので、いつわるものである。だが、しかし、欲望がなければ、人は絶対の真理も、真に限りないものをも求めることはしないだろう。一度は欲望を通ってこなければならないのだ。欲望の源泉となるこの余分のエネルギーを疲労のためになくしてしまっている人々の不幸。
 また、欲望によって盲目になっている人の不幸。
 自分の欲望をこの両極の中心に引き留めておかねばならない。」(シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』、「中間的なもの」田辺保訳、筑摩書房、1995.7)

 最近またちらちらと読み返していて、すとんと入ってくる部分が被ったり変わったり、入り方が変わったり、何度読んでもいい、これが本か。

 何も考えずに動くと、うぇって思う人の八割くらいと重なる、ってかそうなりたくないけどそうなることもある ってのが常態に見える人にうぇっと思っていることに気付いた、推測的同族嫌悪、早く人間になりたーい!

 信号待ちとかで本読んでる人を見かけると「ですよねー」って具合に嬉しくなる。
 未だ歩きながら読んでる人を見かけたことがない、勉強してそうな人を除き、超いいのに。

 何かを再確認する、ふと気付く、ということがないと体調を崩す。

 憲法やら刑法やら民法やら刑事訴訟法やらを読んで、聞いて、読んで、聞いて、読んで、としていると、独特の文体に頭の中が削られていく。
 これはこれ、あれはあれ、とがちごちの割に、故に?、なんとなく思っていたような文じゃない、経典的なものと同じように感じることがある、一応何か一つ志向するものがあり、そこに向けて複数人の発案者、執筆者がいるっていうとこで、理路整然としているし、しているはずなんだけど、袋小路に取り残される。
 辞書を引いて調べた言葉の、その説明に使われる言葉を調べる、またそこから調べる、というふうに、位置がずれていく。
 混在しているはずの文体を、型にぐりぐりぐりぐり嵌め込んでるから「?」って見失うのかな、その地点までの流れから、ある意味で逸れてるというか。

「何かあるものが、どんなに努力してみても手に入れるのは不可能と思えるとき、それはそのレベルではのり越えられない限界があること、レベルを変えてみること、天井をつき破ってみる必要があることを示している。もとのレベルのままで、努力を重ねて疲労しきってしまうのは、堕落のもとである。それぐらいなら、限界を認め、限界をじっと見つめて、その苦々しさを味わいつくす方がましである。」(シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』、「不可能なもの」田辺保訳、筑摩書房、1995.7)

 まさに、今そんなところです。

 なんとなく読まれなかった古川日出男『沈黙』が開かれた。
 序盤も序盤、「カムフラージュ/モンタージュ」からもう、一文一文に何か感極まるところがある、鼻や目の奥がきゅっと締まる、二作目で808枚かー、これも関係ないけれど、去年あちこち回った福島県の出身だそうで、何がかは分からないが、おおー!って感じ。

 今までになく、映画を観る気が起きてこない。
 気になるタイトルやらはぽこぽこ出てくるのだけど、そこから先に全く進まない。

 本を読むと「あーこの感覚書いてるときに味わいたかったー」と思い、一瞬読んだことを後悔しかけるんだけど、そういうのがある本こそ今はおもしろい。

 昨日、2/16、友人であり仲間である男と珈琲館へ行き、久々に脳がどろどろしてくる話をし、大変に良い時間を過ごした。
 定期的にそういう、話したところで何が解決するわけでもないが、話してみる以外に何もない、ってことをあーだこーだ言いながら煙草吸って、適度に笑い疲れる、そんな具合、とてもいい。
 そんなレベルの話ができる人がまわりに数人いるのは運が良かった、たまに遊ぶだけの友達とかがゼロの代わりかもしれない。
 話すたび迷宮的な命題の中にさらに進み込んでいける人以外との交流は旅中に接する程度でいいやーって感じ。
 基本的に、自責的、片親もしくはその歴が長い、ネガティブかポジティブかいまいち言い切れない、我が強く出てこない(と感じる)、人としか深く関われていない気がする。

 しかし、ずっと書き出されないな、9日間、起きてる間の七割か八割、小説のことを考えつつ、ちょろっと書いたり、書こうとしたり、別のものが出てきたり、と、さぼりすぎている、そこから本読みの時期に嵌まり込んだ。
 こんなのって今までになかった気がするが、それは、書かれているものに対して感じられる「これまでとはちょい違うなー」ってものからの動きなのかな。

 本はごりっごりっごりっと読めていて、久々に、というか初めて?、読書出来た!って気分に陥っている。

 本番、と完全に重なった練習しかしてない。

 いつかに買ったノートが、いつかに買ったペンで書かれ始め、そこにまた別の冒頭部が書き込まれた。

 古川日出男さんの小説は『gift』しか読んだことがないんだけど、『沈黙』を読んでいると、今自分が書いているものと、とんでもなく遠いところにある、とは思えない近しさで、ちょっとおもろい、『gift』からは遠いし、『gift』と『沈黙』も遠い。
 俺を含む三人称。

 こういう雑記にしても、ノートにしても、小説にしても、日記にしても、どれだけ書いても書き尽くすことがないってのにたまに恐くなる、無意識的にも意識的にも、書かれなかった、書かなかったことの多さよ。

『アビシニアン』も読み終え、『八本脚の蝶』から飛んで読まれたこの物語には、しっかり、過去の出来事との繋がりがあった、読んでいる最中から記憶と混ざり合って、自分がどこにどういるのかが不明瞭になる。

