私に存在するこれは、一体どこの誰のものと交換できるだろう。そもそも、これが何なのか、私にはまだ分からなかったし、そんなそれを、交換したがっている訳も分からなかった。それが本当に私の中にあるものかどうかも、私には感じることさえできない。肌には決して触れない辺りで漂い、私の体を包んでいるようでも、何にも観測されない微小な状態で体の中に点在しているようでもあった。北からしか出入りできない町で育った、その断ち切られた感覚は未だにどこからも拭われていない。その正確な位置も見極めることができないくらい、体のあちこちに延びて染み込んでいた。着信を知らせる振動や音が、届いたそばから意識を滑り出た。窓際の椅子に座ってちらつく雪を眺め、どれくらいの時間が経ったろう。一時間も経っていないはずだが、景色に向かう意識の乱れや、右足の痺れ、あれということもない思いの流れ、そのどれもがばらばらに流れているせいか、実際の時間以上であるように感じられた。とにかく、私は窓際に座っている。輪郭を持たない雪の粒は、視界の端から端へ、過ぎ去ってはまた流れ込んできた。扉を強く閉める音が、どこかから聞こえてくる。私の他にも今、このマンションのなかでこうして雪を眺めている人がいるだろうか?意識や時間の感覚もなく。取り立てて特徴のある一日ではなかった。それにしたって、今日という一日の締め括りに相応しい過ごし方だとは思えない。着信音や振動は繰り返されている。これはいつの音だ?私の手のひらの上で光ったり揺れたりするそれは、私の一部のようにも見える。どうしてか手のうちに、刺激を与えられた貝みたいにすっぽりとおさまっている。遠くの岸壁に小屋が建っている。けぶった景色の向こう、その一点がやけに目につく。私は迷い込んだ、軋む床板の下に、小屋を支えるために斜めに渡された柱を感じ取ることができた。それは荒々しい岸壁の腹に突き立てられた三本の杭だ。それはこの絶壁が崩れ去るのを防ぐ杭だ。私の一歩一歩がその杭を、岸壁のさらに奥へと食い込ませる。地鳴りのような音を立てて波が砕けていく。その振動が小屋の中に充満していた。小屋は内側からも軋んでいた。私は重心を落とし、必要以上に慎重に歩いていた。私は何かを忘れていた。それだけが、私が分かっていることの中で唯一の確かなことだった。私はいくつものことを忘れていた。波の音が部屋の中にこもった。それはいつまでも消えず、ほんの少しずつ大きくなっていった。私の耳は音を掴み損ねた。何の音も聞こえない。どこへも行かない。羽ばたきのように音と像がずれていた。私は耳を塞いだ。音は大きくなった。音は私の中から鳴っていた。私は口を開いてみる。言葉のような、音のような、吐息のようなものが漏れ出す。
小屋の中には一脚の椅子が。古びた装飾と軋む背もたれ、私はそれに優しく腰掛ける。雪の粒が流れている。誰かが誰かに向かって、風の動きを伝えるためだけに降らしたような雪だった。舞い上がった雪は空中で弧を描き、その頂点から海へ、放たれた矢のように降り落ちる。そんな動きの連続を、私は逐一言葉にしながら見つめていた。男は私の肩に分厚い手のひらを置いていた。それは本当に、置いてあった。どのような思いも、その前触れも、何もなかった。暖かくもないし冷たくもない、つまり私の体と同じ温度であった。私は彼の手の甲を指先で撫でた。私が迷い込んだ先は、朝露で濡れた丈の低い草が生い茂っていた。少し先の地面からそり立つようにして丘へと続いている。私は何もかもを見落とさぬよう、しっかりと瞼を開いて、大股で歩き始めた。遠くかえら聞こえる、警笛のような甲高い音が耳に届く。男の手は私の首筋に伸びてくる。浮き上がった血管がぶつかりあって、体のどんな場所でも脈打っていることを思い出させた。私の体は頭のてっぺんから爪先まで、常に脈打っていた。男の鼓動は私のそれよりもいくらか速い。大きな体に、小動物を思わせる速い鼓動。辺りの静けさがぐっと深みを増した。雪の粒はその数を一定に保っている。目の奥で同じように光が、ちらつき、流れて砕けていった。静かだ。雪室の底には何もなかった。私は曲面にもたれかかり、目線を上げている。覆いかぶさるように生えた草で、ほとんど何も見えない。私は歩いていた。走ってもいただろう。草を掻き分け、誰かから逃げていた。追ってもいた。それからふっと宙に出た。数秒はそこにいた気がしたけれど、一秒だってそこにはいなかった。落っこちた拍子に膝と手のひらを擦り剥いた。よく知っている生っぽい金属の匂いが雪室の中に漂っている。今死んだばかりの動物と同じ匂いだった。それは山の中で見かけた小鹿の死骸と同じ匂いだ。私は手のひらを舐めた。むしろただの金属に近づいたそれは、その味は、見たこともない果物の味がした。絵本の中の果物だ。そこは不思議と温かかった。私は、いつまでもそこにいてもいいような気になっていた。手のひらの傷跡は毛虫のような形に裂けている。私はその傷跡を爪で抉った。血の匂いが濃くなってゆく。私はその匂いを吸い込めるだけ深く吸い込んだ。それは死にゆくものの匂いだ。あわいの香りだ。その匂いを私は知らなかった。一番よく知っているはずなのに。充満した匂いは織り込まれるように沈殿していった。私は揺蕩いはじめる。体が重みを失う。光は匂いの層を通り抜けなかった。心地好かった。そこは、そのほかのどんな場所よりも心地好かったのです。ここは私が迷い込んだ場所ではなかった。私の目は霞を通り抜けると、もうもうと舞った砂粒を捉えた。私はきつく目蓋を閉じ、滲み出てくる涙でそれらを洗い流した。男は私のそばに立ち、その表情は吹き流れる砂で見えなくなっていた。どのような顔をしていただろう。私は瞼を閉じたまま、男の顔へ手を這わせた。固く締まった顎先から伸びる柔らかな頬、頬骨の感触と小さな隆起、黒子だろうか、そのまま長くごわごわと生えそろった睫毛を撫で、目の玉が収まった空洞の縁に触れた。男の鼻息が手首にかかる。それはこのような場所でも熱く湿り気を帯びている。今朝つけた香水と混じり合って、私の匂いではないものが立ち上ってくる。男の眉毛は所々短かったり癖がついたりしている。額に軽く残る傷跡の感触は、切り傷であることが分かる。判別のつかない陽光が、薄い瞼を通して差し込んでくる。私はそろそろと目蓋を開き、男の顔を確認しようとする。男は、私をびくつかせない程度の早さで腕を上げ、私の目を手のひらで覆った。これほど強い日差しの中で、どうしてこれだけの暗さが生まれるのか。あてがわれた部分の骨や皮膚が震えている。私は何か言って、男は手のひらの加減で返事をよこした。その返事は、それまでのどんな返事よりも優しかった。私に向けられた、私のための返事だった。それは、それを知ったあとでは当然のことのように思えたが、それまでのことを踏まえるとそんなことはなかった。誰も、誰かに向けて、その人のためにだけ答えるということはできなかった。知ってはいけない感触がいくつもある。それを知る前と後では、何もかもがすっかり変わってしまうのだ。私はそれを知れたことに、その純粋な一つの出来事に幸福を感じるし、感謝すらし始める。しかしそれは、私が知ってはいけないことの一つだった。ありとあらゆる物事がそうであるように、このこともまた、渦中やそれをとうに過ぎ去ったあとでしか理解できない。この世には意地の悪いものしかなかった。もう後戻りはできなかった。何度もそうなった。何度も、後戻りできないことを知った。私は、彼の手のひらの温かさを思い出すことができない。そこに熱があったことだけを思い出すことができた。彼の手のひらには、私の瞼の柔らかさや、睫毛のこそばゆい震えが残っているのだろう。そこにあった温度はどこへ行ってしまったのだろう?私は、何も知るべきではなかった。彼だって、私に何一つとして、与えるべきではなかった。その逆も然り。互いに何も明け渡さず、与えず、そうしていれば良かった。本当にそれで良かったのかどうかは、歓迎すべきでない事態が持ち上がってから分かる。さて、どうしよう。男は私のつむじに口を近づけ、何かを呟いている。それは私の耳には届かず、届いていたとしても意味をなさなかっただろう。いや、意味など分かる必要はない。私はただ体を開いているだけで良かった。男の呟きは一定のペースで続いている。私はもう意味を追おうとはしなかった。体の縁が滲んで行くような感覚があった。その感触は体の奥と、皮膚の少し先で感じられていた。私の中に音が溜まっていく。それは言葉ではなかった。意味を持たない言葉は、音として私の中で拡散して、そして沈殿していった。今では私の体は外と同じように熱を持っていた。私は薄い膜に包まれていた。その膜の内側と私の体の中を行き来して、どこへも落ちていかない。響きが増していくことはなかった。ただ着実に私の中に溜まっていった。男の声は、私がそれを「声」としか認識できないだけで、声ではなかった。私の中はその「声」でいっぱいになっていた。しかしそれはどこにも溢れていかない。私は膨張した。狭苦しい小屋の中で、私は膨らんでいった。
椅子の上に立ち上がった私は瞼を開け、男の顔を見下ろした。男の鼻先が私の顎の先に触れている。男の目は暗い藍色で、ほんの少しだけ黄味がかっている。薄く開けられたまぶたや睫毛が小刻みに震えている。私が口を開けると、男は待ち構えていたように同じだけ口を開いた。私は当然のことのように、そこに向かって唾液を落とした。男は私の目を見つめたまま、それを飲み込んだ。男の視線は寸分もずれない。左右に振れることもないし、私の目の奥の、男が見つめているであろうものからも離れない。男がそれを飲み込んだ硬い音が小屋の中に残っている。それは雪の粒が窓を叩く音とは何もかも違っていた。私はもう一度男の口の中に唾液を流した。私の手足はすとんと下に落ちている。肩や腰の付け根だけが重みを感じていた。男はそれを、音を立てずに飲み込んだ。少し潤んだ目はそれでも、先と変わらず何かを見つめている。それは私を見ているのではなかった。もう少し遠く、私を通じて、私を望遠鏡にして見ることのできる何か、そんなものの姿形を確認しているのだ。私はその視線を、窓際にへたり込んだ体に感じることができた。男は私の唾液を欲しがった。もっともっと、と。彼は動かない。私は口を開ける素振りを見せる。男の目が揺れる。外廊下を走っていく子供の足音が、部屋の中での音のように響いている。私は手の中に視線を落とし、着信を今か今かと待ち望んでいた。それは良い知らせであるはずだ。福音とまではいかなくとも、それは私にとって良き報せであるはずだった。そうでなければ、私はここにもう一秒だってじっとしているわけにはいかない。今すぐに立ち上がらなくては。廊下を真っ直ぐに歩く。廊下は次第に三叉路にぶつかる。私はどの道を通ってここへやって来たのだろう。どの道にも覚えがああったし、どの道も初めて目にした。どの道の先も霞がかって見通すことができなかった。大木がいくつか目についた。樹皮の剥がれたようなそれらは、裸の人間が立ちすくんでいるように見えた。私は左の道を歩き始め、その木に触れた。肌よりも滑らかな表面は、それでも岩のようにひんやりとしていた。樹木と岩のちょうど中間に位置する手触りだ。内部に水分を湛えた岩のようだった。私はそれを長い時間撫で続けた。匂いをかぎ、頬をつけ、舌を這わせた。それはどんな味も風味もなかった。幼い頃、石も木も口にしたことがあるが、そんなような味は一切感じられなかった。中点にあるそれはもう何でもなかった。岩と樹木の間の子でもなかった。振り返った私は、もう廊下へ続く道がないことに気が付いた。この道は、どこへだって通じていない。そんなことは分かっていた。それでも私には、この道をどちらかへ進んでいくしかなかった。その選択肢以外は何も残っていない。私は木から離れ、とにかく歩き始めた。鼻歌を歌う気分にはなれない。ただ足を動かせることしかできなかった。道はどこまで歩いても何一つ代わり映えしなかった。ぽつぽつと木が生え、石や岩が転がっているだけだ。目にうつるものすべてが灰がかったようにくすんでいる。男はどこへ行ったのだろう。どこへ通じているのだろう。これほど荒涼とした場所を他には知らない。それでも、何が組み合わさってそうなっているのかは分からない懐かしさがあった。私は以前に、ここに似た場所へ来たことがあっただろうか。記憶の中ではそれは、確かにあった。しかし私自身はそうは思えなかった。こんな場所は知らない。男のことも、小屋のことも、私は何も知らなかった。私に今ある選択肢は、この道をとにかく進んで行くことしかなかった。迷い込んだのは私なのだから、私は自身に対して、何かしらの責任を果たさなくてはならない。せめて、誰かいれば。そう思わないわけにはいかなかったが、どこまでも無意味だった。その「誰か」は、特定の誰かだった。その「誰か」を、私はもう何度も忘れていた。何度も思い出した。その度に忘れた。忘れるたびにその「誰か」は遠くへ行った。むしろ私が離れたのかもしれない。違いはない。もういないのだ。ここがどこだったか、確かめるすべはない。私は帰り道を見失っていた。それがあったかどうかも今では疑わしいものだ。私は初めからここにいたのかもしれなかった。来し方はどこにもない。必要なかった。何も必要ではない。何かを必要としたところで、ここでは何の効力も持たない。腐って朽ちていくだけだ。腐臭は私を絡めとるだろう。こんな狭い、一体誰がこんなところに。私は手のひらを見下ろした。そこにはどんなメモ書きもなかった。いつも通りの手のひらだ。何かを掴んでいたような跡が見える。小さな箱のようなものだ。
私に残された時間はどれくらいあるだろう。立ち上がり、シンクまで歩いて水を飲んだ。金属の味がする。帰ってきたまま玄関に置きっぱなしの鞄を取りに行って、コーヒーを淹れる準備を始めた。ケトルいっぱいに水を入れ、強火にかけた。大きな灰色のマグを出した。冷蔵庫から水を張ったお皿を取り出し、沈めてあったネルを固く絞った。豆を電動のミルで挽き、持ち手のある金属の輪っかにつけたネルの内へと落とす。それからすぐに、かたかたと蓋が鳴るのが聞こえてくる。火を止め、乾いた布巾で持ち手を掴む。マグの上に左手をセットし、優しく、ゆっくりと湯を注いだ。何かの巣のように唐突に膨らむそれを見ていると、コーヒーの香りが部屋中に広がっていることに気がついた。蒸気は目に見える形での香りではなかった。私は部屋の中を歩き回り、ここが私の家だと確かめた。その行為はどのような確信も生まない。それでも、そうせずにはいられなかった。部屋の隅に何かがうずくまっている。それは私を見上げている。いつからいたのだろう。さっきまでそこに何かいただろうか。私の視線を受けてもそれは動かない。膨らんだり萎んだりする部分があり、それは横腹か、うずくまっている何かは生き物のようだ。私は部屋の隅に足を向けた。部屋の空気が揺れ動いたように一瞬、身じろぎをしたそれは立ち上がり、私に向かって歩き出した。私はそれが何か知っていた。ずっと前に見たことがあった。それだけは覚えていた。どこで見たのだろう。どこかの夜道だ。うんと小さな頃にも見かけたことがあった。それは勘違いだ。そのときは見なかった。ただそこにいたことを知っただけだ。私は何度もそれを見た。その気配を感じていた。初めて目にしたのはいつだったろう。中学生の頃か、高校生になってすぐか。分からない。でもきっとそのあたりだろう。私は何度も、何度もそれを見たことがあった。そのことを覚えていた。そのとき私が思っていたことも思い出せる。それは私のそばまで、細い四本の足を器用に動かして、ゆっくり、近づいてきた。私は視線を外すことができない。私が選択できることはもうそれほど残ってはいない。私は瞼を閉じる。
コーヒーを淹れ終わるとマグを持って窓際に立ち、さっきまでと同じように向こうを眺めた。コーヒーはすでに飲み頃になっていた。私は一口、二口とそれを啜り、小さな机に置いた。雪はどのような要素も変わることなく降り続けている。小屋の中の人影が見える。私の影だろうか。影は一人分で、行ったり来たりしていた。それは「誰か」の影かもしれなかった。私はその小屋への行き方を知らない。会うことはできない。こんなにはっきりと見えているのに。何かを運んでいるようにも見える。きっと、ただ歩いているだけだろう。私はその影の動きちらちらと見ながら、何も考えていなかった。影はいつまでも動き続けていた。窓もない小屋の人影を、どうして見ることができるのだろう。探し物でもしているのだろうか。影はいつまで経ってもその何かを見つけ出せないでいた。誰かが、近くに立っていた。小屋に合わせて作ったにしても小さな扉の横、誰かが立っていた。歩き回る影を眺めている。どちらも一言も発さない。ただ動き続ける影と、微動だにしない影があるだけだ。私はじっとその二つの影を見ていた。キッチンで物音が続く。振り返るが誰もいない。当然だった。玄関の扉が音を立てる。通り抜けた風が頬に当たる。私は身震いをして、ブランケットを取りに窓際を離れた。寝室は静かだった。朝、そこを抜け出したままの形のベッドが見える。羽織ったブランケットを合わせ、また窓際に立った。人影は見えなくなっていた。うらぶれた小屋が見えるだけだった。玄関の扉が開く、細く耳障りな音が聞こえた。私は振り返る。扉は開け放されている。誰かが立っている。その隣にも。そのまた隣にも。ここからでは見えない場所にも、誰かが立っている。風が強く吹き込んだ。カーテンが揺れ、窓が小刻みに震えた。攪拌された意識が、何かを考え出すことを阻害しているようだった。
フクヤさーん、と聞こえて振り返ると、アキちゃんが小走りでこちらへ向かってくるのが見えた。紙の束を抱え、視線は一点に私を見つめている。手を軽く上げ「気をつけて」と言うと彼女は転んで、書類は一足先に私の元へやってきた。ある年齢から先、転ぶことがほとんどなくなったように思っていたけれど、それ以上に、転ぶ人を見かける方が少ないことに気がついた。両膝と手首が赤くなったアキちゃんは「すみません」と言いながら私のそばへ寄り、手元を見下ろしてから「それ、カギタニさんからです」と言った。
ホチキスの止め方一つで誰がまとめたのか分かるようになったのはいつからだろう、と縦に真っ直ぐついたそれを見ながら思った。何箇所かに赤い印をつけたそれを、無人のデスクに置いて、その足で喫煙所へ向かった。もちろんカギタニくんはそこにいて、私に気がつくと慌てたように煙草を揉み消した。
「別に、いいのに」
「いやあ、タイミング的にどうかと、アキに頼んでここにいるのは」
「うん、まあ、確かにそれはよくないね、でも別にもうここにいるんだし」
「それもそうですね。じゃあ、すみませんが」と言って、何度か小刻みに頷いたあと、新しい煙草に火をつけた。
「お昼食べた?」
「まだです」
「じゃあ、アキちゃんも誘って、どっか行こうよ」
「はい、ありがとうございます」
カギタニくんを食事に誘うといつも、夕方になって帰ってきた汗だくの息子を思わせる。夕食の献立を知らせると、それ以上の幸せがこの世にはないみたいな笑顔で手を洗いに走り出す。そんな人が家にいたことはないんだけど、割りにくっきりと浮かんでくる。
「それじゃあ、吸い終わったらアキに声かけてきますね」
「ありがとう、ここにいなかったらお手洗いに行ってます」
「分かりました」
三人で近くの定食屋へ入って、日替わりを三つ注文した。運ばれてくるまでにカギタニくんは水を四杯も飲んでいて、じっと見ていると何となく恐ろしいものを見ているような気分になっていった。
「日替わりって何でしたっけ?」五杯目の水を飲み始めたカギタニくんは言った。
「多分、焼き魚じゃなかったかな」
「うん、そうだったと思う」
「焼き魚」
「苦手?」
「いや、あんまり食べたことがないんで、好きとも嫌いとも、まだ分からないです」
「あんまり食べたことがない?」アキちゃんは何故か身を乗り出して言った。
「うん、家で、実家で焼き魚食べた記憶ってないんだよな」
「じゃあ何食べるの?」
「何食べるのって、山ほどあるだろ他にも。唐揚げとかハンバーグとかカレーとか」
「まあ、そっか、でも何であんまり出なかったことを覚えてるの?」
「何で?」
「うん」
「ないことって覚えておけなくない?」
「何となく分かる気もするけど、何で?、か、多分、ほとんど外で食べてたんだな」
「焼き魚を?」
「そうです、友達の家とか、それこそ今みたいに店でとか」
「なるほど」と言ってアキちゃんは乗り出していた身を元の位置に落ち着けた。
定食が運ばれてくると私たちは黙ってそれを食べ、恐らく三人ともが「ないことって覚えておけなくない?」に対するしっかりとした答えを考えていた。カギタニくんが言ったようなことも間違ってはいないけれど、何かがしっくりこなかった。
終電を逃したわけでもなく、何の気なしにタクシーで帰ることにした。運転手は初めから今まで、一言も発していない。それでも時折の視線が、バックミラーからの反射で分かる。家までの数十分の間に、知らない番号から二度着信があった。番号を見つめながらやり過ごし、窓の外を眺めて夕食のことを考えた。
この数ヶ月、見知らぬ番号からの電話が続いていた。午後早くと日付が変わる前に二度ずつ。そろそろ私も、間違えてますよ、と一言、教えてあげるべきなのだろうが、どうしてか出る気にはならなかったし、規則的であるせいか鬱陶しくもなかった。歯磨きを忘れてベッドに入ったようなもので、電話がない日にはそわそわすることさえあった。何かすべきことをしていないような気がして、それに気が付く、体がむず痒くなるくらいそれについてしか考えられなくなるのだけれど、こちらから電話をかけて「今日の分を忘れてませんか?」と言うわけにはいかない。
いっそのことショートメールでも送ってみようかと思うこともあった。どちら様ですか?、それだけで良かった。しかし初めのうちに何もしなかった私にできることはもうなくなっていた。気持ち的に、ということだけれど。
スーパーの前で降り、適当に買い物を済ませて帰った。茄子の揚げ浸しと里芋の天ぷらをつくり、小口ねぎを散らしただけの味噌汁もつくった。ソファに座って食事を摂りつつ、何日か前に買った雑誌を読んでいた。
お風呂から上がると同時に着信音が聞こえた。確認してから濡れた手のまま電話に出た。
「もしもし」
「おう、急で申し訳ないが、明々後日から出られるか?」
「ええっと、すみません、確認します」
「分かった」
手早く体を拭いて、リビングにある鞄の中の手帳を開いた。
「大丈夫です」
「そうか、じゃあ、明日中に書類と鍵を届けさせる」
「はい」
「家か会社か、どっちの方が都合がいい?」
「そうですね、どちらでも構いません」
「それなら、明日の午前中にデスクの上に置いておかせるよ」
「承知いたしました」
「それじゃあ、よろしく頼むよ」
「はい」
冷蔵庫の中のものを確認して、二日間で使い切る献立をあれこれ考えた。買い足すものと一緒にメモに書き込んで、それから髪を乾かし始めた。
ベッドに入るまでに、日数に無関係な荷物をざっとまとめてソファの端の方へ置いた。今回は長く家を空けるような気がした。そうなると、車を運転する時間が長いということで、それだけが私の気分を暗くする。雪がこちこちと窓に当たる音が耳につきはじめた。
デスクに荷物を置いてすぐ煙草を吸いに行くと、鞄を持ったままのカギタニくんがいた。
「おはよう」
「おはようございます、早いですね」
「いや、今置いてきたところ」
「ああ、なるほど」
「明後日からいないから、アキちゃんよろしく」
「ああ、はい。長いんですか?」
「まだ分かんないけど、そんな気がする」
「そうですか、まあ、こっちは大丈夫ですよ」
「うん、心配はしてない」
「何かあれば電話します」
頷いてから煙草を消し、二本目を吸うカギタニくんをおいて外に出た。
昼休憩の前に若い男の人が私のデスクのそばに立った。気が付いたときにはそこに立っていた。どのような気配も匂いもない。妙につるっとした濃紺のスーツを着ているが、会社勤めをしているようには見えない。目も口も鼻もはっきりとしているのに、どんな主張もないし印象もない。私が顔をあげるまでの短い時間に整えたような端正な眉毛だけが唯一、彼が人間であることの証拠に見えてくる。スーツはよく似合っているのだけれど、それも手も顔も、どれもが今日この時だけのために誂えたもののように見えた。この空間のどこにも、どのようにも馴染んでいない。
しばらく見つめ合ったまま、どちらも口を開かなかった。社長からです、と彼が言ったのがどれくらいの時間を過ぎてからなのか分からない。私は大判の封筒を受け取り、ありがとうございます、と言った。彼は小さく頷くと、踵を返し、途切れ途切れの映像のようにすっすっと私の視界から消えていった。
「気持ち悪い人でしたね」と言ったのはアキちゃんで、私たちは二人でまた昨日の定食屋の座敷に座り、食後の熱いほうじ茶を飲んでいるときだった。
「見えてたんだ」私は無意味なことを言って、小さくため息をついた。
「いつもあんな人でしたっけ?」
「ここ最近はいつもあの人、だったと思う、でもまだ見慣れない」
「なんか、合成写真見てるような気持ち悪さがありますよね」
「うん、それ分かる、アキちゃんのときもあんな感じ?」
「そうですよ。いつの間にかいて、無口で、いつの間にかいなくなってる」
「うん」
「社長も、何であんな人雇ったんでしょう、前の人の方が良かったなあ」
「うーん、あんな人だからじゃないかな、前の人は良くも悪くも話しやすい人だったから」
「うん、確かに、そうですね」アキちゃんは下唇を突き出して頷いていた。
封筒の中にはホチキスで留められた書類が三つと鍵が五つ、往路の切符が入っていた。いつも通り見たこともない形状の鍵で、実際にそこへ行くまで、一体こんな鍵でどんなところを開くことができるのだろうと思う。書類を確認してみると、最後の束の数ページに私が高校を卒業するまで住んでいた町の名前を見つけた。長く静かなため息をつき。仕方がない、仕方がない、と小さな声で繰り返した。
夕飯は揚げ出し豆腐と余り物の葉野菜を刻んで混ぜた炒飯を食べた。悪くはないが、何か物足りなかった。
厚手のカーディガンを羽織ってコンビニまで歩き、バニラアイスを買って、食べながら帰った。おそらく夜勤であろう店員は、大丈夫ですかと声をかけたくなるほどあくびを繰り返していた。彼と同じくらい、私はぼんやりとしていた。美草、昼過ぎにその名前を見てから、ずっと頭の隅を離れてくれない。何年ぶりだろうか。数えてみれば分かるのだけど、確かな数字が分かると途端にその時間が朧げになる。本当に私はあの町から十年も離れたのだろうか。いや、離れられたのだろうか。私にはそう思えなかった。私はひとときもそこを離れてはいなかった。ずっとそこにいた。モリイチは元気にしているだろうか。両親や祖父母たちはどうだろう。誰のことももう知らなかった。彼らだって私のことは知らなかった。私は、三十七歳になるのが待ち遠しい。彼らの知らない私の、その私でいる年数が美草で過ごした時間を超えることを待っていた。それにどんな意味が、それがどんな意味を持つのかは分からない。恐らく何の意味もない。それでも私は、そのときを待っていた。今度の出張は、アキちゃんかカギタニくんに代わってもらおうかとも考えた。しかし私は、行かなくてはならないだろう。もちろん、社会人として、ということだけれど、個人的にも。もう一度町へ戻って、その姿を目に、そこを流れる空気を胸に、そこかしこに漂う気配を肌に、もう一度だけ、これが終われば私は、無事に三十七歳を迎えられるだろう。どんな根拠もないが、そんなような気がした。
半休を取って、午前中だけ顔を出した。引き継いでもらう仕事と私がまとめておくべき仕事を分け、集中して片端から終わらせていった。アキちゃんのまとめた資料は、大体数ページに一箇所ほどのミスがある。大したことではないし、私だけで補填できる範囲だけれど、どれもが同じ種類である以上いちいち声をかける必要があった。カギタニくんは全くミスをしないか、このままでは間に合わないかもしれないといったミスをするかのどちらかだった。大抵の場合は間に合うし、そんなことが起きること自体少ないのだけど、こちらとしてはひやひやする。カギタニくん自身もそのことを分かっているから細心の注意を払っているようだが、その分というのか、元々の性向と合わさって大きなことになりやすい。今まで担当してきた人たちの中で二人は個人的にも好きだったし、比較するまでもなく上手くやってくれていた。ただ業務上でのその、二人の仕事ぶりの組み合わせだけが私を煩わせていた。
二人に声をかけてから帰り支度をはじめ、必要なものを思い浮かべながらエレベーターに乗り込んだ。いつもはほとんど満員のエレベーターに一人きりで乗るのは久しぶりのことだった。街を見下ろしていると、歩道が迫り上がったように視界の中で目立った。浮かび上がった歩道と、まだずいぶん下にある歩道が見える。その上を歩く人たちもくっきりとした像と性別も分からないくらいぼやぼやとしたのが対になっていた。何度か瞬きをしてから窓に背を向け、扉と階数表示を見るともなく見ていた。
寒さは、私の中のあらゆるものを鈍く重くさせる。昔から冬が苦手だったが、冬服を着た人を見るのは好きだった。その人らしさを感じやすい気がした。街には思い思いの防寒を施した人で溢れている。街全体がゆらゆらと所在なさげに目にうつる。固定すべき姿を見定めているようだった。
ついでに、半休を楽しもうと百貨店に入って最上階から順に見て回った。私の中でデパートは街の象徴だった。今ではもうそういうわけでもないが、それでもいつも、何を買うでもなくうろうろと歩いているだけで心楽しい気持ちになることができた。言うまでもなく、買い物をするのも好きだったけれど、何故かいつも、寂しい気持ちになって家路につくことになった。象徴でなくなってしまったことを体感するからだろうか?私は今では、私が欲しいもので、この場所から持ち帰れないものはない。私が買えないものは、どれもこれも不必要なものだった。私が欲しいと思い、手に取って納得できたものは、どんなものでも買ってしまえる。私はもうここに完璧に組み込まれていた。
インポート系の店で楕円形のポーチを買った。あまり見たことのないようなサイズ感だった。小さくも大きくも普通でもない。しかしこれだけあれば出先のホテルからふらっと外へ行くには事足りるだろう。便利そうだから買ったのだけど、きっと、このような奇妙な大きさのものを手に入れたかっただけかもしれない。
それから、濃緑のミトンと木べらも買った。「どこか遠くへ行くとき、帰って来てから使うものを買っておきなさい」と言ったのは母方の祖母だった。彼女は夫を亡くしてから旅行魔になって、しょっちゅうあっちこっちへ行った。私はそのあいだ彼女の家から学校へ通った。一年のうちに何度かある、その一週間程度の時間が、当時の私が唯一穏やかに過ごせる時間だった。祖母は私が頼みこんだことを黙っていてくれた。埃っぽいところへ帰るのは嫌だとか、一人暮らしの練習にもなるでしょうとか、あの子は掃除が上手だからとか何とか言って、両親を説得してくれた。私は何冊かの本と荷物を詰めたリュックサックを持って彼女の家へ行き、タクシーが来るまでの時間を二人で過ごした。あまり口数の多くない彼女がよく喋るのはこの時間だけだ。そのときに言われたのだった。それはあんたが帰る場所とあんたを繋ぎ止めてくれる、と彼女は続けた。私はその言いつけを何年も守ってきた。彼女が死んでからは、遠くへ行った先で使うものも買っておくようにした。それが具体的に、私にどう作用するのか、作用してきたのかは分からない。それでも、お守りを無下にすることに抵抗があるように、本当はどういったことがあるか分からないからといってあしらうことはできなかった。
一階まで見終えるとまた六階まで上り、喫茶店に入って窓際の席に座った。私がここへ初めて来た十年前からいる老婆の店員にナポリタンとホットコーヒーを頼む。煙草に火をつけると疲れが体中に広がったようだった。
煙草をくわえたまま両腕をだらりと垂らし、目玉が勝手にくっくっと左右に振れるのを感じていた。歩く人を追っていた。彼女はクリーム色のワンピースの裾をなびかせて、厚手のコートのポケットに手をつっこんでいる。靴は見えなかった。歩くスピードからするとスニーカーだろうか。片手で抱えるように何かを持っている。小動物にも、本が入った紙袋にも、くしゃくしゃにしたマフラーにも見える。どこか、目的を持って向かっているようだった。確かな歩調、一定のリズム、風は彼女の髪をふわふわと浮かべ、くるりと頭上へ抜けていった。誰もが同じように歩いているなか、彼女だけがしっかりと目にうつった。
誰かが何かを言って、顔をあげると老婆と目が合った。彼女は、ナポリタンです、と言って、私は自然に名札を見た。それから机の上に視線が流れ、彼女の言ったことの意味が分かった。ふた呼吸ほどおいて、ありがとうございます、と言うと彼女は立ち去った。
のびをしてからそれを食べ始めた。いつだったか、雑誌で紹介されたあとで妙に繁盛していたことがあった。この手の喫茶店にしてはどの料理もクオリティが高かったからだろうが、それにしても異様な客足だった。今では時間帯を考えれば大抵は空いている。私が初めて来たのは、まだ建物全体が古びていた頃だ。何年かして大規模な改装工事が行われたが、この喫茶店だけはどういう訳か以前のまま古びていた。私はそれにほっとしたし、きっと少なくはない数の人がそうだったろうと思う。どのような理由で手付かずのまま残ったにせよ、ある場所が何の面影もなく変わっていくことは、変わり果てることは、寒々しい気持ち以外何も呼び起こしてはくれない。
食べ終えるとコーヒーが運ばれてきて、新しい灰皿が静かに置かれた。火をつけないまま煙草をくわえ、ケチャップやピーマンの味が消えていくのを待った。
昼間でも、雪が降る日が増えてきた。この調子だと美草では雪が積もっているのだろう。山に囲まれた無闇に大きな町、私が望むものは何一つない、私に何も与えなかった町、誰もが下を向いて歩いている、どこまで行ってもいつまでも山が視界を遮ぎる町、引きずり出されるように思い出が、胸の奥と同じように小さく震えている。
老婆はレジの奥の席に座り、両切りのピースを吸っている。この十年、ずっとそれを吸っていた。いつ見ても、この上なく美味しそうに吸っている。若い男の店員は何かを洗っていて、たわしで何かを擦る音や流れる水の音が、スピーカーから聞こえる音楽と混じっていく。元々一つであるように馴染んだそれは、眠気を呼び起こした。重たくなった瞼が痙攣的に目を覆う。首が頭を支えきれなくなって、くらくらと揺れる。私は煙草を落とし、手に持ったライターも落とした。唾液が口の端から流れ出ようとする感覚で顔を上げた。おしぼりで口元を拭い、煙草とライターを拾った。辺りの光景や音が、くっきりとした輪郭を取り戻し始める。眠気はもうどこか遠くへ消え去り、冴え冴えとした頭と指先が残った。火をつけ、冷たい煙を吸い込んだ。肺が膨らむ、肋骨の内側よりも外側がきりっと痛むのを感じ、顔を上げて煙を吐き切った。
電話がかかってきて、他と変わらない振動だけどそれはおそらく、知らない誰かからだろうと分かった。私は見もせずにそのまま煙草を吸い続けた。何かが他の電話と違っていた。より細かな振動であるように感じられた。静まってしばらくしてから確認すると、やはり誰かからの電話だった。彼なり彼女なりは、この数ヶ月、誰かと音信不通になっているのだろうか。それとも何十回かに四回だけ、私と誰かを間違えているのだろうか。
外へ出ると、雪が降り始めていた。折り畳み傘を出し、かつっ、ぼっ、とさして歩き始めた。目に映る半数の人は傘をささずに小走りになり、あとの半数は傘をさして小走りになっていた。紙袋を一つ持った私は、その中で異質とも言えるようにゆったりとした歩みを続けていた。何も急ぐことはなかった。可能な限り、すべての時間をゆっくりと過ごしていたかった。
残ったものをみんな味噌汁の中に入れ、微妙に残ったお米は土鍋で炊いた。
せっかくこの街に住むんだから、と私はこの十年のあいだに六回は引越しをした。出張の前に冷蔵庫を空にするのは、家を引き払う前日を思い出す。この時間が一番好きだった。それまでせっせと築いてきたものを、一切残さずに片付けていくのは、生き直すみたいで心地がいい。別の人になって、別の服を着て、別の道を歩くのだ。この家にはもう二年ちょっと住んでいるが、そろそろ引っ越しをする時期かもしれない。仕事先からは割りに離れているが、ここまで気に入った家は初めてだった。外観は、その他に無数にあるマンションとどこも変わらないのだが、奇妙な内装に心を惹かれた。内見に来たときまず、玄関先の扉が木製なことに驚いた。今となっては大したことではないのだけど、そのときまでの私は、マンションの扉は金属製に限る、と思うでもなく思っていて、それほど仲がいいわけでもない友人に秘密基地の場所を教えてもらったときみたいにわくわくしていた。土間から続く廊下に段差がないことも、というよりそれだけのことで快適さが劇的に変わることが、もうここに決めよう、と思わせた。白茶の、土壁のような手触りの壁が続いている。裸足で歩きたくなるような絶妙な毛足の、柔らかすぎず固すぎないカーペットが敷き詰められている。脱衣所とトイレ、キッチンだけは濃いグレーのタイルが敷かれていて、そのひやりとした感触も好きだった。私は、担当者の用意したスリッパを脱いだり履いたりして歩き回っていた。どの部屋の広さも、私の感覚にぴったり合っていた。それまでの私は、広すぎるトイレや全ての辺がどう考えても短い寝室にうんざりしていた。予定していたよりも高くなった賃料も仕方がないと思えた。それでも、体はそろそろ引っ越す時期だと、うずうずと、私の意思とは無関係に準備を始めていた。
鳥も鳴かないような薄曇りの朝、アラームをかけた時刻よりも一時間早く目が覚めた。壁にもたれたままベッドの中でぼんやりと過ごし、ベランダに出て煙草を吸ってから身支度をはじめた。
クリームパンとコーヒーを朝食にし、生ゴミをコンビニの袋あけ、きつく縛って冷凍庫へ入れた。これでもうすべきことは何もなかった。本棚の前に立ち、カート・ヴォネガットの『国のない男』を手に取った。ソファに座って読みつつ、ときおり窓の外を見つめた。数えきれないほどのマンションや一軒家やアパートが並んでいる。ここは小高くなった土地の上だから、体感よりも広く遠くを見渡すことができた。カート・ヴォネガットの笑顔は「世界は、悪いことばかりではない。けれど、そうでない出来事はとてつもなく少ない」のだということを私に教えてくれた。それは力強い言葉よりも私を励ました。高校生の頃だったろう、祖母の家で読み始めたことを思い出せる。彼女はその時どこへ行っていただろうか。私は長い間、彼女の家に一人でいたような気がする。東南アジアの国のどこかへ行っていたんだっけ。それで、私は夏休みの最中だったっけ。確か、そうだった、私は夏休みの前半を両親と二人の妹と過ごし、後半を祖母の家で一人きりで過ごした。私は、夏休みの直前にクラスの中心に位置しようとする子といざこざがあって、二週間ほど前から学校へ行かなくなっていた。制服を着て家を出る、いつもは曲がる角を過ぎて公園か図書館へ行き、そこで時間を潰す。母親のふりをして学校へ電話をかけた。思い返してみると、両親は私が学校へなんか行っていないことに気が付いていたのかもしれない。私は公園と図書館を行き来し、そのちょうど真ん中にある博物館へ行った。救いようもないくらい古びた建物。私はそこが嫌いだった。こんな萎びた町の、そんなところで見つかったこれまた萎びたものを、誰が好んで見にくるのだろう。私はチケットカウンターにいるモリイチと話すために博物館へ足を運んだ。モリイチは「守一」で、もちろん「モリカズ」と読む。彼は小学生の頃にここへ引っ越してきた。一年生だった私は彼をモリイチと呼び始め、高校生になってからも、彼がその高校を辞めて通信か何か別の高校へ行った後も、だからか始めたアルバイト先でも、変わらずモリイチと呼んだ。
「またサボったんか」眠たそうな、ついさっきまで眠っていたような眼をこすりながら言った。
「うん、アライカエデと喧嘩してから居心地が悪い」
「またか」
「だって、意味分かんない、勝手に、お姫様みたいに、中心にいると思うのはいいよ、でもそれを私にまで、それをっていうか、私にもそういうふうに接するようにさせるのは違うじゃん」
「ほっとけよそんなん」
「モリイチはもうそういうのと関係ないかもしんないけど、私はまだ二年以上もあるんだよ」
「ユカコも学校辞めたらええやん。元々、人のペースに合わせたりすんの苦手やろ」いつも通り、彼はずっとうっすらと笑っていた。
「簡単に言うな、名前も呼ぶな」
「幼馴染やのに名字で呼べってか?」
「何回もそう言ってるじゃん」
「だから俺も何回も言うてるやろ、雪の華に子でユカコっていい名前やし、それを呼ぶか呼ばんかは俺の勝手や、そういうのはアライカエデと何が違うんや」
「違う、私はモリイチに頼んでるけど、あいつはそれが当たり前のことで、それを理解できない可哀想な私に教え諭してあげようって態度なの」
「考えすぎや、感じすぎや、悩みすぎや」
「モリイチはそうじゃないの」
「どうやろなあ、俺は適当な人間やからな、こうやって、誰も来おへん薄暗い場所でだらだらしてるだけで幸せや」
「何それ。そんなの、幸せでもなんでもないでしょ」
「いちいち俺に噛みつくなや、ユカコもほら、こっちきて昼寝でもしよ」手を合わせて頬に当て、わざとらしく首を傾げながら瞼を閉じた。
「今から図書館で勉強するから無理」
「相変わらず冷たいなあ」
「こうして顔見に来てあげてるじゃん」
「あれ、俺それ頼んだっけ?」
「いや、まあ、そういうわけでもないけど」
「やんな、びっくりしたわ、気を付けなアライさんみたいなるで」意地悪く笑う彼を見ていると優しい気持ちになれた。
「ならない。じゃあ、行くから。また明日」
「はいはい、またな、気付けて」
毎日昼前に目が覚めた。熱いお茶を淹れて縁側に座り、祖母が植えた草木を眺める。花が咲いたのや枯れたのや、まだ蕾なのかそれで終わりなのか分からない何やかやを眺めた。ときどき野良猫とじゃれながら本を読み、何杯もお茶を飲んだ。気が向いたら簡単な料理をつくり、時間をかけて食べた。私の料理の腕は、その頃から何も変わっていないように思える。実際、レパートリーが広がっただけで、技術的なことで言えば何も変わっていなかった。猫たちは全部で四匹いて、赤茶の大きなのが二匹と小さな茶と白が一匹ずつ、家族だったのだろうか。大きな赤茶の片方は、耳が広がって目立っていたからミミ、もう片方は耳が垂れていたからタレミミと呼んだ。白はシロで、茶はムギチャ、四匹はだいたい私が眠っているうちに、前の日の夜に出しておいた餌を食べ、夕方にもう一度みんなで現れた。ミミとタレミミはささっと食べ終えると私や仔猫から少し離れた位置に座り込んだり寝転んだりしていた。心底寛いでいるように見えたのだけど、何かがあれば一瞬でそこから離れられることも分かった。シロとムギチャは小さいからか、嫌な人に出会った回数や時間が少ないからか、いつまでもお皿の周りをうろうろと歩いていた。縁側に座って様子を見ている私の膝の上にのぼってくることさえあった。タレミミはそんなとき立ち上がり、私の顔を見た。シロやムギチャの方へはちらりとも視線を向けない。私の目だけを見ていた。それからまた座ったり寝転んだりして、ミミの毛繕いをはじめたり虫をつついたりする。私はそのときの視線を忘れることができなかった。
新幹線に乗り込み、窓際の席に座った。まずは一時間半ほど乗って、特急に乗り換えて一時間、改めて書類に目を通すと、今日はほとんど移動だけで終わりそうだった。車内販売でポッキーとサンドイッチを買い、ホットコーヒーを頼んだ。本の続きを読みながら食べ終えても、一時間も経っていなかった。何か音楽でも聴こうと立ち上がり、キャリーケースを下ろした。奥の方からイヤフォンを引き摺り出した。元に戻してから変換プラグがないことに気付き、もう一度同じような動きを繰り返した。
シャッフル再生で最初に流れてきたのはThe Beatlesの『Rocky Raccoon』だった。何年ぶりに聴いたのかも思い出せないがそれは、昔、いつでもどこでも流れていた。私の部屋で、祖母の家で、図書館や公園のイヤフォンから、通学路で、始業のベルがなるまで、立ちくらみのように頭の奥が揺れた。『国のない男』を読みながら、リピートで『Rocky Raccoon』を聴き続けた。その二つに流れる物悲しさとおかしさは同質のものだった。もう失われてしまったものに対峙した私たちが抱くものと同じだ。手の施しようもないほど失われたものを前にして、私たちは笑うしかなくなる。私たちはかつてそこに含まれていた輝きを思って、その輝きに目を細めるように、その残骸から視線をそらすように、沈鬱な表情を浮かべるしかなかった。
一年ぶりに乗る新幹線は、記憶の中のものよりも快適ではなかった。身分不相応な場所に一人残されたような侘しさがあった。こんなスピードで地上を移動すべきではないのかもしれない。
不必要にしか思えない巨大な駅に到着し、予約されていた店で車を借りた。荷物をトランクと助手席に放り込み、見守られながらナビを設定した。一礼してから発進し、まず二時間か、と思いながらロータリーを回った。小綺麗な、漂白されたような駅前は閑散としていた。老人すら歩いていない。
一つ目の信号を左折してすぐのコンビニへ寄った。水とお菓子を買って、煙草を吸ってから車へ戻った。水を飲み、ふーっと息を吐いてから、シイノさんへ電話をかけ忘れていることに気が付いた。慌てて電話をかけるとワンコールで声が聞こえてきた。
「もしもし、シイノです」
「お疲れ様です、フクヤです」
「ああ、じゃあ、よろしくお願いします」
「はい。十分ほどで到着すると思います」
「じゃあもう外で待ってるよ、気を付けて」
「はい」
助手席の荷物を後ろに移動させてから車を出した。
シイノさんは大きなバックパックを背負って立っていた。無地で黒色のTシャツに深緑のダウンジャケットを羽織り、それよりは明るいカーキのパンツにワークブーツ、いつもの彼女だった。私に気が付くと手を振り、こっちこっち、と車を誘導した。車を止めて外へ出た。
「お久しぶりです」
「うん、今年もよろしく」
「こちらこそ、よろしくお願い致します」
「相変わらず、しばらく会わないと敬語になるね」シイノさんは笑って言った。
「え、そうですか?、そうですね」
「まあいいや。行こうか」
「今日は移動だけになりそうだね」二十分ほど経ってから、地図を見つつ彼女は言った。
「そうですね、ナビでは二時間ですけど、もう少しかかりそうです」
「うん、まあゆっくりいこうよ」
馬鹿馬鹿しさに恐ろしくなるようなラジオを聞きながら、私たちは西に向けて進んだ。シイノさんは一つ年下で、毎年この時期に一緒になることが多かった。彼女は、遠くから見ると一回り年上に見える。老けて見えるようなところはどこにもないのだけど、全身の雰囲気や気配が、私と同年代だとは思えなかった。会う度に敬語に戻るのも、大部分はその印象のせいだった。自然にそうなるのだが、私にはそういった形式以外での敬意の示し方が分からなかった。冬の装いしか見たことがないのも、何か影響があるのだろうか。
「一年ぶりくらいか、調子はどう?」
「そうですね、上々ってわけでもないですけど悪くもないです」
「引っ越しは?」
「まだしてないですね、もうそろそろむずむずしてきましたけど」
「ほんと好きだね、私も嫌いじゃないけど、ユカコさんほどじゃないなあ」
「でも、今の家が気に入りすぎてなかなか腰が上がらない」
「ならしなきゃいいのに」おかしそうに笑ってから言った。
「私もそう思う、シイノさんは?」
「うん、私も上々って感じではないかなあ、今年は割と忙しかったしね」
「担当地区が変わるんでしたよね?」
「そう、来年からだけど、もしかしたら一緒じゃなくなるかもね」
「そうですか、それは残念です」
「ね、多分、フキシマくんっていうんだけど、彼が引き継ぐことになりそう、今年入った子」
「私も別の地区にしてもらおうかな」
「そんな悪い子じゃないよ」彼女はいつも、んふふ、と笑った。
どこへ行くのだろう、どの道も乗用車でいっぱいだった。渋滞というほどではないがそれでも、気持ちよく運転ができるわけではなかったし、昼過ぎのこの地方都市で、人々はどこへ向けて車を走らせているのだろう。何が必要になって、どこでそれを手に入れるのだろう。
休憩も兼ねて道の駅へ寄り、二人でソフトクリームを食べた。私はバニラで、シイノさんはバニラとチョコが混じったのを頼んだ。ベンチに座ってアイスを食べながら、道の駅へやってくる人を眺めていた。シイノさんは髪が長く、鬱陶しそうに払いのけながら黙々と頬張っている。子供を連れた夫婦が多かった。老夫婦も多い。私たちくらいの年齢の人は、特にその二人組というのはどこにもいなかった。同年代の人は、一人で、たいていは大きなバイクに乗っていた。味の濃いソフトクリームは冬に食べると一層美味しかった。いつ雪が降ってもおかしくない色の雲が、あちこちにかたまって浮かんでいる。私は、シイノさんと話していると何故かモリイチを思い出した。彼は上々だろうか。まだ町にいるのかどうかも知らなかった。しかしそんなことを言えば、妹たちや両親だってそこにいるのかどうか知らなかった。私の知らないうちに彼らはもうどこか別の場所へ移っているのかもしれなかった。そういえば、モリイチは大学へ行くために町を出たんじゃなかったか。私の最後の記憶は、二人がそれぞれ通う大学の、その中間地点にある喫茶店で途切れていた。私たちはいつもどこかの間で会っていた。一つ思い出すと、関係のないことまでどんどん思い出される。彼は一年生の終わり頃に休学届を出して、全国を歩いて旅し始めた。私はどうしてかそれを馬鹿にして、彼はいつものように笑ってから「なんでも自分の目で見てみな気済まへんねん」と言っていた。私はあの当時、というより、彼が町へやって来てからずっと、彼のやることなすこと全てに否定的だった。モリイチは私にとって、デパートと同じくらい外部の何かの象徴だった。彼が飄々とした態度のままどこかへ行って、そのまま帰ってこないことを何より恐れていたように思う。怯えていたと言ってもいいくらい。
「なんで今、そんなことする必要があるの?」
「質問の意味が分からへん」
「わざわざ休学して、電車でもバスでもなんでもいいけど、そういうので行けるのに、何でそういうのじゃなくて歩くの」
「よう分からんな」
「そんなの、大勢の人がしてるし、真新しくないじゃん」
「俺はまだしてへんで」
「そんなこと分かってる」
「ユカコが寂しいのは分かった、新しい場所へ行くたびに葉書か手紙出したるわ」
「そういうことじゃない、そういうことじゃないけどそれは受け取る、でも」
「同じ学校ってわけでもないねんから、気にせず俺より先に社会に羽ばたいといてくれ」
「言われなくてもそうする」
道の駅をあとにして、しばらく何も話さずに進んだ。同じような景色が続く。錆びた看板と真新しい看板、崩れそうな家屋とぴかぴかの巨大な一軒家、赤茶けた遊具が点在する公園と砂場すらない公園、そういったものが交互に現れた。
シイノさんは、今年の初めの方に会ったときにも着けていた小ぶりなピアスと左手の中指の指輪を新調していた。鈍く光るそれらは彼女によく似合っていた。彼女はフロントガラスの向こうをぼんやりと見つめている。時折、うつらうつらとしているようで、ボリュームを絞って運転に集中した。
「どこに泊まるの」
「その辺やろな、テントやらで」
「危ないじゃん」
「そんなん、どこで何してても危ないで」
「そうだけど、それより確実にもっと危ないでしょ」
「大丈夫、あ、俺も何か買うとこかな、帰って来てから使うもん」
「付き合うよ」
「何がええかな」
「おばあちゃんはいつも料理に使うものだったよ」
「ユカコは?」
「私は、まだ」
「まだ?」
「小さい頃にしか旅行ってしたことない」
結局モリイチは何を買ったんだったか、今となっては思い出せない。ちらちらと雪が降りはじめていた。湿り気を帯びた雪は、フロントガラスに落ちるとしばらくしてから溶けて流れた。シイノさんは見ていると不安になる角度で首を曲げて眠っている。彼女を見たり、彼女と話したりすると、ほとんど自動的にモリイチを思い出す。顔や体の造形が似ているわけでも、滲み出る雰囲気や、言葉のない気配が似ているわけでもなかった。それでも、ふとしたときに彼を思い出すし、思い出しはじめると止めておけなかった。私は彼と、二人の妹のうち一人としか心を通わせるということができなかった。それは一過性のものだと思っていた。きっと、思春期か何かの、私にはどうすることも出来ないものがそうさせるのだろう、と。そうではなかった。今に至るまで、私がそんなふうに誰かと関われたのは二人しかいなかった。その二人もいない今、私はどうやって誰かと関わるべきなのだろう。シイノさんと話しているとよくそんなことを考えた。
チェックインまで一時間を残してホテルの駐車場に到着した。静かになるとシイノさんはすぐに目覚めて、私の顔を数秒見つめてから「あ」と言った。
「ごめん、めちゃくちゃ寝てた」
「大丈夫ですよ。ぐっすりでしたね」
「うん、ぐっすりもぐっすり」
「まだ一時間くらいありますね」
「じゃあ、散歩でもする?」
「そうですねえ、何かありますか?この辺り」
「何にもないね、というか私も初めて来たから知らない」
「まあ、じゃあ、ちょっと歩きますか」
私たちは意外にも繁盛した商店街をぶらぶらと歩いた。私も背の高い方だったけれど、シイノさんはそれよりも五センチは高かった。だからかどうか、道ゆく人たちは私たちを見たし、私よりもシイノさんを長いあいだ見ていた。彼女はそんなことに気付いてもいない様子であちこちの店を覗いていた。
「何年住んでても、意思がないと知らない場所ばっかだね」
「そうですねえ」
高校生の頃、私とモリイチは町中を巡った。どうせなら全部を見て出て行こうとしたのだ。言い出したのはモリイチで、私はいつものように「そんなことして何になるの」と言った。彼はああだこうだ言って、私も結局そうせざるを得なかった。見限って出ていくにしても、私はあまりに町を憎んでいたし、どのような形でもそれを解消しないわけにはいかなかった。彼はきっとそんなこととっくに分かっていたのだろう。本ばかり読んで外に出ない私の、重い腰を上げてくれるのはいつもモリイチだった。
私たちはまず図書館へ行き、町の仔細な地図のコピーをとった。それとマーカーを手に歩きはじめた。バスを乗り継いで町の端っこまで行き、地図をどんどん塗り上げていった。私もモリイチも、その奇妙な旅を楽しんでいた。上から順に塗りつぶされていく地図を見ているだけでも気分が良かった。私たちはこの町のことを誰よりも知っているし、私はその上でこの町をすっぱり切り捨てるのだ。どこもかしこも同じような景色が続いた。どこで何を見てもどのような感慨もなかった。モリイチはその行為だけでなく遠近を見て歩くことも楽しんでいるようだった。私は数えきれないほどの小川も路地も、山々やバス停の名前も、どの季節にどの辺りを歩いていたかも、何一つ思い出せない。
高校一年の春に始めて、三年の夏にその作業を終えた。何かから解放されたような、すっかり洗われたような気分だった。これでいつでも、どんなところへだって行けるのだと思った。しかし、どこへ行けばいいのだろう。私はただこの町を出たかった。行きたい場所なんてものは最初からない。ただここではないどこかへ行きたかったのだ。モリイチが遠くの大学へ行くと聞いて、その近くの大学を受けたのは、私というものの根本的な間違いの体現だったのだろう。どんな後悔もないのだけどそれでも、自身にとって大切なことすら考えられないほど、何かを真剣に考えたことがなかった。彼は「いつか、何かを考えるために力を蓄えてるんやろ」と言って私を慰めてくれたが、果たして本当にそうだろうか。私はそれ以降も、何一つ考えてこなかったんじゃないか。
商店街を一往復するとちょうどチェックインの時間になった。私たちは車に戻って荷物を取り出して、ホテルの自動ドアを抜けた。
「今日から二泊の予約を取りましたフクヤです」
「フクヤ様ですね。少々お待ちください」
「はい」
「はい、確かに。フクヤユカコ様とシイノミヤ様ですね。では、こちらに住所、氏名、電話番号を記入していただけますか?」
「分かりました」
隣り合った部屋に分かれ、ベッドに倒れ込んだ。いくつものことを思い出したせいで頭の芯がきりきりと痛んだ。湿った雪が降り続けている。まだ積もるような雪ではなかったけれど、見ているとうんざりした気分になってくる。
ノックの音で目が覚めた。寝ぼけ眼のままドアまで歩き、錠を外して扉を開けた。シイノさんが立っていて、夕飯はどうする?、と言った。私は、ああ、と言ってしばらくしてからしっかりと目を覚まし、じゃあ一緒に食べに行きますか、と言った。それから、ちょっと待っててください、と言って車と部屋の鍵と財布を取ってから部屋を出た。
三時間ほどの間に駐車場はいっぱいになっていて、どこに車を停めたのか分からなくなった。彼女は、さっきの商店街で適当に済まそうよ、と言って道の方へ歩き出していた。私は助かったような気分で小走りでそばに寄った。
唯一開いていた定食屋に入り、鴨南蛮と天ぷら蕎麦を頼んだ。シイノさんは何処かから資料を取り出し、明日からのルートを確認していた。いつものことだけれど、彼女との仕事はストレスが少なかった。だいたい初めの五日ほどは、あらかじめホテルは取られていて、それ以降はシイノさんが担当してくれたし、鍵が必要な場所への連絡も、知らないうちに済ませていた。おそらく、運転しない代わりに雑務をこなしているのだろうけれど、私としてはとにかくありがたかった。
料理が運ばれ、それぞれに「いただきまーす」と言って、あとは黙って食べた。シイノさんは眼鏡をわきへ置いて、天ぷらを確認するときだけ覗き込むように顔の前にかざした。シイノさんは左右で目の大きさが違っていて、私はそこに、どうしようもなく惹かれていた。造り自体は変わらないのだけど、左目の方がほんの少しだけ大きく見えた。測ってみれば一ミリ程度の差なのだろうが、たったそれだけのことで、とてつもなく大きな違いがあるようだった。そして、不思議なことではないのかもしれないが、その左目の方が好きだという訳でもなかった。
それじゃあ、明日八時に、と言って分かれ、私はそのままコンビニまで歩いた。一人で知らない町を歩くのは、引っ越した先での初めの数週間と重なる。缶ビールとサラミを買い、煙草を吸ってから部屋へ戻った。
音を消してテレビを流し、飲みつつ食べつつ、明日以降の行程をあれこれと考えていた。上手くいけば二週間ほどで終わりそうだった。そのあと二日間の休みがあり、同じ電車を乗り継いで、また別の電車に乗って美草へ行く。距離からすると、シイノさんとは美草の駅前で集合することになるだろう。唯一の救いは、一人きりではないということだった。
