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 私に存在するこれは、一体どこの誰のものと交換できるだろう。そもそも、これが何なのか、私にはまだ分からなかったし、そんなそれを、交換したがっている訳も分からなかった。それが本当に私の中にあるものかどうかも、私には感じることさえできない。肌には決して触れない辺りで漂い、私の体を包んでいるようでも、何にも観測されない微小な状態で体の中に点在しているようでもあった。北からしか出入りできない町で育った、その断ち切られた感覚は未だにどこからも拭われていない。その正確な位置も見極めることができないくらい、体のあちこちに延びて染み込んでいた。着信を知らせる振動や音が、届いたそばから意識を滑り出た。窓際の椅子に座ってちらつく雪を眺め、どれくらいの時間が経ったろう。一時間も経っていないはずだが、景色に向かう意識の乱れや、右足の痺れ、あれということもない思いの流れ、そのどれもがばらばらに流れているせいか、実際の時間以上であるように感じられた。とにかく、私は窓際に座っている。輪郭を持たない雪の粒は、視界の端から端へ、過ぎ去ってはまた流れ込んできた。扉を強く閉める音が、どこかから聞こえてくる。私の他にも今、このマンションのなかでこうして雪を眺めている人がいるだろうか?意識や時間の感覚もなく。取り立てて特徴のある一日ではなかった。それにしたって、今日という一日の締め括りに相応しい過ごし方だとは思えない。着信音や振動は繰り返されている。これはいつの音だ?私の手のひらの上で光ったり揺れたりするそれは、私の一部のようにも見える。どうしてか手のうちに、刺激を与えられた貝みたいにすっぽりとおさまっている。遠くの岸壁に小屋が建っている。けぶった景色の向こう、その一点がやけに目につく。私は迷い込んだ、軋む床板の下に、小屋を支えるために斜めに渡された柱を感じ取ることができた。それは荒々しい岸壁の腹に突き立てられた三本の杭だ。それはこの絶壁が崩れ去るのを防ぐ杭だ。私の一歩一歩がその杭を、岸壁のさらに奥へと食い込ませる。地鳴りのような音を立てて波が砕けていく。その振動が小屋の中に充満していた。小屋は内側からも軋んでいた。私は重心を落とし、必要以上に慎重に歩いていた。私は何かを忘れていた。それだけが、私が分かっていることの中で唯一の確かなことだった。私はいくつものことを忘れていた。波の音が部屋の中にこもった。それはいつまでも消えず、ほんの少しずつ大きくなっていった。私の耳は音を掴み損ねた。何の音も聞こえない。どこへも行かない。羽ばたきのように音と像がずれていた。私は耳を塞いだ。音は大きくなった。音は私の中から鳴っていた。私は口を開いてみる。言葉のような、音のような、吐息のようなものが漏れ出す。
 小屋の中には一脚の椅子が。古びた装飾と軋む背もたれ、私はそれに優しく腰掛ける。雪の粒が流れている。誰かが誰かに向かって、風の動きを伝えるためだけに降らしたような雪だった。舞い上がった雪は空中で弧を描き、その頂点から海へ、放たれた矢のように降り落ちる。そんな動きの連続を、私は逐一言葉にしながら見つめていた。男は私の肩に分厚い手のひらを置いていた。それは本当に、置いてあった。どのような思いも、その前触れも、何もなかった。暖かくもないし冷たくもない、つまり私の体と同じ温度であった。私は彼の手の甲を指先で撫でた。私が迷い込んだ先は、朝露で濡れた丈の低い草が生い茂っていた。少し先の地面からそり立つようにして丘へと続いている。私は何もかもを見落とさぬよう、しっかりと瞼を開いて、大股で歩き始めた。遠くかえら聞こえる、警笛のような甲高い音が耳に届く。男の手は私の首筋に伸びてくる。浮き上がった血管がぶつかりあって、体のどんな場所でも脈打っていることを思い出させた。私の体は頭のてっぺんから爪先まで、常に脈打っていた。男の鼓動は私のそれよりもいくらか速い。大きな体に、小動物を思わせる速い鼓動。辺りの静けさがぐっと深みを増した。雪の粒はその数を一定に保っている。目の奥で同じように光が、ちらつき、流れて砕けていった。静かだ。雪室の底には何もなかった。私は曲面にもたれかかり、目線を上げている。覆いかぶさるように生えた草で、ほとんど何も見えない。私は歩いていた。走ってもいただろう。草を掻き分け、誰かから逃げていた。追ってもいた。それからふっと宙に出た。数秒はそこにいた気がしたけれど、一秒だってそこにはいなかった。落っこちた拍子に膝と手のひらを擦り剥いた。よく知っている生っぽい金属の匂いが雪室の中に漂っている。今死んだばかりの動物と同じ匂いだった。それは山の中で見かけた小鹿の死骸と同じ匂いだ。私は手のひらを舐めた。むしろただの金属に近づいたそれは、その味は、見たこともない果物の味がした。絵本の中の果物だ。そこは不思議と温かかった。私は、いつまでもそこにいてもいいような気になっていた。手のひらの傷跡は毛虫のような形に裂けている。私はその傷跡を爪で抉った。血の匂いが濃くなってゆく。私はその匂いを吸い込めるだけ深く吸い込んだ。それは死にゆくものの匂いだ。あわいの香りだ。その匂いを私は知らなかった。一番よく知っているはずなのに。充満した匂いは織り込まれるように沈殿していった。私は揺蕩いはじめる。体が重みを失う。光は匂いの層を通り抜けなかった。心地好かった。そこは、そのほかのどんな場所よりも心地好かったのです。ここは私が迷い込んだ場所ではなかった。私の目は霞を通り抜けると、もうもうと舞った砂粒を捉えた。私はきつく目蓋を閉じ、滲み出てくる涙でそれらを洗い流した。男は私のそばに立ち、その表情は吹き流れる砂で見えなくなっていた。どのような顔をしていただろう。私は瞼を閉じたまま、男の顔へ手を這わせた。固く締まった顎先から伸びる柔らかな頬、頬骨の感触と小さな隆起、黒子だろうか、そのまま長くごわごわと生えそろった睫毛を撫で、目の玉が収まった空洞の縁に触れた。男の鼻息が手首にかかる。それはこのような場所でも熱く湿り気を帯びている。今朝つけた香水と混じり合って、私の匂いではないものが立ち上ってくる。男の眉毛は所々短かったり癖がついたりしている。額に軽く残る傷跡の感触は、切り傷であることが分かる。判別のつかない陽光が、薄い瞼を通して差し込んでくる。私はそろそろと目蓋を開き、男の顔を確認しようとする。男は、私をびくつかせない程度の早さで腕を上げ、私の目を手のひらで覆った。これほど強い日差しの中で、どうしてこれだけの暗さが生まれるのか。あてがわれた部分の骨や皮膚が震えている。私は何か言って、男は手のひらの加減で返事をよこした。その返事は、それまでのどんな返事よりも優しかった。私に向けられた、私のための返事だった。それは、それを知ったあとでは当然のことのように思えたが、それまでのことを踏まえるとそんなことはなかった。誰も、誰かに向けて、その人のためにだけ答えるということはできなかった。知ってはいけない感触がいくつもある。それを知る前と後では、何もかもがすっかり変わってしまうのだ。私はそれを知れたことに、その純粋な一つの出来事に幸福を感じるし、感謝すらし始める。しかしそれは、私が知ってはいけないことの一つだった。ありとあらゆる物事がそうであるように、このこともまた、渦中やそれをとうに過ぎ去ったあとでしか理解できない。この世には意地の悪いものしかなかった。もう後戻りはできなかった。何度もそうなった。何度も、後戻りできないことを知った。私は、彼の手のひらの温かさを思い出すことができない。そこに熱があったことだけを思い出すことができた。彼の手のひらには、私の瞼の柔らかさや、睫毛のこそばゆい震えが残っているのだろう。そこにあった温度はどこへ行ってしまったのだろう?私は、何も知るべきではなかった。彼だって、私に何一つとして、与えるべきではなかった。その逆も然り。互いに何も明け渡さず、与えず、そうしていれば良かった。本当にそれで良かったのかどうかは、歓迎すべきでない事態が持ち上がってから分かる。さて、どうしよう。男は私のつむじに口を近づけ、何かを呟いている。それは私の耳には届かず、届いていたとしても意味をなさなかっただろう。いや、意味など分かる必要はない。私はただ体を開いているだけで良かった。男の呟きは一定のペースで続いている。私はもう意味を追おうとはしなかった。体の縁が滲んで行くような感覚があった。その感触は体の奥と、皮膚の少し先で感じられていた。私の中に音が溜まっていく。それは言葉ではなかった。意味を持たない言葉は、音として私の中で拡散して、そして沈殿していった。今では私の体は外と同じように熱を持っていた。私は薄い膜に包まれていた。その膜の内側と私の体の中を行き来して、どこへも落ちていかない。響きが増していくことはなかった。ただ着実に私の中に溜まっていった。男の声は、私がそれを「声」としか認識できないだけで、声ではなかった。私の中はその「声」でいっぱいになっていた。しかしそれはどこにも溢れていかない。私は膨張した。狭苦しい小屋の中で、私は膨らんでいった。
 椅子の上に立ち上がった私は瞼を開け、男の顔を見下ろした。男の鼻先が私の顎の先に触れている。男の目は暗い藍色で、ほんの少しだけ黄味がかっている。薄く開けられたまぶたや睫毛が小刻みに震えている。私が口を開けると、男は待ち構えていたように同じだけ口を開いた。私は当然のことのように、そこに向かって唾液を落とした。男は私の目を見つめたまま、それを飲み込んだ。男の視線は寸分もずれない。左右に振れることもないし、私の目の奥の、男が見つめているであろうものからも離れない。男がそれを飲み込んだ硬い音が小屋の中に残っている。それは雪の粒が窓を叩く音とは何もかも違っていた。私はもう一度男の口の中に唾液を流した。私の手足はすとんと下に落ちている。肩や腰の付け根だけが重みを感じていた。男はそれを、音を立てずに飲み込んだ。少し潤んだ目はそれでも、先と変わらず何かを見つめている。それは私を見ているのではなかった。もう少し遠く、私を通じて、私を望遠鏡にして見ることのできる何か、そんなものの姿形を確認しているのだ。私はその視線を、窓際にへたり込んだ体に感じることができた。男は私の唾液を欲しがった。もっともっと、と。彼は動かない。私は口を開ける素振りを見せる。男の目が揺れる。外廊下を走っていく子供の足音が、部屋の中での音のように響いている。私は手の中に視線を落とし、着信を今か今かと待ち望んでいた。それは良い知らせであるはずだ。福音とまではいかなくとも、それは私にとって良き報せであるはずだった。そうでなければ、私はここにもう一秒だってじっとしているわけにはいかない。今すぐに立ち上がらなくては。廊下を真っ直ぐに歩く。廊下は次第に三叉路にぶつかる。私はどの道を通ってここへやって来たのだろう。どの道にも覚えがああったし、どの道も初めて目にした。どの道の先も霞がかって見通すことができなかった。大木がいくつか目についた。樹皮の剥がれたようなそれらは、裸の人間が立ちすくんでいるように見えた。私は左の道を歩き始め、その木に触れた。肌よりも滑らかな表面は、それでも岩のようにひんやりとしていた。樹木と岩のちょうど中間に位置する手触りだ。内部に水分を湛えた岩のようだった。私はそれを長い時間撫で続けた。匂いをかぎ、頬をつけ、舌を這わせた。それはどんな味も風味もなかった。幼い頃、石も木も口にしたことがあるが、そんなような味は一切感じられなかった。中点にあるそれはもう何でもなかった。岩と樹木の間の子でもなかった。振り返った私は、もう廊下へ続く道がないことに気が付いた。この道は、どこへだって通じていない。そんなことは分かっていた。それでも私には、この道をどちらかへ進んでいくしかなかった。その選択肢以外は何も残っていない。私は木から離れ、とにかく歩き始めた。鼻歌を歌う気分にはなれない。ただ足を動かせることしかできなかった。道はどこまで歩いても何一つ代わり映えしなかった。ぽつぽつと木が生え、石や岩が転がっているだけだ。目にうつるものすべてが灰がかったようにくすんでいる。男はどこへ行ったのだろう。どこへ通じているのだろう。これほど荒涼とした場所を他には知らない。それでも、何が組み合わさってそうなっているのかは分からない懐かしさがあった。私は以前に、ここに似た場所へ来たことがあっただろうか。記憶の中ではそれは、確かにあった。しかし私自身はそうは思えなかった。こんな場所は知らない。男のことも、小屋のことも、私は何も知らなかった。私に今ある選択肢は、この道をとにかく進んで行くことしかなかった。迷い込んだのは私なのだから、私は自身に対して、何かしらの責任を果たさなくてはならない。せめて、誰かいれば。そう思わないわけにはいかなかったが、どこまでも無意味だった。その「誰か」は、特定の誰かだった。その「誰か」を、私はもう何度も忘れていた。何度も思い出した。その度に忘れた。忘れるたびにその「誰か」は遠くへ行った。むしろ私が離れたのかもしれない。違いはない。もういないのだ。ここがどこだったか、確かめるすべはない。私は帰り道を見失っていた。それがあったかどうかも今では疑わしいものだ。私は初めからここにいたのかもしれなかった。来し方はどこにもない。必要なかった。何も必要ではない。何かを必要としたところで、ここでは何の効力も持たない。腐って朽ちていくだけだ。腐臭は私を絡めとるだろう。こんな狭い、一体誰がこんなところに。私は手のひらを見下ろした。そこにはどんなメモ書きもなかった。いつも通りの手のひらだ。何かを掴んでいたような跡が見える。小さな箱のようなものだ。
 私に残された時間はどれくらいあるだろう。立ち上がり、シンクまで歩いて水を飲んだ。金属の味がする。帰ってきたまま玄関に置きっぱなしの鞄を取りに行って、コーヒーを淹れる準備を始めた。ケトルいっぱいに水を入れ、強火にかけた。大きな灰色のマグを出した。冷蔵庫から水を張ったお皿を取り出し、沈めてあったネルを固く絞った。豆を電動のミルで挽き、持ち手のある金属の輪っかにつけたネルの内へと落とす。それからすぐに、かたかたと蓋が鳴るのが聞こえてくる。火を止め、乾いた布巾で持ち手を掴む。マグの上に左手をセットし、優しく、ゆっくりと湯を注いだ。何かの巣のように唐突に膨らむそれを見ていると、コーヒーの香りが部屋中に広がっていることに気がついた。蒸気は目に見える形での香りではなかった。私は部屋の中を歩き回り、ここが私の家だと確かめた。その行為はどのような確信も生まない。それでも、そうせずにはいられなかった。部屋の隅に何かがうずくまっている。それは私を見上げている。いつからいたのだろう。さっきまでそこに何かいただろうか。私の視線を受けてもそれは動かない。膨らんだり萎んだりする部分があり、それは横腹か、うずくまっている何かは生き物のようだ。私は部屋の隅に足を向けた。部屋の空気が揺れ動いたように一瞬、身じろぎをしたそれは立ち上がり、私に向かって歩き出した。私はそれが何か知っていた。ずっと前に見たことがあった。それだけは覚えていた。どこで見たのだろう。どこかの夜道だ。うんと小さな頃にも見かけたことがあった。それは勘違いだ。そのときは見なかった。ただそこにいたことを知っただけだ。私は何度もそれを見た。その気配を感じていた。初めて目にしたのはいつだったろう。中学生の頃か、高校生になってすぐか。分からない。でもきっとそのあたりだろう。私は何度も、何度もそれを見たことがあった。そのことを覚えていた。そのとき私が思っていたことも思い出せる。それは私のそばまで、細い四本の足を器用に動かして、ゆっくり、近づいてきた。私は視線を外すことができない。私が選択できることはもうそれほど残ってはいない。私は瞼を閉じる。
 コーヒーを淹れ終わるとマグを持って窓際に立ち、さっきまでと同じように向こうを眺めた。コーヒーはすでに飲み頃になっていた。私は一口、二口とそれを啜り、小さな机に置いた。雪はどのような要素も変わることなく降り続けている。小屋の中の人影が見える。私の影だろうか。影は一人分で、行ったり来たりしていた。それは「誰か」の影かもしれなかった。私はその小屋への行き方を知らない。会うことはできない。こんなにはっきりと見えているのに。何かを運んでいるようにも見える。きっと、ただ歩いているだけだろう。私はその影の動きちらちらと見ながら、何も考えていなかった。影はいつまでも動き続けていた。窓もない小屋の人影を、どうして見ることができるのだろう。探し物でもしているのだろうか。影はいつまで経ってもその何かを見つけ出せないでいた。誰かが、近くに立っていた。小屋に合わせて作ったにしても小さな扉の横、誰かが立っていた。歩き回る影を眺めている。どちらも一言も発さない。ただ動き続ける影と、微動だにしない影があるだけだ。私はじっとその二つの影を見ていた。キッチンで物音が続く。振り返るが誰もいない。当然だった。玄関の扉が音を立てる。通り抜けた風が頬に当たる。私は身震いをして、ブランケットを取りに窓際を離れた。寝室は静かだった。朝、そこを抜け出したままの形のベッドが見える。羽織ったブランケットを合わせ、また窓際に立った。人影は見えなくなっていた。うらぶれた小屋が見えるだけだった。玄関の扉が開く、細く耳障りな音が聞こえた。私は振り返る。扉は開け放されている。誰かが立っている。その隣にも。そのまた隣にも。ここからでは見えない場所にも、誰かが立っている。風が強く吹き込んだ。カーテンが揺れ、窓が小刻みに震えた。攪拌された意識が、何かを考え出すことを阻害しているようだった。

 フクヤさーん、と聞こえて振り返ると、アキちゃんが小走りでこちらへ向かってくるのが見えた。紙の束を抱え、視線は一点に私を見つめている。手を軽く上げ「気をつけて」と言うと彼女は転んで、書類は一足先に私の元へやってきた。ある年齢から先、転ぶことがほとんどなくなったように思っていたけれど、それ以上に、転ぶ人を見かける方が少ないことに気がついた。両膝と手首が赤くなったアキちゃんは「すみません」と言いながら私のそばへ寄り、手元を見下ろしてから「それ、カギタニさんからです」と言った。
 ホチキスの止め方一つで誰がまとめたのか分かるようになったのはいつからだろう、と縦に真っ直ぐついたそれを見ながら思った。何箇所かに赤い印をつけたそれを、無人のデスクに置いて、その足で喫煙所へ向かった。もちろんカギタニくんはそこにいて、私に気がつくと慌てたように煙草を揉み消した。
「別に、いいのに」
「いやあ、タイミング的にどうかと、アキに頼んでここにいるのは」
「うん、まあ、確かにそれはよくないね、でも別にもうここにいるんだし」
「それもそうですね。じゃあ、すみませんが」と言って、何度か小刻みに頷いたあと、新しい煙草に火をつけた。
「お昼食べた?」
「まだです」
「じゃあ、アキちゃんも誘って、どっか行こうよ」
「はい、ありがとうございます」
 カギタニくんを食事に誘うといつも、夕方になって帰ってきた汗だくの息子を思わせる。夕食の献立を知らせると、それ以上の幸せがこの世にはないみたいな笑顔で手を洗いに走り出す。そんな人が家にいたことはないんだけど、割りにくっきりと浮かんでくる。
「それじゃあ、吸い終わったらアキに声かけてきますね」
「ありがとう、ここにいなかったらお手洗いに行ってます」
「分かりました」

 三人で近くの定食屋へ入って、日替わりを三つ注文した。運ばれてくるまでにカギタニくんは水を四杯も飲んでいて、じっと見ていると何となく恐ろしいものを見ているような気分になっていった。
「日替わりって何でしたっけ?」五杯目の水を飲み始めたカギタニくんは言った。
「多分、焼き魚じゃなかったかな」
「うん、そうだったと思う」
「焼き魚」
「苦手?」
「いや、あんまり食べたことがないんで、好きとも嫌いとも、まだ分からないです」
「あんまり食べたことがない?」アキちゃんは何故か身を乗り出して言った。
「うん、家で、実家で焼き魚食べた記憶ってないんだよな」
「じゃあ何食べるの?」
「何食べるのって、山ほどあるだろ他にも。唐揚げとかハンバーグとかカレーとか」
「まあ、そっか、でも何であんまり出なかったことを覚えてるの?」
「何で?」
「うん」
「ないことって覚えておけなくない?」
「何となく分かる気もするけど、何で?、か、多分、ほとんど外で食べてたんだな」
「焼き魚を?」
「そうです、友達の家とか、それこそ今みたいに店でとか」
「なるほど」と言ってアキちゃんは乗り出していた身を元の位置に落ち着けた。
 定食が運ばれてくると私たちは黙ってそれを食べ、恐らく三人ともが「ないことって覚えておけなくない?」に対するしっかりとした答えを考えていた。カギタニくんが言ったようなことも間違ってはいないけれど、何かがしっくりこなかった。

 終電を逃したわけでもなく、何の気なしにタクシーで帰ることにした。運転手は初めから今まで、一言も発していない。それでも時折の視線が、バックミラーからの反射で分かる。家までの数十分の間に、知らない番号から二度着信があった。番号を見つめながらやり過ごし、窓の外を眺めて夕食のことを考えた。
 この数ヶ月、見知らぬ番号からの電話が続いていた。午後早くと日付が変わる前に二度ずつ。そろそろ私も、間違えてますよ、と一言、教えてあげるべきなのだろうが、どうしてか出る気にはならなかったし、規則的であるせいか鬱陶しくもなかった。歯磨きを忘れてベッドに入ったようなもので、電話がない日にはそわそわすることさえあった。何かすべきことをしていないような気がして、それに気が付く、体がむず痒くなるくらいそれについてしか考えられなくなるのだけれど、こちらから電話をかけて「今日の分を忘れてませんか?」と言うわけにはいかない。
 いっそのことショートメールでも送ってみようかと思うこともあった。どちら様ですか?、それだけで良かった。しかし初めのうちに何もしなかった私にできることはもうなくなっていた。気持ち的に、ということだけれど。

 スーパーの前で降り、適当に買い物を済ませて帰った。茄子の揚げ浸しと里芋の天ぷらをつくり、小口ねぎを散らしただけの味噌汁もつくった。ソファに座って食事を摂りつつ、何日か前に買った雑誌を読んでいた。

 お風呂から上がると同時に着信音が聞こえた。確認してから濡れた手のまま電話に出た。
「もしもし」
「おう、急で申し訳ないが、明々後日から出られるか?」
「ええっと、すみません、確認します」
「分かった」
 手早く体を拭いて、リビングにある鞄の中の手帳を開いた。
「大丈夫です」
「そうか、じゃあ、明日中に書類と鍵を届けさせる」
「はい」
「家か会社か、どっちの方が都合がいい?」
「そうですね、どちらでも構いません」
「それなら、明日の午前中にデスクの上に置いておかせるよ」
「承知いたしました」
「それじゃあ、よろしく頼むよ」
「はい」
 冷蔵庫の中のものを確認して、二日間で使い切る献立をあれこれ考えた。買い足すものと一緒にメモに書き込んで、それから髪を乾かし始めた。
 ベッドに入るまでに、日数に無関係な荷物をざっとまとめてソファの端の方へ置いた。今回は長く家を空けるような気がした。そうなると、車を運転する時間が長いということで、それだけが私の気分を暗くする。雪がこちこちと窓に当たる音が耳につきはじめた。

 デスクに荷物を置いてすぐ煙草を吸いに行くと、鞄を持ったままのカギタニくんがいた。
「おはよう」
「おはようございます、早いですね」
「いや、今置いてきたところ」
「ああ、なるほど」
「明後日からいないから、アキちゃんよろしく」
「ああ、はい。長いんですか?」
「まだ分かんないけど、そんな気がする」
「そうですか、まあ、こっちは大丈夫ですよ」
「うん、心配はしてない」
「何かあれば電話します」
 頷いてから煙草を消し、二本目を吸うカギタニくんをおいて外に出た。

 昼休憩の前に若い男の人が私のデスクのそばに立った。気が付いたときにはそこに立っていた。どのような気配も匂いもない。妙につるっとした濃紺のスーツを着ているが、会社勤めをしているようには見えない。目も口も鼻もはっきりとしているのに、どんな主張もないし印象もない。私が顔をあげるまでの短い時間に整えたような端正な眉毛だけが唯一、彼が人間であることの証拠に見えてくる。スーツはよく似合っているのだけれど、それも手も顔も、どれもが今日この時だけのために誂えたもののように見えた。この空間のどこにも、どのようにも馴染んでいない。
 しばらく見つめ合ったまま、どちらも口を開かなかった。社長からです、と彼が言ったのがどれくらいの時間を過ぎてからなのか分からない。私は大判の封筒を受け取り、ありがとうございます、と言った。彼は小さく頷くと、踵を返し、途切れ途切れの映像のようにすっすっと私の視界から消えていった。

「気持ち悪い人でしたね」と言ったのはアキちゃんで、私たちは二人でまた昨日の定食屋の座敷に座り、食後の熱いほうじ茶を飲んでいるときだった。
「見えてたんだ」私は無意味なことを言って、小さくため息をついた。
「いつもあんな人でしたっけ?」
「ここ最近はいつもあの人、だったと思う、でもまだ見慣れない」
「なんか、合成写真見てるような気持ち悪さがありますよね」
「うん、それ分かる、アキちゃんのときもあんな感じ?」
「そうですよ。いつの間にかいて、無口で、いつの間にかいなくなってる」
「うん」
「社長も、何であんな人雇ったんでしょう、前の人の方が良かったなあ」
「うーん、あんな人だからじゃないかな、前の人は良くも悪くも話しやすい人だったから」
「うん、確かに、そうですね」アキちゃんは下唇を突き出して頷いていた。

 封筒の中にはホチキスで留められた書類が三つと鍵が五つ、往路の切符が入っていた。いつも通り見たこともない形状の鍵で、実際にそこへ行くまで、一体こんな鍵でどんなところを開くことができるのだろうと思う。書類を確認してみると、最後の束の数ページに私が高校を卒業するまで住んでいた町の名前を見つけた。長く静かなため息をつき。仕方がない、仕方がない、と小さな声で繰り返した。