 良い本を読むと書きたくなる。

 改めて、今までの俺の全ては間違っていたと自覚する必要がある。

 普通、とされる人生やら生活やらの果てに試行錯誤すること、ばかりしている気がする、つまり、ご褒美のみ、余暇をつくり出すことだけに注力している。
 みんなと同じこと だけ、を考えているのに話が通じないのは、そのどれも、タイミングが早いからで、おそらくおれは長生きする。
 ほとんどの時間ずっと、虚無的なものと向き合うことだけ、克服、回避、逃走、することだけを考えてきたような、だから、有事的な物事に引き摺られない、が、日常レベルが取り返しつかなさそうに終わってる、と、コロナ禍を経つつ思われた。
 仕事やら何やらの合間のぽこっと時間だけでそういうものと対面すると、結構簡単に、そっちの領域へいくし、きっちり社会人になってゆく人のことが、勝手極まりないけれど、たまに心配になる、そりゃ自粛やらでぐちゃぐちゃになっちゃう人おおいよね。

 人間を称賛するものに対して、この二年か三年、違和感が強まっている、そんなものが必要な時点で駄目じゃね、帯文とかでよく見るじゃん?、生の肯定だとか、うるさくね、どっちでもなくね、その行為だけが間違ってね?、誰の生も、何でもないはずだけど、ある特定の人の生は、直に見ることができないくらい煌いている、が、それを肯定する必要はない、わざわざする必要がない、そこにそうあることでもういい、だからやっぱり、うるさくねってことなんだけど、称賛に値する人なんて多分いない、称賛しようと思えばできるだけで、だからやっぱり、うるさくねってことなんだけど、それが、人間を称賛していることが、何がしかの作品の価値を高めている、高めるものとして利用されていることがうざいのかもしれない、称賛するならするで、それだけしとけって感じ。

 で、また、当然の流れ?として『八本脚の蝶』が読み返されている。

 ヴォネガットの『国のない男』も読み終え、なんとなく、この本で強く思ったわけじゃないけれど、書いた人以外の後書き、解題やら解説やら、寄稿文やら、これすげーいいなーって思ったことがないのに気が付いた。
 本編を読み終えて五日後とかに読むのが正しいのかもしれない。
 読み終えた流れでそういった文へ突入すると、台無しか無くてもいい、のどちらかへ到着する。
 書いた人のあれこれは、すぐに読み出しても、文体はもちろん違うのに、何かが近く、かなり楽しめるし、意味のあるものだと思われるのだけど。
 そこまで行ったってことは、俺からすると、その人の文章だけでよくなっている状態で、てめえ誰だよって気分になる。
 だから本人の解題なりなんなり、あれ?これ成立してなくね?、となったとしても何の問題もない。
 評論ってものの難しさがそもそも異様で、しかもまだ確立されていない気がするから、他人の書いた、書き足したあれこれが、台無しか無くてもいい、になるのは仕方がないっちゃないのかな。
 いやでも、あまりにも、てめえの話はいらねーよ、ってのが多いような、いやまあ、その作品を過ぎて、受けて、そりゃ自分以外のことは語れないんだけど、自身についての語りたさ、が前面に出過ぎているような。

 つづき『13』と『ドッグマザー』も読み出された。


5402字

 あ、もう一週間も経つ!と思い、2/4に書き始める、再開初日は4000字ちょい、何か一文、一言あれば、抜け出せそうな切迫した状態にある。

 昨日は友人であり仲間である男と京都へ行ってうろうろと、案外多い人通りを過ぎていった。
 慣れてないとやばいカレーを楽しんで、なかなか良い古本屋へ行き、岸真理子・モリア『クートラスの思い出』を買った。
 何年か前に大山崎山荘美術館でクートラスの絵を観て以来、割と折に触れて「何か一冊欲しいな」とは思い続けていたのだけど、その間に思われたいくつかのことと重なって、これまで手にしていなかった。
 それで『クートラスの思い出』はどうなんだろう、とは思うけれど、とつとつとした文章を読めて良かった。
 前にも行った喫茶店であれこれと話し、外の寒さと建物内の温かさで生まれた眠気に包まれ解散。
 久々に買ったオリジナルグレーズドも美味すぎてびびる、絶対に食べ過ぎることが分かる恐怖がある。

 で、なんとなく、話しているときの言葉の出方と、書いているときの言葉の出方がかなり近くなっていて、だからこそ大抵の場合、親しい友人と会った翌日は書き進められないような気がした、何万字話してんだ?って感じだもんね。

 で、やっぱ、親しい人と話していると毎度思われることで、何らかの形で互いが顧みられていないと駄目だな、というのがある、それが対等な関係じゃない?、なめてもなめられてもいないし、見下ろしても見上げてもいない、会っていない時間のその人のことが考慮されている会話ってのは、どっか落ち着く感じがする。
 顧みた結果が間違っていれば、謝ったり訂正したりすれば良くて、それは前提で、でもあてにしてはいけない。
 そうこうしていると、ついつい出てしまいそうな愚痴やら悪口が消えていって、どっと疲れるような話をせずに済むしね。