六時に起きて朝食を食べ、シャワーを浴びたり柔軟体操をしたりして、十分前に下に降りた。彼女はボンネットにもたれかかって本を読んでいて、私がそばに立つと顔を上げて笑った。空を見上げ、今日はいい天気だね、と言った。澄んだ空には暗い雲は一つもなく、冷たい風と暖かな陽の光で満ちていた。
「おはようございます」
「おはよう」
車に乗り込むと、外よりも冷え込んでいるようだった。暖房をつけ、手のひらを擦り合わせてからエンジンをかけた。
「じゃあ、出発します」
「お願いしまーす」
「今日は、二地点ですね」
「そうだね、明日は三やって次のホテルかな」
「そうなると思います、しばらく雨も降らないだろうから、予定通りに進むでしょうね」
「うん」
「さっき、何読んでたんですか?」
「さっき?、ああ、カフカの城」
「今年の初めの方にも読んでなかったっけ」
「読んでたよ、でも読み通せなかった」
「なるほど、何回読んでも読み通せない感じだ」
「そうそう、カフカの他のは割と好きで何回も読んでるんだけど、城だけは読み切れたことない」
「そういうのあるよね」
「ユカコさんもそういうのある?」
「私はサリンジャーの本はどれも読めなかった」
「サリンジャー、ライ麦しか読んだことないなあ」
「中学生の頃に読んで、高校生の頃にも大人になってからも読んだけど読めなかった」
「こういうのって何なんだろうね。読んでる最中とかって割と熱中してるのに」
「うん、ふっと関心が向かなくなるよね」
「そうそう。それで同じところを何回も読むようになって、読みたい別の本が出てきて」
「気が付いたらそっちを読んでる」
あれこれと話しつつ四十分ほど車を走らせ、一つ目の地点に着いた。二人とも車の外で伸びをして、それから車の中に戻って作業着に着替えはじめた。シイノさんはグレーのつなぎにクリーム色でコーデュロイ地の上着を羽織った。扉を開けて足だけを出し、いつも履いてるのとは色違いのワークブーツの紐を締め直している。私は濃紺のつなぎを着て、厚手の黒いブルゾンを羽織った。GORE-TEXの登山靴に履き替え、外に出てまた伸びをした。
シイノさんは用紙を挟んだボードを手に、私の前を歩いていた。私たちは作業道を歩きながら山奥へと進んで行く。踏みしめられた落ち葉が割れていく音が辺りに響いていて、合間に鳥の鳴き声や何かがかさこそと動く音が聞こえた。私は息が切れないペースを守って、彼女との間に距離を取りつつ歩いていた。
途中で作業道を離れ、傾斜のきつい場所を尾根まで登った。それからはひたすら尾根を登っていき、なだらかになったところで傍に逸れて坂を降っていった。彼女は私よりも早いペースで息を切らさずに進んで行く。それは、私より二年先に入社したこととはあまり関係がないように思えた。普段からしっかり体をつくっているのか、持って生まれたものか、その両方か、分からないけれど、明らかに私よりも適応していたし、それはここでは優れていると言い換えられた。私はそういう類の、判然とした感覚が好きだった。医科大学を目にするたびに思うことでもあった。今のシイノさんと同じく、そこで学んでいる人たちは、特定の分野で私よりもはっきりと、完全に優れていた。
しばらく下っていくうちに平たい場所に出て、そこに黄色い杭を見つけた。朽ちていないか確認したあと、何枚かの写真を撮り、二手に分かれて辺りを歩いた。雪や雨を吸って柔らかくなった落ち葉でふかふかと歩きづらい。シイノさんはもう見えなくなっていて、彼女から起こる音も聞こえない。気配だけが少しあるがそれも、私が彼女の存在を知っているからだろう。歩いていった方向も、範囲も、ペースも、どれもを知っているからこそ立ち上がってくる気配だった。
ガーミンの地図に視線を落とし、私を表す青いピンを見つめた。すっと枠外に出たかと思うと元いた位置に戻ってくる。私はまだ紙地図では歩き回ることができない。目的地まではいくことができるのだが、それに比べると、狭い範囲を歩くのが苦手だった。すぐに景色が混じり、どこでどの方向を向いているのかが分からなくなる。彼女は杭のところにザックごと置いて、熊除けの鈴だけを持って歩いて行った。遮蔽物もない道とは言えない道を真っ直ぐ歩くあいだにも、私は何度も不安になって地図を見下ろした。
準備を済ませて『城』を読むシイノさんのところへ戻り、トランスポンダーを受け取った。ザックから巻尺とチョークを取り出し、杭の近くの何本かのミズナラの直径を測って伝え、トランスポンダーを頭上に掲げた。離れた位置に立つシイノさんがバーテックスを使って高さを測り、それらを記入していった。
車に戻ったのは昼前だった。
「お昼どうしますか?」
「私は、何でもいいよ、一応カロリーメイトとかもあるし、まだ空いてもないし」
「飲み物は?」
「あるし足りてるよ」
「じゃあ、とりあえず次の地点に向かいつつ、コンビニがあったら寄ります」
「お願いします」
二十キロの移動距離の間にコンビニはなく、私たちはそのまま山へ入って行った。
サルトリイバラの多い行程だった。剪定用の鋏を使って少しずつ進んでいき、いくつかのルートを無視して突っ切った。こういうとき、長年一緒に仕事をしている人の選択にはすんなり納得することができる。「あれ、違う道だな」とは思っても不安にはならない。それは相手がシイノさんであることも要因ではあると思うのだけど、私は何も口を挟まずについて歩き続ける。
四十度近い斜度のついた地点に到着し、同じ作業を繰り返した。
「もう慣れたね」
「はい、でもやっぱりちょこちょこ遅れるところがあります」
「そんなの何も問題ないよ、早い方だし、そもそも急ぐ必要もないしね」
「ありがとうございます」
帰りは私を先頭に歩いた。どうしてもいつもよりペースが上がってしまう。少し息を切らして山を降り、車の外で手早く着替えを済ませた。
「冬は汗かかなくていいね」
「本当にそうですね、私は夏の間はほとんど会社ですけど、シイノさんはそんなことないですもんね」
「うん、ずっと外だねえ、今年は特に」
「フキジマさんでしたっけ」
「フキシマくんね、そう、フキシマくんの研修もあったからね」
「歩ける方なんですか?」
「それが、困ったことに全然だね」
「ありゃ」
「かと言って一緒にランニングするとかジム行くとか、それは何か違うじゃん?」
「そうですねえ、本人が気付いてどうにかしてもらうしか」
「そうそう、ユカコさんは結構途中からめきめき歩けるようになったもんね」
「そうですかね?、あまりにしんどい時期があったんで、一応普段から体を動かすようにはしましたけど」
「かなり変わったと思うよ」
道の駅で遅めの昼食を食べ、城下町跡を散策した。城跡にも惹かれないのに城下町跡って、とシイノさんは言いながらもにこにこと歩いていた。景観を楽しんでいるというよりも歩くことそのものに喜びを感じているようだった。そういえば彼女はよく私を散歩に誘った。仕事を終えて宿に戻ってからも、夕飯のあとも、こうして時間が余った時も、ちょっと歩こうよ、と言って軽く五キロは歩いた。そんなふうに、特に目的もなく歩くことは普段の私にはできないことで、こうしてシイノさんに連れられて歩くことは仕事中の些細な楽しみの一つだった。
ベンチのある喫煙所で煙草を吸いながら、傍らで本を読むシイノさんをちらちらと見ていた。彼女の黒く艶やかな髪は、光を受けるとコーヒーみたいに赤みがかった焦げ茶色に見える。風に吹かれて浮かび上がった髪がぐるぐるとまわっている。彼女の髪に触れてみたい衝動のようなものが込み上げ、深く煙を吸い込んで息を止めた。
彼女は背中を大きく伸ばし、駄目、と言った。私は飛び上がるように驚いて、やっぱ読めないや、と聞いて体の緊張が解けた。どっかで本買わないと、と彼女は立ち上がり、煙草を取り出して火をつけた。
ホテルの部屋で今日のデータをまとめてカギタニくんに送ったあと、昨日と同じようにベッドで眠り込んだ。
ノックでは目覚めなかったのか着信音で目を覚まし、寝転がったまま電話に出た。
「すみません、今起きました」
「やっと出たか」低く、音そのものがざらついているような声が聞こえた。
「え?」
「ずっとかけてただろう?」
「間違い電話の」
「間違いじゃない、お前にかけてたんだ」
「でも、私は、知らないですよ」
「お前が知ってるか知ってないかは問題にならない」
「どういうことですか」
「そのままの意味だよ、お前が知ってることも、知らないことも、ここでは問題にならない」
「ここでは?」
「思い出せないか?」
「思い出すも何も、何も分からないですよ」
「そうか、それならそれはもういい、とにかくお前は電話に出た」
「それが何になるんですか」
「質問ばかりするな、何を答えてもお前には理解できないよ。質問するにもそれ相応の資格がいるんだ」
「だって、こんな」
「だってもこんなも、ここにはない。とにかく、またかける。次は時間をかけさせないでくれ」
私が何かを言う前に電話は切れた。一時間も眠っていなかった。私はその番号を着信拒否に設定し、椅子に座って外を眺めた。聞き覚えのない声だった。平坦で、上手く作られた機械の声のようだった。私の神経を磨り減らすためだけにつくられた声なのかもしれない。不快なわけではなかったが、何か、体の中の柔らかな部分を削られてくような感触があった。軽い痛みのようなものさえあった。頭や体のあちこちが鈍く痛んでいた。
部屋を出てロビーに降り、喫煙所に入って煙草を吸った。痛みや強張りを煙にして吐き出すように、私の体はいつも通りの感覚を取り戻していった。どこの誰が、何の用があってあんな電話をかけてきたのだろう。あまりに長い期間の末だったこともあり、悪戯だとも思えなかった。どこかの誰かが、真剣に、私に向けて何かを語ろうとしているのだ。それは恐ろしいことなのだろうか。それとも私にとって良いことなのだろうか。きっと、そのどちらでもない。私に判断できるようなことではないのだろう。起こったことを「起こったこと」だと理解できるだけかもしれない。それすらも「ここ」では運が良い方だろうか。私はだんだん腹が立ってきていた。胸から上が熱くなってくるのを感じる。
二本目を吸い終わる頃にシイノさんが入ってきて、これ吸ったら本屋行くけど一緒に行かない?、と言った。私はちょうどいい気晴らしになるだろうと、じゃあ財布取って来ます、と言って喫煙所を出た。
茶葉なんかを売っている店の隣の本屋は、香ばしい茶っ葉の香りが充満していた。この本屋のどこかに排気口があるんじゃないかと思うくらい強い香りだった。レジカウンターの奥で座っている老爺はそんなものは気にも留めずクロスワードパズルに熱中していた。
一通り棚を見てから私たちは店を出て、車で大型書店へ行くことにした。シイノさんは、ごめんね、と言いながらも明るい表情で、私も読み終わりそうなんで、と返すと、車内の明るさが増すような笑顔になった。
駅前の本屋までは二十分くらいで着いた。店に入ってすぐに分かれ、十分後に二人は手ぶらで店の前で落ち合った。
「もう少し大きな本屋に行かないとですね」
「明々後日に期待しよう」
「そうですね」
車をホテルに戻してからも私たちは適当に辺りを歩いた。細い川にかかる小さな橋を渡り、見渡す限り広がっている田んぼの横を進んだ。晴れ渡った空を小柄な鳥が飛んでいる。逆光でそれらは影に見えた。十数羽の群れのようなものがあちこちで飛びすさむように不規則に動いている。
それからの二日間は、特にこれといったこともなく、滞りなく過ぎていった。特徴もない野山を練り歩き、ミズナラや欅や赤松の直径と高さを測っていった。約一年ぶりの山歩きは、美草のことを思って鈍くなった私の体をほぐしていった。着信が一度もなかったことがその原因かもしれないが、日々の激しい運動は少なからず良い影響を与えたはずだった。熱く柔らかくなった体から、ありとあらゆる冷たく重いものが溢れ落ちていき、深まっていく冬の寒さが、新しい形で私を固定してくれた。
五日目の朝、強風で揺れる窓の音でアラームより先に目が覚めた。天気予報は明後日の雨模様を予報していた。いくつかのアプリを確認し、今日の一地点を二地点に変更する旨をシイノさんにショートメールで送った。
朝食の場所で見かけたシイノさんは、疲れているように見えた。寝起きだからだろうかとも思ったが、私と違ってそろそろ疲れが抜け切らなくなってくる頃だろう、と考え直した。私も何度か一年中あちこちへ行ったことがあったけれど、それまではどんな所だって翌日には大体元に戻っている体の状態が、冬の頃になるとそうはいかなくなった。体は毎日やけに重く、それまでの疲労が着実に溜まって凝り固まっていった。
葉野菜とフルーツを二回取って朝食にし、資料や荷物をまとめてトランクに入れた。部屋に戻って残りの時間を寝そべって過ごしていた。『国のない男』は前の日に読み終えられ、シイノさんと同じく今日の町に期待していた。これまでと比べれば遥かに栄えているはずだったし、地図を見る限り学校も多く、若い人に向けた店もいくつかはあるだろう。三路線ほど入った駅があるなら、駅前にも少し期待が持てる。
五分前に降りると彼女はそこにいて、また『城』に挑戦していた。私と目が合うと苦笑いみたいな顔で、どんどん読める範囲が狭くなってくる、と言った。
「今日二地点、明日二地点を頑張って終わらせて、明後日は休みにしましょう」
「雨っぽいね」
「みたいですね、今日と明日は移動が長くなりそうなんで一地点にしたかったんですけどね」
「この気温で雨に打たれるのはねえ」
「うん、避けられるならなるべく避けたい」
「二日でそれだけ出来たら全然問題なさそうだしね」
「だと思います、雨も明後日以降は降らなそうですし」
一地点目は何事もなく終え、二地点目で私たちは地崩れの起きた場所を避けて進むために何度も遠回りすることになった。こういうとき、私はシイノさんとペアであることに、何者かに感謝したくなるような思いだった。危険なものに対する対処の範囲が似ているし、それによって生じた面倒事に対する態度も似ていた。経験的にこういった広く地崩れした場所を、突っ切るように進む人とあまりに遠くまで回り込む人がいて、シイノさんと私は感覚からするとこれ以上でも以下でもない道を見つけて歩いていく人だった。見るからに苛々している人とペースが落ちるくらい怠そうに歩く人がいて、私たちはもうどうしようもできないのだから切り替えるという訳でもなく、今まで通りで問題ないでしょうといったタイプだった。それは言葉にしなくても分かったし、実際に言葉を介しても共有できたことだった。
一時間程度のずれで到着し、なんてこともない地点での作業を手早く済ませた。終わってから私たちはそこで煙草を一本吸って、車に向けて歩き出した。粘土質のぬるぬるとした地面は歩きづらかった。下るにせよ上るにせよ重心を下方に、上半身が後ろに流れないように歩かなくてはならなかった。シイノさんはどんなところでもペースが崩れなかった。普段の道を歩くよりは遅いにしても、山の中でもいつも通り、速くなったり遅くなったりすることがない。私は下り道が苦手だった。その他の道は種類に関わらず遅れることもないが、下り道だけは格段にというほどでもないにしろ分かりやすく遅くなった。
十五時過ぎに車を停めた場所に着いた。着替えてから煙草を吸って、ナビを設定した。二時間、混んでいたとしても十八時までには着けるだろう、そんなことを言うと、安全運転でね、と返ってきた。
ようやくヴェゼルに慣れてきたのか、運転はもう苦ではなくなっていた。荒れた林道を運転することは疲れるには疲れるのだが、既にそんなことは前提として私の中に組み込まれていて、今更どうということもない。それよりもここ数日の間に走った道路の方がぐったりと私を疲れさせていた。仕事以外で運転することも多くはないし、たまに運転するにしてもミニとヴェゼルでは何から何まで、使う感覚というのか感触の色合いというのか、すっかり違っていた。それが、林道を抜けてしばらく走っているうちに消えたのか馴染んだのか、気にならなくなった。今年の初めの方にも運転していたことを私の意識以外が思い出したのかもしれなかった。
コンビニや道の駅に寄りつつ、私たちが今日から二泊するホテルに到着したのは十九時前だった。小ぢんまりとした個人経営のホテルで、サイトや口コミを見ていて想像していたよりも格段に綺麗だった。明後日からはシイノさんが宿を取ってくれるから、もう何かを心配することも少なくなるだろう。地点や行程の関係上、どうしてもという訳でもないがここに泊まっておいた方がいいだろう、というのを除くと、私と彼女では宿に求めているものがかなり近かった。
荷物を置いて早々に私たちは町を歩き始めた。確かに、駅も大きいし店もたくさんあるのだけど、私たちが惹かれるような場所はなかった。夕飯を食べるところと本屋を探しながら歩き、いくつかの本屋を手ぶらで出たあと、ラーメンを食べることにした。
学生らしき人でぎっしりの店内にある椅子に座り、順番を待った。
「あっても読まなかったりするのに、ないと焦るね」
「そうですね、私も一冊くらい何かぴんとくるのがあるかなって思ってたんですけど」
「意外と二人とも疲れてるのかもね」
「確かに、それはそうかもしれない」
会っていない時期のあれこれを話しつつ、何を食べようか考えていたけれど、彼女の言う通りなのか、何かを選択することにいいつも以上に時間がかかった。
結局、『おすすめ!』とのことで豚骨醤油を選び、塩バターで食べるシイノさんを見ていると、また間違えたかもしれない、と思った。彼女はそれを察したのか、食べる?、と言って丼を指差した。それぞれのを一口ずつ交換して、私こっちのが好きかも、と言うシイノさんに、「交換しますか?」と聞いた。
「気持ち悪くない?」
「え?」
「いや、半分は食べてないけど、その間に、その」
「唾液とかってことですか?」
「ああ、うん、そういうこと、かな」
「私は気にならないですけど」
「じゃあ、交換してもらってもいいかな?、私も全然気にならないから」
「もちろん、そうしましょう」
彼女は嬉しそうに丼を受け取り、いただきまーす、と言い直して黙々と食べた。
シイノさんは店の前の灰皿の傍に立って、行き交う人々を見ながら煙草を吸っている。食べるのが遅い私がそこで煙草に火をつけたのは、彼女が二本目をくわえたあたりで、すみません、と言うと、ぜーんぜん、と言った。
それから、この数年の間に改装されたか新築されただろう商店街を歩き、カフェでホットラテを買った。シイノさんがぐいぐい飲んだコーヒーで私は上顎と舌の先を火傷し、人間ってこんなに違うんだ、と詮ないことを思い、こういった肉体的な違いの多い二人の気が合うというのはどういう仕組みなんだろうと、さらにつまらないことを考え出した。
彼女の深緑のダウンジャケットは夜気を含み、朝よりもぴたっと体を包んでいた。道行く人たちもみんなしっかり服を着込んで歩いていた。オーバーコートだけでは足りなかったようだ。シイノさんにカップを持ってもらって、ボタンを全部しめても、寒さは大して変わらなかった。どこかで中に着る服を買う必要がある。
商店街というのはどこでも、突然その気配ごと断ち切られている。ハレとケのような感覚の元でつくられているのだろうか。初めは自然発生的に店が立ち並び、商店街へと変わっていったのだろうが、今ではどこの地方都市もそんなふうには見えなかった。どこまでも人工的であるように見える。その内側と外側ではルールさえ違っているような、異質な空気があった。
「こうやって歩いてると、万華鏡の中みたいで楽しいよ」と眼鏡を頭にのせたシイノさんが言って、町自体がそうなっている訳ではないと分かっているのに彼女から視線を外して辺りを見やった。しっかり見ててね、と彼女は言って私の腕を取った。
言われた通りに辺りをちらちらと確認しながらホテルへ戻った。
「目の悪いことの利点は、見たくないものを見なくて済むことだね」
「そんなに見えないんですか」
「うん、眼鏡ないと触るまで違いも分からない」
「コンタクトは?」
「山の中ではしてるよ」
「あ、そっか、だから、そんなに見えない印象がなかったのかもしれません」
「ああ、なるほど、ユカコさんは全然大丈夫?」
「多分、大丈夫だと思います、気にかけたこともないし」
「うんうん」
残った仕事を終わらせたりシャワーを浴びたりして時計を見ると二十四時近くを指していた。
電気を消してからベッドに入って瞼を閉じてすぐ、眠り込むより先に夢が来た。気持ちの悪い感触が体全体を薄く覆っている。水気を含んだ薄い膜が体全体を覆っている。瞼を開けると天井が見えるのだが、夢は続いていた。私は裸足で街灯もない夜道を歩いていて、傍らから三つ目の犬が歩調を合わせるようにして離れない。薄手の上下は灰色で、見たこともないごわごわとした素材でできていた。どちらの目も天井を見ているし、普段何かを想像して頭の中で映像が浮かんでくる感覚とは違っていた。私はその夜道と犬をどこでも見ていない。それでもその光景は、今私が体験している時間として私を流していく。仄暗い道を進み続ける。虫の鳴く声や枯れた草が風に吹かれて鳴るかちかちという音、私と犬が歩く音だけが辺りに響いている。月光は深まった冬の光で、それは光そのものが冷ややかさを持っていた。その光は、どれだけ浴びようと温まることのない光だった。私と犬は手を繋いでるみたいに付かず離れずの距離を保っている。ときおり私を見上げるその顔に、三つの目があること以外どこも変わったところもない。立った耳や細長いがずんぐりとした鼻梁から濡れた鼻先も、湿っているのか艶やかな白い毛に覆われた体も、くるっと巻き取られたような形の尻尾も、何もかもただの犬だった。その犬にとって特別な目がどれなのかは分からないが、私にとってのそれは、額というのか、二つの目のほとんど真ん中と言ってもいい位置にあった。第三の目、のような概念を私が知らなかったとして、そうすると三番目の目玉はどこへ位置するだろうか。それはやっぱり、額かそれに近い平たく、比較的、空いている場所にくるのだろう。だから私はある意味でその犬に、三つ目の犬に違和を感じなかった。現実の世界でも三番目の目玉が現れるとすればそこになるだろうし、これは夢の中、もしくは限りなく夢に近い何かのなのだから。
犬は今では私の前を歩いていて、数十歩に一度私を振り返って確かめた。しかし、私が立ち止まれば犬も立ち止まるだろう、と先導されているような感じはなかった。犬はただ前を歩いていた。私はただそれに付き合っていた。毎夜の散歩なのだ。犬と私はリードも必要のないくらいに互いを理解している。私は犬にどんな危害を加えることもない。犬は、私の受け取り方を無視すれば、何も与えはしない。犬はその存在そのものが、何をしようがしまいが、私にとって暁光のようなものだった。それでいて私は犬の行動一つ一つに意味を感じずにはいられない。私は犬に餌や寝床を与えるが、犬は私に何もくれやしない。そんなことは分かっていたが、寄り添われた温もりや散らかった部屋の真ん中でいつもと違った表情で座り込んでいるのを見ると、一体何が私に与えられたのか分からないままに、それでも確かな感触が、生き物ではない温かみが、私の中で広がっていった。
私は黙って犬の後ろを歩き続けた。天井は車のヘッドライトに照らされるとき以外は何も変わらずそこに張り付いている。私は固く冷えた道の感触と、私に温められた柔らかな布団の感触を、同時に感じ続けていた。もちろん、布団の中の足の先は温もりと柔らかさを感じていた。それでも、夜道は間違いなく私の足の下でどこまでも続いていた。犬は鼻を鳴らし、私を振り返った。歩調を早めて隣につき、背中を撫でてやった。薄い皮膚の下の、背骨や筋肉の動きが触れて分かる。私と同じように、体のそれぞれの部分にそれぞれの温かさを持った、確かな生き物だった。いつも見る夢よりもあらゆる感覚が現実に近かった。夜道を歩く私は、私が動かせるわけではなかった。しかし、犬を撫でてやろうと思ったのは、天井を見つめたり瞼を閉じて眠ろうとしている私だった。それも、たまたまタイミングが合っただけかもしれない。そんなことを思ったのは夜道を歩く私であるかもしれなかった。夢のような場所での私も、姿形からしていつもの私だったし、今ここで私が思うことを、見るからに私である私が思わない訳が思いつけない。
月の光はどんな変化もせずに私たちを照らし続けていた。犬も私も歩き続けた。どれだけ進んでも景色も変わらない。それでも確実に、どこかへ向かっているのが分かる。犬は夜の長い散歩だと思っていそうだったが、そこでの私はそうではなかった。そこへ行くなり、行って何かをするなり、何か目的のようなものを持って歩いていた。気が付くと風は止んでいて、自ら動くことのできる生物が発する音だけになっていた。それは風が吹いて揺れる草木の音を引いたとは思えないくらいうるさかった。すべての音が発せられて宙を彷徨ったあと地表に降り積もっていった。私や犬が起こす微風がそれらを巻き上げ、音は次第に大きく、後戻りがきかなくなっていった。犬は、進みながらも私の周りをぐるぐると歩くようになり、どこか不安げな顔をしている。私はそれを無視したように歩き続けている。天井のシミが動き出したようにベッドが揺れている。目を覚ましたいが、そもそも眠っていないし、仮に眠っていたとして、今この状態がどのような状態なのか、どちらの私にも分からなかった。揺れは膨れ上がった辺りの音と同じように激しく強くなっていった。それは激しく強いことで、その強度を補強していたし成立していた。硬い樹木が強風で折れるように、ある種の脆さがあり、それはベッドの上の私を不吉な気分にさせた。
犬はどこかの地点でいなくなっていた。私は一人で歩き続けている。彼女は音に気が付いていないように、耳を塞いだり顔をしかめたりもしないままで歩いていた。波打って歪んだ天井は今にも私の上に落ちかかってきそうに思えた。締め切ったカーテンの隙間から伸びる光は粒になって視界の中で同じように揺れている。私は声を出そうとした。しかし何を叫べばいいのだろう。何をどう言えばいいのか、何も思いつかなかった。これは金縛りのようなもので、体の中の何かは眠っていて、何かは起きている、という状態なのだろうか。もしくは全てが夢の中での出来事なのだろうか。私はそう判断し、口をつぐんだ。
私は歩き続ける。夜道に弱く伸びる影は、それでもずっと先の方まで伸びていた。三つ目の犬はいったいどこへ行ったのだろうか。私は無理やり体を横へ倒した。視界に違和感がありそれは、ベッドの脇に立った誰かの姿だった。腰から脛のあたりまでが目に映る。男か女かも分からない。もっと言えば、人間かどうか、生き物なのかどうかも分からなかった。それはとりあえず人間の下半身の形を成しただけのものに見えた。その姿を確かめるべきなのだろうが、私の体はもうそこに固定されてしまっていた。何かは私を見下ろしているみたいだ。頭の側面や布団の下の体が、視線のようなものを感じる。何かを確認しているのだろうか。売り物になるかどうか、誰かを満足させられるかどうか、存在するに値するかどうか、そういった種類の視線だった。どんな温度もそこにはなかった。私は瞼を強く閉じ、その視線やこの時間をやり過ごそうとした。私の足の裏には薄く血が滲んでいる。
三つ目の犬は一心に遠吠えを続けていた。何かを伝えるためでもなく、ただ、力の及ぶ限り吠えていた。その声は辺りの騒音をかき消して響く。しかしどこへも届くことはなかった。犬は分かっていた。それでも吠え続けた。しばらく共に歩いていた人間は、今では影になった姿すら見えない。犬は女の手の感触を覚えていた。ほっそりとした指先の冷たさと、その奥でひそやかに横たわるようにあった温もりを覚えていた。その女の手は、今まで三つ目の犬を撫でたどんな人間とも違っていた。多くの人間の手は、冷たいだけか温かいだけだった。それに、犬を撫でたがっていた。犬はいつまでも遠吠えを続けた。虫も草木もそれを聞いていた。だが応えようがなかった。
誰かはずっと動かないで私を見ていた。私はその視線に慣れ始めていた。体の強張りは少しだけましになった。激しい揺れはいつの間にか収まっている。誰かが現れてからだったか。あの揺れは、私自体が震えていたのだろうか。誰かの視線は楔のように私を繋ぎ止めたのだろうか。しなやかで光沢があることは分かるのだが、何色も見えない。私はまだ歩き続けている。いくつかの鉄塔を越え、ぼそぼそと生え群がった草を越えた。滲んだ血の生温かい感触が足の裏全体に広がっていた。視線は絶えず私に向けられている。身じろぎ一つせず、飽きる気配もなく、むしろより熱心に私の何かを見ているようだった。風がほんの少しだけ戻ってきたようだ。両目の端、道の端で草木が揺れている。命あるものの動きは、見ているだけで私を癒してくれた。そうだ、誰かの視線は生命を感じなかった。それは私自身の命すら感じさせない視線だった。
思うように出なくなった声は、次第に何かを絞り上げたような音へ変わっていった。犬は上げていた顔を下ろし、地面の匂いをかいだ。いくつもの匂いの層を抜け、女の手と同じ匂いを探り当てた。三つ目の犬は真ん中の目で月を見上げ、残りの二つの目で道の先を見た。やはり女の姿はどんな形でも見えなかった。しかし、地表すれすれの位置へ鼻先を下ろしたまま、歩いていくことしか犬にはできることがなかった。粉っぽい、甘い匂いの中に鉄の塊を煮詰めたような匂いが混じっていた。女は血を流しているのだろうか。足元にはいくつもいくつも小石が転がっている。犬はその匂いを辿っていった。
空が白み始めてもおかしくはない長い時間が過ぎた。月はまだ私の真上にあり、鋭く光っていた。誰かは私を見下ろすのをやめて、来たときと同じようにいなくなっていた。私の勘違いだったのだろうかと思うほど、誰かがいた気配、その時間の肌触りがなかった。何一つとして、誰かがそこに立って私を見下ろしていたことを確かめられるものはなかった。月の光は刺々しさと冷ややかさを増し、私の服や皮膚を抜けて体内を傷つけ、冷たくしていった。血はもう止まったのか、しばらくあった熱っぽさは跡形もなかった。体はどんどん冷たく強張っていった。それでも私は歩いていた。私には、私を止めることはできない。弱い風にのって遠吠えが聞こえる。三つ目の犬の声だろうか。その声はたまたま風に乗ることができたのだろう。消えたことにすら気がつかないほど些細で弱々しい響きだった。私は何十個目かの鉄塔を超えた。電線は小さく円を描いて揺れている。
女が残した匂いは、どんどん強くなっていった。それなのに何の影も見えないことに、三つ目の犬は混乱していた。確実に女へ近づいているはずだった。粒の細かな甘い香りと、薄い汗の匂い、地面の水気と混じって蒸気のように膨らんだ血の、それぞれの確かな濃度の変化は、女が近くにいることを犬に告げていた。何よりも匂いが確かなものだった。それが今では、犬をその辺りの地面を嗅ぎ回らせるものへ、戸惑わせるものへと変わっていった。三つ目の犬は、自身のいる空間の輪郭を失っていった。犬は自分が今どこにいて、そこでどんな状態であるのかが分からなくなっていた。どろどろに溶けたような場所で犬は慌てていた。それでも、女の匂いは強くなる一方だった。視界はぐじゃっとした粘り気のある黒で潰されているみたいに、何の意味もないものだった。犬は鼻だけを頼りに歩き始めた。あたりの物事は、再び輪郭を与えられ、草や木として、土や岩や砂として、電流や鉄塔や電線として、月の光として、犬の影として、そこに存在した。犬は血の匂いに集中して匂いを追った。
飲み込んだ唾は喉を伝ったあと、弾け飛んだように体のあちこちを跳ねた。筋肉や皮膚が、内側から押される感触があった。唾液はピンボールの玉のように体中を通過していった。布団と私の間にラップのようなものがあって、私が飲み込んだものはそこまでいって体を抜けて反対側のそれにぶつかった。ひとしきりその感覚があり、唐突になくなった。私はもう一度唾を飲み込んでみた。わざとらしいくらい大きな音を立てたが、喉以降の感覚は掴めなかった。私は布団を被って真っ暗な中にいる。何も見たくなかったし、何を見ても意味がないことも分かりはじめていた。私はふと歩くのをやめた。正確な距離は、その他の出来事と同じように不明瞭だが、それでもその果てしないとも思える距離を遥かに超えた場所に、誰かが立っているのが見えた。山水画の樹木のように滲んだ影が見えた。それが、私を見下ろしていた誰かと同じものなのかどうかは不確かだったが、そこに立つ誰かは、私を見下ろしていた誰かだと、確信に近いものを持っていた。誰かはゆっくり私に近づいているようにも見えたし、走って離れていくようにも見えた。私はそこから動かなかった。明確に動くものは何もなかった。何もかもが動きを止めた。濡れた、柔らかな生き物の匂いが鼻の奥で広がった。ちくちくとするほど濃く強い、生臭いような、乾いた木を燃やしたような、もわっとした香りだった。
三つ目の犬の匂いだと気が付いたのは、その姿が目に映ったあとだった。犬は息苦しそうに呼吸していた。吐くことよりも吸うことの方が労力を必要としているようだった。私は犬の全身を撫でてやりたかった。私の体はもうそこで動かなくなっていた。私はただぼんやりとそこに立っていた。犬を見下ろす目には、何かを意味付けることはできなかった。ただの犬と地面が、映り込んでいるだけだった。
意識が繋がったとき、私はベッドから左足を投げ出していた。アラームの音が朝の六時半であることを高らかに宣言している。少しでも動かせば砕けてばらばらになってしまいそうな頭の痛みが、頭蓋骨の内側いっぱいに満ちていた。何度か深呼吸を繰り返し、意を決するようにして足を戻してから、アラームを止めた。
三十分ばかり深呼吸を続けているうちに、頭痛はいくらか治ったようだった。軽く身支度を整えてから朝食を食べに降り、熱いコーヒーとサラダを摂った。
シイノさんは私を見ると首を傾げ、ゆっくりと近づいてきた。
「ユカコさんだよね?」向かいの席に座りながら、訊ねてもいいのだろうか、という表情で言った。
「そうですよ」空になった皿をいつの間にか見つめていた私は、顔を上げてからそう言った。
「だよね、良かった。何がどうってわけでもないんだけど、よく似た別の人かと、一瞬、思った」
「何が違うんですか?」
「いや、本当に何がどうとかじゃないんだけど、雰囲気というか感じが変わったというか」
「それって、いい方にですか、それとも」
「分かんないな、今はいつもと変わってるように見えないし、さっき、ほんの一瞬だけそう感じただけ、何かあったの?」
「私にもよく分からないんです」
「体調は?」
「頭が痛いですけど、他には特に」
「今日、大丈夫?」
「だと思います、今日ちょっと頑張れば明日は休みだし」
「無理せずにね、車停めてから中止でも、私は気にしないから」
「ありがとうございます」
部屋に戻って、洗面所の鏡で自分の顔をよく見てみたが、変わったところは見当たらなかった。頭痛以外の不調もなかったし、むしろそれ以外は快調に近い。手足は隅々までよく動くし、呼吸も問題ない。それでも、何かが変わったと言われれば、そう見えなくもなかった。光やその場所によって見え方が変わるような部分、虹彩や髪や唇、そういったもののベースである質感や色合いが変わったのかもしれない。どう変わったかは分からないけれど、変わったように思うというのは、そういう元々不確定なものの変化のせいかもしれない。
よく見れば見るほど、その前の状態がどうだったか覚えていないせいで、いっそう分からなくなった。鏡の前を離れて部屋に戻り、着替えを済ませた。着ていた服をザックに入れて、窓の外を眺めて時間を待った。
一つ目の山を登っている最中に頭痛は消え、その代わりなのかものがくっきりと目に映るように感じた。ハイイヌガヤの葉の一枚ずつが際立ち、途端に目の奥がちくりと痛んだ。直接、小さくて硬いものが当たったような痛みだった。しばらく瞼を閉じて、その上から指先でほぐすように押し込んだ。痛みがが目玉全体に広がり、指を離すと後頭部の方向へ抜けていった。
変わらずビビッドな景色の中、車までの短い距離を歩いた。どちらの地点も大して歩く必要がないことが嬉しかった。朝には既に歩き疲れていたし、歩き過ぎたときに特有の体の内側に籠もった熱っぽい怠さすらあった。
遠くがよく見えるわけでも、より近い位置のものがよく見えるわけでもなく、ただいつも通りの視野の解像度が高くなったようだった。そう意識してからだから正確ではないかもしれないけれど、車のボディの細かな痕やシイノさんの上着の毛羽立ちが目についた。着替えている間に、こっそり『城』を捲ってみると、クリーム色の紙面はテラゾータイルのようにたくさんの色や光を含んでいることが分かった。薄い灰色で縁取られた黒い文字が、その色や光の中で、凹凸を持った影や透かしのある立体物に見える。
「読む?」
「あ、いえ、どう見えるんだろうって」
「どう見える?」
「さっき、目が痛いって押さえてたときがあったじゃないですか」
「うん」
「そのちょっと前から、何か視力が上がったような気がして」
「よく見えるようになったの?」
「遠いとか近いとか、そういうのは変わってないんですけど、最初にハイイヌガヤの葉っぱ一枚一枚が妙にはっきりしてたんです」
「うん」
「それで、どの草も木も、いつも以上にくっきり見えて、シイノさん、このページ、タイルみたいじゃないですか?」
「タイル?、肌色の?」
「いや、テラゾータイルです」
「ううん、私には肌色に見えるなあ、それとちょっときらっとした白っぽい色」
「このあたりですか?」
「そうそう」
「この横の黄緑っぽい色は?」
「うーん、見えないし、言われても見つけられない」
「私には今これ、ほとんどその、タイルと変わんないくらいたくさん色が見えるんです」
「文字は?」
「えっと、かなり白に近いグレーに縁取られてますね」
「私には真っ黒な文字にしか見えないなあ、頭とか目はもう痛くないの?」
「うん、もうどこも痛くはないですね」
「じゃあ、ま、いんじゃない?、大事をとって病院行くならついていくけど」
「いえ、大丈夫、だと思います。また強く痛むようなことがあれば、どこかの日を半休か何かするかもしれないですけど」
「それは全然構わないよ」
少し心配だった運転も、思い至るような支障はなかった。助手席のシイノさんの様子からも、特におかしなことにはなっていないだろうし、よく見えることが運転に悪影響だとは、今になってみると、思えないようなことだった。
民家や小川が近くにあり、羽虫の多い二地点目もすんなり終え、シイノさんの要望でダムを見にいくことにした。そういえば年の初めのときも、その前の年の暮れやその前だって、彼女はしょっちゅうダムを見に行きたがっていた。私は、どちらかと言えば、見たくなはかった。私が高校生で妹が中学生の頃、ダムの建設に反対するデモのようなものを見に行ったことを思い出した。はしゃぐシイノさんを見ているあいだは何も思い出さないのだが、ふっと目を離してダムを見ると、当時だってセットで見たわけでもないのに、やけにしっかりと彼らの姿が浮かんできた。気怠げに歩く大勢の老人と私たちの親よりも少し上の世代の人たち。そのほとんどが男の人で、彼らの中には何人も、参加したいわけではないだろう顔をした人がまぎれていた。先頭に立っていたのは、そのときの町長よりも町や村での発言力の強い老人だった。町長は彼の横につき、真一文字に結んだ口元をひとときも緩めなかった。アサギは私の手を取って、なりそこないの物見台へ連れていった。姉ちゃん姉ちゃんという声が今でも聞こえるし、そのときもそう言って私の手を引いていった。
家々よりもほんのちょっとだけ高く位置する床に座り、行進を眺めた。私はもう高校生だったからか、興味はないが日常的ではない出来事を何の気なしに楽しむことはできなかった。妹くらいの年の頃には私も、何かあれば飛んでいくように見に行ったし、よく知った顔がどこでも見られた。みんな何でもいいからいつもとは違った光景を見たいと思っていた。今にしてみれば子どもというのは大抵そうであるようにも思えるが、その中でもあの町にいた子どもは飢えていたのではないか。
妹は指をさして、あれ爺ちゃんじゃない?、と言った。私には指をさされた人も、祖父らしき人も見当たらなかったが、そうかもね、と返すと彼女は何やら楽しそうに高い声で笑った。
シイノさんは鼻歌でも歌いだしそうなくらい楽しそうにしていた。
「ダムの何が好きなんですか?」
「これは、関係あるかないか分からないんだけど」
「はい」
「私、昔からジェットコースターとかお化け屋敷とか、そういう『怖い』で括れるようなこと好きなんだよね」
「はい」
「それで、そういうのって結構すぐ慣れて、一回慣れると年単位で元の怖さって戻ってこなくて」
「ああ」
「それで、ダムっていうのは、私の中でムカデの裏側みたいな不気味さとか、それ所以の怖さというか、訳がわからない感じが恐ろしいというか」
「なるほど。でも、それも慣れるもんじゃない?」
「うん、私も初めの方は『いいの見つけたなあ、でも』みたいに思ってた。でも、本当の虫の裏側なんていうのは二回も三回も見れば慣れるけど、ダムはそうじゃないんだよね」
「どうして慣れないんでしょう」
「私は、大きさのせいかなって思ってる」
「大きさ」
「うん、単純に仕事であちこち行ってるときにしか見ないし、それも時間がこんなふうに余った時にしか見ないから、回数が少ないっていうのもあると思うんだけど」
「それは確かにそうかも」
「うん、でも、正直どこも似てるっちゃ似てるし、ねえ?、カラフルなダムとかどっかが尖ったりしてるのってないじゃん」
「そうですねえ、それなら好きになるかもしれないけど」
「それは私も、もっと好きになるかも。で、大きさ、そのやっぱり、っていうのも変だけど、人にとってあまりに大きなものって、それがどれだけシンプルに見えてても、情報量としては、飽きるために処理すべき?、そういう情報が凄まじいんじゃないかって」
「何となく、分かるような分からないような」
「私も、ほとんど思いつきで話してるから、ごめんね」
「いえ、おもしろいです」
「うん、それとジェットコースターとかお化け屋敷は大きいけど、過ぎ去っていくものだから、だから、というか、ダムは大きさも凄いけど、それがほとんど目でしか楽しめないし」
「ああ、それはかなりおっきな理由かもしれないですね」
「うん、話しててそんな気がした」
「じゃあ、ものすごく高いビルや塔はどうですか?」
「うーん、確かに見るのは好きかもしれないけど、登れちゃうし、何かむしろ人工物に見えないから怖さが薄いというか」
「ああ、そっか。ダムは人工的だからいいんですか?」
「うん、そうかも、自然に仇なしてる感じがぞくぞくするのかな」
「それが怖さに変換されてる」
「みたいな、ぎこちなく共存してる感じとか?」
「ああ」
「まだ私にも何にそんなに惹かれてるのか分かんないなあ」
私たちがダムを見渡す展望台に着いたのは十四時過ぎだった。真前の駐車場には、白線や車止めも含め、私たちの車以外何もなかった。
彼女は車を出ると、駆けるように柵のすぐそばまで行って、身を乗り出してあたりを見渡した。遅れて隣に立った私も同じように、意外にも澄んだ湖や対岸に聳える急峻そうな山々を眺めた。無意識にダムが目にうつらないように目を動かしていて、でかーい、とか、かっこいー、とか言うシイノさんも見ていた。
「そうだ」と彼女は言って、車まで走ると私を振り返って手を振った。しばらくぼんやりとその姿を見つめ、それからポッケの鍵を取り出して車のロックを外した。ありがとー、と言って扉を開け、助手席を何やらさぐっていた。
戻ってきた彼女の手には小さなカメラがあって、最近買ったんだけどすっかり忘れてた、と言いながら構えて、私の写真を何枚か撮ったようだった。もう遅いのに顔をそむけた私に、可愛いよ、大丈夫、と妙に真剣な表情で笑って、柵まで行ってカメラを構えた。
ボンネットにもたれかかって煙草を吸いながらシイノさんの動きを眺め、普段の彼女にはない忙しなさがおかしくて、愛おしいような気がしてきた。小動物が一生懸命に餌を食べている姿が重なって見えてくる。本当にダム好きなんだ、と呟くと、彼女は振り返って首を傾げ、私が何か言う前に撮影に戻った。きっと何も聞こえていないのに振り返ったのは、自身に向けられた言葉の、気配のようなものを感じたのだろうか。言葉も案外、誰かが誰かに向けたものに限っては、気配を醸し出すのものなのかもれない。彼女は、何か言われた気がした、のではなく、何かが来た、何かがある、ような気がして振り返ったように見えた。
カメラの液晶画面を見つめているのか、しばらくじっとしてそれから、一緒に撮ろうよ、と言って私のところに走り寄って来た。カメラは柵の上に置かれ、レンズがこちらを向いている。反動をつけてボンネットから離れるとシイノさんに腕をとられ、そのまま展望台の上まで連れていかれた。
シートベルトをつけてエンジンをかけたところで、いい写真、と言ってシイノさんは二人の写真を見せてくれた。彼女は私の左肩に頭をのせて笑っていて、私は目だけ右側を向いて、唇の左端だけで笑っていた。あまりにぶっきらぼうな表情に、すみません、と言うと彼女は、これがいいんじゃんと言った。
「ダムはどうでした?」
「うん、良かったよ。真新しくて綺麗だし、のっぺりしてて」
「のっぺりしてる方が怖いですか?」
「そうだねえ、風景にそぐわない感じがあっていい」
ホテルに戻ったのは十七時を少し過ぎたあたりだった。シイノさんははしゃぎ疲れたのか眠っていて、珍しく、エンジンが止まってからも目を覚さなかった。
声をかけるとすぐに目を覚まし、ごめん、と言ってあちこちを伸ばしたり曲げたりして、そのあと車の外でも同じようにして体をほぐしていた。
「それじゃあ、十八時半にロビーで集合しましょうか」と言って部屋に分かれ、今日のデータをまとめにかかった。
カギタニくんはまだ会社にいたらしく、データを送ると電話がかかってきた。
「お久しぶりです、カギタニです」
「久しぶり。そっちは忙しい?」
「今日中に終わらせないといけないのが。突発的にですけど」
「ああ、なるほどね、アキちゃんは?」
「変わりなく、元気にやってますよ」
「うん、良かった。それで」
「それで、いくつか前回と違ったところがあるので、折角なので直接確認しようと思いまして」
「全然いいよ、久々に、と言っても一週間くらいか、声聞けて安心するし」
しばらく沈黙があって、くぐもった咳払いが続いた。
「えっと、両地点とも前回はミズナラだったところが今回は全部カシワになっているんです」
「うん、私もそう思ったけど、前の人たちが間違えてると思うよ。というか、何で間違えたんだろうってくらいカシワだった、まあでも多分、前回のがかなり前だったから若い木だったのかな」
「分かりました。じゃあカシワで」
「うん、お願いします」
「フクヤさんは、大丈夫ですか?」
「え、何が?」
「いえ、少し疲れてるような」
「ああ、ちょっと疲れた、というか今日の朝頭が痛くて」
「ああ、そうですか、急なお電話すみません」
「ううんううん、大丈夫、というか気にしないで」
「ありがとうございます、それじゃあ、仕事に戻ります」
「うん、頑張ってねー」
シイノさんはもちろん先にロビーにいて、両手で持った『城』の表紙を撫でていた。
ホテルを出て商店街を目指して歩き、何を食べようかと話し合った。二人とも、ラーメン以外なら何でもいい、といった程度で、何が食べたいのかは分からなかった。
地方の中程度に栄えた町は、二日も歩いているともう体が馴染んだ感じがあって、心地好くぶらつけた。シイノさんは昨日の夜と同じように私の腕を取って、ぴったりとくっついていた。彼女の体温が伝わって、体の左側が温かかった。
しばらく通りを行ったり来たりして、小料理屋へ入った。カウンターに座る年配の男の人しか客はおらず、私たちは奥の座敷に座ることになった。メニューを見ながら、明日は休みだからお酒でも飲もうかということになり、出汁巻きとほっけを焼いたのと煮物、適当な熱燗を一合頼んだ。別に何でもないのに、悪いことしてる気分になるね、とシイノさんは言った。
甘辛に近い煮物を食べつつ日本酒を飲み、思っていたよりも味が濃かったのと久々だったというのもあって、すぐに一合を追加した。店のスピーカーからはThe Beatlesの青盤が流れていて、マッチしているようなしていないような奇妙な感覚だった。
ほっけを食べ終わる頃には二人とも二合半飲んでいた。口に入れて飲み込むまではきりきりとした鋭い辛さがあるのだが、飲み込んでからしばらくすると円やかで幾層もの甘味がある美味しいお酒だった。出汁巻きがきてからお茶漬けと焼きおにぎりを頼み、引き続き飲んだ。
「あ、青盤」最後の一切れを食べ、お猪口が唇に触れてから言った。
「そうですね」
「ずっと、なんか知ってるなって、あ、知ってる並びだなって」
「うん、なんか妙に合ってていいですね」
「ね、もっと大きくてもいいけど、このくらいだから合ってるんだろうね」
「確かにそうですね」
焼きおにぎりとお茶漬けを半分ずつ食べて会計を済ませ、酔いを醒ますために遠回りに帰ることにした。シイノさんはもう辺りの地図を覚えていて、酔っていてもその地図は正確に機能していた。ほとんど一年ぶりのアルコールは私の意識を細かく断ち切って、どこか遠くへ吹き飛ばしていった。それでも足取りは確かで、少しらふらと歩くシイノさんと比べればまだ軽い方だった。舌が浮腫んで話すのが面倒になる。シイノさんが話すことはそのせいでほとんど何を言っているのか分からない。
多分、煙草吸おう、と言って道のそばの公園へ入っていき、一番近くのベンチに腰を下ろした。隣に座って空を見上げ、それから煙草を取り出して火をつけた。
「気持ち悪くはないですか?」
「大丈夫だよー、ちょっとふわふわして、話しづらいだけ」
「お水とか、買ってきましょうか?」
「いいよ、大丈夫大丈夫」
彼女は私の肩にもたれかかって、一口か二口吸っただけの煙草の先を見つめているようだった。アーケードのない頭上には雲もないのに星は見えず、冷え冷えと真っ暗な空が見えるばかりだった。思い切り煙を吐くと、素早く流されていった。こことは流れる風の速度が違っているみたいだ。シイノさんは眠っているのか何も言わなかった。
二本目に火をつけたあたりで私の酔いはすっかり醒めていた。彼女は相変わらずじっと動かないで、ほとんど灰になった煙草の方へ視線を固めたままだ。シイノさん、と声をかけると首を後ろに反らせて私を見上げた。大丈夫ですか、と訊ねる前に彼女の唇の熱さを感じた。こんなに薄い唇の一体どこにこれだけの熱を蓄えていられるんだろう、と思ってからはっとして顔を離し、目を細めて睨むように私を見る彼女の目を見返した。肋骨の真ん中がぎりっと痛むほど心臓が早く強く動き出している。またお酒を飲んだみたいに体が火照り、何かを継続的に考えることができなくなっていた。彼女は瞼を閉じてさっきの続きみたいに唇を合わせてきた。私は知らないうちに瞼を閉じて、それを受け入れていた。指先から煙草がこぼれ落ち、地面にあたる音さえ聞こえる静かな時間だった。シイノさんの舌は長くて、唇と同じように薄いのに熱かった。アルコールと煙草の苦い味と香ばしい甘い味が混じって、私はどんどんぼんやりとしていった。彼女は体を曲げて、両手で私を抱き締めていた。私は首だけを彼女の方へ向け、体はまだ正面を向いていたし両手は自分の太ももの上に置かれていた。彼女の舌は私の口の中のどんなところにも届いた。私はその動きに応えるように、抵抗するように、舌を動かしていた。
どれくらいそうしていたのか、私は背中に汗をかいて、歩く足は力を伝え損なっているようだった。彼女は、さあ、帰ろー、と言って私の前をずんずん歩いている。
扉の前で彼女の上着から鍵を取り出し、上着と靴を脱がしてからベッドに寝かして布団をかけた。私は何か期待していたのか、すぐに寝息を立てて眠る彼女を見て、小さくため息をつくくらいがっかりしていた。また体温が上がったように熱くなって、枕元の時計で八時にアラームを設定してから部屋を出た。
歯を磨いてからシャワーを浴び、化粧水とクリームを塗ってからベッドに入って一時間ばかり眠れなかった。あれこれと続きを考えて、体が熱くなっては布団を弾くみたいによけて、寒くなっては被り直すというのを繰り返していた。
いつの間にか、夢も夢のようなものを見ずに朝まで眠り込んでいた。
きっかり八時半に目覚め、朝食を食べに降りるか迷ってから、時間までゆっくりしていることにした。道の駅かコンビニかで軽いものを買えばいいし、目覚めてすぐに彼女に会うのはまだ恥ずかしかった。
『国のない男』を初めから読み返しながらチェックアウトの時間を待った。十分前に部屋を出て隣を見ると、もう清掃が始まっていた。シイノさんはいつもいつ部屋を出ているのだろう。それは、大抵の宿の壁が薄いにも関わらず一切の物音が聞こえてこないことに対する疑問と同じようなものだった。一体彼女は、短くはない時間、何をして過ごしているのだろう。よく考えてみれば、五年近く一緒に仕事していて、彼女について知っていることはあまりに少なかった。お兄さんと弟がいること、幼い頃に父親が出て行ってそれ以来お母さんだけだということ、本をよく読み、よく笑うこと、一つ年下だということ、仕事をきちんとこなすこと、ダムが好きだというこt、そのくらいだった。それでも、会っていない間に出会うどんな人たちよりも親しく思っていた。
彼女はロビーにいて、浅いソファに腰掛けて、机の上にある『城』を眺めていた。日に日に接し方が遠くなるその姿に思わず笑ってしまい、振り返った彼女は私を見ると、それに返すようににっこりと笑った。
「じゃあ、宿を目指しつつうろうろしましょう」
「そうだねえ、あ、宿ね、待って、ナビ設定するよ」
「ああ、そっか。お願いします」
「明後日の地点になるべく近いところを探したんだけど、なかなかなくて、綺麗ではあると思うけど」
「いつも通り、悪いですけどシイノさんにお任せします。運転は全然苦じゃないですから大丈夫ですよ」
「ありがとう、任せて、えっと、ここから直で二時間半だね」
「分かりました」
「早いねえ、一地点出来そうな気もするけど、微妙だね」
「そうですねえ、ま、でも今日は休みにしましょう。今回は特に難しいところもないし、雨も降らなそうだし」
「うんうん、最悪降ってもなんてことない地点ばっかだしね」
「そうなんですよね、じゃあ、出発します」
「お願いしまーす」
何でもない時間だからか道は空いていた。そうだ、とBluetoothでオーディオと繋いでJakob Banksの『The Monologue』を流した。
一周してから、これ好きだな、とシイノさんは言って、そういうところ好きです、と言ってから、ジェイコブ・バンクスって人です、と答えた。
「そういうところ?」
「え?」
「そういうところが好きって」
「あ、すみません、口に出してましたね」
ひとしきりけらけらと笑って「うん、普通に声だったよ」と言った。
「なんか、その、ちゃんとというか、一通り聴いてからこれ好きって、そう言ったのが、そういうのが、そういう人となりがってことです」
「ありがとう、初めて言われたかも」
「そう?」
「うん」
それからしばらくシイノさんは何も言わないで窓の外を眺めていた。私は気が緩んでいることを自覚して、気をつけないとな、と思っている最中だった。思いついたことを保留なく言える、言ってしまう関係というのが、仕事上の付き合いの中では正しくないとは分かっていた。
見るべきものはないが大きな道の駅で休憩も兼ねて軽く食事を摂った。民家か何かを改装したのだろう、私たちは階段を上がって二階の、窓際の席に座った。一人がけのソファが丸いテーブルを挟んで向かい合うように置かれていた。山菜のパスタとポタージュスープのセットを頼み、アイスコーヒーを二つ、先に持って来てもらった。
なかなかいいところですね、と言うと彼女は店内を見回して、うん、そうだね、と言って何かに気が付いたみたいな表情になって、それから頬が少しだけ赤くなった。
予想外にしっかりとした味わいのある料理だった。食べ終えてから一応、土産売り場をちらっと見てから車に戻った。二人とも乗り込んでから、煙草吸いに行こうかということになり、車を出て喫煙所へ向かった。
「昨日はごめんなさい」煙草を一口吸ってからシイノさんは言った。
「大丈夫ですよ、楽しかったですし」
「うん、私も。でも、急に、あれ、キスしてごめんね」
「覚えてたんですね」
「むしろほとんどそれしか覚えてない」
「それも大丈夫です。びっくりしたけど、嫌じゃなかったです。今考えてもそうですね」
「ごめん、ありがとう、気が楽になる」
何を思ったのか、私は大きく一歩踏み出して、俯いたシイノさんにキスをした。彼女は驚いた様子もなく、吸いかけの煙草を灰皿の中に落とすと私の首に腕を回し昨日と同じよう、意識がはっきりしている分、昨日よりも執拗に私の口の中で舌を動かした。私は彼女の髪にようやく触れることができた。同じようなもので出来ているはずなのに、私の髪とはまるっきり違っていた。滑らかで、指の間でひとときもじっとしていなかった。するすると流れていって、風が吹くと彼女の匂いがした。
何か言うのも聞くのも、何を言えばいいのか、訊ねればいいのかも分からず、黙って車を走らせた。私はやっぱり、昨日の夜と同じく、続きがしたかった。
窓の外で過ぎていく景色のほとんどは田んぼと畑だけだった。遮蔽物がなくて高く見える空や合流したり離れたりする大きな川は、同じように群青色で、澄み切っていた。彼女は風景を眺めることに集中しているようだった。私はなるべく運転に集中しようとしたが、ついつい彼女へ目線を向けた。
太陽は常に小刻みに揺れているように見えた。私たちはコンビニの前の灰皿の両側に立って、煙草を吸いつつ黙っていた。二人の手には膨らんだ袋があって、飲み物やお菓子が入っていた。買い物をするところをちらちら見ていると、彼女は使い切りのシャンプーやトリートメントを買っていた。それで、あの髪か、とぐるぐる考えながら店内を物色し、ポテチやチョコをカゴに入れていった。
青盤を聴きながら車を走らせた。シイノさんは所々で合わせて歌って、ドライブにビートルズはぴったりだなあ、と言った。私は頷いて、炭酸水を一口飲んでからポテチを何枚か食べた。
いくつかの道の駅を素通りし、低く短い峠道を越え、町の新しいゾーンに入った。その峠を越えると一気に海のある町だという気がした。どこかしこにも海の気配がある。ずっと海のない町で育ったから敏感なのかもしれない、範囲を限って考えればシイノさんもそのはずで、だけど彼女は眠っていてどんな反応もない。