 夕飯は揚げ出し豆腐と余り物の葉野菜を刻んで混ぜた炒飯を食べた。悪くはないが、何か物足りなかった。

 厚手のカーディガンを羽織ってコンビニまで歩き、バニラアイスを買って、食べながら帰った。おそらく夜勤であろう店員は、大丈夫ですかと声をかけたくなるほどあくびを繰り返していた。彼と同じくらい、私はぼんやりとしていた。美草、昼過ぎにその名前を見てから、ずっと頭の隅を離れてくれない。何年ぶりだろうか。数えてみれば分かるのだけど、確かな数字が分かると途端にその時間が朧げになる。本当に私はあの町から十年も離れたのだろうか。いや、離れられたのだろうか。私にはそう思えなかった。私はひとときもそこを離れてはいなかった。ずっとそこにいた。モリイチは元気にしているだろうか。両親や祖父母たちはどうだろう。誰のことももう知らなかった。彼らだって私のことは知らなかった。私は、三十七歳になるのが待ち遠しい。彼らの知らない私の、その私でいる年数が美草で過ごした時間を超えることを待っていた。それにどんな意味が、それがどんな意味を持つのかは分からない。恐らく何の意味もない。それでも私は、そのときを待っていた。今度の出張は、アキちゃんかカギタニくんに代わってもらおうかとも考えた。しかし私は、行かなくてはならないだろう。もちろん、社会人として、ということだけれど、個人的にも。もう一度町へ戻って、その姿を目に、そこを流れる空気を胸に、そこかしこに漂う気配を肌に、もう一度だけ、これが終われば私は、無事に三十七歳を迎えられるだろう。どんな根拠もないが、そんなような気がした。

 半休を取って、午前中だけ顔を出した。引き継いでもらう仕事と私がまとめておくべき仕事を分け、集中して片端から終わらせていった。アキちゃんのまとめた資料は、大体数ページに一箇所ほどのミスがある。大したことではないし、私だけで補填できる範囲だけれど、どれもが同じ種類である以上いちいち声をかける必要があった。カギタニくんは全くミスをしないか、このままでは間に合わないかもしれないといったミスをするかのどちらかだった。大抵の場合は間に合うし、そんなことが起きること自体少ないのだけど、こちらとしてはひやひやする。カギタニくん自身もそのことを分かっているから細心の注意を払っているようだが、その分というのか、元々の性向と合わさって大きなことになりやすい。今まで担当してきた人たちの中で二人は個人的にも好きだったし、比較するまでもなく上手くやってくれていた。ただ業務上でのその、二人の仕事ぶりの組み合わせだけが私を煩わせていた。

 二人に声をかけてから帰り支度をはじめ、必要なものを思い浮かべながらエレベーターに乗り込んだ。いつもはほとんど満員のエレベーターに一人きりで乗るのは久しぶりのことだった。街を見下ろしていると、歩道が迫り上がったように視界の中で目立った。浮かび上がった歩道と、まだずいぶん下にある歩道が見える。その上を歩く人たちもくっきりとした像と性別も分からないくらいぼやぼやとしたのが対になっていた。何度か瞬きをしてから窓に背を向け、扉と階数表示を見るともなく見ていた。

 寒さは、私の中のあらゆるものを鈍く重くさせる。昔から冬が苦手だったが、冬服を着た人を見るのは好きだった。その人らしさを感じやすい気がした。街には思い思いの防寒を施した人で溢れている。街全体がゆらゆらと所在なさげに目にうつる。固定すべき姿を見定めているようだった。

 ついでに、半休を楽しもうと百貨店に入って最上階から順に見て回った。私の中でデパートは街の象徴だった。今ではもうそういうわけでもないが、それでもいつも、何を買うでもなくうろうろと歩いているだけで心楽しい気持ちになることができた。言うまでもなく、買い物をするのも好きだったけれど、何故かいつも、寂しい気持ちになって家路につくことになった。象徴でなくなってしまったことを体感するからだろうか?私は今では、私が欲しいもので、この場所から持ち帰れないものはない。私が買えないものは、どれもこれも不必要なものだった。私が欲しいと思い、手に取って納得できたものは、どんなものでも買ってしまえる。私はもうここに完璧に組み込まれていた。

 インポート系の店で楕円形のポーチを買った。あまり見たことのないようなサイズ感だった。小さくも大きくも普通でもない。しかしこれだけあれば出先のホテルからふらっと外へ行くには事足りるだろう。便利そうだから買ったのだけど、きっと、このような奇妙な大きさのものを手に入れたかっただけかもしれない。
 それから、濃緑のミトンと木べらも買った。「どこか遠くへ行くとき、帰って来てから使うものを買っておきなさい」と言ったのは母方の祖母だった。彼女は夫を亡くしてから旅行魔になって、しょっちゅうあっちこっちへ行った。私はそのあいだ彼女の家から学校へ通った。一年のうちに何度かある、その一週間程度の時間が、当時の私が唯一穏やかに過ごせる時間だった。祖母は私が頼みこんだことを黙っていてくれた。埃っぽいところへ帰るのは嫌だとか、一人暮らしの練習にもなるでしょうとか、あの子は掃除が上手だからとか何とか言って、両親を説得してくれた。私は何冊かの本と荷物を詰めたリュックサックを持って彼女の家へ行き、タクシーが来るまでの時間を二人で過ごした。あまり口数の多くない彼女がよく喋るのはこの時間だけだ。そのときに言われたのだった。それはあんたが帰る場所とあんたを繋ぎ止めてくれる、と彼女は続けた。私はその言いつけを何年も守ってきた。彼女が死んでからは、遠くへ行った先で使うものも買っておくようにした。それが具体的に、私にどう作用するのか、作用してきたのかは分からない。それでも、お守りを無下にすることに抵抗があるように、本当はどういったことがあるか分からないからといってあしらうことはできなかった。

 一階まで見終えるとまた六階まで上り、喫茶店に入って窓際の席に座った。私がここへ初めて来た十年前からいる老婆の店員にナポリタンとホットコーヒーを頼む。煙草に火をつけると疲れが体中に広がったようだった。
 煙草をくわえたまま両腕をだらりと垂らし、目玉が勝手にくっくっと左右に振れるのを感じていた。歩く人を追っていた。彼女はクリーム色のワンピースの裾をなびかせて、厚手のコートのポケットに手をつっこんでいる。靴は見えなかった。歩くスピードからするとスニーカーだろうか。片手で抱えるように何かを持っている。小動物にも、本が入った紙袋にも、くしゃくしゃにしたマフラーにも見える。どこか、目的を持って向かっているようだった。確かな歩調、一定のリズム、風は彼女の髪をふわふわと浮かべ、くるりと頭上へ抜けていった。誰もが同じように歩いているなか、彼女だけがしっかりと目にうつった。

 誰かが何かを言って、顔をあげると老婆と目が合った。彼女は、ナポリタンです、と言って、私は自然に名札を見た。それから机の上に視線が流れ、彼女の言ったことの意味が分かった。ふた呼吸ほどおいて、ありがとうございます、と言うと彼女は立ち去った。
 のびをしてからそれを食べ始めた。いつだったか、雑誌で紹介されたあとで妙に繁盛していたことがあった。この手の喫茶店にしてはどの料理もクオリティが高かったからだろうが、それにしても異様な客足だった。今では時間帯を考えれば大抵は空いている。私が初めて来たのは、まだ建物全体が古びていた頃だ。何年かして大規模な改装工事が行われたが、この喫茶店だけはどういう訳か以前のまま古びていた。私はそれにほっとしたし、きっと少なくはない数の人がそうだったろうと思う。どのような理由で手付かずのまま残ったにせよ、ある場所が何の面影もなく変わっていくことは、変わり果てることは、寒々しい気持ち以外何も呼び起こしてはくれない。

 食べ終えるとコーヒーが運ばれてきて、新しい灰皿が静かに置かれた。火をつけないまま煙草をくわえ、ケチャップやピーマンの味が消えていくのを待った。
 昼間でも、雪が降る日が増えてきた。この調子だと美草では雪が積もっているのだろう。山に囲まれた無闇に大きな町、私が望むものは何一つない、私に何も与えなかった町、誰もが下を向いて歩いている、どこまで行ってもいつまでも山が視界を遮ぎる町、引きずり出されるように思い出が、胸の奥と同じように小さく震えている。
 老婆はレジの奥の席に座り、両切りのピースを吸っている。この十年、ずっとそれを吸っていた。いつ見ても、この上なく美味しそうに吸っている。若い男の店員は何かを洗っていて、たわしで何かを擦る音や流れる水の音が、スピーカーから聞こえる音楽と混じっていく。元々一つであるように馴染んだそれは、眠気を呼び起こした。重たくなった瞼が痙攣的に目を覆う。首が頭を支えきれなくなって、くらくらと揺れる。私は煙草を落とし、手に持ったライターも落とした。唾液が口の端から流れ出ようとする感覚で顔を上げた。おしぼりで口元を拭い、煙草とライターを拾った。辺りの光景や音が、くっきりとした輪郭を取り戻し始める。眠気はもうどこか遠くへ消え去り、冴え冴えとした頭と指先が残った。火をつけ、冷たい煙を吸い込んだ。肺が膨らむ、肋骨の内側よりも外側がきりっと痛むのを感じ、顔を上げて煙を吐き切った。
 電話がかかってきて、他と変わらない振動だけどそれはおそらく、知らない誰かからだろうと分かった。私は見もせずにそのまま煙草を吸い続けた。何かが他の電話と違っていた。より細かな振動であるように感じられた。静まってしばらくしてから確認すると、やはり誰かからの電話だった。彼なり彼女なりは、この数ヶ月、誰かと音信不通になっているのだろうか。それとも何十回かに四回だけ、私と誰かを間違えているのだろうか。

 外へ出ると、雪が降り始めていた。折り畳み傘を出し、かつっ、ぼっ、とさして歩き始めた。目に映る半数の人は傘をささずに小走りになり、あとの半数は傘をさして小走りになっていた。紙袋を一つ持った私は、その中で異質とも言えるようにゆったりとした歩みを続けていた。何も急ぐことはなかった。可能な限り、すべての時間をゆっくりと過ごしていたかった。

 残ったものをみんな味噌汁の中に入れ、微妙に残ったお米は土鍋で炊いた。
 せっかくこの街に住むんだから、と私はこの十年のあいだに六回は引越しをした。出張の前に冷蔵庫を空にするのは、家を引き払う前日を思い出す。この時間が一番好きだった。それまでせっせと築いてきたものを、一切残さずに片付けていくのは、生き直すみたいで心地がいい。別の人になって、別の服を着て、別の道を歩くのだ。この家にはもう二年ちょっと住んでいるが、そろそろ引っ越しをする時期かもしれない。仕事先からは割りに離れているが、ここまで気に入った家は初めてだった。外観は、その他に無数にあるマンションとどこも変わらないのだが、奇妙な内装に心を惹かれた。内見に来たときまず、玄関先の扉が木製なことに驚いた。今となっては大したことではないのだけど、そのときまでの私は、マンションの扉は金属製に限る、と思うでもなく思っていて、それほど仲がいいわけでもない友人に秘密基地の場所を教えてもらったときみたいにわくわくしていた。土間から続く廊下に段差がないことも、というよりそれだけのことで快適さが劇的に変わることが、もうここに決めよう、と思わせた。白茶の、土壁のような手触りの壁が続いている。裸足で歩きたくなるような絶妙な毛足の、柔らかすぎず固すぎないカーペットが敷き詰められている。脱衣所とトイレ、キッチンだけは濃いグレーのタイルが敷かれていて、そのひやりとした感触も好きだった。私は、担当者の用意したスリッパを脱いだり履いたりして歩き回っていた。どの部屋の広さも、私の感覚にぴったり合っていた。それまでの私は、広すぎるトイレや全ての辺がどう考えても短い寝室にうんざりしていた。予定していたよりも高くなった賃料も仕方がないと思えた。それでも、体はそろそろ引っ越す時期だと、うずうずと、私の意思とは無関係に準備を始めていた。

 鳥も鳴かないような薄曇りの朝、アラームをかけた時刻よりも一時間早く目が覚めた。壁にもたれたままベッドの中でぼんやりと過ごし、ベランダに出て煙草を吸ってから身支度をはじめた。
 クリームパンとコーヒーを朝食にし、生ゴミをコンビニの袋あけ、きつく縛って冷凍庫へ入れた。これでもうすべきことは何もなかった。本棚の前に立ち、カート・ヴォネガットの『国のない男』を手に取った。ソファに座って読みつつ、ときおり窓の外を見つめた。数えきれないほどのマンションや一軒家やアパートが並んでいる。ここは小高くなった土地の上だから、体感よりも広く遠くを見渡すことができた。カート・ヴォネガットの笑顔は「世界は、悪いことばかりではない。けれど、そうでない出来事はとてつもなく少ない」のだということを私に教えてくれた。それは力強い言葉よりも私を励ました。高校生の頃だったろう、祖母の家で読み始めたことを思い出せる。彼女はその時どこへ行っていただろうか。私は長い間、彼女の家に一人でいたような気がする。東南アジアの国のどこかへ行っていたんだっけ。それで、私は夏休みの最中だったっけ。確か、そうだった、私は夏休みの前半を両親と二人の妹と過ごし、後半を祖母の家で一人きりで過ごした。私は、夏休みの直前にクラスの中心に位置しようとする子といざこざがあって、二週間ほど前から学校へ行かなくなっていた。制服を着て家を出る、いつもは曲がる角を過ぎて公園か図書館へ行き、そこで時間を潰す。母親のふりをして学校へ電話をかけた。思い返してみると、両親は私が学校へなんか行っていないことに気が付いていたのかもしれない。私は公園と図書館を行き来し、そのちょうど真ん中にある博物館へ行った。救いようもないくらい古びた建物。私はそこが嫌いだった。こんな萎びた町の、そんなところで見つかったこれまた萎びたものを、誰が好んで見にくるのだろう。私はチケットカウンターにいるモリイチと話すために博物館へ足を運んだ。モリイチは「守一」で、もちろん「モリカズ」と読む。彼は小学生の頃にここへ引っ越してきた。一年生だった私は彼をモリイチと呼び始め、高校生になってからも、彼がその高校を辞めて通信か何か別の高校へ行った後も、だからか始めたアルバイト先でも、変わらずモリイチと呼んだ。
「またサボったんか」眠たそうな、ついさっきまで眠っていたような眼をこすりながら言った。
「うん、アライカエデと喧嘩してから居心地が悪い」
「またか」
「だって、意味分かんない、勝手に、お姫様みたいに、中心にいると思うのはいいよ、でもそれを私にまで、それをっていうか、私にもそういうふうに接するようにさせるのは違うじゃん」
「ほっとけよそんなん」
「モリイチはもうそういうのと関係ないかもしんないけど、私はまだ二年以上もあるんだよ」
「ユカコも学校辞めたらええやん。元々、人のペースに合わせたりすんの苦手やろ」いつも通り、彼はずっとうっすらと笑っていた。
「簡単に言うな、名前も呼ぶな」
「幼馴染やのに名字で呼べってか?」
「何回もそう言ってるじゃん」
「だから俺も何回も言うてるやろ、雪の華に子でユカコっていい名前やし、それを呼ぶか呼ばんかは俺の勝手や、そういうのはアライカエデと何が違うんや」
「違う、私はモリイチに頼んでるけど、あいつはそれが当たり前のことで、それを理解できない可哀想な私に教え諭してあげようって態度なの」
「考えすぎや、感じすぎや、悩みすぎや」
「モリイチはそうじゃないの」
「どうやろなあ、俺は適当な人間やからな、こうやって、誰も来おへん薄暗い場所でだらだらしてるだけで幸せや」
「何それ。そんなの、幸せでもなんでもないでしょ」
「いちいち俺に噛みつくなや、ユカコもほら、こっちきて昼寝でもしよ」手を合わせて頬に当て、わざとらしく首を傾げながら瞼を閉じた。
「今から図書館で勉強するから無理」
「相変わらず冷たいなあ」
「こうして顔見に来てあげてるじゃん」
「あれ、俺それ頼んだっけ?」
「いや、まあ、そういうわけでもないけど」
「やんな、びっくりしたわ、気を付けなアライさんみたいなるで」意地悪く笑う彼を見ていると優しい気持ちになれた。
「ならない。じゃあ、行くから。また明日」
「はいはい、またな、気付けて」
 毎日昼前に目が覚めた。熱いお茶を淹れて縁側に座り、祖母が植えた草木を眺める。花が咲いたのや枯れたのや、まだ蕾なのかそれで終わりなのか分からない何やかやを眺めた。ときどき野良猫とじゃれながら本を読み、何杯もお茶を飲んだ。気が向いたら簡単な料理をつくり、時間をかけて食べた。私の料理の腕は、その頃から何も変わっていないように思える。実際、レパートリーが広がっただけで、技術的なことで言えば何も変わっていなかった。猫たちは全部で四匹いて、赤茶の大きなのが二匹と小さな茶と白が一匹ずつ、家族だったのだろうか。大きな赤茶の片方は、耳が広がって目立っていたからミミ、もう片方は耳が垂れていたからタレミミと呼んだ。白はシロで、茶はムギチャ、四匹はだいたい私が眠っているうちに、前の日の夜に出しておいた餌を食べ、夕方にもう一度みんなで現れた。ミミとタレミミはささっと食べ終えると私や仔猫から少し離れた位置に座り込んだり寝転んだりしていた。心底寛いでいるように見えたのだけど、何かがあれば一瞬でそこから離れられることも分かった。シロとムギチャは小さいからか、嫌な人に出会った回数や時間が少ないからか、いつまでもお皿の周りをうろうろと歩いていた。縁側に座って様子を見ている私の膝の上にのぼってくることさえあった。タレミミはそんなとき立ち上がり、私の顔を見た。シロやムギチャの方へはちらりとも視線を向けない。私の目だけを見ていた。それからまた座ったり寝転んだりして、ミミの毛繕いをはじめたり虫をつついたりする。私はそのときの視線を忘れることができなかった。

 新幹線に乗り込み、窓際の席に座った。まずは一時間半ほど乗って、特急に乗り換えて一時間、改めて書類に目を通すと、今日はほとんど移動だけで終わりそうだった。車内販売でポッキーとサンドイッチを買い、ホットコーヒーを頼んだ。本の続きを読みながら食べ終えても、一時間も経っていなかった。何か音楽でも聴こうと立ち上がり、キャリーケースを下ろした。奥の方からイヤフォンを引き摺り出した。元に戻してから変換プラグがないことに気付き、もう一度同じような動きを繰り返した。
 シャッフル再生で最初に流れてきたのはThe Beatlesの『Rocky Raccoon』だった。何年ぶりに聴いたのかも思い出せないがそれは、昔、いつでもどこでも流れていた。私の部屋で、祖母の家で、図書館や公園のイヤフォンから、通学路で、始業のベルがなるまで、立ちくらみのように頭の奥が揺れた。『国のない男』を読みながら、リピートで『Rocky Raccoon』を聴き続けた。その二つに流れる物悲しさとおかしさは同質のものだった。もう失われてしまったものに対峙した私たちが抱くものと同じだ。手の施しようもないほど失われたものを前にして、私たちは笑うしかなくなる。私たちはかつてそこに含まれていた輝きを思って、その輝きに目を細めるように、その残骸から視線をそらすように、沈鬱な表情を浮かべるしかなかった。
 一年ぶりに乗る新幹線は、記憶の中のものよりも快適ではなかった。身分不相応な場所に一人残されたような侘しさがあった。こんなスピードで地上を移動すべきではないのかもしれない。

 不必要にしか思えない巨大な駅に到着し、予約されていた店で車を借りた。荷物をトランクと助手席に放り込み、見守られながらナビを設定した。一礼してから発進し、まず二時間か、と思いながらロータリーを回った。小綺麗な、漂白されたような駅前は閑散としていた。老人すら歩いていない。
 一つ目の信号を左折してすぐのコンビニへ寄った。水とお菓子を買って、煙草を吸ってから車へ戻った。水を飲み、ふーっと息を吐いてから、シイノさんへ電話をかけ忘れていることに気が付いた。慌てて電話をかけるとワンコールで声が聞こえてきた。
「もしもし、シイノです」
「お疲れ様です、フクヤです」
「ああ、じゃあ、よろしくお願いします」
「はい。十分ほどで到着すると思います」
「じゃあもう外で待ってるよ、気を付けて」
「はい」
 助手席の荷物を後ろに移動させてから車を出した。

 シイノさんは大きなバックパックを背負って立っていた。無地で黒色のTシャツに深緑のダウンジャケットを羽織り、それよりは明るいカーキのパンツにワークブーツ、いつもの彼女だった。私に気が付くと手を振り、こっちこっち、と車を誘導した。車を止めて外へ出た。
「お久しぶりです」
「うん、今年もよろしく」
「こちらこそ、よろしくお願い致します」
「相変わらず、しばらく会わないと敬語になるね」シイノさんは笑って言った。
「え、そうですか?、そうですね」
「まあいいや。行こうか」

「今日は移動だけになりそうだね」二十分ほど経ってから、地図を見つつ彼女は言った。
「そうですね、ナビでは二時間ですけど、もう少しかかりそうです」
「うん、まあゆっくりいこうよ」

 馬鹿馬鹿しさに恐ろしくなるようなラジオを聞きながら、私たちは西に向けて進んだ。シイノさんは一つ年下で、毎年この時期に一緒になることが多かった。彼女は、遠くから見ると一回り年上に見える。老けて見えるようなところはどこにもないのだけど、全身の雰囲気や気配が、私と同年代だとは思えなかった。会う度に敬語に戻るのも、大部分はその印象のせいだった。自然にそうなるのだが、私にはそういった形式以外での敬意の示し方が分からなかった。冬の装いしか見たことがないのも、何か影響があるのだろうか。

「一年ぶりくらいか、調子はどう?」
「そうですね、上々ってわけでもないですけど悪くもないです」
「引っ越しは?」
「まだしてないですね、もうそろそろむずむずしてきましたけど」
「ほんと好きだね、私も嫌いじゃないけど、ユカコさんほどじゃないなあ」
「でも、今の家が気に入りすぎてなかなか腰が上がらない」
「ならしなきゃいいのに」おかしそうに笑ってから言った。
「私もそう思う、シイノさんは?」
「うん、私も上々って感じではないかなあ、今年は割と忙しかったしね」
「担当地区が変わるんでしたよね?」
「そう、来年からだけど、もしかしたら一緒じゃなくなるかもね」
「そうですか、それは残念です」
「ね、多分、フキシマくんっていうんだけど、彼が引き継ぐことになりそう、今年入った子」
「私も別の地区にしてもらおうかな」
「そんな悪い子じゃないよ」彼女はいつも、んふふ、と笑った。

 どこへ行くのだろう、どの道も乗用車でいっぱいだった。渋滞というほどではないがそれでも、気持ちよく運転ができるわけではなかったし、昼過ぎのこの地方都市で、人々はどこへ向けて車を走らせているのだろう。何が必要になって、どこでそれを手に入れるのだろう。

 休憩も兼ねて道の駅へ寄り、二人でソフトクリームを食べた。私はバニラで、シイノさんはバニラとチョコが混じったのを頼んだ。ベンチに座ってアイスを食べながら、道の駅へやってくる人を眺めていた。シイノさんは髪が長く、鬱陶しそうに払いのけながら黙々と頬張っている。子供を連れた夫婦が多かった。老夫婦も多い。私たちくらいの年齢の人は、特にその二人組というのはどこにもいなかった。同年代の人は、一人で、たいていは大きなバイクに乗っていた。味の濃いソフトクリームは冬に食べると一層美味しかった。いつ雪が降ってもおかしくない色の雲が、あちこちにかたまって浮かんでいる。私は、シイノさんと話していると何故かモリイチを思い出した。彼は上々だろうか。まだ町にいるのかどうかも知らなかった。しかしそんなことを言えば、妹たちや両親だってそこにいるのかどうか知らなかった。私の知らないうちに彼らはもうどこか別の場所へ移っているのかもしれなかった。そういえば、モリイチは大学へ行くために町を出たんじゃなかったか。私の最後の記憶は、二人がそれぞれ通う大学の、その中間地点にある喫茶店で途切れていた。私たちはいつもどこかの間で会っていた。一つ思い出すと、関係のないことまでどんどん思い出される。彼は一年生の終わり頃に休学届を出して、全国を歩いて旅し始めた。私はどうしてかそれを馬鹿にして、彼はいつものように笑ってから「なんでも自分の目で見てみな気済まへんねん」と言っていた。私はあの当時、というより、彼が町へやって来てからずっと、彼のやることなすこと全てに否定的だった。モリイチは私にとって、デパートと同じくらい外部の何かの象徴だった。彼が飄々とした態度のままどこかへ行って、そのまま帰ってこないことを何より恐れていたように思う。怯えていたと言ってもいいくらい。

「なんで今、そんなことする必要があるの?」
「質問の意味が分からへん」
「わざわざ休学して、電車でもバスでもなんでもいいけど、そういうので行けるのに、何でそういうのじゃなくて歩くの」
「よう分からんな」
「そんなの、大勢の人がしてるし、真新しくないじゃん」
「俺はまだしてへんで」
「そんなこと分かってる」
「ユカコが寂しいのは分かった、新しい場所へ行くたびに葉書か手紙出したるわ」
「そういうことじゃない、そういうことじゃないけどそれは受け取る、でも」
「同じ学校ってわけでもないねんから、気にせず俺より先に社会に羽ばたいといてくれ」
「言われなくてもそうする」

 道の駅をあとにして、しばらく何も話さずに進んだ。同じような景色が続く。錆びた看板と真新しい看板、崩れそうな家屋とぴかぴかの巨大な一軒家、赤茶けた遊具が点在する公園と砂場すらない公園、そういったものが交互に現れた。
 シイノさんは、今年の初めの方に会ったときにも着けていた小ぶりなピアスと左手の中指の指輪を新調していた。鈍く光るそれらは彼女によく似合っていた。彼女はフロントガラスの向こうをぼんやりと見つめている。時折、うつらうつらとしているようで、ボリュームを絞って運転に集中した。