 ここ何年か思うことで、喫茶店やらでのまわりの人の話がやっばいくらい同じってのがあり、八割愚痴の二割悪口、勝手に聞いてんな!って感じだけど、声も大体でかすぎて入ってくるんすよ、まじで全国各地あれこれとそういう、人が集ってまあまあ長い時間を過ごす店へ行って、かなりの確率でそれ。
 だからそれが?でしかないけど、そりゃあ気の合う人と出会わないよねって、何度も納得して、ちょっと凹む。
 なんかもっとその、愚痴やら悪口の原因の、それを生み出すあれこれの、その成り立ちやら、定義やら、仮説やら、そういうことについて話したい、言語に引っ張られるのでなくて、言語を使って話したい。
 おもしろい悪口もあって、もうそれは評論とか考察の域にあると思うんだけど、純粋な?、悪口や愚痴はかなり定型的で、だからこそ全国各地で聞こえてくるのだろうし、だからこそ疲れ果てている人の多さに気付くというか、だからこそそれほど大量のエネルギーを使わないコミュニケーション形態を選ぶんだろうし、だからこそ、だからこそ。

 納得できないことや、反射的にうげーって思うことも、相手のそこに至るあれやこれやがあったことを一瞬でも意識すると、その初めの、払い除けるような力はどっかにいって、じっと耳を傾けたり、きちんと訊ねたりすることができる。

 何をするにしても夢や希望と空腹や虚脱感しかない。

 今年こそは本が読めるようになりたい。

 何日か前、俺の極端さは、極端に成らざるを得ない人たちが、それでも俺のことを思って育てた結果なのかな、と思った。
 俺はもっと神経質で厳密に考えたあと、それは〇〇じゃない、とか、そんなもんは〇〇とよく似た全く別のものだ、とか、決め付けていたけれど、確かにみんな、俺のことを思っていたはずで、仕方がない、ってかまあ仮説っすねって具合に、なんかちょっとだけ気が楽になった。
 やっぱり大体のことは、今の俺や過去の俺が悪いのであって、誰かや何かの所為ではなかった。
 まずもって、誰かや何かの所為に「できる」っちゅうことは基本的に、対策がある、打てるってことで、あまりに強力で酷いこと以外にはエネルギーを割くのはやめておこう。
 遺伝的な問題も、もっと遠くの人たちからやって来たものかもねって思うと、しゃあないっすわ、とより強く思えた。

 生まれたことそのものに「やったー!ありがとー!」と思える日は来るかしら。

 実際のところどうでもないのにこれまでの時間で勝手に育っていった、何かから受ける悲しさや虚しさを、なんとか、言葉を尽くして、破壊してしまいたい。

 去年ですらあちこち行ったんだからってのも意味が通らないけど、今年もあちこち行きたいなー!ってかなり強く思う、割にどっか行きたい欲は例年に比べるとましな気もする、流石に今はなーのパワーが意外にあるのかもしれん。

 これでいいですかー?と何かに確認するときと、やば夜道で祈る先の何かは、住んでる地域は同じ別の誰かっぽい。

 久々に電グルとか石野卓球さんの曲を聴いているとたまに、頭蓋骨の内側で鳴ってるような音が聴こえてぐらぐらしてくる。
 同じように電子音ってか打ち込みの音がたくさん鳴ってる曲を聴いてもそんなことないんだけど、テクノ寄りというか、そう感じられるものではそういうことが起きる。

 寝る前に音楽が頭の中で鳴り出すとき、大体オーケストラがいるのが結構ずっと不思議、経験したこともないレンジの音楽が流れていて、寝させておくれー、寝れないー、の間にストリングスの音が聴こえてくる、今のところ、音源で聴くストリングスやピアノの音色は俺をだんだん落ち込ませるので数曲しか聴けず、それなのに何で流れてくるのか見当もつかない、まじでなんで?

 引っ越す際に持っていく本をどうしようかと、まだ日があるのに考えてしまう。
 どうせすぐに増えるから全部なくしても一部を持っていっても全部持っていっても何でもいい。

 本当にここ数年、二十歳前後からようやく、何かを考え始めた気が、より強くなっていく、高校の途中までほとんど記憶もないし、物心もそのくらいについた気さえする、そこからそろそろと、考えるべきことや考えたいことを探し始めて、最近、二、三年の間にごそごそ考え出したのかもしれない。
 外から言われたことを、そうなんだー!、と自身とぴったり重なったものとして、正しいものとして受け入れていたような、それに合わせて捏ねくり回していたような、勘違いし続けていた。

 で、2/5も4000字ちょい、このまま進んでいくかもな。

 ぽ、ぽ、ぽ、ってペースが前日で、ぽ、ぽぽぽ、ぽ、ぽぽぽぽ、ぽ、ってのが今日のペース。
 脳が1/22前の状態、というか、元気のない感じになっていて、なかなか思うように指が動かない。

 いつかの俺、あるいは、俺くらい分裂した、引き裂けた人に向けて何かしら書いている気がする。

 一度ここいらで、自身が音楽と呼ぶもの、小説と呼ぶもの、写真と呼ぶもの、絵画と呼ぶもの、そういったものの狭義と広義を考え直すべきかもしれない。
 若いしね、「まだ」若いのじゃなくて、若いから、脳に強い負荷をかけよう。

 何かを始めて三日目というのは、その三日間ってのは大体いい感じ、今日はぽぽぽぽぽって感じで5173字、悪くないペース、またどうせ明日は遅くなるんだろうな。

 歌い過ぎて喉がらがら、でも何となく、失っていた歌い方が分かってきた。
 旅の間ってやっぱりいつも通りには歌ったりできなくて、去年はずっと歌い方が分からなくなっていた。