私は一人浮かれ、青盤からJohn Mayerの『Continuum』に変えて、音量を少しだけ上げた。ステアリングをぱたぱた叩きながらリズムを取って、音楽がどんどん身近になるのを感じた。風景や音楽は、それを見たり聞いたりしただけでは抱えきれないものがあった。それは、それらを過ぎた後に、考えを巡らせればいいわけではなかった。シイノさんが、ダムはほとんど目でしか楽しめない、と言っていたことを何となく思い出した。私は今、音楽を目と手で受け入れていて、動かされた手をまた目が捉えているのも何か意味があるように思えた。試しに左足の爪先でもリズムを取ると、さらにぐっと近づいたような気がした。いくつかの手段、形式で何かを受け入れると、変換された形が外に飛び出し、それをまた受け止める。シイノさんが持っていたカメラは、きっとそういう意味では、彼女のダム鑑賞にとって助けになるだろうと思った。私がそんなふうに、無意識に色んな手段を用いて楽しんでいるものがあるだろうか、残念なことに何一つ思い浮かばない。
香瀬町展望台、と書かれた看板に従って右折し、ぐねぐねした道を登っていった。ハンドルを切るたびにシイノさんの頭が揺れている。道路は色とりどりの暖色の落ち葉で挟まれ、いつまでも上り続けた。対向車や後続車は一台もいなかった。
十二時過ぎに展望台に到着した。二十分近く上ったことになる。ここから今日の宿までは一時間もしないうちに着くだろうし、その間には二つばかりの道の駅があるくらいだった。
エンジンを切り、扉を開けたまま展望台の方へ歩いていった。扇状に広がる町とその向こうの海が見渡せる。海はなだらかな勾配があるように見える。どこかの地点で壁のように迫り出しているのかもしれない。煙草をくわえ、ポッケに手をつっこんだままそんな景色を眺めた。車を見やるとシイノさんはまだ眠っていて、つむじの色が見えた。
火をつけてから頬杖をついて柵に体を預けた。鳥が幾羽も目線の高さを飛んでいる。五羽か六羽の群れのようなものが何度も過ぎ去っていく。距離があるからか海が止まって見える。いくつかのマンションを除けば、どの民家の屋根も似た色にくすんでいた。何か読むものが欲しかった。煙草の煙は頭上に至ると渦を巻いてそれから砕けるように散って見えなくなった。
車からポテチと炭酸水を取って展望台に戻り、柵の上に置いてだらだらと景色を眺め続けた。誰も来ないし、鳥以外には音をたてるものもいなかった。静かで、風の流れがよく感じられた。樹木の上部だけがさわさわと揺れ、風の音のようにあたりを巡っている。町の通りは細く、ここからではそこを歩いたりする人は見えない。片側一車線ずつの道路が海の前の漁港や工場地帯まで伸びているが、そこを走る車もちらちらと数える程度だった。こんな道でも夕方になれば渋滞するのだろう。大抵の部分ははっきり見えるのだけど、気になる細部がぼやけているせいで町全体が霞みがかっているように感じられた。塵が町の上空を覆っている。
ポテチを食べ終わる頃にシイノさんは起きて、車から展望台までをひらひらと歩いて来た。わー、海だー、と言って駆け寄り、いつ着いたの?、と言った。
「三十分は経ってないです」
「ああ、結構寝てたね」
「首、痛くないですか?」
「首?、大丈夫だよ」
彼女は体中を伸ばし、それから煙草をくわえて、ライター貸して、と言った。
火をつけて、ポッケに戻してから、私もまた煙草を吸いはじめた。
「誰もいないね。町にもここにも」
「そうですねえ、町の様子も見えないですしね」
「ね。もう近いの?」
「うん、時間潰せそうなところもないし、来てみた」
「いいところだねえ、私、結構好きだな、ここ」
「私も、なんだかんだ居心地よくてまったりしてた、お菓子食べたりして」
「あ、いいなあ」
両側のドアが開いたままの車は、離れてみると飛び立とうとする巨大な翼竜に見えた。シイノさんはチョコレート菓子とコーヒーを取りに行って、展望台に座り込んだ。それから立ち上がって、座ったら見えないや、と言った。
「ユカコさん、寒くない?」
「うん、今は結構ぽかぽかしてるかな、風もそんなに吹いてないし」
「良かった、これ食べたら戻るし、車で待っててよ」
「大丈夫、ここにいるけど急がなくていいですよ」
「ありがとう」
結局、全部で一時間くらいは展望台にいた。車に戻って暖房をつけてから寒さを感じはじめ、そうすると少し震えるくらい体が冷えていたことが分かった。手も足も指先は感覚がないほど冷たかった。彼女は私の手を取って両手で挟み込んだ。そりゃそうだよ、と言って笑い、手をこすって温めてくれた。
十四時前に宿の駐車場に着き、荷物を預けて海まで歩くことにした。私はシイノさんの上着を借りて羽織り、彼女は厚手で濃い灰色のセーターをTシャツの上から着て、体が軽い、と喜んでいた。
「すみません、完全に服間違えました」
「大丈夫だよ、私結構暑がり、というか体温高めだし」
「どっかでコートの下に着るもの買います」
「うん、夜は私も寒いし、そうしたほうがいいかも」
宿から海まではほとんど一直線に繋がっていた。近くのコンビニでホットコーヒーを買って歩いた。少し風が吹いたり、何かの加減で体が大きく動いたりすると、その度に上着からシイノさんの匂いがした。革の匂いと合わさるとそれは、どうしても彼女の舌を思い出させる香りに感じられた。彼女はいつも酸味の強い果実を煮詰めたような爽やかな甘い匂いがした。それは煙のようにいつの間にかそこにあって、ふとしたときには消えている。
ちょうど、思い出して火照っていたところでユニクロを見つけた。こんなところにどうしてと思ったが、こんなところだからこそあるのだろうと思い直した。
「寄っていいですか?」
「いいけど、いいの?」
「はい、薄手のダウンかセーターか、買って来ます」
羽織っていたダウンジャケットを彼女の肩にかけ、カップを持ってもらってから大股で店へ向かった。
セーターをいくつか試着したが、コートが割とぴたっとした形だったために不格好に膨らんでしまう。諦めて襟のない薄手のダウンを買い、店を出てからシイノさんのところまで歩く間に、中に着込んだ。彼女は、似合ってるよ、と言って自分のお腹の辺りを指差し、暖炉の火みたいに優しく笑った。
甘く見ていたが、ダウンは値段や期待以上に暖かかった。海から吹いてくる風がある中でこれだけ暖かいなら、今回はもうこれで乗り切れそうだった。カップを受け取って、再び海へ向かって歩きはじめた。
「ユカコさん、毎日洗濯してる?」
「作業着はそうですね。下着は、結構持ってきてるんで、ええっと、今日か明日にまとめて洗って乾燥機で乾かしますね」
「そんな感じだよね」
「シイノさんも?」
「うん、汗かかないから冬の間は作業着も二日に一回くらいだけど、下着とか普段着っていうか、今下に来てるシャツとかはそんな感じ。まとめて」
「夏は大変ですよねえ、安いけど、毎日毎日コインランドリーで待つ時間とか」
「ね、冬はそういう意味でもすっごい楽」
「来年もフルですか?」
「多分、そうなるね。歩けちゃうし、会社の中では若い割にしっかりしてると思われちゃってるし」
「夏に一緒になったことないですよね、そういえば」
「うん、真逆ってのも変だけど、ユカコさんが夏に出る時はこっちの方じゃないもんね」
「そうですね、フキシマくんかあ」
「まだ分かんないよ、というかむしろペアじゃなくなる可能性の方が低い」
「そうなると嬉しいです、社長に進言します、やっぱり長く外で仕事するのにストレスは少なければ少ない方がいいですし」
「外での仕事が多くなるかもよ?、遠くに行くことになったり」
「そうなったらそうなったでいいです」
「嬉しいような申し訳ないような」
海猫の数が異様になってきたところで、潮の香りがはっきりとした。
何台かの小型のトラックが私たちを追い越し、工場や漁港の方へ分かれていった。私たちは漁港の方へ道を曲がり、なるべく海猫が飛んでいないあたりの道を歩いた。
波止場に着き、思っていたよりも荒れた海を眺めた。ここから見ると海は、どこまでも平たく伸びていた。どこにも壁などない。掘建て小屋のようなところの前でおじさん達が集まって、煙草を吸いながら話していた。私たちも煙草を吸いはじめ、海や海猫をぼんやりと見ていた。停泊した船はどれも磨かれたように綺麗で、ただの仕事道具の一つには見えなかった。愛着が湧くものなのだろうか。カラスや海猫は港の至るところで羽を休めていた。あちこちにフンが落ちている。何かを積んだトラックが通ると、鳥たちは一斉に飛び立ってその荷台を追い、どこまでもついていった。そうしても港全体にいる鳥の数は変わったようには見えない。果てしなくどこにでもいた。
遠くに見えるタンカーやテトラポッドは、海を眺めたその光景に元からそうであるように含まれていた。何もない海もごみごみした海も、眺めていて特に印象の違いはなかった。海がそこに広がっていればいい。おじさん達はどこかへ消え、私たちと海鳥たちだけがそこに残っていた。
港近くにある練り物や冷凍の海産物を扱う店に寄って、タコが入ったさつま揚げを買った。店員のおばさんは、海猫が寄ってくることがあるから店の中で食べた方がええよ、と言って、私たちは言われた通り、プラスチックの椅子に座ってそれを食べた。久々に食べるとさつま揚げは意外にも味わい深い食べ物だった。タコ以外に練り込まれた食材の風味もしっかりと立っているし、それでいてメインの邪魔をせずまとまっている。美味しいねえ、と言ってシイノさんはすぐにそれを食べ終え、新しく紅生姜とイカのさつま揚げを買った。
食べ終えてからトイレを借りて手を洗い、ちょうどいい時間になるだろうとホテルへ向いはじめた。
チェックインを済ませて部屋に入り、窓際の椅子に座ってちらっと見える海を眺めた。夕飯までの時間をどう潰そうかと思ったが、特にすることはなかった。宿での食事は何か緊張するところがあった。何に対してどうという訳もないのだが、必要以上にかしこまってしまう。灰皿をベッドの前の作り付けの机に移動してから、明日以降の資料を小さな机に広げ、航空写真を見つつ、予定を組み直したり修正したりしていた。一地点だけよく分からないところがあり、こればかりは実際に行ってみない限りこれ以上知れることはない。写真を撮ってシイノさんに送ると数分後に、いまいち分からないから電話か直接見に行ってもいい?、と返信があった。
資料をまとめて持って部屋を出て、シイノさんの部屋の扉をノックした。彼女はすぐに出てきて、入って入って、と言いながら髪を結んで窓際へ歩いていった。
机の上に順に並べ、ここは鍵が必要だからこの日に行くだとか、この写真からは地点までがよく分からないだとか、あれこれと話した。彼女は持っている同じ資料にそれを書き込んでいって、いくつか質問をした。向かい合って小ぶりな机の上を凝視していると、子供の頃に遊んだボードゲームを思い出す。
「この感じだと、あとはほとんど一泊ずつだね」
「そうですね、ちょっと忙しない感じがして嫌ですけど」
「ね、やっぱ荷物を置きっぱなしですっと出て帰って来れるのは楽だね」
「ですね」
私は思い切って、というほどではないが、いつも何して過ごしてるんですか?、と訊ねた。
「うーん、今みたいにちょっと仕事のこと考えたり、フキシマくんとか、会社の人が送ってきたのに目を通したり修正したり、今日みたいところだと、散歩がてらに煙草吸いに出たり?、特に何もしてないよ、どうして?」
「いつもすごく静かなんで、何してるんだろうって」
「そうかな?結構ばたばたしちゃってると思ってた、あちこち、じっとしてないから」
「静かも静かですよ」
「なら良かった」
会話が途切れて目が合うと、彼女はいつも小さく笑った。
彼女は立ち上がって私のそばまでくるとそのまま、座った私にまたがった。足、痛くない?、と言って私が、ううん、と言うとキスをした。ある部分では慣れた私はそれを受け入れて、積極的に応えた。やっぱりシイノさんの舌は、普段はどうやって仕舞われているんだろう、と思うほど長い。彼女はいつの間にかカーテンを閉めていて、部屋の中は薄暗く、何故か何かの裏側に包まれたような気分だった。光を放つ何か、提灯だろうか、そういったものの中に私たちは閉じ込められていて、何もすることが思い付かなくて、とりあえずキスをしている、というような感じだった。そういった自然さと成り行きに任せている感覚だった。彼女は着ていたセーターを脱いでTシャツ一枚で、私もセーターを脱いでキャミソール一枚になった。慣れたと思っていたがそんな格好でも肌寒さを感じないくらいには熱っていた。
促されてベッドに横たわり、ちょっと待って、と言われるがままじっと待っていた。シイノさんはカーテンをほんの少しだけ開けて、これでよく見える、と言いながらまた私に跨った。私はそういえば、これまで一度も恥ずかしいとは思っていなかった。今だって、何も恥ずかしいとは思わなかった。彼女はしばらく私を見下ろし、下着を全部脱がせた。それでも私は彼女の目を見たまま動じなかった。心臓は上下左右に気が狂ったみたいに跳ね回っていたけれど、間違ったことが進行しているとは思えなかった。だからじっと、彼女がどう動くのか待っていた。
あらゆる部分に彼女の長い舌と唇の熱を感じた。外界に接する全てを見られ、吸われ、舐められ、嗅がれ、噛まれた。私はもう熱そのものになったように熱く、汗をかいて、何故か泣いていた。何度も頭が真っ白になったせいで何も考えられなくなっていたし、何かを堰き止める機能が失われていた。
彼女は私の隣に寝そべって、大丈夫?、と言った。何か言おうとするが舌がもつれて言葉が出てこない。首を振って、息を吐き、彼女を見上げた。目が合うと静かに笑って、仰向けに寝転がった。
火照りが冷めてきてから私は起き上がって、彼女が身につけているものを取って、彼女がしたようにした。ちょっとびっくりするくらいの声を上げてからシイノさんはぐったりした。私たちはそうして代わる代わる、あれこれと試していった。
私はそのままごろんと寝転んだ。大の字で重なった左半身が温かかった。ちょっと寝ましょう、もう耐えられない、と言ってアラームを設定し、首の下まで布団をかぶって瞼を閉じた。サイドテーブルに眼鏡を置くこつっという音を最後に、捻れて吸い込まれるように眠りへ落ちていった。
アラームの音が聞こえ、夕食の三十分前に目を覚ました。シイノさんは起きていて、Tシャツだけを来て窓際の椅子に座っていた。おはようございます、と言うと、おはよう、と言ってベッドに飛び込んできた。
ひとしきりじゃれてからロビーに降り、レストランとしても営業しているスペースへ入った。部屋番号の札が置かれた四人掛けの席に着き、夕飯を待つ。
豚肉と野菜の鍋物と煮物、少しの刺身と焼いたブリとお漬物が運ばれ、固形燃料が燃えた匂いが辺りに広がっていった。彼女は、この匂い苦手だったけど、今は慣れてむしろお腹空いてくる、と言った。言われてみれば私もそんなようなものだった。
素材自体はどれも大したことはなかった。魚さえも、漁港の近くであるというのにはっとするような食感や風味もない。それでも、さっぱりとくどさのない味付けが美味しかった。二人ともご飯をおかわりして、食べ過ぎた、と言いながら宿の近くを適当に歩いた。
ほとんど暗闇と言ってもいい。街灯は遠くまで数えられるほどしかない。野良猫が何度も前後を横切り、何匹かは私たちをじっと見つめてからするっと路地へ抜けていった。猫が姿を見せるたび、あ、猫だ、と嬉しいような気持ちになるが、私は小さな生き物全般が苦手だった。立ち上がっても私の腰よりも低い生き物は、何かの拍子に思いがけず殺してしまいそうだった。それが好きではないことや苦手なことの理由になるだろうかと思うが、ならないようにも思える。それは私が小さな生き物を怖がっている理由だった。しかし、それも間違っていた。私は自身のミスで生き物の命を終わらせることを恐れていた。食べさせてはいけないものを、普段は気をつけているのに、その日はどうしてか頭の隅にもそのことがよぎらず、その生き物が食べたがっていることや、それが可愛いからこそ、愛着を持っているからこそ思うままにしてやりたいと、手の中に落としたしそれを食べさせてやる。小さな生き物は美味しそうにそれを平らげ、満足そうにどこかへ歩いていく。私は、その生き物が息苦しそうに、何かを吐いたり震えたりして、動物病院へ電話をかけた後で食べさせたもののことに思い至る。
シイノさんは「うちでも猫と犬を飼っててね、ゼミとシバっていうんだけど」と言っていた。私は、ゼミ?、と思ってから、シバ?、と思い、そんなようなことを訊ねた、
「うん、ゼミとシバ。アブラゼミみたいに鳴くんだよね、それでセミもアブラもアブラゼミも酷いよなあって」
「なるほど、確かに、聞かないと分からないですもんね」
「そうそう、で、シバは、私が高校生くらいの頃にひろってきた芝犬なんだけど、しばらく名前を考えてるうちにおじいちゃんとかお母さんがシバって呼び出してて、それで、そのまま」
「シンプルでいいですね」
「今となってはね」
「どんな名前をつけようとしてたんですか?」
「うーん、何かの食べ物?」
「食べ物ですか」
「うん、食べ物って音の響きが可愛いの多くない?、大福とか羊羹とか佃煮とかお米とか」
「カタカナに直して思い浮かべたら確かに可愛いですね、ツクダニすごく好きです」
「ね、いいよね。外でツクダニーって呼んでるのを想像したら笑っちゃうけど」
「それはそうですね」
知らないうちに宿の前を通る道に合流していた。宿を取った後で地図を覚えているのだろうか。それにしても、実際に歩いてからも最中にiPhoneで確認することもなく、何か信じられないよう気になった。
なんとなく、別々の部屋に分かれるのに違和感があった。私がそんなこと言うとシイノさんは、洗顔とか持ってそっち行っていい?、と言った。
先に部屋に入ってあれこれ仕舞っているうちにノックがあり、今さら鏡を見て髪やらを整えてから扉を開けた。彼女は荷物を全部持ってきて、今日はこっちで寝ます、いい?、と言った。断る理由は一つもなく、そのようなものも思いつかなかった。私は笑って、扉を大きく開いて彼女を招き入れた。
一緒にシャワーを浴びて、何がそんなに楽しいのか、狭さにげらげら笑っていた。今思い出しても分からないけれど、同じようにとまではいかないが自然に笑ってしまう。私たちは互いを洗いあってから空っぽの浴槽になんとか体を押し込んだ。短い時間だけ湯につかり、シイノさんから先に上がって体を拭いた。
私が上がると彼女は煙草を吸いながら外を見つめていた。眼鏡をしていなかったから何も見えてないのだろうが、何かをじっと見ていた。
「こっちの部屋は煙草吸えるんだね」
「え、隣なのに?」
「置き忘れたのかな、私の部屋には灰皿がなかった」
「好きなだけ吸ってください」そう言うと彼女は目だけで笑って、ユカコさんの煙草と一本交換していい?、と言った。タオルを羽織って裸のままハンガーにかけたコートから煙草を取り出し、彼女のそばまで行った。
「ユカコさんずっとアメスピだね」
「うん、シイノさんはラークかピース」
「うん、どっちがいい?」
「じゃあ、ラーク」
新しい下着をつけて、ぺらぺらなのに固い浴衣を着た。シイノさんの向かいに座って、もらったラークに火をつけた。炒った穀物のような香ばしさが鼻を抜ける。濃い割りにはすっとなくなる甘さがあり、結構好きかも、と言うと、私はアメスピに替えようかな、と彼女は言った。
並んで歯磨きをして、二十一時前には電気を消してベッドに入った。あれこれとくだらない話をして、笑い疲れてそのまま寝入った。
目が覚めると彼女はいなくて、洗面所から物音が聞こえた。起き上がって壁にもたれたまま背中を伸ばし、彼女が部屋に戻るのを待った。歯ブラシをくわえた彼女が出てきて、もはもー、と言った。おはようございます、と返して洗面所へ行き、顔を洗ったり歯を磨いたりしてから部屋へ戻った。
シイノさんは歯ブラシを手に持って外を眺めていた。私が声をかけると振り返って頷き、急ぎ足で洗面所へ行った。
それから四日間、私と彼女はどちらかの部屋に集まって空いた時間を過ごした。どの山も資料以上のところはなくて、難なくこなせていた。感覚が戻ってきたのか、私の仕事も正確さを失わない程度で早くなっていたし、体もより動くようになっていた。ダムをもう一度見に行った。汽水湖や小さな湖も見に行った。シイノさんは澄んだ水の溜まりが好きらしい。
一日前に船に乗って離島へ渡った。二時間半ほどだったが、私たちは仕事を忘れて楽しんでいた。甲板に出てぼんやりと海を眺め、『城』と『国のない男』を交換して読んだ。カモメが併走するように飛び交っていた。何がどう作用しているのか、煌々としたクレーンゲームやアーケードゲーム、スロットがビッシリ並んでいるが薄暗いゲーム室で遊んだ。真似て作られたのかどこかしっくりこないデザインの対戦ゲームを何度かして、あまりに力の弱いアームで小銭を無駄にした。シイノさんは、こんなの駄目だよ、と割と真剣に怒っていて、私は横でにこにこしていた。
カモメたちは売店で買ったポテトを食べたがっていた。試しに一本投げてみると、あげようとしていたカモメとは違ったカモメが勢いよく飛んできて器用にくわえていった。私たち二人と無数の海鳥たちとでポテトを半分こすると、お腹が空いていたはずなのに満足した。丸い窓から海が見える喫煙室で煙草を何本も吸い、しょっちゅう甲板と船内を行き来した。
山に入ってからもやはりよく分からなかった。あるはずの谷や尾根はなく、代わりにないはずの崖に近い傾斜地がいくつもあり、がれ場だらけだった。藪がほぼないことだけが良かった。私たちは何度も立ち止まって道を確認し、その度に自信を失くしていった。たまにあるこういった山は、わくわくする反面、前回やそれ以前の人たちは何をしていたのだろう、と思う。何かが、誰かが決定的に間違えていない限り、これだけのよく分からなさが続くことはない。大抵はどこかで理解して進むことができるようになるのだけれど。
遠回りの道なのかも分からないまま地点に着き、変に疲れて強張った肩や首をほぐした。念のために別れずに二人で辺りを歩き、用紙にはミズナラと書かれたカシワを測っていった。地点全体にみたらし団子のような匂いが広がっていて、二人とも何の匂いだったか思い出せないまま作業を続けた。
私は、38.9、と声を上げてから、あ、と言った。
「どうしたの?」
「すみません、桂の匂いだって思い出して」
「ああ、醤油の木だ」
「なんで二人とも思いつかなかったんでしょうね、みたらし団子って、思い出しそうなのに」
「ほんとにね」
どの樹木も風に揺れていたが、私たちの立つ地点には流れてこなかった。汗をかく手前まで暑くなった体は物足りないのか、そうすれば涼しくなると思っているのか、じっとしていてもしばらくは暑さを増していった。
帰り道は行きの半分近い時間しかかからなかった。途中でシイノさんが何かに気付いて、というよりコツのようなものを掴んで、そこからはさくさくと進んで行った。
枯死した樹木の多い山だった。目につく巨木は全て枯れていたと言ってもいい。膝下でわらわらと生茂る草やまだ若い木には問題はなさそうだったが、それも時間が経てば、平均よりも早く枯れていくのだろう。山全体に生気を感じなかった。樹冠が多いわけでもないのにどこもかしこも暗く、湿ってさえいるようだった。冬の山は大体どこも寂しいものだったけれど、ここはそういった中でもとりわけ寂しい山だった。小川さえないし、生き物の痕跡も極端に少ない。
黙々と歩き続けるシイノさんも、そんなことを考えているのか、道の確認ではなさそうな視線の動きが後ろから見えた。彼女の足取りはいつも確かだった。こんな場所でさえも、一度流れに乗ると悩んで立ち止まる時間はほとんどない。
昼過ぎに車へ戻り、着替えを済ませてから、もう使わない道具をコンテナケースに詰めていった。
煙草を一本吸ってから、バッグドアの前で抱き合った。シイノさんは汗をかいていないのが不思議なくらい温かい。死んだ生き物が冷たいから、だから温かなものが生き物なんだと感じるのは、何かが違っているように思えた。首筋に顔を埋めてしばらくじっとしていた。どれだけ高画質な写真でも現実と全く違っているように、どのようなものもその複雑な匂いを再現することはできないだろう。私はその匂いがいつか完全に失われてしまうことが、何から何まで間違っているように感じた。それが失われることを認められないものが、そういったものを持つものが生き物だと、私が改めて思い直すものではないか、と思い始めていた。
一時間ばかり車を走らせて、コンビニへ寄って夕食を買っておくことにした。宿の近くには何もないようだったし、そろそろ外へ食べに出るのも面倒になっていた。
私はトマトクリームのパスタを、シイノさんはキノコのグラタンとハムサンドを買った。私たちが店を出るときに入ってきた高校生くらいの集団は、女の子は私をちらっと見てからシイノさんをじっと見て、男の子はその逆だった。私が高校生くらいの頃でもきっとそうなることを考えると、どこの地域のどんな子でも何かしらの傾向が、ほとんど年齢だけを要因にしてあることが気持ち悪かった。
「こう、移動ばっかりしてると、すーっと生きてる人間じゃなくなってくる気がしない」シイノさんは合わせた手のひらをゆっくり離しながら言った。
「生きてる人間、人生、とか、社会、とかじゃなくてですか」
「うん、なんかそういう大それた感覚じゃなくて、元々そういうのがないってのもあるけど」
私は、生きてる人間、というのがどういうものなのか考えてみたが、生きていない人間も分からなかった。
「なんか、いまいち実体がない感じ、あちこちいってる私を、そんなのないんだけど、あちこち行ってない私が見てる感じ」
「幽体離脱みたいなことですか?」
「かな」
「どのくらいの距離?」
「距離?、ああ、今の私とユカコさんくらいの距離かな」
「それって、見てるシイノさんの姿はどうなんですか」
「ないよ、ただこうして移動してる私を近くで見てる感じ」
「それが、生きてる人間じゃなくなってくる感じなんですか」
「うん、やっぱり、体がある方が生きてそうじゃない?」
「それは、そんな気もしますね、どんどん離れていくんですか?」
「ううん、距離は一定かな、でも濃度が変わってくるみたいなことかな」
「なるほど、言ってることは分かるけど分かんないな」
「それはよく分かる」
宿に着くまでの間、どこへも行き着かない話を続けた。言葉の意味は分かるけれど、体感的には何も分からない話を互いに話すのは面白かった。そんなことを話せば話すほど、互いの知らない時間があったことの確かさが増していくようだった。些細な違いがどうでも良くなってくる。
狭い部屋の中でそれぞれに事務仕事を進め、時々冗談を言ったり体に触れにいったりした。それだけでいつもの倍くらいの速度で仕事を終えられた気がする。時間に対する印象は隣接する時間の印象を塗り替えていくみたいだった。書式を変えて同じ数字を打ち込んだり、提出先に合わせて言葉を変えたりする作業は、何年経っても無駄としか思えなかった。一人で、一度で済ませられるはずのことをあれこれとこねくり回すたびに体から力が抜けていく。シイノさんは彼女自身が言っていたように、しょっちゅう立ち上がったり煙草を吸ったりしていた。集中し直すというのが苦手な私はそんな姿を見て、素直に羨ましかった。
一つ下の階で缶ビールとボトル入りのおつまみを買って部屋に戻り、夕方になる前の時間からだらだらと過ごした。ベッドの布団の上に寝転びながら、近くに寄せた机やサイドテーブルからビールやつまみを手に取り、交換した本を読み進めたり足で小突きあったりしていた。本を読んでいても彼女はすぐに別のことをした。カフカの他の作品をほとんど読んでいないからか『城』は順調に読み進められていた。シイノさんはうつ伏せになった私のお尻に頭をのせ、仰向けで本を読んでいた。
夕陽が部屋いっぱいになる頃、シイノさんは缶ビールを三缶飲み終えて酔っ払っていた。私は二缶飲んで、特に変わりもなく、『国のない男』を読みながらくくくっと笑う彼女を見て、声を出さずに笑っていた。私たちはうつ伏せになって並んでいた。二人とも膝を曲げて足を上げ、肘をついて本を読んでいる。シイノさんはお酒を飲むたびにじっとするようになって、もう長い間その体勢を崩していなかった。
トイレに行って戻ってくると、彼女は本を開いたまま眠り込んでいた。静かに窓際まで歩いて椅子に座り、煙草を吸いながらその様子を見た。頭が前後に揺れて、少しずつ腕が前の方へ伸びていく。額が布団につくと上がっていた足がばふっと落ちて、一瞬だけ目を覚ました。顔を上げて空間を見つめたあと、ゆっくり頬を下にして眠った。
そんな姿をしばらく見ていると空腹を感じ、夕食を食べておくことにした。鍵とパスタを持って部屋を出て、ロビーまで降りてレンジで温めた。テレビでは迷子犬のニュースが流れていた。何日か前からいなくなっているみたいだ。犬は、三つ目の犬とそっくりだった。真ん中の眼がないだけで、あとはほとんど同じように見える。
近くのソファでは、新聞を開いたままフロントのおばさんが眠り込んでいた。彼女は洞窟の奥で響く風の音のような呼吸を繰り返している。私は、よっぽど起こしてあげた方が楽なのではないかと思ったが、その音の悲痛さに比べて安らかな寝顔を数秒見つめるだけにとどまった。
熱しすぎたパスタを何とか持ったままビールを買い足し、部屋へ戻ってささやかな夕飯を食べた。食事をしていない親しい人がいる空間で何かを食べたり飲んだりするのは、考えたこともなかったけれど、どこかが癒されるような感覚があった。彼女はしっかりと眠っていたけれど、食事を摂っている間の無防備な私を、補完してくれているような、辺りを見張ってくれているような、そんな感じだった。それはむしろ、彼女が眠っているからこそ思うのかもしれなかった。
元の大きさを想像すると申し訳ないような小さなエビを残して食べ、それをつまみながらビールを飲んだ。たまにある、どれだけ飲んでも酔わない日だった。ただ何度もおしっこのためにトイレへ立つ必要があるだけだ。足取りも意識もまだはっきりとしているし、そんなはずもないのに飲み足りない気がしていた。
追加で二缶と別のボトル入りのつまみを買って部屋に戻ると、シイノさんは起きて煙草を吸っていた。
「あ、おはようございます」
「おはよう、どれくらい寝た?」
「二時間もないくらいだと思います」
「二時間、私も温めに行ってくる、自販機の階?」
「いえ、ロビーです、何か飲み物買っておきましょうか?」
「ううん、そのビールもらっていいかな」
「もちろん、でも大丈夫ですか?」
「短い時間で深く寝れたのかものすごくすっきりしてる」
「じゃあ、一本冷蔵庫に入れておきます、というか、私が温めに行ってきますよ。ゆっくりしててください」
そう言って彼女からグラタンを受け取り、部屋を出てロビーへ降りた。
おあばさんはまだ同じ音を立てて眠っていた。開かれた新聞の紙面が変わっているような気もしたが、さっきの私はそんなことを確認していなかった。レンジの中には小さくて硬い枝が一本入っていた。樹皮は捲り取られ、磨かれたように光沢のある枝だった。私がパスタを温めたときにはあっただろうか。しかしそれは耐熱皿の真ん中に置かれていたし、何というか誰かがそっと置いていった気配があった。投げ込んだわけでも、突然現れたわけでも、元々どこかへ引っかかっていて、何かの拍子でそこへ落っこちたわけでもなかった。誰にとって何の意味があるのかは分からないけれど、誰かが確かにその手で皮を取り去って磨いたあと、そっと置いていったのだ。
私は枝を取り出して代わりにグラタンを入れ、温めている間にそれを手の中で転がしたり撫でたりしていた。引き締まった筋肉のように生っぽい質感があった。小さな動物の骨に見えなくもないが、それは枝に見えないくらい磨き上げられているからだろうか。
チン、と鳴って少し迷ってから、グラタンを取り出したあと枝を元の位置へ戻しておいた。
シイノさんはハムサンドを食べながら缶ビールを飲んで待っていた。
「ありがとう」と受け取って、何本飲んだの?、と言った。
「十本くらいだと思います」
「全然変わんないね」
「今日はそういう日みたいです」
「たまーにあるよねそれ」
「ですよね、何がどうなってるのか分かんないけど」
シイノさんは湯気の上がったグラタンをぱくぱくと食べていた。私はそんな彼女を時々見つつ、ベッドの上で壁にもたれて『城』を読んでいた。大量にアルコールが入った状態で読むとそれは、その行き着かなさは、私の中でどんどん現実的な感触を持ち始めていた。
甘い香りがして、顔を上げると煙草を吸うシイノさんと目が合った。
私はベッドを降りて向かいに座り、煙草に火をつけた。
「いい感じ?」
「まだ半分も読んでないですけど、今のところ」
「そっか、良かった」
「シイノさんはどうですか?」
「さっき読んでたんだけど、寝る前に読んでたところ何も覚えてなかった」
「結構ふわふわしてそうだったもんね」
「うん、本以外もあんまり何も覚えてない」
シイノさんは、駄目だ、と言ってふらふらと浴室へ消え、顔だけを洗って出てきた。ヘアバンドをしているとヒッピーに見えなくもない。隣に寝転んで布団をかぶった彼女にそんなことを言うと、ヒッピーかあ、悪くないかもしれないなあ、もしかしたら、と呟いてからすとんと眠った。
なるべく音を立てずにシャワーを浴び、あれこれと準備をして布団に入ったのは、それでも日付が変わる一時間近く前で、今日の長さはここ数日の中でも群を抜いていた。
電灯を全部消して、窓の方を向いて眠る彼女に背中からくっついて瞼を閉じると、真っ暗な空間の奥から煙とも水流とも思える無色透明の何かが流れ込んできた。その流れに身を委ねていると、いつの間にか眠っていた。
船を降りた先の港から、コンテナケースや汚れた方のザックを自宅へ送り、駐車場で車の中を少しだけ掃除した。マットをはたいたり、ウェットティッシュで土汚れを拭き取ったり、その程度のものだ。
最後の地点は拍子抜けするくらい簡単なところだった。資料や前回のデータを見て予想していたようりも遥かに楽だ。車を横付けして、歩いて、測って、お終い。手応えがないね、と彼女は言って、私も同じようなことを言った。最後くらいもう少し疲れても良かった。
行きとは名前の違う船に乗り、そのおかげか、行きと変わりなくはしゃいでいた。同じなのは売店で売っているものくらいで、あとは結構がらっと違っていた。内装やゲーム室のゲームも、往路の船よりも新しいからか、情緒はないが清潔で、どのような意味でも擦り切れていなかった。私たちはまたポテトを買って、カモメたちと分け合った。群がるカモメたちさえも真新しく、曇りもないようだった。若く、しなやかな羽を器用に動かして風に乗っていた。
側面の甲板に設置された椅子に並んで座り、身を寄せ合って暖をとっていた。海はどこまでも凪いでいて、空気も澄んでいた。遠くに見える島々は、星のようにもうそこにはないもののように見えた。島の影しか見えないからだろうが、どの島も遠くから見ると同じような形をしていた。シイノさんは私の手を握って、腿に載せた本を読んでいた。初めのうちは指の間にある彼女の指の温かさや硬さがはっきりしていたが、段々とどっちが私の手なのか分からなくなった。つるつるとした座面を手の甲に感じている方か、冷たい風とはためいた上着がかかる手の甲の方か、見下ろして確認しないと確信を持てない。
シイノさんの家へ向かって車を走らせているとき、犬と猫に会いにこない?、と彼女は言った。
「実家にいるんだけど、家から近いし、理由にはなってないけど」
「迷惑じゃない?」
「うん、誰もいないと思うし」
「猫と犬だけ」
「そう。お母さんは旅行か何かでいないし、弟かお兄ちゃんが二人の面倒見てるけど、餌あげに寄るくらいで住んではないから」
「じゃあ、少しお邪魔します」
「やったー、ありがとう」
私たちは、何周目かも分からない青盤を聴きながら彼女の実家を目指した。
コンビニへ寄って、遅めの昼食を買った。そのまま駐車場の車の中でもそもそと食べ、仕事はもう終わったからと、思い付いたことを言った。
「シイノさんって次までに会社に行くことってありますか?」
「ないよ、予定より早く終わってるから三日間は完全に休み」
「じゃあ、ってわけでもないですけど、今思いついたことで」
「うん」
「シイノさんの実家に犬と猫を見に行ったあと、シイノさんの家で次の準備して、それから私と一緒に私の家に帰りませんか?」
「断る理由がないし、同じようなこと言おうと思ってた」
「じゃあ、そうしましょう、多分雪が積もってるので、スノーブーツとか、服も変えなきゃいけないと思います」
「分かった。でもそれはまた後で教えて、今、嬉しくてあんまり何も考えられない」
それから一時間くらい、シイノさんはずっとにやにやしていた。私は、自分が言い出したことで自身がへらへらしてるのも馬鹿らしくて、それでもほとんど我慢できていなかったように思う。何人かの対向車のドライバーは、話している様子もないのに二人ともが笑っているのを訝しげに見ていた。
彼女の家は、見たそばから忘れてしまうような見慣れた一軒家だったが、シイノさんが育った家か、と思うと何か込み上げてくるものがあった。目頭がつんとする感じまであって、私はなるべく、見慣れた箇所を探して、そこばかり見ていた。
車を降りて彼女について家の中に入った。シバは一直線にシイノさんの元へやって来て、あまりの勢いに自分自身も驚いているようだった。ふがふが言って気を取り直して彼女の胸に飛びかかった。おうおう、よしよし、寂しかったねえ、と言う彼女の声はいつもよりも高く、それは私を落ち着かなくさせた。
靴を脱いでから先導するシバについて行った。外観から想像していたよりも広いリビングの真ん中には楢材の大きな机があり、その上にゼミが丸まって乗っていた。私たちのがリビングへ足を踏み入れると、顔を持ち上げて、何か?、みたいな表情を見せ、元の体勢に戻った。シイノさんはすっとそばへ寄って頭を指先で撫でてから、私を振り返って、実家です、こっちがゼミ、あっちがシバ、と言った。
同じ材でできた椅子に座り、温かいほうじ茶を飲みながらゼミを眺めていた。シイノさんは左側の、毛足の長い絨毯が敷かれテレビやソファのあるところでシバと戯れていた。私はそっと手を伸ばしてゼミの体に触れ、ごめんね、と言いながらゆっくりと撫でた。一瞬だけ顔をこちらに向け、もう関心がなくなったように丸まり直した。緊張しているのか、左手で握られたコップから手が離れない。右手は緩やかに、ゼミの体の上をあちこち撫でている。静かな午後だった。実家で流れるに相応しい時間そのものだ。シバの息遣いや、思い出したように食べに行く餌を噛み砕く音以外、ほとんど何もない。冷蔵庫の低く唸るような音があるが、それはもう空気と同じくらいのもので、気にしなければ聞こえていることにも気付かない。
ゼミの体は次第に平たくほどけていって、それは私の手を受け入れてくれたことになるのだろうか。揉むようにしたり、手の甲から指先へかけて滑らせるようにしたり、指先に軽く力をいれて掻くようにしたり、披露するように色んな撫で方を試し、ゼミとの距離を縮めようとした。
シイノさんが私の肩に触れ、私がびくっとする少し前にゼミが私たちを振り返った。
「ごめんね。ゼミ、初めての人にはあんまり撫でさせないんだけど」
「へえ、何か嬉しいな」
「猫飼ってたことある?」
「いえ、祖母の家で野良猫と遊んでたことがあるくらいです」
「ああ、なるほどね」
シバはストーブの前でぐでんと眠っていた。シイノさんは私の視線を追って、寒くなってストーブ出すとほとんどずっと寝てるよ、と言って笑った。
私たちは二階に上がって、彼女が高校生の頃まで使っていた部屋の小さくて狭いベッドに寝転んだ。ついこの間買ったみたいに綺麗な勉強机や整頓された教科書やノートを見ると、胸の真ん中辺りが押し込まれたように痛んだ。壁一面に作り付けられた本棚はほとんど空っぽだった。参考書にまぎれて数冊残されているだけだ。
この部屋で長い時間を過ごした彼女の姿を思い浮かべようとしたが上手くいかなかった。物が少なく、あるのはそれらがあった痕跡だけだった。私は起き上がって彼女に覆いかぶさり、強く抱きしめた。彼女が息を吐いて笑ったのが分かった。しばらくそのままでいて、いいですか?、と言ってキスをした。何となく久々な気がしたがそんなわけでもなかった。
私はシイノさんをベッドの縁に座らせ、ジーンズとパンツを取った。閉じられた足を、太腿を持って開き、その間に体を滑り込ませた。彼女は手で顔を覆って後ろに倒れた。私は床に膝をついて顔を埋め、あちこちを舐めたり吸ったりした。
シイノさんはシーツを噛んで声を押し殺していたが、指を挿れると我慢しなくなった。彼女は何度も私の名前を呼んで、その度に少しずつ体が柔らかくなっていった。
服を着たままの私と下だけ裸のシイノさんは仰向けに並んで寝転んで、眠ってしまわないよう、煙草を吸ったり連想ゲームをしたりしていた。彼女は、誰もいないうちに実家でこんなことするなんて本当に高校生みたい、と言って笑ってから、何かを調整するように長く息を吐いた。
下に降りてひとしきりシバとゼミを撫でてから、私たちはシイノさんの実家をあとにした。
シイノさんの家は駅と実家の、駅寄りの場所にあった。十二階建てのマンションで奇妙な青色の塗料で壁面全部を塗られている。
エレベーターに乗って八階まで上がり、廊下に出て左に進んだ角部屋が彼女の家だった。黒い扉にアイボリーの格子柄が入っていた。彼女は実家よりも慣れた手付きで錠を開けた。
小さな玄関に並ぶ靴を見ていると、何故だかは分からないが、ぐらぐらするくらいシイノさんという人との距離を感じた。順番に靴を脱いで廊下を歩いた。
一人で暮らすにはちょうどいい広さのリビングに、量販店で買ったものではないと一目で分かる家具や調度品が配置されている。奥の壁には実家の彼女の部屋にあったのと同じ本棚があり、その前にも本が積まれていた。どの家具もしっとりとしたタモ材で作られていて、手入れも行き届いていた。部屋のなかをうろうろとしている間中、ずっと指先は家具に触れていた。
「雪に耐えられるものだよね」と彼女は言って、寝室かどこへ行った。私はこの部屋が好きだった。本棚に並んだ本を眺め、椅子に座ったり、立ち上がって窓から見える景色を確かめたり、じっとしているのが惜しいような気がした。
スノーブーツやウェアを持って彼女が戻ってきたのは十分くらいあとで、私はソファでうとうととしていた。はっと顔を上げるとシイノさんが立っていて、私は今自分がどこで何をしているのかを思い出す必要があった。この場所に馴染みすぎて、ここには初めて来たことを忘れていた。私は彼女の顔を見て、この部屋、すごく好きです、と言った。彼女は持っていたものを机のそばにそっと置き、私のところへやってきて、同じように優しく抱きしめた。
「実家の家具もそうなんだけど、小さい頃からよくしてくれる材木屋のおっちゃんがいて、その人が作ってるんだよ、あれもこれも」
「ちゃんと目に意識されるのに、静かにそこにいる感じがして、ものすごく落ち着きます」
「なんか、自分のことのように嬉しいよ」
私たちはそのままソファで少しだけ眠ることにした。
夢の中で材木屋のおじさんが、おう、と声をかけてきた。私は何か答えたのだが、言葉にはなっていなかった。
シイノさんにとっては行きの新幹線の中で、一地点分のデータをまとめて送った。
すぐに二人からメールがあり、お疲れ様です、とのことだった。
「シイノさん」
「ん?」
「駅に着いたら、そのまま会社に顔出しにだけ行っていいですか?、下に喫茶店もあるので」
「ああ、気にしなくて大丈夫だよ、大学出て以来だから時間ならいくらでも潰せるし」
「ありがとうございます」
車内販売のアイスを食べたり喫煙所へ行ったりして、短い時間を適当に過ごした。私は自分で言い出したことで緊張していたが、気が引き締まる程度の心地好いものではあった。
駅に着くとシイノさんは、懐かしい、と言って辺りをきょろきょろしていた。
「住んでる頃でもあんまり使わなかったから、むしろ印象に残ってるなあ」
「実家に帰ったり戻ってきたりしたときだけってことですか」
「そうそう、越してくるときもそうだし、何かと節目みたいな時にしかほとんど使ってない」
「見ていきますか?」
「ううん、それはいいや」と彼女は言って、通り抜けるまでで充分、と続けた。
乗り換えて二駅先で降り、十分ほど歩いた。ザックを背負った二人組は目立った。シイノさんは特に目立っていて、誰もほとんど私のことは見ていなかった。
シイノさんを二階の喫茶店に残し、エレベーターで上まであがった。彼女は、荷物置いていきなよ、と言って、私は言われた通りにした。誰もいないエレベーターの中で、もうほとんど誰もいないにしても、私服でいることが奇妙だった。
喫煙所にカギタニくんの姿を見つけ、向こうもエレベーターから出てすぐの私に気が付いた。手を上げると間があって、何かに気づいたように頭を下げた。中に入って煙草をくわえると、カギタニくんは火をつけてくれた。オフィスに行く前に知っている人に会うと気が楽になるのが不思議だった。前準備というか、どうせすぐ後で会うことになるのに、ほっとしていた。
「お疲れ様です。すみません、一瞬誰だか」
「カギタニくんもお疲れ様です、いいよいいよ、アキちゃんは?」
「アキと僕だけですね、飲みに行こうと思ってたんで、アキの残業に付き合おうと」
「なるほどね、何か私宛のってある?」
「なかったと思いますね」
「ありがとう」
シイノさんが言っていたように、私の何かが変わってしまったのだろうかとも思ったが、こんな格好で会社に来ることは初めてだったし、あまり考えないでおこうと決めた。そうすると、カギタニくんは、さっきはすみません、正直、こんな綺麗な方だっていう印象がなくて、と言った。
「面倒見のいい、さっぱりしたフクヤさんしか見たことがなかったので、もちろん、綺麗な人だなあって思うことがないってわけじゃないですよ」
慌てた彼を見るのは久しぶりのことで、おかしくなってしばらく笑ってから「だから火をつけてくれたの?」と言った。
「そうですね、つい。手が伸びました」
アキちゃんも同じような反応で、よく考えると私たちは互いの、特に個人的なことはほとんど何も知らなかった。二人の私服も、住んでいる部屋の間取りも内装も、生まれ育った場所も。
出張先で使うパソコンに転送されなかったメールも、郵便物も言伝もなかった。軽く何か事務作業でもしようと思って来たのだけれど、珍しく何一つ残っていない。アキちゃんの仕事ももう終わりそうだったし、カギタニくんも本当に付き合っているだけで、大体は窓の外を眺めているだけだった。
二度目の喫煙所で彼は、フクヤさんも行きませんか?、と言った。私は、もう一人いるんだけど、彼女が何て言うかで決めていい?、と返した。
「ああ、シイノさんですか」
「あ、そっか、カギタニくんは夏のときに何回か会ってるのか」
「そうですね、何度か、去年と一昨年は、今年はなかったですね」
喫煙所を出てから電話をかけ、その旨を伝えた。
「楽しそうだしいいじゃん」
「荷物はロッカーにでも預けておきましょうか」
「うんうん、でも、ユカコさんは大丈夫?」
「私ですか」
「うん、疲れてないかなって」
「大丈夫ですよ、明日から三日休みって考えただけで元気ですよ」
「それじゃあ、お邪魔しまーす」
ちょうどアキちゃんも出て来て、終わりましたー、と言った。そのままエレベーターに乗り込み、私だけ二階で降りた。
二人で階段を降りている最中にシイノさんは私の手を握って立ち止まった。
シイノさんは私の目を覗き込んで何も言わないまま動かなかった。私はその目を見て、何かを思い出しそうだった。幼い頃に、同じ色の目をした人と話した覚えがある。どこの誰だかは分からないし、何を言っていたかも思い出せはしない。
「ユカコさんは基本的に動じないね、飄々としてるというか、どっしり構えてるわけでもないんだけど、吹いても倒れない感じがある」歩き出しながらそう言って、手を離してから、嬉しいなあ、と呟いた。私には、彼女が何について言っているのか分からなかったが、彼女が嬉しいのならそれに越したことはない。
合流して軽い自己紹介のようなものを済ませ、店の大体の場所を聞いた。私たちはその近くの駅のロッカーに荷物を置くことにして、スーツ姿の二人とラフな服装でザックを背負う二人の、よく分からない四人組のまま歩いていった。
紫とピンクと青が混じり合った夕暮れの空が見える。それぞれに無数のグラデーションを持ち、溶け合ったり重なったりして、隣り合う色が次々に変化していった。私は三人から一歩半くらい遅れて歩き、そんな風景を見ていた。仮定的に置かれたような淡い月が浮かんでいる。ずっと昔から明るいうちに見える月は本物ではないように思えた。今でもそうで、そんなことはないと分かっていても、どうしても夜に見る月と同じものには思えなかった。シイノさんは会話の合間にちらちらと私を振り返って、目が合うたびに微笑んだ。私はその度に微笑み返したり変な顔をしたりして、それでいて何となく、前を歩く三人から距離を取っていた。
バールのようなところで、カギタニくんとアキちゃんは、先に店に入って待っておきます、と言った。言ったのはカギタニくんだったけれど、アキちゃんも言ったような顔をしていた。私たちは歩いて五分くらいの駅の近くにロッカーを見つけ出し、一つずつ荷物を詰め込んだ。彼女はロッカーの鍵を私の手に握らせ、絶対無くすから持ってて、と言った。
店に戻って席に着くとジョッキのビールが四つ運ばれた。一緒に生ハムと何種類かのチーズもテーブルの上に並んだ。
「乾杯」とカギタニくんは言って、一息で半分ほど飲んだ。私はシイノさんに耳打ちで、飲みすぎないようにね、と言って、彼女は今まで見たことないような嬉しそうな顔で頷いた。
どうしてそんなに、と思ったけれど、自分がシイノさんと同じくらいの体質だったとして、少し前の仕事の間の記憶や、私との関係性を考えると、確かに、何がと訊ねられると答えられない類の喜びが湧いてきた。
「シイノさんは、もうこの業界は長いんですか」オレンジ色のチーズを飲み込んで、口元を手で隠しながらアキちゃんは言った。アキちゃんの声は騒がしい店内でよく通った。
「大学出てそのままだから、長いと言えば長いのかな、アキちゃんは?」
「私はまだ一年経ったばかりです」
「僕の一年後輩ですね」
「そっか、カギタニくんとユカコさんは中途採用で入ったんだっけ」
「そうです、大学出てから私は結構ふらふらしてたんで」
「何か意外ですそれ、僕の場合はそのまま就職して、辞めるタイミングで今んところにきたって感じですね」
「四人でも色々パターンがあるね」
「カギタニくんは独立したいんだっけ」薄いのだけど舌触りのはっきりした生ハムは、口の中で溶けて、放出するみたいに味を残していった。藁のような風味やぴりっとくるくらいの塩味、なめらかで後を引かないこってりとした脂身の甘さ、おつまみにこれほど最適なものはないように思える。
「そうですね、いつかそうしたいですね。まだ現場でも事務作業でも、経験が足りないですけど」
「まあ、そんなのはどんどんついて来るからね」シイノさんはビールを一口飲んで言った。
店内はスーツを着ているグループと、そうでない服装のグループで埋まっていて、どうしてか私たちのようにスーツ組と私服組の混合グループは一つもなかった。
カギタニくんはビールを追加するのに合わせて、海鮮のアヒージョとバゲット、チーズのピザとトマトとひき肉のピザ、サラダと渡蟹のトマトクリームパスタ、赤ワインのボトルを頼んだ。
新しいビールが三つ届き、シイノさんは一つ目のビールを少しずつ楽しんでいた。私は保護者のような気分になっていて、彼女の前の小皿が空になる時間をなるべくなくそうとしていた。
カギタニくんと私はワインに移って、アキちゃんとシイノさんは二杯目のビールを飲んでいた。
ピザはどちらも美味しかったし、アヒージョの具もきちんと処理されていて、無駄な臭みや舌触りもない。シイノさんの顔はほんの少し赤くなっていた。アキちゃんは結局いつも私と同じくらいの量を飲むのだけれど、ペースは遅かった。カギタニくんは酒豪と呼んでいいだろう。ふらついているところすら見たことがない。
それから話は、各地の町や山の話へ移っていった。仕事の話と言えばそうなのだけど、加わらずに聞いているとただの旅行の話に聞こえてくる。どこそこの名物はこれじゃなくてこっちだとか、あそこ一帯の山はどこも泥濘んだみたいで歩きづらいだとか、この道路から見える景色が絶景だとか、そんなようなことだった。私は煙草を吸いながら、三人の声を聞くともなしに聞いていた。体がちょうどいい具合に疲れていて、今この場で眠れたら気持ちがいいことが分かる。眠気はないのだが、寝転がって、眠りへ落ちていく感覚を感じたかった。
そのあとでカギタニくんは追加したボトルを一人で空け、私たちはグラスで頼んだ白ワインとスズキと野菜のグリルを食べた。
駅前で別れ、ロッカーから荷物を取り出して電車に乗った。
シイノさんは結構酔っている様子で、立っている間もふらふらと左右に重心を移していた。
木曜の微妙に早い時間でも電車は混んでいた。私はシイノさんの荷物を網棚に載せ、その下の席に座らせた。六駅乗って、乗り換えて二駅、家まではタクシーに乗るだろう。気分は良さそうだったけれど、歩くにしては坂が多いしふわふわしていた。彼女は前に立った私を見上げ、いつからかずっとにこにこしている。私は彼女の頭を撫で、大丈夫?、と言った。ちょうどいいくらい、と言って後ろに体を預け瞼を閉じた。
タクシーを拾ってトランクに荷物を入れ、後ろに乗って行き先を伝えた。運転手は小さく頷き、滑り出すように走り出した。たまにこうして優れたテクニックのある運転手に出会うと、特別な資格を持つ人だけがタクシーを運転できればいいのに、と素朴に思う。歩くのが面倒で乗ることよりも、お酒を飲んで乗ることの方が多いからかもしれない。
彼女は座ってすぐに眠ったようだった。窓に頭の側面をつけて身じろぎ一つない。街灯や店の明かりが車内に飛び込み、広がってぱっと消えた。きめ細かにつるっとした彼女の肌は夜の空気が似合っていた。眼鏡は手に握られて、鼻の付け根に跡が見える。空いた方の手をとって弱い力で揉んだ。小指がぴくっと跳ねたが、起きたわけではなかった。
マンションの前に着く少し前にシイノさんに声をかけた。もう少しで着きますよ、と。彼女は、うん、と返事して、腕を伸ばしながら体を起こした。
「起きてたんですか?」
「ううん、すっごい寝てたよ、着きますよって聞こえた」
五分もしないうちに到着し、お金を払って、素早く車を降りた。反対側に回って彼女を支えて降ろし、エントランスの前の階段に座らせた。トランクの荷物を運転手から受け取り、ポッケから鍵を出してから両肩に一つずつザックを背負った。
ありがとうございました、と言うと彼は一礼し静かな音で住宅街を抜けて行った。シイノさんは立ち上がっていて、私は彼女を促して歩いた。オートロックの扉を抜け、エレベーターに乗り、七階です、と言ってボタンを押してもらった。
出るときに鍵を渡し、シイノさんの後ろを歩いた。
扉を開け、私を通してからすぐに入って来たシイノさんとぶつかって、そのまま私たちは廊下に倒れ込んだ。ザックがクッションになって、私たちはしばらく笑ってから、割とてこずりながら起きあがった。
寝室に荷物を置いてからリビングへ行き、あちこち見て歩くシイノさんに後ろから抱きついた。彼女は、私もユカコさんの部屋好きだなあ、と言って、その体勢のままちょこちょこと歩いてまわった。
ダイニングとして使っている僅かなスペースのテーブルで向かい合い、濃く出したコーヒーを飲んだ。彼女の酔いも醒めてきたようで、リラックスしているみたいだった。私はすっかり二人でいることに慣れていた。彼女の存在に慣れていた。彼女はその場からぐっと迫り出したようなところがあった。歩いていると大方の人が彼女を見るのもその感触のせいだろう。彼女といると、ずっと何か気が張るようなところがあったのだけど、今ではそれが心地好さへ変わっていた。彼女といれば私は、隅から隅まで、その場所にそっといることができる。私たちは何かに対して弁明する必要もなかった。ただそこにいるだけで良かった。そんな気持ちになることは、あまりに懐かしいことだったから、私は初めのうち、何か悪いことの前触れのように思っていた。これほど健やかな時間や気持ちが続く訳はない、と。しかし、それが存在することは決して何かの前兆ではなかった。
彼女はマグを両手で持っていた。私は一応、熱くないですか、と言って、彼女は、大丈夫だよ、と言った。無駄な会話の何と豊かなことか、と両手を広げて天を仰ぎたいような気分だった。私もどうやらアルコールが回ってきたようだった。あらゆる、不快でない無駄な会話は、私たちのその時々の関係性や立ち位置を思い出させてくれた。
キッチンへ立ち、缶入りのクッキーを持って戻った。
「あ、これ知ってる」
「去年、紹介してもらったんだよ」
「美味しい?」
「食べてみてよ」
シイノさんはメレンゲクッキーを気に入ってぱくぱく食べていた。
ベランダに出て煙草を吸い、何日かぶりに一緒にお風呂に入った。ホテルに比べると広々とした浴室では、ある意味でよく互いの姿が見えることに少し戸惑った。
私は、シイノさんの体には慣れていなかった。同じ空間にいて感じる存在と、それを一部支える肉体とは、別々のものに思えた。私は彼女がいることや、そこにただあることに慣れてきたということだろうか。こうして狭い場所で、裸になった彼女を見ていると、それから想起する直接的な思い出や予想される私や彼女の動きとは別に、それそのものが私を刺激した。これほど美しい体を持つというのはどういった意味があるのだろう、あったのだろう、そんな私の考えとも関係がなかった。その体が、彼女の体として、それがこうしてここに、目に見える形であることが私を揺さぶっていた。誰か別の体として、その体がどこかに存在することもあったはずだった。
トリートメントを洗い流し、これがユカコさんのいつもの匂いかあ、と彼女は言って、なくなりかけの石鹸を泡立てた。お湯に浸かってそんな姿を見ていると、だんだんと、私たちはいつから一緒にいたのかが曖昧になっていった。その人と出会ってから、その人との時間が始まるわけではないよな、と思い始め、それは、別れた途端に何もかも全部なくなる訳じゃないことの経験的な確かさを起点にしていた。その人を含む時間はいつからか始まっているし、いつまでも終わらない。私はそう考えて息が詰まるような感じがした。それでは、どこにも救いのようなものはないのかと思った。きっと、残念ながらその通りだった。それでも私は、シイノさんや、シイノさんの体や、その他何もかも、彼女を含んだあらゆるものを、ずっと私として感じていたかった。
彼女が入ってくると湯は勢いよく流れ出し、ぴったり私たちの首元まで張った。
「体調はどう?」
「もうほとんど変わりないですよ」
「良かった、というか、三日間はゆったりしてよう」
「行きたいところがあれば言って下さいね、一応車はあるから」
「ありがとう」
リビングに戻って、それぞれにただぼんやりと過ごしていた。
私はダイニングで、彼女はソファの上で、『城』と何かを読んでいた。私の場合、どこにたどり着けていないのかが分からなかった。城へ辿り着けないと分かっているだけましじゃないないだろうか。シイノさんは背もたれにぐうっと体を押し付け、首を反らした状態で本を読んでいた。そうやって読むにしては分厚い本に見えたが、私がそう言うか、異常なほどその体勢でいない限りは楽な姿勢なのだろう。白湯を飲みながら本を読みつつ、ちらちらと彼女を見ていた。