「どこに泊まるの」
「その辺やろな、テントやらで」
「危ないじゃん」
「そんなん、どこで何してても危ないで」
「そうだけど、それより確実にもっと危ないでしょ」
「大丈夫、あ、俺も何か買うとこかな、帰って来てから使うもん」
「付き合うよ」
「何がええかな」
「おばあちゃんはいつも料理に使うものだったよ」
「ユカコは?」
「私は、まだ」
「まだ?」
「小さい頃にしか旅行ってしたことない」

 結局モリイチは何を買ったんだったか、今となっては思い出せない。ちらちらと雪が降りはじめていた。湿り気を帯びた雪は、フロントガラスに落ちるとしばらくしてから溶けて流れた。シイノさんは見ていると不安になる角度で首を曲げて眠っている。彼女を見たり、彼女と話したりすると、ほとんど自動的にモリイチを思い出す。顔や体の造形が似ているわけでも、滲み出る雰囲気や、言葉のない気配が似ているわけでもなかった。それでも、ふとしたときに彼を思い出すし、思い出しはじめると止めておけなかった。私は彼と、二人の妹のうち一人としか心を通わせるということができなかった。それは一過性のものだと思っていた。きっと、思春期か何かの、私にはどうすることも出来ないものがそうさせるのだろう、と。そうではなかった。今に至るまで、私がそんなふうに誰かと関われたのは二人しかいなかった。その二人もいない今、私はどうやって誰かと関わるべきなのだろう。シイノさんと話しているとよくそんなことを考えた。

 チェックインまで一時間を残してホテルの駐車場に到着した。静かになるとシイノさんはすぐに目覚めて、私の顔を数秒見つめてから「あ」と言った。
「ごめん、めちゃくちゃ寝てた」
「大丈夫ですよ。ぐっすりでしたね」
「うん、ぐっすりもぐっすり」
「まだ一時間くらいありますね」
「じゃあ、散歩でもする?」
「そうですねえ、何かありますか?この辺り」
「何にもないね、というか私も初めて来たから知らない」
「まあ、じゃあ、ちょっと歩きますか」

 私たちは意外にも繁盛した商店街をぶらぶらと歩いた。私も背の高い方だったけれど、シイノさんはそれよりも五センチは高かった。だからかどうか、道ゆく人たちは私たちを見たし、私よりもシイノさんを長いあいだ見ていた。彼女はそんなことに気付いてもいない様子であちこちの店を覗いていた。

「何年住んでても、意思がないと知らない場所ばっかだね」
「そうですねえ」

 高校生の頃、私とモリイチは町中を巡った。どうせなら全部を見て出て行こうとしたのだ。言い出したのはモリイチで、私はいつものように「そんなことして何になるの」と言った。彼はああだこうだ言って、私も結局そうせざるを得なかった。見限って出ていくにしても、私はあまりに町を憎んでいたし、どのような形でもそれを解消しないわけにはいかなかった。彼はきっとそんなこととっくに分かっていたのだろう。本ばかり読んで外に出ない私の、重い腰を上げてくれるのはいつもモリイチだった。
 私たちはまず図書館へ行き、町の仔細な地図のコピーをとった。それとマーカーを手に歩きはじめた。バスを乗り継いで町の端っこまで行き、地図をどんどん塗り上げていった。私もモリイチも、その奇妙な旅を楽しんでいた。上から順に塗りつぶされていく地図を見ているだけでも気分が良かった。私たちはこの町のことを誰よりも知っているし、私はその上でこの町をすっぱり切り捨てるのだ。どこもかしこも同じような景色が続いた。どこで何を見てもどのような感慨もなかった。モリイチはその行為だけでなく遠近を見て歩くことも楽しんでいるようだった。私は数えきれないほどの小川も路地も、山々やバス停の名前も、どの季節にどの辺りを歩いていたかも、何一つ思い出せない。
 高校一年の春に始めて、三年の夏にその作業を終えた。何かから解放されたような、すっかり洗われたような気分だった。これでいつでも、どんなところへだって行けるのだと思った。しかし、どこへ行けばいいのだろう。私はただこの町を出たかった。行きたい場所なんてものは最初からない。ただここではないどこかへ行きたかったのだ。モリイチが遠くの大学へ行くと聞いて、その近くの大学を受けたのは、私というものの根本的な間違いの体現だったのだろう。どんな後悔もないのだけどそれでも、自身にとって大切なことすら考えられないほど、何かを真剣に考えたことがなかった。彼は「いつか、何かを考えるために力を蓄えてるんやろ」と言って私を慰めてくれたが、果たして本当にそうだろうか。私はそれ以降も、何一つ考えてこなかったんじゃないか。

 商店街を一往復するとちょうどチェックインの時間になった。私たちは車に戻って荷物を取り出して、ホテルの自動ドアを抜けた。

「今日から二泊の予約を取りましたフクヤです」
「フクヤ様ですね。少々お待ちください」
「はい」
「はい、確かに。フクヤユカコ様とシイノミヤ様ですね。では、こちらに住所、氏名、電話番号を記入していただけますか?」
「分かりました」

 隣り合った部屋に分かれ、ベッドに倒れ込んだ。いくつものことを思い出したせいで頭の芯がきりきりと痛んだ。湿った雪が降り続けている。まだ積もるような雪ではなかったけれど、見ているとうんざりした気分になってくる。

 ノックの音で目が覚めた。寝ぼけ眼のままドアまで歩き、錠を外して扉を開けた。シイノさんが立っていて、夕飯はどうする?、と言った。私は、ああ、と言ってしばらくしてからしっかりと目を覚まし、じゃあ一緒に食べに行きますか、と言った。それから、ちょっと待っててください、と言って車と部屋の鍵と財布を取ってから部屋を出た。
 三時間ほどの間に駐車場はいっぱいになっていて、どこに車を停めたのか分からなくなった。彼女は、さっきの商店街で適当に済まそうよ、と言って道の方へ歩き出していた。私は助かったような気分で小走りでそばに寄った。

 唯一開いていた定食屋に入り、鴨南蛮と天ぷら蕎麦を頼んだ。シイノさんは何処かから資料を取り出し、明日からのルートを確認していた。いつものことだけれど、彼女との仕事はストレスが少なかった。だいたい初めの五日ほどは、あらかじめホテルは取られていて、それ以降はシイノさんが担当してくれたし、鍵が必要な場所への連絡も、知らないうちに済ませていた。おそらく、運転しない代わりに雑務をこなしているのだろうけれど、私としてはとにかくありがたかった。
 料理が運ばれ、それぞれに「いただきまーす」と言って、あとは黙って食べた。シイノさんは眼鏡をわきへ置いて、天ぷらを確認するときだけ覗き込むように顔の前にかざした。シイノさんは左右で目の大きさが違っていて、私はそこに、どうしようもなく惹かれていた。造り自体は変わらないのだけど、左目の方がほんの少しだけ大きく見えた。測ってみれば一ミリ程度の差なのだろうが、たったそれだけのことで、とてつもなく大きな違いがあるようだった。そして、不思議なことではないのかもしれないが、その左目の方が好きだという訳でもなかった。

 それじゃあ、明日八時に、と言って分かれ、私はそのままコンビニまで歩いた。一人で知らない町を歩くのは、引っ越した先での初めの数週間と重なる。缶ビールとサラミを買い、煙草を吸ってから部屋へ戻った。
 音を消してテレビを流し、飲みつつ食べつつ、明日以降の行程をあれこれと考えていた。上手くいけば二週間ほどで終わりそうだった。そのあと二日間の休みがあり、同じ電車を乗り継いで、また別の電車に乗って美草へ行く。距離からすると、シイノさんとは美草の駅前で集合することになるだろう。唯一の救いは、一人きりではないということだった。

 六時に起きて朝食を食べ、シャワーを浴びたり柔軟体操をしたりして、十分前に下に降りた。彼女はボンネットにもたれかかって本を読んでいて、私がそばに立つと顔を上げて笑った。空を見上げ、今日はいい天気だね、と言った。澄んだ空には暗い雲は一つもなく、冷たい風と暖かな陽の光で満ちていた。
「おはようございます」
「おはよう」
 車に乗り込むと、外よりも冷え込んでいるようだった。暖房をつけ、手のひらを擦り合わせてからエンジンをかけた。
「じゃあ、出発します」
「お願いしまーす」
「今日は、二地点ですね」
「そうだね、明日は三やって次のホテルかな」
「そうなると思います、しばらく雨も降らないだろうから、予定通りに進むでしょうね」
「うん」
「さっき、何読んでたんですか?」
「さっき?、ああ、カフカの城」
「今年の初めの方にも読んでなかったっけ」
「読んでたよ、でも読み通せなかった」
「なるほど、何回読んでも読み通せない感じだ」
「そうそう、カフカの他のは割と好きで何回も読んでるんだけど、城だけは読み切れたことない」
「そういうのあるよね」
「ユカコさんもそういうのある?」
「私はサリンジャーの本はどれも読めなかった」
「サリンジャー、ライ麦しか読んだことないなあ」
「中学生の頃に読んで、高校生の頃にも大人になってからも読んだけど読めなかった」
「こういうのって何なんだろうね。読んでる最中とかって割と熱中してるのに」
「うん、ふっと関心が向かなくなるよね」
「そうそう。それで同じところを何回も読むようになって、読みたい別の本が出てきて」
「気が付いたらそっちを読んでる」

 あれこれと話しつつ四十分ほど車を走らせ、一つ目の地点に着いた。二人とも車の外で伸びをして、それから車の中に戻って作業着に着替えはじめた。シイノさんはグレーのつなぎにクリーム色でコーデュロイ地の上着を羽織った。扉を開けて足だけを出し、いつも履いてるのとは色違いのワークブーツの紐を締め直している。私は濃紺のつなぎを着て、厚手の黒いブルゾンを羽織った。GORE-TEXの登山靴に履き替え、外に出てまた伸びをした。

 シイノさんは用紙を挟んだボードを手に、私の前を歩いていた。私たちは作業道を歩きながら山奥へと進んで行く。踏みしめられた落ち葉が割れていく音が辺りに響いていて、合間に鳥の鳴き声や何かがかさこそと動く音が聞こえた。私は息が切れないペースを守って、彼女との間に距離を取りつつ歩いていた。
 途中で作業道を離れ、傾斜のきつい場所を尾根まで登った。それからはひたすら尾根を登っていき、なだらかになったところで傍に逸れて坂を降っていった。彼女は私よりも早いペースで息を切らさずに進んで行く。それは、私より二年先に入社したこととはあまり関係がないように思えた。普段からしっかり体をつくっているのか、持って生まれたものか、その両方か、分からないけれど、明らかに私よりも適応していたし、それはここでは優れていると言い換えられた。私はそういう類の、判然とした感覚が好きだった。医科大学を目にするたびに思うことでもあった。今のシイノさんと同じく、そこで学んでいる人たちは、特定の分野で私よりもはっきりと、完全に優れていた。
 しばらく下っていくうちに平たい場所に出て、そこに黄色い杭を見つけた。朽ちていないか確認したあと、何枚かの写真を撮り、二手に分かれて辺りを歩いた。雪や雨を吸って柔らかくなった落ち葉でふかふかと歩きづらい。シイノさんはもう見えなくなっていて、彼女から起こる音も聞こえない。気配だけが少しあるがそれも、私が彼女の存在を知っているからだろう。歩いていった方向も、範囲も、ペースも、どれもを知っているからこそ立ち上がってくる気配だった。
 ガーミンの地図に視線を落とし、私を表す青いピンを見つめた。すっと枠外に出たかと思うと元いた位置に戻ってくる。私はまだ紙地図では歩き回ることができない。目的地まではいくことができるのだが、それに比べると、狭い範囲を歩くのが苦手だった。すぐに景色が混じり、どこでどの方向を向いているのかが分からなくなる。彼女は杭のところにザックごと置いて、熊除けの鈴だけを持って歩いて行った。遮蔽物もない道とは言えない道を真っ直ぐ歩くあいだにも、私は何度も不安になって地図を見下ろした。

 準備を済ませて『城』を読むシイノさんのところへ戻り、トランスポンダーを受け取った。ザックから巻尺とチョークを取り出し、杭の近くの何本かのミズナラの直径を測って伝え、トランスポンダーを頭上に掲げた。離れた位置に立つシイノさんがバーテックスを使って高さを測り、それらを記入していった。

 車に戻ったのは昼前だった。
「お昼どうしますか?」
「私は、何でもいいよ、一応カロリーメイトとかもあるし、まだ空いてもないし」
「飲み物は?」
「あるし足りてるよ」
「じゃあ、とりあえず次の地点に向かいつつ、コンビニがあったら寄ります」
「お願いします」
 二十キロの移動距離の間にコンビニはなく、私たちはそのまま山へ入って行った。

 サルトリイバラの多い行程だった。剪定用の鋏を使って少しずつ進んでいき、いくつかのルートを無視して突っ切った。こういうとき、長年一緒に仕事をしている人の選択にはすんなり納得することができる。「あれ、違う道だな」とは思っても不安にはならない。それは相手がシイノさんであることも要因ではあると思うのだけど、私は何も口を挟まずについて歩き続ける。
 四十度近い斜度のついた地点に到着し、同じ作業を繰り返した。
「もう慣れたね」
「はい、でもやっぱりちょこちょこ遅れるところがあります」
「そんなの何も問題ないよ、早い方だし、そもそも急ぐ必要もないしね」
「ありがとうございます」
 帰りは私を先頭に歩いた。どうしてもいつもよりペースが上がってしまう。少し息を切らして山を降り、車の外で手早く着替えを済ませた。
「冬は汗かかなくていいね」
「本当にそうですね、私は夏の間はほとんど会社ですけど、シイノさんはそんなことないですもんね」
「うん、ずっと外だねえ、今年は特に」
「フキジマさんでしたっけ」
「フキシマくんね、そう、フキシマくんの研修もあったからね」
「歩ける方なんですか?」
「それが、困ったことに全然だね」
「ありゃ」
「かと言って一緒にランニングするとかジム行くとか、それは何か違うじゃん?」
「そうですねえ、本人が気付いてどうにかしてもらうしか」
「そうそう、ユカコさんは結構途中からめきめき歩けるようになったもんね」
「そうですかね?、あまりにしんどい時期があったんで、一応普段から体を動かすようにはしましたけど」
「かなり変わったと思うよ」

 道の駅で遅めの昼食を食べ、城下町跡を散策した。城跡にも惹かれないのに城下町跡って、とシイノさんは言いながらもにこにこと歩いていた。景観を楽しんでいるというよりも歩くことそのものに喜びを感じているようだった。そういえば彼女はよく私を散歩に誘った。仕事を終えて宿に戻ってからも、夕飯のあとも、こうして時間が余った時も、ちょっと歩こうよ、と言って軽く五キロは歩いた。そんなふうに、特に目的もなく歩くことは普段の私にはできないことで、こうしてシイノさんに連れられて歩くことは仕事中の些細な楽しみの一つだった。
 ベンチのある喫煙所で煙草を吸いながら、傍らで本を読むシイノさんをちらちらと見ていた。彼女の黒く艶やかな髪は、光を受けるとコーヒーみたいに赤みがかった焦げ茶色に見える。風に吹かれて浮かび上がった髪がぐるぐるとまわっている。彼女の髪に触れてみたい衝動のようなものが込み上げ、深く煙を吸い込んで息を止めた。
 彼女は背中を大きく伸ばし、駄目、と言った。私は飛び上がるように驚いて、やっぱ読めないや、と聞いて体の緊張が解けた。どっかで本買わないと、と彼女は立ち上がり、煙草を取り出して火をつけた。

 ホテルの部屋で今日のデータをまとめてカギタニくんに送ったあと、昨日と同じようにベッドで眠り込んだ。

 ノックでは目覚めなかったのか着信音で目を覚まし、寝転がったまま電話に出た。
「すみません、今起きました」
「やっと出たか」低く、音そのものがざらついているような声が聞こえた。
「え?」
「ずっとかけてただろう?」
「間違い電話の」
「間違いじゃない、お前にかけてたんだ」
「でも、私は、知らないですよ」
「お前が知ってるか知ってないかは問題にならない」
「どういうことですか」
「そのままの意味だよ、お前が知ってることも、知らないことも、ここでは問題にならない」
「ここでは?」
「思い出せないか?」
「思い出すも何も、何も分からないですよ」
「そうか、それならそれはもういい、とにかくお前は電話に出た」
「それが何になるんですか」
「質問ばかりするな、何を答えてもお前には理解できないよ。質問するにもそれ相応の資格がいるんだ」
「だって、こんな」
「だってもこんなも、ここにはない。とにかく、またかける。次は時間をかけさせないでくれ」
 私が何かを言う前に電話は切れた。一時間も眠っていなかった。私はその番号を着信拒否に設定し、椅子に座って外を眺めた。聞き覚えのない声だった。平坦で、上手く作られた機械の声のようだった。私の神経を磨り減らすためだけにつくられた声なのかもしれない。不快なわけではなかったが、何か、体の中の柔らかな部分を削られてくような感触があった。軽い痛みのようなものさえあった。頭や体のあちこちが鈍く痛んでいた。
 部屋を出てロビーに降り、喫煙所に入って煙草を吸った。痛みや強張りを煙にして吐き出すように、私の体はいつも通りの感覚を取り戻していった。どこの誰が、何の用があってあんな電話をかけてきたのだろう。あまりに長い期間の末だったこともあり、悪戯だとも思えなかった。どこかの誰かが、真剣に、私に向けて何かを語ろうとしているのだ。それは恐ろしいことなのだろうか。それとも私にとって良いことなのだろうか。きっと、そのどちらでもない。私に判断できるようなことではないのだろう。起こったことを「起こったこと」だと理解できるだけかもしれない。それすらも「ここ」では運が良い方だろうか。私はだんだん腹が立ってきていた。胸から上が熱くなってくるのを感じる。

 二本目を吸い終わる頃にシイノさんが入ってきて、これ吸ったら本屋行くけど一緒に行かない?、と言った。私はちょうどいい気晴らしになるだろうと、じゃあ財布取って来ます、と言って喫煙所を出た。

 茶葉なんかを売っている店の隣の本屋は、香ばしい茶っ葉の香りが充満していた。この本屋のどこかに排気口があるんじゃないかと思うくらい強い香りだった。レジカウンターの奥で座っている老爺はそんなものは気にも留めずクロスワードパズルに熱中していた。
 一通り棚を見てから私たちは店を出て、車で大型書店へ行くことにした。シイノさんは、ごめんね、と言いながらも明るい表情で、私も読み終わりそうなんで、と返すと、車内の明るさが増すような笑顔になった。

 駅前の本屋までは二十分くらいで着いた。店に入ってすぐに分かれ、十分後に二人は手ぶらで店の前で落ち合った。
「もう少し大きな本屋に行かないとですね」
「明々後日に期待しよう」
「そうですね」
 車をホテルに戻してからも私たちは適当に辺りを歩いた。細い川にかかる小さな橋を渡り、見渡す限り広がっている田んぼの横を進んだ。晴れ渡った空を小柄な鳥が飛んでいる。逆光でそれらは影に見えた。十数羽の群れのようなものがあちこちで飛びすさむように不規則に動いている。

 それからの二日間は、特にこれといったこともなく、滞りなく過ぎていった。特徴もない野山を練り歩き、ミズナラや欅や赤松の直径と高さを測っていった。約一年ぶりの山歩きは、美草のことを思って鈍くなった私の体をほぐしていった。着信が一度もなかったことがその原因かもしれないが、日々の激しい運動は少なからず良い影響を与えたはずだった。熱く柔らかくなった体から、ありとあらゆる冷たく重いものが溢れ落ちていき、深まっていく冬の寒さが、新しい形で私を固定してくれた。

 五日目の朝、強風で揺れる窓の音でアラームより先に目が覚めた。天気予報は明後日の雨模様を予報していた。いくつかのアプリを確認し、今日の一地点を二地点に変更する旨をシイノさんにショートメールで送った。
 朝食の場所で見かけたシイノさんは、疲れているように見えた。寝起きだからだろうかとも思ったが、私と違ってそろそろ疲れが抜け切らなくなってくる頃だろう、と考え直した。私も何度か一年中あちこちへ行ったことがあったけれど、それまではどんな所だって翌日には大体元に戻っている体の状態が、冬の頃になるとそうはいかなくなった。体は毎日やけに重く、それまでの疲労が着実に溜まって凝り固まっていった。
 葉野菜とフルーツを二回取って朝食にし、資料や荷物をまとめてトランクに入れた。部屋に戻って残りの時間を寝そべって過ごしていた。『国のない男』は前の日に読み終えられ、シイノさんと同じく今日の町に期待していた。これまでと比べれば遥かに栄えているはずだったし、地図を見る限り学校も多く、若い人に向けた店もいくつかはあるだろう。三路線ほど入った駅があるなら、駅前にも少し期待が持てる。

 五分前に降りると彼女はそこにいて、また『城』に挑戦していた。私と目が合うと苦笑いみたいな顔で、どんどん読める範囲が狭くなってくる、と言った。

「今日二地点、明日二地点を頑張って終わらせて、明後日は休みにしましょう」
「雨っぽいね」
「みたいですね、今日と明日は移動が長くなりそうなんで一地点にしたかったんですけどね」
「この気温で雨に打たれるのはねえ」
「うん、避けられるならなるべく避けたい」
「二日でそれだけ出来たら全然問題なさそうだしね」
「だと思います、雨も明後日以降は降らなそうですし」

 一地点目は何事もなく終え、二地点目で私たちは地崩れの起きた場所を避けて進むために何度も遠回りすることになった。こういうとき、私はシイノさんとペアであることに、何者かに感謝したくなるような思いだった。危険なものに対する対処の範囲が似ているし、それによって生じた面倒事に対する態度も似ていた。経験的にこういった広く地崩れした場所を、突っ切るように進む人とあまりに遠くまで回り込む人がいて、シイノさんと私は感覚からするとこれ以上でも以下でもない道を見つけて歩いていく人だった。見るからに苛々している人とペースが落ちるくらい怠そうに歩く人がいて、私たちはもうどうしようもできないのだから切り替えるという訳でもなく、今まで通りで問題ないでしょうといったタイプだった。それは言葉にしなくても分かったし、実際に言葉を介しても共有できたことだった。
 一時間程度のずれで到着し、なんてこともない地点での作業を手早く済ませた。終わってから私たちはそこで煙草を一本吸って、車に向けて歩き出した。粘土質のぬるぬるとした地面は歩きづらかった。下るにせよ上るにせよ重心を下方に、上半身が後ろに流れないように歩かなくてはならなかった。シイノさんはどんなところでもペースが崩れなかった。普段の道を歩くよりは遅いにしても、山の中でもいつも通り、速くなったり遅くなったりすることがない。私は下り道が苦手だった。その他の道は種類に関わらず遅れることもないが、下り道だけは格段にというほどでもないにしろ分かりやすく遅くなった。

 十五時過ぎに車を停めた場所に着いた。着替えてから煙草を吸って、ナビを設定した。二時間、混んでいたとしても十八時までには着けるだろう、そんなことを言うと、安全運転でね、と返ってきた。
 ようやくヴェゼルに慣れてきたのか、運転はもう苦ではなくなっていた。荒れた林道を運転することは疲れるには疲れるのだが、既にそんなことは前提として私の中に組み込まれていて、今更どうということもない。それよりもここ数日の間に走った道路の方がぐったりと私を疲れさせていた。仕事以外で運転することも多くはないし、たまに運転するにしてもミニとヴェゼルでは何から何まで、使う感覚というのか感触の色合いというのか、すっかり違っていた。それが、林道を抜けてしばらく走っているうちに消えたのか馴染んだのか、気にならなくなった。今年の初めの方にも運転していたことを私の意識以外が思い出したのかもしれなかった。

 コンビニや道の駅に寄りつつ、私たちが今日から二泊するホテルに到着したのは十九時前だった。小ぢんまりとした個人経営のホテルで、サイトや口コミを見ていて想像していたよりも格段に綺麗だった。明後日からはシイノさんが宿を取ってくれるから、もう何かを心配することも少なくなるだろう。地点や行程の関係上、どうしてもという訳でもないがここに泊まっておいた方がいいだろう、というのを除くと、私と彼女では宿に求めているものがかなり近かった。

 荷物を置いて早々に私たちは町を歩き始めた。確かに、駅も大きいし店もたくさんあるのだけど、私たちが惹かれるような場所はなかった。夕飯を食べるところと本屋を探しながら歩き、いくつかの本屋を手ぶらで出たあと、ラーメンを食べることにした。
 学生らしき人でぎっしりの店内にある椅子に座り、順番を待った。
「あっても読まなかったりするのに、ないと焦るね」
「そうですね、私も一冊くらい何かぴんとくるのがあるかなって思ってたんですけど」
「意外と二人とも疲れてるのかもね」
「確かに、それはそうかもしれない」
 会っていない時期のあれこれを話しつつ、何を食べようか考えていたけれど、彼女の言う通りなのか、何かを選択することにいいつも以上に時間がかかった。

 結局、『おすすめ!』とのことで豚骨醤油を選び、塩バターで食べるシイノさんを見ていると、また間違えたかもしれない、と思った。彼女はそれを察したのか、食べる?、と言って丼を指差した。それぞれのを一口ずつ交換して、私こっちのが好きかも、と言うシイノさんに、「交換しますか?」と聞いた。
「気持ち悪くない?」
「え?」
「いや、半分は食べてないけど、その間に、その」
「唾液とかってことですか?」
「ああ、うん、そういうこと、かな」
「私は気にならないですけど」
「じゃあ、交換してもらってもいいかな?、私も全然気にならないから」
「もちろん、そうしましょう」
 彼女は嬉しそうに丼を受け取り、いただきまーす、と言い直して黙々と食べた。

 シイノさんは店の前の灰皿の傍に立って、行き交う人々を見ながら煙草を吸っている。食べるのが遅い私がそこで煙草に火をつけたのは、彼女が二本目をくわえたあたりで、すみません、と言うと、ぜーんぜん、と言った。