 今回は4000字前後でも頭がぼわぼわしてくる。

 あと2000字もないくらいで100000字を超える、もうなんか100000字はなんてこともない数になってきたかもしれない、そんなことないんだけど、そんな気も、しかし、ここまで来てもまだ分からない、毎回割と感触が違うのだけど、今回は更に違っていて、終わりも見えていないまま だからか今までになく「書けないかもしれない」と思ってしまうけれど、書いていない間に思うそういうことは無駄、無視していい。

 ここ数年で何度か、小五か小六のときに家でやった二人芝居で二人ともが涙を流したのはいい経験だったなあ、と思い、一体二人とも何に涙を流したんだろうと、うんうん唸る。
 じゃあ今から即興で!みたいな感じでもない即興だった、それぞれ何役かしていて、誰かが死んだ気もする、演技の一環と、そこに辿り着いたことや拙いながらに物語を生み出したことで泣いたのかな、全然思い出せないけれど、そのとき体内で起こった何かの感触が、ずっとそこにあるような。
 はなからそういうものに反応する部分と、それに反応して生まれた何かが混ざって、今の俺の根元、前提的なものに組み込まれている。

 明らかに天才でないことを嘆き続けても、そんなことでいじけず、ごりごりと進んでいかねばならない。

 で、四日目は最速で5447字、あれ?って感じだけどいっか、また新しい三日間の一日目って気分がしていたからかもしれない。
 ちょっとだけ終わりが見えた気もする。
 やっぱ、100000字はもう気にかける数字ではなくなった。

 音楽も聴かず歌いもせずで、これならって思っちゃうけど、あれこれ噛み合った結果でしかなく、なんだかんだで、実現不可能っぽい理想の環境以外では、書いてみる以外ない。

 相変わらずメモは散っていって、なおかつ、見えたものを書け、と繰り返し書かれている、プラスで、書いてみるしかないんだから書け、と、はいはーい!

 何か訊ねられて簡潔に答えないのは、それに対して相手が言ったことを覆してしまう、後出しジャンケンのようになるのが嫌だからってことに気付いた。
 誰かが誰かに相談してるのが聞こえてくると、結構な頻度で、「いや、それは〇〇なんだよね」、「あっ、じゃあ、うーん」ってなってて、でもあれかなあ、俺が「相談」としているものよりももう少し緩やかなのかもなあ、でまあそうなってて、そのときの「いや、それは〇〇なんだよね」はまず先言うとけ!って感じもあるし、どことなく、意見をぶつけてみる、相手の意見をひっくり返してみる、そのことにほんの少し楽しさを見出しているようにも聞こえていて、それは不正確で俺が穿った見方をしてるだけの可能性もめちゃあるんだけど、まあそんなあれこれを経て、先に全部言う!ってのが意識としてある。
 当然だけど、先に全部言う!ってのは当の本人でも無理なことで、先述のような事態に簡単に突入する、そう言われて初めて、相談するまでその策が思い付かなかった理由、それを阻害していた「〇〇なんだよね」が出てくることは往々にしてあり、結局ぎゅるぎゅるなって、うぉー!となる。
 ってことをここ数年、何か言った後「え、じゃあじゃあ、□□は?」と聞かれるその「じゃあじゃあ」の響き方から思うようになった。
 そういうときに聞かれることって、それまで話していたことから絶対と言っていいくらい外れる事柄で、だからこそ聞いてくるのも、「じゃあじゃあ」の意味も分かるんだけど、うざくて、だってそれは、そりゃそうなんだけど、一つの無意味な例外を投げてみることだけを目的とした行為にしか思えない、が、その例外も含めて話さなかった方もどうなんだろうと思えなくもない、が、「じゃあじゃあ」は言おうとすれば何とだって言えてしまうものしかない気もする、話した方がいいなーって思うことと、話す必要もないなーって思うことが、結構多くの人とずれてしまっている、てか、そこがあんまりずれてない人としか親しくなれなくなった、てか、どっと疲れるようになった、幼い頃はもっとずれてても気にならなかったんだけどなー。

 何かを書いてない間、そんなことでうだうだしてるようじゃなんも書けないよ、ってことでうだうだし過ぎ、書け!

 そんで五日目、しゅっと4171字、脳爆破しそう、やっといくつかの流れが見えた気がした、特に理由もないけど二月中に終わればいいか。

 書くたびに色んなものが変わって、毎回これといって参考になるものがないんだけど、今回は特にそう、ざーっと出てきそうなのを堰き止めてる何かしらが今までよりもたくさん目につく、書かれる部分ごとに、そこに現れるまでにある障害物が違っていて、そこを抜ける方法も違って、今までになくぐたっと疲れる、が、そのおかげかどうか、楽しくてしょうがない、が、この書き方で長編は難易度高過ぎっすねって感じだけど。

 これまで以上に、書いた覚えをなくしていくまでの時間が短い。

 対になるものって含みあってる気がするけど、二元論ってそもそもそうじゃなかったっけ、それは陰陽論か、「さあ、こっちとあっち、どっちにする/つく?」的なきもいのって二元的でもないのかな、本当の意味で、こっちがあるからあっちがある、あっちがあるからこっちがある、ってものの方が多くね。

 誰かや何かの熱狂的なファンになるのって、その人から出てきたものを共感できてないってことの証明の一つになる気がする。

 明確な意思と意識でもって、混乱した場所へ突入する!そこまでの時間の差って感じかな、調子の良い悪いっての。

 眠いときってまじで何にも進まない、疲れてるときはいける。

 六日目は、3274字、ごたごたして分断されると急激に止まる。

 七日目も引き続きごたごたで0字!、初めから休みだったと思おう。

   