歯ブラシがないことに気が付いて、私たちは服を着込んで近くのコンビニまで歩くことにした。車で行くにしては近過ぎて、暖房が効くまでに着いてしまう。彼女はいつもの格好に私のマフラーをぐるぐる巻いて、今すごく幸せな気がする、と言って鼻を埋めた。
十分も歩かない距離でセブンに着いた。明日起きてから食べるものと歯ブラシをカゴに入れ、何となく店内を無駄に歩いて会計を済ませた。
帰り道で、袋はシイノさんが持った。彼女は、一箇所だけ行きたいところがあるんだけど、と話し始めた。
「大学の四年間住んでたところで、何があるってわけでもないんだけど」
「行きましょうよ」
「うん、行こう」
話を聞いていると、大学生時代、私たちはかなり近い場所に住んでいたようだった。何度かどこかのスーパーや道ですれ違っていたかもしれない。それに彼女は何故かモリイチのことを知っていた。何故か、というのはないのだけど、驚きが姿を変えて疑問に変わっていた。
モリイチは学内では少し有名な部類の人だったらしい。見た目が目立つというのもあったが、きつく残った方言や姿を見かける頻度の激しい差が主な理由だった。彼はあらゆる講義に顔を出し、講義中何度も手を挙げて質問を投げかけた。それでいて何日も誰も彼を見かけず、そうかと思うとくろがねのように日焼けした顔でザックを背負ったまま学校へ来た。何人かは彼に話しかけた。彼はその時々の旅のあらましを話し、そのうちの何人かは誰かにその話をした。その誰かはモリイチの元へやって来て話を聞き直し、また誰かへと話を教えた。そうして彼は変わり者の旅人として知られるようになっていった。それはサークル間の交流や、単位互換制度を使っていた人たちによって、近くの学校の人たちにも伝わった。シイノさんはそのとき、程近い私大に通っていて、仲の良い友達からモリイチの話を聞いた。私はほとんど音としてしかその話を聞いていられなかった。
「その友達に連れられて、一回だけ見に行ったことすらあるもん、びっくりするくらい黒かったな。話を聞いてなくても異様な雰囲気だったよ、学校の中庭をさーっと歩いていく姿」
私たちは少しだけ道を逸れ、マンションを回り込む形で部屋へ戻った。モリイチは結局、全国を歩き切ったんだっけ。私はもやもやとした記憶の中を探ってみたが、最後にはどうだったのかが思い出せなかった。彼はしっかりと全ての土地を歩いて来て、そのお祝いのようなものをした気がするし、まだ彼はどこかを歩いていて、それ以来会っていないような気もした。思えば私のモリイチとの思い出のあやふやさは、そのほかのものと比べると自分でも恐ろしくなるほどだった。私は彼が美草へ帰ったのかそうでないのかも思い出せないし、どうして今彼と連絡を取り合っていないのかも分からなかった。何か決定的な別れがあったのだろうか。そんな記憶はないが、そうだったような、そうじゃなかったような、何もかもが朧げなのに同じ分量だけそんな気がし続けた。
並んで歯を磨き、色違いのパジャマに着替えて寝室へ行った。私は窓の方に寝て、彼女はぴったりと体を合わせた。小さな声で、本当に嬉しいと思ってるよ、と言った。言ったはずだった。私が、私もですよ、と言って顔を見ると、彼女はもう眠っていた。
私はカーテンの隙間から夜空を眺めた。星がいくつか見えるがどの星座の一部かそうでないのかは判別できなかった。明滅しているように見えたが、錯覚だったかもしれない。静かに胸を上下させるシイノさんと夜空の小さな星々を交互に見ていた。今が何時なのかは分からないけれど、この二週間ばかりの就寝時間よりは遅いはずで、それでも眠気を感じなかった。体も頭も疲れているが何かが冴えていたし高ぶってもいた。それはシイノさんの口からモリイチの名前を聞いたことで間違いないけれど、それはただの発端だった。私はとにかく、彼のことを思い出そうとしていた。それはするすると私の元から離れていく。彼に関して思い出せることが一刻ごとに少なくなっていくようだった。
モリイチは博物館のカウンターで眠っていた。両腕を菱形に曲げて、重なった手の甲の上に耳をつけて瞼を閉じている。私は学校を早退して彼に会うために歩いていた。畦道を、ローファーを泥で汚しながら歩いていた。スカートは風に吹かれてぴたっと張り付いている。風は頭上から私めがけて吹きこみ、ぶつかると後ろへ過ぎ去っていった。モリイチの背中は呼吸に合わせて膨らんで萎んでを繰り返していた。私はカウンターの脇の扉から中に入って、ストーブの前の椅子に腰掛けた。しばらくストーブの真ん中で光る火を見つめ、立ち上がって彼の背中に手のひらを合わせた。彼の体の中を空気が通る乾いた感触は手にあった。動きに合わせて手の力を抜いたり入れたりして、そのままで五分くらいはぼーっとしていただろう。私はモリイチの髪に触れ、私とは違った固い髪をしだいた。彼は動かなかった。それでも、多分、私がカウンターの前に立ったときから目を覚ましていた。私はそれが分かっていたし、そのことを彼も分かっていた。私は手を離して彼の背中に耳を当てた。不規則に思える鼓動と血液が流れ巡る音だろうか、夜に聞く、幹線道路で起こる音が聞こえる。私はモリイチの髪をかき上げて、うなじや首筋に舌先を這わせた。汗ではない塩っぽい味だった。舌を口の中に戻して唾を飲み込み、また舌の先をあてた。長い時間それを繰り返した。モリイチは一度だけ、小さく息を漏らした。それ以外彼に動きらしい動きはなかった。私は顔を上げ、数秒彼を見下ろしてから、博物館をあとにした。
私は起き上がってクローゼットまでいって、毛布を取り出した。掛け布団の上に静かに毛布を広げ、ベッドを揺らさないように寝転んだ。シイノさんの体は熱を放っていて、仰向けに寝た彼女を側面から抱きしめると温かかった。ぼやけた彼女の顔の輪郭を目で追い、それから昼前まで眠り込んだ。
起き上がると、シイノさんは温もりもないほど前に起きていたようで、私は一人だった。リビングの方からかちゃかちゃと物音が聞こえる。
顔を洗ってからリビングへ行くと、彼女はキッチンで何かを焼いていた。おはようございます、と言うと彼女はこちらへ来て、ぎちぎち鳴りそうなくらい強く私の体を抱いた。
彼女が焼いた目玉焼きとウィンナー、トースト一枚を平皿にのせ、ダイニングで向かい合って食べた。長く煩っていた心配事が消えたみたいに清々しい気分だった。天気も良いし、家の中で一日を終えるのは勿体ない。
私は、早速今日行ってみませんか、と言ってトーストを二口齧った。彼女は目玉焼きの黄身をトーストの角で破っていた。顔を上げて頷き、その部分を食べた。パンのくずが唇の両端に付いていた。唇の大きさや厚さで、食べ物のくずが付きやすいとか付きにくいとか、違いはあるんだろうか。座っていると彼女は、幼く見えた。頭部の小ささに依るのだろうか。立っていると、化粧の有無に関わりなくそうは見えなかった。
洗い物は私がした。
その間に彼女は着替えを済ませ、その後で私も手早く身支度を整えた。電話が鳴って、彼女は靴を履き始めていた。ちょっと待って、と声をかけてから電話に出た。
「やあ」
「もしもし、どちら様でしょうか」聞くまでもなかった。
「今度は一回で出たな」
「間違えて出ただけです。ちゃんと見てたら出ません」
「そしたら出るまでかけるだけだよ、無駄だ、それに間違い電話なんてものはないんだよ」
「もっとはっきり喋って下さい」
「そしたら出るまでかけるだけだよ、無駄だ、それに間違い電話なんてものはないんだよ」抑揚は録音して再生したものよりも再現性が高く、それでいて泥土みたいにまとわりつく声音に変わった。
「いったい何の用があってかけてくるんですか」
「残念ながら、お前にはそれも関係がないんだな、前にも言ったように、ここではお前が知ってることも知らないことも関係がないんだ、お前が何を知りたいか、知りたくないか、知っていくか、忘れていくか、そういうのも無関係なんだ、そしてこれも前回言ったことだが、質問をするのにもそれなりの資格がいる、お前はそれを持たない」
「それじゃあ、私は」
「どうすればいいんですか?、前回も、すぐ前にも言ったように質問を」
「質問をするのにもそれ相応の資格がいるんですね、分かりました」怒気を強めた私の声に、玄関に座り込むシイノさんが心配そうに振り返った。
長い時間、あはははははは、と笑ってから「そうだよ、分かってきたじゃないか、お前はただ聞けばいいんだよ」と言った。
「お前はこれから美草へ行くだろう?」私はもう返事をすることもやめた。
「それでいい、お前は美草へ行くだろう?、それを中止するんだ」
「これは決まったことでもあるし我々の希望でもある」
「正直なところ、お前を止める手立ては我々にはないんだよ、お前が電話に出なければ話をすることさえできないんだからな」
「しかしお前は出た、お前は電話を切らない、だから言ってるんだ、美草へは行くな」
「今回はそれだけだ、次も一」
そこで私は電話を切った。首を回してほぐしてから玄関まで行って、シイノさんの肩に触れた。
駅まで歩くあいだ、彼女は何も言わなかった。私はもう呆れていて、どうでも良かった。むしろすっきりとしていて、だからといって何と言えば彼女が納得するのかは考えつかなかった。
彼女が暮らしていた場所は、三駅ずつ、二回の乗り換えで着く距離にあった。近いですね、と言った私の声は、私が意識していたよりも何となしに響き、彼女もそれで安心したのか、ね、と言った声は何も含んでいなかった。
駅前はすぐに、商店が立ち並ぶ通りになっていて、その道の先で少し外れたところに彼女の住んでいたアパートはあった。三階建で白壁の眩しい建物だ。一つの階に五つの部屋があり、灰色の扉は無個性にきっちり並んでいる。彼女は、綺麗になってるけど懐かしいなあ、と言って道の端に立って見上げていた。
階段を上がって三階まで上がり、真ん中の部屋の前の手すりから辺りを眺めた。遠くまで見えそうで見えない高さだった。そこで数分、話もせずに立ち、それから通りへ戻った。
大抵のものは全てここで揃いそうだった。彼女は、ここここ、と言ってあちこちの店を覗いたり寄ったりして、駅まで戻るのに一時間ばかりかかった。私はシイノさんの後ろについて歩き、はしゃぐ彼女を見ているだけで満足だった。
駅前にある煉瓦造りの喫茶店に入りホットコーヒーを二つ頼んだ。
彼女がトイレに行っている間に、着信履歴から電話をかけ直してみた。おかけになった電話番号は現在使われておりません、とアナウンスされ、見返してみると出張中に出た番号とは違っていた。その番号も、当然使われていなかった。どこの誰がこんな手の込んだことをしているのだろう。
シイノさんは、ユカコさんがいつもどんな風に過ごしてるのか知りたい、と言った。私たちはまた電車に乗り、七駅乗って乗り換えた。そこから二駅乗って、いつものデパートを二人で見て回った。
まず屋上の喫煙所で煙草を吸い、祖母が言っていたことを話した。それなら、何か買って帰ろうよ、と彼女は言って、その表情はクリスマスや誕生日にプレゼントがもらえることを分かっている子どもみたいだった。
ゲームコーナーには子どもたちがうじゃうじゃいて、その割には少ない数の親のような人が離れた位置に立っていた。立ち話の合間に子どもたちの様子を確かめ、子どもたちはゲームに夢中になっていた。絶叫とも思える声が至るところから聞こえてくる。私たちはそんな光景を微笑ましく見つめながら煙草を二本吸って、それから何か買うものを見ていった。
私たちは旅先で使う無地のハンカチを買い、私はマスタード色のケトルを、シイノさんはモルタルみたいな質感のマグカップを買った。
ピースのおばあさんがいる喫茶店の窓際の席に腰を下ろし、アイスコーヒーとオムライスを頼んだ。彼女は、私も今度からこうしよう、と言って紙袋を持ち上げ、綺麗だなあ、と窓の外を眺めて呟いた。
雪がちらついた街は烟ってモノクロに見えた。私の目は相変わらず、遠近の感覚は以前と同じだった。慣れてしまえば、特にどうといったこともない。そういう種類の出来事と慣れ方だった。おばあさんは注文を取って、キッチンの若い男の人にそれを伝えてから、いつも通り煙草を吸っていた。全館禁煙の建物の中で、煙草が吸える状態で営業を続けるというのはどういった苦労があるのだろうか、とその、完成して固定された姿を見ながら思っていた。それは毎度思われることなのだが、今日も変わらず思われた。私たちも煙草に火をつけて、オムライスを持ち、夕食はどうしようかという話をした。
作るのも食べに出るのも面倒だから何か頼もう、と話が落ち着いたあたりでオムライスが運ばれてきた。私はクリームソースで、シイノさんはたっぷりのケチャップ。卵はしっかりと焼かれ、中のケチャップライスは味の濃さの割りにぱらっとしていて食べやすい。
彼女はほとんど息だけの小さな声で「なんかすごい美味しくない?」と言った。
「ですよね、なんか昔そういう特集、なんだっけ。本当に美味しい喫茶店みたいなので特集されてたくらいですし」私も同じような声で答え、クリームソースを絡めた部分を掬って彼女に食べさせた。ハーブやスパイスの類がかなり効いた、他ではあまり食べられないクリームソースで、シイノさんは、めちゃくちゃ美味しい、と言った。
会計を済ませ、屋上で煙草を吸ってから帰り道についた。駅までに、本屋や雑貨屋を覗いてみたが特に惹かれるものはなかった。映画館にも寄って、スケジュール表や天井からぶら下がったモニターの予告編をしばらく見たが、やはり何も引っかからなかった。シイノさんは、まあいいじゃん、と言って私の背中をどんっと押した。私は勢いづいて小走りになり、振り返って、駆け寄る彼女を抱きとめた。
最寄り駅から家までは歩くことにした。長短も勾配も様々な坂がそこら中で伸びている。彼女は、こりゃ昨日はタクシーで助かった、と言って、軽く息を切らしていた。どれだけ山を歩き回っていても、何故だが街中の坂道や階段はしんどかった。知らず知らず、山の中では考えられないようなペースになっているのか、アスファルトの上を歩くというのが体力を奪っていくのか、毎回疑問に思うが、調べようとは思わなかった。
「坂だらけだけど、結構歩くの好きなんだよね、この辺り」
「なんとなく分かるよ、落ち着く雰囲気だし、かといって住宅街って感じもしないし」
「そうなんですよ、しかも、なんか近くに海ありそうじゃないですか?」
「あ、確かに。坂上るたびに水平線見えそうなわくわく感があるね」
「ですよね、本当に、店も、コンビニくらいしかないし、何にもないんだけど、休みの日とか、夜ご飯食べた後とか、たまに歩きます」
「また夜の散歩連れてってよ」
「行きましょう」
二人とも息を切らして歩いていた。すれ違う犬を連れた女の人は、訝しげに私たちへ視線を走らせた。犬は同じように息を切らす私たちに親近感が湧くのか、リードを力一杯引いて近寄ろうとしていた。
街での雪は、いつの間にか降り始めているし、止んでいる。電車に乗るまでは降っていた雪も今では止んでいて、うっすらと青空さえ見える。高い声で鳴く鳥が何羽か頭上を通り過ぎていった。
家に帰ってから、すぐに私たちはシャワーを浴び、パジャマに着替えて休みを満喫することにした。まだ陽が明るいうちからのんびりと各々で過ごしていた。シイノさんはだいたい本を読んでいて、私は家中の掃除をしていた。掃除機をかけてから粘着テープの付いたコロコロを持って歩き回った。冷凍庫に入れていた生ゴミと今朝のゴミをまとめ、口を開けたままキッチンの隅へ立てかけ、重曹を使ってシンクやコンロの周りを磨いた。
あちこち動き回る私に気がつかないみたいに彼女は本を読むことに集中していた。昨日読んでいたのとは違っていた。厚くない単行本を、ソファの上で立てた膝に載せ、読みづらそうにしながらも読み続けていた。私は掃除の合間に、彼女の肩やつむじに口付けして、彼女が何か反応する前にその場を離れた。何度かそうしているうちに、彼女も気に留めなくなって、私も思い通りになったことでもっと気楽にしていった。
掛け布団と毛布を引っ張り出して陽に当て、二人分の洗濯物を畳んでから取り込んだ。私も彼女も干すよりも乾燥機にかけた方が好きだったし、二人分なら大した量もなく、シワも少なかった。スチームかルームスプレーでもかけて伸ばせば気にもならない。
小さなちりとりと箒で玄関やベランダの砂ぼこりや塵を掃き取った。小さなちりとりは何の違和感もないのだけど、箒は何故か、その機能はそれを使う場面で十全に発揮されているのに、間違ったもののように思えた。使うたびに、これで大丈夫かな、と思うのだけど、そんな危惧が具体的な形で降りかかってきたことはもちろんなかった。
あらかた掃除を終えてキッチンから「コーヒー飲む?」と訊ねると、そっち行く、と聞こえ、わざわざ来なくてもいいのに、という思いが、そっちってどこだろう、と形を変えた。
彼女は小さな箱を持ってキッチンまでやって来て、「今日買ったマグカップ、今使ってもいいの?」と言った。
「そんな厳密じゃなくてもいいんじゃない?、あんまり考えたことないです」
「じゃあ、使っちゃお、ユカコさんは?」
「それじゃあ私も」
それぞれに持ってリビングへ行き、私はダインニングに、彼女はソファに座った。私はもう一度キッチンへ立ってクッキーを取ってきて、彼女の前のローテブルにそれを置いて椅子に戻った。
「ユカコさんは食べないの?」
「私はいいや、全部食べてもいいんで、シイノさん、好きに食べてください」
「じゃあお言葉に甘えて」そう言って彼女はやっぱり、淡い緑のメレンゲクッキーをいくつか口の中に入れた。
「何読んでるんですか?」
傍らに置いてあった本を持ち上げて「愛情生活、荒木陽子さんって人の」と言った。
「ああ、いいですね」
「結構好き、装丁とか表紙の写真の色と同じような印象だなあ、暖かい色が淡く広がってく」
「うん、文章的には意外にさっぱりしてますよね」
「そうだよね、確かに、でも、何だろう色としては寒色が浮かびそうなのに、やっぱ暖色だな」
コーヒーを一口飲んでからメレンゲクッキーを二つ食べ、うんうん唸りながら本を開いた。
私はそんな彼女を見るともなしに見ながら、特にこれといって何かをしないままコーヒーを飲みつつぼんやりとしていた。窓の外にはいくつかのマンションと空しか見えない。雲はちょうど過ぎていったのか、青空が広がっている。アプリで確認すると、ここも美草も、しばらくは晴れているようだった。鳥も見えない空に、縁取られたように、合成されたようなマンションが見える。所々に洗濯物が干されているのが分かるが、何がかかっているのかまでは見えない。
頬に当たる夕陽が温かかった。私はダイニングで、カギタニくんから送られてきたデータや資料に目を通していた。時間がかかりそうだったから、立ち上がって間接照明をつけに歩いて、戻り際にシイノさんの髪を撫でた。彼女はいつからか眠っていて、本は立てた膝と体の間に挟まっている。私は寝室から毛布を持ってきて彼女にかけ、コーヒーを淹れてから椅子に座った。
少なくはない間違いを訂正して送り返し、植物図鑑を取ってきて資料と突き合わせた。アキちゃんは蘭科に強いのだけど、いつまでも簡単な木を見分けられなかった。私としては蘭科の判別の方が遥かに難易度が高いように思えるのだが、仕方がない。
それから、二日後からの工程をあれこれ考えた。初めてちゃんと資料を見ると、かなり広範囲を二人で回らなくてはいけないようだった。そんなことはどうでも良かったが、うんざりだった。どれだけの回数、見たことのあるものを見かけるだろうか。私は、多くの思い出が美草のあちこちに結びついていることが、それを意識させられることが嫌だった。
それでも二週間程度で終えられるだろう。それは単純に短いということでは良かったのだけど、直前の同期間の出張に比べて長く感じるだろうことは、もう決まったも同然だった。これが終われば外での仕事はしばらくない。なるべく気が楽になることを考えようとしたが、考えることは希望や幻想を現実に引っ張り込んでくることとほとんど同じ意味だった。私はそれを終えればしばらくシイノさんに会うことはできないし、毎日電車を乗り継いで会社へ行かなくてはならない。息抜きは限定的で、それでいて習慣化されていく。どうせなら、美草での二週間を楽しめばいいのだろうが、私は一体何をすればいいのか。シイノさんと二人でいれば、あの町でも心楽しく過ごすことができるだろうか。
変な方向に首を曲げて眠るシイノさんに視線を移し、資料をまとめてパソコンを閉じた。静かに近くまで歩いてクッキーを何枚か手に載せて、椅子に戻り、コーヒーに浸してから食べた。
シイノさんが起きたのは辺りが暗くなってからだった。
私はカギタニくんとデータを送り合い、何とか調整を繰り返していた。再度調査に行くには時間も空いている社員もいなかった。デジカメの写真や書き込まれたものを手がかりに、何冊かの図鑑と二人の知識を持ち寄って擦り合わせた。私の頭の中では、なるべく優しい言葉ではっきりとアキちゃんに今後のことを伝えるには、どのような言葉が必要なのだろう、という考えで満たされ始めていた。
「おはよう」と聞こえて顔を上げると、そばに立ったシイノさんの上半身が見えた。心臓が一度どくっとしてから、わっ、と思い、わっ、と声が出た。
「集中してたね、ごめん」
「ううん、もう終わってます、あとは提出用のを確認するだけです」
「お疲れ様、ユカコさんのところは結構大変だね」
「まあ、これは急用ですし、普段はしっかり休みですよ」
「そっかそっか、私のところってまあまあ適当な人ばっかだからさ」
彼女は、お腹空いた、と言って私の顔を見た。立ち上がって腰を鳴らして伸びをしてから、私も空いた気がする、と答えた。
夕食はシイノさんの希望で寿司になった。別の店で温かい蕎麦二つと天ぷらの盛り合わせを一つ頼み、コンビニまでビールを買いに行った。
ついでにイカの塩辛とピーナッツを買い、少しだけ急ぎ足で家に戻った。シイノさんはもちろんもう道を覚えていて、私の少し先を歩いていた。
一人前ずつのお寿司をつまみながら、天ぷらを半分こして、吸い物のように蕎麦を食べた。テレビをつけていたけれど、二人とも見てはいなかった。思いの外お腹が空いていたらしく、私たちは黙って食事に集中していた。
彼女はお寿司を手で食べた。ガリはお箸を持って食べ、天ぷらは何故かお箸を持っていても置いてから手で食べた。私は全部お箸で食べていたが、最後の一貫だけ、つられて手で食べた。
買ったおつまみと、冷蔵庫にあったたくわんを刻んでクリームチーズと混ぜたのとクラッカーを持ってソファへ移動し、テレビを見ながらゆったりした。彼女はさっき洗った指先をしきりに嗅いでいた。
次の日も、その次の日も、私たちは同じように過ごした。長い散歩に出かけ、早めにシャワーを浴びて出前を頼む。朝食はシイノさんが作ってくれた。キノコとチーズの入ったオムレツや完璧なポーチドエッグ。彼女は卵料理が好きで、得意だったようだ。本を読んだり、ベランダで煙草を吸ったり、家にあるDVDを流し見したり、なるだけ長く時間を感じていたかった。
届いたコンテナケースの中身を整理し、ザックは浴室で軽く洗ってから洗濯機へ放り込んだ。そういえば、と彼女用の小容量のザックを出してきて、一時停止を押して一緒に洗った。二つ並んだザックを見ていると、ただ登山旅行へ行くような気がしてきた。
夜には私たちは毎日お寿司を食べた。お吸い物を作って、三つ葉を散らしたり、可愛い柄が描かれた麩を浮かべたりした。私は出汁をとったり、それをベースに味を決めていくのが好きだった。最終日にゴミをまとめ、二人で回収場まで歩いた。シイノさんはついて行くと言ってきかなかった。外では雪が風に吹かれて強く降り落ちていた。彼女は傘をさして、もう片方の腕で私の肩を抱えた。なるべく体が小さくなるよう、体の前でゴミ袋を両手で持って歩いた。
帰ってから空き缶をまとめて、口をきつく縛ってベランダに出した。そのまま二人で煙草を吸い、お風呂だけ浸かろう、というシイノさんについて湯船に湯を貯めた。
体が温かいうちに布団に潜り込み、抱き合って眠った。彼女の柔らかさは私とは違っていた。どこまでも柔らかいように思えた。骨とは別に、私の体はすぐに芯のようなものにぶつかるが、彼女の体はそうではなかった。いつでも、どこまでも柔らかで、それでいて張りがあった。
久々に感じるザックの重みは、気を引き締めてくれた。私たちは手早く用意を済ませてトーストだけを食べて家を出た。彼女は名残惜しそうに部屋中に触れていた。私は、また来てください、と言って、いつでも、と付け足した。ザックを背負って仕事の気分へ切り替わっていなければ泣いていたかもしれない。幼い頃、たまに会う親戚と別れる時に泣いたことを思い出した。彼女は目を細めて私を見て、うん、と言った。
三時間近く新幹線に乗り、そこからは車に乗ることになる。私たちは駅で飲み物だけを買って喫煙所へ行き、扉の前の、見えるところにザックを置いて中に入った。
車窓から見える景色は、もう何度見たか分からないが、もうとっくに飽きていた。あまりに飽きて、むしろ何か見落としていないか目を凝らす、というような時期も抜けていた。それでも窓に顔を寄せて外を眺めていた。シイノさんは『愛情生活』を読み進め、私は『城』を太腿の上に置いていた。だんだんと読んでいられる時間が短くなっていた。彼女よりも読み進んではいたが、それももうそろそろ終わりそうだった。
特急に乗り換える駅を過ぎ、見慣れない景色が続いたが、似たようなものだった。シイノさんは、こっち側来るの初めて、と言った。私は、二度目です、と言った。
「旅行で?」
「いえ、美草、今日から行く場所ですけど、生まれ育った場所なんです」
「あ、そうなの、というかヨシクサって読むんだ、ミソウとかビソウだと思ってた」
「そっか、私は違和感ないけど、確かに、ちょっと変な読み方ですね」
「うん、楽しみだなあ」
「何にもないですよ、本当に何もないです」
「別にいいよ、私が住んでるところだって何もないし、ただユカコさんがいた場所ってことで楽しみ」
「シイノさん、そういうの好きですね」
「そうだねえ、小学生の頃にね、仲良かった友達が初めて家に来て、一つずつ部屋を紹介していったら笑われたもん、よく分かんないって顔してたなあ」
「私もなんとなく分かりますけど、シイノさんの実家、見ただけでうわあって思ったし。でもシイノさんほどじゃないな」
「少なくとも、小学生の頃に部屋を見せて回ったりはしない、と」
「そうですね」私は少しだけ、これから美草へ行くことが重荷ではなくなっていた。これで最後なんだから、あれこれとシイノさんに思い出話でもしよう、とさえ思い始めていた。
二人で喫煙所へ行き、席へ戻るときにちょうど出会した車内販売のお姉さんからコーヒーとサンドイッチを買った。
『城』が全然読み進めないことを伝えると、小さな声でしばらく笑ってから、だよね、と言った。
「でも結構読んだよね」
「そうですね、残り二章なんですけど、何故か進まないです」
「今度その続きから朗読してあげるよ」
「いいかもしれないですねそれ、懐かしいなあ」
「ね、今になって割とあの習慣っていいなって思う」
「強制的に読まされるのが嫌でしたけど、口に出して読むのって悪くないですよね」
「そうそう、たまに、家で読み上げたりするよ私」
「読みづらい本とかですか?
「そう、何かここ読めないなあ、ってところ」
「なるほど」
「案外、なんだそんなことかって、すうって意味が分かることが多い」
「耳で聞くと分かるってことなんですかね」
「うん、声に出して読むってよりはそれを聞くことの方が重要なのかもね」
シイノさんが本を読んでいるあいだ、前回と同じように『Rocky Laccoon』を聴いていた。幼い頃はロッキー・ラクーンという小さな町の歌だと思っていた。海の上に浮かんだ町で、町というよりは大きな集落といった方が正しい、物静かな人たちが慎ましく実際的に生きている。人々はそれぞれに船を持っていて、買い物の大半は陸地まで行って済ませた。週に一度は町の周りや通りを行商の船が巡るのだけど、人々は陸地での時間や船を漕ぐことに楽しみを見出していた。家々に比べると大きな教会が一つだけあって、週末には町中の人たちがそこに集まるのだ。教会というよりは集会場としての役割を担っていた。人々は一応礼拝を欠かさない。しかしそれは週に一度の集まりに応じて、といったところだった。家はどれも簡素な、ほとんど箱と言ってしまっても良いものだ。屋根は緩く傾斜のついた一枚板で、陸地から見て右側が持ち上がっている。内装も木訥な農夫のようにシンプルだった。小さなな水場と寝台、唯一特徴的なのは、開いた先に床のない扉だけだ。そこには船が浮かんでいる。海上の人々にとって神様は、いるとすればあくまでもラディカルな姿形で、何かが通じる存在だとは考えていなかった。人々は海に、感謝していた。それで充分だった。神様は、単に必要とされていないだけだ。子どもたちは器用に、浮き橋を走り回っている。家と家とは太いロープで繋がっていて、中には板を渡さない家もあった。そこに住む誰かは他者との交流を避けていた。誰かが死んだときには、その家にある一番立派な船に亡骸を寝かせて海へ流した。陸地で買った色鮮やかな花々や、乾燥させた魚や肉、酒や小さな楽器、アザラシか何かの皮を鞣したもの、そんなものたちと一緒に、そのとき町で最も優秀な漁師が小舟で沖合まで引っ張って行く。積まれた物は死者への手向けというよりは海への贈り物だった。ここでは誰もがそうやって死んでいった。彼らは一時間と離れていない陸地に住む人々とは違った言語を持ち、違った宗教観や死生観を持っていた。生まれてすぐ、赤ん坊は海へ沈められる。何というかそれは、自らが生活する空間へのお披露目に近い行動だった。ひとつよろしくお願いします、ということだ。陸に住む人々は彼らのことを、半分は海洋生物だと考えていた。少なくとも心底で信用はしていなかった。互いに、あらゆる意味合いで距離を取り、利害の一致する点だけで関わり合った。子どもたちは、本当に小さな頃から海で泳ぎ、十二歳になるあたりから泳がなくなる。それからは船に乗るのだ。その町ではっきりと漁師ではない男の人は三人しかいない。一人は年老いた元漁師で、あとの二人は赤ん坊だった。残りの男の人はみな漁師かそれに準ずる者だ。女の人や幼い子どもは舫いを修繕したり、渡し板を補強したり、船で買い物へ出たり、そんなふうだった。一軒だけある何でも屋のような店も、占い師も、居酒屋のような店も、材木屋も、どこもかしこも何もかも女の人が営んでいた。数人の漁師もいたが、彼女たちは変わり者だと思われている。ある程度の年齢になると、人々は船を作る。自分のためでもあるし、一族のためでもあった。その年一番の船を決める催しでの勝者は、翌年からのその家の繁栄を約束されたようなものだった。明日からここはお前の場所だ、というようなことはなく、半ば無意識的に彼らは、優先して良い漁場に漕ぎ出すことを許可される。美しく実用的な船をつくれる者は少なかった。何人かがその催しの優勝者を順繰りになっているだけだ。しかし人々は年に一度の宴に熱狂する。至るところで好き勝手に楽器が演奏され、その音は陸地にまで届いた。あらゆる家の先で何かが売られているし、人々は太くはない渡し板の上をすれすれで行き交っていた。子どもたちの内の何人かは板から海へ、海から板へと移動した。大人たちにとって海はもう泳ぐ場所ではなかった。海を抜ける子どもたちは、大人たちには鬱陶しそうにされ、他の子どもたちには羨ましく思われた。町でつくられた楽器には、弦楽器はなかった。どれもこれも打楽器か管楽器で、弦を張った楽器は陸地から持ち込まれた数点しかない。町の人たちにとって楽器は、船よりも身近なものだった。あまりの身近さに競うこともなかった。既にそこにあるもののように捉えられていた。一人で船に乗れない子どもでも、あらゆる楽器を演奏できた。上手く演奏できることは当たり前だという意識すらなかった。誰もが自身の楽器を持っている。一つの船に数人が乗り込んで漁場へ向かう場合でも、それぞれの船に一人ずつ乗る場合でも、誰もが楽器と煙草を欠かさなかった。彼らは町を遠く離れた海上で数日寝泊りするあいだ、眠りに就くまでの短な時間、それぞれの家に伝わる曲を演奏した。一様に、静かにその音楽に耳を澄ませる。細波が船にぶつかる音や、煙草のちりちりと燃える音、揺れて軋む船板の音以外、誰も何も発しない。黙って演奏に聞き入っている。聴く者も演奏する者も、みな誇らしげで、若い漁師はそこに少しばかりの照れを見せた。漁の最中に死んだ者は生まれ変わって魚になると考えられていた。老衰や病気で死ぬ者は海になる。漁師たちはみんな死に様を語り合ったが、結局、魚になるでも、海になるでも、海で死にさえすれば何だって良かった。もちろん、陸地での生活へ憧れる者や、実際にそこで生活を始める者もいた。移住者は煙たがられたが、町と陸地を結ぶ貴重な人間だという認識も確かに持たれたいた。逆に、陸地から町へ住み始める者はほとんどいなかった。数年に一度、漁師になるために住み込んで働く若者がいるくらいで、そういった人たちも時期が来れば陸地へ帰っていった。町には伝承というものがほとんどなかった。あるのは音楽くらいで、伝説や神話の類は既に失われかけている。それに、あまりに小さなコミュニティであるにも関わらず一貫性がなかった。我々の先祖は陸地を追放された一族だとか、巨大な人喰い鮫を殺した褒美として海上の家を与えられたとか、何世代か前までは人々は船に乗らずに泳いで漁をしていただとか、そんな具合に、どれもが子どもの耳を引く程度のものでしかない。私はロッキー・ラクーンで、小さな本屋をしようとよく考えていた。漁師たちは楽器と煙草に本を加え、月光の下、明日の英気を養うよう、その日の昂りを鎮めるため、その紙の束を開く。朝陽を避けるために顔に乗せて眠り、急激な覚醒を免れる。幾度もの漁の間にようやく一冊の本が読み終えられる。シイノさんは何をするだろう。何となく、船をつくっている姿が思い浮かぶ。上手く自分で船を拵えることのできない者は、シイノさんの元へやって来るのだ。
新幹線はいつの間にか海の見える場所を通っていた。私は窓に顔を向け、海上の家がないか目を凝らしたが、当然そんなものは見えなかった。大型の船すら浮かんではいない。ただどこまでも、薄く積もった雪が見えるだけだ。
彼女は俯いて眠っている。『愛情生活』はどこかに仕舞われ、足の間で指が組まれていた。さっと前を通り抜けて、煙草を吸いに行った。
煙草に火をつけてから、降りる駅まで十分もないことに気が付いた。一人で美草について考えていると、シイノさんと話していたときのような前向きな気分にはならなかった。感情や思いは完全に断たれていた。そう感じていたことは思い出せるのだが、それだけだった。窓の外にある三センチくらいの海を眺め、何も考えないように煙草を吸うことに集中した。紙や葉が燃える音を聞いた。細く吸い込まれた煙が、口の中に流れた途端に膨らみ、体の奥へと渦を巻いて消えていく様を想像した。肺に到達した煙はじわじわと薄くなっていく。血液は有害な物質を体中に隈なく運び出し、私の意識は冴えていった。
席に戻ってシイノさを起こし、荷物を下に降ろしておいた。
「もうすぐ?」
「はい、あと五分もないです」
「そっか」と言って彼女はどこかへ行き、一緒に買ったハンカチで手を拭きながら、時間ぎりぎりに戻ってきた。
ザックを背負って電車を降り、まばらな人のあいだを通って、改札へ向かう階段を下りた。一段ずつ肩に食い込んでくる重みに、その度に気持ちが仕事へシフトしていった。シイノさんも、単に荷物が重いのかもしれないが、いつもより表情や印象が固く見えた。唐突なあまりの寒さに、二人とも軽く震えていた。改札を出て横にずれ、ザックからマフラーを取り出した。彼女は手袋をつけ、ダウンジャケットのジップを首元まできっちり上げた。
雪は降っていなかったけれど、くるぶしを超える高さでびっしりと積もっている。ほとんどの人がブーツを履いてしっかりとした足取りで静かに歩いていた。
駅からすぐそこにある店で予約されていたマツダのCX-3に乗り込み、ナビを設定して出発した。
「結局今日はどうしようか」
「そうですねえ、寒すぎるんで移動日でもいいっちゃいいんですけど、今日しなかったら最終日にそこだけやって帰る感じですね」
「やっちゃう?」
「うん、うん、そうですね、しましょう。かなり楽そうなところでしたし」
「これからずっとこんなに寒いのかあ」
「山に入っちゃえば歩いてるうちに暑くなるんですけどね」
「ね、散歩が辛いよ」
「こんなところでも歩くんですか?」
「いや、まだ分かんない、仕事でこの時期にこんな雪のあるところに来るの初めてだもん」
「歩くなら付き合います」
「ありがとうね、でも、流石に部屋に籠るかも」
「仕方ないですね」
スタッドレスタイヤの四駆ではあれど、何年ぶりかの雪の中での運転は恐ろしかった。まだ路面の凍った部分はほとんどなかったけれどそれでも、リラックスして運転できる時間はないに等しかった。
宿までは駅から三時間の場所にあり、それは距離のせいというよりも、山を一つ超えることでかかる時間が大半を占めていた。私が住んでいた頃の美草は、町の北側からしか出入りができなかった。今ではどの方角からも自由に出たり入ったりできるようだ。東西の道はかなりしっかりとした幹線道路であるように見える。北側からの唯一だった道も、地図やナビの画面で見る限り、ずいぶん拡張されている。私たちが通る南東寄りの道路は、駅から真っ直ぐ伸びたあと、峠へ繋がる道へ合流した。
無い方がましにも思えるほどぐねぐねと連なる道を上り続け、ちょうど頂点に立つ頃に地点の近くに出た。少し下った道の膨らみに車を停め、出来得る限り車の中で色んな作業を済ませた。私もシイノさんもまだ寒さに慣れず、小さく震えて歯がかちかちと鳴っていた。
山に入っても、初めのうちはただ下り続けていたために寒いままだった。地点を歩き回って用紙にあれこれ書き込み、切り株や倒木の状態をチェックし、書き加えていった。それでも体は温まらず、下ってきた斜面をハイペースで登り切ってようやく少し熱を感じる程度だった。体中の筋肉も固く縮こまり、無駄に体力を消費する。むしろかなりハードな地点の方が楽に動けそうだった。
小走りで車まで行って急いで中に逃げ込んだ。暖房を最大でつけて体を震わせ、着替えを始めるまで時間がかかった。こんな場所で服を脱ぐなんて考えられなかった。
ホテルまでにあった二つの道の駅は、どちらも閑散としていたし、記憶にあるよりも数段粗雑な造りだった。どこの誰が買うのか分からない土産物が並び、地元の小学生や中学生が描いた絵や作文が貼り出されていた。私はまず寒さでフィジカルに衝撃を受けたからか、想像していたよりも、美草に来ることで起こる精神的な乱れをほとんど感じなかった。覚えているもの、知っているものを目にしても、何も思わなかった。シイノさんが何かを手に取って、これは?、と訊ね「これはそこら中に生えてるんで、特産品として、私が中学生くらいの頃に出てきたお菓子ですね」とか何とか答えることも、何も特別なことは思わなかった。
十六時前に宿に着き、チェックインを済ませた。エレベーターに乗って三階まで上がり、部屋の前で別れようとしたけれど、結局は一つの部屋に入った。荷物を置いてからシイノさんは枕とバスタオルだけを取ってきて、机の前の椅子に腰掛けた。
一地点分のデータをまとめている途中で、迷惑じゃないかな?、と彼女は言った。私は何のことかが分からず、彼女の顔とパソコンの画面を交互に見ていた。
何も答えられずにいるともう一度「迷惑じゃないかな?」と言って小さく首を傾げた。
「何も、迷惑じゃないですよ、むしろいてくれないと、もう落ち着かないです」やっと意味を理解した私はそう言って、彼女がいつもそうするように笑おうとしたが上手くはいかなかった。
シイノさんは、ありがとう、と言ってパソコンでの作業に戻った。戻ってからもしばらく消えない笑顔を見ていると、励まされるような気持ちが湧いてきた。彼女が何かを思ったり感じたりする限り、私はどこか、ここでも、よそでも、どこにでもいていいような気がした。
三十分ほどで仕事を終えてカギタニくんに送ったあと、少し前に済んでいたシイノさんと散歩に出た。手袋とマフラーをして服を着込み、なるべく隙間がないように、見えない部分は全部パンツに入れた。上着を着る前に互いに、あまりのだささに写真を撮り、指をさして笑っていた。
地元と呼ぶには実家から離れているがそれでも、大抵どこの道にも、少し目立つ建物にも、見覚えや懐かしさがあった。シイノさんは私が反応したものや、反応したことにすぐに気が付いて、それは?、とか、これは?、とか逐一訊ねた。
「近くに神社があるんですけど、そこがゴールになってる、なんか、町を知ろうみたいな行事があったんです。低学年くらいのときかな」
「どれくらい離れてるの?」
「五キロくらいですかね、今考えても長いですよね」
「長いね、楽しかった?」
「寒かったことと長いなーって思ったことくらいしか覚えてないです、道もそんなに覚えてないし、そこの味噌蔵だけ何か見たことあるなって、班になって行ったんですけど、誰がいたかも」
「じゃあ、その神社、ちょっと見に行ってみようよ」
「おもしろいところでもないですよ」
「いいよ」
朽ちかけていた石製の鳥居は笠木にあたる部分が落ちてそばに横たわり、妙に太く見える二本の柱だけが残されていた。その柱にしても左右で長さが違っていて、断面というのか、抉れたように凸凹した面には十五センチほど雪が積もっていた。鳥居がないだけで神社は神社に見えなかった。うらぶれた空き地でしかない。小綺麗な対の狛犬とぼろ屋のような手水舎のコントラストも惨めさを助長している。シイノさんは、もはやこんなの見たことないよ、と軽やかに笑っていた。この場所を手入れしようとする人がもう町には残っていないのだろう。幼い頃には、鳥居が朽ちかけていただけで、それだって町に修復に回す財源がないだけで、近所の誰かが手の届く範囲で何とか維持しようとしていた。
広くはない境内を一通り歩き、敷地の中と認められるのか、はずれの方にある池を眺めた。大ぶりな鯉が五、六匹泳いでいる。どれも薄めた墨汁のような色合いの鱗をもち、曇天の下で見ると燻っているみたいだった。餌が売ってる訳もなく、誰かが定期的に餌を与えに来ているのか。湖面が凍る頃にはどこかへ運ばれるのか、そのまま氷漬けにされるのだろうか。
裏手の小径を抜け、古い住宅街を歩いた。
所々で営業している商店は、昔と同じように数少なかった。荒物屋と毛糸やボタンを扱う店だけだ。歩いている人もいないし、車も通らない。私たちは手を繋いで歩き、適当に角を曲がったり、異様に狭い路地を通ってみたりしていた。それくらいしかすることがなかった。
ふっと、道幅の広い短かな商店街に出た。そういえばここの駄菓子屋に自転車で来たことがある、と思い出したのはその店の前を過ぎてからで、私たちは寒さから適当な喫茶店で体を温めようとしていた。
商店街の端、の少し先に店はあり、開いているのか閉まっているのかが分からない。シイノさんは扉に手をかけ、開く扉と同じくらいの速度でこちらを振り返った。鈴の音と彼女につられて店内へ入り、通りに面した四人がけの席へ腰を下ろした。古びたストーブが店内を隅まで暖めていた。上部の網にはやかんがのっていて、ゆらゆらと蒸気が流れ出ている。
意外に若い、と言っても六十代くらいではある男の人がどこからかやって来て、いらっしゃい、と言った。私たちは黙ったまま会釈をしてメニューを受け取った。
ホットのオレを頼み、運ばれてくる頃に電話がかかってきた。私には見るまでもなく、誰からの着信かが分かっていた。少し失礼します、と言って店を出てから確認すると、非通知設定になっていた。
「もしもし」
「美草にいるだろう」以前に比べると、何を言っているのか聞き取りづらいほど声が嗄れていた。
「仕事ですから」
「もう助けてやれないぞ」
「私にはあなたが、あなたたちでしたっけ?、あなたたちが何を言いたいのか分かりません」
「こうして電話してるのは、規則違反なんだ
「規則?」
「これからアドバイスをいくつかお前にしてやる、メモはあるか?」
「ないです」
「それなら覚えろ、よく聞けよ、忘れてたとか、思い出したとか、そういうのはなしだ」
「なしだって言われても」
「町の反対側へは行くな、誰とも話すな、何も食べるな」
「無理ですね、反対側ってのがどこかは知りませんけど、仕事の範囲は全域ですし、もうホテルの方と話してますし、今からコーヒー飲んで、夜にはきっと何か食べます、アドバイスするならもっと具体的なことを言ってください」
しばらく沈黙があり「お前らがガガ山と呼ぶ山があるだろう、そこを超えるな。そこへも行くな。そのホテルの奴は大丈夫だよ、喫茶店の奴とは話すなよ、この町で生まれ育った人間と話さなければそれでいい。食べ物も同じようなもんだ、どこでも手に入るものを食べるんだ」
「ここで作られたものを食べなければいいってことですね」
「そうだよ、お前はだんだん物分かりが良くなってきて助かるよ」
「その三つを守らないとどうなるんですか」
「そんなことは知らなくていい、知ったところで何も変わりはしない。シイノミヤにもこのことを伝えろ、これが最後の電話になることもあるだろう」
今度は私が黙りこむ番だった。理解するふりだけでもしていよう、と思っていたが、シイノさんの名前が出てくるのなら話は別だった。
「どうして知ってるんですか」
「お前は賢いのか馬鹿なのか分からないな。お前が今喫茶店にいることを知っているのに、ホテルのフロントマンと話したことを知っているのに、どうしてシイノミヤは知らないと思うんだ?、むしろ聞きたいよ」
「誰に頼まれたいたずらなんですか」
「いたずらでないことはお前ももう分かってるだろう、電源を切っても無駄だぞ、お前が出るまで、いつまでだってかけ続ける、店の電話にも、シイノミヤの携帯にも、お前たちが泊まる宿のフロントにも、どこにでも、とにかく鳴ったら出ろ。お前のた」
電話を切ってから深く息を吸い込んだ。冷気が一気に体中に満ちた。そうだ、私はもうこれがいたずらでないことは分かっていた。だからと言ってどうすればいいのだろう。
店へ戻り、大丈夫?、と言うシイノさんに笑いかけたが無理だった。私は手短にこれまでのことを話した。
「全然意味が分かんないんだけど、忠告してくれてるんだよね」
「すみません。そう、みたいですね一応」
「ううん。それに、私にも伝えろ、と」
「はい、はっきりそう言ってました」
「どうしようか」
「そうですね」
「誰かと話さないことと何も食べないことは簡単だよね、ちょっと、申し訳ない場面がたくさんありそうだけど」
「そうですね、それはまあ比較的簡単だと思います」
「問題は、ガガ山ってところには行くの?」
「二地点はぴったりガガ山で、三地点か四地点は超えてると思います」
「そっか」彼女はぬるくなったカフェオレを一口啜り、煙草をくわえてじっと何かを考えていた。私は電話の相手が誰なのかを考えていた。心当たりはもちろんないし、私には三回の電話がどれも違った人に思えていた。声の質やトーンは同じなのだが、その具合やリズムに類似点がなかった。電話の内容を伝えたい誰かがいて、その都度新しい人を使っているようだった。これからの電話も、これまでの三回とは違った人からかかってくるような、誰も一度も重なることがないような、そんな気がした。
「その五地点か六地点、飛ばそうよ」いつの間にか火をつけて煙を吐いたシイノさんはそう言って、何かを憐むように微笑んだ。それは恐らく、私たちの現実的な未来だった。大抵の場合、地点を飛ばすことは、明確な理由があったとしても、私たちの評価をはっきりと下げる。結局のところ何事も起こらずとも肌感覚からして立ち入りたくない場所も、土砂崩れが頻発していそうな危険な場所も、かなり新しい熊のフンが点在している場所も、その他あらゆる地点での調査を、むしろ進み入るための理由をでっち上げてまで、遂行しなければいけないくらいだった。そうしなければ次年度からの仕事が取りづらくなるし、それは私たちのようにフリーでない場合、会社全体の問題になるということだった。彼女は、それを踏まえた上で言っていたし、そうなると私が断る理由など、個人の内では一欠片も見当たらない。
「幸い、地点が集中してるから、積雪を理由に、それほど会社に迷惑もかからないんじゃないかな」彼女は、何も言い出さない私に向かって、洞穴の奥で身を潜める野生動物へ声をかけるように優しく言った。
知らない間に俯いていた顔を上げ「私は正直、それでも、迷惑がかかってもかからなくてもどちらでもいいんです。もちろん、かからなければかからない方がいいし、そうするために努力します、だけど、もう、そんなことをしたら何か、終わっちゃう気がして、しかも、たかだか電話で、誰かも分からない人からの意味の分からない電話で」と言った。私の声はうわずっていた。
「でも、もう半年くらいになるんでしょう?、ユカコさんもいたずらとは思えなくなってきてるって、私も、今聞いたばっかりだけど、そうは思えないよ。仮にいたずらだったとしても、何の意味もないようなものではないんじゃない?、その、アドバイスを無視して、そうすると何が起こるのかは分からないけどさ」
店の中はやけに静かだった。誰もいない。やかんの蓋がぱかぱか鳴る音と、蒸気が漏れる苦しげな鼾のような音だけで、あとは何の音もなかった。くすんだ窓からは通りが薄い黄土色に見えた。相変わらず誰も歩いていないし、風に流された木の葉一枚すらない。
「そうですね、うん。本当に、すみません」とだけ言うのに長い沈黙を必要とした。
「雪がめちゃくちゃ降ることを願っとこう、なるべく嘘の割合が少なくなるように」彼女は楽しそうに笑って、私の肩に触れた。
宿までの道々、私たちは雪を投げ合いながら歩いていた。寒さは、私たちがこれ以上何かを思い煩うことを肉体的に止めた。商店街を通り抜けてから、シイノさんは屈んで雪を丸め、私の頭に投げた。ぼそっといって崩れ、私もその場にしゃがみ込んで雪玉をつくった。私が体を落とすのと同時に彼女は走り出し、こっちを向いて、さあ来い、と言った。唇の左端だけで笑うシイノさんは、雪合戦が始まったことを忘れるくらい町から浮いて見えた。しばらく見惚れているうちに、いつの丸めたのか、ふんわりとした雪玉が顔に当たった。
スピードはないのに的確に当ててくるせいで、私はどんどん真っ白になっていた。シイノさんは身軽そうに避けている。五回に一回くらいしか当たらなかった。このーとか、おりゃーとか、何とか言いながら雪を丸めては投げ、反響する二人の声を聞くと余計にうきうきと雪合戦にのめりこんでいった。
汗だくになった体の火照りを落ち着かせようと、暖房をかけたまま出た部屋へは戻らず、シイノさんが泊まるはずだった部屋のベッドに寝転んだ。火のついていない煙草をくわえ、天井のしみを一つずつ見るくらいしか、することはなかった。子供の頃、自然に近くにあった遊びは、大人になってからの方が楽しかった。そのほとんどが、思い出せないくらい久しぶりに興じる、その割りに以前よりうんと上手く遊べる、という二点に支えられていた。それにしてもシイノさんは上手だったな、と思い返していると、知らず知らずくっくっと笑えてきた。
彼女は手を頭の上に挙げて眠っていた。じっと耳から鼻にかけてを見つめ、何となく、今だ、と思ったタイミングで起き上がって眼鏡をそっと取った。音を立てずにサイドテーブルに置いて、窓枠に座って町を見下ろした。こんな高い建物はなかった。せいぜい十階程度の建物だけど、以前は町全体で市役所が、縦にも横にも、最も大きな建造物だった。その次に博物館があって、あとはまちまちだが、道の駅だろうか。
私は連絡先を開いて、一方的に知っている電話番号やメールアドレスを見ていった。そのどれもが、今でも使われているのか、私には分からない。二人の妹や両親、何人かの友人とモリイチ、高校時代のバイト先、見慣れた数字の羅列や英数字の連なりに、感慨のようなものはなかった。試しにモリイチの電話番号にタップしてみたが使われていなかった。私は少からぬショックを受けたが、私自身がもっと前に彼らに対して行ったことでしかなかったし、彼らには変更時点で知らせる術すらないのだから、同じことではなかった。
そのままシホに電話をかけ、ごく短い期間で聞き慣れたアナウンスに耳を澄ました。それからアサギにかけ、彼女は不用心にもワンコールで出た。
「もしもし」
「久しぶり」
数秒の沈黙、幼いアサギが私のスカートの裾を掴んで離さなかった頃を思い出した。
「姉ちゃん?」
「急にごめんね、元気?」
さっきよりも短い静寂、彼女は怒っている様子はなかった。ただ呆れているだけだろう。
「うん、シホが怒ってたよ」
私は一番下の妹とは仲が良くなかった。それは彼女が物心ついた頃から、私が町を出るまでそうだった。歳が離れているからか口喧嘩すらしたことはないが、こっちの方は歳の差は関係がないように思うのだけど、何かが通じるような瞬間も、一度もなかった。
「シホは、うん、そうだろうね。二人とも美草にいるの?」
「私は引っ越したよ、結婚して、子どもも二人いるし」
「そっか、おめでとう」
「姉ちゃんは?、元気、というか、大丈夫?」
「うん、仕事でこっちに来たから」
訊くと、アサギは私の住んでいる場所から数駅のところに住んでいた。そう知ると、会わなかった時間が膨張していくような気がした。「今度会いに来てよ、子どもに」と彼女は言って、唐突に電話を切った。
シイノさんは寝返りをうって背中を向けた。
雪が降りだしている。少しでも風が吹くと、ふわふわと上昇していくような柔らかく軽い雪だ。車の往来が増えている。夕陽がシイノさんの背中を赤みの強い橙色で染めている。照らされた雪の粒も、その小さな結晶の中心部が鮮やかに色付いていた。透明な膜に包まれたオレンジの球体に見えるものが窓の外で舞っている。遠く連なる山々の、ここからちょうど真ん中に見えるガガ山の、その背後にすっかり陽が落ちるまで、飽きることなくその光景を眺めていた。
久々に見る本格的な雪景色は、悪くないな、と思えるほど私から遠く離れていた。そこに含まれていた私から、私が考えていたよりもとっくに、計れないほどの距離があった。いつだったか、まだ小さなアサギが転んで泣いていた公園も、彼女と上った物見台も、祖母の家も、そこに遊びにやって来た猫たちも、モリイチが寝ていた博物館も、実際に経た時間よりも、どれだけも隔たれている。
山の後ろから滲み出た光のみで、ほとんど真っ暗になった部屋の中、濃淡の影に覆われたシイノさんの顔をぼんやりと見ていた。彼女は仰向けになって、ガッツポーズみたいに手を投げ出している。濃い方の影は、私の投影だった。見えれば見るほど、一体何にこれほど強く惹かれているのかが分からなくなった。何もかもが好きだとも思えたし、どれもこれも嫌いではないし好きでもないようにも見えた。それでも、分からなくなっていても、どの部分にも引きつけられて目を離せなかった。視線はそれぞれの部分と輪郭を行ったり来たりした。
光が届かなくなってから彼女を起こし、何か買いに行きましょう、と声をかけた。彼女は目を擦ってから眼鏡を探し、サイドテーブルからそれを見つけた。
この寒さの中、歩いて行ける距離に店はなかった。
外よりも寒い車の中で震えながらエンジンをかけ、のろのろと走り出した。夕方から夜にかけて急激に下がった気温のせいか、路面の雪は昼間よりも固く締まった箇所が増えていた。両手でしっかりとステアリングを握り、いつもより前傾姿勢で辺りを見やった。ラジオを流し、適度に気が抜けるようにいつもより少しだけ音量を上げた。
しょっちゅう来ていたスーパーは改装されて面影もなかった。駐車場はいつも何故かいっぱいで、時間帯を間違えると道路の脇で伸びた列に加わることになる。今度は、目の前で空いたスペースに滑り込むように車を入れ、駆け足で店内へ入った。
私たちはしばらく惣菜コーナーの辺りを見ていたが「これは駄目なんじゃない?」とシイノさんは言った。
それから店内をうろうろと歩き回り、食べたい物が見つからないままカップ麺を買うことにした。二人ともシーフードを手に取り、おにぎりくらい食べたいね、と生産地を見ていると、一体私たちは何をしてるんだろう、という気になった。シイノさんは結構ラフに楽しんでいるようにも見えたが、私は少しだけ苛々していた。美草に工場があるのかは知らないが、仮にあったとして、そこで作られたコンビニの商品はセーフなのかどうか。きっと大丈夫なのだろう。しかし確かなことはほとんど何も分からなかった。
レジの店員と話しそうになり、シイノさんが私の肘に触れた。言葉を飲み込んで頷き、首を降ったりまた頷いたりして、カゴを持って荷台へ寄った。
車に戻ってからシイノさんは小さく吹き出して、「ユカコさん、めちゃくちゃ危なかったよ」と言った。
「シイノさん楽しんでますね」
「うん、なんか、ミッションみたいでいいじゃん」
「気をつけないと」
「うん、私も注意して見ておくよ」歯を見せずに笑って、私も気を付けなきゃ、と言い足した。
それに、私は長くここを離れていたが、ここで生まれて育っていた。シイノさんは私と話してはいけないのだろうか。もちろん、そんなことなら電話で伝えるだろうが、そんなふうに、厳密になればいいのか、その必要もないのか、それもいまいち分からない。電話越しの声音や話の断定の仕方からすると、私たちがアドバイスを無視することで起こる何かは、私たちに大きな影響を与えそうだったし、ルールはきっちりと守った方がいいように思える。しかし、その曖昧な態度や言葉の選び方からすると、どれもこれも適当にしていても、何も大きな問題へは発展しないようにも思えた。
小さなケトルで湯を沸かした。シイノさんは、お先にどうぞー、と言っておにぎりにを一口で半分くらい食べた。そういえば彼女はいつも食べるのが早かったけれど、一口ってそんなに大きいんだ、と思っていると湯が吹きこぼれた。
三分待っている間に彼女の方の湯が湧いて、食べ終わったのはシイノさんの方が先だった。彼女は窓際に椅子を持っていき、本を読みつつ時々、目を休めるように外の景色を見つめた。雪は降っていないが、街灯のあたりはけぶっているように見えた。
彼女が本を読んでいる間にシャワーを浴びて、薄手のパジャマに着替えた。
私が部屋に戻ると、言ってよー、と言いながら浴室へ入っていった。置かれたままの椅子に座って、煙草をくわえてから吸うのをやめた。ベッドに入って『城』の同じ段落を何度も読みつつ、彼女を待った。小さな鼻歌が壁の向こうから聞こえる。何日か前にCMかどこかで聞いたことのあるメロディだったが、ずっと昔にも同じような場面で聞いたことがあるような気がした。少し長いタイトルの、真ん中だけが思い出されていた。
彼女が上がってから歯を磨き、ベッドの中でぼんやりと今日を思い返していた。
ガガ山というのは、この町のどの世代の人も口にする愛称で、私は正確な名前を未だに知らない。その言葉は初め、祖母の声で聞いた憶えがある。「ガガ山へは一人で行っちゃいけないよ」