 それから、この数年の間に改装されたか新築されただろう商店街を歩き、カフェでホットラテを買った。シイノさんがぐいぐい飲んだコーヒーで私は上顎と舌の先を火傷し、人間ってこんなに違うんだ、と詮ないことを思い、こういった肉体的な違いの多い二人の気が合うというのはどういう仕組みなんだろうと、さらにつまらないことを考え出した。
 彼女の深緑のダウンジャケットは夜気を含み、朝よりもぴたっと体を包んでいた。道行く人たちもみんなしっかり服を着込んで歩いていた。オーバーコートだけでは足りなかったようだ。シイノさんにカップを持ってもらって、ボタンを全部しめても、寒さは大して変わらなかった。どこかで中に着る服を買う必要がある。
 商店街というのはどこでも、突然その気配ごと断ち切られている。ハレとケのような感覚の元でつくられているのだろうか。初めは自然発生的に店が立ち並び、商店街へと変わっていったのだろうが、今ではどこの地方都市もそんなふうには見えなかった。どこまでも人工的であるように見える。その内側と外側ではルールさえ違っているような、異質な空気があった。

「こうやって歩いてると、万華鏡の中みたいで楽しいよ」と眼鏡を頭にのせたシイノさんが言って、町自体がそうなっている訳ではないと分かっているのに彼女から視線を外して辺りを見やった。しっかり見ててね、と彼女は言って私の腕を取った。
 言われた通りに辺りをちらちらと確認しながらホテルへ戻った。
「目の悪いことの利点は、見たくないものを見なくて済むことだね」
「そんなに見えないんですか」
「うん、眼鏡ないと触るまで違いも分からない」
「コンタクトは?」
「山の中ではしてるよ」
「あ、そっか、だから、そんなに見えない印象がなかったのかもしれません」
「ああ、なるほど、ユカコさんは全然大丈夫?」
「多分、大丈夫だと思います、気にかけたこともないし」
「うんうん」

 残った仕事を終わらせたりシャワーを浴びたりして時計を見ると二十四時近くを指していた。
 電気を消してからベッドに入って瞼を閉じてすぐ、眠り込むより先に夢が来た。気持ちの悪い感触が体全体を薄く覆っている。水気を含んだ薄い膜が体全体を覆っている。瞼を開けると天井が見えるのだが、夢は続いていた。私は裸足で街灯もない夜道を歩いていて、傍らから三つ目の犬が歩調を合わせるようにして離れない。薄手の上下は灰色で、見たこともないごわごわとした素材でできていた。どちらの目も天井を見ているし、普段何かを想像して頭の中で映像が浮かんでくる感覚とは違っていた。私はその夜道と犬をどこでも見ていない。それでもその光景は、今私が体験している時間として私を流していく。仄暗い道を進み続ける。虫の鳴く声や枯れた草が風に吹かれて鳴るかちかちという音、私と犬が歩く音だけが辺りに響いている。月光は深まった冬の光で、それは光そのものが冷ややかさを持っていた。その光は、どれだけ浴びようと温まることのない光だった。私と犬は手を繋いでるみたいに付かず離れずの距離を保っている。ときおり私を見上げるその顔に、三つの目があること以外どこも変わったところもない。立った耳や細長いがずんぐりとした鼻梁から濡れた鼻先も、湿っているのか艶やかな白い毛に覆われた体も、くるっと巻き取られたような形の尻尾も、何もかもただの犬だった。その犬にとって特別な目がどれなのかは分からないが、私にとってのそれは、額というのか、二つの目のほとんど真ん中と言ってもいい位置にあった。第三の目、のような概念を私が知らなかったとして、そうすると三番目の目玉はどこへ位置するだろうか。それはやっぱり、額かそれに近い平たく、比較的、空いている場所にくるのだろう。だから私はある意味でその犬に、三つ目の犬に違和を感じなかった。現実の世界でも三番目の目玉が現れるとすればそこになるだろうし、これは夢の中、もしくは限りなく夢に近い何かのなのだから。
 犬は今では私の前を歩いていて、数十歩に一度私を振り返って確かめた。しかし、私が立ち止まれば犬も立ち止まるだろう、と先導されているような感じはなかった。犬はただ前を歩いていた。私はただそれに付き合っていた。毎夜の散歩なのだ。犬と私はリードも必要のないくらいに互いを理解している。私は犬にどんな危害を加えることもない。犬は、私の受け取り方を無視すれば、何も与えはしない。犬はその存在そのものが、何をしようがしまいが、私にとって暁光のようなものだった。それでいて私は犬の行動一つ一つに意味を感じずにはいられない。私は犬に餌や寝床を与えるが、犬は私に何もくれやしない。そんなことは分かっていたが、寄り添われた温もりや散らかった部屋の真ん中でいつもと違った表情で座り込んでいるのを見ると、一体何が私に与えられたのか分からないままに、それでも確かな感触が、生き物ではない温かみが、私の中で広がっていった。
 私は黙って犬の後ろを歩き続けた。天井は車のヘッドライトに照らされるとき以外は何も変わらずそこに張り付いている。私は固く冷えた道の感触と、私に温められた柔らかな布団の感触を、同時に感じ続けていた。もちろん、布団の中の足の先は温もりと柔らかさを感じていた。それでも、夜道は間違いなく私の足の下でどこまでも続いていた。犬は鼻を鳴らし、私を振り返った。歩調を早めて隣につき、背中を撫でてやった。薄い皮膚の下の、背骨や筋肉の動きが触れて分かる。私と同じように、体のそれぞれの部分にそれぞれの温かさを持った、確かな生き物だった。いつも見る夢よりもあらゆる感覚が現実に近かった。夜道を歩く私は、私が動かせるわけではなかった。しかし、犬を撫でてやろうと思ったのは、天井を見つめたり瞼を閉じて眠ろうとしている私だった。それも、たまたまタイミングが合っただけかもしれない。そんなことを思ったのは夜道を歩く私であるかもしれなかった。夢のような場所での私も、姿形からしていつもの私だったし、今ここで私が思うことを、見るからに私である私が思わない訳が思いつけない。
 月の光はどんな変化もせずに私たちを照らし続けていた。犬も私も歩き続けた。どれだけ進んでも景色も変わらない。それでも確実に、どこかへ向かっているのが分かる。犬は夜の長い散歩だと思っていそうだったが、そこでの私はそうではなかった。そこへ行くなり、行って何かをするなり、何か目的のようなものを持って歩いていた。気が付くと風は止んでいて、自ら動くことのできる生物が発する音だけになっていた。それは風が吹いて揺れる草木の音を引いたとは思えないくらいうるさかった。すべての音が発せられて宙を彷徨ったあと地表に降り積もっていった。私や犬が起こす微風がそれらを巻き上げ、音は次第に大きく、後戻りがきかなくなっていった。犬は、進みながらも私の周りをぐるぐると歩くようになり、どこか不安げな顔をしている。私はそれを無視したように歩き続けている。天井のシミが動き出したようにベッドが揺れている。目を覚ましたいが、そもそも眠っていないし、仮に眠っていたとして、今この状態がどのような状態なのか、どちらの私にも分からなかった。揺れは膨れ上がった辺りの音と同じように激しく強くなっていった。それは激しく強いことで、その強度を補強していたし成立していた。硬い樹木が強風で折れるように、ある種の脆さがあり、それはベッドの上の私を不吉な気分にさせた。
 犬はどこかの地点でいなくなっていた。私は一人で歩き続けている。彼女は音に気が付いていないように、耳を塞いだり顔をしかめたりもしないままで歩いていた。波打って歪んだ天井は今にも私の上に落ちかかってきそうに思えた。締め切ったカーテンの隙間から伸びる光は粒になって視界の中で同じように揺れている。私は声を出そうとした。しかし何を叫べばいいのだろう。何をどう言えばいいのか、何も思いつかなかった。これは金縛りのようなもので、体の中の何かは眠っていて、何かは起きている、という状態なのだろうか。もしくは全てが夢の中での出来事なのだろうか。私はそう判断し、口をつぐんだ。
 私は歩き続ける。夜道に弱く伸びる影は、それでもずっと先の方まで伸びていた。三つ目の犬はいったいどこへ行ったのだろうか。私は無理やり体を横へ倒した。視界に違和感がありそれは、ベッドの脇に立った誰かの姿だった。腰から脛のあたりまでが目に映る。男か女かも分からない。もっと言えば、人間かどうか、生き物なのかどうかも分からなかった。それはとりあえず人間の下半身の形を成しただけのものに見えた。その姿を確かめるべきなのだろうが、私の体はもうそこに固定されてしまっていた。何かは私を見下ろしているみたいだ。頭の側面や布団の下の体が、視線のようなものを感じる。何かを確認しているのだろうか。売り物になるかどうか、誰かを満足させられるかどうか、存在するに値するかどうか、そういった種類の視線だった。どんな温度もそこにはなかった。私は瞼を強く閉じ、その視線やこの時間をやり過ごそうとした。私の足の裏には薄く血が滲んでいる。
 三つ目の犬は一心に遠吠えを続けていた。何かを伝えるためでもなく、ただ、力の及ぶ限り吠えていた。その声は辺りの騒音をかき消して響く。しかしどこへも届くことはなかった。犬は分かっていた。それでも吠え続けた。しばらく共に歩いていた人間は、今では影になった姿すら見えない。犬は女の手の感触を覚えていた。ほっそりとした指先の冷たさと、その奥でひそやかに横たわるようにあった温もりを覚えていた。その女の手は、今まで三つ目の犬を撫でたどんな人間とも違っていた。多くの人間の手は、冷たいだけか温かいだけだった。それに、犬を撫でたがっていた。犬はいつまでも遠吠えを続けた。虫も草木もそれを聞いていた。だが応えようがなかった。
 誰かはずっと動かないで私を見ていた。私はその視線に慣れ始めていた。体の強張りは少しだけましになった。激しい揺れはいつの間にか収まっている。誰かが現れてからだったか。あの揺れは、私自体が震えていたのだろうか。誰かの視線は楔のように私を繋ぎ止めたのだろうか。しなやかで光沢があることは分かるのだが、何色も見えない。私はまだ歩き続けている。いくつかの鉄塔を越え、ぼそぼそと生え群がった草を越えた。滲んだ血の生温かい感触が足の裏全体に広がっていた。視線は絶えず私に向けられている。身じろぎ一つせず、飽きる気配もなく、むしろより熱心に私の何かを見ているようだった。風がほんの少しだけ戻ってきたようだ。両目の端、道の端で草木が揺れている。命あるものの動きは、見ているだけで私を癒してくれた。そうだ、誰かの視線は生命を感じなかった。それは私自身の命すら感じさせない視線だった。
 思うように出なくなった声は、次第に何かを絞り上げたような音へ変わっていった。犬は上げていた顔を下ろし、地面の匂いをかいだ。いくつもの匂いの層を抜け、女の手と同じ匂いを探り当てた。三つ目の犬は真ん中の目で月を見上げ、残りの二つの目で道の先を見た。やはり女の姿はどんな形でも見えなかった。しかし、地表すれすれの位置へ鼻先を下ろしたまま、歩いていくことしか犬にはできることがなかった。粉っぽい、甘い匂いの中に鉄の塊を煮詰めたような匂いが混じっていた。女は血を流しているのだろうか。足元にはいくつもいくつも小石が転がっている。犬はその匂いを辿っていった。
 空が白み始めてもおかしくはない長い時間が過ぎた。月はまだ私の真上にあり、鋭く光っていた。誰かは私を見下ろすのをやめて、来たときと同じようにいなくなっていた。私の勘違いだったのだろうかと思うほど、誰かがいた気配、その時間の肌触りがなかった。何一つとして、誰かがそこに立って私を見下ろしていたことを確かめられるものはなかった。月の光は刺々しさと冷ややかさを増し、私の服や皮膚を抜けて体内を傷つけ、冷たくしていった。血はもう止まったのか、しばらくあった熱っぽさは跡形もなかった。体はどんどん冷たく強張っていった。それでも私は歩いていた。私には、私を止めることはできない。弱い風にのって遠吠えが聞こえる。三つ目の犬の声だろうか。その声はたまたま風に乗ることができたのだろう。消えたことにすら気がつかないほど些細で弱々しい響きだった。私は何十個目かの鉄塔を超えた。電線は小さく円を描いて揺れている。
 女が残した匂いは、どんどん強くなっていった。それなのに何の影も見えないことに、三つ目の犬は混乱していた。確実に女へ近づいているはずだった。粒の細かな甘い香りと、薄い汗の匂い、地面の水気と混じって蒸気のように膨らんだ血の、それぞれの確かな濃度の変化は、女が近くにいることを犬に告げていた。何よりも匂いが確かなものだった。それが今では、犬をその辺りの地面を嗅ぎ回らせるものへ、戸惑わせるものへと変わっていった。三つ目の犬は、自身のいる空間の輪郭を失っていった。犬は自分が今どこにいて、そこでどんな状態であるのかが分からなくなっていた。どろどろに溶けたような場所で犬は慌てていた。それでも、女の匂いは強くなる一方だった。視界はぐじゃっとした粘り気のある黒で潰されているみたいに、何の意味もないものだった。犬は鼻だけを頼りに歩き始めた。あたりの物事は、再び輪郭を与えられ、草や木として、土や岩や砂として、電流や鉄塔や電線として、月の光として、犬の影として、そこに存在した。犬は血の匂いに集中して匂いを追った。
 飲み込んだ唾は喉を伝ったあと、弾け飛んだように体のあちこちを跳ねた。筋肉や皮膚が、内側から押される感触があった。唾液はピンボールの玉のように体中を通過していった。布団と私の間にラップのようなものがあって、私が飲み込んだものはそこまでいって体を抜けて反対側のそれにぶつかった。ひとしきりその感覚があり、唐突になくなった。私はもう一度唾を飲み込んでみた。わざとらしいくらい大きな音を立てたが、喉以降の感覚は掴めなかった。私は布団を被って真っ暗な中にいる。何も見たくなかったし、何を見ても意味がないことも分かりはじめていた。私はふと歩くのをやめた。正確な距離は、その他の出来事と同じように不明瞭だが、それでもその果てしないとも思える距離を遥かに超えた場所に、誰かが立っているのが見えた。山水画の樹木のように滲んだ影が見えた。それが、私を見下ろしていた誰かと同じものなのかどうかは不確かだったが、そこに立つ誰かは、私を見下ろしていた誰かだと、確信に近いものを持っていた。誰かはゆっくり私に近づいているようにも見えたし、走って離れていくようにも見えた。私はそこから動かなかった。明確に動くものは何もなかった。何もかもが動きを止めた。濡れた、柔らかな生き物の匂いが鼻の奥で広がった。ちくちくとするほど濃く強い、生臭いような、乾いた木を燃やしたような、もわっとした香りだった。
 三つ目の犬の匂いだと気が付いたのは、その姿が目に映ったあとだった。犬は息苦しそうに呼吸していた。吐くことよりも吸うことの方が労力を必要としているようだった。私は犬の全身を撫でてやりたかった。私の体はもうそこで動かなくなっていた。私はただぼんやりとそこに立っていた。犬を見下ろす目には、何かを意味付けることはできなかった。ただの犬と地面が、映り込んでいるだけだった。

 意識が繋がったとき、私はベッドから左足を投げ出していた。アラームの音が朝の六時半であることを高らかに宣言している。少しでも動かせば砕けてばらばらになってしまいそうな頭の痛みが、頭蓋骨の内側いっぱいに満ちていた。何度か深呼吸を繰り返し、意を決するようにして足を戻してから、アラームを止めた。

 三十分ばかり深呼吸を続けているうちに、頭痛はいくらか治ったようだった。軽く身支度を整えてから朝食を食べに降り、熱いコーヒーとサラダを摂った。
 シイノさんは私を見ると首を傾げ、ゆっくりと近づいてきた。
「ユカコさんだよね?」向かいの席に座りながら、訊ねてもいいのだろうか、という表情で言った。
「そうですよ」空になった皿をいつの間にか見つめていた私は、顔を上げてからそう言った。
「だよね、良かった。何がどうってわけでもないんだけど、よく似た別の人かと、一瞬、思った」
「何が違うんですか?」
「いや、本当に何がどうとかじゃないんだけど、雰囲気というか感じが変わったというか」
「それって、いい方にですか、それとも」
「分かんないな、今はいつもと変わってるように見えないし、さっき、ほんの一瞬だけそう感じただけ、何かあったの?」
「私にもよく分からないんです」
「体調は?」
「頭が痛いですけど、他には特に」
「今日、大丈夫?」
「だと思います、今日ちょっと頑張れば明日は休みだし」
「無理せずにね、車停めてから中止でも、私は気にしないから」
「ありがとうございます」

 部屋に戻って、洗面所の鏡で自分の顔をよく見てみたが、変わったところは見当たらなかった。頭痛以外の不調もなかったし、むしろそれ以外は快調に近い。手足は隅々までよく動くし、呼吸も問題ない。それでも、何かが変わったと言われれば、そう見えなくもなかった。光やその場所によって見え方が変わるような部分、虹彩や髪や唇、そういったもののベースである質感や色合いが変わったのかもしれない。どう変わったかは分からないけれど、変わったように思うというのは、そういう元々不確定なものの変化のせいかもしれない。
 よく見れば見るほど、その前の状態がどうだったか覚えていないせいで、いっそう分からなくなった。鏡の前を離れて部屋に戻り、着替えを済ませた。着ていた服をザックに入れて、窓の外を眺めて時間を待った。

 一つ目の山を登っている最中に頭痛は消え、その代わりなのかものがくっきりと目に映るように感じた。ハイイヌガヤの葉の一枚ずつが際立ち、途端に目の奥がちくりと痛んだ。直接、小さくて硬いものが当たったような痛みだった。しばらく瞼を閉じて、その上から指先でほぐすように押し込んだ。痛みがが目玉全体に広がり、指を離すと後頭部の方向へ抜けていった。
 変わらずビビッドな景色の中、車までの短い距離を歩いた。どちらの地点も大して歩く必要がないことが嬉しかった。朝には既に歩き疲れていたし、歩き過ぎたときに特有の体の内側に籠もった熱っぽい怠さすらあった。
 遠くがよく見えるわけでも、より近い位置のものがよく見えるわけでもなく、ただいつも通りの視野の解像度が高くなったようだった。そう意識してからだから正確ではないかもしれないけれど、車のボディの細かな痕やシイノさんの上着の毛羽立ちが目についた。着替えている間に、こっそり『城』を捲ってみると、クリーム色の紙面はテラゾータイルのようにたくさんの色や光を含んでいることが分かった。薄い灰色で縁取られた黒い文字が、その色や光の中で、凹凸を持った影や透かしのある立体物に見える。
「読む?」
「あ、いえ、どう見えるんだろうって」
「どう見える?」
「さっき、目が痛いって押さえてたときがあったじゃないですか」
「うん」
「そのちょっと前から、何か視力が上がったような気がして」
「よく見えるようになったの?」
「遠いとか近いとか、そういうのは変わってないんですけど、最初にハイイヌガヤの葉っぱ一枚一枚が妙にはっきりしてたんです」
「うん」
「それで、どの草も木も、いつも以上にくっきり見えて、シイノさん、このページ、タイルみたいじゃないですか?」
「タイル?、肌色の?」
「いや、テラゾータイルです」
「ううん、私には肌色に見えるなあ、それとちょっときらっとした白っぽい色」
「このあたりですか?」
「そうそう」
「この横の黄緑っぽい色は?」
「うーん、見えないし、言われても見つけられない」
「私には今これ、ほとんどその、タイルと変わんないくらいたくさん色が見えるんです」
「文字は?」
「えっと、かなり白に近いグレーに縁取られてますね」
「私には真っ黒な文字にしか見えないなあ、頭とか目はもう痛くないの?」
「うん、もうどこも痛くはないですね」
「じゃあ、ま、いんじゃない?、大事をとって病院行くならついていくけど」
「いえ、大丈夫、だと思います。また強く痛むようなことがあれば、どこかの日を半休か何かするかもしれないですけど」
「それは全然構わないよ」

 少し心配だった運転も、思い至るような支障はなかった。助手席のシイノさんの様子からも、特におかしなことにはなっていないだろうし、よく見えることが運転に悪影響だとは、今になってみると、思えないようなことだった。

 民家や小川が近くにあり、羽虫の多い二地点目もすんなり終え、シイノさんの要望でダムを見にいくことにした。そういえば年の初めのときも、その前の年の暮れやその前だって、彼女はしょっちゅうダムを見に行きたがっていた。私は、どちらかと言えば、見たくなはかった。私が高校生で妹が中学生の頃、ダムの建設に反対するデモのようなものを見に行ったことを思い出した。はしゃぐシイノさんを見ているあいだは何も思い出さないのだが、ふっと目を離してダムを見ると、当時だってセットで見たわけでもないのに、やけにしっかりと彼らの姿が浮かんできた。気怠げに歩く大勢の老人と私たちの親よりも少し上の世代の人たち。そのほとんどが男の人で、彼らの中には何人も、参加したいわけではないだろう顔をした人がまぎれていた。先頭に立っていたのは、そのときの町長よりも町や村での発言力の強い老人だった。町長は彼の横につき、真一文字に結んだ口元をひとときも緩めなかった。アサギは私の手を取って、なりそこないの物見台へ連れていった。姉ちゃん姉ちゃんという声が今でも聞こえるし、そのときもそう言って私の手を引いていった。
 家々よりもほんのちょっとだけ高く位置する床に座り、行進を眺めた。私はもう高校生だったからか、興味はないが日常的ではない出来事を何の気なしに楽しむことはできなかった。妹くらいの年の頃には私も、何かあれば飛んでいくように見に行ったし、よく知った顔がどこでも見られた。みんな何でもいいからいつもとは違った光景を見たいと思っていた。今にしてみれば子どもというのは大抵そうであるようにも思えるが、その中でもあの町にいた子どもは飢えていたのではないか。
 妹は指をさして、あれ爺ちゃんじゃない?、と言った。私には指をさされた人も、祖父らしき人も見当たらなかったが、そうかもね、と返すと彼女は何やら楽しそうに高い声で笑った。
 シイノさんは鼻歌でも歌いだしそうなくらい楽しそうにしていた。
「ダムの何が好きなんですか?」
「これは、関係あるかないか分からないんだけど」
「はい」
「私、昔からジェットコースターとかお化け屋敷とか、そういう『怖い』で括れるようなこと好きなんだよね」
「はい」
「それで、そういうのって結構すぐ慣れて、一回慣れると年単位で元の怖さって戻ってこなくて」
「ああ」
「それで、ダムっていうのは、私の中でムカデの裏側みたいな不気味さとか、それ所以の怖さというか、訳がわからない感じが恐ろしいというか」
「なるほど。でも、それも慣れるもんじゃない?」
「うん、私も初めの方は『いいの見つけたなあ、でも』みたいに思ってた。でも、本当の虫の裏側なんていうのは二回も三回も見れば慣れるけど、ダムはそうじゃないんだよね」
「どうして慣れないんでしょう」
「私は、大きさのせいかなって思ってる」
「大きさ」
「うん、単純に仕事であちこち行ってるときにしか見ないし、それも時間がこんなふうに余った時にしか見ないから、回数が少ないっていうのもあると思うんだけど」
「それは確かにそうかも」
「うん、でも、正直どこも似てるっちゃ似てるし、ねえ?、カラフルなダムとかどっかが尖ったりしてるのってないじゃん」
「そうですねえ、それなら好きになるかもしれないけど」
「それは私も、もっと好きになるかも。で、大きさ、そのやっぱり、っていうのも変だけど、人にとってあまりに大きなものって、それがどれだけシンプルに見えてても、情報量としては、飽きるために処理すべき?、そういう情報が凄まじいんじゃないかって」
「何となく、分かるような分からないような」
「私も、ほとんど思いつきで話してるから、ごめんね」
「いえ、おもしろいです」
「うん、それとジェットコースターとかお化け屋敷は大きいけど、過ぎ去っていくものだから、だから、というか、ダムは大きさも凄いけど、それがほとんど目でしか楽しめないし」
「ああ、それはかなりおっきな理由かもしれないですね」
「うん、話しててそんな気がした」
「じゃあ、ものすごく高いビルや塔はどうですか?」
「うーん、確かに見るのは好きかもしれないけど、登れちゃうし、何かむしろ人工物に見えないから怖さが薄いというか」
「ああ、そっか。ダムは人工的だからいいんですか?」
「うん、そうかも、自然に仇なしてる感じがぞくぞくするのかな」
「それが怖さに変換されてる」
「みたいな、ぎこちなく共存してる感じとか?」
「ああ」
「まだ私にも何にそんなに惹かれてるのか分かんないなあ」

 私たちがダムを見渡す展望台に着いたのは十四時過ぎだった。真前の駐車場には、白線や車止めも含め、私たちの車以外何もなかった。
 彼女は車を出ると、駆けるように柵のすぐそばまで行って、身を乗り出してあたりを見渡した。遅れて隣に立った私も同じように、意外にも澄んだ湖や対岸に聳える急峻そうな山々を眺めた。無意識にダムが目にうつらないように目を動かしていて、でかーい、とか、かっこいー、とか言うシイノさんも見ていた。
「そうだ」と彼女は言って、車まで走ると私を振り返って手を振った。しばらくぼんやりとその姿を見つめ、それからポッケの鍵を取り出して車のロックを外した。ありがとー、と言って扉を開け、助手席を何やらさぐっていた。
 戻ってきた彼女の手には小さなカメラがあって、最近買ったんだけどすっかり忘れてた、と言いながら構えて、私の写真を何枚か撮ったようだった。もう遅いのに顔をそむけた私に、可愛いよ、大丈夫、と妙に真剣な表情で笑って、柵まで行ってカメラを構えた。
 ボンネットにもたれかかって煙草を吸いながらシイノさんの動きを眺め、普段の彼女にはない忙しなさがおかしくて、愛おしいような気がしてきた。小動物が一生懸命に餌を食べている姿が重なって見えてくる。本当にダム好きなんだ、と呟くと、彼女は振り返って首を傾げ、私が何か言う前に撮影に戻った。きっと何も聞こえていないのに振り返ったのは、自身に向けられた言葉の、気配のようなものを感じたのだろうか。言葉も案外、誰かが誰かに向けたものに限っては、気配を醸し出すのものなのかもれない。彼女は、何か言われた気がした、のではなく、何かが来た、何かがある、ような気がして振り返ったように見えた。
 カメラの液晶画面を見つめているのか、しばらくじっとしてそれから、一緒に撮ろうよ、と言って私のところに走り寄って来た。カメラは柵の上に置かれ、レンズがこちらを向いている。反動をつけてボンネットから離れるとシイノさんに腕をとられ、そのまま展望台の上まで連れていかれた。