9238字

 何日か、何か分からないけれど大きな、悲しいような気分に圧迫されて、目が覚めている間中の動悸と軽い耳鳴り、聞き取れない程度の幻聴と頭痛で、家から出ずにじっとしていた、動悸のせいか些細な動きでぐったりと疲れ、それでいて眠れるほどでもなく、普段見ない悪夢で飛び起きる、それがまたその日の動悸スタートのスイッチの一つとして作用して、そういった諸々が起きないといいなーと心配になってくる、で、何かするときに、そういう諸々を連れてくるもんじゃなかろうな?と不安になっていき、布団やらソファの上やらで身動きが取れないような気分で、実際は動けるのに動かないことにまたうんうん唸る羽目に陥る、で、一、二日めちゃ元気になって、そっから普通、雨が続くそうで、天候に左右されてまた戻っちゃうかなーとびびっていたけれど、何故かセーフ、やったー。

 それで、何か書きたい気になって、あれこれメモっていたところ、1/22から何か書き始められた。

 初日、33枚ほど、13210字となった、パソコンに向かう前に一塊、メモにがりがりと書き込まれ、あまりに汚いためにほとんど読めないまま、苦労して清書された、間に一時間ちょっと、晩御飯と体を温めるためにコタツへ逃げる時間があったので、もう少し縮められるはず。

まだ本調子でないようで、よく分かんないけど元気がないときの頭の中のうるささが残っている、元気なときは元気なときでうるさいんだけど、種類が違うような、とりあえず明日も書いてみようって気分が湧いている。

 何かしよう、と思えるだけでとても嬉しい。

 今回は確実なお供本が一冊と、そのお供みたいな感じの一冊で、二冊、ありがたいね。

 二日目、昼食を食べに出たり休憩だったりなんだかんだを挟み、11261字、駄目だこりゃ、明日だ明日だ。
 まだ二日目でなーに言ってんだって感じだけど、今回はかなりメモと絡み合っているような気がする。
 正当化するのではなくて、再構築する、言いたいことを、言ってしまいたいことを、成立させる、分解して、別の形へ、全く同じ形へ、構築し直す、それは治療行為に近い?、いくつもある可能性を捨て去ること、書くことは頭の中の急流から逃れること、どこでいつまで立っているか、見極めるのはそこ?、どこまでどうやって逃げるのか、生き延びること、滑っていく筆を制御すること、その運動の軌跡としての書かれたもの、小さな声で話されたこと、涙は俺の中に入りきらなかったものでも、俺の体の中に入ってきたものが起こした反応の結果でもなく、俺の体がそれを拒絶したもの。

 記憶の出来なさや思い付かなさにぐったりとし始めた。
 残酷な世界に生まれたのではなくて、生まれたことそれ自体が残酷で、その中に、これから起こる全ての惨たらしいことが含み込まれている。
 俺がずっと待っている人は、いつかそうなるはずの俺で、それが叶うことはないし、「そう」が何を指しているのかも、いつまでも見当たらない。
 その一文、一文字を書いたことが、生き延びることに直接くっついている、それでいて書くことは、生き延びることは、救われることから遠く離れている。
 正しさが独立していることに悲しみに近い何かを感じる。
 そういうのが人間でしょ、とか、それが大人ってこと、とか、そういう、それがそれってのを言われて納得できたことがない、ほぼ「は?」って感じしかない、そんなことではないよって思うよね、反射的にも、そのあとうんうん考えた後でも。

 三日目、11275字、15章まで来たが、頭の中がシャッフルされている。
 今回は何かを破壊しながら進んでいっているような気がする、頭がぴこんぴこんと痛む、というか、いつも使う部分と違うところを使ってる感じ、それでそこが熱くなって、ちょっと膨らんで、その近辺およびそれが痛いような。

 日毎に減っているのが気になるなあ、ひゅーんとなんかが切れるタイミングが早まってるのかな。
 三日で100枚行くかなーと思ってたんだけどなー、92枚、8枚3200字足りず、まあいっか。

 メモが日に日にカオスになっていって、あっちのページ、こっちのページ、とうざい。

 なにかを感じているときは、それがどれだけ具体的でも大丈夫で、なにかを思っているときは、それがどれだけぼやけていても駄目、全く進まなくなる。
 ギターをぽろぽろ弾きながらほにゃーっと歌っているときの、そんときの脳の感じがいいのかもしれない。

 何か冗談を言われて、それが面白くても面白くなくても、こっちも冗談で返す、そんでそれも、面白くても面白くなくても、それでいいはず。

 相手に「悲しませてやるぜ!」って気持ちが微塵もなくて、それでも何かしらの言葉で悲しくなったとき、長く付き合うだろう人や、長く付き合いたい人に、「これこれこういう理由で悲しくなったっす」と伝えるべきかどうか、結構分からない。

 書いている時間に思われた、どこにも書きたくないことをここに書いて、そうすることで次の日の原稿を新品の状態で書き始められる、気がする、気がしてる!
 書いて初めて考えられる、と思っていたのだけど、書いて初めて考えたいことが出てくる、の間違いかもしれん。

 読めない本、読んだことのない本の文字数やペースを参考にしてみる、最終的な量が初めから大体分かるってのは、その中であればどれだけ崩壊していても、何かぎりぎり、一枚の薄い膜が包んでくれるような感じがある、今回は初めから七日間限定と決まっている。

 推敲が得意な人、好きな人ってのは、本当に文章を書ける人なんだなーと思う。
 ここまででも、推敲されるべき箇所しか持たないような文をつらーっと書いていて、それでもそうしないのは、まあそれなりの意味があるんだけど、とにかく、俺には想像力や文章を書く力はないんだなーと、何かするたびに実感する。