「ガガヤマ?」と幼い私は言って、頭の上の祖母の顔を見た。縁側に座る祖母の足の上に座っていた。まだアサギもシホもいなかった頃だ。私は毎週末になると祖母の家に預けられた。買ってもらった小さなジョウロで草木に水をやり、同じようにまだ小さな野良猫たちに餌をあげた。当時はミミタレとミミの他に、ゴマシオとクルミと呼んでいた猫もいた。もう名前を忘れてしまったのや、名前も付けていない猫もたくさんいた。祖父は朝早くからどこかへ出かけて、夕方になる前に戻ってきた。私は祖母に出汁の取り方や野菜の処理の仕方を教わり、簡単な料理ならうんと小さな頃から作れるようになっていた。和物だとか漬物だとか、そんなところだ。
「お山さんだよ、ガガ、山」
「どうして一人で行っちゃ駄目なの?」
「ガガ山にはね、傷付いた神様がたくさん休みに来てるんだよ』
「傷付いたって?」
「うーん、疲れちゃったってことかなあ、ユカコちゃんもたくさん遊んだ日は、ふーってなるでしょう?」
「なるー」
「それで、神様はガガ山のあちこちで休んでるの」
「じゃあ一緒に遊んであげる」
「それは、ユカコちゃんは優しいねえ、でも神様は本当に本当に疲れて、少しでも休みたいんだよ。それにこんな元気なユカコちゃんが遊びに行ったら食べられちゃうかもしれないよ」
「やだー、どうして食べちゃうの?」
「ユカコちゃんも、おじいちゃんもおばあちゃんも毎日ご飯食べてるでしょう?」
「うん」
「美味しいのやあんまり好きじゃなないのや、お魚やお野菜、お肉だって何だって食べるでしょう?」
「お肉好き」
「うんうん、今度はすき焼きでも食べようね」
「やったー、覚えててねー」
祖母はそこでしばらく黙って「神様も色んなものを食べてるの、だから、一人で行っちゃ駄目だからね、約束できるなら来週はすき焼きにしましょう」と言った。
「約束するー」私は言い付けも約束も守って、今に至るまでガガ山には行かなかった。モリイチと町中を巡った時でさえ、近付きもしなかった。彼は、そんなん迷信やろ、と言った。
「ユカコが一緒に行かんのやったら、俺一人やん、それはええの?」彼は私を試すように笑って、それから真顔になって目を見つめた。
「名前」私も彼の目を見返し、「それなら行かなきゃいいじゃん、そこだけ行かないからってどうにもならないよ」
「そんなんやったら意味ないやん、それなら、あそこは畑しかないしやめとこ、あっこは田んぼしかないしやめとこって、これ自体の意味がのうなるやろ」
「だから、初めから意味ないって言ってるじゃん、そもそも意味なんてないよ」
「例外はなしや」
「それじゃあ、お好きにどうぞ」
彼にしては珍しく、明らかに焦っていた。私はストーブの前の椅子に座り、彼はカウンター下の作り付けの机の上でトランプを組み上げていた。その年の冬はよく雪が降った。私たちはアルミホイルでみかんを包んでストーブの上に置き、その待ち時間に話していたのだった。珍しく、と思ったがそれは間違いで、私は彼が焦っているのを見るのは、出会った六歳から十年間で初めてのことだった。
「近くまではついて行くよ」と言って飛び出したアルミホイルの端を開き、みかんの様子を見た。
五段くらいになっていたトランプに息を吹きかけて崩し「よっしゃ」と言って回転椅子の向きを変えた。
シイノさんは暖房を調整してから裸のままでベッドに入ってきた。ひんやりしていて、抱き締めると温かかった。
しばらくそうして、彼女は「読んであげるよ」と言った。私は彼女の顔を見てから手を離し、『城』を渡した。
「ここまでも読めたことないなあ、『Kはいささかあっけにとられたような顔つきでその場に立ちつくしていた。オルガは、それを笑って、彼をストーヴのそばの長椅子のところへ引っばっていった。彼女は、こうしてKとふたりきりで腰をかけていられることがうれしくて、ほんとうに幸福そうに見えた。しかも、それは、平和な幸福であって、たしかに、嫉妬の影にくもらされてはいなかった。Kは、こうして嫉妬からまぬがれ、手き』」私の意識はそこで途絶えた。
陽が昇っていない時間に目が覚めた。シイノさんは眼鏡をかけたまま丸まって眠っていて、本はしっかりとサイドテーブルに置かれていた。水気のある夜の暗さが部屋の中で揺らいでいる。手を動かせば、明るくなったり暗くなったりしそうだ。そっとベッドを抜け出し、窓辺へ寄った。月は見えなかったけれど、外はまだ月光で照らされていた。ちかちかと明滅する街灯のシェードにも雪が積もっている。車の上にも、嵌め込まれた窓の向こうの細い枠にも、町中の至る所に雪が積もっている。どこもかしこも、最後に見たときよりも数センチは高くなっているようだった。このまま降り続いてくれれば、ガガ山の辺りの地点を飛ばすのは簡単だろう。しかし、それが簡単になればなるほど、他の地点での調査や作業はすべからく困難になることを意味する。
冬になれば雪が降るというのは、町を出るまでは疑いようのない摂理の一つだった。もっと単純に、吸い込めば体の中がぴりぴりと痛むような寒さになれば、いつ雪が降ってもおかしくはなかった。町はいつも静かだった。固く短い音以外は雪に吸い込まれていった。あらゆることにかかる時間が延びる。毎日一時間ほど歩いて学校へ行き、帰ってくると雪かきをしてから、バイトまでの時間をモリイチと過ごした。大抵の場合彼は、家の前まで迎えに来てくれた。自分で編んだという、三人でも何とか巻けそうくらい長大なマフラーは、何度見ても笑えた。どこも均一な網目でしっかりとしているのだけど、目の下辺りまで覆われ、肩幅以上に膨らんでいるのを見るとおかしかった。「半分で切って、ちょちょっと編み直せないの?」と言ってみたが、「この暖かさを知っても、おんなじこと言えるか?」と、手早く解いたマフラーを私の首にぐるぐると巻いていった。彼が巻いている時には垂れた両端は肩甲骨にかかる程度だったが、私の場合は腰を少し過ぎた辺りまで垂れた。その日は別れるまでそのままで、確かに、とてつもなく暖かかった。熱はどこへも逃げていかないし、どんどん生まれていく。博物館でのバイトは、冬の間はほとんどが休みだった。そういった時期、月に一回か二回か、それくらいしか実際に学校へ行く必要のない彼は、よく私のバイト先へ顔を出した。よく、というのは七日間のうちで六日か七日訪れるという意味だ。
高校と家の中間に、『VONT』という割と大きな喫茶店があって、私はそこで三年間働いていた。朝は八時から、夜の二十三時まで営業している、この辺りでは考えられない店だった。カウンター八席と二人席が三つ、三つの角に四人がけのせきがある。店主の夫妻は、私をユカちゃんと呼んで可愛がってくれた。入学式の日に面接へ行って、卒業式の日に辞めた。
土日は朝からほとんど暇もないくらい忙しいのだけど、平日は身震いがするほど暇だった。五日間は毎日十七時から二十二時まで働いて、二十三時まで勉強をするか遊びにきたモリイチと話す。大体は彼と話すことになった。それまでの暇な時間に、課題やら何やらは済んでいることの方が多かった。
シラキ夫妻は「暇な時間は好きにしててよ、何か思いついたら降りてくるから」と言って二階の自宅へ篭り、三年間でそのようなことがあったのは数えられる程度しかなかった。平日はユミさんと二人になることが多かった。そういうときジュンさんは二階にいて、棚を作ったりブレンドを組み直したりしているらしい。私はどちらと働くのも好きだった。だから休日は、何か別のことをする暇がなくとも出来る限り店にいたかった。ジュンさんは店に降りてきているとき、たいてい隅の席で分厚い本を読みながらコーヒーを飲んでいる。そんな姿をカウンターの内側から見ていると、お客さんにしか見えなかったし、実際、何か用があってこちら側に来るとき、え、と思うことが多々あった。
モリイチは朝も夜もカレーライスとホットのセットを頼み、コーヒーを何杯かおかわりした。ユミさんもジュンさんもモリイチを気に入って、試作段階のデザートや料理を食べさせていた。モリイチは、ジュンさんの席とは対角に位置する席に座った。窓際の席で、本を読んだり何かを書くのに疲れると、背もたれに肘をのせて外を眺めていた。降っている雪と積もった雪か、積もった雪だけしか見えないはずだが、彼は熱心に何かを見つめ続けていた。ただぼんやりと、そこにある雪すら見ていないような、焦点がどこにも合っていないような、そういった視線ではなかった。私はお皿やカトラリーを磨いたり、自分が飲む用にコーヒーを淹れたり、課題に向けた集中が途切れたりすると、そんな彼を見ていた。何かを呟いているように見えることもあった。唇が小さく震え、形作られている。
私が仕事を終えて向かいの席に座ると、彼は顔を上げるか向けるかしてにこっと笑い「お疲れさん」と言った。そのときのモリイチの笑顔は、父親や母親が私に向けるものよりも、厚くて優しいものだった。知らないうちに強張っていた部分が柔らかく力を抜いていく。私は唇の内側を噛んで一瞬だけ目を逸らし、ありがとう、と言った。毎日繰り返されているはずなのに、私はその、あれこれ切り盛りしていた時間からモリイチとの時間へ移行していくその瞬間に慣れなかった。いつもに比べて穏やか過ぎたし、あまりの強度に心配になった。いつかモリイチの中の、その笑顔をつくり出す何かがぽっきりと、そのあと、粉々になってしまうんじゃないかと思った。
ちらっと振り返ると、シイノさんは同じ体勢のまま反対側を向いていた。丸まった背中は焼成前のパン生地のようにつるつるしている。陰影の加減で、捻れてはいけない方向に捻れているようにも見えた。
稜線が、白色や赤色の混ざった濃いとも淡いとも言える橙色に輝いている。数分も経たないうちに太陽が現れ、光が一直線に部屋の壁に伸びた。カーテンをぴったりと合わせ、アラームを確認してから、シイノさんを後ろから抱いて瞼を閉じた。
眠りは私の体を落下させた。球状に浮かんでいるゼリーのような、水のような何かへ私は入り込み、その衝撃で対流が起こった。私の体は突き上げられるように弓形に浮かび、再びゆらゆらと落ちる前に真っ暗になった。
アラームの音を聞いたような気もするが、シイノさんの声で目が覚めた。
買っておいた菓子パンを食べ、インスタントコーヒーを分け合い、荷物を適当にまとめた。
「明日からは二泊か三泊か、同じところだよね」
「そうですね、三泊です」
「それ以降で、泊まるところ見てたんだけど、数が少ないからどうしようかなって」
「ああ、そうですね、移動で多少時間かかっても連泊でいいと思います、というか地点近くで考えると一つか二つくらいしかないですよね?」
「うん、仕方ないけど、大変そうだね」
「連泊の気楽さを楽しみましょう」
フロントガラスに積もった雪を払い、デフロスターが効くまで車内で抱き合って震えていた。思えば私は、住んでいた頃も妹たちや両親に比べて極端に寒がっていた。転校生のモリイチの方が寒さには強かった。シイノさんの体はすぐに熱を帯び始め、私の体はいつまでも冷えたままだった。
「今日は二地点、よろしくお願いします」
「うん、雪結構すごいけど道から近そうだね」
「そうですね」
いつもより二十分ばかり遅く出発し、大した距離でもないのに時間がかかった。私たち以外の車は普段と変わらないスピードで走っていたし、大半の道は、びくびくする必要もないのは分かっていたが、本格的な雪道での運転に慣れなかった。いくつものカーブや下り道は冷や汗をかかせたし、早く少しでも慣れておかないと、山道があるんだぞ、ということにも嫌な汗が流れた。
のろのろと林道を上り、駐車位置に着いたのは昼前だった。想定していた倍くらいの時間が過ぎていた。
さくっと着替えを済ませて山に入り、荒れた作業道をひたすら歩いた。冬の山の静けさは記憶に残っていなかった。これだけ広い空間が成立するために必要な音が足りないような気がして、間違った場所に来たんじゃないかと落ち着かなかった。歩くごとに、それまでいた場所から切り離されていくようだった。
スノーブーツのおかげで、普段と大して変わらないペースで歩くことはできた。多少地図の読み取りづらさは増すが、まだまだ問題はなかったし、シイノさんはわざわざそんなことを考える段階でもないように見える。
いくつか鹿や猪の足跡を見つけ、写真を撮った。記入することを頭の中に留めながら歩き、何本かの倒木を避け、数分の藪漕ぎの後、地点に着いた。二手に分かれて円形に指示された範囲を歩いた。
靴底に張り付いた雪が踏みしめられ、数歩ごとに歩く感触が変わった。意図的にも無意識的にも高く膝が上がり、体力を消耗していく。シイノさんの気配を感じなくなる瞬間がいつもより早く訪れ、前後感覚も距離感もすぐになくなった。数十歩後ろにある杭まで、地図を見ずに戻ることも難しそうだ。三メートル四方の地点を適当に選び、そこに積もった雪をかき分けた。植生をチェックして書き込み、足跡を辿って戻った。
シイノさんは、立ち枯れかけた太いホオノキにもたれて煙草を吸っていた。私は少し駆け足で杭まで戻り、車まで戻らずにこのままここの道に合流しましょう、と地図を指差しながら言った。
車に戻ったのは十四時を少し過ぎたあたりだった。
温かさを逃さないよう、しばらくは着替えずに運転した。シイノさんは青盤に合わせて歌っていた。話し声よりも優しいけれど乾いた声が心地好かった。発音の良さについて訊ねると、小学生の頃あちこち引っ越してたからね、と答えた。シイノさんの父親は、輸入食品を扱う商社に勤めていたらしい。その関係で彼女は六年間の間に五回も引っ越し、どこでも英語さえ話せれば特段の不自由はなかった。中学一年からこっちの学校へ通うようになった。今では読み書きは、何故だか、一般的なレベルかもしくはそれ以下になっているらしい。会話や発話に関しては、しばらく続けているとほとんど問題のない状態まで戻るということだった。
「頭で覚えてることと、どこでだか分かんないけど、ま、体で覚えてることの違いなのかな」
「どうなんでしょう、別の言語を真剣に勉強したことってないからなあ」
「話したりすることだけは、ほんの少しずつ元に戻るというか、昔くらいになるまでの時間がかかるようになってきてるけど、一定の水準から下には行かないんだよね」
「読み書きは、こっちに来たてくらいの頃は得意だったんですか?」
「うん、めっちゃ得意、というか普通にすらすら、でもよく考えてみたら長い文を読んだり書いたりしたことよりも圧倒的に、比べられないくらい話す時間の方がたくさんあったね」
「単純に通過した量の問題なんですかね」
転校してきてからのシイノさんは、一ヶ月ほどはクラスの人気者だった。それからだんだん、彼女もそこにいた子供たちも、互いに距離を置くようになった。はっきりとした理由はもちろん何もなかった。彼女はそれについて、悲しく思ったような気もするけど、と言っていた。彼女は日本語をもっとしっかり勉強するために図書館へ通い、本を読むことにのめり込んで言った。学校の授業は、彼女にとっては簡単過ぎた。保健室か図書室で多くの時間を過ごし、卒業すると二人の先生以外に思い出せる人はほとんどいなかった。高校生になると彼女は電車に乗って通学することになり「そこでどれだけ読んだか分かんないな」と、最良の思い出を話し聞かせるみたいに言った。
五日目、チェックインの時間ちょうどに宿に到着した私たちは疲れ果てていた。ついさっきまでの地点の厳しさがその原因の大半を占めていたが、二人とも体がまだ雪山に順応していなかった。
部屋に入って荷物を下ろし、そのままベッドに倒れ込んだ。二人とも、あーとか、疲れたーとか言って仰向けになったりうつ伏せになったりを繰り返していた。目が回ったように、疲労が体の中を巡っている。油を差していない機械を無理に動かしたみたいで、あらゆる関節部が軋んでいる。
二時間ばかり、起き上がろうとも思えないままだらだらと過ごしていた。ほとんど話しもしなかった。瞼を閉じて、何かが過ぎ去っていくのをじっと待った。先に起き上がったのはシイノさんで、「コンビニ行くけど何かいる?」と、割りに軽やかな声音で言った。上半身だけを起こして首を鳴らしたり、指を組んで背中をゆっくり伸ばしたりした。私も行きます、と言って立ち上がり、そうすると意外にも体は楽になっていた。
歩いて五分ほどのコンビニで夕食や明日以降の軽い食べ物やら飲み物やらを買い込み、部屋に置いてから少し歩くことにした。
昨日から雪は止んでいて、緩くなった積雪が至る所で崩れていた。通っていた高校の前を通り過ぎ、それから思い出した。校舎や体育館が改装されていたせいで分からなかった。どちらも真新しく、溶けた雪の反射で輝いていた。大きくなっているはずだが、辺りに積み上がった雪のせいだろうか、縮こまっているようにも見えた。
学生時代の話を聞きたがったシイノさんにあれこれ話していると、不意にバイト先の喫茶店の前に出た。私は自然に立ち止まった。記憶に残っていない路地を歩いていて、急にあまりにもよく知っている場所へ出ると、若返ったような、年老いたような、そんな気がした。
「これ?」と彼女は言って、奇しくも、と返すと「行こうよ」と手を取って歩き出した。
外観や内装に大きく変わったところはなかった。オーブンが新調され、いくつか棚が増えているくらいだ。ジュンさんはすぐに私が気が付いたようで、あ、と言ってから店の奥へ行ってしまった。私たちは四人がけの席に挟まれた、窓際の二人席に座った。ちょうど私の方から、モリイチが座っていた角の席が見える。今は私たちの他には誰もいなくて、そこにももちろん誰も座っていなかった。
ジュンさんはユミさんを連れて来て、二人の間には小さな男の子がいた。
立ち上がって二人の顔を見て「お久しぶりです」と言った。
「びっくりしたよ」ジュンさんは一切表情を崩さずにそう言って、「ユミとソウ」と二人を見やった。
「覚えてますよもちろん、ソウくん初めまして、フクヤユカコです」
ユミさんは淡く笑っていて、男の子の肩に触れて、何て言うの?、と促した。
「シラキソウです、四歳になっています」と彼は言って、その言い方にジュンさん以外の三人は軽い緊張が砕けたように顔をほころばせた。ジュンさんは相変わらず表情が読めない。あ、と言ったときだって、そう言っただけで何を思っていたのかは分からなかった。
二人を残して彼はキッチンへ入り、どうする?、と声をかけてくれた。ユミさんは、ゆっくりしてってね、と言ってソウくんを連れていった。さっとメニューを見て、カレーとホットのセットを二つ頼んだ。
「ここで働いてたんだね、ユカコさん」
「うん、高校の三年間だけですけど」
「入学式の日に来て、卒業式の日に辞めてったよね」ジュンさんは口角を上げて言ったけれど、笑ってもいないし、だからといって腹を立てたりしているわけでもなかった。カレーを温めている間に、コーヒーを淹れる準備をしていた。
「その節は、すみません」
「いやいや、君はいつもはっきりしてて気持ちよかったよ」
「ありがとうございます」
「ユカコさんは昔から今のユカコさんに近かったんだね」シイノさんがそう言うと、ジュンさんはドリッパーに向けていた視線を彼女に向けた。今、そこにいることに気が付いたみたいに彼女をしばらく見てから、私の方を向いて、それから視線を元に戻した。
「君は、ユカちゃんが仲良かったモリイチって子に似てるよ」彼はサーバーに落ちていく抽出液を見ながら言った。
「そうですか?、そうかな?」シイノさんは広い場所に出た小動物みたいに顔を左右に振った。私は、確かに、彼女を見ているとモリイチを思い出すことがあったが、何がどう似ているかということは相変わらず分からなかった。
「うん、何となくね。もちろん見た目が似てるわけじゃないし、モリイチは関西弁で話してたしね、何だろうな、君もモリイチも、見てると不思議な気持ちになるよ」
「不思議な気持ちですか」
大ぶりのマグにコーヒーを注ぎ「そこにいたりいなかったり、そう見えるな、今はいる」そう言いながら、私たちのテーブルにそれを置いて戻った。
「どういう意味だろう?」シイノさんは私の目を見ながら小さな声で言った
「気にしなくていいですよ、ジュンさん、昔からあんな感じです」私も声を抑えてそう言って、働き始めて間もない頃に突然「出てくときには店の何かやるよ」と言われたことや、初めてモリイチが店へ来たときに「二人はなるべく離れない方がいいよ」と言ったことを思い出していた。
運ばれてきたカレーは、私が働いていた頃よりも格段に美味しくなっていた。使われているスパイスの種類にはそれほどの差があるようには思えなかったが、それぞれの質や使い方をずいぶん変えたのだろう。当時の私は、これ以上美味しくすることは不可能だと思っていたし、実際にそんなふうなこと言ったこともあった。ジュンさんは「いや、まだ上はあるよ、今はこれが限界だけど」と言っていたが、まさにその通りだった。二人とも驚いたような顔を見合わせ、美味しいね、と言い合った。ジュンさんはキッチンとカウンターの隣の、馴染んだ隅の席で本を読み出していた。私はその光景の変わらなさに、無意識にシイノさんの肩越しに奥の席を見ていた。
食べ終えてから、大福とコーヒーのセットを頼んだ。
ジュンさんは「これ、めちゃくちゃ美味いよ」と言って、小さな大福が二つずつのった小皿と薄口のグラスに入れたコーヒーを静かに置いた。元の席に戻って本を開くのを見届けて、黒文字の菓子楊枝を手に取った。ふっくらとした大福は、それぞれ粒餡とこし餡が包まれていた。粒餡は餅が薄く、それでいて歯応えがはっきりとしている。ぱつっ噛み切れて、それは餡の中の薄皮の食感に近い。こし餡はそれとは逆に少し厚めの餅で包まれていて、穏やかな甘さだった。ほとんど舌触りだけの印象から徐々に甘みが立ち上がり、ピークを迎えるのと飲み込むまでの時間が大体同じで、後味は長めに残った。さっぱりとしているが濃く出されたコーヒーとよく合う。カレーもそうだったけれど、セットである意味がよく分かる。私たちはしばらく何も話さないでコーヒーと大福の組み合わせを味わった。
帰り際、シイノさんが先に店を出て私も続こうと、彼女の手を離れて緩やかに閉じていく扉に触れるか触れまいかのあたりでジュンさんに声をかけられた。私は振り返り、背後で扉が閉まる音と「え?」と言ったのが同時で、改めて「すみません、聞こえなかったです」と言った。
「これは、前にも言ったけど、二人はなるべく離れない方がいいよ」と彼は言って、「モリイチよりもそう思うな」と付け足した。
「ジュンさんにはいつも何が見えてるんですか?」
「別に何も」
「気を付けます」と私は言って、店を出た。
シイノさんは、また来ようよ、と言って腕を組んできた。私は「そっか、連泊ですもんね」と言って、歩き出した。
私たちは翌日を全休にして、朝から祖母の家や実家を見て回った。どちらも外から眺めただけだったけれど、ほとんど何一つ変わっていなかった。シイノさんは、寄ってかないの?、と言ったが、私が短く「はい」と答えると何も言わずに何度か頷いた。
久々に朝から晴れ渡っていた。所々に雲は浮かんでいるものの、どのような気配もないただの真っ白な雲だったし、何もない青空よりもかえって清々しく見えた。私たちはわりと薄着で車に乗り込み、あてもなく適当に流していた。見たところどこも何一つ変わっていなくて、精巧な模型を眺めているような気分になっていった。どこへも降りずにいたからかもしれないが、それにしたってあまりに代わり映えがない。
結局は建設されたダムを見るために、スーパーの駐車場でナビを入れて、そのあいだにシイノさんは飲み物を買いに行った。どのような利益がもたらされたのかは知る由もないが、多くの人を直接的にも関節的にも巻き込んで行われたデモもには何の意味もなかったわけだ。私はそこで、何一つ違和感を抱かないまま喫茶店で食事を摂ったことを思い出した。それに、ジュンさんとユミさんはまだしも、ソウくんと言葉を交わしたのは駄目だったのではないか。
お菓子や飲み物で膨らんだ袋を持って歩くシイノさんがフロントガラスの向こうに見える。彼女は何かに気付いてジーンズのヒップポケットに手をやり、iPhoneを耳にあてた。すぐに視線は私に向けられ、私は誰からの電話か知った。
後部座席に荷物を置いてから助手席に乗り込んだシイノさんからiPhoneを受け取り、もしもし、と言った。
「お前らの馬鹿さには驚くよ、本当に、これは貶してるわけじゃない、純粋に感動するくらい驚いてるよ」声は少し前の電話よりもクリアに響いた。
「それはどうも」
「忘れてたとか、思い出したとか、そういうのはなしだって言っただろう」
「そうですね、それは、すみません」
「いや、謝罪はいらないよ、ただ残念なだけだよ」
「私たちはどうなるんですか?」
しばらくの沈黙があり、嗄れた声が聞こえてきた。いつも通り、電話の向こうから伝わる音は、その誰かの声だけだった。それ以外どんな音も、気配もない。どちらかが声を発するたびに電話が繋がり直しているみたいだった。
「もう何もしてやれることはない、答えられることもないし、残念だ」
「あなたたちは誰なんですか」
「我々について語れることは一切ない。シイノミヤに代われ」
私はシイノさんにiPhoneを返した。彼女は目配せしてから、もしもし、と言った。
「はい」、「はい」、「はい」、「でも」、「いえ」、「はい」と続き、私に回ってきた。
「今、シイノミヤにも伝えたが、これからお前たちは、この場所を移動してもらう」
「どういうことですか」
「彼女の方が聞き分けがいいな。これは最後の電話になる、お前たちを逃してやると言ってるんだ」
「何かあなたにリスクがあるんですね?」
「そうだな、でも、それはお前たちの問題ではない。ただ言うことを聞けばいい」誰かは長いあいだ何も言わず、それから小さな声でそう言った。
「でも」
「とにかく聞け」
「分かりました」
「お前たちは今日中にここを出ろ、とにかく出ればいい、お前たちがここですることはそれだけだ、シンプルだろ?」
「私たちが出来ることはそれだけってことですね」
「そうだ、そして、お前は二度とここへ来るな」
「それから?」
「シイノミヤを家まで送って、彼女との一切の関わりを捨てろ、デパートで買ったものを捨て、連絡先を消して、お前は携帯を変える、それからなるべく思い出さないよう、徐々に記憶から消していくんだ」
「嫌です」
「お前になら出来る、お前は珍しいんだ」
「珍しい?」
「普通、人は何も忘れたりはしないんだ」
「そのことならさっき」
「いや、そんなことを言ってるんじゃない、あれはただの度忘れだ。そういうことじゃないんだ、もっと根本的なことだよ」
「よく意味が分からないです」
「例えば、誰かに何年何月何日のことを思い出せ、と言ってすらすら思い出せる奴は、たくさんはいないだろう」
「はい」
「でも、それは忘れているわけではないんだよ」
「ただ引き出せないってことですか」
「そう、つまり、馬鹿みたいに広い空間のあちこちに大小様々な収納があって、人はそこから記憶や思い出とかいったものを引っ張ってくるんだが、それがどの辺りにあったか、そこが分かったとしてどこへ仕舞い込んだか、どうやって開けるのか、ここの鍵はどこだったか、忘れているのはそこだけなんだ」
「そのものがなくなるわけじゃないんですね」
「そうだ、そしてお前が珍しいのは、お前はそういったものを完全になくせるんだよ、しっかり、さっぱり消えてなくなってるんだ」
「仮にあなたの話が正しいとして、それと、どんな違いがあるんですか」
「まあ、まず、それらを思い出す機会を失うということだな。多くの人は、忘れるはずがないと思ったものでも、引き出してこれなくなることがあるが、それはまたいつか引き出してこられるかもしれない。自転車での走り方を思い出せなくても、乗りさえすれば自然と走り出せる」
「他には」
「言っただろう、お前が忘れると、それは、跡形もなく消えてなくなるんだよ」
「よく分かんないですけど、私はそれが意識的にできるんですね」
「そうだ、ある意味で誇れるほど珍しいよ、そんなにたくさんはそう出来る奴はいない」
「でも、どうすればいいか分からないです、本当にそう出来るかも」
「出来る。呼吸みたいなもんだよ、意識し過ぎると上手くできない、流れに乗るとほとんど無意識に、何の問題もなく続いていくだろう」
「ここを出ていくのは、ひとまず、分かりました。ここに二度と来るなっていうのも」
「ああ」
「でもそれ以外には従えません」
「お前たちが間違えたんだろう、もう仕方のないことなんだ」
「まだどうにか出来るかもしれないから電話してきたんでしょう」
長い沈黙があった。ホワイトノイズのようなものさえ聞こえない。耳から離して画面をタップし、切られていないことを確認した。シイノさんは私の顔を見つめているが、見ているというよりは目を向けているだけだった。
「分かった」
「何ですか」
「シイノミヤをここに残していけ、どうなるかは知らん」
「どれくらいの期間ですか」
「さあな、でも今日中に決めろ、それだけは動かせない」
私が何か言う前に電話は切れた。
「どうだった?」
「シイノさんは何を言われたんですか?」
「今日中にここを出ろって、それと」
「私に忘れられる、ってことですね」
「うん、お前も努力しろって」
「それを拒否したら、シイノさんが一人でここに残れとのことでした、どれくらいの時間かは分かりません」
「私はそれでいいよ」
「この電話を信用しますか?」
「それは、何とも言えない。でも無視するには真剣過ぎるというか」
「そうですね」
「ユカコさんは?」
「私は、ここに残って今まで通り仕事します、一人でも、シイノさんは、送ります。今日中に」
「それじゃあ、私も残るよ」
「何がどうなるのか、全く分からないですよ」
「うん」
「他には、何て言われたんですか」
「忘れられることは、お前のためじゃなくてユカコさんのためだって」
電話の主は初めから、私だけを何かから逃れさせようとしているのか、私たちを分断しようとしていた。二人でここを出て私がシイノさんを忘れるのも、同じことだ。電話の後で私たちが話し合い、その結果としてシイノさんがここに一人で残る、なんてことにならないのをよく分かっていた。だからこそ一度目は私の口からシイノさんに伝えさせたのだろう。
「大丈夫?」
「昨日、ジュンさんにも言われたんです」
「ジュンさんに?」
「二人はなるべく離れない方がいいよって、モリイチよりもそう思うなって、なるべくっていうのが今あてはめられるのか分かんないですけど、電話の向こうの誰だかを信用するよりは、ジュンさんを信じてます」
私たちは二人とも携帯の電源を切っておくことにした。そもそも誰からも連絡などないし、会社とのやり取りはパソコンで事足りる。宿へ電話をかけ、これからどのような連絡があっても部屋に繋がないで欲しい、というようなことを伝え、それから電源を切った。
そうすると私たちは、ガガ山の地点をどうするべきか分からなくなった。どうせ忠告を無視するならば済ませておきたかったけれど、気分の問題でしかなかった。無視するならガガ山へ行かなくては気持ち悪い、行かないつもりで数日過ごして今更面倒だ、そもそもの初めからガガ山へは行きたくない、そんな程度だった。
話し合うまでもなく、ガガ山や近辺の地点は当初の予定通りこなすことにして、ダムへ向かって車を走らせた。思えば、美草のダムを見るのは初めてだった。ここへ来て建設されたことを知ったくらいだから当然なのだけど、見落としていたものを確認しに行くみたいだった。
どの道もがらがらだった。私はもう思い煩うこともなく、妙に昂っていた。初めから全て気にも留めないでおけば良かったのだ。シイノさんはバター醤油味のポップコーンを食べながらスプライトを飲んでいた。私は何粒かもらってスプライトを一口飲ませてもらった。彼女はまだ少し考え込んでいるようにも見えた。
「よく分かんないのに、何かを伝えようとしてる熱意とか意思とかだけを感じるのって、あてられますね」
「うん、確かに、頭とか体とかちょっとぼんやりしてる」
「何が起こるでも起こらないでも、二人でいましょう」
シイノさんはしばらく私の横顔を見つめ、大きな声で、うん、と言った。私は声量に驚いて少し体をびくつかせ、それから笑い出した。
ダムまでの峠道は異様な狭さだったけれど、整備だけは行き届いていた。ガードレールも待避所も過不足なく配置されているし、カーブミラーや路面の状態も良かった。雪がなければもっと運転しやすいのだろう。シイノさんは崖下に流れる川を眺めていた。こんな澄んでる川初めて見たよ、と何度か言って、私も見たくてそわそわしていた。
展望台になっている場所にはぱらぱらと人がいた。三脚を立てて写真を撮る男の人と、男女の二人組。車は私たちのを入れて四台で、二人組はそれぞれ別の車で訪れているのだろうか、二人は端に停めてあった真っ赤な車に乗り込んで、峠を下っていった。
私たちは記念撮影をして、各々好きに過ごした。私は離れたところで煙草を吸いながら彼女を眺め、シイノさんは写真を撮ったり風景を見たり、三十分くらいはのんびりと楽しんだ。黒っぽい巨大なダムは、その大きさのせいか、間違ったもののようには思えなかった。あのとき、デモの先頭にいたおじいさんは今どうしているのだろう。一度くらいはダムを眺めに来ただろうか。
写真を撮り終えたのか、五十代くらいの男の人は三脚を畳んでリュックに入れた。ちらっとシイノさんと私を見て、車まで歩いていった。後部座席にリュックを放り投げ、運転席に乗り込んでドアを閉めてからすぐ、外へ出て私のところまで歩いてきた。
「フクヤさんのところの」と言いながら近づいてきた。
見覚えはなかったが「そうです」と言うと、やっぱり、と表情を崩した。
「フジノです、昔お母さんとお父さんにお世話になった」
「フジノ、ああ、何となく、覚えてます」シイノさんは柵にもたれて私たちを見ていた。
「そうですか、ユカコさん、でしたよね」
「はい」
「ご両親は、お元気ですか?」
「さあ、知らないですね。連絡も取ってないので」
「そうですか、また、お邪魔しますね」
「どうぞ」
「それじゃあ、お元気で」
「はい」
彼は車に戻ると、しばらく間をあけて、手を振りながらカーブの向こうへ消えていった。私はフジノという男の人を覚えてはいなかった。私が中学生の頃から高校を卒業するまで、家には私の知らない人がたくさん出入りしていた。そのうちの一人だろうが、今既にどんな顔や見た目だったかも忘れているくらいだから、定かではない。
誰だったの?、と言いながらシイノさんは隣に腰掛け、煙草を吸い始めた。
「私の両親って、今もだろうけど昔、新興宗教にのめり込んでたんですよ、そのときの知り合いみたいです」
「なるほど、ごめん」
「大丈夫ですよ」
「お母さんお父さんは結構、熱心だったの?」
「そうですね、かなり熱心だったと思いますね。大きくはないけど小さくもない団体で、割と初めの方から幹部みたいなポジションに就いてましたし」
「大変だったでしょう」
「私は、そうですね」
「辛かった?」
「いえ、妹が、二人いるんですけど、彼女たちが、何も分からないうちから巻き込まれていくのが、それをどうも出来ないのが」
シイノさんは私の左手を両手で包んで、握る力を強めたり弱めたりした。目頭が熱くなっていたが泣くわけにはいかなかった。結局のところ、アサギも自力で抜け出したのだろうし、シホはどうしているか分からないけれど、彼女なりに何かを選択したはずで、私がその果てで涙を流すのは間違いだった。何もしてやれなかったのなら、もう私が彼女たちを思って何かをする権利はない。
宿に戻る前にVONTへ行った。
この際もう何を食べるのも、誰と話すのも、何も気しないでおこうと決めた。シイノさんもそれに賛成して、私たちはまたカレーとホットのセットを頼んだ。
ジュンさんは買い物に行っているらしく、ユミさんとアルバイトの子がいた。私たちの他に客はいなかった。まだ入ったばかりらしく、ユミさんは奥に引っ込まずに彼女の近くで座っていた。私たちはその日の三組目の客で、二組目から二時間ほど暇があったからか、シイちゃんと呼ばれている子は慌てているように見えた。
「ユカコさんもあんな感じだった?」シイノさんはトーンを落として言った。
「そうですね、半年くらい入ってからやっと一人で任せてもらえるようになりましたね」
「半年か、それって早い方じゃない?」
「どうだろ、多分?」
ユミさんの淹れるコーヒーは、ジュンさんのよりも苦味やコクが前面に出ていて、変わらない傾向というのか特徴というのか、そういったものに私は頬が緩んだ。
私たちがカレーを食べ終える頃にジュンさんとソウくんが帰ってきた。ソウくんは私を指差して「ユカちゃん」と言ってから、ユミさんに抱きつくために走り出した。
また大福が食べたかったのだけど、なくなったということで、ガトーショコラとのセットを頼んだ。ユミさんと入れ替わりでジュンさんがシイちゃんについた。彼女はユミさんといるときよりも落ち着いているように見えたがそれは、私たちに慣れただけかもしれない。
ジュンさんはコーヒーを淹れながら「あ、そうだ」と呟いた。
「ユカちゃん、久々にコーヒー淹れてくれない?」と彼はドリッパーを優しく揺らしながら、目線を上げて言った。
「今ですか?」
「そうそう、大丈夫?」
「全然、何も問題ないですよ」
「じゃあ、お願いします、シイちゃんも飲む?」
「あ、じゃあ、いただきます」
キッチンに入ると、目眩がするくらいの懐かしさが込み上げてきた。急流のような音が耳の奥で鳴り、体が熱くなった。
何度かきつく瞬きをし「何で出しますか?」と訊いた。
「ネルかなあ、濃いのが飲みたいな。シイちゃんは牛乳で割ればいいよ」
「あ、はい。そうします」
「じゃあ、ネルで、豆はどうしますか」
「うーん、揃ってるからなんでもいいや、濃くて美味しければなんでも」ジュンさんは眉を上げ、上の歯だけが見える笑顔で言った。
「プレッシャーかけないでください」つられて笑い、そういえば久しぶりに表情と言葉の合ったジュンさんを見たな、と冷蔵庫を開けてタッパーを取り出した。シイノさんはカウンターに手をついて、そんなやり取りを見ていた。そんなに優しい表情を見たのは初めてに近かった。タッパーからネルを取り出して絞り、木製の取手のついた金属の輪にそれを通した。マンデリン、と書かれたボトルからミルに三十グラム入れ、中粗挽きで挽いた。
「シイちゃん、よく見ときなよ。彼女は昔ここで働いてて、これまでユカちゃんより上手な子は誰もいないんだ」
「あ、はい」
私は、誇らしかったのか、無意識にシイノさんの顔を見た。彼女は歯を見せないでにっこり笑い、何度か無言で頷いた。湯を沸かしてケトルに移し、挽いた豆をネルに落とした。スケールの上にサーバーをセットし、均した豆の上に静かに湯を注いだ。近い日に焙煎されたのだろう、思っていたよりも膨らみが大きい。しばらく蒸らし、輪に添わせた親指と人差し指の熱さに時間の長さを感じた。ドームを崩さないよう、細い湯をゆっくりと注いだ。久々に持つ重いケトルが、それでも体に馴染んでいた。落とす湯の速度も量も、容易にコントロールできる。
小ぶりなマグに一五〇ずつ注ぎ、ジュンさんとシイちゃんの前に置いた。そのままキッチンを出て、カウンター席に座るシイノさんの隣に腰を下ろした。
小皿にのったガトーショコラと大きなグラスに入ったコーヒーが置かれていた。ジュンさんは一口啜り、声を出して笑った。
「すごいな、鈍ってないよ。はい」と言ってシイノさんにマグを渡した。彼女は受け取ったものの、どうしていいのか分からないという表情だった。
「飲みたそうだから」と彼は言って手の平を見せて彼女を促した。
シイちゃんは一口飲んでから牛乳を足し、美味しいです、と言って小刻みに頷いている。近くで聞くと彼女の声は、芯があって通るのだけど、ふわっと柔らかく広がって響いた。
「何かとろっとしてる」とシイノさん言って、ジュンさんにマグを返した。
「ネルだし、マンデリンって豆だしって感じです」私は今更緊張して、三人の顔を交互に見やった。
「一年に何回か思い出してたんだよね、飲みたいなあって」
「それは、嬉しいです、本当に」
みっちりと詰まったガトーショコラは表面が炙られてあった。香ばしいカカオの香りと苦味の強い甘さがさっと過ぎていく。甘みの頂点に達するのが早く、消えていくのも早い。濃厚だけど、どんどん食べられる。標準よりも少し湯を多く注いだのだろうか、苦さと酸味のバランスのいいコーヒーもよく合う。わざとコーヒーから抜いた味の層をガトーショコラが補っているようだった。
宿に戻り、どこに泊まっても大して変わらないのならVONTの近くにしようと、フロントで宿泊する日数を最終日まで伸ばした。予約もなく、私たちは同じ部屋に計九日間泊まることになった。
それから私たちは本を買いに行こうと、ジュンさんに教えてもらった古本屋へ行くことにした。
車で十分くらいのところに古本屋はあった。小さな杉材の看板には『長い船』と書かれていた。話を聞いていなかったら、何屋にも見えないし分からないだろう。三台分ばかりの駐車場に車を何とか停めて、ガラスの扉を抜けた。
十五畳くらいの広さに本棚が三つ置かれている。左右の壁に同じ大きさに、扉の真正面に半分の大きさの棚と奥へ繋がる隙間とカウンターが並んでいる。カウンターには同い年か少し上くらいの歳の男の人がいて、文庫本を読みつつ煙草を吸っていた。
私たちに気が付くと急いで煙草を消してから「いらっしゃいませ」と言って読書へ戻っていった。
左手の半分は旅行記が、もう半分には日記が収められている。右手にはエッセイと小説、カウンターの隣の棚はミュージシャンの書いたものと音楽に関する本で埋まっていた。
私たちは左の棚から順に見て回った。二人とも特に読みたい本もなかったが、どちらかと言えば、普段あまり読まない種類の本を読みたかった。それは私で言えばエッセイの類だったし、シイノさんは旅行記や日記だった。一周回ってから、棚の前で集中して背表紙を眺めた。シイノさんは早速、何冊かの目星をつけて、開いては閉じて棚に戻していた。私は、ある年齢から本屋が苦手だった。量に圧倒されて何を買えば、以前にどれを手に取ればいいか分からなくなる。そうして、何も買わずに帰ることになる。
何冊かを適当に手に取って、一行目と真ん中あたりの文章を数行読むことを繰り返した。それからまた一周して、『そしてカバたちはタンクで茹で死に』を買うことにした。シイノさんはもう既に会計を済ませていて、店主と話しながら煙草を吸っていた。
カウンターの彼の真上には巨大と言ってもいい換気扇が取り付けられていて、それは見るからに後で付けられたものだった。二人の吐く煙は、おもしろいくらいその範囲を出ない。流れ出ようとする煙は、境界を超えると引っ張られたように上昇して消えた。
手に持った本をカウンターに置き、これを下さい、と言うと「あ、失礼しました」と言って煙草をもみ消し、それを取り上げた。後ろの表紙との間に挟まれた紙を確認し、「千円です」と言った。
シイノさんは、「おもしろそう」と言って本を受け取り、ぱらぱらとめくってから手渡してくれた。
「どうぞ」と言って灰皿を私の方へ押し、頭の上を指差しながら「かなり強力な換気扇なんで、この付近にいさえすれば何も気にしなくて大丈夫ですよ」と続けた。
シイノさんをちらっと見てから煙草を取り出して火をつけた。してはいけないことをしている気がしたけれど、本に囲まれて煙草を吸うのは悪くはない気分だった。特に、素晴らしい、というわけでもないけれど、買った本も含めて、より親しくなるような気がした。
彼女は『奇妙な髪の少女』という小説を買っていた。本当は、普段読まないのを買おうと思ったんだけど、と言って、照れたように笑った。
「この作家、知らないですね」
「今はほとんど出回ってないですね、この前スピーチを訳したのが出たかな」
「うん、それは読んだことないんだけど、何かずっと気になってて」
「おもしろいですよ、何で復刊したり新訳が出ないのかなあって思いますね」
「へえ、楽しみだな」
「ここの本、内容もチェックしてるんですか?」
「え、そうですね、店に出す前に一応一回は読みますね」
シイノさんは、大変だなあ、と言ってカウンターを離れた。彼女を目で追いながら煙草を消して、カウンターに背を向けた。彼女はもう一度全ての棚をざっと見てから、行こっか、と言って私を振り返った。
それじゃあ、と言ってカウンターに一度向き直り、彼女について店を出た。
ベッドに並んで寝転んで、買ってきた本を読んだ。さくさくと読み進められる感触は久々だった。数ページごとに『城』を読みつつ、部屋が暗くなるまで黙ってそのままでいた。
集中して本を読んでいると時々、体が組み変わっていくような感じがあった。頭の方はそういう時でも本へ向かって冷静さが保たれていた。体中がむず痒いような気がして、それから火照りはじめる。頭の裏と耳孔からまっすぐ奥で低い音がしばらく続いていた。唾を飲み込んだり鼻から肺を出たり入ったりする空気の音が、体の中から離れなくなる。実際に太腿や二の腕の裏が痒くなり、無意識のうちに掻こうとする指先に、新しい感触と、新しい体の感触があることに気が付く。私は、数十秒前までの私とは違った組み合わせでできていた。全く変わってしまったとか、すっかり新しい人間になったとか、そういった感じはしなかった。何か画期的なことを思いつくわけでも、気の利いたことが苦もなくできるようになったわけでもない。ただ、私を形作っていた諸々が、それ自体はどんな変化もせずに、別の組み合わさり方で私としてそこにあるだけだった。ほんの少し爽やかな気分ではあった。冷ややかな風の吹く草原に一人で立っているような、思いつく限りの邪魔なものは何もない空間で、浮遊感のある昂りを感じている時と同じ爽やかさだった。私はゆっくりとため息をつき、その感覚が全身の隅々にまで行き渡るよう緊張を解いた。シイノさんの体の気配が、いつもよりはっきりと肌に感じられた。その質量の大きさや密度を感じた。彼女だけではなかった。シーツやサイドテーブルや鏡、部屋の中でそれぞれに独立したものは、触れたようにくっきりと理解されていた。
一時間もないくらいの昼寝から目が覚めると、シイノさんは窓枠に座って煙草を吸っていた。手元で開いたままの二冊の本を閉じ、頬杖をついて彼女を眺めた。眼鏡を取るとシイノさんは実際よりも随分若く見える。
彼女は、え、と言ってくわえていた煙草を落とし、慌てて拾い上げたことで指先を火傷した。私も同じくらい慌てて立ち上がり、冷蔵庫に入れてある中で一番冷えていそうな小さいパックの豆腐を手渡してから、どうしたんですか?、と隣に腰掛けた。
「そこ」と彼女は窓の外を指差し、「モリイチくんじゃない?」と言った。
モリイチは小雪の降る中、傘をさして私たちを見上げていた。傘を持った手を上げ、もう片方で私たちを指差した。
「来るってことかな?」怯えたような表情でシイノさんは言った。
「分かんないですけど、降りてみましょうか」
鍵を持って部屋を飛び出し、待ちきれずに四階分の階段を下った。
ロビーに出ると彼はフロントの女の子と話していた。フロントで働いている人とは思えないくらい大きな声で彼女は笑い、ああ来たわ、と彼が言うと真顔になって、私たちを見て軽く頭を下げた。
「久しぶりやな、ユカコ」片手を上げて朗らかに笑いかける彼が、そこに立っていることに馴染めなかった。黒に近い焦げ茶色のコーデュロイ地のジャケットに、同じ素材で少しくすんだパンツで、モリイチがセットアップを着ていることにも、よく分からないけれど違和感があった。
顎髭のあるモリイチが、私の中の彼とは上手く像が重ならない。それでも、その少し傾いた立ち姿や声の質感が、確かに彼のものだと分かると、私は上手く立っていられなくなった。彼はゆっくりと近付いてきながらフロントに笑顔を向け、シイノさんをちらりと見てから私を抱き締めた。
「名前、って言わへんのか?」と彼は耳元で小さな笑い声と一緒に言ってから、私が何か言う前に体を離した。
近くで見ると、モリイチは何も変わっていないように見えた。顎髭はまだ見慣れないが、それでも顔全体での印象は同じだった。
ここで話してもええけど、まあ、上がろか、と言ってエレベーターのボタンを押し、開いた扉の先に私たちを通した。私たちは奥に並んで顔を見合わせ、モリイチの後ろ姿を眺めた。
椅子をすすめ、私たちはベッドの縁に座った。
「ほんまに久しぶりやな」
「うん、元気にしてた?」
「元気元気」
「それは良かった」
「ユカコこそどうなん?」
「私、私も元気にしてたよ」
「そうか。急に連絡取れへんようになるし、どこ行ったかも分からへんし、心配してたんやで」
「ごめん」
「まあ、それはええわ、何かしら事情があったんやろうし」
「うん」
「うんうん、それで、君がシイノミヤさん?」
「えっ、と、はい。そうです」
「ここからお前らを出せって、何日か前に電話あってん」
私とシイノさんは顔を見合わせ、何も言葉が出なかった。
「よう分からんかったけどな。三、四日前かな、そのことを頼むかもしれない、って」
「なのに来たの?」
「まあな、別に帰らんでも、ユカコに会えるかなって、ま、久しぶりに美草の町を見るついでやな」
「それから電話は?」
「昨日の夜、明日、恐らく頼んでいたことを実行してもらうことになる、って。我々の言う恐らくは、決まったことと限りなく近い言うてたわ」
「なるほど」
「それで、どうする?、俺は、よう分からんから一応車で来てるけど、二人は?、旅行?」
「いえ、仕事で来てて」
「仕事か、その、このことっていうか、この一連の流れは知ってんの?」
「はい、一応」
「おっけーおっけー、じゃあ、ま、二人に任せるわ」
まず私たちは、一から順にモリイチに話した。彼は刀鍛冶みたいな真剣な表情で、私やシイノさんの話を聞いていた。
「どう思いますか?」
「どう思うか、まず俺だけやなくて、そっちでもよう分からん感じやねんな」
「うん、どこまでそれに則ればいいか、未だに決め兼ねてる」
「その、現実的に、仕事を今切り上げることはできんの?」
「そうですね、簡単に何のしこりも残さず、って訳には行かないですけど、難しくはないです」
「せやったらどうする?」
五分、十分と相談になっているのか分からない会話を続け、私たちは帰ることに決めた。私はもう、私たち二人だけではどうしようもないと思い始めていた。それは彼女が頼りないとか、私自身が信用できないとか、そういうことではなかった。もっとずっと単純に、私たちではどうすることもできない領域に入り込んでしまっているということだった。私は割と、かなり具体的な目標と適度な運、目標に沿っていると思える細かな努力、それさえあれば何だってできると思っていた。それでも、どんな些細なことであったとしても、私やシイノさんや、モリイチやジュンさん、ソウくんやユミさん、立場や年齢や経験にそれほど関係せず、出来ないことと出来ることの間には、当人だけではどうすることもできない遠方もない溝があるとも、思っていたというよりも信じていた。今回のこれは、時間をかけ、私たちの選択を経て、もうどうしようもなくなっていた。外から来たモリイチをあてにする以外に具体的な策はない。それは今から私たち二人でここを出るといったことも何の意味も為さないほど、当初とは姿を変えていた。
荷物をまとめてロビーに降り、チェックアウトを済ませた。モリイチは「外で待ってるわ」と言って私たちの荷物を持って行った。フロントの女の子は私たちの話、諸事情で仕事の内容が変わり、今日明日中に帰らなくてはならない、といった話を聞き流し、裏に回って誰かに声をかけた。責任者だけが奥から出てきて事情を聞き、面倒くさそうに、キャンセル料を引かずに残りの日数分の宿泊費を返してくれた。
私たちはお礼を言ってから外に出て、駐車場の方へ歩いていった。
モリイチは真っ黒のラングラーのドアにもたれて煙草を吸っていた。荷物はどこへ行ったのだろう。彼は顎をしゃくって後部座席を示し、私は勝手にそこに荷物があるのだろうと、「ありがとう」と言って煙草を取り出した。
「ユカコも喫煙者か」
「やめられないね」
「シイノさんは?」
「私もです」
私たちは車の脇で携帯灰皿を囲んで煙草を一本吸い、「ほな、駅前まで後ろついて走るわ」と言うモリイチと別れた。
「うん、分かった。気をつけて」
私たちは車に乗り込んでから、何か話す気にはならず、黙ったままだった。頭の中で高揚した部分と冷ややかな部分がはっきりと分かれていた。私たち自身はその中間の、ぬるい、ぼんやりとした存在だった。
一時間ほど走ってからやっと思い出したように、すみません、と言うと「大丈夫だよ」と彼女は言った。
「本当に、申し訳ないです。諸々の処理はもちろんほとんどこっちでやりますから、すみません、迷惑かけます」
「ねえ、ユカコさん、会社とかホテルの人とか、業界的なことでは迷惑かもしれないけど、それですら微々たるものだし、私に関しては、本当に何とも思ってないよ、何ともって、その、ネガティブな方向でね」彼女は体を私に向けてからそう言った。
私は、ありがとうございます、と言って唇の内側を強く噛んだ。何かもっと具体的なものあればいいのだけど、どれだけ考えても何も出てこなかった。私には、事務的な面で彼女に、可能な限り、負担をかけないことくらいしか思い付けない。現実でない領域で、彼女の気持ちに報いることは、私には何も思い浮かばなかった。
景色も思い出も、どんどん見知った場所からは遠のいているのに、小雪の降るなかで車を走らせていると、町の中心に向かっているような気がした。ぐるぐると同じ場所を、同じ性質の場所を巡っているようだった。
シイノさんは窓の外を眺めながら、どちらかと言うと音楽に神経を集中しているようだった。この出張中にも何度聴いたか分からない曲が流れていた。私は運転に集中しようとしていたが、どこか力が抜けきっているようで、彼女を見たりルームミラーからモリイチの車を見たり、必要以上に左右を確認したりと落ち着きがなかった。
閉店間際にレンタカーを返却し、私たちはモリイチの車に乗った。
「君は?、どこの人?」彼は振り返ってシイノさんに訊ね、彼女が答えると「ほな、ミヤちゃんを送ってからユカコやな」と言いながら前に向き直った。
「これはもう町を出たことになるんか?」
「さあ、どうなんだろう、町名で考えたらとっくに出てるけど、別の所ではないし」
「そんじゃあちょっと飛ばし気味で帰ろか、まあまあ時間もぎりぎりやろ」
「そんなに厳密なのかな」
「知らんけど、ま、事故らんようにだけして急いどこ」
シイノさんは体の力を抜いて、積み上げたザックとシートに身を預けている。小さな音でラジオがかかっているが何が放送されているのかは聞こえなかった。鏡越しに見ると、シイノさんは人形のように白く見えた。私は振り返って彼女に笑いかけ、少し驚いた表情のままの彼女が笑ったのを見ると安心した。
「二人とも気にせんと寝ときや」モリイチは音もなく車を発進させ、狭いロータリーをするりと抜けていった。
「ありがとうございます」
「ありがとう」
彼の運転は意外に、どんな想像があったわけでもないが、スムースで安定していた。空調も、ハンドルの操作も、ブレーキングも何もかもがちょうど良かった。私は横目でちらちら見ながらも、時折シイノさんと話していたが、彼女が眠ったあとは黙っていた。
「寝はった?」
「うん」
「ユカコも寝えや。彼女んとこでもまだ三時間くらいはかかるし、ユカコがどこに住んでんのか詳しくは知らんけど着くのは朝やろ」
「本当にありがとうね、でもまだ眠くないから起きとくよ」
「気にせんでええで、このために何かしたわけでもないし」
「モリイチは、今何してるの?」
「俺?、俺はあっちこっち行って物書いたり、そこで会った人らの作ったもんをまとめて売ったりしてるわ」
「モリイチらしいね」
「せやなあ、何も変わってないな、ユカコは?、何しに行ってたん」
「私たちは、山とか川とか行って、まあアセスメント系の仕事だね」
「なるほど、あんなにどっか行くの嫌がってたユカコがなあ」モリイチは笑ってからハンドルの持ち手を変えた。
「本当にね」
「卒業してすぐ?」
「ううん、しばらく別のところで、それから今のところ」
「そうか」
私はふと思い出したことで「あのさ、モリイチって結局全国歩き切ったんだっけ?」と言った。
彼は、これといった障害物もない真っ直ぐな道だったけれど、それにしても長い時間私の目を見つめてから「歩いたで」と言った。車は小刻みに左右に揺れ、モリイチが視線を戻すとおさまった。
「ほんまに忘れてるんやな」
「え?」
「いや、電話でな、忘れられてるときはすぐに引き下がれって」
「覚えてるよ」
「やけど、俺が帰って来てから祝勝会みたいなんしたん覚えてへんやろ?」
「本当に?」
「四年の秋くらいに帰ってきて会って、冬の間はそれまで通りたまに集まって、そんで春になる前から連絡しても音沙汰なかったで」
「モリイチが出発してからのモリイチとの思い出がすっぽり抜けてる」
「それ何なん?、電話の奴はそれだけ言うて何も教えてくれへんかったけど」
「ごめん、私も分かんない」
「他のことは?」
「どうだろう、多分、何かあるのかも」
「何を忘れてるかも分からんって感じか」
「うん、そんな感じ」
モリイチが言ったことを思い出そうとしたが、すやり霞のようなものが邪魔をして何一つ思い出せなかった。最後の記憶は、長い散歩のあとの喫茶店での二人だった。それより先はどうしても思い出せない。手繰るべきものすら、私には見つけ出せなかった。
私たちは週に二回か三回、十キロから十五キロほどの距離を歩き、喫茶店で夕食を食べて駅前で解散するというのを、私の記憶では、彼が出発する数日前まで続けていた。
「絵葉書とか手紙とかも覚えてへんのか?」
「うん、ごめん」
そうだった。彼は新しい場所へ行くたびに手紙や絵葉書を送ると言っていた。そうすると、私の家のどこかにはそれらがあるのだろうか。繰り返される引っ越しの中で、段ボール二つ分の、出しておくようなものではないけれど捨てるわけもないものがあった。きっと、その中に彼から送られてきたものがあるのだろう。
「まあ、ええか」
「モリイチは何買ったっけ?」
「何買った?、あ、ユカコの婆ちゃんの話か」
「そうそう」
私たちはよく庭園を歩いていた。前日に決めた場所の最寄駅に集合し、そこからまず庭園へ、寄り道もせずに向かう。入り口にある地図を見て、それを覚えたモリイチの隣について隈なく歩き回った。私は、彼が「あれなに?」と気になった植物についてあれこれと教える係だった。
「持ってくのは中くらいのザックで、帰ってから使うもんは、ほんまに覚えてへん?」
「うん。私に預けてたの?」
「せやで、そんで、帰ってきた次の日に会って受け取った」
庭園をとりあえず見尽くすと、どこかに適当に入って昼食を食べた。モリイチは歩きながらも身振りが大きく、すれ違う人はほとんどみんな、ちらっと彼を見やった。読んだ本や観た映画の、何が面白かったのかをよく話してくれた。彼は、ここが駄目だった、とかそういった話は全くと言っていいほどしなかった。私が詳しく聞きたがったときにだけ、補足のように、あれがこうだったら、ということを話した。
「それで、何を預かってたの?」