 シートベルトをつけてエンジンをかけたところで、いい写真、と言ってシイノさんは二人の写真を見せてくれた。彼女は私の左肩に頭をのせて笑っていて、私は目だけ右側を向いて、唇の左端だけで笑っていた。あまりにぶっきらぼうな表情に、すみません、と言うと彼女は、これがいいんじゃんと言った。
「ダムはどうでした?」
「うん、良かったよ。真新しくて綺麗だし、のっぺりしてて」
「のっぺりしてる方が怖いですか?」
「そうだねえ、風景にそぐわない感じがあっていい」

 ホテルに戻ったのは十七時を少し過ぎたあたりだった。シイノさんははしゃぎ疲れたのか眠っていて、珍しく、エンジンが止まってからも目を覚さなかった。
 声をかけるとすぐに目を覚まし、ごめん、と言ってあちこちを伸ばしたり曲げたりして、そのあと車の外でも同じようにして体をほぐしていた。
「それじゃあ、十八時半にロビーで集合しましょうか」と言って部屋に分かれ、今日のデータをまとめにかかった。

 カギタニくんはまだ会社にいたらしく、データを送ると電話がかかってきた。
「お久しぶりです、カギタニです」
「久しぶり。そっちは忙しい?」
「今日中に終わらせないといけないのが。突発的にですけど」
「ああ、なるほどね、アキちゃんは?」
「変わりなく、元気にやってますよ」
「うん、良かった。それで」
「それで、いくつか前回と違ったところがあるので、折角なので直接確認しようと思いまして」
「全然いいよ、久々に、と言っても一週間くらいか、声聞けて安心するし」
 しばらく沈黙があって、くぐもった咳払いが続いた。
「えっと、両地点とも前回はミズナラだったところが今回は全部カシワになっているんです」
「うん、私もそう思ったけど、前の人たちが間違えてると思うよ。というか、何で間違えたんだろうってくらいカシワだった、まあでも多分、前回のがかなり前だったから若い木だったのかな」
「分かりました。じゃあカシワで」
「うん、お願いします」
「フクヤさんは、大丈夫ですか?」
「え、何が?」
「いえ、少し疲れてるような」
「ああ、ちょっと疲れた、というか今日の朝頭が痛くて」
「ああ、そうですか、急なお電話すみません」
「ううんううん、大丈夫、というか気にしないで」
「ありがとうございます、それじゃあ、仕事に戻ります」
「うん、頑張ってねー」

 シイノさんはもちろん先にロビーにいて、両手で持った『城』の表紙を撫でていた。
 ホテルを出て商店街を目指して歩き、何を食べようかと話し合った。二人とも、ラーメン以外なら何でもいい、といった程度で、何が食べたいのかは分からなかった。
 地方の中程度に栄えた町は、二日も歩いているともう体が馴染んだ感じがあって、心地好くぶらつけた。シイノさんは昨日の夜と同じように私の腕を取って、ぴったりとくっついていた。彼女の体温が伝わって、体の左側が温かかった。
 しばらく通りを行ったり来たりして、小料理屋へ入った。カウンターに座る年配の男の人しか客はおらず、私たちは奥の座敷に座ることになった。メニューを見ながら、明日は休みだからお酒でも飲もうかということになり、出汁巻きとほっけを焼いたのと煮物、適当な熱燗を一合頼んだ。別に何でもないのに、悪いことしてる気分になるね、とシイノさんは言った。
 甘辛に近い煮物を食べつつ日本酒を飲み、思っていたよりも味が濃かったのと久々だったというのもあって、すぐに一合を追加した。店のスピーカーからはThe Beatlesの青盤が流れていて、マッチしているようなしていないような奇妙な感覚だった。
 ほっけを食べ終わる頃には二人とも二合半飲んでいた。口に入れて飲み込むまではきりきりとした鋭い辛さがあるのだが、飲み込んでからしばらくすると円やかで幾層もの甘味がある美味しいお酒だった。出汁巻きがきてからお茶漬けと焼きおにぎりを頼み、引き続き飲んだ。
「あ、青盤」最後の一切れを食べ、お猪口が唇に触れてから言った。
「そうですね」
「ずっと、なんか知ってるなって、あ、知ってる並びだなって」
「うん、なんか妙に合ってていいですね」
「ね、もっと大きくてもいいけど、このくらいだから合ってるんだろうね」
「確かにそうですね」

 焼きおにぎりとお茶漬けを半分ずつ食べて会計を済ませ、酔いを醒ますために遠回りに帰ることにした。シイノさんはもう辺りの地図を覚えていて、酔っていてもその地図は正確に機能していた。ほとんど一年ぶりのアルコールは私の意識を細かく断ち切って、どこか遠くへ吹き飛ばしていった。それでも足取りは確かで、少しらふらと歩くシイノさんと比べればまだ軽い方だった。舌が浮腫んで話すのが面倒になる。シイノさんが話すことはそのせいでほとんど何を言っているのか分からない。
 多分、煙草吸おう、と言って道のそばの公園へ入っていき、一番近くのベンチに腰を下ろした。隣に座って空を見上げ、それから煙草を取り出して火をつけた。
「気持ち悪くはないですか?」
「大丈夫だよー、ちょっとふわふわして、話しづらいだけ」
「お水とか、買ってきましょうか?」
「いいよ、大丈夫大丈夫」
 彼女は私の肩にもたれかかって、一口か二口吸っただけの煙草の先を見つめているようだった。アーケードのない頭上には雲もないのに星は見えず、冷え冷えと真っ暗な空が見えるばかりだった。思い切り煙を吐くと、素早く流されていった。こことは流れる風の速度が違っているみたいだ。シイノさんは眠っているのか何も言わなかった。
 二本目に火をつけたあたりで私の酔いはすっかり醒めていた。彼女は相変わらずじっと動かないで、ほとんど灰になった煙草の方へ視線を固めたままだ。シイノさん、と声をかけると首を後ろに反らせて私を見上げた。大丈夫ですか、と訊ねる前に彼女の唇の熱さを感じた。こんなに薄い唇の一体どこにこれだけの熱を蓄えていられるんだろう、と思ってからはっとして顔を離し、目を細めて睨むように私を見る彼女の目を見返した。肋骨の真ん中がぎりっと痛むほど心臓が早く強く動き出している。またお酒を飲んだみたいに体が火照り、何かを継続的に考えることができなくなっていた。彼女は瞼を閉じてさっきの続きみたいに唇を合わせてきた。私は知らないうちに瞼を閉じて、それを受け入れていた。指先から煙草がこぼれ落ち、地面にあたる音さえ聞こえる静かな時間だった。シイノさんの舌は長くて、唇と同じように薄いのに熱かった。アルコールと煙草の苦い味と香ばしい甘い味が混じって、私はどんどんぼんやりとしていった。彼女は体を曲げて、両手で私を抱き締めていた。私は首だけを彼女の方へ向け、体はまだ正面を向いていたし両手は自分の太ももの上に置かれていた。彼女の舌は私の口の中のどんなところにも届いた。私はその動きに応えるように、抵抗するように、舌を動かしていた。

 どれくらいそうしていたのか、私は背中に汗をかいて、歩く足は力を伝え損なっているようだった。彼女は、さあ、帰ろー、と言って私の前をずんずん歩いている。
 扉の前で彼女の上着から鍵を取り出し、上着と靴を脱がしてからベッドに寝かして布団をかけた。私は何か期待していたのか、すぐに寝息を立てて眠る彼女を見て、小さくため息をつくくらいがっかりしていた。また体温が上がったように熱くなって、枕元の時計で八時にアラームを設定してから部屋を出た。

 歯を磨いてからシャワーを浴び、化粧水とクリームを塗ってからベッドに入って一時間ばかり眠れなかった。あれこれと続きを考えて、体が熱くなっては布団を弾くみたいによけて、寒くなっては被り直すというのを繰り返していた。

 いつの間にか、夢も夢のようなものを見ずに朝まで眠り込んでいた。

 きっかり八時半に目覚め、朝食を食べに降りるか迷ってから、時間までゆっくりしていることにした。道の駅かコンビニかで軽いものを買えばいいし、目覚めてすぐに彼女に会うのはまだ恥ずかしかった。
『国のない男』を初めから読み返しながらチェックアウトの時間を待った。十分前に部屋を出て隣を見ると、もう清掃が始まっていた。シイノさんはいつもいつ部屋を出ているのだろう。それは、大抵の宿の壁が薄いにも関わらず一切の物音が聞こえてこないことに対する疑問と同じようなものだった。一体彼女は、短くはない時間、何をして過ごしているのだろう。よく考えてみれば、五年近く一緒に仕事していて、彼女について知っていることはあまりに少なかった。お兄さんと弟がいること、幼い頃に父親が出て行ってそれ以来お母さんだけだということ、本をよく読み、よく笑うこと、一つ年下だということ、仕事をきちんとこなすこと、ダムが好きだというこt、そのくらいだった。それでも、会っていない間に出会うどんな人たちよりも親しく思っていた。

 彼女はロビーにいて、浅いソファに腰掛けて、机の上にある『城』を眺めていた。日に日に接し方が遠くなるその姿に思わず笑ってしまい、振り返った彼女は私を見ると、それに返すようににっこりと笑った。

「じゃあ、宿を目指しつつうろうろしましょう」
「そうだねえ、あ、宿ね、待って、ナビ設定するよ」
「ああ、そっか。お願いします」
「明後日の地点になるべく近いところを探したんだけど、なかなかなくて、綺麗ではあると思うけど」
「いつも通り、悪いですけどシイノさんにお任せします。運転は全然苦じゃないですから大丈夫ですよ」
「ありがとう、任せて、えっと、ここから直で二時間半だね」
「分かりました」
「早いねえ、一地点出来そうな気もするけど、微妙だね」
「そうですねえ、ま、でも今日は休みにしましょう。今回は特に難しいところもないし、雨も降らなそうだし」
「うんうん、最悪降ってもなんてことない地点ばっかだしね」
「そうなんですよね、じゃあ、出発します」
「お願いしまーす」

 何でもない時間だからか道は空いていた。そうだ、とBluetoothでオーディオと繋いでJakob Banksの『The Monologue』を流した。
 一周してから、これ好きだな、とシイノさんは言って、そういうところ好きです、と言ってから、ジェイコブ・バンクスって人です、と答えた。
「そういうところ?」
「え?」
「そういうところが好きって」
「あ、すみません、口に出してましたね」
 ひとしきりけらけらと笑って「うん、普通に声だったよ」と言った。
「なんか、その、ちゃんとというか、一通り聴いてからこれ好きって、そう言ったのが、そういうのが、そういう人となりがってことです」
「ありがとう、初めて言われたかも」
「そう?」
「うん」
 それからしばらくシイノさんは何も言わないで窓の外を眺めていた。私は気が緩んでいることを自覚して、気をつけないとな、と思っている最中だった。思いついたことを保留なく言える、言ってしまう関係というのが、仕事上の付き合いの中では正しくないとは分かっていた。

 見るべきものはないが大きな道の駅で休憩も兼ねて軽く食事を摂った。民家か何かを改装したのだろう、私たちは階段を上がって二階の、窓際の席に座った。一人がけのソファが丸いテーブルを挟んで向かい合うように置かれていた。山菜のパスタとポタージュスープのセットを頼み、アイスコーヒーを二つ、先に持って来てもらった。
 なかなかいいところですね、と言うと彼女は店内を見回して、うん、そうだね、と言って何かに気が付いたみたいな表情になって、それから頬が少しだけ赤くなった。

 予想外にしっかりとした味わいのある料理だった。食べ終えてから一応、土産売り場をちらっと見てから車に戻った。二人とも乗り込んでから、煙草吸いに行こうかということになり、車を出て喫煙所へ向かった。

「昨日はごめんなさい」煙草を一口吸ってからシイノさんは言った。
「大丈夫ですよ、楽しかったですし」
「うん、私も。でも、急に、あれ、キスしてごめんね」
「覚えてたんですね」
「むしろほとんどそれしか覚えてない」
「それも大丈夫です。びっくりしたけど、嫌じゃなかったです。今考えてもそうですね」
「ごめん、ありがとう、気が楽になる」
 何を思ったのか、私は大きく一歩踏み出して、俯いたシイノさんにキスをした。彼女は驚いた様子もなく、吸いかけの煙草を灰皿の中に落とすと私の首に腕を回し昨日と同じよう、意識がはっきりしている分、昨日よりも執拗に私の口の中で舌を動かした。私は彼女の髪にようやく触れることができた。同じようなもので出来ているはずなのに、私の髪とはまるっきり違っていた。滑らかで、指の間でひとときもじっとしていなかった。するすると流れていって、風が吹くと彼女の匂いがした。

 何か言うのも聞くのも、何を言えばいいのか、訊ねればいいのかも分からず、黙って車を走らせた。私はやっぱり、昨日の夜と同じく、続きがしたかった。

 窓の外で過ぎていく景色のほとんどは田んぼと畑だけだった。遮蔽物がなくて高く見える空や合流したり離れたりする大きな川は、同じように群青色で、澄み切っていた。彼女は風景を眺めることに集中しているようだった。私はなるべく運転に集中しようとしたが、ついつい彼女へ目線を向けた。

 太陽は常に小刻みに揺れているように見えた。私たちはコンビニの前の灰皿の両側に立って、煙草を吸いつつ黙っていた。二人の手には膨らんだ袋があって、飲み物やお菓子が入っていた。買い物をするところをちらちら見ていると、彼女は使い切りのシャンプーやトリートメントを買っていた。それで、あの髪か、とぐるぐる考えながら店内を物色し、ポテチやチョコをカゴに入れていった。

 青盤を聴きながら車を走らせた。シイノさんは所々で合わせて歌って、ドライブにビートルズはぴったりだなあ、と言った。私は頷いて、炭酸水を一口飲んでからポテチを何枚か食べた。

 いくつかの道の駅を素通りし、低く短い峠道を越え、町の新しいゾーンに入った。その峠を越えると一気に海のある町だという気がした。どこかしこにも海の気配がある。ずっと海のない町で育ったから敏感なのかもしれない、範囲を限って考えればシイノさんもそのはずで、だけど彼女は眠っていてどんな反応もない。
 私は一人浮かれ、青盤からJohn Mayerの『Continuum』に変えて、音量を少しだけ上げた。ステアリングをぱたぱた叩きながらリズムを取って、音楽がどんどん身近になるのを感じた。風景や音楽は、それを見たり聞いたりしただけでは抱えきれないものがあった。それは、それらを過ぎた後に、考えを巡らせればいいわけではなかった。シイノさんが、ダムはほとんど目でしか楽しめない、と言っていたことを何となく思い出した。私は今、音楽を目と手で受け入れていて、動かされた手をまた目が捉えているのも何か意味があるように思えた。試しに左足の爪先でもリズムを取ると、さらにぐっと近づいたような気がした。いくつかの手段、形式で何かを受け入れると、変換された形が外に飛び出し、それをまた受け止める。シイノさんが持っていたカメラは、きっとそういう意味では、彼女のダム鑑賞にとって助けになるだろうと思った。私がそんなふうに、無意識に色んな手段を用いて楽しんでいるものがあるだろうか、残念なことに何一つ思い浮かばない。

 香瀬町展望台、と書かれた看板に従って右折し、ぐねぐねした道を登っていった。ハンドルを切るたびにシイノさんの頭が揺れている。道路は色とりどりの暖色の落ち葉で挟まれ、いつまでも上り続けた。対向車や後続車は一台もいなかった。

 十二時過ぎに展望台に到着した。二十分近く上ったことになる。ここから今日の宿までは一時間もしないうちに着くだろうし、その間には二つばかりの道の駅があるくらいだった。
 エンジンを切り、扉を開けたまま展望台の方へ歩いていった。扇状に広がる町とその向こうの海が見渡せる。海はなだらかな勾配があるように見える。どこかの地点で壁のように迫り出しているのかもしれない。煙草をくわえ、ポッケに手をつっこんだままそんな景色を眺めた。車を見やるとシイノさんはまだ眠っていて、つむじの色が見えた。
 火をつけてから頬杖をついて柵に体を預けた。鳥が幾羽も目線の高さを飛んでいる。五羽か六羽の群れのようなものが何度も過ぎ去っていく。距離があるからか海が止まって見える。いくつかのマンションを除けば、どの民家の屋根も似た色にくすんでいた。何か読むものが欲しかった。煙草の煙は頭上に至ると渦を巻いてそれから砕けるように散って見えなくなった。
 車からポテチと炭酸水を取って展望台に戻り、柵の上に置いてだらだらと景色を眺め続けた。誰も来ないし、鳥以外には音をたてるものもいなかった。静かで、風の流れがよく感じられた。樹木の上部だけがさわさわと揺れ、風の音のようにあたりを巡っている。町の通りは細く、ここからではそこを歩いたりする人は見えない。片側一車線ずつの道路が海の前の漁港や工場地帯まで伸びているが、そこを走る車もちらちらと数える程度だった。こんな道でも夕方になれば渋滞するのだろう。大抵の部分ははっきり見えるのだけど、気になる細部がぼやけているせいで町全体が霞みがかっているように感じられた。塵が町の上空を覆っている。

 ポテチを食べ終わる頃にシイノさんは起きて、車から展望台までをひらひらと歩いて来た。わー、海だー、と言って駆け寄り、いつ着いたの?、と言った。
「三十分は経ってないです」
「ああ、結構寝てたね」
「首、痛くないですか?」
「首?、大丈夫だよ」
 彼女は体中を伸ばし、それから煙草をくわえて、ライター貸して、と言った。
 火をつけて、ポッケに戻してから、私もまた煙草を吸いはじめた。
「誰もいないね。町にもここにも」
「そうですねえ、町の様子も見えないですしね」
「ね。もう近いの?」
「うん、時間潰せそうなところもないし、来てみた」
「いいところだねえ、私、結構好きだな、ここ」
「私も、なんだかんだ居心地よくてまったりしてた、お菓子食べたりして」
「あ、いいなあ」
 両側のドアが開いたままの車は、離れてみると飛び立とうとする巨大な翼竜に見えた。シイノさんはチョコレート菓子とコーヒーを取りに行って、展望台に座り込んだ。それから立ち上がって、座ったら見えないや、と言った。
「ユカコさん、寒くない?」
「うん、今は結構ぽかぽかしてるかな、風もそんなに吹いてないし」
「良かった、これ食べたら戻るし、車で待っててよ」
「大丈夫、ここにいるけど急がなくていいですよ」
「ありがとう」

 結局、全部で一時間くらいは展望台にいた。車に戻って暖房をつけてから寒さを感じはじめ、そうすると少し震えるくらい体が冷えていたことが分かった。手も足も指先は感覚がないほど冷たかった。彼女は私の手を取って両手で挟み込んだ。そりゃそうだよ、と言って笑い、手をこすって温めてくれた。

 十四時前に宿の駐車場に着き、荷物を預けて海まで歩くことにした。私はシイノさんの上着を借りて羽織り、彼女は厚手で濃い灰色のセーターをTシャツの上から着て、体が軽い、と喜んでいた。
「すみません、完全に服間違えました」
「大丈夫だよ、私結構暑がり、というか体温高めだし」
「どっかでコートの下に着るもの買います」
「うん、夜は私も寒いし、そうしたほうがいいかも」
 宿から海まではほとんど一直線に繋がっていた。近くのコンビニでホットコーヒーを買って歩いた。少し風が吹いたり、何かの加減で体が大きく動いたりすると、その度に上着からシイノさんの匂いがした。革の匂いと合わさるとそれは、どうしても彼女の舌を思い出させる香りに感じられた。彼女はいつも酸味の強い果実を煮詰めたような爽やかな甘い匂いがした。それは煙のようにいつの間にかそこにあって、ふとしたときには消えている。

 ちょうど、思い出して火照っていたところでユニクロを見つけた。こんなところにどうしてと思ったが、こんなところだからこそあるのだろうと思い直した。
「寄っていいですか?」
「いいけど、いいの?」
「はい、薄手のダウンかセーターか、買って来ます」
 羽織っていたダウンジャケットを彼女の肩にかけ、カップを持ってもらってから大股で店へ向かった。

 セーターをいくつか試着したが、コートが割とぴたっとした形だったために不格好に膨らんでしまう。諦めて襟のない薄手のダウンを買い、店を出てからシイノさんのところまで歩く間に、中に着込んだ。彼女は、似合ってるよ、と言って自分のお腹の辺りを指差し、暖炉の火みたいに優しく笑った。
 甘く見ていたが、ダウンは値段や期待以上に暖かかった。海から吹いてくる風がある中でこれだけ暖かいなら、今回はもうこれで乗り切れそうだった。カップを受け取って、再び海へ向かって歩きはじめた。
「ユカコさん、毎日洗濯してる?」
「作業着はそうですね。下着は、結構持ってきてるんで、ええっと、今日か明日にまとめて洗って乾燥機で乾かしますね」
「そんな感じだよね」
「シイノさんも?」
「うん、汗かかないから冬の間は作業着も二日に一回くらいだけど、下着とか普段着っていうか、今下に来てるシャツとかはそんな感じ。まとめて」
「夏は大変ですよねえ、安いけど、毎日毎日コインランドリーで待つ時間とか」
「ね、冬はそういう意味でもすっごい楽」
「来年もフルですか?」
「多分、そうなるね。歩けちゃうし、会社の中では若い割にしっかりしてると思われちゃってるし」
「夏に一緒になったことないですよね、そういえば」
「うん、真逆ってのも変だけど、ユカコさんが夏に出る時はこっちの方じゃないもんね」
「そうですね、フキシマくんかあ」
「まだ分かんないよ、というかむしろペアじゃなくなる可能性の方が低い」
「そうなると嬉しいです、社長に進言します、やっぱり長く外で仕事するのにストレスは少なければ少ない方がいいですし」
「外での仕事が多くなるかもよ?、遠くに行くことになったり」
「そうなったらそうなったでいいです」
「嬉しいような申し訳ないような」
 海猫の数が異様になってきたところで、潮の香りがはっきりとした。
 何台かの小型のトラックが私たちを追い越し、工場や漁港の方へ分かれていった。私たちは漁港の方へ道を曲がり、なるべく海猫が飛んでいないあたりの道を歩いた。

 波止場に着き、思っていたよりも荒れた海を眺めた。ここから見ると海は、どこまでも平たく伸びていた。どこにも壁などない。掘建て小屋のようなところの前でおじさん達が集まって、煙草を吸いながら話していた。私たちも煙草を吸いはじめ、海や海猫をぼんやりと見ていた。停泊した船はどれも磨かれたように綺麗で、ただの仕事道具の一つには見えなかった。愛着が湧くものなのだろうか。カラスや海猫は港の至るところで羽を休めていた。あちこちにフンが落ちている。何かを積んだトラックが通ると、鳥たちは一斉に飛び立ってその荷台を追い、どこまでもついていった。そうしても港全体にいる鳥の数は変わったようには見えない。果てしなくどこにでもいた。
 遠くに見えるタンカーやテトラポッドは、海を眺めたその光景に元からそうであるように含まれていた。何もない海もごみごみした海も、眺めていて特に印象の違いはなかった。海がそこに広がっていればいい。おじさん達はどこかへ消え、私たちと海鳥たちだけがそこに残っていた。

 港近くにある練り物や冷凍の海産物を扱う店に寄って、タコが入ったさつま揚げを買った。店員のおばさんは、海猫が寄ってくることがあるから店の中で食べた方がええよ、と言って、私たちは言われた通り、プラスチックの椅子に座ってそれを食べた。久々に食べるとさつま揚げは意外にも味わい深い食べ物だった。タコ以外に練り込まれた食材の風味もしっかりと立っているし、それでいてメインの邪魔をせずまとまっている。美味しいねえ、と言ってシイノさんはすぐにそれを食べ終え、新しく紅生姜とイカのさつま揚げを買った。

 食べ終えてからトイレを借りて手を洗い、ちょうどいい時間になるだろうとホテルへ向いはじめた。

 チェックインを済ませて部屋に入り、窓際の椅子に座ってちらっと見える海を眺めた。夕飯までの時間をどう潰そうかと思ったが、特にすることはなかった。宿での食事は何か緊張するところがあった。何に対してどうという訳もないのだが、必要以上にかしこまってしまう。灰皿をベッドの前の作り付けの机に移動してから、明日以降の資料を小さな机に広げ、航空写真を見つつ、予定を組み直したり修正したりしていた。一地点だけよく分からないところがあり、こればかりは実際に行ってみない限りこれ以上知れることはない。写真を撮ってシイノさんに送ると数分後に、いまいち分からないから電話か直接見に行ってもいい?、と返信があった。
 資料をまとめて持って部屋を出て、シイノさんの部屋の扉をノックした。彼女はすぐに出てきて、入って入って、と言いながら髪を結んで窓際へ歩いていった。
 机の上に順に並べ、ここは鍵が必要だからこの日に行くだとか、この写真からは地点までがよく分からないだとか、あれこれと話した。彼女は持っている同じ資料にそれを書き込んでいって、いくつか質問をした。向かい合って小ぶりな机の上を凝視していると、子供の頃に遊んだボードゲームを思い出す。
「この感じだと、あとはほとんど一泊ずつだね」
「そうですね、ちょっと忙しない感じがして嫌ですけど」
「ね、やっぱ荷物を置きっぱなしですっと出て帰って来れるのは楽だね」
「ですね」