 そう書いてしまった、書かれてしまったものを、それがそう成ったわけを崩さずに推敲するってのがどういうことか、未だにまったく見えてこない。

 実際のところ、それについて考えを巡らせたこともないのに、意識が向いていたことに何度も気付くような日々を送っていないのに、辞書的な、口伝的な、そのような意味でしか把握していない、認識し直していない言葉を使うこと、その使用法にキー!って反応すること、そのどちらからも脱出する。

 言葉がぽんっと出ることと、そのとき考えたり感じたり思ったりしたことは別ですよね、晩御飯のメニュー考えつつ外に出て「寒!」って言う時、寒!って思ってないし考えてないし、ぎっりぎり感じてもないような、やっぱりずっと晩御飯のことが考えられたり、思われたり、感じられたりしていたような。
 だから目上の人や親しくない人の意味不明な発言に、それまでがちごちの敬語だったのに、「え、何で?」とか「ね」とかが口から出てきて、思ったり考えたり感じたことを留められない人として、飄々とした、ある意味で生きる力の強い人に見られたりするんじゃないか、うーん、ただのガキか。

 四日目、10417字、26枚、どんどん少なく、長い時間がかかるようになっている。
 今日は歌いすぎってのもある、最近、シャッフル再生で曲を聴きつつ、聴いていると書けないから、歌いつつ書いていて、今日は四日間で一番ただ歌ってる時間が多かった。本末転倒もいいとこ!
 今日は書き始められるまでに時間がかかった。いつもは、書くかーって思ってすぐなんだけど、書くかーから書かれるまでに、あれこれと別のことをして、書き始めたくなるまで待っていたような感じがある。
 三日やって休む三日やって休む系の三日坊主だから、四日目はほとんどありとあらゆる物事で怠がっている、三日坊主は三日って訳でもないけど、まじ言い得て妙!

 平日は書くことに向いていない感じがするよね。
 金土日って休みのイメージで、月火水木が平日のイメージなんだけど、それは自分がどうとか、実際どうとかは関与できなくなっていて、曜日の意識があるときにはかなり強力に働く。
 同じ時間で動いている人の存在感の強さが変わってくる、息苦しさが増すような。
 途切れ途切れ書かれても問題がない部分と、連続で書かれるべき部分との兼ね合いもある、それがちょうどよく現実の時間と合うといいんだけど、当然そんなこともなく、流れを掴み直すってのに労力が必要。

 てかさ、見えてることを書くんだから、筆が、その技巧面以外で止まることなんて有り得ないでしょ、と思いながら、いやー違うんすよー、と書き進める。

 何かを書くたび、言葉の知らなさ、扱えなさにへこむ、それが目的ではないのだけど、それでもやっぱり。
 どうなれば救われたことになるのか分かんないけどそれは、救われなさを補強している要素でもある。

 あまりに酷いので、日を跨いでからも少しだけ書き足す。明日は歌いすぎないようにしなさいね。

 今回のメモには何度も「見えているものを書け」と書かれている。何度も。
 特に刺激的でもないメモを何度も見直すのはそのせいかもしれない。

 手書きのメモとiPhoneのメモと原稿とお供本っていう組み合わせがめちゃいい感じがする。
 文字の向きも組まれ方も違う、大きさも濃さも、そこに現れる速度も、定着のされ方、その強さや、消え方、その呆気なさ、何もかもが違っている。
 崩壊しかけている俺の脳みそとの親和性がものすごく高いような、そんな具合で、しかも、その四つのおかげで完全に崩れていくのを寸前で阻止してくれている。

 初日と二日目は、「この書き方、書き込み方なら、俺は無限に書けるぜ!」と息巻いていた、というか、思い込んでいたのだけど、脳みそへの負担がやばめで、「それは不可能ですよー」と言われる。

 初めにざらざらーっと書かれて、その最中に「あ、ここは推敲される」、「あ、あそこも推敲される」と思った箇所以外、推敲すべきじゃないじゃね?とよく分からんことが思い付かれる。
 で、そこを推敲した後、「誤字脱字のみを見つけるぞー!」って具合に何度も読まれる中で、それでもピコ!っと反応したところを推敲すればいいんじゃないか。
 書き終えてから「さてさて、推敲しますか」って、気合いを入れ直すみたいなのは、今の俺には合っていないのかもしれない、それは、崖っぷちに立っているような書かれたものを突き落とす行為に近いのかもしれん。
 でも、勢いがのってきたときの「あー、このままいきたい、でもここ書き切れない」って気持ちの扱い方の一つとして「推敲するしいっか」って、後の気合いを入れ直す系推敲をあてにするのは重要な気が、後で推敲されることが分かっているって点では、気付かれタイプとおんなしかな。

 何事でも大体同じだけど、それをやってる最中に感じられたり思われたこと、考えたことや悩んだことと、それから離れて一息ついている最中に感じられたり思われたこと、考えたことや悩んだこと、は似ても似つかない。
 全く別の行為だという認識の元、意識の裏っ側、無意識にいくまではいいから、そのくらいではある方がいい。