「でかいグレーのマグカップやで」
「そっか」
「ユカコに使っといてって言うて出たけど、使ってた記憶は?」
「あ」
「それはあるんか」
「うん、というか今思い出した。割としょっちゅう引っ越しするんだけど、そのときにあのマグどこにいったんだろう、とか思ってたのも思い出した」
「それに付随して、俺のを使ってたってふうには?」
「言われてみればそんな気がするって程度かな」
「なるほどね」
私はそこで聞いた話を、ほとんどみんな思い出せる。彼が唯一、何かの作品に対して文句を言うのは、音響に関してだった。私にとっては何故、楽器をしていたわけでも音楽を聴くのが特別好きなわけでもないモリイチが、そこまで映画の音響に言及するのか、今一つ分からなかった。彼は「音って聴く側の俺らにはどうしようもないやろ、せやのに、自然に、無意識的に、知らず知らずのうちに、大きく影響されんねん、やのに、そんな大事なもんを適当に、としか俺には思えへんそういうのに腹立つねん」と言っていた。そこから十年以上経つと、当時の十分の一も映画を観なくなった私でも、彼の言っていたことの意味の、触りようなものは掴めた。
私たちが庭園の他によく歩いたのは墓地と住宅街だった。墓地はモリイチが好きで、住宅街は私の希望だった。初めのうちは抵抗があったのだけど、彼が、一番静かなところやろ、と言っていたことを次第に体感した。生きている者の少ない場所は静かだった。すぐ近くを走る車の音も、植わった木々を飛び交う鳥の鳴き声も、私たちが踏み鳴らす玉砂利の音も、どれも些細な響きを残すだけだ。汚れの酷い墓石を綺麗にしたり、乱れた砂利道にとんぼをかけたりもした。
「ごめんね」
「いや、別に謝らんでも、みんな何かしら忘れたり、忘れたってことも忘れたりしてるやろ」
シイノさんの静かな寝息と走行音、小さなラジオの音とモリイチの穏やかな気配が混じり合って、強烈な眠気に覆われた。あくびを噛み殺して首を鳴らし、意識的に瞬きを繰り返した。
「休憩したかったら言うてや、まあ、高速乗ってからの方がお互い楽やろうけど」
「うん、まだ大丈夫。ありがとう。モリイチは眠たくない?」
「俺はまだ全然、昔っから宵っ張りやからなあ」
「そういえば、よく夜に電話したよね」
「せやったなあ、それこそ、何話したか覚えてへんわ」
「しょうもないことだよ、そのときはすっごい笑ったり、考え込んだりしたけど」
「ユカコは、結構大人っぽくなったな」
「つまんない?」
「やっぱ変わってないかも」
ナビに目をやると、あと十数キロ程度で境界線を超えそうだった。
「もうすぐだね」
「せやな」
「何て言うべきか、超えちゃったらあとは、眠かったら好きなだけ寝てね」
「大丈夫やで、やっぱり、ユカコは、大人になったというよりは気にしいやな」
「気にしい?」
「実際昔もそうやったんやろうけど、だからか、むしろか、ユカコもっと強気やったやん、そんな、俺にまで」
「名前」
「それでええ」モリイチは短く笑ってからそう言った。
左右に積もった雪は次第に薄くなっていった。
「こんな道なかったのにな」
「ね。モリイチも帰ってなかったんだね」
「せやな、大学行くために出て、それ以来やな」
「お父さんとお母さんは?」
「卒業してすぐくらいに引っ越して来よったで、何かと近い方が都合ええやろ言うて」
「寂しかったのかな」
「せやろな、俺みたいなうるさいのがおらんなったら静かやったやろうなあ」
「そうだと思う」
私たちは歩き疲れると、そこら中で腰を下ろした。モリイチは絶妙に邪魔にならなそうな縁石を見つけるのが上手かった。公園があればそこのベンチに三十分くらい座って、何も話さずに心地好い疲労感の中に沈んでいた。私は今でも、縁石に座って見ていた低い景色を覚えていた。そのときに何度も、モリイチが越して来た時の私たちはこのくらいの目線だったのかな、と思っていたことも思い出せる。その目線の高さは、普段どれだけの目を見て歩いているのかを思い知らさせた。それがすっかりなくなった身震いのするような気楽さは、軽い恥ずかしさをどこかへやってくれた。
「いつから、名前呼ばれても平気なん?」
「いつから、分かんないな」
「彼女に呼ばれてからちゃうか?」モリイチはちらっと後ろを振り返って、二秒くらいそのままの体勢でいた。一瞬だけ対向車線に入り、すぐに復帰した。
私は、入社した年の暮れにシイノさんと初めて一緒に仕事をした。四月から八ヶ月間、ほとんど休みもなく各地を転々としていた。研修も兼ねていたけれど、あれだけ休みを取らない年はそれ以来ない。前職でお世話になっていた人の口利きで、ほとんど何事もなく働きはじめた。当時は何の資格も持っていなかったのだけど、誰よりも知識はあった。そのせいで新人にしては実地的な仕事が多かった。運動らしい運動をしてこなかった私は、数ヶ月で十二キロほど痩せ、次第についた筋肉で入社時と変わらない体重になっていった。
もうそろそろ限界を迎えそうな頃に、シイノさんとの仕事が始まった。彼女は初め、ものすごく無口で、何を考えているのか想像することさえ拒絶されているような、常に気を張っているような感じだった。結局それは、初めて人を使う立場での仕事だったからで、その日の夜には今と変わらないくらいに打ち解けていた。私たちはそれまで、同性の同業者と仕事をすることがなかった。業界全体で見ても、圧倒的に男の人が多かった。彼らは、普段付き合うのにはこれといった問題はない。会社を離れ、長い時間外に出て仕事をしていると、彼らはどんどん不機嫌に、粗野になった。私はそんな変化を見ているのが何よりも嫌だった。なっていった、変化した、と言うよりも、元々そうだったのが見えやすくなった、と言った方がいいのかもしれない。中には、一貫している人もいた。彼らの一番大きな違いは、初めて対面したときの人当たりの良さだった。初めから終わりまで変わらない人は、単なる疲労からくる大人しさや粗雑さは別として、初対面の時の印象が悪くもないし良くもなかった。むしろ、良い印象を抱かせる、そうしようとする人は後々、どうしてか乱暴になったし、本人はそれに気が付いてもいないように見えた。眠気や空腹にぐずって泣く子供のように、実際のところ自分がその時々に抱えている思いや感情を処理し切れていないみたいだった。
私たちはその三週間、毎日の激しい運動による疲れや移動時間の多さにうんざりする以外、どんなストレスもなく、淡々と仕事をこなしていった。私たちの組み合わせでしっかりとした調査ができれば、次年度からも一緒になれるかもしれないとも思っていたし、どの程度役に立っているのかも分からない調査を粛々と進めていくことが二人とも苦ではなかった。
「それは、そうかもしれない」
「意識したことなかった?」
「もちろんその前からきっと、誰かに名前を呼ばれること自体、特に気にならなくなってはいたんだと思うけど」
「うん、そやろな、でも何となく俺は、ミヤちゃんが決め手っちゅうか、大きな理由やと思うな」
「そう言われると、そうだった気もする」
その年から今まで、毎年何度か一緒になった。私とモリイチの関係は、親密さが球体のようなものだったとして、それを広げたり磨いたりするみたいに、共同で何かをしている感覚が強かった。シイノさんとのそれは、球体の大きさほとんど変わらず、内部を密にしていくようで、一人一人がそれぞれ互いのために動いているような、あくまでも私たちはどこまでも切り離されていた。
私が住宅街を歩きたがったのは、ちゃんとした家族というものを、幻想でもいいから肌で感じたかったからだ。私がモリイチにそんなことを言うと、長い間口を噤み、歩いてみよか、と言った。どこにだって大なり小なり問題があることは、中高生の私にだって分かってはいた。だからそれは、幻想しかないと理解したかっただけだ。家族構成が分かる洗濯物や、辺りに漂う料理の香りや、漏れる光や見える団欒に、私は私の家族を重ねていた。そうやって、何処にも、私の思う形での家族なんてものはないのだと、確かめていった。
「モリイチは、昔から私に優しすぎるよ」
「そうかもしれんなあ」
「そのままでいて欲しいけど」
「好きなやつはとことん甘やかしたいんやろな」
「そんな感じがする」
「あ、美草中歩いたんは覚えてる?」
「覚えてるよ、多分、本当に、モリイチが出発する前のことは何も忘れてないと思う」
「あんときのユカコ、めちゃくちゃ嫌がってたなあ」
「そんなことして何になるの?」
「そうそう、もはや口癖やったな」
「本当にごめんね」
「別に、そんときも今も何も気にしてないで」
「うん、そんな気はするけど、悪いことしたなって思うし、謝ってどうってわけでもないけど」
「なんだかんだ言うて、結局はユカコ、いつもついて来てくれたし、ほんまに止めたりはせんかったやろ」
「まあ、それはそうだけど」
「俺は俺で、嬉しかったりしたで、うちんとこも同じようなこと言うてたけど、もっと、心配とかそういうんじゃない感じで言うてたし、ユカコはまずは心配してくれてたんやろ?」
「うん、あとは、モリイチがそのままどっか行くのが怖かったんだろうね」
「可愛いこと言うやん」彼はひとしきり笑ったあとそう言った。
私は、モリイチと話せる事柄が、中距離の過去に留まっていることが寂しかった。私たちにはもっと話せることがあるはずだった。ものすごく近い将来と中途半端な過去のことだけを話せる、そんな二人ではなかった。
「VONTには行ったん?」
「行ったよ、ジュンさんもユミさんも元気そうだっし、ソウくんって男の子もいた」
「バイト?」
「ユミさんとジュンさんの子供だよ」
「へえ、何となくジュンさんが子供とおるとこ想像できんな」
「確かに、もう見て知ってるのに、思い浮かべたら変な感じ」
「やろ、俺なんか、そもそもあの人に奥さんいんのも違和感あんのに」
「一人が似合うのは似合うよね」
「そうそう。子供かあ」
「モリイチは?」
「俺は、おらんよ、相手もおらんし、どっかに子供もおらへん」
「モリイチこそどっちも想像つかないなあ」
「俺も、せやからおらんねん」
「仕事が順調?」
「せやなあ、まあ忙しくはしてるな、それほどやりたないことをする時間はないってくらいやけど」
「良かった」
「心配してた?、こいつ将来どうやって飯食うねんって」
「ちょびっとだけね」
シイノさんはドアの方に倒れかかり、額を窓にくっつけて眠っている。眼鏡はどこにいったのか、目につくところにはなかった。
私たちはインターを抜け、もう美草とは無関係な場所を走っていた。高速でもモリイチの運転は相変わらず安定していたし、シイノさんは安らかな表情で深く眠っていた。私は、このままずっと三人で車に乗っていたかった。いや、三人であちこちへ行きたかった。色んな風景を見て、名前も知らないようなものを食べ、適当なホテルに泊まる。夜には煙草を吸いながら、その日のことや次の日のことを話していたい。四十八時間のサイクルで毎日を過ごしていたかった。
日付はとうに変わっていた。モリイチは私の半分の時間で倍近い距離を進んでいた。あまり速度を意識していなかったけれど、ほとんど常に一四〇キロほどで走っていた。事故が起これば、何となく私だけ死ぬ気がした。きっとみんな死ぬんだろうが、二人が死んだことを知らないまま、真っ先に意識を失いそうだ。私は、引き出し方を忘れていることと、そのものがすっかりなくった状態は、消息の分からない知人と、死んだ人との違いと同じだと思った。だけど、どこかしらでも確かにそれが存在していることと、何もかもなくなってしまったことの、現実的な違いが分からなかった。
「ちょっと、トイレ休憩挟むわ」
「分かった」
何が違うのだろうか。私は、アサギが生きているのか死んでいるのか、電話をするまで知らなかった。彼女は生きていたわけだけど、だからと言って、今まで通り会わずにいたとして、その先に、私にどんな影響があるのか、何かを思ったり思わなかったり、そのような面以外でどんな違いを知るのだろう。いる/いない、ある/ない、のはそれを意識できさえすればどうでもいいうように思えてならなかった。私が死んでいるとして、それでも二人に知覚されているなら、その他のことは何だって良かった。私が忘れて、私の中で跡形もなくなってしまった物事も、私に思い出されるものとしての姿形を失っただけだ。私が分からないのは、その出来事を知る人が誰一人いなくなったとして、そのとき、その出来事の消失が、その出来事から何かしらの影響を受けた誰かがいなくなったあと、どのような問題を生むのかということだった。歴史にならないことだ。記録に残されないことだ。
「腹は?」
「ちょっと減ったかな」
「ほな、なんか見ようや、俺めちゃくちゃ腹減ってんねん」
「ここ?」
「そこが大きそうなら、どこでもええで」
「じゃあ、あと十分だって」
「ほな五分やな」
モリイチが言った通り、割と大きなサービスエリアに着いたのは五分後だった。一時を回った駐車場は、仮眠を取るためか車中泊をするためか、満車に近く、建物に近いところの方が空いていた。シイノさんはエンジンを切ると目を覚まし、もう着いたの?、と言った。
「いや、しょんべん、ああ、トイレ休憩、とお腹が空いたんで何か買おうかなって」
「シイノさんは?」
「私も行く」
彼女はしばらくかがみ込んで何かを探しているようだった。私は車を降りて助手席の下を覗き込み、眼鏡が落ちていることに気付いた。取り出して声をかけ、三人で並んで歩いた。
売店を一通り見てから、がらんとしたフードコートへ行った。私とシイノさんは温かいうどんを頼み、モリイチはそこに大盛りのカツ丼を付けた。券売機の前でごたごたとして、結局モリイチが私たちの分まで出してくれた。
薄く曇った天板の上にトレイが三つ、シイノさんは私の隣に、モリイチはシイノさんの前、それぞれ特に何も話さずに空腹を満たした。三人で摂る食事に意識が向いて、ほとんど何の味もしなかったが後で二人は「味薄かったね」、「白湯ちゃうんか」と言っていたから、私の意識の問題ではなかった。
モリイチは土産物売り場で何かを買っていて、外の喫煙所で中身をくれた。私たちは煙草を吸いつつ、個包装のカステラのようなものを食べた。サービスエリアにはもう雪は積もっていなかった。所々に汚れた雪が寄せ集められているだけだ。高地でこれなら、地理的にも美草との関係性は薄まっているだろう。
私たちは二本ずつ煙草を吸って、車に向かった。
シイノさんは、短い睡眠で目が覚めたようで、前乗ろうか?、と耳打ちした。私はモリイチの背中を見ながら、ぼんやりと半分眠ったような状態で歩いていた。何を言われたかあまり分からないまま、お願いします、と答え、それでも体は一人でに後部座席のドアの方へ向かった。
車に乗り込んだモリイチは「眠そうやな」と言って私を振り返り、隣のシイノさんに「ミヤちゃんも、助手席やからって気にせず寝えや」と笑いかけた。朦朧とした視界の中で二人は、私の思っていた家族のように見えた。両親というわけでもないけれど、こういうのだ、と思いながら眠り込んだことを思い出せる。
「美耶ちゃんは知ってるんやろ」
「何をですか?」
「俺のこと」
守一は美耶の顔を見つめた。大きく揺れた車体は、夜の空気の中で、鋭い音を立てて進んでいる。
「知ってますよ、ちょっとした有名人でしたから」
「そんなことちゃうで」
「分かってます。冗談ですよ」
「雪華子には黙っててくれるか」
「はい。というか、言い方が分かんないです」
しばらく声を出して笑い、何とか聞こえる程度の小さな声で「せやな」と守一は言った。
「守一さんは、雪華子さんのこと」
「うん、悪いけど、君のことは考えられへんかった」
「私も同じようにすると思いますよ」
二人はそれから長い時間、口を開かなかった。守一は片手で持っていたステアリングを両手で持ち、ほんの少しだけアクセルを強く踏んだ。運転に集中するために彼はそうしたのだが、それはむしろ彼の意識を散漫にした。目に映る何もかもに、彼の意思とは関わりなく視線が向かい、少しずつ曖昧になっていった。美耶は彼の意識がもつれていくのを感じていた。彼女は何かを言おうとした。固く合わさった唇が開くと、言葉は跡形もなく、その重みだけを残していった。
高速道路はどこまでも空いていた。広い間隔で設置された灯りは、その間に真っ暗な空間をいくつも生み出していた。それは明滅しているように目にされた。二人の意識は次第に絡み合って、どの線を辿れば自身へ行き着くのか分からなくなった。
彼らが追い越すのも、追い越されるのも、トラックしかなかった。椎野美耶はその車体が近づくたび、体を強張らせた。彼女には、今では守一の意識が散り散りになっていることが分かっていた。彼は何とか意識を保っているだけで、それをまとめたり、強く固めたりすることはできない。彼女は、守一の手の上からステアリングを支えた。
雪華子は二人の声を聞いていた。眠る彼女の耳には、意味を持った言葉としては認識されなかった。その音は彼女の体を内側から温め、より深い眠りへと連れていった。彼女は美草での日々を夢で見ている。そこではまだ雪華子と守一は高校生だった。二人は町を歩いている。その名が冠されているだけあって、辺りの植物は陽を受けて輝いていた。美草は四方を山に囲まれた小さな町だ。陽光は町をすっぽりと包み込んだ。彼女たちは陽の光をたっぷりと吸って育った。守一は父親の運転する車から町を眺めていた。幼い彼はそれでも、この町のことを好きになれるだろうと、後にそう解釈される何かを思った。彼は町中に綿毛が飛ぶのを見た。彼は、その後何十回と見たこととは無関係に、その光景を決して忘れなかった。両親が感動したような、間抜けな声を上げている間、幼い彼は、窓に触れた両手と額に冷たさを感じながら、ただ黙って外の景色を見ていた。
同時刻、雪華子は祖母の家の縁側にいた。彼女は見慣れた光景を、後ろに手を着いて見上げていた。野良猫たちが乾燥した餌を食べるかりこりという音以外、何も聞こえない。家には彼女の他に誰もいなかった。すっかり冷めたお茶と、よく懐いた薄茶けた黒猫が傍らでじっとしている。生垣の向こうに祖母の気配を感じ、スリッパを履いて駆け出した。細い数本の竹で出来た裏口の扉を押し開け、そこに誰もいないのを彼女は見た。祖母は数分後に玄関から帰ってきた。左右で伸びる道にも誰もいない。彼女はしばらくそこに立ったまま、降り落ちる綿毛を眺めていた。
二人より幼い美耶は、母親に手を引かれてスーパーの中を歩いていた。彼女の視界はすでにぼやけていたが、本人を含め、まだ誰もそのことを知らなかった。間の悪い、ぼんやりとした子だと思われていた。彼女は濃い色彩に強く反応した。お菓子売り場の小さな階段のようなものの一番上に立ち、いつもとは違った光景を見た。母親は彼女がお菓子に夢中になっているあいだ、裏側の棚を見ていた。隙間から時々彼女を確かめた。美耶は高くなった視線の先に、誰かが向かって来るのを見た。下に降りれば、同じくらいの身長だろう。誰かは、彼女を突き飛ばした。彼女はしりもちをついてから肩と頭を打ち、何が起こったのか分からないまま泣き出した。母親は小走りになって棚を回り込んだが、そこには泣きじゃくる美耶しかいなかった。彼女を突き飛ばした誰かは、すでに走り去っていた。
守一は少しずつ元の意識を取り戻していった。指先にまで力を込めることができた。「ありがとう」と言うと美耶の手を抜けて、ステアリングを握り直した。
「雪華子に見られたら、お互い困るやろ」、軽口をたたけるくらいには守一は意識に馴染んでいた。
「それは、確かに、ちょっと困ります」
「でも、ほんま助かったわ、ごめんな」
「ひやひやしましたけど、大丈夫です」
美耶は汗ばんだ手をジーンズで拭ってから、無意識に雪華子を振り返った。彼女は小さな高い音を鼻で鳴らして眠っている。美耶は微笑ましい心持ちでその姿を見ていた。
「美耶ちゃん」
「はい」
「美耶ちゃんは美草初めてやった?」
「そうですね」
「いつか、綿毛が飛ぶ頃に来てみ、一人で」
「綿毛ですか」
「そう、何か長い名前やったな、雪華子に教えてもらったけど忘れた」
「それがどうしたんですか?」
「うん、美草な、昔々、よう山火事があったらしいねん、俺らのじいさんばあさんよりも昔な」
「あ、ダンドボロギクですか、雪華子さんが言ってたの」
「それそれ、それやそれや、ダンドボロギクな、そっこら中に生えてんねんそれが」
「はい」
「そんでその綿毛が町中に降りよんねん、土地柄かなんか知らんけど、美草ってなんか眩しくて」
「眩しい」
「俺、色んなとこ歩いて回ってみたけど、ああいう太陽の当たり方ってあんまりなかったなあ」
「あんまりちゃんと感じなかったな」
「まあ、また来たらええやん、その、太陽の光を受けてきらきらした綿毛がほんまに綺麗やねん」
「また行けますかね」
「美耶ちゃんは大丈夫」
小さなパーキングに入り、二人は煙草を吸うために車を出た。雪華子はドアの開閉音に小さく唸り、体を捻った。
駐車場には、彼らの他には誰もいなかった。煙草の煙は真上にのぼり、何かにぶつかったように飛散した。固く鈍い音が聞こえ、二人は同時に雪華子に目を向け、それから互いを見て笑った。
ほとんど灯りのない駐車場は暗かった。トイレの向こうに広がる森も、美耶の目からは影にしか見えない。守一は煙草をくわえたまま、車のまわりを歩いていた。
物音がすると守一が身を固くするのが美耶には分かった。守一は足を止め、黒く塗り込められた森の辺りをじっと睨み、それから煙草を一口吸いながら歩き出した。どんな小さな音でも、美耶は彼が動きを止めたことで、さっきのは音だったのかと知覚するような音でも、守一は聞き逃さなかった。そのうち、美耶も森の方に目を凝らすようになった。眼鏡をかけていても、遠く暗い場所はよく見えなかった。小さな音は、あちこちで起こっているようだった。それは微風で揺れた草木の擦れる音ではなかった。それは、身を潜めた何かの身じろぎの音だ。大きくはない、時間帯や状況を鑑みると人間ではないだろう。四つ足の何かが、気配としては無数に、二人の様子を窺っていた。
「鹿、ですかね」
「ちゃうで」
「見えるんですか」
「いや、暗くてよう見えんけど、俺はあそこにおるんが何か知ってんねん」
「たぬきとか?」
「もっと身近な生きもんやで」
「じゃあ、野犬とかですか」
「そう、犬は犬やな、野犬かどうかは知らんけど」
「何ですか?」
「美耶ちゃんは知らんと思うわ」
「変わった犬なんですね」
「せやな、特別な犬や」
美耶は何も言わず守一の横顔を見つめ、そのまま森の方を見た。何も変わらず、気配だけを漂わせて、それらは動かない。その気配だけは、先ほどよりも二人に近づいていた。守一は森の影というよりも、その気配の動きを追っているようだった。そよそよと揺れる木々の影に、何か光るものはないかと、美耶は目を凝らす。そこにはかたまった影もない。美耶は鼻の奥で獣の匂いを感じた。音は、肌に気配を感じさせ、それから匂いを感じる地点まで感覚を誘導した。守一は横目で美耶の様子を確かめた。彼女が匂いを感じ始めたのを彼は知った。ゆっくり、出来るだけ音を立てずに車に乗ってくれ、と彼は言った。彼女は、守一の声を聞いていたが、意識の大半は何かの気配に向けられ、意味を掴めなかった。守一はもう一度、今度は少しだけ強い語気で、同じことを言った。 美耶の体は、固まったというより、ただ思うように動かなかった。守一の言っていることの、意味は分かった。姿は見えないが、かなり近くをそれらが歩いていることに気が付いた。匂いや気配は、比べるまでもなく強まっている。守一は少しずつ美耶に近付いていた。
守一は美耶の名前を呼んでいた。彼女は顔を上げ、守一がすぐそばまで来ていることを知った。彼女は言われたことを思い出し、声を出さないで「もう、大丈夫」と言った。彼は黙ったまま頷き、運転席のドアまでそろそろと歩いた。
先にドアに触れたのは美耶だった。彼女はゆっくりとドアハンドルを引いた。どれくらい静かにすればいいものか、彼女は数ミリずつ開くように、同時に体をずらしていった。
風がふっと抜け、守一もドアを開いたことが分かった。美耶は体を引き上げるように車の中に滑り込ませ、すぐには閉じずに開いたままにした。守一が乗り込んでから同時にドアを閉め、そこにいたことを忘れるくらいの速度でパーキングを後にした。
二人はぐったりと疲れていて、雪華子が目を覚ましたことにしばらく気が付かなかった。彼女は守一と美耶の、暗くはないが重い雰囲気を感じ、何も言わないで窓の外を眺めていた。
シイノさんは小さな溜息と手を開いたり閉じたりするのを繰り返していた。もたれかかったザックから、土や木の匂いがする。どれくらい眠っていたのか分からないけれど、頭はすっきりと冴えていたし、軽い空腹すら感じていた。
わざと大きく伸びをしながら低い声を出した。モリイチは一瞬振り返って、もう起きたんか、と言った。
「おはようございます」
「もうちょいしたらあるサービスエリア寄るわ」
「おはよう」
「お腹空いた気がする」
「ほなちょっと長めに休憩しよか」
「モリイチに任せるよ」
「もう結構近いですね」
「あ、そうか、ミヤちゃんをまず送らなあかんな、次んとこで詳しい場所教えて」
「はい、ありがとうございます」
私が眠っている間に、高速道路の感じが変わっていた。ほんの少しだけ往来も灯りも増えている。
三時前でも賑わったサービスエリアは、時間の感覚を鈍らせる。売店やフードコートの店員も、一つ目と比べるとまだ元気そうだった。土産を買うつもりでうろうろしている人も、流動的な車の数も多い。
モリイチはフードコートのカウンター席の隅に座って、無料でもらえるお茶を飲んでいた。何か車で食うもん見て来いや、と言われて、私とシイノさんは売店でホットコーヒーを三つとポッキー一箱、ポテチ一袋を買った。
袋を下げて、モリイチの方へ歩いていると、彼は私たちに気が付いて、シイノさんに目配せをしたように見えた。私はカップを三つ持って、そろそろと歩いていた。眠っている間に何があったのかは分からないけれど、二人の雰囲気は初めの方よりも親密でも険悪でもないように見えた。
「お、ありがとう」と言ってカップを受け取り、何買うたん?、と言った。私たちは彼の隣に座り、袋を机の上にのせた。
「ポテチとポッキー」
「何味?」
「のり塩」
「俺も何枚かちょうだい」
「今食べる?」
「あー、そうしよか」
シイノさんは袋から出したポテチとポッキーを大きく開き、私の前に並べて置いた。
窓の外に見える駐車場では、一人でいる男の人が多かった。煙草に火をつけながら喫煙所へ歩く人、トイレの方へ歩く人、自販機へ向かう人、フードコート近くの自動ドアへ向かう人はいなかった。モリイチは、ちょっとトイレ行ってくるわ、と言って立ち上がった。
「モリイチと何かあったんですか?」
「え?」
「二人とも、最初はもっと朗らかだったなって」
「何にもないよ、私もまたちょっと眠くなってきてるし、モリイチくんも疲れてるんじゃないかな」
「なら、良かったです」
シイノさんは、嘘はついていないけれど何かを隠してはいるようだった。彼女が言わないでおこうと決めたのなら、私が言えることはなかった。それに、二人の間で何かがあった訳ではないようだったし、そうだったら、何も問題はなかった。私はモリイチとシイノさんが仲良く、というか、良好な関係であればそれでいい。
戻ってきたモリイチは、さっきよりも明るかった。顔洗ったら眠気飛んだわ、と言って、隣に腰を下ろした。
「丸々往復?」
「ああ、そうやな、別に近くにおったわけではないな」
「本当にありがとうね」
「気にすんなや。仕事の方は何とかいけそうなん?」
「うん、何とかなると思う」
「そうか、良かった。ちょっと、飯食うてええ?」
シイノさんと私は顔を見合わせ、「大丈夫ですよ」と彼女が言った。
「ありがとう。何か妙に腹減るわ」、モリイチはそう言って立ち上がり、券売機の前まで行って一つ一つ吟味しているようだった。
少し前にうどんと大盛りのカツ丼を食べていたのに、かき揚げののった温かい蕎麦と大盛りの親子丼を平げ、残ったポテチとポッキーも食べた。私には、モリイチがよく食べるイメージがなかった。
喫煙所まで行き、煙草がないことに気づいた。
ちょっと待ってて、と言って建物の方へ向かった。夜気が上着の隙間から入り込んで体が冷えた。雪はないのに美草よりも寒いのは、サービスエリアが高所に位置するからだろうか。複合的な理由でそうなっているのだろうが、山間にいるといつも、風の通り道にいるようで、そのせいで寒いのだと考えた。それは、参拝時に道の真ん中を歩いてはいけない、と小さい頃から言われていたことと無関係ではないような気がした。してはいけないことをするときの、胸のあたりから頭の方へ向けて抜けていく冷ややかな感触があった。実際には、そんなことではなくて、そんなことは、複合的、という中にさえ組み込まれず、ほとんどは地形の問題だろう。
売店にはいつもの煙草がなく、それならとシイノさんのピースを買った。店員の男の子はあくびを堪えつつ、お釣りとレシートを手渡して、どうぞ、と言って煙草の箱を滑らせた。
二人は、吸い終わったのか何もせずに立っていた。
私に気が付くとモリイチは軽く手をあげてから煙草をくわえて火をつけた。シイノさんは彼を見てから私を見て、それから煙草をくわえた。私がそのスペースに入ってから彼女は火をつけ、ピース?、と言った。
「いつものがなくて」
「何吸うてんの」
「アメスピの青いやつ」
「二人ともきついの吸うてんな」
「モリイチは?」
「やめようやめよう、とここ二年くらいキャスターの三ミリやな」
「やめられてないじゃん」
「思っててもそんな気ないんやろな、むしろ増えたわ、軽軽いし」
二人の間に立って煙草を吸った。重たい質感の煙が口の中に流れ込んでくる。彼女はいつもこんなのを吸ってるのか、と風味の濃厚さやタールのきつさに一瞬立ち眩んだ。
「大丈夫か?」モリイチは半笑いでそう言って、体を支えようとした。
「大丈夫、ありがとう。ちょっとびっくりした」
慣れてみると密な甘さが美味しかった。カラメルのような、香ばしさに拠る甘さではなくて、糖蜜だとかコンポートだとか、そういったむっとするほどダイレクトに甘さの伝わるものに近いようだった。数ミリずつ吸い込むと、紙の辛さも立ち眩むこともなく、そのまろやかな甘みを楽しむことできた。
「ユカコ、昔から何でも美味そうに食ったり飲んだりするなあ」
「そう?、そんなの初めて言われたよ」
「だって俺、VONTでコーヒー飲み始めたん、ユカコが休憩中に飲んでんの見て、今から思うとやらしいくらい、はあーって顔してたからやで」
「何それ」
「だから初め飲んだとき、ちょっといらっとしたもん、めちゃくちゃコーヒーやん、てか記憶にあるのより苦いやんって」
シイノさんと私は、大袈裟に顔を歪ませるモリイチを見て笑っていた。
「でもまあ、あんな顔するくらいやからって、無理矢理飲み続けて、今では美味いコーヒーないとあかんわ」
私は、そういえば、高校生くらいの頃に誰かに、同じようなことを言われた気がした。ジュンさんがそう言ったのか、男の人に言われたようだったけれど、誰だかは思い出せない。当時のモリイチに言われたのかもしれない。
「ユカコさん、結構、何か食べたり飲んだりしたときの表情豊かですよね」
「やろ?」
「自覚ないなあ」
「はっとしたり嫌そうな顔したり、それこそちょっと色っぽい顔したり、結構はっきり」
「何か恥ずかしくなってきた」
「すまんすまん」
喫煙所を出るとき、暗くてよく見えなかったのだけど、感触からするとそれほど若くはない男の人と肩がぶつかった。私は振り返って謝ろうとしたのだけど、モリイチは私の手を取って、ええから、と呟いて引いて行った。小さく低い声は、誰だか知らない人の声に聞こえた。胸の辺りに響いて、どこへも抜けずに足の方へ落ちていく。ライターで火をつける音が聞こえて振り返ると誰もいなかった。誰かがいた気配もないし、近くにもいない。見間違いかと考える前に、モリイチの反応や、そもそも三人ともがその人をよけるように喫煙所を出た光景が思い出された。自然にうわずった声で、モリイチ、と呼びかけたが、それはこの距離でも風に流されるほど小さかった。彼は手を離し、頭の上で組みながら背中を伸ばした。わざとらしいくらい大きな声で、もうちょいやな、と言って私たちを振り返り、シイノさんはその視線をパスするみたいに私を振り返った。
車に乗り込んでからも、私はついさっきのことを思い返していた。窓の外に、溶けたようなぐじゃぐじゃとした風景が流れていく。シイノさんとモリイチは仕事の話をしているようだったけれど、その大枠が分かるだけで、内容までは意味を追えなかった。二人の話に集中しようとするのだが、繰り返される映像の方へ引っ張られて、気が付くと聞こえなくなった。まず、全員見えていたのは間違いがないし、私がぶつかったことも、モリイチのその後の行動からすると記憶違いではない。その辺りに問題はないように思えた。だから、そこを数歩離れて振り返ったとき、そこに誰もいなかったことだけが私の関心というか、恐怖心を起こしていた。ライターのぢりっという音が聞こえたことも、多分、間違いはないだろう。
結局私は、きっと死角に入ったのだろう、と考えるのをやめることにした。半透明の板四枚で囲われたスペースだけど、腰から下は隠れてもいないけど、と思いながらも、そう考えることにした。
ナビでは、シイノさんの家まで残り一時間ほどだった。そこから私の家までは四時間もあれば着くだろう。朝日が完全に上りきった後に車の前でモリイチと別れることを思うと、少しぐったりするように暗い気持ちになった。多くの人が一日をスタートさせる時間に、親しい人と別れて眠りにつくのは、毎回のことだけど、何かが大きく後退していくように思えた。昼までには起きて、会社に連絡しなくてはいけない。あれこれ嘘をつく姿を思い浮かべるとうんざりした。
いつだったか、モリイチが言っていたことを思い出したが、何と言われたのかが思い出せなかった。言われたあと、体のあちこちの強張りが解けていったのを覚えているし、当時と同じくらいの強度で思い出せる。それでも、肝心なはずのその言葉が、候補すら思い浮かんでこない。いつかの私はそれを、忘れることにしたのだろうか。あるいはそれは、モリイチのことを忘れようとしたときに、付随して忘れられたのだろうか。それなら、私は、二人に忘れられたとき、どんな言葉と一緒に消えていくのだろう。私は、シイノさんを忘れた時のことを考えてみたが、当然、どんな言葉が彼女と共にいなくなっていくのはか分からなかった。例えばモリイチは、私が彼を否定するような言葉を忘れるだろうか。そうではない言葉が私を形作っていれば、と願うことは簡単だったけれど、それじゃあそうでない言葉を、単純な数としても、私は彼に投げかけていただろうか。修復を兼ねて、私たちの関係をこれからどうにか出来るのだろうか。私はもう、モリイチのどんなことも忘れたくなかった。
私は、どうして、両親と話すことをやめたのだったか。妹二人に何も言わずに家を出たのか。美草で何を見ていたか。何か一つ、確かに思い出せるものはないだろうか。ジュンさんは、なるべく二人は離れない方がいいよ、と言った。私は、何と返したのか。モリイチと離れることがあるなんて、考えもしなかった私が、その言葉を真剣に考えるはずがなかった。
「ユカコが毎日のように会いに来たから、俺も行ってたねん」
「引っ越してきてからすぐ、そんなに仲良くなったんですか?」
二人が、私とモリイチの話をしているのを聞いていると、よりいっそう、何も定かではないようだった。その話は、シイノさんとモリイチに置き換えることは出来ないだろうが、じゃあ本当に出来ないのかと考え始めると、出来るんじゃないかと思い始める。私のあれこれは、要素として、シイノさんが持っていないものはない。もっと良くなるかどうかは別として、それなら代替不可なことではないように、むしろ、どうすれば交換出来るだろうか、と考えの流れ方が変わっていく。
「結構すぐやったと思うな、きっかけは思い出せへんけど」
「モリイチが声かけてきたんだよ」
「え?」
「モリイチが、昼休みだったかな多分、校庭の端の方にいる私に声かけてきた」
「そんな気もせんでもないなあ、なんて言うてたん俺」
「さっき、自己紹介のとき聞いてへんかったやろ、って」
「強気な転校生ですね」
「ガキん頃の俺が言いそうなことやわ」
「ユカコさんはそれで?」
「聞いてたよって、あ、それでモリイチって呼び出したんだ」
「ああ、そっか、そこでモリイチくんでしょって」
「そうそう」
「本当に聞いてなかったんだねユカコさん」
「ね」
モリイチは黒板の前で仁王立ちで、腕を組んでいた。教室にいる先生以外を全員睨んで、それでいて目以外は親しげな雰囲気ではあった。先生は彼の肩に触れて、ほら、と軽く前に押した。くるっと振り返って、赤いチョークで黒板いっぱいに名前を書くのが見えた。私は、窓の外を彼を交互に見ていた。綿毛があちこちでゆらゆらと降り落ちている。何人かは私と同じように、校庭とモリイチを見ていた。字は汚いけれど、まだ習っていない漢字も込みで彼は名前を書いた。朝磨いた深く鮮やかな黒板の緑に、粉っぽい赤色が綺麗だった。私はそれを、何をしているとか、何をしようとしているかとか、そういったことを無視して、景色として眺めていた。授業と授業の合間の休みで、彼は囲まれてあれこれと質問されていた。私は図書室で借りた本を読んでいた。十何巻ある児童文学の真ん中あたりだったと思うが、タイトルも作者もぼやけていて見えない。モリイチは人混みの中からちらちらと私の様子を見ていた。私以外にも彼の周りに集まっていない子もいたけれど、無関心ではなかった。私は視線に気付いてはいたが、その時点では彼に特にどんな興味もなかった。そう思うと、モリイチは、六歳か七歳の頃にはもう、よく見てるなあ、とか言われそうな特性を発揮していたのだろうか。単に子供は、自分に無関心な人に向かって反応しやすいのだろうか。生存するための何かの機能の名残のようにも思える。私は半分ずつ、本と視線の動きに集中していた。
「それから?」
「多分俺がついて回ったんちゃうか」
「どうかな」
どこだか分からないのに、どこから来たかを彼が言うとみんな「すごーい」と言った。まばらになっていく人だかりの隙間から何度か、まわりにいた子まで振り向くくらい長いあいだ私を見ていた。私の集中力はもう半分ずつではなかった。本を閉じて引き出しに入れ、早歩きで教室を出た。校庭ではサッカーやらドッジボールやら鬼ごっこから派生した何かよく分からない遊びやら、好き好きに方々で騒いでいる。学校はぐるっと高いネットで覆われていて、それがないのは正門と空だけだ。下駄箱から外に出て見える小さな土手に向かって歩いた。それは通学路と並行してプールの辺りまで続いている。私はその土手と通学路の間、ネットがあるせいで道と認識されるその狭い通りを歩くのが好きだった。よく知った通学路は緑のネット越しでは歪んで見えた。私の前後に伸びる道は白っぽい砂の道で、左側は校庭がすっかり見えない程度には高い土手が続く。そこを歩いているとしばしば、トンネルの中を歩いているような気分になった。実際のトンネルのような、全身が固く締まる感覚はもちろんなくて、適度な閉塞感が心地好かった。
「ミヤちゃんとユカコは?」
「私たちは、何年か前に仕事で一緒になって、そこから、ですね」
「なるほど、縁やなあ」
「おじさんみたいですよ」
「自分でも思うわ」
土手が途切れたところに、錆びて使わなくなったサッカーのゴールが置きっぱなしになっている。塗料が剥げて錆び付いたゴールポストに触れ、木製のベンチに座った。いつも、座ってから本を持ってくればよかった、と思った。土手を形成する分厚い石の壁にもたれ、走り回る人たちを見た。上級生に混じって遊んでいる子は同い年に見えなかったけれど、その上級生とも同じ歳には見えない。モリイチは多分、下駄箱から一直線に私のところまで走ってきた。息も切らさず走ってきて、そのままの勢いで隣に座った。私もモリイチも何も言わずただ、走り回るみんなを見ていた。
その日、一緒に下校した覚えがあるけれど、私たちの家は別に近いというわけでもなかった。だから、どうしてもっと近い家の子が一緒に帰らなかったのかは分からない。モリイチは、私が聞いたことに何割も増して返事した。私は彼に本を貸したような気がする。モリイチの家は私の家から、学校の帰り道では奥にあった。彼は門柱にもたれて私を待っていた。何を貸したんだったか。割りに厚めの本だったと思うのだけど、それが一冊なのか、何冊か重ねて渡したのか、それも分からない。モリイチは本を受け取ると、そのときの私には大人に思えた笑顔で、また明日、と言って走って行った。
「博物館でバイトしてたんですよね」
「せやで、あんなに楽で居心地のええ職場は後にも先にもないわ」
「ほとんど寝てたもんね」
「それはユカコのタイミングが悪い、いつもユカコが来る前に宿題終わらせたり本読んでたりしててん」
「お客さんいたの?」
「ほぼおらんな、今思うと何で雇ってくれたんか」
「人柄でしょ」
「アルミホイルで包んで焼いたみかんとか、小さい土鍋買ってきて二人で食うたんとか、ユカコの練習で淹れたコーヒー飲んだりとか、懐かしいなあ」
「全部ストーブに関連してるね」
「ほんまやな、でも、なんかあれ良かったよなあ、人と人の間にああいう触ったら熱いもんがあるのはええねんな」
「それはなんか、太古の先祖たちが焚き火を囲んでたみたいな感じで?」
「そうそう、たまに思うねん」
「すごい羨ましい」
「二人も、一緒に暮らしたりしたら触ったら火傷するもん買い」
「そんなおすすめあるんだ」
私はモリイチの一言で、シイノさんと一緒に暮らしている光景を思い浮かべた。そこは今の、彼女の家でも私の家でもなかった。どこかのマンションで、窓からは海が見える。そこを飛ぶ海猫や砂浜、開いた嘴のような地形なのだろうか、向こうには岸壁が見える。雪が降っていて、空も海もこれ以上ないくらい鈍い色をしている。私は背後で、ストーブの熱と動くシイノさんの気配を感じていた。
「そんくらい、俺の中であの場所って特別やねん」
「それは、私もそうだよ、何も意識せずに思い出すとだいたい博物館のことが出てくる、あとは散歩かな」
シイノさんはキッチンで何かの支度を進めている。私はカーテンに触れ、ぼんやりと外を眺めている。絶壁の上に建てられているわけでもないだろうが、角度的に、今見えている海が真下まで伸びているように感じる。ここはどこだろう。私は今まで、海の近くに暮らしたいなんて考えたこともなかった。
「歩いたなあ」
「あの時ってモリイチ、どこ住んでたっけ?」
「下高井戸」
「そっか、あ、学校の近くか」
「そうそう、たまに来てくれてたやん」
「うん、今思い出した」
「私、東高円寺だったから、結構近いよね?」
「まあ、近いと言えば近いな。遠くもあるけど。駅の近くの、よう分からん喫茶店知ってる?」
「おばあさんが一人でやってるとこですか?」
「そうそう」
「知ってますよ、たまーに行ってましたし」
「俺とユカコもたんまに行ってたから、知らず知らずのうちに会うてたかもな」
海は荒れていた。遠くから見ても分かるなら、波頭はかなり高いのだろう。シイノさんの鼻歌が聞こえた。彼女はキッチンで何をしているのか。どこかを開けたり閉めたり、何かがぶつかったり。私はカーテンを閉めようとして、しかしもう少し海を見ていようと、中途半端な格好でカーテンの端を掴んで固まった。お湯を沸かす音も聞こえた。彼女はコーヒーを淹れようとしているのだろうか。テトラポッドに当たって砕けた波は、砕けながら空中に投げ出され、一定の高さまで上がると不意に落下した。キャニスターから珈琲豆を取り出す音が続く。ここは、特にリビングやキッチンは、二人の家にあった家具がちょうどいい按配で置かれていた。電動のミルが素早く豆を挽き、コンロを切る音が聞こえた。私は腰を捻るようにして、連動した手でカーテンを閉めた。海のない場所で育ったからか、昔から海を見ていると体が硬直した。緊張しているようでも、動きを制限して集中しているようにも、私には分からなかったけれど、長い時間見ていられた。
「そんときから知り合ってたらなあ」
「そうですねえ」
「ええ友達になってたと思わん?」
「確かにね」
「今はミヤちゃん、遠いっちゃ遠いもんな」
「そうですね、割とありますよね」
「な、大学生の頃やったら、なーんも考えんと適当にその辺歩き回って、どうでもいい映画観たり、特に居心地がいいわけでもない喫茶店で二時間三時間話したり、いい感じに無駄に時間潰せるのにな」
「別に、今でもそうすればいいんじゃない?、無理に、どっか行く計画立てたり、わざわざすること決めなくても」
「お、また会ってくれんのか」
「そういうこと?」
「いや、そんなつもりないけど、何となく。二人、正月は?」
「全部で一週間くらい休みありますね」
「私もそのくらい」
「どっかで会おうや、車出すし」
向かい合ってコーヒーを飲んでいる。私はシイノさんの淹れるコーヒーが結構好きなようだ。しっかり苦いのだけど、後味がすっきりしていて、ついついたくさん飲んでしまう。私たちは何かを話している。何について話しているのか、身振り手振りを交えて、楽しそうに何かを言い合っている。つま先が触れ合い、私は車の中で足元を見下ろした。二人の声が聞こえる。シイノさんは、それじゃあ三人でたくさん歩きましょう、と言って、モリイチはそれに賛成した。
高速を降りて、街灯の少ない下道を走り始めた。私たちは同時に財布を出したけれど、モリイチは「ETCついてるから」と頑なに受け取らなかった。お礼を言って財布をしまい、ほとんど真っ暗な町を眺めた。シイノさんはいずまいを正して、すぐに降りられるように荷物を整理した。誰かと別れる前の時間は気分が落ち着かない。
モリイチはしばらく黙って、ラジオに耳を澄ませているようだった。私とシイノさんは会社へ連絡するタイミングやでっち上げる話を考えた。二人ともあらかじめ引き上げることを連絡してはあったけれど、そんなことに見合う理由は何も思いつけなかった。
「ストーカーが来たことにすればええやん」
「ストーカー?」
「何ヶ月も続く電話に、出張先まで来られて、ミヤちゃん一人置いてかれへんかったんも納得してもらえるんちゃう」
「それは、いいかもしれませんね、実際そんなふうなところもあるし」
「その場で通報したりせんかったんも、特殊な状況で切羽詰ってた的なこと言えば大丈夫ちゃうか」
「通用するかな」
「まあ、もう帰って来てもうてるし、ある程度の不備っていうか、そういうのはしゃあないやろ。ミヤちゃんはまあ、知らぬ存ぜぬで」
「そうですね、軽く事情は知ってたんですけどって」
「そうそう。そんで、俺に迎えに来てもらったって、二人の共通の知人が近くにいたからって」
「うん、じゃあ、もうそれで行きましょう、本当にすみません」
「別にいいって」
「あとで名刺渡すし、二人とも、何かあれば電話して」
「モリイチもありがとう、ごめんね」
「俺は面白いだけやから、何も謝らんでええで」
「うん、ありがとう。じゃあ、昨日、地点から帰って来たら駐車場にその人がいて、怖くなって部屋に籠もって、それから迎えに来てもらったってことで」
「まあ、警察ちゃうねんから、思てるよりはなんともないんちゃうか」
「私も、そう思います、実際、ちょっと突飛なだけで、特に何ともないと思う」
「そうかなあ」
「ユカコは割と、昔からそういうの真面目やな。別にこれで不正に儲けようとしたりしてるわけちゃうんやし」
「真面目、真面目っていうか、不真面目だからこそちゃんとしないとずるずるそっちの方へ行っちゃうから」
やけに野良猫の多い町だった。暗くて色まではよく見えないけれど、モリイチは何度も減速して、道を横切る猫たちをやり過ごした。彼は毎回、口を尖らせてちゅっちゅっちゅっと音を鳴らし、どいてくれー、と言った。聞こえるはずもないのに猫は、音が鳴るとこっちを向いた。ライトや車そのものをちらっと見る時よりも、きちんと何かに反応しているように見える。シイノさんは、今の子かわいい、とか、ゼミにそっくり、とか、猫が通るたびに何かを言っていた。
野良猫たちはみんな、左側の茂みから右側の茂みへと移動した。どうしてか、一匹たりとも右から歩いてくる猫はいなかった。どの猫も薄汚れていたが痩せてはいなかった。高速を降りてからの数キロでどれだけの猫が横切ったのだろう。十五は超えているだろうが、それ以降は三十でも四十でも、そうかと思える。
「二人とも泊まったら?」とシイノさんが言ったのは、家まで十五キロを切った地点だった。モリイチは、ありやな、と言って、私は迷った。気持ちとしては何の異論もないのだけれど、朝一番に会社に行かないのはどうなんだろう、とさっきも今も考えていた。
「迷ってるなユカコ」とモリイチは笑って、「起きてから言うてたこと電話したらええやん、もしくはもっと夜にそいつが来たことにして、昼とかに今帰ってるところですみたいな感じで」
「この年齢のちゃんと仕事してる人としてどうなのかな」
「そんなもん、どうでもええやん」モリイチは妙に真剣な声音と、笑ったあとの顔で言った。そう断言されるとそんなような気もしたが、私はいつも思いついたことの前後関係での優位性が分からずにいた。どちらも間違いではないし、覆されたという点では後に思うものの方が何より正しくも思えるし、そんなことより何より最初に立ち上がったものを優先すべきだとも思えた。
「どっちみち私たち、今日はいなかったはずだし、引き継ぎを誰かに頼むにしてもそんなに変わらないと思うよ」
「そうですよね、そうですね、うん」
「じゃあ、決定、今日はゆっくりしていって」
「やったー」
「ありがとうございます」
結局、気が楽になる部分と重たくなった部分を見ている私は、何を考えているのか分からなかった。私はそれを見ているだけだ。寂しいだとか嬉しいだとか、そういったものも、そういう幾つかがあって、その中から私が感じたものだということにして選んでいるだけだった。何かに対して湧き起こる諸々のあれこれは、その都度テーブルの上に割りに綺麗に並べられている。私はその中から、そこにはないけれど最も近しいものを選ぶ。いくつかの例外は、何かを食べたり飲んだりして思うことと、肉体的な苦痛と快楽と眠気、それらは、普段はそこにあるものの中から何とかして選びとる私が抱いているものとほとんどぴったり重なっている。大まかにその五つは、分かるし伝えることができる。
どこかへ寄って軽く食べられるものを買おう、とモリイチが言って、私とシイノさんは頷いた。彼はコンビニを指差して、あれでええ?、と言った。シイノさんが、はい、と返事して、私はモリイチを見た。
車を出ると、寒いのだけどぬるくも感じる空気に包まれた。温度としては合間に寄ったサービスエリアとそれほど変わらないだろう。私たちはモリイチを先頭にセブンへ入っていった。
若い男女の店員は何かの話で盛り上がっていた。人の家にお邪魔している気分になるが、楽しそうで何よりだった。以前少しの間だけ、深夜のファミレスでアルバイトをしたことがあったけれど、最後まで慣れなかった。頭も体も怠く、それまでにどれだけ眠っていても変わらず眠たかった。
モリイチはカゴを持って、何でも入れてや、と言って私たちを先導した。彼は歯ブラシと缶ビールを二缶、大盛りのどん兵衛と塩むすびを二つカゴに入れた。私とシイノさんも缶ビールを二缶ずつと、鮭おにぎりと梅おにぎりを入れ、レンジで温める唐揚げも入れた。
意外にしっかりとした接客に軽い感動のようなものを覚えた。それそのもにというより、その切り替えの鮮やかさにだった。彼は、手際良くバーコードを読み取っていき、それが正解としか思えないような組み方で袋に詰めていった。
マンション近くの駐車場に車を停め、歩道いっぱいに並んで十分ほどの距離を歩いた。大学生の頃ではなく、高校生の頃を思い出した。私たちは三人とも同じ制服を着て、美草の暗い夜道を歩いている。こういうとき、実際の記憶よりも鮮明に浮かんでくるのは、出力の問題なのだろうか。本当にあったことよりもそうでないものの方が、もっと記憶らしい。
モリイチは袋の持ち手を腕に通して、そっちの手に携帯灰皿を持って煙草を吸っている。誰一人いない道でも歩き煙草を見て少しぎょっとするのは、何かが間違っていた。美草の、一時間に三台か四台かしか通らない道の赤信号を渡らないでいるときも、同じようなことを考えたことがあった。
「ミヤちゃん家は動物飼うてるん?」
「実家に犬と猫が一匹ずついますけど、家にはいないです」
「あ、そうか、家空ける仕事やもんな」
「まあ、そうですね」
「他にも理由ありそうやな」
「そうですね。高校生の頃に、物心つくかつかないかくらいからいた犬が死んじゃって、それから、自分では生き物を飼わないようにしようと思って」
「そんなに好きやのに?」
「うん、だからこそって訳でもないですし、よく分かんないですけど、私が飼わなければ私の犬とか猫とかは死なないから」
「まあ分からんでもないな。他に言い方ある気もするけど、目の前で死なれてもええ人とか動物とだけ付き合ってたいな」
「何となく分かります」
モリイチは、それでいいやん、朧げに生きとこ、と言って煙草を揉み消した。半歩分もないくらい後ろから、二人のやりとりを見ているのが心地好かった。
久々というほどでもないシイノさんの部屋は、やはり安らげた。私とシイノさんはソファに深くもたれ、モリイチは揃いのオットマンに腰を下ろした。袋の中身を出すと、机はいっぱいになった。
それぞれに食べたり飲んだりして、缶ビールを飲み終わる頃には昂っていた気も落ち着いた。私はモリイチとシイノさんが話しているのを眺め、返事をする以外では会話に加わらなかった。ソファに深く沈み込んでいると、アルコールと満たされたお腹の具合も相まって、知らず知らずのうちにうとうとと記憶が途切れ始めた。さっきまでしていた話と今話している話の繋がりが分からなくなり、短い夢を見たり覚醒したり、シートの化粧落としあるから寝たら?、と言われるまでそんな状態でそこにいた。
雪華子が寝室へ移動してから、守一はソファに移動した。美耶はオットマンに足を投げ出し、そろそろ寝ますか?、と言った。
「別にどっちでもええねん」
「じゃあ、一応毛布持ってきますね」
美耶が音を立てないように寝室へ入ったとき、雪華子はもう眠り込んでいた。彼女はクローゼットから毛布を取り出し、片手に抱えたままベッドの縁に腰掛けた。指の甲で頭を撫で、何度か短く顔や髪の匂いをかいだ。
守一は頭の後ろで手を組んで天井と壁の境目を睨んでいた。彼は決めかねていたし、実際どうなるのか、分からないし知っているわけでもなかった。何が持ち上がり、どう起こるのか、自身を含むのか除くのか、何一つ確かなことがない。毛布を抱えた美耶の気配を感じ、組んでいた手を投げ出した。
毛布を間に置いて、二人は残った缶ビールを飲んでいた。二人きりになると何を話せばいいか分からなくなった。二人の会話は、その内容に関わらず、雪華子がその場にいないと成立しなかった。二人はほとんど同時に煙草に火をつけ、煙を天井に向けて吐いた。細く開けた窓から煙は流れていった。入居者用の駐車場にいた猫がその煙を見た。見たが、それは猫にとって煙ではなかった。煙は地上から伸びていくように上がるものだった。煙とよく似たそれを、猫はただ見ていただけだ。傍らには仔猫がうずくまって眠っていた。美耶は煙草をくわえ、ゴミを袋にまとめた。彼女は何か言いかけ、その素振りもなく取り込んだ空気を吐いた。
守一はいくつかの考えるべき事柄を順に思い浮かべていった。彼は雪華子を送り届けた後、美草へ戻る必要があった。白木淳に会わなくてはならない。住民のほとんどが正確な名前を知らない、ガガ山と呼んでいる山へ行かなくてはならない。算段をつけようとするが、意識は散漫に、名案のようなものは浮かび上がらない。美耶の体の火照りを感じた。守一は一瞥してから煙草を深く吸い、煙を吐き出さずに息を止めた。体中が開き、閉じた。もう一度開いたときには、初めより開かれた感覚があった。唾を飲み込んでから口を開くと、目に見える呼気といった具合に弱々しい煙が漏れ出た。守一の意識は、雪華子が近くにいないときには、接続と切断を繰り返していた。美耶にはそれが分かっていたが、だからといって出来ることは何もなかった。
缶ビールを飲み終えると、彼女は「それじゃあ、ソファで申し訳ないですけど、好きにしててください。おやすみなさい」と言って立ち上がった。守一は手をあげて、おやすみ、と言った。彼女はリビングを出る前、色々とありがとうございます、と振り返ったが、そこには誰もいなかったし、適度に片付けられた机のせいか、誰かがいたような気配も感じもなかった。
雪華子が使ったまま洗面台に出たままの化粧落としを棚にしまい、浴室から石鹸とネットを取った。ぬるま湯で泡を作り、柔らかいそれで顔を洗った。目が覚めたとき、守一は戻って来ているだろうか、とそればかりを考えていた。
守一はソファに座っていた。美耶の焦点が、自身と彼女の間の空間に合っていることが分かった。彼はそろそろ休まなくてはならなかった。ここ数ヶ月ろくに休めていない。これからのことを思うと、疲れている場合ではなかったがどうしようもない。美耶がリビングを出ていくのを見送ってから、勢いよく寝転んだ。ソファの肘掛けに頭をのせ、体はすっぽりと収まった。柔らかい革が沈み込み、守一の両耳を緩く覆った。美耶の足音が、その振動を耳の奥で感じる。もう雪華子は眠っただろうか、と彼は考えていた。こうなったのは誰のせいでもなかったがそれでも、あらゆる考えは雪華子を起点に始まり、彼女へ帰結した。
立ち上がって電灯のスイッチを探し、何度かキッチンや壁に近い灯りを着けたり消したりして、ようやくリビング全体を暗くした。オレンジ色の淡い灯りを見つめながらソファに寝そべり、カーテンの隙間から夜空を見た。腕を伸ばして机の上の煙草を取り、火をつけながら空き缶を胸の辺りに添えた。吸い込まれた煙は体中から漏れ出ていく。かぶっていた毛布を足で引き下げ、目だけを下げて空き缶の口に灰を落とした。静かになった家の中では、自身の立てる音と、そこにいると知っているからこそ感じる気配で満ちている。美耶はまだ眠っていないだろう。あれこれと、天井や雪華子の顔を眺めながら思いを巡らせているかもしれない。それとも、彼女は案外別のことを考えているのかもしれない。目が覚めてからの食事や、道すがら見かけた野良猫のことや、彼女はよくやっている方だったし、無駄に慌てたりするところがない。守一は彼女が雪華子と親しくしていることを誰かに感謝しないわけにはいかなかった。彼とっては、有難いこととしか思えなかった。いくつもかの思い出が繰り返し浮かび上がってくる。雪華子が既に忘れ去ってしまったことも、守一は何一つとして忘れてはいなかった。底に残ったビールにタバコが落ちるじゃっという音を聞き、そろそろと机の上にそれを置いた。毛布を引き上げ、頭をさらに沈み込ませた。徐々に熱を蓄える革の質感が、彼を安心させた。久々に感じる眠気のようなものを、定義し直すようにゆっくりと確かめていった。頭の中心と外側が膨張し、空気が抜けたように元の大きさに戻る。はっきりとそう動いているようなのだが、何度手で触れてみても少しも動いていない。それでも手が触れている間も伸縮に近い感覚は続いていた。瞬きの音が聞こえるほど静かだった。