 私は思い切って、というほどではないが、いつも何して過ごしてるんですか?、と訊ねた。
「うーん、今みたいにちょっと仕事のこと考えたり、フキシマくんとか、会社の人が送ってきたのに目を通したり修正したり、今日みたいところだと、散歩がてらに煙草吸いに出たり?、特に何もしてないよ、どうして?」
「いつもすごく静かなんで、何してるんだろうって」
「そうかな?結構ばたばたしちゃってると思ってた、あちこち、じっとしてないから」
「静かも静かですよ」
「なら良かった」
 会話が途切れて目が合うと、彼女はいつも小さく笑った。
 彼女は立ち上がって私のそばまでくるとそのまま、座った私にまたがった。足、痛くない?、と言って私が、ううん、と言うとキスをした。ある部分では慣れた私はそれを受け入れて、積極的に応えた。やっぱりシイノさんの舌は、普段はどうやって仕舞われているんだろう、と思うほど長い。彼女はいつの間にかカーテンを閉めていて、部屋の中は薄暗く、何故か何かの裏側に包まれたような気分だった。光を放つ何か、提灯だろうか、そういったものの中に私たちは閉じ込められていて、何もすることが思い付かなくて、とりあえずキスをしている、というような感じだった。そういった自然さと成り行きに任せている感覚だった。彼女は着ていたセーターを脱いでTシャツ一枚で、私もセーターを脱いでキャミソール一枚になった。慣れたと思っていたがそんな格好でも肌寒さを感じないくらいには熱っていた。
 促されてベッドに横たわり、ちょっと待って、と言われるがままじっと待っていた。シイノさんはカーテンをほんの少しだけ開けて、これでよく見える、と言いながらまた私に跨った。私はそういえば、これまで一度も恥ずかしいとは思っていなかった。今だって、何も恥ずかしいとは思わなかった。彼女はしばらく私を見下ろし、下着を全部脱がせた。それでも私は彼女の目を見たまま動じなかった。心臓は上下左右に気が狂ったみたいに跳ね回っていたけれど、間違ったことが進行しているとは思えなかった。だからじっと、彼女がどう動くのか待っていた。
 あらゆる部分に彼女の長い舌と唇の熱を感じた。外界に接する全てを見られ、吸われ、舐められ、嗅がれ、噛まれた。私はもう熱そのものになったように熱く、汗をかいて、何故か泣いていた。何度も頭が真っ白になったせいで何も考えられなくなっていたし、何かを堰き止める機能が失われていた。
 彼女は私の隣に寝そべって、大丈夫?、と言った。何か言おうとするが舌がもつれて言葉が出てこない。首を振って、息を吐き、彼女を見上げた。目が合うと静かに笑って、仰向けに寝転がった。
 火照りが冷めてきてから私は起き上がって、彼女が身につけているものを取って、彼女がしたようにした。ちょっとびっくりするくらいの声を上げてからシイノさんはぐったりした。私たちはそうして代わる代わる、あれこれと試していった。
 私はそのままごろんと寝転んだ。大の字で重なった左半身が温かかった。ちょっと寝ましょう、もう耐えられない、と言ってアラームを設定し、首の下まで布団をかぶって瞼を閉じた。サイドテーブルに眼鏡を置くこつっという音を最後に、捻れて吸い込まれるように眠りへ落ちていった。

 アラームの音が聞こえ、夕食の三十分前に目を覚ました。シイノさんは起きていて、Tシャツだけを来て窓際の椅子に座っていた。おはようございます、と言うと、おはよう、と言ってベッドに飛び込んできた。
 ひとしきりじゃれてからロビーに降り、レストランとしても営業しているスペースへ入った。部屋番号の札が置かれた四人掛けの席に着き、夕飯を待つ。

 豚肉と野菜の鍋物と煮物、少しの刺身と焼いたブリとお漬物が運ばれ、固形燃料が燃えた匂いが辺りに広がっていった。彼女は、この匂い苦手だったけど、今は慣れてむしろお腹空いてくる、と言った。言われてみれば私もそんなようなものだった。
 素材自体はどれも大したことはなかった。魚さえも、漁港の近くであるというのにはっとするような食感や風味もない。それでも、さっぱりとくどさのない味付けが美味しかった。二人ともご飯をおかわりして、食べ過ぎた、と言いながら宿の近くを適当に歩いた。

 ほとんど暗闇と言ってもいい。街灯は遠くまで数えられるほどしかない。野良猫が何度も前後を横切り、何匹かは私たちをじっと見つめてからするっと路地へ抜けていった。猫が姿を見せるたび、あ、猫だ、と嬉しいような気持ちになるが、私は小さな生き物全般が苦手だった。立ち上がっても私の腰よりも低い生き物は、何かの拍子に思いがけず殺してしまいそうだった。それが好きではないことや苦手なことの理由になるだろうかと思うが、ならないようにも思える。それは私が小さな生き物を怖がっている理由だった。しかし、それも間違っていた。私は自身のミスで生き物の命を終わらせることを恐れていた。食べさせてはいけないものを、普段は気をつけているのに、その日はどうしてか頭の隅にもそのことがよぎらず、その生き物が食べたがっていることや、それが可愛いからこそ、愛着を持っているからこそ思うままにしてやりたいと、手の中に落としたしそれを食べさせてやる。小さな生き物は美味しそうにそれを平らげ、満足そうにどこかへ歩いていく。私は、その生き物が息苦しそうに、何かを吐いたり震えたりして、動物病院へ電話をかけた後で食べさせたもののことに思い至る。
 シイノさんは「うちでも猫と犬を飼っててね、ゼミとシバっていうんだけど」と言っていた。私は、ゼミ?、と思ってから、シバ?、と思い、そんなようなことを訊ねた、
「うん、ゼミとシバ。アブラゼミみたいに鳴くんだよね、それでセミもアブラもアブラゼミも酷いよなあって」
「なるほど、確かに、聞かないと分からないですもんね」
「そうそう、で、シバは、私が高校生くらいの頃にひろってきた芝犬なんだけど、しばらく名前を考えてるうちにおじいちゃんとかお母さんがシバって呼び出してて、それで、そのまま」
「シンプルでいいですね」
「今となってはね」
「どんな名前をつけようとしてたんですか?」
「うーん、何かの食べ物?」
「食べ物ですか」
「うん、食べ物って音の響きが可愛いの多くない?、大福とか羊羹とか佃煮とかお米とか」
「カタカナに直して思い浮かべたら確かに可愛いですね、ツクダニすごく好きです」
「ね、いいよね。外でツクダニーって呼んでるのを想像したら笑っちゃうけど」
「それはそうですね」

 知らないうちに宿の前を通る道に合流していた。宿を取った後で地図を覚えているのだろうか。それにしても、実際に歩いてからも最中にiPhoneで確認することもなく、何か信じられないよう気になった。

 なんとなく、別々の部屋に分かれるのに違和感があった。私がそんなこと言うとシイノさんは、洗顔とか持ってそっち行っていい?、と言った。
 先に部屋に入ってあれこれ仕舞っているうちにノックがあり、今さら鏡を見て髪やらを整えてから扉を開けた。彼女は荷物を全部持ってきて、今日はこっちで寝ます、いい?、と言った。断る理由は一つもなく、そのようなものも思いつかなかった。私は笑って、扉を大きく開いて彼女を招き入れた。

 一緒にシャワーを浴びて、何がそんなに楽しいのか、狭さにげらげら笑っていた。今思い出しても分からないけれど、同じようにとまではいかないが自然に笑ってしまう。私たちは互いを洗いあってから空っぽの浴槽になんとか体を押し込んだ。短い時間だけ湯につかり、シイノさんから先に上がって体を拭いた。

 私が上がると彼女は煙草を吸いながら外を見つめていた。眼鏡をしていなかったから何も見えてないのだろうが、何かをじっと見ていた。
「こっちの部屋は煙草吸えるんだね」
「え、隣なのに?」
「置き忘れたのかな、私の部屋には灰皿がなかった」
「好きなだけ吸ってください」そう言うと彼女は目だけで笑って、ユカコさんの煙草と一本交換していい?、と言った。タオルを羽織って裸のままハンガーにかけたコートから煙草を取り出し、彼女のそばまで行った。
「ユカコさんずっとアメスピだね」
「うん、シイノさんはラークかピース」
「うん、どっちがいい?」
「じゃあ、ラーク」

 新しい下着をつけて、ぺらぺらなのに固い浴衣を着た。シイノさんの向かいに座って、もらったラークに火をつけた。炒った穀物のような香ばしさが鼻を抜ける。濃い割りにはすっとなくなる甘さがあり、結構好きかも、と言うと、私はアメスピに替えようかな、と彼女は言った。

 並んで歯磨きをして、二十一時前には電気を消してベッドに入った。あれこれとくだらない話をして、笑い疲れてそのまま寝入った。

 目が覚めると彼女はいなくて、洗面所から物音が聞こえた。起き上がって壁にもたれたまま背中を伸ばし、彼女が部屋に戻るのを待った。歯ブラシをくわえた彼女が出てきて、もはもー、と言った。おはようございます、と返して洗面所へ行き、顔を洗ったり歯を磨いたりしてから部屋へ戻った。
 シイノさんは歯ブラシを手に持って外を眺めていた。私が声をかけると振り返って頷き、急ぎ足で洗面所へ行った。

 それから四日間、私と彼女はどちらかの部屋に集まって空いた時間を過ごした。どの山も資料以上のところはなくて、難なくこなせていた。感覚が戻ってきたのか、私の仕事も正確さを失わない程度で早くなっていたし、体もより動くようになっていた。ダムをもう一度見に行った。汽水湖や小さな湖も見に行った。シイノさんは澄んだ水の溜まりが好きらしい。
 一日前に船に乗って離島へ渡った。二時間半ほどだったが、私たちは仕事を忘れて楽しんでいた。甲板に出てぼんやりと海を眺め、『城』と『国のない男』を交換して読んだ。カモメが併走するように飛び交っていた。何がどう作用しているのか、煌々としたクレーンゲームやアーケードゲーム、スロットがビッシリ並んでいるが薄暗いゲーム室で遊んだ。真似て作られたのかどこかしっくりこないデザインの対戦ゲームを何度かして、あまりに力の弱いアームで小銭を無駄にした。シイノさんは、こんなの駄目だよ、と割と真剣に怒っていて、私は横でにこにこしていた。
 カモメたちは売店で買ったポテトを食べたがっていた。試しに一本投げてみると、あげようとしていたカモメとは違ったカモメが勢いよく飛んできて器用にくわえていった。私たち二人と無数の海鳥たちとでポテトを半分こすると、お腹が空いていたはずなのに満足した。丸い窓から海が見える喫煙室で煙草を何本も吸い、しょっちゅう甲板と船内を行き来した。

 山に入ってからもやはりよく分からなかった。あるはずの谷や尾根はなく、代わりにないはずの崖に近い傾斜地がいくつもあり、がれ場だらけだった。藪がほぼないことだけが良かった。私たちは何度も立ち止まって道を確認し、その度に自信を失くしていった。たまにあるこういった山は、わくわくする反面、前回やそれ以前の人たちは何をしていたのだろう、と思う。何かが、誰かが決定的に間違えていない限り、これだけのよく分からなさが続くことはない。大抵はどこかで理解して進むことができるようになるのだけれど。
 遠回りの道なのかも分からないまま地点に着き、変に疲れて強張った肩や首をほぐした。念のために別れずに二人で辺りを歩き、用紙にはミズナラと書かれたカシワを測っていった。地点全体にみたらし団子のような匂いが広がっていて、二人とも何の匂いだったか思い出せないまま作業を続けた。
 私は、38.9、と声を上げてから、あ、と言った。
「どうしたの?」
「すみません、桂の匂いだって思い出して」
「ああ、醤油の木だ」
「なんで二人とも思いつかなかったんでしょうね、みたらし団子って、思い出しそうなのに」
「ほんとにね」
 どの樹木も風に揺れていたが、私たちの立つ地点には流れてこなかった。汗をかく手前まで暑くなった体は物足りないのか、そうすれば涼しくなると思っているのか、じっとしていてもしばらくは暑さを増していった。

 帰り道は行きの半分近い時間しかかからなかった。途中でシイノさんが何かに気付いて、というよりコツのようなものを掴んで、そこからはさくさくと進んで行った。
 枯死した樹木の多い山だった。目につく巨木は全て枯れていたと言ってもいい。膝下でわらわらと生茂る草やまだ若い木には問題はなさそうだったが、それも時間が経てば、平均よりも早く枯れていくのだろう。山全体に生気を感じなかった。樹冠が多いわけでもないのにどこもかしこも暗く、湿ってさえいるようだった。冬の山は大体どこも寂しいものだったけれど、ここはそういった中でもとりわけ寂しい山だった。小川さえないし、生き物の痕跡も極端に少ない。
 黙々と歩き続けるシイノさんも、そんなことを考えているのか、道の確認ではなさそうな視線の動きが後ろから見えた。彼女の足取りはいつも確かだった。こんな場所でさえも、一度流れに乗ると悩んで立ち止まる時間はほとんどない。

 昼過ぎに車へ戻り、着替えを済ませてから、もう使わない道具をコンテナケースに詰めていった。
 煙草を一本吸ってから、バッグドアの前で抱き合った。シイノさんは汗をかいていないのが不思議なくらい温かい。死んだ生き物が冷たいから、だから温かなものが生き物なんだと感じるのは、何かが違っているように思えた。首筋に顔を埋めてしばらくじっとしていた。どれだけ高画質な写真でも現実と全く違っているように、どのようなものもその複雑な匂いを再現することはできないだろう。私はその匂いがいつか完全に失われてしまうことが、何から何まで間違っているように感じた。それが失われることを認められないものが、そういったものを持つものが生き物だと、私が改めて思い直すものではないか、と思い始めていた。

 一時間ばかり車を走らせて、コンビニへ寄って夕食を買っておくことにした。宿の近くには何もないようだったし、そろそろ外へ食べに出るのも面倒になっていた。
 私はトマトクリームのパスタを、シイノさんはキノコのグラタンとハムサンドを買った。私たちが店を出るときに入ってきた高校生くらいの集団は、女の子は私をちらっと見てからシイノさんをじっと見て、男の子はその逆だった。私が高校生くらいの頃でもきっとそうなることを考えると、どこの地域のどんな子でも何かしらの傾向が、ほとんど年齢だけを要因にしてあることが気持ち悪かった。

「こう、移動ばっかりしてると、すーっと生きてる人間じゃなくなってくる気がしない」シイノさんは合わせた手のひらをゆっくり離しながら言った。
「生きてる人間、人生、とか、社会、とかじゃなくてですか」
「うん、なんかそういう大それた感覚じゃなくて、元々そういうのがないってのもあるけど」
 私は、生きてる人間、というのがどういうものなのか考えてみたが、生きていない人間も分からなかった。
「なんか、いまいち実体がない感じ、あちこちいってる私を、そんなのないんだけど、あちこち行ってない私が見てる感じ」
「幽体離脱みたいなことですか?」
「かな」
「どのくらいの距離?」
「距離?、ああ、今の私とユカコさんくらいの距離かな」
「それって、見てるシイノさんの姿はどうなんですか」
「ないよ、ただこうして移動してる私を近くで見てる感じ」
「それが、生きてる人間じゃなくなってくる感じなんですか」
「うん、やっぱり、体がある方が生きてそうじゃない?」
「それは、そんな気もしますね、どんどん離れていくんですか?」
「ううん、距離は一定かな、でも濃度が変わってくるみたいなことかな」
「なるほど、言ってることは分かるけど分かんないな」
「それはよく分かる」
 宿に着くまでの間、どこへも行き着かない話を続けた。言葉の意味は分かるけれど、体感的には何も分からない話を互いに話すのは面白かった。そんなことを話せば話すほど、互いの知らない時間があったことの確かさが増していくようだった。些細な違いがどうでも良くなってくる。

 狭い部屋の中でそれぞれに事務仕事を進め、時々冗談を言ったり体に触れにいったりした。それだけでいつもの倍くらいの速度で仕事を終えられた気がする。時間に対する印象は隣接する時間の印象を塗り替えていくみたいだった。書式を変えて同じ数字を打ち込んだり、提出先に合わせて言葉を変えたりする作業は、何年経っても無駄としか思えなかった。一人で、一度で済ませられるはずのことをあれこれとこねくり回すたびに体から力が抜けていく。シイノさんは彼女自身が言っていたように、しょっちゅう立ち上がったり煙草を吸ったりしていた。集中し直すというのが苦手な私はそんな姿を見て、素直に羨ましかった。

 一つ下の階で缶ビールとボトル入りのおつまみを買って部屋に戻り、夕方になる前の時間からだらだらと過ごした。ベッドの布団の上に寝転びながら、近くに寄せた机やサイドテーブルからビールやつまみを手に取り、交換した本を読み進めたり足で小突きあったりしていた。本を読んでいても彼女はすぐに別のことをした。カフカの他の作品をほとんど読んでいないからか『城』は順調に読み進められていた。シイノさんはうつ伏せになった私のお尻に頭をのせ、仰向けで本を読んでいた。
 夕陽が部屋いっぱいになる頃、シイノさんは缶ビールを三缶飲み終えて酔っ払っていた。私は二缶飲んで、特に変わりもなく、『国のない男』を読みながらくくくっと笑う彼女を見て、声を出さずに笑っていた。私たちはうつ伏せになって並んでいた。二人とも膝を曲げて足を上げ、肘をついて本を読んでいる。シイノさんはお酒を飲むたびにじっとするようになって、もう長い間その体勢を崩していなかった。

 トイレに行って戻ってくると、彼女は本を開いたまま眠り込んでいた。静かに窓際まで歩いて椅子に座り、煙草を吸いながらその様子を見た。頭が前後に揺れて、少しずつ腕が前の方へ伸びていく。額が布団につくと上がっていた足がばふっと落ちて、一瞬だけ目を覚ました。顔を上げて空間を見つめたあと、ゆっくり頬を下にして眠った。

 そんな姿をしばらく見ていると空腹を感じ、夕食を食べておくことにした。鍵とパスタを持って部屋を出て、ロビーまで降りてレンジで温めた。テレビでは迷子犬のニュースが流れていた。何日か前からいなくなっているみたいだ。犬は、三つ目の犬とそっくりだった。真ん中の眼がないだけで、あとはほとんど同じように見える。
 近くのソファでは、新聞を開いたままフロントのおばさんが眠り込んでいた。彼女は洞窟の奥で響く風の音のような呼吸を繰り返している。私は、よっぽど起こしてあげた方が楽なのではないかと思ったが、その音の悲痛さに比べて安らかな寝顔を数秒見つめるだけにとどまった。

 熱しすぎたパスタを何とか持ったままビールを買い足し、部屋へ戻ってささやかな夕飯を食べた。食事をしていない親しい人がいる空間で何かを食べたり飲んだりするのは、考えたこともなかったけれど、どこかが癒されるような感覚があった。彼女はしっかりと眠っていたけれど、食事を摂っている間の無防備な私を、補完してくれているような、辺りを見張ってくれているような、そんな感じだった。それはむしろ、彼女が眠っているからこそ思うのかもしれなかった。

 元の大きさを想像すると申し訳ないような小さなエビを残して食べ、それをつまみながらビールを飲んだ。たまにある、どれだけ飲んでも酔わない日だった。ただ何度もおしっこのためにトイレへ立つ必要があるだけだ。足取りも意識もまだはっきりとしているし、そんなはずもないのに飲み足りない気がしていた。

 追加で二缶と別のボトル入りのつまみを買って部屋に戻ると、シイノさんは起きて煙草を吸っていた。
「あ、おはようございます」
「おはよう、どれくらい寝た?」
「二時間もないくらいだと思います」
「二時間、私も温めに行ってくる、自販機の階?」
「いえ、ロビーです、何か飲み物買っておきましょうか?」
「ううん、そのビールもらっていいかな」
「もちろん、でも大丈夫ですか?」
「短い時間で深く寝れたのかものすごくすっきりしてる」
「じゃあ、一本冷蔵庫に入れておきます、というか、私が温めに行ってきますよ。ゆっくりしててください」
 そう言って彼女からグラタンを受け取り、部屋を出てロビーへ降りた。
 おあばさんはまだ同じ音を立てて眠っていた。開かれた新聞の紙面が変わっているような気もしたが、さっきの私はそんなことを確認していなかった。レンジの中には小さくて硬い枝が一本入っていた。樹皮は捲り取られ、磨かれたように光沢のある枝だった。私がパスタを温めたときにはあっただろうか。しかしそれは耐熱皿の真ん中に置かれていたし、何というか誰かがそっと置いていった気配があった。投げ込んだわけでも、突然現れたわけでも、元々どこかへ引っかかっていて、何かの拍子でそこへ落っこちたわけでもなかった。誰にとって何の意味があるのかは分からないけれど、誰かが確かにその手で皮を取り去って磨いたあと、そっと置いていったのだ。
 私は枝を取り出して代わりにグラタンを入れ、温めている間にそれを手の中で転がしたり撫でたりしていた。引き締まった筋肉のように生っぽい質感があった。小さな動物の骨に見えなくもないが、それは枝に見えないくらい磨き上げられているからだろうか。
 チン、と鳴って少し迷ってから、グラタンを取り出したあと枝を元の位置へ戻しておいた。

 シイノさんはハムサンドを食べながら缶ビールを飲んで待っていた。
「ありがとう」と受け取って、何本飲んだの?、と言った。
「十本くらいだと思います」
「全然変わんないね」
「今日はそういう日みたいです」
「たまーにあるよねそれ」
「ですよね、何がどうなってるのか分かんないけど」
 シイノさんは湯気の上がったグラタンをぱくぱくと食べていた。私はそんな彼女を時々見つつ、ベッドの上で壁にもたれて『城』を読んでいた。大量にアルコールが入った状態で読むとそれは、その行き着かなさは、私の中でどんどん現実的な感触を持ち始めていた。

 甘い香りがして、顔を上げると煙草を吸うシイノさんと目が合った。
 私はベッドを降りて向かいに座り、煙草に火をつけた。
「いい感じ?」
「まだ半分も読んでないですけど、今のところ」
「そっか、良かった」
「シイノさんはどうですか?」
「さっき読んでたんだけど、寝る前に読んでたところ何も覚えてなかった」
「結構ふわふわしてそうだったもんね」
「うん、本以外もあんまり何も覚えてない」

 シイノさんは、駄目だ、と言ってふらふらと浴室へ消え、顔だけを洗って出てきた。ヘアバンドをしているとヒッピーに見えなくもない。隣に寝転んで布団をかぶった彼女にそんなことを言うと、ヒッピーかあ、悪くないかもしれないなあ、もしかしたら、と呟いてからすとんと眠った。

 なるべく音を立てずにシャワーを浴び、あれこれと準備をして布団に入ったのは、それでも日付が変わる一時間近く前で、今日の長さはここ数日の中でも群を抜いていた。
 電灯を全部消して、窓の方を向いて眠る彼女に背中からくっついて瞼を閉じると、真っ暗な空間の奥から煙とも水流とも思える無色透明の何かが流れ込んできた。その流れに身を委ねていると、いつの間にか眠っていた。

 船を降りた先の港から、コンテナケースや汚れた方のザックを自宅へ送り、駐車場で車の中を少しだけ掃除した。マットをはたいたり、ウェットティッシュで土汚れを拭き取ったり、その程度のものだ。

 最後の地点は拍子抜けするくらい簡単なところだった。資料や前回のデータを見て予想していたようりも遥かに楽だ。車を横付けして、歩いて、測って、お終い。手応えがないね、と彼女は言って、私も同じようなことを言った。最後くらいもう少し疲れても良かった。
 行きとは名前の違う船に乗り、そのおかげか、行きと変わりなくはしゃいでいた。同じなのは売店で売っているものくらいで、あとは結構がらっと違っていた。内装やゲーム室のゲームも、往路の船よりも新しいからか、情緒はないが清潔で、どのような意味でも擦り切れていなかった。私たちはまたポテトを買って、カモメたちと分け合った。群がるカモメたちさえも真新しく、曇りもないようだった。若く、しなやかな羽を器用に動かして風に乗っていた。
 側面の甲板に設置された椅子に並んで座り、身を寄せ合って暖をとっていた。海はどこまでも凪いでいて、空気も澄んでいた。遠くに見える島々は、星のようにもうそこにはないもののように見えた。島の影しか見えないからだろうが、どの島も遠くから見ると同じような形をしていた。シイノさんは私の手を握って、腿に載せた本を読んでいた。初めのうちは指の間にある彼女の指の温かさや硬さがはっきりしていたが、段々とどっちが私の手なのか分からなくなった。つるつるとした座面を手の甲に感じている方か、冷たい風とはためいた上着がかかる手の甲の方か、見下ろして確認しないと確信を持てない。

 シイノさんの家へ向かって車を走らせているとき、犬と猫に会いにこない?、と彼女は言った。
「実家にいるんだけど、家から近いし、理由にはなってないけど」
「迷惑じゃない?」
「うん、誰もいないと思うし」
「猫と犬だけ」
「そう。お母さんは旅行か何かでいないし、弟かお兄ちゃんが二人の面倒見てるけど、餌あげに寄るくらいで住んではないから」
「じゃあ、少しお邪魔します」
「やったー、ありがとう」
 私たちは、何周目かも分からない青盤を聴きながら彼女の実家を目指した。

 コンビニへ寄って、遅めの昼食を買った。そのまま駐車場の車の中でもそもそと食べ、仕事はもう終わったからと、思い付いたことを言った。
「シイノさんって次までに会社に行くことってありますか?」
「ないよ、予定より早く終わってるから三日間は完全に休み」
「じゃあ、ってわけでもないですけど、今思いついたことで」
「うん」
「シイノさんの実家に犬と猫を見に行ったあと、シイノさんの家で次の準備して、それから私と一緒に私の家に帰りませんか?」
「断る理由がないし、同じようなこと言おうと思ってた」
「じゃあ、そうしましょう、多分雪が積もってるので、スノーブーツとか、服も変えなきゃいけないと思います」
「分かった。でもそれはまた後で教えて、今、嬉しくてあんまり何も考えられない」
 それから一時間くらい、シイノさんはずっとにやにやしていた。私は、自分が言い出したことで自身がへらへらしてるのも馬鹿らしくて、それでもほとんど我慢できていなかったように思う。何人かの対向車のドライバーは、話している様子もないのに二人ともが笑っているのを訝しげに見ていた。

 彼女の家は、見たそばから忘れてしまうような見慣れた一軒家だったが、シイノさんが育った家か、と思うと何か込み上げてくるものがあった。目頭がつんとする感じまであって、私はなるべく、見慣れた箇所を探して、そこばかり見ていた。
 車を降りて彼女について家の中に入った。シバは一直線にシイノさんの元へやって来て、あまりの勢いに自分自身も驚いているようだった。ふがふが言って気を取り直して彼女の胸に飛びかかった。おうおう、よしよし、寂しかったねえ、と言う彼女の声はいつもよりも高く、それは私を落ち着かなくさせた。
 靴を脱いでから先導するシバについて行った。外観から想像していたよりも広いリビングの真ん中には楢材の大きな机があり、その上にゼミが丸まって乗っていた。私たちのがリビングへ足を踏み入れると、顔を持ち上げて、何か?、みたいな表情を見せ、元の体勢に戻った。シイノさんはすっとそばへ寄って頭を指先で撫でてから、私を振り返って、実家です、こっちがゼミ、あっちがシバ、と言った。