 ちょっと前に書いた小説から、歌いながら書くってのが、過集中と集中の狭間に行きやすい気がしていいんだけど、気が付いたらそっちだけになっていて注意が必要。

 書いていると頻繁に、何でこんなことになったんだろう、と思うことが起きて、俺はパソコンの前でただぼんやりしてただけなのかもしれん、と思い始める。
 これまでに書いたものを読み返してみると、より一層そういうことが増える。
 ここ最近で一番よく分からないのが、男と女よりも、男と男よりも、女と女の肉体的な交渉を書いていることで、街中で恋人然とした、外面的判断での上記の三つ、を見ても特に興味を惹かないし、ポルノで思い出してみても、まあまず圧倒的に男と女で、その次に男と男、最後に女と女でこれも、この疑問を持ち始めてから「俺は女の人どうしってのに惹かれてるのかな」と思って見てみたくらいで、なんだろう、男と男の絡みや男と女の絡みを見ているよりも単純な「体って綺麗!」とか「やっぱ男とは全然形が違うなあ」とか、そういうことを思うばかりで、勃起にも至らなかった、結構、ダンスとか相撲とか新体操とかの「まじで?」で思いつつ見る感覚に近い、で、じゃあ何で書かれるんだろう?に手ぶらで帰ってきて、ぽわぽわ浮かんでくることとしては、シンプルな「書いてて楽しい」なんだけど、その楽しさが、知ってることを繰り返す楽しさに近くて、それは肉体の構造的に完全に間違ってはいて、でもやっぱ何かそういう、慣れ親しんだものを再確認するような、まだ記憶に新しい写真を見返すような、そういった感触がある、男と女では、何度も書かれてしまうほど不明のものではないって感じなのかなあ、生理についての書けなさも、何で女と女ばかりになるんだろうって疑問と密接にあるように思う、肉体へは謎の親近感があるのだけど、やっぱり生理そのものについては、いつまで経っても分かることができない、そもそもが人によってもかなり違っているから、それを、よく聞く話としても、体験としても知っているけど、それをそのまま書くことは、書くことにならない、それでも、必要だと感じる箇所に当たり、書こうとする、そうすっと、自分の中の何かと勝手に照らし合わされる、激しい偏頭痛や腹痛が頻繁にあるから、そのどうしようもなさ、痛みからくる吐き気、怒りへのステップの減り方、それらからくる無力さ、それらを含む全体的なものへの苛立ち、等々、そういうものと重なっている部分があると仮定して書かれてしまう、書かれている人の状態が書き足されていく、でもやっぱり全く違う、仮定した重なる部分が、本当にそうだとしても、それを引き起こすあれこれが、俺には起こっていない、とにかく重く書けばいいわけでも、逆に書けばいいわけでもなく、現実と同じように、それをそれとして認識できていなければならなくて、現実に存在する人や状態を損なわずに書き込むということの難しさに飲まれていく、男と女のことを書くのも、男と男のことを書くのも、等しく問題を孕んでるし、「俺は生物学上男だから、男のことはどう書いたって問題ないだろう」って意識がいつ出てきてしまうかも分からないし、それは最低で、俺はまじで書くことに向いていない、じゃあ、妊娠や出産については?と思うが、それは俺が女になったとしてもどうでもいいことなので、書かれることもないと思う、それは原稿の外で考えればいい、ってかまあ、あれこれ書いてるけど単に、それらとの日常での向き合い方の分からなさの度合いに左右されているのかもしれない、女だったとしても日常の中で出産や妊娠はどうでもいいから、どうでもいいってか、相手もこっちも徹底的に避妊するっていう、関わりを絶つ、絶ったからこそ無関係です、だから、どうでもいいと言わせてください!って意味で、生理に関しては、そもそもの肉体的な不調の多さと情緒の乱れ方から他人事ではないように思われていて、ナプキンやらを買いに行くことに抵抗がないことや、その人がそうじゃないときにふとしてくる生理の話とかに嫌悪感がないのも関係してんのかな、「総合的にはこれが良さそうだけど、パケがまじて良くないなあ、ピル飲んだりする以外で抗いにくいのに、何でこんな」と自分の買い物のように考えてしまう、あれこれ調べると、いい感じのやつは大体、実用的な面で「えー」と思うものが多く、俺は結構、気に入ってはない物を仕方なく買うって行為にぐったりするから、もっといいものがあればいいのに、と思う、そうなると、そうなると?、書かれたものの中にそういうのが、そういうのがって言うか、今の世間では多分少数派的な考えの元で書かれた、そういう奴に書かれたものがあると、その俺自身ですら、「いや、なんかそれっぽすぎっしょ」という事態を招く、で、それが技巧面だけの問題とは思えなくて、結局全くどこにも行き着かず、空間を狭めていくだけになる。

 いい文字を書く、とか、いい文章を書く、とかで人を好きになっていた小学生の頃の俺がまだいるのかもしれない、その延長としての書くという行為、みたいな。

 得意なことって、それについて試してみたいことを思い付く回数によって、得意です!と言っていいものなのかもな、とふと思う。
 そうするとやっぱり俺には得意なことがない。

 俺のような呆れ返るくらいの馬鹿でも理解できることなんだから、100人いたら98人は理解できるでしょう!と、「少し難しいかもな」と思われた部分を修正しないのは怠慢か否か。
 一体いつからこんなに馬鹿んなったのか、としょっちゅう思うけど、そんなものはなくて、初めからずっと馬鹿で、馬鹿だからこそ今も馬鹿なのです、という一文の中に何度も同じ言葉が出てくる馬鹿さ、ほら!