顎の下まで布団に包まって、強烈な眠気を感じているものの、美耶の目は冴えていた。部屋の暗さと視力からくる薄ぼんやりとした視界の中で、雪華子の顔を見つめている。彼女は本当に忘れてるんだ、と思った。美耶は雪華子の無関心さが好きだった。彼女は大体において、何事にも興味がなさそうで、これといって特別好きなものもなさそうだった。それは垣間見る程度に何度か見た人付き合いにおいても変わらないようだったし、一歩引いている訳でもなく、その場にいるのだけど、そこの空気や雰囲気をつくる何かに参加していないように見えた。彼女は自分自身がなぜ、雪華子のそのような部分に惹かれるのかが分からなかった。その分からなさは、間違っているか合っているかは一旦置いて、ある程度、他の人には通じないような言葉に表せているせいで起こるものだった。彼女の、足が長いのでも腰から上が長いのでもないバランスの好い体つきも、低く澄んだ声も、体中にある黒子も、そのどれもに惹かれていたが、もちろん、何一つ理由は分からなかった。美耶は、自分らしくない、と考えていた。確定できないことを考えるのは彼女が意識的に避け、そのうち常態になったことの一つだった。元がどうであるにせよ、ある目的を持って変えたものは、変更後の姿が正しいものなのだと彼女は考えていた。それは彼女の生きている中での哲学だった。何事も、どのような結果をもたらすにせよ、正しい姿は今なのだと、そう感じていたし、だからこそそう考えた。守一は、今になって何をしに来たのだろうか、彼女はそんな考えを払拭することができない。何を今更、と。しかしそれも、彼女の考えに当てはめると、正しい行動だった。どれだけ手遅れに見えたとしても、何かを変えようとし続けることは、美耶にとっても当たり前のことだった。それでもやはり、何を思ってそうしているかの、その、発端が上手く掴み切れなかった。雪華子を本当はどうしたいのか。私や、私たちをどこへ導きたいのか。一度だけ見にいった彼とは、雰囲気が違っているせいで、別人に見えた。それは顎髭や分厚くなった体のせいではないように思えた。人はあれほど塑性の高いものだろうか。無機物と生物に共通する科学的組成のように、何となく信じがたい思いがあった。今の守一は、彼を形作る要素の、最低限の集合体でしかないように見える。それは、残骸ではなかった。ただいくつもいくつも、何かが足りないだけだった。言葉も交わしたこともない彼のことを、自身がどれだけ分かっているのか、美耶には自信がなかった。それでもその思いつきの強さには抗い難いものがあった。
雪華子の頬を撫で、手の甲についたタオルの糸屑をつまみ上げた。美耶は彼女と暮らすことを、現実的に考え始めていた。それは、守一の言ったことのおかげだったが、ストーブ以外に触れて火傷するものは思いつかなかった。彼の言ったことが、何故だか頭の隅の方に残っていた。小ぶりなアラジンのストーブでも置こうか。灯油を注いで使うものがいいのだろうか。雪華子さんは私と一緒に暮らすことに、どれくらい、私が彼女らしさの根幹の一つだと感じている冷淡さから離れてくれるだろう。少し分かった。私は、そんなふうに見える雪華子さんがたまに見せる、愛着の持ち方が好きなんだ。私は今の部屋自体は好きではなかった。今あるいくつかの家具を置けるならどこだって良かった。家具が窮屈そうにしていなければ尚いい。仕事だって何だっていい。雪華子さんと行った百貨店の中でランダムに決めたっていい。端から見れば、私の方が冷淡に見えるのかもしれない。確かに、私は何かに対する愛着というものが少ない。ぱっと思いつくものは、家具と雪華子さんだけだった。読み終わった本も、どうだっていいと言えばどうだって良かった。それらを読んだ時間と、今に私がいればそれで何も問題はない。極端なことを考え始めると、もうこれしかない、と思い始めるが、旅行の準備のようで、それが楽しかった。こんな時間まで夜更かしするなんていつぶりだろう、と彼女は感じていた。そんなものはないにしても、もう今の仕事を辞める頃合なのかもしれない、とぼんやりと考えていた。
守一の意識はリビングの隅まで染み込んでいた。今の彼は、どんな気配も逃すことができない。限界まで先鋭化した意識は、むしろ当人を傷付けた。何もかもが終わって、変わってしまった後、何から始めればいいのか、途方もない選択肢の前で立ち尽くした。何を選び取ることも選び取らないことも、全ては裁量にかかっていた。俺は、何も選びたくなかった。すっぱり終わったと思っていた。こんなことになるなら、初めからちらっとでも教えてくれよ、と彼は思った。どういう訳か、何をするにも疲れ過ぎていた。言葉は、彼の中で意味を失ってしまった。それはただの音になってしまい、何かを伝える手段としての言葉は、彼の手元には何も残されていなかった。守一は方法を知っているだけだった。美耶ちゃんがいるなんて聞いてない。俺がやるべきことは、美耶ちゃんが代わりにしても何も変わらへん。俺はむしろ、何もせん方がええんかもしれん。二人の、ずっと先を邪魔してるのかもしれない。それでも俺がやれることは、やらへんわけにはいかん。何が出来るのか、未だに守一には分かっていない。飛び出してきたようなもので、何が必要かも分かっていない。あるのは車と少しばかりの現金だけだった。そんなもので何が出来るのか。とにかく、二人を美草から離すことはできた。でも、雪華子はまだしも、美耶ちゃんは?またすぐに行かされるんちゃうか。そんとき、もう俺に出来ることは、強引な手段しかない。なるべくならそんなことはしたくなかった。それに、そうなったら雪華子は美耶ちゃんを追いかけるんかも知らん。それこそ、もう終わりや。これはただの旅行に過ぎひん。突発的な休みや。俺らは、二人が目覚めたあと、どっかに飯でも食いに行って、雪華子を送るタイミングを見失ったまま、まあまあ夜までここにおることになるやろう。それはそれでええ。そんなことはどうでも良かった。とにかく、雪華子を、出来るなら二人が、美草へ訪れる機会を奪い続けなくてはならない。誰の協力も得られない。美耶ちゃんは?無理や、結局のところ、彼女が出来ることと、俺が出来ることは全く別のことやねん。白木淳は?もっと無理やな。会わなあかんけど、俺はあの人に俺の言葉を預けてあんねん。巻き込むわけにはいかへん。本来なら、美耶ちゃんも巻き込むべきじゃなかった。雪華子自身は?それが一番利口やけど、あかんし、それに無理や。というかお前誰や。あの子はもう三つ目の犬を見てるぞ。守一は大きな溜息をついた。体中の力が、瞬間的に何もかも抜け落ちたようだった。そういうことは早よ言うてくれや。それなら大丈夫?知るか。事情は説明できても、それだけや。雪華子が納得するんも、手伝うというか何というか、それに立ち向かうのも、俺には分からん。諦める?それがええんやろうな。俺には何もできひんかった言うて、諦めるのが一番ええんやろうな。でもそれはないな。守一は煙草に手を伸ばした。雪華子の置いていったピースを手に取り、一本くわえてポッケからライターを取り出した。しばらく唇で煙草を転がした。煙草を吸う気にはなれなかったが、頭の中だけで何かを考えていることに疲れて飽きていた。起き上がる気力も沸かないし、外に出て夜気を浴びるのも面倒だった。指先が耐えられなくなるまでライターの火を見つめた。何度もそれを繰り返し、観念したように煙草の先端を火の中に差し込んだ。先の数ミリが捲れ上がって熱を抱え、濃密な味と煙が流れ込んできた。守一は、美耶と雪華子がきつい煙草を吸っていることを何故か愛しく思っていた。彼は、ピースを吸いながら、長いあいだ瞼を閉じていた。幼い頃から今までの、雪華子の声を思い出していた。彼女の声はいつも、喉の窪みよりも下から響いているように聞こえた。明瞭な声音は、いつでも彼を癒した。彼は博物館で眠ったことなど一度もなかった。いつも、顔を伏せ、机にしがみついていただけだ。自分自身が散り散りになってしまわないよう、出来うる限り物理的な策を講じていただけに過ぎない。重心を低く、机や何かを強く掴む。そうすれば吹き飛ばされないと、そう信じていた。そんなときでも彼女の声だけは、守一へ届いた。彼は顔を上げる。まだ雪華子に自分の顔が見えない地点から笑顔をつくる。彼女は、また寝てたの、と言う。彼は安心する。俺は寝てただけや、と一瞬だけでも、信じ込むことができる。大丈夫や、俺は寝てただけや。雪華子は彼の目を見つめる。守一は目玉が邪魔だと感じていた。そこに穴だけがあれば、彼女の声はもっと俺の体の奥の方まで届くんちゃうか。果汁の焦げた香りをくっきりと思い出すことができる。話し込んで近付き過ぎた膝の熱さを思いだせた。やかんから勢いよく吹き出す湯気の色を思い出せた。淳さんの言う通りやった。守一と雪華子は、離れるべきではなかった。もしくは、出会うべきではなかった。淳さんに合わす顔がない。いや、あの人なら、ほんまに力になってくれるんやろうな。いつぶりかの美草は相変わらず綺麗やった。葉がなくても、ようけ陽を浴びた草やら木やらは見てるだけで気持ちがええ。昔の人はえらいシンプルな名前つけたな。守一は灰を落とさないように空き缶を取った。半分ほど残った煙草を中に落とし、机の上に置いた。毛布の重みが心地好く、頭がぼんやりと鈍くなってきた。
美耶は眠っていた。夢も見ず、深い眠りの中にいた。雪華子は寝返りをうち、彼女の体に右半身が重なった。美耶は口角を上げ、ほんの一瞬瞼を開けた。そこには何の意識もなかったが、目は勝手に何かを確認しようとした。彼女は雪華子の体を抱き締め、そこで初めて彼女の体の重みを感じていた。雪華子もふっと瞼を開け、微笑みを残したままの美耶の顔を認めた。近さと眠りのもやでよく見えなかったが、笑っているのは分かった。自身の意識のない時にも、誰かが自分のことを思っていたのだと、彼女はさっきより深い眠りへと落ちていった。二人は太陽が中空へ昇るまでぐっすりと眠った。
遮光性の高いカーテンのかかった部屋で目覚めると、今が何時頃なのか見当も付かず、寝過ぎたことだけが分かる。シイノさんと私は、頭の横っちょをくっつけて、八の字みたいに眠っていた。開いた扉の向こうから物音が聞こえる。水を流す音や足音。
シイノさんを起こさないよう布団を出て、ベッドのそばにしばらく立ったまま彼女を見下ろした。彼女は寝返りをうって何かを呟き、口をもごもごさせてから落ち着いた。
ほとんど隙間を変えずに扉を抜け、リビングへ行った。
モリイチはキッチンでコーヒーをつくっていた。おう、飲むか?、と言ってインスタントコーヒーの瓶を指さした。
「おはよう、もらおうかな」
「よう寝たなみんな」
「多分、今何時?」
「いや、まだ時間見てへん」
ソファに向かいながら時計を探し、ちょうどソファの前の壁、キッチンへの吹き抜けの上にかかっていた。十二時を大きく過ぎ、あと数分で十三時になるところだった。私は慌てて立ち上がり、iPhoneを探した。
見つけたそれにはカギタニくんとアキちゃんからの着信が数件ずつと、社長からの一件残されていた。足音を立てないよう小走りで玄関まで行き、裸足のまま靴を半分履いて外へ出た。
扉にもたれかかって、社長、カギタニくん、アキちゃんの順に掛け直した。拍子抜けするくらいみんな話が通じて、私はまだ眠ってるんだ、と思うほどだった。普段は割りに厳しい社長でさえ、軽い注意と「ゆっくり休め」と言ってくれた。電話を切ってカギタニくんへかける短い間に、言伝したらしく、間を開けて通じたカギタニくんは少し慌てた様子だった。代理の人探しとけって言われたんでこっちに任せてください、と彼は言って、私が返事をする前に電話を切った。アキちゃんは涙声で、三人の中で一番心配しているようだった。ほんの少し関係のない話をして、彼女が笑ってから電話を終わらせた。そのまま廊下の先を見つめ、何も考えずしばらく立っていた。何かを考えるべきなのだけど、こんなんでいいのかな、と文字になって浮かんでいるのを見ているだけだった。
思ってもいないような形で、物事が上手く落ち着こうとしていくのは不気味にも思えた。初めから終わりまで、私自身はほとんど無関係に、それらは進行していったようだ。
リビングに戻り、ソファに座って出来上がっていたコーヒーを啜った。モリイチはオットマンに腰掛けて、開けた窓から外を眺めている。私はそれでも、ちらちらと時計を見ていた。
「どうやった?」
「みんな、かなり心配してたけど、特に何事もなく終わりそう」
「良かったやん、何時に帰りたいとかはあんの?」
「うん。ううん、これといって指定の時間はないかな、今日のうちならって感じで」
「うんうん、ほなミヤちゃん起こしてご飯でも食べに出ようや」
マグを机の上に置きながら立ち上がり、寝室の方へ歩き出した。
シイノさんはまだぐっすり眠っていて、もう時間を知っているけれど、薄暗い部屋の時間はよく分からなかった。起こしたくなくなるほど気持ち良さそうに眠る彼女を、壁にもたれてしばらく見つめたあと、シイノさんも会社に電話しなくちゃいけないんだ、と思い直した。壁から離れ、ベッドに腰掛け、シイノさんの肩に触れた。声をかけながら軽く揺さぶるとすぐに目を覚まし、おはよう、とがらがらした声で言った。
モリイチとコーヒーを飲みながら待っていると、シイノさんは戻ってきて、手で頭の上に丸を作った。
「大丈夫やった?」
「うん、今日中に別の奴を行かせとく、って」
「ほんじゃ今日は二人とも休みやな、なんか食べ行こう」
「行こー」
私たちがあれこれと用意している間、モリイチはベランダに空き缶を持って出て、煙草を吸いながら遠くを見ていた。
駐車場まで歩く間に、何を食べようか、と話し合った。時間も微妙だし中華しかないかも、とシイノさんが言った。三人とも食べたいものはなかったし、とりあえずそこまで行ってみようということになった。
それなら車はいらないよ、と進路を変更し、路地を抜けて別の少し広い道路へ出た。
「生まれも育ちもここ?」
「そうですね、大学の四年間だけしか出てってないですね」
「何で戻ってきたん」
「何で、うーん、特にはないですけど、好きなんですよねここ、何となく、何があるわけでもないですけど」
モリイチは少しだけ驚いたような顔をして何度か頷き、煙草をくわえたあとポッケにしまった。
中華料理屋は広い道路から住宅街へ入ってすぐのところにあった。赤と黒と茶色の外装は割と綺麗に保たれていた。私たちが中に入ると、厨房にいた男の人が大き過ぎる声で「いらっしゃい」と言って、その声で奥さんだろう人が暗がりから出てきた。
四人がけのテーブルに落ち着き、メニューを見た。厨房の方から「ランチもできるよ」と声をかけられ、私は彼が何か言うたびに体をびくつかせた。ランチのセットは一時間以上前に終わっていたけれど、私たちは好意に甘えようとランチセットを三つ頼んで、単品でエビチリと酢豚を追加した。
「美味そうやな」と店内を見回すモリイチを見ていると、おかしくも見えたけれど分かるような気もした。
「たまに来るんですけど、結構好きですね、お昼過ぎたら今みたいにのんびり食べられるし」
「ユカコさん、よく眠れた?」
「え?、うん、車でも寝ちゃってたけどぐっすりだったよ」
「良かった」
「二人は、割と遅くまで起きてたの?」
「でも三十分も空いてへんちゃうかな」」
「そっか。二人とも、本当にありがとう」
「どういたしまして」シイノさんは唇の右端だけで笑っている。モリイチは眉を上げて頷いた。
餃子とスープ、炒飯と小皿の青椒肉絲がのったお盆が三人の前に置かれ、その隙間にエビチリと酢豚が並んだ。私はその時点で少し空腹度合いが減った。モリイチとシイノさんはさらにお腹を空かせたようで、いただきます、と言うと黙々と食べ進めていった。
どれもこれも美味しいのだが、餃子だけ格別に美味しかった。焼き目の香ばしさと薄く透けて見えるほどなのにもっちりと食感のある皮も、肉汁と野菜のスープが溢れてくる餡も、五つじゃ足りないくらいだった。気が付くとモリイチは私を見つめていて、目が合うとにやっと笑った。やるわ、と言って二つ残った餃子を指差し、目線をあげると、二つとも、と言った。
国産ではなさそうな酢醤油も良いアクセントになっていた。香りが多く、味そのものは薄いくらいで、旨味の強いこの餃子と合わせるといつまでも食べていられそうだった。
シイノさんはエビチリを、モリイチは青椒肉絲を気に入ったように見えた。モリイチは卓上で残ったものを全て平げ、メニューを見て胡麻団子を頼んだ。私たちは杏仁豆腐を二人で分けることにして、お皿やらを引き上げてから持ってきてくれた六堡茶というお茶を啜った。すっと抜けるような甘みのあるお茶だった。
腹ごなしにドライブでもしようや、とモリイチが言ったのは、会計を済ませて店を出てすぐだった。
「やったー、でも、疲れてないですか?」
「大丈夫やで、ユカコは?」
「私も、大丈夫」
「ほな行こ、このまま車んとこ行って」
「カメラ取ってきていいですか?」
「ほな二人で乗って待っとくわ」
来た道を戻り、右手に駐車場が見えるところで二手に分かれた。
何とか押し切って駐車料金を払い、助手席に座った。
「別にええのに」
「お昼ご飯も出してもらったし、昨日も色々」
「気にすんなや」
モリイチは車を出し、マンションのロビー前につけた。
数分後に降りてきたシイノさんは、首からカメラを下げ、布を抱えていた。それは人数分のブランケットとマフラーで、後部座席に座ると「さあ、行きましょう」と言った。
彼女は、行く場所が決まってなかったら湿原でも行きませんか、と言って、私とモリイチはもちろんそれに賛成した。二人ともこの町のどこに何があるか知らなかったし、うきうきしているシイノさんに水を差す気もさらさらなかった。
モリイチがその場所の名前を聞いて、ナビは私が設定した。一時間ばかりで到着するようだ。「ちょうどええ距離やな」とモリイチは言ってアクセルをくっと踏み込んだ。
「コーヒー淹れるセット持ってきたからさ、ユカコさんお願いしていい?」
「え?、全然いいですけど」
「良かった、あの、何だっけ、喫茶店で淹れてたの美味しかったから」
「ああ、VONTでですね、同じようにはならないですけど、頑張ります」
「うん、丸っぽいドリッパーと一応豆の状態で持ってきた」
「丸っぽい、一つ穴のリブが、線がうずっぽくついてるやつ?」
「そうそう、豆はね、インドネシアって書いてある」
「あ、じゃあ、結構近いのが出せるかもしんないです」
「やったー」
「ユカコ、VONTでコーヒー淹れたん?」
「うん、ジュンさんが飲みたいって言ってくれて」
「ほー、ええなあ、俺も久々にあっこでユカコの淹れたん飲みたいわ」
「何とか再現してみます」
どの道もまっすぐ伸びていて、退屈だろうが走りやすそうだった。広めの道はどこも、何度曲がってもすっと伸びていく。コンビニで二リットルの水と紙コップを買い、煙草を吸った。モリイチは、昨日もらったから、とキャスターを一本くれた。何となく煙草をイメージした時通りの味だった。苦さや甘みのバランス、煙の量や立ち上り方、どれも頭の中の煙草と同じだ。
美草と何が違うかと聞かれると、これといったものは何一つ挙げられないのだけど、それでも息苦しくはなかった。ここにあるものは向こうにもあるし、向こうにないものはこっちにもない。私には自分が美草をどうしてこんなに嫌がっているのかも分かってはいない。印象や思い出のせいでしかなかった。何か分からないけれどここを好きだと言ったシイノさんの表情が頭の中で再生されている。何かを好きになるのに理由はなくていいけれど、嫌うとなると明確な理由が必要であるような気がした。それで言えば私は、生まれ育った美草に対して、まだどのような評価も下してはいけない。モリイチは多分、どちらでもなかった。数多ある町のうちの一つ、その中ではほんの少し特別な場所として美草はあるような、そんなふうに見えた。
私にはこんな時に、じゃああそこへ行きましょう、と言えるような場所が一つもなかった。それはどんなところでもそうだけど。どんな場所で何がしたいかを訊ねてからなら、それじゃあ、とどこかへ行くことを提案できるのだけど、何もないところから、きっと気に入るはずだと示せる場所を持っていない。
シイノさんは布にまみれたまま椅子に深く座り、窓の外や私たちを見ていた。大体モリイチとシイノさんが話して、私は特にどこも見てはいないけれど、ぼんやりと会話に参加していた。満腹で眠いような気もしたけれど、そういうわけでもなく、ただ意識が浮腫んだようにぼわぼわしていた。彼女はしょっちゅう、やったー、と言ってにこやかにしていた。後ろに座っていても、ルームミラーで心底嬉しそうにしている彼女が見える。
駐車場に着く頃には陽はほとんど落ちかけていた。三人ともシイノさんの持ってきたブランケットを羽織り、マフラーをしっかりと巻いた。シイノさんの背負っていたリュックをモリイチが「持つで」と言って肩にかけ、彼を先頭に湿原まで伸びる山道を歩き始めた。
私たちは狭い道で並んで歩き、モリイチの背中を見ながら下っていった。普段山歩きをしているのか、彼の足取りは軽やかだった。少し心拍数が上がる。乾いた地面を踏み締める音と風が左右の森を抜ける音、リュックの中で何かがぶつかる音以外ほとんど何の音もなかった。鳥もいない。時折誰かの靴の下で、ぼっという音がなるくらいで、例外的なものは他にはない。シイノさんはいつもこんなところに一人で来ているのだろうか。モリイチは時々振り返って、大丈夫か?、と言った。私たちが元気よく、うん、と返すと、何度か後で「そっか、二人ともようけ山歩いてんのか」とひとりごとを言った。
それからも何度か彼は振り返ったけれど、何も言わず、私たちの奥にある道の方を見ているようだった。私はモリイチが前に向き直ってから、後ろを見た。何もないし誰もいない、今し方歩いてきた山道があるだけだ。細い丸太で作られた階段と、そのせいで抉れた階段の左右の溝、丈の低い笹とその少し奥の藪らしい風景、そんなものがあるだけだった。シイノさんは一度も振り返らなかった。彼が何を確認しているのかを知っているような、あえて見る必要もないといった表情にも見えた。
十五分ほどで平地に出た。背丈くらいある枯れたタカノハススキの間を縫うように続く道を歩き、湿原の上をぐるりと回る木道の前で立ち止まった。腰をかがめてちょうどよく見える看板に、湿原の名前と簡単な地図、よく見られる植物などが書かれてあった。全長一キロほどの木道は、半分ほどは左手にある湖に沿っている。後の半分は私たちが降ってきた山側で、まずはそっちの道を進むらしい。
看板を過ぎると途端にススキは消え、湖と山や木道が一望できるようになった。木道は湿地から一メートルもないくらいの高さで伸びていて、音の響き方から橋の上を歩いている浮遊感があまりなかった。
シイノさんが前を歩いて、私とモリイチは後ろを歩きながら煙草を吸っていた。誰もこおへんし誰もおらんやろ、とモリイチが煙草を吸い始め、私もそれに倣った。一人だったら吸ってないな、と思いながらも、開けた場所で吸う煙草は美味しかった。空気も、駐車場のあったところよりも澄んでいるけれど瑞々しいようにも感じる。肌に当たる風がちょうど良くしっとりしていた。シイノさんが振り返って、いいなー、と言ってから吸い始めた。
私は湿原と木道を挟んで向こう側の湖を見ながら歩いていた。モリイチとシイノさん比較的ずっと前の方、これから歩く木道の方を見ていた。湖や海や池といった、巨大な水の溜まりが幼い頃に側になかったせいか、大人になってからそういったものに惹かれることが多くなっていた。川なら町のどこにいたって見ることができたのだけど、どこにも溜まらずに流れていくだけだった。夕陽をたっぷり吸い込んでオレンジ色になった湖面は、ゆらゆら揺れるたびに淡く輝いていた。対岸の山は黒っぽい影に覆われていたが、湖は目にうつる端から端まで輝いていた。波頭と、次の瞬間には波頭になる湖面はそれぞれに違った光の反射の仕方があるようだった。鈍く光る部分と鋭く光る部分が層を成している。
うねうね続く木道がカーブして右手のすぐ側に湖が見える頃、陽の光は弱いのだけど局所的に鋭く差し込んでいた。湖上に迫り出し、背もたれのないベンチが一つだけある場所で立ち止まった。モリイチとシイノさんがベンチの両端に座り、私はその前に腰を下ろしてリュックを受け取った。ポール型の手挽きミルと小さな琺瑯のポットを出し、ガスを使って湯を沸かした。紙コップを出していても飛ばされないくらい風がない。それでも、とぼとぼと歩いて火照った体にはちょうど良かった。サーバーの上にフィルターをセットしたドリッパーを置き、沸いたばかりの湯を紙全体にかけた。サーバーに溜まった湯を紙コップに移し、ミルからドリッパーへ珈琲豆を流し落とす。気持ち程度に、蓋を取ったポットを揺らし、中の湯が冷めるようぐるぐると回した。
二人ともやけに真剣な表情で、火のついた煙草をくわえたまま一連の動きを見つめていた。VONTで働いていた頃の緊張感を思い出しながら、湯を注ぎ始めた。少し細挽き寄りにして、熱めの湯をゆっくりと注いでいく。蒸らしている間に、まだ光っている湖を眺め、水上すれすれを飛んでいく鳥を見つけた。中心から外側に向かって、そのポットで出来る限りの細い湯を時間をかけて注いでいった。遅れてやってくる濃い香りが辺りに漂い、一瞬だけ寒さを忘れた。終盤に少しだけ湯量を増し、濃密な抽出液を湯で伸ばすような感覚で落としていった。
出来上がったコーヒーを三つの紙コップへ移し、二人の間に座る前に片付けを済ませた。モリイチとシイノさんは、紙コップを両手で持って私を待っていた。そうか、二人は飲み物の飲み方が似てるんだ、と思い付きながら傍らに置いていた紙コップを手に、ベンチの空いたところに腰を下ろした。
「ああ、美味しいなあ、ありがとうユカコさん」シイノさんは一口啜った後、何かを思い出しているような表情で言った。
「懐かしい味するわ、豆なんかいつもいつもちゃうやろうに、ユカコのコーヒーって思うんなんでなんやろ」
二人の表情を見ながら、少し体を反らせてにやにやした顔が収まるのを待った。一口飲み、上手く淹れられたことと、陽が落ち切る前に終われたことを喜んだ。陽の光が背後から差しているのは分かっているし、背中の暖かさから、体でも感じているのに、湖の中から光が広がっているように見えた。
それから陽が沈み切るまで、私たちは何も話さずにそこに座っていた。熱かったコーヒーも冷め、体も、芯までとはいかないまでも冷えて固まっていた。二人はやっぱり私より寒さに強いようで、ブランケットをしっかり体の前で合わせてはいるが震えてはいなかった。腿や胴体といった、そのほかの部分よりも若干太いところの奥が震えていた。肌で感じる寒さは、もう感じ取れなくなっているのか、それほどでもなかった。
暗い湖は高い粘性を持っているかのように揺らめいていた。鴨たちは流れのままに漂っていて、陸地に近づき過ぎると飛んだり泳いだりして距離を取った。その行動は本能によって為されているのだろうか。いい感じの場所、みたいな淡い感覚を元にしているのか。何に対しても予想の範囲を出ない。
最初に立ち上がったのはモリイチだった。ごっそうさん、と言って空の紙コップを振りながら腰を上げた。シイノさんのカップをちらっと見てから、半分くらい残っていたコーヒーを一息で飲み干した。彼女のカップを受け取り、背中を伸ばしながら立ち上がり、モリイチのカップも回収した。
リュックは変わらずモリイチが、重ねた紙コップを私が持って、残りの木道を歩いた。もちろん灯りはないのだけど、月光で足元はしっかりと見えていた。広くはない木道をシイノさんと並んでいると、冷気とは違った冷ややかさを感じることになった。普段の山の中では見れない植物を見ていると、縁から爪先が出ていたりする。そのたび釣り針のような形で、おへそから鳩尾にかけてすっと冷ややかさが抜けていく。意識しないうちに高度を増していたようで、ぽつぽつよ高山帯に生える植物を見ることができた。どれもこれももう花はないけれど、奇妙な形のものが多くて好きだった。そういえば、シイノさんが好きな植物を知らなかった。彼女はどちらかというと動物に強い印象があったけれど、私が何かしらの植物を発見すると、その私に気がついて「それは?」と訊ねた。それは、私のためという面もあるだろうが、声音からすると、彼女自身にも興味があるようだった。彼女は「どんな花が咲くの?」と言うことが多かったから、基本的には園芸植物の方が好きなのかもしれない。私は地味な植物が好きだった。一見、何のためにこんな形状に育つ必要があるんだろう、と思えるものに惹かれた。まだ花を咲かせていな蘭科や桔梗科の、地面からいびつに伸びる姿は何度見かけても飽きなかった。
歩き始める前に、「写真撮ろうよ」とシイノさんが言って、モリイチは「恥ずいわ」と言って嫌がっていた。私は二人のやりとりを見ながら、すっと部外者のように立ちすくんでいた。モリイチがそんなに何かを嫌がっているのを見るのが珍しくて、口元が緩んでいた。シイノさんは「いいからいいから」と言ってモリイチを私の横に押し、私が彼を抱き止めた。シイノさんは座っていたベンチにリュックを、その上にカメラをのせてセルフタイマーを設定した。私はモリイチごとしゃがんで、シイノさんが隣に来るまでじたばたする彼を抑えていた。
シイノさんがすぐ側に腰を下ろしたのと同時にフラッシュが瞬き、そこでようやくモリイチは体の力を抜いた。そうすると途端に彼の体が重たくなって、左の足の裏と右足の爪先で取っていたバランスが崩れた。木道の狭い出っ張りの上で私たちは倒れ込んだ。彼の体は、ホテルのロビーで抱き締められたときとは違って、立ち枯れた巨木のようだった。見た目や触れたときの印象と、力一杯叩いたときに響く高いのか低いのか分からない微妙な音や水分が抜け落ちて朽ちた軽い感触の差のように、今こうして見ているモリイチと、何かがずれているみたいだった。
私はモリイチの上から横にずれて立ち上がり、彼の手を取った。彼は、怪我ないか?と立ち上がりながら言って、ぱたぱたと服をはたいた。シイノさんは「大丈夫?」と言ってから私たちに液晶画面を向け、いい写真、と言い足した。
私は、自分でも見たことがないくらい笑っていた。モリイチはカメラに顔を向けながらも、何かを見つけたような表情で、目も口も中途半端に開かれていた。シイノさんだけぶれないで写っている。横目で私とモリイチを見て、下唇を噛んで笑っている。
ふっと周りの空気が軽くなったように感じるほど、隣のモリイチが体の力を抜いたのが分かった。彼は画面を見つめたまま、内側から噛んでいるのか、唇をもぞもぞ動かしていた。何か言いたいのか、言おうとしているのか、それを我慢しているようではなかった。沈黙の長さが違和感に変わる少し前に「ええ写真や」と言って木道に体を向けた。それは本当にいい写真だった。きっとこれ以上に良く写る私はこの先にはいないだろう。
モリイチは左肩にリュックと束ねたブランケットをかけ、対岸の山を眺めていた。思えば丸一日以上お風呂に入っていない体から嫌な匂いがする。顔を下に向けるともわっとした匂いを感じた。私はそれで、反射的にというのか、シイノさんの匂いを嗅ぎたいと思い始めた。何となく、犬や猫みたいに人に近いところで生きている動物や動物園で見れるくらいの動物たちは、種類によって匂いの違いがあるにせよ、獣臭いと言ってしまえるが、人は割と、短い日数であれば、それぞれに違った匂いがあるように思っていた。最後に体を洗ってから何十時間か経って、人の匂い、と言って通じる範囲の中でも、私とシイノさんとモリイチとでは全然違った匂いがするはずだ。それを確かめたかった。二人の今の匂いをどう思うのか知りたかった。
月の光は湖面に反射されているように見えた。夕方に木道を歩いている時よりも、見えるものは少なくなったが、今の方が明るく感じられた。うっすら緑がかった青白い光が私たちを照らし、濃紺の影がちらちら震えている。
木道を歩き終え、ほとんど何も見えない山道の階段を登り始めた。私とシイノさんは体を寄せ合い、モリイチはすたすたと速度を変えずに歩いている。シイノさんからは、私が思う彼女の匂いが、少し濃くなったな、というくらいしか違いがなかった。意識しているからこそ分かる程度の汗の匂いと、ブランケットの埃の匂い、ずっと前に付けただろう香水の残り香、そんなものが混じり合っていた。
前を歩くモリイチのジャケットは、その布地の畝に夜の暗さが溜まり、つるりとしているように見えた。彼の足取りは一定だった。仕事でもたまに出会う、どの地形でも歩く速度の変わらない人と同じ足運びをしている。微々たる差だけど普段より少し狭い歩幅と、腰から歩いていると印象に残る筋肉の動かし方、横にも縦にも動きの少ない上半身の動き、その全ての動きがしっかりと連動している。今すぐにでもシャワーを浴びたい。自分自身の匂いが気になって呼吸が浅く乱れていた。冷え切った体のせいもあるだろうが、いつもなら何てこともない坂道が苦しかった。
駐車場に着いて、車に乗り込む前に煙草を吸った。柵から見える木道は、実際よりも長く、脆そうに見えた。月光の下では舞台装置にも見える。あんなところを歩いていたのかと、体が大きくなったような気がした。
モリイチはリュックを助手席に置き、私はシイノさんと一緒に後部座席に乗ることにした。彼はさっと後ろを振り返り、前を向いてから「このまま帰るか、いったんミヤちゃんとこで休ませてもらうかどうする?」と言った。
「シャワー借りてもいいですか?」
「シャワー?、もちろん、汗かいた?」
「そういうわけでもないですけど、自分の匂いが気になって」
「そう?まあ好きに使ってよ」
「ありがとうございます」
「そんじゃあ、車停めて、ユカコはシャワー浴びて、それから適当に帰り始めよか」
「うん、お願いします」
帰り道の途中でシイノさんは私の肩に頭をのせて眠った。彼女の側の窓から外を見る意識を持って、つむじに鼻先を当てて匂いをかいだ。思った通り、ほとんど同じような時間を過ごしていたのに、嫌な匂いはしなかった。私もそのまま眠ってしまうほど、いつもと変わりなく、安心する匂いだった。
目が覚めたのはマンション近くのパーキングでエンジンが切られたあとで、私が目覚めて数秒経ってからシイノさんも目を覚ました。
着いたで、と言われてから目覚めたことに気が付くようなタイプの睡眠だった。私たちは、ごめん、とか、すみません、とか言いながら体を伸ばし、車から降りた。シイノさんは素早く助手席の方へ回ってリュックを取り、私はドリンクホルダーに置いておいたカップを手に取った。
シイノさんと分担してリュックの中身を洗ったり片付けたりして、私はシャワーを浴びることにした。
浴室の角にはラックがあって、シャンプーだけでも五種類あり、トリートメントは八種類あった。どれも同じくらい減っていて、洗顔料はチューブタイプが三つと固形タイプが二つあった。意外な一面というか、ドラッグストアやらどっかで、訪れるたびに新しいのを買っている彼女を思い浮かべると自然に笑顔になった。折角だからとばらばらに使って、三種類あるボディソープから選んだものは、何故かいつものシイノさんの匂いがした。私と彼女が会うときは毎回仕事に限られていて、各ホテルで毎朝顔を合わせるときは私と同じ匂いがしていたのに。
久々に鏡で自分を見ると、最後に見た時よりも数段痩せているようだった。痩けるほどではないが頬から顎にかけてのラインが、肉よりも骨に意識が向く。何歳からか、腰の上に座り込んだみたいな肉も目立たなくなっていた。毎年冬になると、夏場よりも山での運動で痩せた。今年はそれを認識するまでが長かっただけで、ずっと前から痩せ細っていたような気がしてくる。
立ち上がって体の隅々を見て、知らない痣や黒子を見つけた。私よりもシイノさんの方が先にそれらを見つけているのかもしれないと考えると、実際よりも長い時間、彼女と同じ時間を過ごしてきたように思えた。
匂いを取るというよりも、ボディーソープを擦り込むみたいに体を洗い、最後に、耐えられる限界の熱いシャワーを浴びた。熱が体に蓄積され、湯が当たってから「熱い」と思うまでの感覚が瞬間的に短くなっていく。それも限界を迎えるとシャワーを止め、浴槽の縁に腰掛けた。体の表面が一気に冷えていく。引き剥がされる感覚があり、肉感的に気持ちがいい。急激に冷えていく、ように思える体とそれに対抗するように熱っぽい芯のあたりのバランスを見極めるみたいに、じっと、瞼を閉じて座っていた。私が思っていることと、体の自発的な運動、脳味噌の捉え方がちょうどよくなったころ、立ち上がって扉を開いた。
固くも柔らかくもないタオルで体を拭きながらいつも通り、全部頭でなんて信じられない、と感じとしては首の後ろあたりで思っていた。お風呂を上がる前に熱いシャワーを浴びるようになったのがいつ頃からだったか、多分、高校生になってからだろうが今とは違って、性欲を解消しようとしていたように覚えられている。満たされるというわけではないのだけど、その、空のどこかに、何かが注がれることが、そういう事実が私を満足させていた。もしくは、溢れたものを収めておけるものが自分の外側にあることにほっとしたのか。どちらにせよ、性欲そのものをなくすというのではなくて、ただ、それに対して自分自身が対処可能かどうかを確かめようとしていたのだろう。結局それは、誰かとの性行為とマッサージの中間くらいの、気持ちのいいこと、として習慣化された。
新品の歯ブラシが置いてあり、多分シイノさんの字で「良かったら使ってねー」と書いてあった。
予想していたわけではないけれど驚かなかったのは、予想することの前にそこへ含まれるだろう物事が私自身にもそのものにも関わりなく包括されているからだろうか、洗面台の鏡を開くと、歯磨き粉のチューブが十本、大体半分のところから口に向けて膨らんで、ぬっと立ち並んでいた。何かがおかしくて、鼻で小刻みに笑いながら、左から三番目の黒っぽいパッケージのチューブを選んだ。
シナモンと強烈なミント、あとからコリアンダーのような苦味のする、全体は油っぽい粘土の風味で包まれた歯磨き粉だった。少しだけ吐きそうになりながら、涙目で歯を磨き、ゆすぎに普段の三倍くらいの時間をかけた。すっかり洗い出してしまうと、ほわっとミントの香りが残るだけだった。洗い上がりもいいし、後で買おうかとパッケージをしばらく見つめ、名前を覚えようとしている最中に味を思い出して吐きそうになった。
髪を乾かしてからリビングに戻ると、二人はソファに座って煙草を吸いながら笑っていた。
「ありがとうございました」
「すっきり?」
「うん」
「俺はいつでも出れるし、いつでもええし、ゆっくりな」
「うん、ありがとう。私も、煙草吸ったら出ようかな」
オットマンに腰を下ろし、煙草をくわえて火をつけた。私がそうだから、目玉の表面とそこから少し染み込んで、シイノさんは寂しそうに見えた。口数が減って、時計を見上げる回数が増えた。モリイチはソファの背に深くもたれかかって時計を睨みつけるように見上げている。予定があるというより、時間が経つことそのものを恨めしく思っているような顔だった。
煙草を一本吸っても口の中の状態が変わったようには思えなかった。覚えた歯磨き粉を思い出して、また仕舞い込んだ。それがそうだと知らせるように、ゆっくりと立ち上がり、モリイチを見た。
「行くか」
「うん、行こ」
「駐車場まで送る」
「寂しいなあミヤちゃん」立ち上がってからシイノさんに向き直り、戯けた声で言った。
「また年末に、会いましょう」
「せやったな。すぐやな」
それぞれに、上着を着たり手持ち無沙汰にうろうろしたり、じりじりと玄関へ近づいて行った。
マンションからパーキングまでの道は、もう覚えていたのに、長くも短くも感じない、不思議な感覚で歩いた。鼻の奥が痛むほど冷えた空気で良かった。さあ答えて、と言われれば「寂しいです」と言うだろうが、何と言えばいいのか分からないけれど、その何かの気配を感じたことはあった。どこかの国の言語に、今思っていることと対応する言葉があるのだろうか。私は、私のほとんどは今使っている言葉に作られているはずなのに、どうして大抵の場合どれも違っているのか分からなかった。あらゆる言葉を知っても、まだ自身の内に起こることさえ分からないままなのだろうか。言い換えること意外何もできなかった。私はそれを知っている。知っていることを覚えている。それは寂しいと言う前に訪れる何かと似ている。姿形が似ているわけではない。色や匂いや温度が似ているわけでもない。ただ気配が近しいもの。その近さは私とシイノさんと同じようで、私とモリイチとでも、モリイチとシイノさんとでもいい。同じ言葉で括られることが多く、それでも微妙な差で呼び変えられるもの。大抵は呼び変えられることもない。誰か、私からすれば完全に違っているもの。それでも引いて見れば同じだとも思えるもの。霧のように、手を素早く振ると水の粒を感じられる程度の湿度を持っているもの。粘り気はない。簡単に体の中まで入ってくるもの。それは外でも内でも、性質を変えないし、変わらない。それに対して私が思うことや感じること、考えることも変わらない。変えられるけれど、一人でに変わっていくことはない。濃い灰色にも、群青にも、真っ黒にも、とんでもなく明るい茶色にも、要は何色にも見えたし、結局何色にも見えないもの。色はない。何色だろう、と考えて初めてそのものに何かしらの色があることを理解するもの。それほど自然で、それにしか存在しない色を持つもの。何か別のものの色を借りて見てみることはできない。暗いのか、明る過ぎるのか、色か色でないかも分からないもの。私の後ろに位置する。それをどれだけ吸い込んでも、ひとかけらも取り込まなくても感じ方は変わらない。あれ、意外と軽い、と思うような種類の、存在感と重さの差があるもの。はっきり目に見えているようで、そこには何もないようにも見えるもの。どんな音も出さないし、音を発生させる何かを持たないもの。何とでも言えたが、何かは分からなかった。ただ、外圧が変わったように体が痛かった。私は二人に挟まれて歩き、押し込められるような、押し付けられるような感覚を持て余していた。あとで、一人になったときにじっくり感じ直すのでもいいから、どこかに置いておきたかった。私はまだここから、二人といる時間から意識を逸らせたくなかった。
車に乗り込んで、シイノさんは助手席側の窓からなかなか離れなかった。私は構造的に動けないわけだけど、同じように離れられないでいた。モリイチは私たちの様子を窺って、何か、接続された何かが途切れるのを見極めようとしているみたいだった。シイノさんも私も、またね、とか、年末ね、とか、また来て、とか、また行きます、とか、切れ切れに短いセンテンスだけで会話していた。その、言葉になる前の離れ難さが大きくて、結局どの言葉にすればいいのか分からなくなった。彼女の肩越しに、道を横切る野良猫の姿が見えた。私の視線を追って彼女も振り向き、私の目線は彼女の後頭部に移動した。シイノさんが向き直りつつ目線が私に合ったか合わなかったの瞬間に、「行こか」、とモリイチの声が聞こえた。今度は私が振り向いてから向き直り、それじゃあ、また、すぐ会いましょう、と言った。
相変わらず車で流れているラジオの音は聞き取れなかった。別に聞きたいわけでもなく、音量を上げるほどでもないけれど、聞こえそうで聞こえないのは気持ちが悪かった。それに、ずっと同じものが流れているように聞こえた。
湯当たりしたようにぼんやりとしていた。車の外に流れる景色が、いつもよりぼやけて、崩れ去っていく。前を向いて見えるものはピラーのあたりから線状になり、その柱を超えると、一本一本が膨張して色が垂れ、ぐじゃっと混ざり合った。私の目の焦点はピラーのほんの少し手前で定まっていた。かすみがかった視界から見えるのは不確かな形とはっきりとした色だけだ。首が捻れているのと、側頭部と後頭部の間がヘッドレストに当たっているのが感じられる。鎖骨に触れるシートベルトのひんやりした感触もある。私はその時、何も考えていなかった。
「アサギちゃんたちには会うたんか?」
恐らく高速道路に向かう人の多い幹線道路は、中央分離帯にぽつぽつと立った灯り以外はなく、滲み出てきたみたいに細い歩道は真っ暗だった。犬種の分からない大きな犬を連れた男女の組み合わせが見える。犬に詳しければ、同じ速度で種類が分かっただろうか。何かを知ることは無意識の範囲を広げることなのかもしれない。私は今では、山に生えている大抵の草木の名前が分かる。いちいち立ち止まって、葉の裏を確認したり、石や巻尺の先に付いた針で幹を抉って匂いを嗅いだり、かじってみたり、そんなことをしなくてもいい。
「え?」
「いや。アサギちゃんとか、シホちゃんには会うたん?」
「ううん。会ってないよ。アサギは近くにいるみたいだけど」
「美草出たんか」
「子供もいるらしい」
「まじかあ、何歳?」
「さあ?、二人いるらしい」
「ユカコが叔母さんか。アサギちゃんには会うたってもええんちゃう」
「うん、割と今は、そのつもり」
「ご両親は、あれ以来、てか、そのままか」
「そうだね」
そうだ。どうしてお母さんやお父さんと話さなくなったのかを今思い出した。彼らは、家に遊びに来た、いや、私を迎えにか、訪れたモリイチを居間に通した。私は確か二階の部屋で着替えたり、何か、持っていくものをまとめたりしていたんだったか。彼女たちは、かしこまって正座しているモリイチに冷たいお茶と小さな茶請けを出した。それと一緒に、枚数は少ないのに開いたままにするためには、いちいち手のひらで下から上まで押しつけなくてはならないパンフレットを出した。モリイチは誰にでも親切だったし、その親切さは彼自身にも扱いきれないようなものだった。何があっても、一旦であったとしても、そうせずにはいられなかった。私の両親だということもあっただろう。彼は真剣に彼らの話を聞いていた。私は気持ち悪くなって、階段の途中に座り込んでいた。手すりの下の柱に頭をつけ、横目で彼らの様子を見ていた。彼らは、本当に、モリイチのためを思ってそのパンフレットに書かれたことを逐一説明していた。よく見かける光景だった。いつもより熱が入っているのは、相手がモリイチだからで、それは彼のしっかりとした態度と長女の友達だからだろう。私は下半身だけ力が抜けていて、なかなか立ち上がることができなかった。モリイチは頷き、ああとか、はあとか、時々質問を投げかけ、その度に彼女たちは嬉しそうにしていた。私は、両親がそのよく分からない団体にはまり込むのはどうでも良かった。一人で生きていくまでは、物申す権利もないと思っていた。彼らが、どこか、何か救われているなら、それならいいと願っていた。本部の建物ができるまで、私たちを連れて週に一回、会館の一室を借りて催される集まりに赴いた。まだ小さなアサギの手を引いて、私も彼らの後ろについて歩いた。私は、私なら、今ならアサギを連れてどこかへ行くことが、行動としては不可能ではないことに吐きそうだった。出来るのに出来ないことは、遊園地にある落下するアトラクションと同じように体をひきつらせる。体の重心が無理に変えられてしまったようだった。私は、アサギの手を握る手に力が込もらないように歯を食いしばり、なるべく真っ直ぐに歩いた。モリイチは、「フクヤさん、ああと、ユカコさんは?」と言った。
「ユカコはもちろん、中学生の頃から、さっき説明した、この、ほら写真にも写ってるでしょう」
「そうですか。ユカコさんは自分の意思で、その、こんなふうに説明してもらったんですか?」
「そんなの、ユカコは別に私たちとまず行ってみればいいんだから、これはモリカズくんから、ご両親にも話しやすいようにって」
「それじゃあ、ユカコさんがどう考えてるとか、思ってるとか、そういうのは関係ないわけですね」
「あの子も、分かってると思う。私たちと一緒に、ソウジン様のお話を聞いて、あの子も何か感じてると思う」
昼に食べたコロッケが挟まれたパンを吐きそうだった。音を出さずに深呼吸を繰り返し、立ち上がろうとしたが駄目だった。モリイチの声は明らかに苛立っていた。私はその時、彼は私に対して怒っているのだと思っていた。それを隠していたことや、こうやって面倒事に巻き込まれないように口止めしておかなかったことや、そういった何やかやに腹を立てているのだと。もちろん彼は私の両親に腹を立てていた。そういえば、彼が何かに対してはっきりと怒りを向ける姿を見るのは初めてだった。だから勘違いしたのか、彼が怒っていることに気が付いていない両親と同じようになっていたのかは分からない。階段を降りて来たアサギが「お姉ちゃん?」と言って、私は彼女を見上げた。顔を元の位置に戻すと、居間からの視線に気が付いた。モリイチは私を見て、泣きそうな顔をしてから唇だけで笑った。どうしたの?、と言いながら降りて来たアサギは、モリイチに気が付くと「あー、モリイチー」と言って駆け下りていった。彼女が居間に入った途端に体に力が巡る気がした。呼吸も楽にできる。手すりに腕を伸ばし、しっかり掴んでから、掴んでいることを意識しながら体を引き上げた。足の裏や腿は何事もなかったようにいつも通り、階段の硬さや冷たさを捉えていた。動いていないのに、靴下越しでも滑らかな木目の肌触りまで分かる。
モリイチは立ち上がってアサギを受け止め、おお、と声を漏らした。私は階段を降り、居間に入った。彼らはパンフレットをどこかに仕舞い込んで、ダイニングとキッチンに分かれて何やら細々と動いてた。私は「行こ」と、モリイチにだけ聞こえるように言って、玄関へ向かった。遊ぼうよ、と言うアサギに「悪いな、今日はユカコちゃんと約束があんねん」と言った。
「高速乗る前にコンビニとか寄らんでええか?」
「うん。ええ、ここ、このサービスエリア寄ってもらってもいい?」
「何かあんの?」
「そういうわけじゃないけど、距離と膀胱的に」
「オッケーオッケー、俺も膀胱的にはちょうど良さそうやわ」モリイチはひとしきり笑ってからそう言って、首の骨を鳴らした。
シイノさんから泣いてる熊のスタンプが送られてきて、私は棒人間が四つん這いになって床を叩いているスタンプを送り返した。日が変わる前には家に着くだろう。何となく、そうなれば明日から今まで通りに過ごすことができそうだった。日の出からの数分とか、沈む直前の強烈な夕陽とか、そういった特別に思える時間は、その後体や頭をぐったりさせる。昨日からの一日はずっとそんなようなもので、今日中に家の布団に入っておいた方がいいような気がした。
「疲れったら寝ててええしな」
「うん、ありがとう。でも起きとく」
「ミヤちゃん、ええ人やな」
「うん、また、三人で会おうね」
「せやな」
モリイチは運転席側の窓を少し開けて煙草をくわえた。ライターを探し、なかったのか「火貸してくれ」と言った。胸ポケットからライターを出して火をつけ、私もいい?、と言うと「もちろん」と言った。
煙草を吸うと、散っていた視界がまとまり始めた。どれもこれも、真横以外では輪郭を保っている。窓を開けていても、狭い車内で二人で煙草を吸っているとすぐに煙がいっぱいになった。溶媒に溶け込めるものの量が決まっているみたいに、空気中に漂える煙にも限界量があるのだろうか。モリイチの吸う煙草の甘い香りが流れてくる。昔モリイチが吸っていた煙草が何だったか。アメスピだった気がするし、私が吸い始めたのもそれだったからきっとそうだろう。間を開けて、モリイチがしていたことや言っていたことを、それを自分でも終えた後、無意識になぞっていたことに気が付くことが多かった。何となし、そういった物事は、モリイチから与えられたものに思えた。
高速に乗って一時間もしないうちに、予定していたサービスエリアに着いた。車を降り、トイレと売店のある方へ別れるとき「知らん人に着いてくなよー」とモリイチは言って、言い返す前に手を振りながら歩いていった。
モリイチは自販機の前のベンチに座って待っていた。
「何か食べる?」
「ユカコは?、腹減った?」
「うん、空いてると思う」
「じゃあ何か食べよ」
売店を一周して、フードコートで定食を食べた。セットのざる蕎麦は茹で過ぎてねちゃねちゃしていたが、つゆは何故かちゃんと出汁を取って作ったような味がした。モリイチは大盛りの焼肉丼と大盛りの温かいうどんを食べた。じっと見ていると、ほとんど噛んでいなかった。木製のレンゲで二掬いしたご飯と一枚の焼肉を口に入れ、三回くらい噛むと飲み込み始めた。噛むのと飲み込むのが一連でなくて途切れているように見える。頑張って飲み込んでいるように見えるのだけど、何も浮かんでいない表情からするといつも通りなのだろう。私の半分くらいの時間で倍以上の量を食べ終え、足りひんな、と呟いた。
「もっと噛まないと」海老天を飲み込んでから言った。
「それ、昔も言われたことあるわユカコに」
「言ったっけ」
「うん、何回か言われたで」
「何て?」
「あの、あれ、みかん焼いて食うたときとかに、半分ずつ食べてそれぞれ四回しか噛んでないよって」
「回数まで」
「そうそう、それまで意識したことなかってんけど、俺食べ物の味変わんのが嫌やねん」
「ああ、噛むことで。お米とか結構甘くなるもんね」
「そう、俺はなるべく口に入れた瞬間の米がええねん、粒立ってて、甘みも適度にあって」
「あ、せやったらおかゆ食うわって言ってたね、それ」
「思い出した?、そう、それなら初めからおかゆにしたらええねん」
「で、私は、それとこれとは別じゃんって」
「言うてた」
「まあ、別だよね、その時よりは言ってる感じは分かるけど」
「俺もそう思うわ」
結局モリイチは返却台に食器を持って行ったあと、メロンパンを二つとクリームパンを一つ食べた。
「高校生のとき、パンって口の中で剥がす作業あるから嫌いやわって言ってたよね」
「言うてたな、でもあれは、あれ、購買のパンとかに限るわ、あんな乾いたパンあれ以降食うてへん」
「何か普通に不味かったよね」
「な、安いのだけは有りがたかったけど」
プレハブの喫煙室で煙草を二本ずつ吸ってから車に戻った。
満腹になった眠気でうつらうつらしているとラジオの音声が大きなったように聞こえた。何を言っているのかは分からないままだったけれど、何かを伝えようとしていることは分かった。音楽や無機質な天気予報ではなかった。もっと人数を絞って、誰かが三人以下の人に何かを伝えようとしている時の声だ。はっきりと聞き取りたいと思うのだけど、眠らないようにする以外できることがない。唇を巻き込んで歯を立てたり、瞼を強く閉じたりして、何とか起きていた。
モリイチは何度かあくびをしてから煙草をくわえ、火をつけないでいた。その手があったか、と私も煙草を取り出してくわえた。
「寝たらええのに」何分か経って、同じようにしている私を見てから言った。
「うん、でも流石に毎回寝過ぎてるし、寝たいわけじゃないから」
「お腹いっぱいやな」
「モリイチも?」
「うん、やっと膨らんできた感じするわ」
「どの食べ物だったら噛めるの?」
「するめとか餅とか」
「噛まなきゃ飲めないだけじゃない?それは」
「ああ、そっか、何やろ、噛んで味変わらんもんって何がある?」
「そう言われるとないかも」
「やろ?、大抵何でも噛んでたら甘なるやろ」
「じゃあ、果物は?」
「くだもんは昔から好きやな、でも、確かに変化が穏やかかもな」
「何かしょっちゅう焼いてたもんね」
「せやなあ、桃とか柿とか、意外と美味かったやろ」
「うん、あれは良かった。ぶどうとかは何か気持ち悪かったよね」
「せやな、渋さが増して不味いぬるい玉って感じやったな」
「ストーブ買おっかなあ」
「ええやん、煮物とかも作れっしな」
「うん、今思えばバイト先で好き勝手し過ぎてたねモリイチ。私なんて何も関係ないのに」
「でもおでんとかも美味かったしええやん」
「まあ、ささっとスーパー行って具材買ってったの楽しかったね」
「金物屋で鍋買うたら結構したしな」
「あれどこやったっけ」
「あれはカウンターの下の棚になおして辞めたから、今も使われてんちゃうか」
「迷惑でもないけど、見つけた時いらっとしそうだね」
「俺が館長やったらイラッとしてから笑うな」
「すぐ何してたか分かるしね」
「な」
「近くに住んでるなら、また一緒に歩こうよ」
「うん、せやな」
「ごめんね、急に連絡しなくなって」
「いや、それはええで、しゃあない」
前の方には何台かのテールランプが見えるが後続車の少ない道行きだった。懐かしい話をしていると、頭は冷めて体は熱くなった。眠気はうっすらと残っているがもう眠ってしまうようなことはない。
「歩いてったところの話聞かせてよ」
「せやなあ。まず、なるだけ海岸沿いを歩こうと思ってたから、海岸まで歩いてって、時計回りか反時計回りかコイントスで決めてん」
「うん」
「そんで反時計んなったから北上して、何日かは砂浜の上の方にテント張って寝てたな」
「ご飯は?」
「ああ、クッカーっつって小さい鍋があるから、それで適当にスーパーで買ってきたもん煮込んだり、パスタ茹でてあっためてかけるソースで食べたり、そんな感じやな」
「なるほど」
「んで、まあそりゃずっと海沿いやから特に何も変わらんわけやな、左っ側の遠くに栄えてそうな町が見えるか見えへんかくらいで。最初の半島をぐるっと回るのがちょっと面倒やったな」
「何が変わるの」
「ほぼ気分的な問題やわ、そこんとこ回り込んでる最中も、結局道は真っ直ぐっていうか、人の大きさで人の歩くスピードくらいなら真っ直ぐな道歩いてんのと大差ないねんけど、回り込んでるって俺は知ってるからさ、進んでない気がしてくんねん」
「最初にそれはしんどそう」
「うん、まあでもそのおかげで急速に慣れたな、もうどこ行っても、海岸近くにいればこのくらいの苦労と楽しさで済むなって」
「その、楽しさも予測できちゃっていいの?」
「うん、大抵楽しさは予想超えてくるしな、単純に、俺がやじろべえみたいなもんで、その楽しさとしんどさを、こう、常に計ってる感じで、それぞれを計るためにやじろべえは存在してんねんけど、やじろべえが立ってるためには同量くらいのなんかがいるやろ」
「うん」
「そのために仮でええから、俺のバランスを取るために、その、今回なら歩いて旅してる俺のバランスを取るために、そこに関係してる何やかやを決めんねん」
「しんどさは超えてこない?」
「せやねん。よう分からんけど、体験したことよりしんどい、疲れることは山ほどあんねんけど、その、楽しさとかと一緒に予想したそれを超えることはないな」
「ふーん」
「でまあ、たまに歩きたくないときがきて、そういうときはほとんどテントから離れんとぼーっと海眺めて、しけもく吸うたり砂で何か作ったり、だらだら過ごして」
「いいなあ」
「ま、今思い返すとよう出てくるわ、砂浜のないとことかやと野良猫が寄ってきて、なんかくれみたいな顔で俺のこと見よんねん、あれば、コンビニで買っといた鶏肉の茹でたやつとかな、洗ってからほぐして、その辺に盛ったり、手から食べる猫も多かったな」
「ついてくる猫はいなかった?」
「うん、そこにいる間は割と引っ付いてまわりよんのに、テントたたんで歩き出したらすんってどっか行きよったな」