 同じ材でできた椅子に座り、温かいほうじ茶を飲みながらゼミを眺めていた。シイノさんは左側の、毛足の長い絨毯が敷かれテレビやソファのあるところでシバと戯れていた。私はそっと手を伸ばしてゼミの体に触れ、ごめんね、と言いながらゆっくりと撫でた。一瞬だけ顔をこちらに向け、もう関心がなくなったように丸まり直した。緊張しているのか、左手で握られたコップから手が離れない。右手は緩やかに、ゼミの体の上をあちこち撫でている。静かな午後だった。実家で流れるに相応しい時間そのものだ。シバの息遣いや、思い出したように食べに行く餌を噛み砕く音以外、ほとんど何もない。冷蔵庫の低く唸るような音があるが、それはもう空気と同じくらいのもので、気にしなければ聞こえていることにも気付かない。
 ゼミの体は次第に平たくほどけていって、それは私の手を受け入れてくれたことになるのだろうか。揉むようにしたり、手の甲から指先へかけて滑らせるようにしたり、指先に軽く力をいれて掻くようにしたり、披露するように色んな撫で方を試し、ゼミとの距離を縮めようとした。
 シイノさんが私の肩に触れ、私がびくっとする少し前にゼミが私たちを振り返った。
「ごめんね。ゼミ、初めての人にはあんまり撫でさせないんだけど」
「へえ、何か嬉しいな」
「猫飼ってたことある?」
「いえ、祖母の家で野良猫と遊んでたことがあるくらいです」
「ああ、なるほどね」
 シバはストーブの前でぐでんと眠っていた。シイノさんは私の視線を追って、寒くなってストーブ出すとほとんどずっと寝てるよ、と言って笑った。

 私たちは二階に上がって、彼女が高校生の頃まで使っていた部屋の小さくて狭いベッドに寝転んだ。ついこの間買ったみたいに綺麗な勉強机や整頓された教科書やノートを見ると、胸の真ん中辺りが押し込まれたように痛んだ。壁一面に作り付けられた本棚はほとんど空っぽだった。参考書にまぎれて数冊残されているだけだ。
 この部屋で長い時間を過ごした彼女の姿を思い浮かべようとしたが上手くいかなかった。物が少なく、あるのはそれらがあった痕跡だけだった。私は起き上がって彼女に覆いかぶさり、強く抱きしめた。彼女が息を吐いて笑ったのが分かった。しばらくそのままでいて、いいですか?、と言ってキスをした。何となく久々な気がしたがそんなわけでもなかった。
 私はシイノさんをベッドの縁に座らせ、ジーンズとパンツを取った。閉じられた足を、太腿を持って開き、その間に体を滑り込ませた。彼女は手で顔を覆って後ろに倒れた。私は床に膝をついて顔を埋め、あちこちを舐めたり吸ったりした。
 シイノさんはシーツを噛んで声を押し殺していたが、指を挿れると我慢しなくなった。彼女は何度も私の名前を呼んで、その度に少しずつ体が柔らかくなっていった。

 服を着たままの私と下だけ裸のシイノさんは仰向けに並んで寝転んで、眠ってしまわないよう、煙草を吸ったり連想ゲームをしたりしていた。彼女は、誰もいないうちに実家でこんなことするなんて本当に高校生みたい、と言って笑ってから、何かを調整するように長く息を吐いた。

 下に降りてひとしきりシバとゼミを撫でてから、私たちはシイノさんの実家をあとにした。

 シイノさんの家は駅と実家の、駅寄りの場所にあった。十二階建てのマンションで奇妙な青色の塗料で壁面全部を塗られている。
 エレベーターに乗って八階まで上がり、廊下に出て左に進んだ角部屋が彼女の家だった。黒い扉にアイボリーの格子柄が入っていた。彼女は実家よりも慣れた手付きで錠を開けた。
 小さな玄関に並ぶ靴を見ていると、何故だかは分からないが、ぐらぐらするくらいシイノさんという人との距離を感じた。順番に靴を脱いで廊下を歩いた。
 一人で暮らすにはちょうどいい広さのリビングに、量販店で買ったものではないと一目で分かる家具や調度品が配置されている。奥の壁には実家の彼女の部屋にあったのと同じ本棚があり、その前にも本が積まれていた。どの家具もしっとりとしたタモ材で作られていて、手入れも行き届いていた。部屋のなかをうろうろとしている間中、ずっと指先は家具に触れていた。
「雪に耐えられるものだよね」と彼女は言って、寝室かどこへ行った。私はこの部屋が好きだった。本棚に並んだ本を眺め、椅子に座ったり、立ち上がって窓から見える景色を確かめたり、じっとしているのが惜しいような気がした。

 スノーブーツやウェアを持って彼女が戻ってきたのは十分くらいあとで、私はソファでうとうととしていた。はっと顔を上げるとシイノさんが立っていて、私は今自分がどこで何をしているのかを思い出す必要があった。この場所に馴染みすぎて、ここには初めて来たことを忘れていた。私は彼女の顔を見て、この部屋、すごく好きです、と言った。彼女は持っていたものを机のそばにそっと置き、私のところへやってきて、同じように優しく抱きしめた。
「実家の家具もそうなんだけど、小さい頃からよくしてくれる材木屋のおっちゃんがいて、その人が作ってるんだよ、あれもこれも」
「ちゃんと目に意識されるのに、静かにそこにいる感じがして、ものすごく落ち着きます」
「なんか、自分のことのように嬉しいよ」
 私たちはそのままソファで少しだけ眠ることにした。
 夢の中で材木屋のおじさんが、おう、と声をかけてきた。私は何か答えたのだが、言葉にはなっていなかった。

 シイノさんにとっては行きの新幹線の中で、一地点分のデータをまとめて送った。
 すぐに二人からメールがあり、お疲れ様です、とのことだった。
「シイノさん」
「ん?」
「駅に着いたら、そのまま会社に顔出しにだけ行っていいですか?、下に喫茶店もあるので」
「ああ、気にしなくて大丈夫だよ、大学出て以来だから時間ならいくらでも潰せるし」
「ありがとうございます」

 車内販売のアイスを食べたり喫煙所へ行ったりして、短い時間を適当に過ごした。私は自分で言い出したことで緊張していたが、気が引き締まる程度の心地好いものではあった。

 駅に着くとシイノさんは、懐かしい、と言って辺りをきょろきょろしていた。
「住んでる頃でもあんまり使わなかったから、むしろ印象に残ってるなあ」
「実家に帰ったり戻ってきたりしたときだけってことですか」
「そうそう、越してくるときもそうだし、何かと節目みたいな時にしかほとんど使ってない」
「見ていきますか?」
「ううん、それはいいや」と彼女は言って、通り抜けるまでで充分、と続けた。

 乗り換えて二駅先で降り、十分ほど歩いた。ザックを背負った二人組は目立った。シイノさんは特に目立っていて、誰もほとんど私のことは見ていなかった。
 シイノさんを二階の喫茶店に残し、エレベーターで上まであがった。彼女は、荷物置いていきなよ、と言って、私は言われた通りにした。誰もいないエレベーターの中で、もうほとんど誰もいないにしても、私服でいることが奇妙だった。

 喫煙所にカギタニくんの姿を見つけ、向こうもエレベーターから出てすぐの私に気が付いた。手を上げると間があって、何かに気づいたように頭を下げた。中に入って煙草をくわえると、カギタニくんは火をつけてくれた。オフィスに行く前に知っている人に会うと気が楽になるのが不思議だった。前準備というか、どうせすぐ後で会うことになるのに、ほっとしていた。
「お疲れ様です。すみません、一瞬誰だか」
「カギタニくんもお疲れ様です、いいよいいよ、アキちゃんは?」
「アキと僕だけですね、飲みに行こうと思ってたんで、アキの残業に付き合おうと」
「なるほどね、何か私宛のってある?」
「なかったと思いますね」
「ありがとう」
 シイノさんが言っていたように、私の何かが変わってしまったのだろうかとも思ったが、こんな格好で会社に来ることは初めてだったし、あまり考えないでおこうと決めた。そうすると、カギタニくんは、さっきはすみません、正直、こんな綺麗な方だっていう印象がなくて、と言った。
「面倒見のいい、さっぱりしたフクヤさんしか見たことがなかったので、もちろん、綺麗な人だなあって思うことがないってわけじゃないですよ」
 慌てた彼を見るのは久しぶりのことで、おかしくなってしばらく笑ってから「だから火をつけてくれたの?」と言った。
「そうですね、つい。手が伸びました」

 アキちゃんも同じような反応で、よく考えると私たちは互いの、特に個人的なことはほとんど何も知らなかった。二人の私服も、住んでいる部屋の間取りも内装も、生まれ育った場所も。
 出張先で使うパソコンに転送されなかったメールも、郵便物も言伝もなかった。軽く何か事務作業でもしようと思って来たのだけれど、珍しく何一つ残っていない。アキちゃんの仕事ももう終わりそうだったし、カギタニくんも本当に付き合っているだけで、大体は窓の外を眺めているだけだった。

 二度目の喫煙所で彼は、フクヤさんも行きませんか?、と言った。私は、もう一人いるんだけど、彼女が何て言うかで決めていい?、と返した。
「ああ、シイノさんですか」
「あ、そっか、カギタニくんは夏のときに何回か会ってるのか」
「そうですね、何度か、去年と一昨年は、今年はなかったですね」
 喫煙所を出てから電話をかけ、その旨を伝えた。
「楽しそうだしいいじゃん」
「荷物はロッカーにでも預けておきましょうか」
「うんうん、でも、ユカコさんは大丈夫?」
「私ですか」
「うん、疲れてないかなって」
「大丈夫ですよ、明日から三日休みって考えただけで元気ですよ」
「それじゃあ、お邪魔しまーす」
 ちょうどアキちゃんも出て来て、終わりましたー、と言った。そのままエレベーターに乗り込み、私だけ二階で降りた。

 二人で階段を降りている最中にシイノさんは私の手を握って立ち止まった。
 シイノさんは私の目を覗き込んで何も言わないまま動かなかった。私はその目を見て、何かを思い出しそうだった。幼い頃に、同じ色の目をした人と話した覚えがある。どこの誰だかは分からないし、何を言っていたかも思い出せはしない。
「ユカコさんは基本的に動じないね、飄々としてるというか、どっしり構えてるわけでもないんだけど、吹いても倒れない感じがある」歩き出しながらそう言って、手を離してから、嬉しいなあ、と呟いた。私には、彼女が何について言っているのか分からなかったが、彼女が嬉しいのならそれに越したことはない。

 合流して軽い自己紹介のようなものを済ませ、店の大体の場所を聞いた。私たちはその近くの駅のロッカーに荷物を置くことにして、スーツ姿の二人とラフな服装でザックを背負う二人の、よく分からない四人組のまま歩いていった。
 紫とピンクと青が混じり合った夕暮れの空が見える。それぞれに無数のグラデーションを持ち、溶け合ったり重なったりして、隣り合う色が次々に変化していった。私は三人から一歩半くらい遅れて歩き、そんな風景を見ていた。仮定的に置かれたような淡い月が浮かんでいる。ずっと昔から明るいうちに見える月は本物ではないように思えた。今でもそうで、そんなことはないと分かっていても、どうしても夜に見る月と同じものには思えなかった。シイノさんは会話の合間にちらちらと私を振り返って、目が合うたびに微笑んだ。私はその度に微笑み返したり変な顔をしたりして、それでいて何となく、前を歩く三人から距離を取っていた。

 バールのようなところで、カギタニくんとアキちゃんは、先に店に入って待っておきます、と言った。言ったのはカギタニくんだったけれど、アキちゃんも言ったような顔をしていた。私たちは歩いて五分くらいの駅の近くにロッカーを見つけ出し、一つずつ荷物を詰め込んだ。彼女はロッカーの鍵を私の手に握らせ、絶対無くすから持ってて、と言った。

 店に戻って席に着くとジョッキのビールが四つ運ばれた。一緒に生ハムと何種類かのチーズもテーブルの上に並んだ。
「乾杯」とカギタニくんは言って、一息で半分ほど飲んだ。私はシイノさんに耳打ちで、飲みすぎないようにね、と言って、彼女は今まで見たことないような嬉しそうな顔で頷いた。
 どうしてそんなに、と思ったけれど、自分がシイノさんと同じくらいの体質だったとして、少し前の仕事の間の記憶や、私との関係性を考えると、確かに、何がと訊ねられると答えられない類の喜びが湧いてきた。
「シイノさんは、もうこの業界は長いんですか」オレンジ色のチーズを飲み込んで、口元を手で隠しながらアキちゃんは言った。アキちゃんの声は騒がしい店内でよく通った。
「大学出てそのままだから、長いと言えば長いのかな、アキちゃんは?」
「私はまだ一年経ったばかりです」
「僕の一年後輩ですね」
「そっか、カギタニくんとユカコさんは中途採用で入ったんだっけ」
「そうです、大学出てから私は結構ふらふらしてたんで」
「何か意外ですそれ、僕の場合はそのまま就職して、辞めるタイミングで今んところにきたって感じですね」
「四人でも色々パターンがあるね」
「カギタニくんは独立したいんだっけ」薄いのだけど舌触りのはっきりした生ハムは、口の中で溶けて、放出するみたいに味を残していった。藁のような風味やぴりっとくるくらいの塩味、なめらかで後を引かないこってりとした脂身の甘さ、おつまみにこれほど最適なものはないように思える。
「そうですね、いつかそうしたいですね。まだ現場でも事務作業でも、経験が足りないですけど」
「まあ、そんなのはどんどんついて来るからね」シイノさんはビールを一口飲んで言った。
 店内はスーツを着ているグループと、そうでない服装のグループで埋まっていて、どうしてか私たちのようにスーツ組と私服組の混合グループは一つもなかった。
 カギタニくんはビールを追加するのに合わせて、海鮮のアヒージョとバゲット、チーズのピザとトマトとひき肉のピザ、サラダと渡蟹のトマトクリームパスタ、赤ワインのボトルを頼んだ。
 新しいビールが三つ届き、シイノさんは一つ目のビールを少しずつ楽しんでいた。私は保護者のような気分になっていて、彼女の前の小皿が空になる時間をなるべくなくそうとしていた。

 カギタニくんと私はワインに移って、アキちゃんとシイノさんは二杯目のビールを飲んでいた。
 ピザはどちらも美味しかったし、アヒージョの具もきちんと処理されていて、無駄な臭みや舌触りもない。シイノさんの顔はほんの少し赤くなっていた。アキちゃんは結局いつも私と同じくらいの量を飲むのだけれど、ペースは遅かった。カギタニくんは酒豪と呼んでいいだろう。ふらついているところすら見たことがない。
 それから話は、各地の町や山の話へ移っていった。仕事の話と言えばそうなのだけど、加わらずに聞いているとただの旅行の話に聞こえてくる。どこそこの名物はこれじゃなくてこっちだとか、あそこ一帯の山はどこも泥濘んだみたいで歩きづらいだとか、この道路から見える景色が絶景だとか、そんなようなことだった。私は煙草を吸いながら、三人の声を聞くともなしに聞いていた。体がちょうどいい具合に疲れていて、今この場で眠れたら気持ちがいいことが分かる。眠気はないのだが、寝転がって、眠りへ落ちていく感覚を感じたかった。

 そのあとでカギタニくんは追加したボトルを一人で空け、私たちはグラスで頼んだ白ワインとスズキと野菜のグリルを食べた。

 駅前で別れ、ロッカーから荷物を取り出して電車に乗った。
 シイノさんは結構酔っている様子で、立っている間もふらふらと左右に重心を移していた。
 木曜の微妙に早い時間でも電車は混んでいた。私はシイノさんの荷物を網棚に載せ、その下の席に座らせた。六駅乗って、乗り換えて二駅、家まではタクシーに乗るだろう。気分は良さそうだったけれど、歩くにしては坂が多いしふわふわしていた。彼女は前に立った私を見上げ、いつからかずっとにこにこしている。私は彼女の頭を撫で、大丈夫?、と言った。ちょうどいいくらい、と言って後ろに体を預け瞼を閉じた。

 タクシーを拾ってトランクに荷物を入れ、後ろに乗って行き先を伝えた。運転手は小さく頷き、滑り出すように走り出した。たまにこうして優れたテクニックのある運転手に出会うと、特別な資格を持つ人だけがタクシーを運転できればいいのに、と素朴に思う。歩くのが面倒で乗ることよりも、お酒を飲んで乗ることの方が多いからかもしれない。
 彼女は座ってすぐに眠ったようだった。窓に頭の側面をつけて身じろぎ一つない。街灯や店の明かりが車内に飛び込み、広がってぱっと消えた。きめ細かにつるっとした彼女の肌は夜の空気が似合っていた。眼鏡は手に握られて、鼻の付け根に跡が見える。空いた方の手をとって弱い力で揉んだ。小指がぴくっと跳ねたが、起きたわけではなかった。

 マンションの前に着く少し前にシイノさんに声をかけた。もう少しで着きますよ、と。彼女は、うん、と返事して、腕を伸ばしながら体を起こした。
「起きてたんですか?」
「ううん、すっごい寝てたよ、着きますよって聞こえた」
 五分もしないうちに到着し、お金を払って、素早く車を降りた。反対側に回って彼女を支えて降ろし、エントランスの前の階段に座らせた。トランクの荷物を運転手から受け取り、ポッケから鍵を出してから両肩に一つずつザックを背負った。
 ありがとうございました、と言うと彼は一礼し静かな音で住宅街を抜けて行った。シイノさんは立ち上がっていて、私は彼女を促して歩いた。オートロックの扉を抜け、エレベーターに乗り、七階です、と言ってボタンを押してもらった。
 出るときに鍵を渡し、シイノさんの後ろを歩いた。
 扉を開け、私を通してからすぐに入って来たシイノさんとぶつかって、そのまま私たちは廊下に倒れ込んだ。ザックがクッションになって、私たちはしばらく笑ってから、割とてこずりながら起きあがった。
 寝室に荷物を置いてからリビングへ行き、あちこち見て歩くシイノさんに後ろから抱きついた。彼女は、私もユカコさんの部屋好きだなあ、と言って、その体勢のままちょこちょこと歩いてまわった。

 ダイニングとして使っている僅かなスペースのテーブルで向かい合い、濃く出したコーヒーを飲んだ。彼女の酔いも醒めてきたようで、リラックスしているみたいだった。私はすっかり二人でいることに慣れていた。彼女の存在に慣れていた。彼女はその場からぐっと迫り出したようなところがあった。歩いていると大方の人が彼女を見るのもその感触のせいだろう。彼女といると、ずっと何か気が張るようなところがあったのだけど、今ではそれが心地好さへ変わっていた。彼女といれば私は、隅から隅まで、その場所にそっといることができる。私たちは何かに対して弁明する必要もなかった。ただそこにいるだけで良かった。そんな気持ちになることは、あまりに懐かしいことだったから、私は初めのうち、何か悪いことの前触れのように思っていた。これほど健やかな時間や気持ちが続く訳はない、と。しかし、それが存在することは決して何かの前兆ではなかった。
 彼女はマグを両手で持っていた。私は一応、熱くないですか、と言って、彼女は、大丈夫だよ、と言った。無駄な会話の何と豊かなことか、と両手を広げて天を仰ぎたいような気分だった。私もどうやらアルコールが回ってきたようだった。あらゆる、不快でない無駄な会話は、私たちのその時々の関係性や立ち位置を思い出させてくれた。
 キッチンへ立ち、缶入りのクッキーを持って戻った。
「あ、これ知ってる」
「去年、紹介してもらったんだよ」
「美味しい?」
「食べてみてよ」
 シイノさんはメレンゲクッキーを気に入ってぱくぱく食べていた。

 ベランダに出て煙草を吸い、何日かぶりに一緒にお風呂に入った。ホテルに比べると広々とした浴室では、ある意味でよく互いの姿が見えることに少し戸惑った。
 私は、シイノさんの体には慣れていなかった。同じ空間にいて感じる存在と、それを一部支える肉体とは、別々のものに思えた。私は彼女がいることや、そこにただあることに慣れてきたということだろうか。こうして狭い場所で、裸になった彼女を見ていると、それから想起する直接的な思い出や予想される私や彼女の動きとは別に、それそのものが私を刺激した。これほど美しい体を持つというのはどういった意味があるのだろう、あったのだろう、そんな私の考えとも関係がなかった。その体が、彼女の体として、それがこうしてここに、目に見える形であることが私を揺さぶっていた。誰か別の体として、その体がどこかに存在することもあったはずだった。
 トリートメントを洗い流し、これがユカコさんのいつもの匂いかあ、と彼女は言って、なくなりかけの石鹸を泡立てた。お湯に浸かってそんな姿を見ていると、だんだんと、私たちはいつから一緒にいたのかが曖昧になっていった。その人と出会ってから、その人との時間が始まるわけではないよな、と思い始め、それは、別れた途端に何もかも全部なくなる訳じゃないことの経験的な確かさを起点にしていた。その人を含む時間はいつからか始まっているし、いつまでも終わらない。私はそう考えて息が詰まるような感じがした。それでは、どこにも救いのようなものはないのかと思った。きっと、残念ながらその通りだった。それでも私は、シイノさんや、シイノさんの体や、その他何もかも、彼女を含んだあらゆるものを、ずっと私として感じていたかった。
 彼女が入ってくると湯は勢いよく流れ出し、ぴったり私たちの首元まで張った。
「体調はどう?」
「もうほとんど変わりないですよ」
「良かった、というか、三日間はゆったりしてよう」
「行きたいところがあれば言って下さいね、一応車はあるから」
「ありがとう」

 リビングに戻って、それぞれにただぼんやりと過ごしていた。
 私はダイニングで、彼女はソファの上で、『城』と何かを読んでいた。私の場合、どこにたどり着けていないのかが分からなかった。城へ辿り着けないと分かっているだけましじゃないないだろうか。シイノさんは背もたれにぐうっと体を押し付け、首を反らした状態で本を読んでいた。そうやって読むにしては分厚い本に見えたが、私がそう言うか、異常なほどその体勢でいない限りは楽な姿勢なのだろう。白湯を飲みながら本を読みつつ、ちらちらと彼女を見ていた。

 歯ブラシがないことに気が付いて、私たちは服を着込んで近くのコンビニまで歩くことにした。車で行くにしては近過ぎて、暖房が効くまでに着いてしまう。彼女はいつもの格好に私のマフラーをぐるぐる巻いて、今すごく幸せな気がする、と言って鼻を埋めた。

 十分も歩かない距離でセブンに着いた。明日起きてから食べるものと歯ブラシをカゴに入れ、何となく店内を無駄に歩いて会計を済ませた。
 帰り道で、袋はシイノさんが持った。彼女は、一箇所だけ行きたいところがあるんだけど、と話し始めた。
「大学の四年間住んでたところで、何があるってわけでもないんだけど」
「行きましょうよ」
「うん、行こう」
 話を聞いていると、大学生時代、私たちはかなり近い場所に住んでいたようだった。何度かどこかのスーパーや道ですれ違っていたかもしれない。それに彼女は何故かモリイチのことを知っていた。何故か、というのはないのだけど、驚きが姿を変えて疑問に変わっていた。
 モリイチは学内では少し有名な部類の人だったらしい。見た目が目立つというのもあったが、きつく残った方言や姿を見かける頻度の激しい差が主な理由だった。彼はあらゆる講義に顔を出し、講義中何度も手を挙げて質問を投げかけた。それでいて何日も誰も彼を見かけず、そうかと思うとくろがねのように日焼けした顔でザックを背負ったまま学校へ来た。何人かは彼に話しかけた。彼はその時々の旅のあらましを話し、そのうちの何人かは誰かにその話をした。その誰かはモリイチの元へやって来て話を聞き直し、また誰かへと話を教えた。そうして彼は変わり者の旅人として知られるようになっていった。それはサークル間の交流や、単位互換制度を使っていた人たちによって、近くの学校の人たちにも伝わった。シイノさんはそのとき、程近い私大に通っていて、仲の良い友達からモリイチの話を聞いた。私はほとんど音としてしかその話を聞いていられなかった。
「その友達に連れられて、一回だけ見に行ったことすらあるもん、びっくりするくらい黒かったな。話を聞いてなくても異様な雰囲気だったよ、学校の中庭をさーっと歩いていく姿」

 私たちは少しだけ道を逸れ、マンションを回り込む形で部屋へ戻った。モリイチは結局、全国を歩き切ったんだっけ。私はもやもやとした記憶の中を探ってみたが、最後にはどうだったのかが思い出せなかった。彼はしっかりと全ての土地を歩いて来て、そのお祝いのようなものをした気がするし、まだ彼はどこかを歩いていて、それ以来会っていないような気もした。思えば私のモリイチとの思い出のあやふやさは、そのほかのものと比べると自分でも恐ろしくなるほどだった。私は彼が美草へ帰ったのかそうでないのかも思い出せないし、どうして今彼と連絡を取り合っていないのかも分からなかった。何か決定的な別れがあったのだろうか。そんな記憶はないが、そうだったような、そうじゃなかったような、何もかもが朧げなのに同じ分量だけそんな気がし続けた。