 俺は俺になりたいのだと思うようになった。
 本当の俺はこんなんじゃないんだ!とかなんとか、そういうのではなくて。

 こう、長い棒が、100mの白線が、ゴールもスタートもなくて、俺は、こっちの端で反復横跳びしてて、あ!と向こうへ走って、そっちの端で反復横跳びして、あ!とこっちで反復横跳びして、ってのを死ぬ寸前までやってる予感がある。

 好きなアーティストの良いインタビュー記事で、その人の言葉で話していると「ぅぅう!」って感じ。
 いいインタビュー記事も、お供本的に、何か書く時に必要な部分の近くを刺激してくる感じがある、だから無関係とも言っていいんだけど、「お!こんなところも熱くなんのねー」とその実感なり、その感じそのものが駆動力になることもある。

 元気がなくなったときに繰り返される否定と却下が、元気になったときにも顔を覗かせる。
 そうしたい、と思ってしたことも全部意味がなくなる、一瞬だけ、一瞬で。それからずっと。
 爪を可愛く塗っても、本を読んでも、映画を見ても、歩いていても、ご飯を食べても、話していても、笑っても、泣いても、考えていても、書いても、撮っても、歌っても、描いても、漫画を読んでも、感動しても、思っていても、何をしていても、それはすぐに否定される。
 元気ないときって一個か二個かしかものを考えられなくて、その考えを何とかして退けるために、あらゆる角度からそれを覆す、その感覚が、他のものにまで影響を及ぼしているような感じ、に最近気付き始めた。
 引用という形でしか、ぐっときた詩や短歌や一節を書き起こせない、感想や考察という形でしか、好きなものを語れない。
 他人のやる事なす事「いいじゃーん!」って言うみたいに、思うみたいに、俺にも俺が「いいじゃーん!」と言ってやらないと、思ってやらないと、いつか霧散してしまう。

 五日目、9053字、22枚、見事に日毎に進捗が悪くなっていく。
 その倍は書いた気がしてて、カウントしてみてまじでびっくりした。こわ。
 酷い、ので日を跨いでから2000字ほど書き足す、あれ、昨日もそうしたから、結局毎日10000字は越えてるのか、あれ。

 昨日は書き終えてから、脳みその栓が抜けていたようで、書きたい場面や文章がどばどば、どばりすぎて寝付くのに時間がかかった。
 それは結局そのままの形では書かれないから、貴重なアイディアが尽きちゃうよーと思いながら眠ることになり、そんなことには決してならず、さあ!と体を起こす。

 俺は寝転がっているときが最も集中していられる気がする、が、読書も何かを書くのもすぐに凝って、驚きの速度で頭痛へ繋がる。
 肩と腰と首に負担のない状態で寝転がれる寝台が欲しい。

 イヤフォンで音楽聴きながらの方が捗ることに気付き、軽い混乱に包まれる。
 より近いことの、より聞き取られることの、何がよく作用してるの?、たまたま?
 生活音的なものと音楽を同時にきいているのが良くないのかな、なんとなく、音楽は聴くって感じがするし、生活音的なものは聞くって感じがすることと関係ある?、きき方は一種にせえよ!ってこと?
 外国語か日本語かはあんまり関係ない、音の雰囲気やリズムが重要になってくる、流しながらも書けるか書けないかには。
 いや、でも、むしろ静けさを求めているのかもしれない、アルバム単位で聴かないのも、うるさくするのも、数曲を繰り返して聴くのも、そのためかもしれない。

 一つのことに集中し続けられないのと耳を澄ましているってことが混ざって、ごく短い集中すらも千切れていく。

 耳が気持ち悪くならない系の無音の部屋に一人でいたい、まじで。

 想像することは悪!みたいな気分が起こってきた、それは多分、タイピングが止まった瞬間に続きを想像してしまう、その逃げのような用い方に対して思われているんだろうが、果たしてそうか。

 六日目、6632字、残り一日で書き疲れのピークに到達、ぴたっと止まる時間が多かった。
 止まった先の見えなさが最早おもしろい、昨日までなら止まっても、しばらくすると見えてきていたのに。

 言葉や体のために文章を書きたく思う、書いていると違和感のないものでも、口に出してみる、書き直す、口にできるものを書く、いつどこでも書けることを書く、句読点化した語尾の、その居心地の悪さを解消する、「この気持ちは、このくらいの深さにあるものだから、こっちの、普段使わない漢字の方にしよう」みたいな考えを全部捨てる、文体と文脈の鍛錬、口文語を目指す、どうしようもない、繰り返される。

 明日で終わるけれど、それで終わるものではないことが分かっていて、だからこそ?、緊張の糸的なものが切れた感じがある、ふっつーに200000字辺りまでいきそうな気配がある、初期設定をしくじった!
 でも、一旦終える、抜け出せなかったー。

 これまでと違う方法で書かれたから、その中で気が付くことも違ってくる。

 最終日、5652、完全に何かが切れてますね、七日間で68850字の172.125枚、ちくしょー!、100000字はいきたかったのにー、修行することで修行不足に気付く、原稿は84939字の212.3475枚、どういうこと?、吸い込まれた原稿は16089字もなかった気がするんだけど、どっかでちょっとだけ間違えてるのか、あっちこっちと、書けるところから書く!ってのを積極的に行ったためにこんなふうになった気がする、まあいいか。

 で、やっぱ後15061字では終わりそうもない、というかまだ終わりが見えていないので、日々4000字〜8000字で進んで行くしかない、通常運転だ。
 肩と頭の片側がお終い!って感じだから休みたいけれど、達成もしなかったし、続けて書く方がよさそうな、あんまり休むとよりいっそう終わりが見えなくなる気配ぷんぷん。

       


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