「旅のお供にはなんなかったか」
「いたってくらい猫はうじゃうじゃおったけどな。半島抜けた後はもうひたすら北上やな。どうせ行けへんやろうから海離れて陸路、てか内陸の道に移動したな」
「音楽とか聴いてた?」
「や、本すら持ってってへんな。ぞっとするくらい煙草吸うてたわ。帰ってきて一、二ヶ月受け付けへんかった」
「帰ってきたときめちゃくちゃ痩せてたよね」
「思い出した?」
「ちょっとだけ」
「せやな、煙草吸ってる間はお腹空かへんから、節約にもなるしな」
「なんのかな」
「宿とかには泊まらなかったの?」
「全部テントやったな、やっすい宿もようさんあるから泊まっても良かったけど、別に必要にはならんかった」
「強靭だね」
「テントと寝袋とマットだけはええやつ買うたからほんまに何の苦もなかったで、雨やら風やらの強いときも耳栓したらだいぶんましやし」
「そうかなあ」
「うん、ま、たまに誰かと話したくてそういう宿に泊まろうかなあって思うことはあったけどな」
「それは、何が押し止めたの」
「特にこれってのはないで、まあいいやってくらいで、どんなに安くても俺がみっけたんは煙草三箱分かあって」
「恐いよ」
「そんくらいそんときの旅に煙草は必需品やってん。別に誰かと出会いたいとか、地元の人と交流したいとかもなかったしな」
「本当に、歩きたかったんだ」
「そうそう、ただ自分の足で色んな場所を通過したかってん」
「海を離れてからの道は?何か大変そうだけど」
「せやな。まず気分的なところから言えば、なんべん曲がったりすんねんって感じやったな、結果的に進んでてても。あとやっぱり山が多いから、回り込むんも嫌やし、繋がってるなら大抵は越えたな」
「そういうのってよく名前聞く山じゃないよね?」
「そう、名前はあるんやろうけど、よう分からんな。そういう里山みたいなんは大体、越えてかもまともな道に合流できるからな」
「うん」
「地図見つつそろそろ山ぶつかりそうやなってときは、コンビニやらで食べもんとか買い込んどいて、適当に歩いてたわ」
「もちろん観光名所みたいなものも見ずに」
「せやな、今歩いてる道に看板が出てて、百メートル以内で、興味惹かれたらって感じで、ほとんど何も見てへんな」
「何に興味惹かれたの」
「防風林とか小っちゃい池やら湖やらかな」
「写真とかは?」
「撮ってへんってかカメラ持ってへんかったしな」
「ひたすら歩いてたんだね」
「やな。また海岸沿いに戻ってからは、結構雰囲気が変わった感じはあったな、単純に開けた感じがした」
「長いこと内にいたからかな」
「うん、それもあるやろうけど、半島じゃないからってのもあると思う」
「なるほど」
「何でか知らんけど、その辺の海沿い歩いてると、漁師の人とか奥さんに食べもんもらうのが多かったなあ」
「そこだけ、そこっていうか」
「うん、まあ距離で言えばすごい開きがあるけど、一帯ていうか、海外沿いに復帰してしばらく、船乗るまではそんな調子やったな」
「何くれたの」
「刺身も焼き魚も煮付けも食べたな、山菜煮たんとか、白米もらったり」
「すごいね」
「な、嬉しいけど、気分じゃなくても歩いてその辺から離れなあかんしそれだけ大変やったけど」
「同じ人にお世話にならないために?」
「そうそう、別に向こうもしたくてしてるんやろうし、俺も嬉しいし助かるし、気持ちよく受け取ってたらええんやろうけど、まあでもかなり、その辺いるときは距離かせげたし」
私たちはうずうずしていたかのように煙草を吸い始めた。モリイチは一挙に思い出しているからか疲れているようにも見えた。話を聞いていると、砂浜や防波堤を歩くモリイチの後ろ姿が見えてくる。私は彼の後を十メートルほど開けて歩いていた。
「船乗って渡ってからはなかなかハードやったな」
「距離も形もしんどそうだね」
「うん、距離はもうこの際どうでも良かってん、歩けば歩くほど俺は、真っ直ぐな、比較的真っ直ぐな道を歩きたいんやなって自覚してったわ」
「めっちゃ辛そう」
「海の雰囲気も歩いてる場所もかなり変わったし、どんどん変化してくから楽しくはあってんけどな」
「そっか、一応三つ海あるのか」
「うん、割とそれぞれに特色って言うていいんか分からんけど、差もあっておもろかったな」
「名付け分けられてる意味が分かるくらいの違いはあったんだね」
「やな、基本的にずっと青を基調にしてたり、近づいたら濁ってるわけでもないのに灰色っぽかったり、濃い青色で刺々しい感じ、大体ずっと荒れてる感じやったな」
「境界みたいなのはあるの?」
「や、いつの間にか変わってるな、ここからってのはない」
「やっぱそういうもんか」
「うん、で、半分くらい歩いた頃に一旦気力が失せて、二週間くらい同じ海岸におったわ」
「なんかそれ書いてた気がする」
「うん、送ったで」
「そのときだけすごいいっぱい送ってくれてたよね」
「やな、今日もまたここです、みたいなんを」
「うん、結構心配で会いに行こうかと思ったもん」
「すまんすまん」
「でもモリイチ携帯持ってってなかったでしょ?」
「せやな、来たらおらへん可能性のが高いな」
「あ、私、返事書いてたんだった」
「返事?」
「うん、出せないけど、送られてきた手紙全部に同じくらいのハガキに書いてた」
「それ読みたいなあ」
「絶対駄目、訳わかんないこといっぱい書いてる気がするし」
「だからこそやん、自分の書いたのも読みたいし」
「そっからかなりハイペースで歩いてたよね」
「せやな、遅れた分ってのも変やけど、ちょっと気合入れて歩くかあって」
「急に、そのじっとしてた時期以外でそんなにたくさん届くことなかったから、ああめちゃくちゃ歩いてるなって」
「シンプルな感想やな」
「うん」
何台かを追い越すと先行する車はなくなった。灯りはあるのだけど消えているものが多く、本数の割には暗かった。私もモリイチも多分、満腹からくる眠気を過ぎ、勘違い的に頭が冴えたような状態になっていた。窓の隙間から入り込む冷気が心地好い。ふとモリイチの匂いが濃くなったことに気が付いた。シイノさんと同じように、嫌な匂いに変わったわけではなかった。彼の匂いが意識されると、車内の狭さにも意識が向いた。ぐっと体の輪郭線が膨らんだように、彼の体や息遣いを身近に感じる。私が、自分の匂いに敏感で、他人の匂いに惹かれるのは、同じ形状の体を欲望することと何か関係があるかもしれないと思い始めた。私はずっと、別の形の体に欲情する意味が分からなかった。初めから違っているもののその差異に享楽することができない。同じ形を成しているのに違っているもの、そこに、飲まれるように、抗う余地もなく巻き込まれていった。それまで、男の人と付き合ったことも女の人と付き合ったことも、何度もあったけれど、性的に満足できるのはいつも女の人だけだった。私は、モリイチのことが好きだったし、彼とセックスすることもできるが、したいとは思わなかった。それでも、私とあまり変わらない部分、腕や首、胸から腰にかけて、足や髪、そういったものを愛撫したいとは思ったことがあった。それはでもシイノさんに抱くそれとは強度が違った。彼女はもっと私と同じ体をしている。
「寒ないか?」
「うん、ちょうどいい、懐かしい話って火照るし」
「ああ、そうかもな、思い出して話すのも、話して思い出すのも、まあまあ脳味噌的にはエネルギー使うてそうやもんな」
「うん、だからいい感じ。煙草もいつでも吸えるし」
「やな」
モリイチの匂いは、山の中にいるときに嗅げるものと似ていた。蜜の垂れた樹皮の香ばしく甘い匂い、歩いている最中に足元から昇ってくる、踏みつけられた草木と土や泥が混ざった冷たく乾いた苦い匂い、それらが混ざり合った無機質で短い匂い。それはきっと着ている服との兼ね合いもあるのだろうが、要素は彼の体から匂い立っている。
他人の匂いを深く吸い込むことは、その人の侵入を許可することと同等に思えた。私はシイノさんもモリイチも、私の中に入ってきても構わなかった。そのときのその人の匂いを嗅いで、吸い込んで記憶することは写真を撮るのと似ている。私は何枚も何枚も二人の写真を撮っていることになる。いくつかの印象的な場面での、二人の匂いを覚えていた。香水と同じようにベースからトップまであって、いつでも変わらない、その人の匂いだと思えるものを支える要素がベースノートにあたる。ミドルからトップは際限なく広がっていく。モリイチのそれは、水分を多く含んだ広葉樹に火をつけた瞬間にだけある香ばしい匂いだった。そこには香ばしさが支える甘い匂いと鋭く苦い匂いが共存している。シイノさんを思い浮かべると、まだ私は彼女のベースになるような匂いを知らなかった。何となく、無機物の粒の細かな、乾いて粉っぽい香りを思い出すが、もっと、焦げた砂糖や何かに溶かしたあとの甘味料のような匂いもあったように思えた。とにかくそういった、変化の少ないものと、変化した後もその要素が大部分を占めるような、そういう釣り合いで匂いが成立している。
「一周して船乗るくらいには、会ったときと同じくらい痩せてたな」
「そんなに食欲なかったの」
「というより、買い出しとか、それ持って歩くこととか、ゴミ捨てんのとか、そういうの差っ引いて、じゃあ最低限でええかって」
「なるほどね」
「で、何の違いがあるかはさておき、戻ってきて反対側やな」
「うん」
「そっち側はとにかく、初めの頃は雪が大変やったな。海からの風も訳わからんくらい冷たいし」
「そっか、ちょうどそのくらいの時期になるのか」
「歩くの以外は別に大した弊害もないねんけどな、とにかく進めへんかったな」
「そんなこと書いてたね」
「毎日ちょびっとずつしか進めへんかったからな。荒れた海を長いこと見てられたんは良かったけど」
「そんなときでも砂浜とかで寝るの?」
「や、流石に離れてたで。近いと耳栓してても寝れへんくらいうるさいしな」
「ああ、そっか」
「冬のめちゃくちゃ荒れた海をずっと見てるとな、しゅって海原の上にワープしたみたいな気分になんねん」
「岸も見えないくらい?」
「せやな、何もないな海以外、俺のすぐ下で波があちこちから流れてきて、ぶつかって混じって、でも俺には、その見てる距離的にはおかしいねんけど、しぶき一つ当たらへん」
「温度とか匂いは?」
「ああ、どっちもなかった、というか、その、ほんまに俺が立ったり座ったりしてるとこの寒さやら磯臭さ以外はないな。その、宙ならではみたいなのは」
「しょっちゅうあったの?」
「三回に一回とかちゃうかな」
「かなりだね」
「せやな、見る頻度も高いしな」
「それでも海から離れなかったの?」
「まあ、特に困ったことでもないし、なんとなくおもろかったからな」
「ふーん」
「その頃になるともう歩くこと自体の楽しさみたいなんは薄れてきてたから、なんかそういう別のんがあって助かったってのもある」
「よくやめなかったね、というか、一旦帰ろうとかは思わなかったの」
「不思議とそういうのは一回もなかったなあ、歩きたくなかったら歩かんかったし、歩きたかったいつまでも歩いてたからな」
車が走り去るスピードよりも早く、外に広がる景色は変わっていった。私は、どんどん私の居場所のようなものへ近づいている実感を持ち始めた。なんとなく体や頭のモードが変わっていっているようだった。実際以上の速さで美草やシイノさんから離れていく。モリイチの声は、何かを思い出させようとする力と、そうはさせまいという力が拮抗しているように響いた。彼は私に、何を思い出して欲しいのだろう。何を思い出してはいけないのだろう。私は、本当に、何を忘れてしまっているのだろう。彼との思い出の他に、電話の先の誰かが言っていたように忘れ去ったものは一体どういうものだろうか。私は彼の話に何も言わず、ただ話の切れ目に頷いているだけだった。話の内容も言葉の意味も分かる。ただそちらへ意識が向かないだけだ。私の中で何故か、それ以上話を聞いてはならないと、どうしてそう思うのだろうというのと同じ強さで、拭い去れないほど強く感じられるようになっていた。モリイチは黙々と歩いていた。私への手紙を書いていた。どこへ行くにも、去るにも、戻るにも、何をするにも一人だった。彼は暖かなテントの中で、寝袋に包まっていた。彼の吐く息は白い。テントは横たわった彼とザックが置かれた部分以外は風にはためき、切れ目のない不規則な音を立てている。私は何も聞いてはならない。彼の話をこれ以上聞いてはいけない。彼は、砂浜の上に立ち、今日何本目かも分からない煙草に火を付けた。フィルターに火が移る寸前まで深く吸い続けた。シイノさんは今頃もう眠っているだろうか。彼女がどんな悪夢も見ずに朝を迎えられるといい。モリイチの声は今では遠くから聞こえてくるようだった。私はもうその意味も成り立ちも何も分からなくなっていた。音が途切れると頷くだけだ。彼はずっと前の方を向いて、私が話を聞いていないことに気付かない。モリイチは、一山越えれば美草に着くだろう海岸線を歩いている。彼は独り言も言わず、音楽も聞かず、煙草も吸わないで歩いていた。彼にはその向こうに美草があることが分かっていた。旅の初めの方に彼は、美草へ寄って行こう、と考えていた。それはその海岸線に至るずっと前に改められた。わざわざ行く必要もない、別の機会に行けばいい、と。私はフロントガラスに散らばる景色を見るともなしに見ていた。もう頷くこともやめた。モリイチはいつからか話すのをやめ、煙草の煙を吐き出していた。私は何かを思い出しそうになっていた。そして、何かを忘れそうにもなっていた。どちらもそうなってしまってはいけないものだった。それは分かっていた。どうすればいいのだろう。その移行を止めることができない。私は一体どうすればいいのか。小さな井戸があった。上部に錆びて朽ちかけた滑車があり、それは、最後の力を振り絞るように何かを引き上げていた。私はそんなふうにして、誰もいない、誰も、その滑車を動かす者もいない風景を眺めていた。それが引き揚げられてしまったとき、私は何かを思い出すのだろうか。私が思い出したそれは、そのものがなくなってしまったものなのだろうか。電話の先で誰かが言った。それはでも、その誰かが言っていたこととは食い違っているのではないか。それは完全に失われてしまったのでなかったか。私は、忘れたいことを、忘れてしまいたいことを、どんどんその小さな井戸に投げ込んでいったのか。私は何を忘れたがった?誰かの手。誰かの感触。モリイチは私の名前を呼んでいる。私たちは高速道路の脇に、壁面のように高くそびえた柵の前に、触れる手前まで寄せられた車の中にいた。モリイチは私の異変か何かに気が付いてそうしたのか。誰かの手。誰かの感触。私の中に入ってくる。色々な熱。私はいつだったか両親に連れられて、どこかへ行った。私は泣いていた。泣いていなかった。私は唇を固く閉じ、同じくらい強く拳を握り締めていた。誰かの手。モリイチの声は相変わらず遠くから響く。彼は私に触れない。ただ私の名前を呼んでいる。私の手。誰かの手は私に触れた。私は、声を聞いた。どんな?くぐもった声。張り上げた声。怒号。私はどうしたんだったか。私を撫でた。誰かの手。両親は喜んでいるようだった。少なくとも笑ってはいた。笑顔だった。誰かの手。無数の、誰かの手。モリイチの声は私に何を思い出せようとしているのか。それは違う。彼の声は、何も、何も思い出させないようにしていた。彼は、私に、何一つ思い出させないようにしていた。してくれていた。彼はどこから来たのか。私は。もう何も聞こえるものはなかった。滑車は勢いを増して、回り続けている。海。私は海のそばに住んだことがあった。屋上から、どこまでも向こうを見渡すことができた。シイノさんは眠っただろうか。私は、彼女がどのような悪夢を見ずに朝を迎えるために、何が出来るだろうか。シイノさん?誰だろう。私は誰を思っているのだろうか。私は。誰かの手。その手は私を優しく撫でている。それは、私を宥めるように向けられた手だった。そんなものは必要ではなかった。誰かの声。私は誰かの声を聞いた。それはいつも上から聞こえてきた。短く。乱れた呼吸と一緒に聞こえてきた。私は。どうした。モリイチは私に触れない。モリイチは私の名前だけを声に出し続けている。彼は。彼だけは。誰かのことを思った。その誰かが、どのような悪夢も見ずに、その誰かの望む形で最良の朝を迎えてくれたらと願った。私は思い出せなかった。誰かの手。私は固く閉じた。瞼も唇も手のひらも。誰かの手はそれには構わなかった。私は。今そこにある私が、その私だけが過ごす時間を眺めた。その時間が彼女にとって早く過ぎていくことを願った。願ってあげた。誰かは、今頃深く柔らかな眠りのうちにあるだろうか。私は、そうであればいいと、強く思っていた。モリイチの声。彼の声は私の中で響いている。彼は海岸の流木に腰掛けた。煙草をくわえ、手の中でライターをいじった。火を付けたり消したり、真ん中を持って人差し指で弾いたり、いつまで経っても煙草の先に火を近づけなかった。私たちはどこにいるのだったか。彼の声は私に向けられていた。私にだけ向けられていた。誰かの寝顔。小さな、本当に小さな粒が。私の前に見えるのは。誰かは立ち上がった。私の前に。誰かの手。私はその手のひらを覚えていた。その温かさや柔らかさ。誰かの手。いつまでも思い出せない。何を忘れたのだろう。あるだけの力を込めて閉じた足は開かれる。誰かの手。優しい声が部屋に響いている。私の耳にはやまびこのように、その声が残っている。誰かの声。読み上げられる。がさがさとした手のひら。部屋の隅で笑顔でいる二人。彼らはその表情以外の表情を奪われたみたいだった。何をしていても笑っていた。何をされても。誰が何をされても、しても、笑っていた。誰かの手。声。彼はまた私の名前を呼んだ。思い出すな、と言っている。忘れるな、と言っている。何を?私は何を思い出そうとしているのだ。私は何を忘れようとしているのだろう。どうして?声は私に向かっている。拡散して、車の中に響いている。残響が、私の中に溜まっていく。滑車は、まだ回っている。勢いよく。私はどうしたのだろう。どうしてしまったのか。小さな井戸はこれ以上ないくらい古びている。それ以上古びるためには崩れ去る必要があった。井戸の中に水はなかった。その井戸に、水などなかった。あったこともない。誰が。私は手を伸ばした。声が。モリイチは意を決したように私の手を取った。誰かの手ではなかった。モリイチの手だ。私たちは校庭にいた。錆びたゴールの周りを歩いていた。彼は質問した。私は答えた。私は質問した。彼は答えた。モリイチの手は、声と同じように柔らかで、私は、小屋の中だった。その建物に合わせてつくられたにしても小さな扉があった。私はそこから入ってきた。誰かと。私たちは入ってきた。私はそこへ行きたかったわけではない。私は連れられてきた。私は連れられてきた。誰かの合図。私は連れられてきた。モリイチの声は私の名前を呼ばなくなった。それでもその声は私を呼んでいるのと変わりなかった。彼は言った。思い出すな。忘れるな。私は何も考えられない。何も思えない。何も見えない。私は瞼をきつく閉じていた。真っ暗ではなかった。モリイチは私の手を握りしめていた。私たちは、私たちの手は汗ばんでいた。こんな寒い日に、私たちの手だけは汗ばんでいた。私は寒かった。とても。寒かった。モリイチは叫んだ。何かを。それは車の外に向けてだった。私の向こう、私がもたれている窓の、その向こうに叫んでいた。何を?分からない。聞き取ることができない。彼は焦っていた。私はどこにいるんだろう。私たちは?モリイチは車を走らせた。私たちは速さの中に閉じ込められる。モリイチはアクセルを踏み込んでいる。体が揺れる。私はどこを見ているのか。まだ瞼は閉じられているのか。分からない。モリイチは私の名前を呼ぶ。私は背中の向こうに気配を感じている。彼が叫んだ何かだろうか。私はどこにいるのだ?モリイチはほとんど泣きそうな声で私を呼ぶ。私はそれに応えてあげられない。私には何もできない。私はそこに。ここにいることしかできない。私は声を出したいと思う。私は彼に触れたいと思う。何かできればと思う。私は瞼を開けることができない。声を出すことも、震える体から手を伸ばすことも。モリイチは何も言わない。彼は急いでいた。時間がなかった。もう残されていなかった。それは初めからなかった。無理やりだった。私は部屋の真ん中にいた。寝転んでいた。気が付くと壁に背中が付いていた。私はどうやってここまで、そこまで来たのだろう。私はぐらぐらしていた。体のあちこちが熱かった。痛かった。誰かは叫んだ。近づいてくる。モリイチは何かを言っている。頼むから待ってくれ、と言っている。何を待つのか。私には分からない。何も分からなかった。ずっと。ずっと何も分からなかった。何かが吠えている。その鳴き声を、私は初めて聞いたわけではなかった。モリイチは苛立っているようだ。二度目だ。何か声をかけられたらと思う。私も、彼の名前を呼べたらと思う。一度も呼んだことがなかった。彼は守一だ。モリイチだ。私は彼の名前を一度も呼んだことがなかった。私は瞼を開けた。モリイチは胸板がほとんどハンドルにくっつくように前傾していた。彼は汗ばんでいた。私は手を伸ばした。彼は私の手が頬に触れると体を震わせた。彼はそこにいた。彼はここにはいなかった。私は誰かを忘れた。私は、彼を思い出した。モリイチを、私を思い出した。彼は私の名前を呼んだ。私は彼の名前を呼んだ。体が動かない。力なく伸びた手は私の腕には見えなかった。私の腕だ。モリイチは速度を緩めてから私の手を取った。彼の名前を呼ぶ以外、私の声はなかった。モリイチは何も言わない。私は頷いた。モリイチもそうして、もう一度アクセルを踏み込んだ。車体が大きく揺れた。いつからか閉まっていた窓もがたがたと揺れている。私の体も。鳴き声は遠くに聞こえる。近く、私のすぐそばで聞こえる。モリイチは何かを言っている。聞こえてたら頷いてくれ。私は手を握り返す。分かった。大丈夫か?悪いけどもう時間がないねん。運転できるか?私は手を握り返す。二回。ううんってことか?一回。体が動かん?一回。どっかに停めるから、そっから運転できるか?一人で、うちまで帰れるか?二回。頼むユカコ、頑張ってくれ。私はモリイチの手を曖昧な力で握り返した。彼の願いを聞き入れたかった。私だってそうしたかった。体は重くもないし、それと意識しないほど軽くもない。ただ動かない。左手の、手首から先、彼の手を握るのがやっとだった。俺も分からんけど、とにかくもうすぐやってことだけは分かんねん。一度握り返す。運転できひんならそれでもええ。それはしゃあない。とにかく、体が動くようになるまで絶対に車から出んといてくれ。私は彼の手を、モリイチの手を握る。すまんな。私は彼の手を強く、強く、二度、握り返す。モリイチは私を見ているようだ。私は瞼を開けているが、見えているのか見えていないのかどうか分からない。分からなかった。彼は笑っているように見える。泣いているように見える。手の甲に涙が落ちたように見えた。手の甲は何も感じなかった。モリイチ、と呼んだ。私は一人だった。モリイチはいない。彼はどこに行ったのか。誰が?どこへ。私の手はだらりと伸びている。誰もいない運転席が見える。誰かを待っていたのか。誰を?私は誰を待っていたのだろう。誰も待っていなかった。そのはずだった。私の体は動かない。ここはどこだろう。何かを噛み砕くような音。無数の気配。夜が。空が白み始める前の、暗い、もっとも濃い黒。私は何に手を伸ばしていたのだったか。運転席の窓の向こうに柵が見える。その向こうには木々が、そのまた向こうには町が、光が浮かんだように灯っている。誰かの声が聞こえる。聞こえていた気がした。私の名前を呼ぶ声?誰が?誰か。私はその誰かを知っている。知っていた。知っている。私は頼まれた。ここから出ないように、と。私は言いつけを守る。私がここから出ることはない。私は車の中にいた。一人で。どうやってここまで来たのだろう。ここがどこかも分からない。高速道路の途中。何台ものトラックが過ぎていく。私はここで何をしているのだろう。誰かの寝顔。私の願い。何かを啜る音。私の後ろにも前にも、何かがいる気配に満ちている。車はその気配に囲まれている。私はここで何をしているのか。何かが千切れる音。荒い息遣い。私を囲む何かは、それでも満足しない。それは決して車から離れない。私がここから出てくるのを待ち構えている。それらは油断しない。私がどんな策を講じても、それらは私の首元に目掛けて飛びかかってくるだろう。それら?鋭い牙は私の喉に、しがみつくように爪が体に食い込んでゆく。私は抵抗できないままそれらに食い荒らされていく。誰かのように。誰か?誰だったろう。私は懐かしい気持ちに満たされていた。モリイチは元気にしているだろうか。唸り声が私を取り囲んでいる。彼は全国を歩くと言って大学に入って割とすぐに休学届けを出した。私はいつも通り呆れていた。羨ましくもあった。彼は手紙を出すと言った。私たちは幼馴染だった。感じきれないほどの数がいるがそれは、群れを成しているわけではなかった。同胞ではなかった。それらは飢えていた。私はそれらを知っていた。知っていたはずだ。私は、誰かの言いつけ通り、車から出ない。いつまでだかは分からないが、いつまでも車を出ない。この車はなんだろう。私は、私は美草へ行った。旅行?仕事で。誰と?一人で。その帰り道だろうか。私はこんな車を持ってはいない。やはり私は誰かを待っているのだろうか。どこでこの車を借りた?借りた覚えはない。ここはどこだろう。私はずっと、何かを思い出そうとしている。何を?私はずっと、何かを忘れようとしている。何を?分からない。私は何故か動けない。左の手のひらが汗ばんでいる。誰かの手を握っていた感触を覚えている。私が?手が。私は体を動かそうとしている。どうにかして。そうやって体を動かしたことのない私にはその方法が分からない。考えなくてはならない。左手を閉じたり開いたりしてみる。そこから伸びる腕に、そこにある筋が動いている。それは肩までは届かない。後頭部が冷たい。唸り声は数を増しているようだ。何かを噛み締める音。滴る音。呑み下す音。無数の何かがそこに立つ音。歩き回る音。私は音に囲まれている。それは車の中にも入り込んでいる。車は震えている。インパネが光っている。私は車を動かさなくてはならない。きっと邪魔になっているだろう。左手でコンソールボックスの向こう側を掴んでみる。掴める。体を引き寄せてみる。どこに力を込めればいいのか分からない。思い切り握り締めてみる。肩から首筋にかけて力が入る。そのまま肘を曲げようとしてみる。ロックがかかったみたいに固定された肘は簡単には動かない。何度も繰り返していると、不意にかくっと力が抜けた。私は手を離し、一時的に浮いていた上半身がドアにぶつかった。もう一度同じようにして、運転席の側面に体を倒した。左胸にじわっと、鈍い痛みが広がった。痛みはその周辺に留まった。私の心臓はそれまでにないくらい早い鼓動で血液を循環させている。窓に私の顔が映る。私は悲しそうな顔をしている。何をそんなに悲しむ必要があるのか。両頬に一筋ずつ、吹き出し口からの風を冷たく感じる部分がある。私は泣いていたのだろうか。何に対して?私には分からなかった。しばらくその顔を見ていると、左腕が動くようになっていることに気が付いた。その腕で、助手席に座り直し、体中を触ってみた。どこもかしこも触れられた感触はあるのに動かない。外の空気を吸いたかった。私は左手で煙草を取り出し、唇に挟んだ。ライターで火をつけ、灰皿を探しているとキャスターの空箱を見つけた。やはり誰か乗っていたのだろうか。その誰かは、腹痛か何かで外にいるのだろうか。その誰かが私に、車から出るな、と言ったのか。それならそれは、後続車のことを考えて言われたのだろうか。わざわざそう言うには今は、交通量が極端に少ないように思える。私はその空箱を灰皿の代わりにした。体の中に、空気とは別のものが入り込んでくるのが分かる。時間をかけ、慣れない左手で煙草を吸った。気分や意識は少しばかり軽くなったような、それでいて体の硬直は解けなかった。試しに、思い切り太腿を叩いてみた。青痣ができそうな痛み、その波が去ると左足を浮かせることができた。私はそれで、体中を叩いていった。痛みは、それがどれだけ近いところで広がっていても、重なった部分でより痛むということがなかった。私は両手を使って、叩けるところは全部叩いた。体中がそれぞれに違った膨らみ方で膨張していくようだった。あちこちを折り曲げながら運転席に移動し、シートベルトを締めた。余った部分があるのは、誰かがいたことを私に意識させた。私よりも体の厚い誰かはキャスターを吸っていた。ミラーを調整し、アクセルを軽く踏んだ。途端に、無数にあった何かの気配は消え去った。そんなものを感じていたことが嘘だったように跡形もなかった。後続車は一台もなかった。ナビには私の家までの道順が示されている。腕を伸ばしてグローブボックスの中を見た。何もない。レンタカーではないのか。後ろには私の荷物しかない。この車は誰の車なのだろうか。私は本当に一人だったのか。ついさっきまで停まっていた場所の近くに、誰かを置き去りにしていないだろうか。今すぐには戻れない。前を向いたまま、後ろの荷物から手探りでiPhoneを取り出した。シイノさんという人から、おやすみなさい、とLINEが送られていた。そのまま、サイドボタンを押して太腿の上に置き、シイノさんというのが誰だったか思い出そうとした。その名前を見たときから私の中で、鳩尾の辺りから染み出すように何かが広がっていた。私は、シイノさん、と声に出した。それは何の抵抗もなく声になった。私はそれを言い慣れていたし聴き慣れていた。私は、おやすみなさい、と返信してみる。それはすぐに読まれ、モリイチくんによろしくね、と返ってきた。私とモリイチに、共通の知り合いがいただろうか?それに、私はもう何年も彼には会っていない。遡っていくと、シイノさんだろう人と私が写った写真があった。湖だろうか。背景には、暗くてよく見えない山々と、フラッシュを反射して輝く水面が写っている。私たちは張り出した木の台のようなところでしゃがんでいた。私は口を大きく開けて笑っている。何かを掴むような格好で、激しくブレた私は楽しそうに見えた。この瞬間以上に最良なものはないような表情だ。私は彼女を忘れていた。まだ起きてますか?、と送り、起きてるよ、と返事があってすぐ、電話をかけた。
「もしもし」
「すみません、こんな時間に」
「ううん、何でか眠れないし大丈夫だよ」
「私、さっきまでシイノさんのこと、思い出せなかったんです」私の声は震え、それと連動するように両手が小刻みに揺れていた。
「え?」彼女は一呼吸置いてからそう言った。
「おやすみなさいって、それが、その送ってきた相手が誰だか分からなかったんです、シイノさんって、名前は分かってる、見えてるのに、それが誰だか、分からなかった」私は嗚咽し、涙で滲んだ目は歪んだ道路の上をあちこちに動いている。
「モリイチくんは?」さっきよりも短い沈黙の後、彼女は確かるみたいに言った。
「いない、私、今、誰のか分からない車を運転してます」
「今どこにいる?」
「今、は分からない、もう少しでサービスエリアがあるみたいです、シイノさん、私、どうしたらいいんでしょう」
「そのSAで待てる?すぐに行くから」
「待てます」
「急いで行くから待ってて。そこの名前送ってて」
私はしばらく画面を見つめたまま、彼女の名前を見ながら、何も考えられずにいた。どうやって彼女を忘れたのか。唇が震えて煙草をくわえられない。足元に落ちた煙草を拾い、くわえた煙草をまた落とすというのを何度も繰り返した。そのたびに車体が揺れた。私は無事に着かなくてはならない。それは何故か、私のためというよりも、彼女のため、シイノさんのためにそうしなければならない。落ちままの煙草を諦め、運転に集中した。
彼女はモリイチを知っている。私は、どれだけモリイチのことを覚えているのだろうか。彼との記憶を辿っていこうとするが、どれだけやってみても、彼が帰って来たのかどうかも思い出せない。違う。彼は帰ってきたのだ。遠近を歩き切り、戻って来た。会っていない間の話をした。私は、彼からの手紙でも知っていた話を、彼の口から聞きたがった。彼は、めんどくさそうにしつつも、一から話してくれた。痩せ細っていた。瞳や声以外、すっかり別人になったようだった。彼は私の話を聞きたがった。私は何を話したのだったか。彼に比べて、大した話はできなかった。モリイチは、しばらくは真面目に学校行くわ、と言っていた。私は、今度は二人でどっか行こうよ、と言った。彼は何と言ったか。数台の乗用車に追い越され、私はアクセルをほとんど踏んでいないことに気が付いた。シイノさんにSAの名前を送り、ついでに煙草を拾った。唇の震えは止まっていた。ぐっとアクセルを踏み、ようやくまともな速度に追いついた。彼女からは、二時間以内に着く、と返事があった。モリイチは一体どこへ行ったのだろう。私たちは三人でいた。湿原の近くの木道を歩いた。シイノさんの家に泊まった。彼は何か言い残して言った。何と言っていたか。この車はモリイチの車だ。真っ黒のラングラー 。彼は車を置いてどこに行ったのだ?彼はまたどこかへ歩きに出たのか。私にはもう、さっき車を停めていた場所も分からない。モリイチを置き去りにしてしまったのだろうか。そうではないと分かった。彼は、歩いてどこかへ行ったわけでも、置き去りにされたのでもなかった。じゃあどこへ行ったのか。私たちは三人でいた。そのはずだ。私はもう思い出している。私とシイノさんは美草にいた。仕事だった。彼女はモリイチを知っていた。私たちは電話を受けた。その先の誰かは私たちに忠告した。モリイチもその電話を受けた。だから彼は迎えに来たのだ。本当にそうだろうか。彼は電話を受けたか。電話をかけた?彼は私たちに忠告した。美草へは行くな、と。私たちは美草へ行った。彼は何度も忠告してくれた。それを破ったのは私だった。彼は私たちを迎えに来た。私を。彼は私たちの泊まってる部屋を知っていた。彼は手を上げていた。雪が降っている。傘をさしている。私たちは部屋を出た。彼はホテルのロビーにいた。私は抱きしめられた。シイノさんはモリイチを知っていた。何をどれくらい知っているのだろうか。私の知らないことも、彼女は知っていた。
サービスエリアへは十分もかからないで到着した。シートベルトを締めたまま背もたれを倒し、ルーフを眺めた。煙は堰き止められたようにそこを漂い、気付いた時には見えなくなっていた。車の中は寒かった。どれだけ暖房を強くかけても変わらない。風邪を引いてしまったのかもしれない。私の体が冷え切っているのだろうか。建物に入っていく人が見える。何台もの車が入れ替わった。私は出入り口の前にいた。左右に車はない。体中が浮腫んでいるようだった。体が膨らんで、感覚は鈍化している。二の腕をつねってみるが大した痛みはない。声を出してみるがぼわぼわと聞こえづらい。視界だけははっきりとしていた。滲んだりぼやけたりした部分はない。着信音が鳴り、慌てて体を起こした。食い込んだシートベルトで息が詰まる。少しだけ体を倒し、ゆっくり起き上がった。助手席に投げ出されたiPhoneを手に取り、耳に近づける動作の中で電話に出た。
「大丈夫か?」聞き慣れた、聞き慣れないモリイチの声。私の中で、色濃く残っている声はその声ではなかった。
「SAに着いたよ」
「車ん中におるな?」
「うん」
「悪かった」
「ううん、大丈夫、というか思い出せないから。モリイチは?どこ?、大丈夫?」
「俺は大丈夫やで。ただ忙しなってん、悪いけど、年末年始はあかんわ」
「車は?」
「車は。ミヤちゃんは?」長い沈黙の後、彼は言った。
「来てくれるって」
「そうか。車は。車はそこに置いてったらええわ、ミヤちゃんが来たら、そっちに乗り込んでくれ」
「全然よく分かんない」
「ミヤちゃんにもよう言うといてくれ、すまん、ミヤちゃんが来るまで、車から降りたらあかんで」
「何を?」
「年末会えんようになったわって」
「それだけ」
「それだけでええ、すまんな」
「モリイチは大丈夫なんだよね」
「うん、大丈夫や」彼の声は平坦でそれは、抑揚を抑えるためにわざとそうしているように聞こえた。
「分かった」
「ありがとう」
私には、この車にモリイチと二人で乗っている記憶があった。私たちはシイノさんと別れて、それから私の家に向かっていた。通話が切れた後でも、彼の声が聞こえてくるような気がした。それくらい、その間の彼の声は遠くから響いていた。私は写真を見返した。そこにモリイチは写っていたはずだ。彼はそこにいたはずだ。私には、そこに写っている私すら、そこにいた私なのかどうか分からなくなっていた。モリイチはぽかっと口を開けてレンズの辺りを見ている。シイノさんなら分かるだろうか。煙草を吸い続けた。モリイチが吸っていたキャスターの空箱に、吸い殻をねじ込んでいった。どれくらいの時間が経ったのだろうか。もう二時間以上経ったようにも、五分と過ぎていないようでもあった。時計を見ても、彼女からその連絡があった時間を見ても、私には今が何時か、分からないというよりも、断定することができなかった。二人の声が聞きたかった。モリイチはきっと出ないんだろう。私は、シートベルトを外してから起き上がった。辺りを見回す。何台ものトラックと数台の乗用車。車高のおかげか、中の様子がよく見えた。トラックの方はカーテンで見えないのだけど、どの車の中でもシートを深く倒し、ダッシュボードの上に足を投げ出して携帯をいじっている。誰かを待っているのか。ただ時間を潰しているのか。もうシイノさんが来てもおかしくはないはずだ。時計の見方が分からない。きっともうすぐ来るだろう。私はシイノさんの顔を覚えているだろうか。彼女の声、体、言葉、匂い、気配、立ち振る舞い、態度、雰囲気、手触り、その何もかもを、私が知った彼女を覚えていられるだろうか。少なくとも、彼女がここへ来るまで、私の名前を呼ぶまで、私が彼女の名前を呼ぶまでは。どうすればいい?私はそれらを覚えていたい。それらを知覚する器官で覚えていたくない。私が覚えていたいのだ。彼女の、私が知り得た全てを。私は考えていた。思い出していた。さっき、シイノさんを忘れていた時のことを。何の違和感もなかった。忘れたことも、思い出したことも、そのどちらのきっかけも見当たらない。私が考えるべきは今だった。モリイチが言っていたことを思い出した。この時のために、私は今まで何も考えてこなかったんじゃないのか。そんなことはなかった。ただ、それは正しくもあった。私は思い出す必要があった。モリイチは言った。思い出すな。忘れるな。思い出してはいけないものと、忘れてはいけないものを考えた。忘れてはならないものの方は簡単だ。もちろんそれはシイノさんのことだ。彼ならそう言うだろう。誰のことだって忘れてもいい。私は、今の私は、シイノさんのことだけは忘れてはいけない。思い出してはいけないものは?私はそれを思い出しそうになったのではなかったか。だから私は取り乱し、モリイチを見失い、固まった。彼は今どこにいるんだろう。そこは寒くないだろうか。そう遠くない場所に彼はいるような気がした。決して近くにいるわけではないのだけどそれでも、遠い、と括れる範囲にはいなかった。車の外、十メートルと離れていない。そこに彼は立っていた。私を見守っているわけでも、見ているのでもない。ただそこに立っていた。彼は何も言わない。語りかけてこない。語りかけてくるのはいつも死者だけだ。私は。声を聞いた。何人も何人も。誰も彼もが私に声をかけた。私はそれを無視した。聞く耳を持たず、そうやってここにいた。だからここにいた。彼らは私に語りかけた。何を?私が持っていないものがあると。私のまわりには気配すらないものがここにはあると。私は聞き取った。彼らは手当たり次第、私の興味を引きそうなものの名前を言った。読み上げた。私は歩き出した。私は裸足だった。細かな砂が指の間に入り込んだ。視線を足元に落とし、それが砂ではないことを知った。私は顔を上げる。彼らはすくっとそこに立って、私がそこに、彼らの伸ばした手が届く距離に来ることを待っていた。私の意思で、そこへ歩いていく必要があった。彼らの声はずっと同じ調子だった。何を言っているのか。私にはもう内容なんてどうでも良かった。私は彼らを見据えたまま歩いた。一歩ずつ、足元の質感が変わっていく。ひとときも同じ場所はなかった。彼らの静かな呼吸が届く頃、誰かが私の耳を塞いだ。それは誰だったろう。私がまだ知らない誰かだった。その人と私が顔を合わせることはない。本当はそこにいてはいけない人だった。その手に温度はない。その人は何も言わない。音を立てない。背後にあるはずの気配もない。耳を塞ぐ手のひらだけだ。振り返ることはできない。私とその人は会ってはならない。彼らは腕を伸ばした。鼻先で空気が対流した。彼らは何度も手を伸ばした。彼らは諦めるということを知らない。諦める必要などなかったのだ。時間はいくらでも、彼らが望むだけあった。その人は私の体を引いた。私は後退りして、彼らから離れていった。彼らの姿も見えず、私は何から遠ざかったのだろうと思い始める頃、音が聞こえ始めた。私は決めかねるように振り返り、何もないことを確かめた。車が小刻みに揺れている。ずっと向こうの木々も揺れていた。風が車体に当たって散っていく。車のあちこちから甲高い音が聞こえた。車の外に立っていたモリイチはいなくなっていた、どうして?小屋の中で私たちは歩き回っていた。私たちは美草にいた。美草には海があった。そうだ。海はあったんだ。私はモリイチの前を歩いていた。ほとんど獣道にしか見えない山道を、私たちはもう小一時間は歩いている。モリイチが後ろで吸っている煙草の煙が流れてきた。それは私を先行し、倍くらいの速さで後退した。そうして渦になり、頭の上あたりでぱっと散っていった。私が煙草を吸い始める前だ。私たちは美草にいた。崖の上に立った小屋を目指して歩いていた。私はそこへ行く必要があった。本当は一人で行くべきだった。私にはそれができなかった。私たちは何も話さない。覚えていたよりも長い時間をかけて小屋の前に出たとき、それでも私は、もう着いてしまった、としか思えなかった。モリイチは私の隣に立ち、顎をしゃくってから私を見た。私は頷き、彼は、まあ休憩しようや、と言った。私たちは小屋の近くの岩と切り株に分かれて座り、かなりの時間をその上で潰した。私は動けなかった。そうだ。そのときも、私は何かを思い出そうとしていた。固まった私の体を、モリイチは優しく撫でた。彼は火のついていない煙草をくわえていたり、煙の上がる煙草をくわえていたりした。私は長い間、モリイチの足の隙間に、彼にもたれるようにして挟まっていた。彼は切り株の上に座っていた。私は地面に腰を下ろし、彼の顎が乗った頭頂部の熱を感じていた。その他のどんな部分も、どのような温度も感じなかった。私は何か呟いて、モリイチは、ああ、とか、せやな、とか、そんなふうに、何気なく返してくれた。私は思い出していた。波の音が向こうの崖下から響いてくる。それは空中を伝って響いているはずだった。私には地中から波の音が聞こえてくるようだった。私は立ち上がった。大丈夫か、と言いながらモリイチも立ち上がり、手を組んで背中を伸ばした。小屋はほとんど朽ち果てていた。屋根もあってないような状態だ。床材だけはしっかりとしていて、所々にカビや欠けがあるくらいだった。踏み心地や歩いた感触は変わらない。私たちは小屋中を歩いていた。何もない、がらんとした空間だった。いくつもあった椅子は一脚も残っていない。真ん中に敷かれていた固い毛布のようなものも、たくさんの蝋燭も、もちろん、何もなかった。強い海風を受けた壁はたわんでいる。窓なんて一つもない。モリイチは扉近くの壁にもたれている。私はまだ歩き続けていた。何か、探し物でもあったのだろうか?何もない。見当たらない。初めからそんなものはない。モリイチは睨みつけるように私を見ている。その目は私の変化を見ている。私がまた固まってしまわないように、観察していた。私は歩き続ける。波の音は小屋に入り込んだ。それはよく聞いた音だった。屋根はほとんどないはずなのに、その音は小屋の中にしばらく留まっていた。モリイチは何も言わない。私も何も言わない。蝋燭の火が見える。三十脚ほどはある椅子の、何本もの脚が見える。声。波の音。新しい人。よく見かける人。誰かが笑っている。風が吹き付ける。窓もないのにこの小屋は、がたがたと音を立てる。一体何の音なんだろう。足音。床の匂い。固い毛布の感触。背中に鳥肌が立つ。頬もその肌触りを思い出している。靴を脱ぐ音。裸足の指先。何種類もの匂い。音。波の音は増していくばかりで、ちっとも減らない。呼び掛けられる。読み上げる。手のひら。誰の手も合わない。床が軋む音。砂粒が落ちて跳ねた。何度も見た顔。鈍痛。屋根が揺れている。儀式。羽が。靴底の大きな石ころ。蝋燭の火の向こう。影が。影がいくつも重なっている。大きな人影。誰か。モリイチは勢いよく壁から離れ、私を羽交締めにした。私たちはそのまま倒れ込んだ。彼は何も言わない。私も。何も聞こえない。私は空を見ていた。眠っていたのか、モリイチはそばで煙草を吸っている。真っ暗だった。供物。波音はまだここにあった。気にならなかった。私は忘れた。思い出せなかった。モリイチは先を歩いた。うっすらと見える道を歩いていた。私たちはどこかを歩いている。山の道。ほとんど獣道だ。モリイチは何度も振り返った。両脇の暗がりには何かがいた。ずっと、ここへ来るときにもそれはそこにいた。私はそれを知っていた。モリイチは知らなかった。私はモリイチの背中を見つめて歩いた。何も見なかった。何時間経った?静かだった。波の音はここまでは届かなかった。領分が違った。モリイチは振り返る。私はそこにいる。私は振り返る。それはそこにいる。私は前を向き直す。彼と私の間にもそれはいる。私は構わなかった。それらはただそこにいるだけだった。私たちに関り合いのないものだ。まだ。私はiPhoneを取り出した。一体何時なんだ?シイノさんからの連絡はない。私はまだ彼女を覚えていた。モリイチと私は駅前の食堂にいた。私たちはまだ何も話していない。私は彼に負けじとたくさん食べた。それまでもそれ以降も、そんなに食べたことはなかった。彼は笑って、大丈夫か?、と言った。私はそれに答えないで、丼に残ったお米をかき込んだ。車に乗った。彼は、どうする、と言った。分からない。どうすればいいのだろう。その頃はまだ高速はなかった。私たちは途中からも合流せず、長い時間をかけて下道で帰った。モリイチは疲れているはずだったけれど、私には分からなかった。私は眠った。眠っていた。夢は見なかった。音が聞こえた。ありとあらゆる音を聞いた。目を覚ました。モリイチは、おはよう、と言った。私は答えたか。覚えはない。口は開かれた。私たちは帰った。それからどうした?私はそれからモリイチに会っただろうか。もう彼は電話をかけてくることもないだろう。電話の向こうの誰かも、私に忠告をすることもない。私はよく迷子になった。いつも誰かが私を見つけ出した。ひとりでに帰ったことなどなかった。誰かが必ず私を見つけた。私は迷子になったことに気が付いてもいない。歩いていた。走っていた。誰かが声をかけたのだ。だからそっちへ行った。手を離して。私は迷子ではなかった。言われるがままに進んでいった。どこにも見覚えがあった。知らなかった。知らない場所だった。心細くもない。誰かがずっと隣にいた。前の方にも、後ろにもいた。私は囲まれていた。歩いていた。走っていた。見飽きるほど見たことのある風景が続いている。まだ知らなかった。私の前で伸びる道を、私はまだ歩いたことがなかった。それでもその道を知っていた。それに、道の先にあるものを知っていた。私たちは手を繋いでいた。名前を呼ぶ声。私は振り返る。見知った顔がある。私は吸い寄せられるように歩き出した。何を言っているのかは分からない。私を連れて歩いていた誰か。言葉は意味を成さない。私は笑っていた。車の中はどんどん寒くなっていた。靴を脱ぎ、両足を抱え込んだ。窓の向こうに見える車は何台目だったか。ここへ来てからもう何度も入れ替わっている。シイノさんは無事に辿り着くだろうか。空腹を感じていた。車の中には何もない。彼女の車に乗った後、私はどこへ向かえばいいのか。家に帰るべきなのか、彼女の家に行けばいいのか。私が忘れていることは、シイノさんを覚えている間は、忘れられたままだった。反対に、彼女を忘れている時には、何かを思い出そうとしていた。その何かは私に、思い出されようとしていた。モリイチはきっとその中間にいた。私は彼のことを思い出したり忘れたり、少しだけ思い出せる範囲が広がったり、ずっと前から覚えていたことを忘れたりと行き来した。体の芯が冷気に震えている。白い息が赤色の車に重なって見える。誰も乗っていない。いつからそこにあったのか。時計はまだよく分からないままだった。いつだったかに妄想していた、シイノさんと暮らす家のことを考える。目が覚める。私は隣で眠るシイノさんを見やる。彼女はぐっすり眠っている。少し汗ばんだ額が、カーテンの隙間から入る朝陽に光っている。私は何の気なしに彼女の額を指先で拭う。彼女は寝返りを打って目を覚ます。おはようございます、と声をかけた。彼女は、おはよう、と言って腕を開く。今日は休みだった。私は彼女に抱きしめられたまま眠り始める。夢を見る。私は泳いでいた。濁った水の溜まりに浮かんでいる。小さな島が遠くに見えた。私はそこを目指して泳いでいるのだろう。島には見たことのない樹木が生えている。私は海岸をぐるりと一周歩いてみる。島は、歩くたびにその外周を広げていった。歩き疲れると木々の影で昼寝をした。私たちはダイニングで向かい合って座っている。適当な朝食を食べ、今日一日何をしようかと、あれこれ言い合った。彼女は買い物へ行きたがって、私は何だって良かった。それに賛成して、私たちは家を出る。まだ彼女の気配が残った家具と、よく見知った家具が混在している。私たちはその間を通り抜けた。明るい日差しが一瞬で私たちを覆う。エレベーターに乗るまでに上着を脱ぐ。彼女の腕に触れる。産毛と肌のさらさらとした感触が手に移る。私は目を覚ます。すっかり夜だ。これまでに見た数を合計しても足りないくらいの星が見える。細波の音が星々の震えのように耳に届く。高く伸びた木の先に大きな実を見つける。私はお腹が空いていて、なんとかしてその実を取れないかと、使えそうなものを探し始めた。砂浜は昼間よりも鋭く光っている。意外なほどに遠くまで見通すことができる。泳いでいた時には気づかなかった大小の島々が見えた。そこにもきっと誰かがいた。私は寒さを感じた。空腹よりも先に、その冷ややかさを落ち着かせる必要がある。火があれば何かと便利だろう。見たことのない樹木の落葉落枝は見慣れたもののようだった。私は手当たり次第に石を集めた。どの組み合わせでも火花を出せないでいた。冷気はもう我慢できないほど、骨の奥まで染み込んでいた。私は震えていた。積み上げた枝葉が見える。水平線や島々が揺れて見え始めた。私は全身を包み込むようにうずくまった。半分埋まった耳の中で、砂粒の擦れる音が響く。体を寄せてみると、表面のずっと向こうに熱が残されていることが分かる。私はその温もりに縋り付くように体を押し付けた。右肩が砂地に食い込んでゆく。温かい。私はふと目線を上げる。忘れていた果実が、空腹感を思い出させた。折り畳むみたいに体を曲げ、今ある熱がなくなってしまわないよう、じっと動かなかった。右目には驚くほど近くに見える砂とぼやけた遠景、左目には堆く見える無用の塊、割りにはっきりとした遠近がうつっていた。私は目に入る一つ一つを数えていった。眠気はなかった。とにかくここは冷えるだけだった。私の体はどこへいったのだろう。私は砂を抱えていた。こぼれ落ちていった。ひとかかえも残らない。風に吹かれた落ち葉は海にも何枚か浮かんでいるようだ。あとに残ったのは小さくて細い骨だけだ。違う。それは枝だ。私が拾った。私がまだあった頃に拾ったものだ。海上の葉っぱは揺れていた。沈んだ。数枚だけ、砂浜へ寄ったあとぐんと遠くへ流れていった。もう見えなくなった。私は砂の中にいた。体は?細波と砂の流れる音は同じだった。同じように響いた。暗くはなかった。眩しくはない程度の明るさがあった。初めて訪れた場所だった。私は立ち上がった。ひんやりとした、リノリウムのような感触がある。私の足の形に沿って形を変え、それでいて硬質な踏み心地はそのままだった。何も見えない。どの感覚も遅れてやってきた。歩き出すべきかどうか分からない。私は何故か立ち上がった。何のために?右足を上げる。踏み出すとあとは自動的に歩き始めた。どこへ向かっているのだろう。何も見えない。どんな方向に進んでいるのかも分からない。足が向いている方が前だとは分かっているのだけど、一歩進むたび、私もその場所もそれぞれに回転しているようだった。目を覚ます。私は焚き火の前に寝転がっていた。私が眠ったあとで、誰かが来たのだろうか。火の向こうに、膝を抱えて座り込む人が見えた。起き上がろうと力を込めた。誰かは、そのままでええ、と私を制し、火の上に手をかざした。言われた通りというよりも、自然に力が抜けていった。私は夜空を見上げ、熱いくらいの火の暖かさを蓄えようと動かなかった。よう来たな、と誰かは言った。顔を向けると手が伸びた。私は星々に向き直り、すみません、先客がいるとは、と言った。星の明滅に合わせたような木の爆ぜる音が聞こえる。気にせんでええ、定員もないし、早い者勝ちでもない。心地好い声だった。慰撫されるのとは違った、もっとはっきりとした感触のある声。火、ありがとうございます。ほんまにな、君、がちごちに冷えとったで。誰かは大きな声で笑い、ぐらっと火が揺れた。他には誰かいるんですか?おらんな、俺と君だけや。唾液を飲み込む音が響く。大丈夫、心配せんでもええ、何もせえへんよ。すみません。いや、そりゃ怖いわな、でもまあ、信じてくれとしか言えへんな。大丈夫です、分かってます。何かもらうんも怖いやろう、火花の散る組み合わせで、君の集めた石ころ並べといたるわ。どこ行くんですか?向こうや、まあ大体君の反対側におるわ。反対側。一人でどうにもならん事があったら来たらええわ、ただあんまり歩き回ったあかんで、君も歩き回って気付いたやろ。はい、気をつけます。ほな行くわ。しばらく、これはいらん、これはいけるな、と声が続いた。私はまだ星を見上げていた。どの星も同じような強さで光っている。ほとんど違いはない。大きさが少しずつ違っているだけだ。瞬きをすればそんな基準は消える。私は起き上がって辺りを見渡した。誰もいない。焚き火の向こうに並んだ石と、そのすぐ隣に窪みが残されているだけだ。私は火に手をかざした。静かだった。私はその声を聞いたことがあった。聞いたことがあるなんてもんじゃない。私はその声を頼りにしていた。その声のする方へ歩いていった。その声が響いた場所に立っていた。その声の響くものを見た。その声が届く範囲から、片時も離れたことなどなかった。それまではなかった心細さが、弛緩していく体の一部を硬化させた。私は近寄れるだけ焚き火のそばへずれた。目を覚ます。繋いだ手が汗ばんでいる。私たちは並んで歩いていた。見上げたマンションは深い黄土色だった。シイノさんは、何食べようか、と言ってiPhoneを取り出す。私は彼女の様子を窺いながら、何も言わないで手を引き、適当に歩きましょう、と言った。炎天下、二人のシャツは濡れていた。同じ柔軟剤の香り、いつかの香水、それぞれの体に匂い、そんなものが私たちを包んでいた。新しい私たちの匂いだった。汗が体中で流れている。私たちは知らない道を歩いていた。ここはどこだろう。私の知らない街。それでも私は彼女の手を引いて歩いている。路地に入る。二人の靴音が反響する。長い路地を歩いていた。大通りを目指していた。洗濯物がなびいている。食べ物の匂い。混ざり合ったそれらを判別することはできない。シイノさんは眼鏡を外している。私は彼女の手を握り締める。彼女が微笑んだ。どれだけ歩いても塀の間を抜けない。私たちは同じところを歩き続けていた。彼女はそれに気づいていないようだ。私は立ち止まる。少し先を行った彼女も立ち止まる。私は振り返って歩き出した。シイノさんは動かない。歩き出した力でくるっと彼女に向き直る。彼女は何も言わない。どれくらい見えているのか分からない目で私を見ている。私は何か言おうとする。おかしいですよ、この道、と。言葉は出てこない。浮腫んだ声帯は振動しない。シイノさんは私の手を引きはしない。私たちの腕は、立ち入り禁止のチェーンのように力なく垂れている。私は彼女の手を引いた。彼女は動かない。首を振ることもない。ただ私を見つめていた。私の目を。私たちは人混みの中に立ちすくんでいた。私は一人で立っていた。静かな雑踏の中に。初めから一人で立っていた。ここから見上げても巨大だと思える広告看板がいくつも見える。無数の足音だけが辺りに満ちていた。誰もいない。私は座り込んだ。何本もの足と路面しか見えない。それでも届く日差しが背中や首筋をふつふつと焼いていった。人々は急足でどこかへ向かっているようだ。振り返る。誰かが私に向かって走っている。私は立ち上がる。追いつかれてはならない。私は走り出す。数えきれないほどの人にぶつかった。あちこちが鈍く痛んだ。振り返る。逆光の中とはいえ、もう見えてもいいはずだった。それが何か、誰か。私たちの距離は広がっていかない。私は何度も転んだ。それは誰ともぶつからず、真っ直ぐに私へ近付いてきた。脇腹と肺が切られたように痛む。私はもう諦めていた。逃げ切ることは出来ない。それは絶対だった。私は立ち止まった。振り返り、せめてそれの一部でも見ようと目を細めた。どの瞬間とも変わらず、何も見えなかった。私は瞼を閉じ、体中の力を抜いた。もう見ている必要はない。薄桃色の視界の中でも、それが近付いて来るのが分かった。体がみるみる冷えていく、その速度、その程度でそれとの距離を知れた。それは私との距離を断続的に縮めていった。それが私を捉える直前、私は瞼を開けた。鼻先が触れ合うほど近く、そこにはよく知っている顔があった。私は倒れた。頭を強く打ち、残響が体中に響いた。手を伸ばす。ぬるぬるした、それでいて擦り合わせる指の動きを止める感触。人影の下ではそれはほとんど真っ黒に見えた。横目にとろりとした流れが見える。踏みつける音。引き剥がされるような音。私はまた瞼を閉じる。体はこれ以上ないくらい冷たく、強張っていた。瞼の裏で蛍光色が散らばって光っている。硬い音。繰り返される音。振動。くぐもった声。名前。私の。応答はないようだ。ここには誰もいない。誰一人、ここにいたことはない。名前。応答なし。堰き止められていた。途切れていた。硬い音。繰り返される音。声。呼びかける声。私は車の中にいた。誰かの車。寒い。あまりにも寒い。名前。私は起き上がり、靴を履いた。足の指の感覚がほとんどない。視線。確かな、私に向けられた視線。お腹が空いていた。胃が痛み出している。外に出ようと、それは、ドアは外側から開かれた。私の手は掴み損ねたまま投げ出され、そのまま強く握られた。体がふっと軽くなり、車の外へ飛び出した。鋭い冷気。温かかった。私は誰かに抱きしめられていた。