 並んで歯を磨き、色違いのパジャマに着替えて寝室へ行った。私は窓の方に寝て、彼女はぴったりと体を合わせた。小さな声で、本当に嬉しいと思ってるよ、と言った。言ったはずだった。私が、私もですよ、と言って顔を見ると、彼女はもう眠っていた。
 私はカーテンの隙間から夜空を眺めた。星がいくつか見えるがどの星座の一部かそうでないのかは判別できなかった。明滅しているように見えたが、錯覚だったかもしれない。静かに胸を上下させるシイノさんと夜空の小さな星々を交互に見ていた。今が何時なのかは分からないけれど、この二週間ばかりの就寝時間よりは遅いはずで、それでも眠気を感じなかった。体も頭も疲れているが何かが冴えていたし高ぶってもいた。それはシイノさんの口からモリイチの名前を聞いたことで間違いないけれど、それはただの発端だった。私はとにかく、彼のことを思い出そうとしていた。それはするすると私の元から離れていく。彼に関して思い出せることが一刻ごとに少なくなっていくようだった。
 モリイチは博物館のカウンターで眠っていた。両腕を菱形に曲げて、重なった手の甲の上に耳をつけて瞼を閉じている。私は学校を早退して彼に会うために歩いていた。畦道を、ローファーを泥で汚しながら歩いていた。スカートは風に吹かれてぴたっと張り付いている。風は頭上から私めがけて吹きこみ、ぶつかると後ろへ過ぎ去っていった。モリイチの背中は呼吸に合わせて膨らんで萎んでを繰り返していた。私はカウンターの脇の扉から中に入って、ストーブの前の椅子に腰掛けた。しばらくストーブの真ん中で光る火を見つめ、立ち上がって彼の背中に手のひらを合わせた。彼の体の中を空気が通る乾いた感触は手にあった。動きに合わせて手の力を抜いたり入れたりして、そのままで五分くらいはぼーっとしていただろう。私はモリイチの髪に触れ、私とは違った固い髪をしだいた。彼は動かなかった。それでも、多分、私がカウンターの前に立ったときから目を覚ましていた。私はそれが分かっていたし、そのことを彼も分かっていた。私は手を離して彼の背中に耳を当てた。不規則に思える鼓動と血液が流れ巡る音だろうか、夜に聞く、幹線道路で起こる音が聞こえる。私はモリイチの髪をかき上げて、うなじや首筋に舌先を這わせた。汗ではない塩っぽい味だった。舌を口の中に戻して唾を飲み込み、また舌の先をあてた。長い時間それを繰り返した。モリイチは一度だけ、小さく息を漏らした。それ以外彼に動きらしい動きはなかった。私は顔を上げ、数秒彼を見下ろしてから、博物館をあとにした。
 私は起き上がってクローゼットまでいって、毛布を取り出した。掛け布団の上に静かに毛布を広げ、ベッドを揺らさないように寝転んだ。シイノさんの体は熱を放っていて、仰向けに寝た彼女を側面から抱きしめると温かかった。ぼやけた彼女の顔の輪郭を目で追い、それから昼前まで眠り込んだ。

 起き上がると、シイノさんは温もりもないほど前に起きていたようで、私は一人だった。リビングの方からかちゃかちゃと物音が聞こえる。
 顔を洗ってからリビングへ行くと、彼女はキッチンで何かを焼いていた。おはようございます、と言うと彼女はこちらへ来て、ぎちぎち鳴りそうなくらい強く私の体を抱いた。

 彼女が焼いた目玉焼きとウィンナー、トースト一枚を平皿にのせ、ダイニングで向かい合って食べた。長く煩っていた心配事が消えたみたいに清々しい気分だった。天気も良いし、家の中で一日を終えるのは勿体ない。
 私は、早速今日行ってみませんか、と言ってトーストを二口齧った。彼女は目玉焼きの黄身をトーストの角で破っていた。顔を上げて頷き、その部分を食べた。パンのくずが唇の両端に付いていた。唇の大きさや厚さで、食べ物のくずが付きやすいとか付きにくいとか、違いはあるんだろうか。座っていると彼女は、幼く見えた。頭部の小ささに依るのだろうか。立っていると、化粧の有無に関わりなくそうは見えなかった。

 洗い物は私がした。
 その間に彼女は着替えを済ませ、その後で私も手早く身支度を整えた。電話が鳴って、彼女は靴を履き始めていた。ちょっと待って、と声をかけてから電話に出た。
「やあ」
「もしもし、どちら様でしょうか」聞くまでもなかった。
「今度は一回で出たな」
「間違えて出ただけです。ちゃんと見てたら出ません」
「そしたら出るまでかけるだけだよ、無駄だ、それに間違い電話なんてものはないんだよ」
「もっとはっきり喋って下さい」
「そしたら出るまでかけるだけだよ、無駄だ、それに間違い電話なんてものはないんだよ」抑揚は録音して再生したものよりも再現性が高く、それでいて泥土みたいにまとわりつく声音に変わった。
「いったい何の用があってかけてくるんですか」
「残念ながら、お前にはそれも関係がないんだな、前にも言ったように、ここではお前が知ってることも知らないことも関係がないんだ、お前が何を知りたいか、知りたくないか、知っていくか、忘れていくか、そういうのも無関係なんだ、そしてこれも前回言ったことだが、質問をするのにもそれなりの資格がいる、お前はそれを持たない」
「それじゃあ、私は」
「どうすればいいんですか?、前回も、すぐ前にも言ったように質問を」
「質問をするのにもそれ相応の資格がいるんですね、分かりました」怒気を強めた私の声に、玄関に座り込むシイノさんが心配そうに振り返った。
 長い時間、あはははははは、と笑ってから「そうだよ、分かってきたじゃないか、お前はただ聞けばいいんだよ」と言った。
「お前はこれから美草へ行くだろう?」私はもう返事をすることもやめた。
「それでいい、お前は美草へ行くだろう?、それを中止するんだ」
「これは決まったことでもあるし我々の希望でもある」
「正直なところ、お前を止める手立ては我々にはないんだよ、お前が電話に出なければ話をすることさえできないんだからな」
「しかしお前は出た、お前は電話を切らない、だから言ってるんだ、美草へは行くな」
「今回はそれだけだ、次も一」
 そこで私は電話を切った。首を回してほぐしてから玄関まで行って、シイノさんの肩に触れた。

 駅まで歩くあいだ、彼女は何も言わなかった。私はもう呆れていて、どうでも良かった。むしろすっきりとしていて、だからといって何と言えば彼女が納得するのかは考えつかなかった。
 彼女が暮らしていた場所は、三駅ずつ、二回の乗り換えで着く距離にあった。近いですね、と言った私の声は、私が意識していたよりも何となしに響き、彼女もそれで安心したのか、ね、と言った声は何も含んでいなかった。

 駅前はすぐに、商店が立ち並ぶ通りになっていて、その道の先で少し外れたところに彼女の住んでいたアパートはあった。三階建で白壁の眩しい建物だ。一つの階に五つの部屋があり、灰色の扉は無個性にきっちり並んでいる。彼女は、綺麗になってるけど懐かしいなあ、と言って道の端に立って見上げていた。
 階段を上がって三階まで上がり、真ん中の部屋の前の手すりから辺りを眺めた。遠くまで見えそうで見えない高さだった。そこで数分、話もせずに立ち、それから通りへ戻った。
 大抵のものは全てここで揃いそうだった。彼女は、ここここ、と言ってあちこちの店を覗いたり寄ったりして、駅まで戻るのに一時間ばかりかかった。私はシイノさんの後ろについて歩き、はしゃぐ彼女を見ているだけで満足だった。

 駅前にある煉瓦造りの喫茶店に入りホットコーヒーを二つ頼んだ。
 彼女がトイレに行っている間に、着信履歴から電話をかけ直してみた。おかけになった電話番号は現在使われておりません、とアナウンスされ、見返してみると出張中に出た番号とは違っていた。その番号も、当然使われていなかった。どこの誰がこんな手の込んだことをしているのだろう。

 シイノさんは、ユカコさんがいつもどんな風に過ごしてるのか知りたい、と言った。私たちはまた電車に乗り、七駅乗って乗り換えた。そこから二駅乗って、いつものデパートを二人で見て回った。
 まず屋上の喫煙所で煙草を吸い、祖母が言っていたことを話した。それなら、何か買って帰ろうよ、と彼女は言って、その表情はクリスマスや誕生日にプレゼントがもらえることを分かっている子どもみたいだった。
 ゲームコーナーには子どもたちがうじゃうじゃいて、その割には少ない数の親のような人が離れた位置に立っていた。立ち話の合間に子どもたちの様子を確かめ、子どもたちはゲームに夢中になっていた。絶叫とも思える声が至るところから聞こえてくる。私たちはそんな光景を微笑ましく見つめながら煙草を二本吸って、それから何か買うものを見ていった。

 私たちは旅先で使う無地のハンカチを買い、私はマスタード色のケトルを、シイノさんはモルタルみたいな質感のマグカップを買った。

 ピースのおばあさんがいる喫茶店の窓際の席に腰を下ろし、アイスコーヒーとオムライスを頼んだ。彼女は、私も今度からこうしよう、と言って紙袋を持ち上げ、綺麗だなあ、と窓の外を眺めて呟いた。
 雪がちらついた街は烟ってモノクロに見えた。私の目は相変わらず、遠近の感覚は以前と同じだった。慣れてしまえば、特にどうといったこともない。そういう種類の出来事と慣れ方だった。おばあさんは注文を取って、キッチンの若い男の人にそれを伝えてから、いつも通り煙草を吸っていた。全館禁煙の建物の中で、煙草が吸える状態で営業を続けるというのはどういった苦労があるのだろうか、とその、完成して固定された姿を見ながら思っていた。それは毎度思われることなのだが、今日も変わらず思われた。私たちも煙草に火をつけて、オムライスを持ち、夕食はどうしようかという話をした。
 作るのも食べに出るのも面倒だから何か頼もう、と話が落ち着いたあたりでオムライスが運ばれてきた。私はクリームソースで、シイノさんはたっぷりのケチャップ。卵はしっかりと焼かれ、中のケチャップライスは味の濃さの割りにぱらっとしていて食べやすい。

 彼女はほとんど息だけの小さな声で「なんかすごい美味しくない?」と言った。
「ですよね、なんか昔そういう特集、なんだっけ。本当に美味しい喫茶店みたいなので特集されてたくらいですし」私も同じような声で答え、クリームソースを絡めた部分を掬って彼女に食べさせた。ハーブやスパイスの類がかなり効いた、他ではあまり食べられないクリームソースで、シイノさんは、めちゃくちゃ美味しい、と言った。

 会計を済ませ、屋上で煙草を吸ってから帰り道についた。駅までに、本屋や雑貨屋を覗いてみたが特に惹かれるものはなかった。映画館にも寄って、スケジュール表や天井からぶら下がったモニターの予告編をしばらく見たが、やはり何も引っかからなかった。シイノさんは、まあいいじゃん、と言って私の背中をどんっと押した。私は勢いづいて小走りになり、振り返って、駆け寄る彼女を抱きとめた。

 最寄り駅から家までは歩くことにした。長短も勾配も様々な坂がそこら中で伸びている。彼女は、こりゃ昨日はタクシーで助かった、と言って、軽く息を切らしていた。どれだけ山を歩き回っていても、何故だが街中の坂道や階段はしんどかった。知らず知らず、山の中では考えられないようなペースになっているのか、アスファルトの上を歩くというのが体力を奪っていくのか、毎回疑問に思うが、調べようとは思わなかった。
「坂だらけだけど、結構歩くの好きなんだよね、この辺り」
「なんとなく分かるよ、落ち着く雰囲気だし、かといって住宅街って感じもしないし」
「そうなんですよ、しかも、なんか近くに海ありそうじゃないですか?」
「あ、確かに。坂上るたびに水平線見えそうなわくわく感があるね」
「ですよね、本当に、店も、コンビニくらいしかないし、何にもないんだけど、休みの日とか、夜ご飯食べた後とか、たまに歩きます」
「また夜の散歩連れてってよ」
「行きましょう」
 二人とも息を切らして歩いていた。すれ違う犬を連れた女の人は、訝しげに私たちへ視線を走らせた。犬は同じように息を切らす私たちに親近感が湧くのか、リードを力一杯引いて近寄ろうとしていた。
 街での雪は、いつの間にか降り始めているし、止んでいる。電車に乗るまでは降っていた雪も今では止んでいて、うっすらと青空さえ見える。高い声で鳴く鳥が何羽か頭上を通り過ぎていった。

 家に帰ってから、すぐに私たちはシャワーを浴び、パジャマに着替えて休みを満喫することにした。まだ陽が明るいうちからのんびりと各々で過ごしていた。シイノさんはだいたい本を読んでいて、私は家中の掃除をしていた。掃除機をかけてから粘着テープの付いたコロコロを持って歩き回った。冷凍庫に入れていた生ゴミと今朝のゴミをまとめ、口を開けたままキッチンの隅へ立てかけ、重曹を使ってシンクやコンロの周りを磨いた。
 あちこち動き回る私に気がつかないみたいに彼女は本を読むことに集中していた。昨日読んでいたのとは違っていた。厚くない単行本を、ソファの上で立てた膝に載せ、読みづらそうにしながらも読み続けていた。私は掃除の合間に、彼女の肩やつむじに口付けして、彼女が何か反応する前にその場を離れた。何度かそうしているうちに、彼女も気に留めなくなって、私も思い通りになったことでもっと気楽にしていった。
 掛け布団と毛布を引っ張り出して陽に当て、二人分の洗濯物を畳んでから取り込んだ。私も彼女も干すよりも乾燥機にかけた方が好きだったし、二人分なら大した量もなく、シワも少なかった。スチームかルームスプレーでもかけて伸ばせば気にもならない。
 小さなちりとりと箒で玄関やベランダの砂ぼこりや塵を掃き取った。小さなちりとりは何の違和感もないのだけど、箒は何故か、その機能はそれを使う場面で十全に発揮されているのに、間違ったもののように思えた。使うたびに、これで大丈夫かな、と思うのだけど、そんな危惧が具体的な形で降りかかってきたことはもちろんなかった。

 あらかた掃除を終えてキッチンから「コーヒー飲む?」と訊ねると、そっち行く、と聞こえ、わざわざ来なくてもいいのに、という思いが、そっちってどこだろう、と形を変えた。
 彼女は小さな箱を持ってキッチンまでやって来て、「今日買ったマグカップ、今使ってもいいの?」と言った。
「そんな厳密じゃなくてもいいんじゃない?、あんまり考えたことないです」
「じゃあ、使っちゃお、ユカコさんは?」
「それじゃあ私も」

 それぞれに持ってリビングへ行き、私はダインニングに、彼女はソファに座った。私はもう一度キッチンへ立ってクッキーを取ってきて、彼女の前のローテブルにそれを置いて椅子に戻った。
「ユカコさんは食べないの?」
「私はいいや、全部食べてもいいんで、シイノさん、好きに食べてください」
「じゃあお言葉に甘えて」そう言って彼女はやっぱり、淡い緑のメレンゲクッキーをいくつか口の中に入れた。
「何読んでるんですか?」
 傍らに置いてあった本を持ち上げて「愛情生活、荒木陽子さんって人の」と言った。
「ああ、いいですね」
「結構好き、装丁とか表紙の写真の色と同じような印象だなあ、暖かい色が淡く広がってく」
「うん、文章的には意外にさっぱりしてますよね」
「そうだよね、確かに、でも、何だろう色としては寒色が浮かびそうなのに、やっぱ暖色だな」
 コーヒーを一口飲んでからメレンゲクッキーを二つ食べ、うんうん唸りながら本を開いた。
 私はそんな彼女を見るともなしに見ながら、特にこれといって何かをしないままコーヒーを飲みつつぼんやりとしていた。窓の外にはいくつかのマンションと空しか見えない。雲はちょうど過ぎていったのか、青空が広がっている。アプリで確認すると、ここも美草も、しばらくは晴れているようだった。鳥も見えない空に、縁取られたように、合成されたようなマンションが見える。所々に洗濯物が干されているのが分かるが、何がかかっているのかまでは見えない。

 頬に当たる夕陽が温かかった。私はダイニングで、カギタニくんから送られてきたデータや資料に目を通していた。時間がかかりそうだったから、立ち上がって間接照明をつけに歩いて、戻り際にシイノさんの髪を撫でた。彼女はいつからか眠っていて、本は立てた膝と体の間に挟まっている。私は寝室から毛布を持ってきて彼女にかけ、コーヒーを淹れてから椅子に座った。
 少なくはない間違いを訂正して送り返し、植物図鑑を取ってきて資料と突き合わせた。アキちゃんは蘭科に強いのだけど、いつまでも簡単な木を見分けられなかった。私としては蘭科の判別の方が遥かに難易度が高いように思えるのだが、仕方がない。
 それから、二日後からの工程をあれこれ考えた。初めてちゃんと資料を見ると、かなり広範囲を二人で回らなくてはいけないようだった。そんなことはどうでも良かったが、うんざりだった。どれだけの回数、見たことのあるものを見かけるだろうか。私は、多くの思い出が美草のあちこちに結びついていることが、それを意識させられることが嫌だった。
 それでも二週間程度で終えられるだろう。それは単純に短いということでは良かったのだけど、直前の同期間の出張に比べて長く感じるだろうことは、もう決まったも同然だった。これが終われば外での仕事はしばらくない。なるべく気が楽になることを考えようとしたが、考えることは希望や幻想を現実に引っ張り込んでくることとほとんど同じ意味だった。私はそれを終えればしばらくシイノさんに会うことはできないし、毎日電車を乗り継いで会社へ行かなくてはならない。息抜きは限定的で、それでいて習慣化されていく。どうせなら、美草での二週間を楽しめばいいのだろうが、私は一体何をすればいいのか。シイノさんと二人でいれば、あの町でも心楽しく過ごすことができるだろうか。
 変な方向に首を曲げて眠るシイノさんに視線を移し、資料をまとめてパソコンを閉じた。静かに近くまで歩いてクッキーを何枚か手に載せて、椅子に戻り、コーヒーに浸してから食べた。

 シイノさんが起きたのは辺りが暗くなってからだった。
 私はカギタニくんとデータを送り合い、何とか調整を繰り返していた。再度調査に行くには時間も空いている社員もいなかった。デジカメの写真や書き込まれたものを手がかりに、何冊かの図鑑と二人の知識を持ち寄って擦り合わせた。私の頭の中では、なるべく優しい言葉ではっきりとアキちゃんに今後のことを伝えるには、どのような言葉が必要なのだろう、という考えで満たされ始めていた。
「おはよう」と聞こえて顔を上げると、そばに立ったシイノさんの上半身が見えた。心臓が一度どくっとしてから、わっ、と思い、わっ、と声が出た。
「集中してたね、ごめん」
「ううん、もう終わってます、あとは提出用のを確認するだけです」
「お疲れ様、ユカコさんのところは結構大変だね」
「まあ、これは急用ですし、普段はしっかり休みですよ」
「そっかそっか、私のところってまあまあ適当な人ばっかだからさ」
 彼女は、お腹空いた、と言って私の顔を見た。立ち上がって腰を鳴らして伸びをしてから、私も空いた気がする、と答えた。

 夕食はシイノさんの希望で寿司になった。別の店で温かい蕎麦二つと天ぷらの盛り合わせを一つ頼み、コンビニまでビールを買いに行った。
 ついでにイカの塩辛とピーナッツを買い、少しだけ急ぎ足で家に戻った。シイノさんはもちろんもう道を覚えていて、私の少し先を歩いていた。

 一人前ずつのお寿司をつまみながら、天ぷらを半分こして、吸い物のように蕎麦を食べた。テレビをつけていたけれど、二人とも見てはいなかった。思いの外お腹が空いていたらしく、私たちは黙って食事に集中していた。
 彼女はお寿司を手で食べた。ガリはお箸を持って食べ、天ぷらは何故かお箸を持っていても置いてから手で食べた。私は全部お箸で食べていたが、最後の一貫だけ、つられて手で食べた。

 買ったおつまみと、冷蔵庫にあったたくわんを刻んでクリームチーズと混ぜたのとクラッカーを持ってソファへ移動し、テレビを見ながらゆったりした。彼女はさっき洗った指先をしきりに嗅いでいた。

 次の日も、その次の日も、私たちは同じように過ごした。長い散歩に出かけ、早めにシャワーを浴びて出前を頼む。朝食はシイノさんが作ってくれた。キノコとチーズの入ったオムレツや完璧なポーチドエッグ。彼女は卵料理が好きで、得意だったようだ。本を読んだり、ベランダで煙草を吸ったり、家にあるDVDを流し見したり、なるだけ長く時間を感じていたかった。
 届いたコンテナケースの中身を整理し、ザックは浴室で軽く洗ってから洗濯機へ放り込んだ。そういえば、と彼女用の小容量のザックを出してきて、一時停止を押して一緒に洗った。二つ並んだザックを見ていると、ただ登山旅行へ行くような気がしてきた。
 夜には私たちは毎日お寿司を食べた。お吸い物を作って、三つ葉を散らしたり、可愛い柄が描かれた麩を浮かべたりした。私は出汁をとったり、それをベースに味を決めていくのが好きだった。最終日にゴミをまとめ、二人で回収場まで歩いた。シイノさんはついて行くと言ってきかなかった。外では雪が風に吹かれて強く降り落ちていた。彼女は傘をさして、もう片方の腕で私の肩を抱えた。なるべく体が小さくなるよう、体の前でゴミ袋を両手で持って歩いた。
 帰ってから空き缶をまとめて、口をきつく縛ってベランダに出した。そのまま二人で煙草を吸い、お風呂だけ浸かろう、というシイノさんについて湯船に湯を貯めた。
 体が温かいうちに布団に潜り込み、抱き合って眠った。彼女の柔らかさは私とは違っていた。どこまでも柔らかいように思えた。骨とは別に、私の体はすぐに芯のようなものにぶつかるが、彼女の体はそうではなかった。いつでも、どこまでも柔らかで、それでいて張りがあった。

 久々に感じるザックの重みは、気を引き締めてくれた。私たちは手早く用意を済ませてトーストだけを食べて家を出た。彼女は名残惜しそうに部屋中に触れていた。私は、また来てください、と言って、いつでも、と付け足した。ザックを背負って仕事の気分へ切り替わっていなければ泣いていたかもしれない。幼い頃、たまに会う親戚と別れる時に泣いたことを思い出した。彼女は目を細めて私を見て、うん、と言った。

 三時間近く新幹線に乗り、そこからは車に乗ることになる。私たちは駅で飲み物だけを買って喫煙所へ行き、扉の前の、見えるところにザックを置いて中に入った。

 車窓から見える景色は、もう何度見たか分からないが、もうとっくに飽きていた。あまりに飽きて、むしろ何か見落としていないか目を凝らす、というような時期も抜けていた。それでも窓に顔を寄せて外を眺めていた。シイノさんは『愛情生活』を読み進め、私は『城』を太腿の上に置いていた。だんだんと読んでいられる時間が短くなっていた。彼女よりも読み進んではいたが、それももうそろそろ終わりそうだった。
 特急に乗り換える駅を過ぎ、見慣れない景色が続いたが、似たようなものだった。シイノさんは、こっち側来るの初めて、と言った。私は、二度目です、と言った。
「旅行で?」
「いえ、美草、今日から行く場所ですけど、生まれ育った場所なんです」
「あ、そうなの、というかヨシクサって読むんだ、ミソウとかビソウだと思ってた」
「そっか、私は違和感ないけど、確かに、ちょっと変な読み方ですね」
「うん、楽しみだなあ」
「何にもないですよ、本当に何もないです」
「別にいいよ、私が住んでるところだって何もないし、ただユカコさんがいた場所ってことで楽しみ」
「シイノさん、そういうの好きですね」
「そうだねえ、小学生の頃にね、仲良かった友達が初めて家に来て、一つずつ部屋を紹介していったら笑われたもん、よく分かんないって顔してたなあ」
「私もなんとなく分かりますけど、シイノさんの実家、見ただけでうわあって思ったし。でもシイノさんほどじゃないな」
「少なくとも、小学生の頃に部屋を見せて回ったりはしない、と」
「そうですね」私は少しだけ、これから美草へ行くことが重荷ではなくなっていた。これで最後なんだから、あれこれとシイノさんに思い出話でもしよう、とさえ思い始めていた。

 二人で喫煙所へ行き、席へ戻るときにちょうど出会した車内販売のお姉さんからコーヒーとサンドイッチを買った。
『城』が全然読み進めないことを伝えると、小さな声でしばらく笑ってから、だよね、と言った。
「でも結構読んだよね」
「そうですね、残り二章なんですけど、何故か進まないです」
「今度その続きから朗読してあげるよ」
「いいかもしれないですねそれ、懐かしいなあ」
「ね、今になって割とあの習慣っていいなって思う」
「強制的に読まされるのが嫌でしたけど、口に出して読むのって悪くないですよね」
「そうそう、たまに、家で読み上げたりするよ私」
「読みづらい本とかですか?
「そう、何かここ読めないなあ、ってところ」
「なるほど」
「案外、なんだそんなことかって、すうって意味が分かることが多い」
「耳で聞くと分かるってことなんですかね」
「うん、声に出して読むってよりはそれを聞くことの方が重要なのかもね」

 シイノさんが本を読んでいるあいだ、前回と同じように『Rocky Laccoon』を聴いていた。幼い頃はロッキー・ラクーンという小さな町の歌だと思っていた。海の上に浮かんだ町で、町というよりは大きな集落といった方が正しい、物静かな人たちが慎ましく実際的に生きている。人々はそれぞれに船を持っていて、買い物の大半は陸地まで行って済ませた。週に一度は町の周りや通りを行商の船が巡るのだけど、人々は陸地での時間や船を漕ぐことに楽しみを見出していた。家々に比べると大きな教会が一つだけあって、週末には町中の人たちがそこに集まるのだ。教会というよりは集会場としての役割を担っていた。人々は一応礼拝を欠かさない。しかしそれは週に一度の集まりに応じて、といったところだった。家はどれも簡素な、ほとんど箱と言ってしまっても良いものだ。屋根は緩く傾斜のついた一枚板で、陸地から見て右側が持ち上がっている。内装も木訥な農夫のようにシンプルだった。小さなな水場と寝台、唯一特徴的なのは、開いた先に床のない扉だけだ。そこには船が浮かんでいる。海上の人々にとって神様は、いるとすればあくまでもラディカルな姿形で、何かが通じる存在だとは考えていなかった。人々は海に、感謝していた。それで充分だった。神様は、単に必要とされていないだけだ。子どもたちは器用に、浮き橋を走り回っている。家と家とは太いロープで繋がっていて、中には板を渡さない家もあった。そこに住む誰かは他者との交流を避けていた。誰かが死んだときには、その家にある一番立派な船に亡骸を寝かせて海へ流した。陸地で買った色鮮やかな花々や、乾燥させた魚や肉、酒や小さな楽器、アザラシか何かの皮を鞣したもの、そんなものたちと一緒に、そのとき町で最も優秀な漁師が小舟で沖合まで引っ張って行く。積まれた物は死者への手向けというよりは海への贈り物だった。ここでは誰もがそうやって死んでいった。彼らは一時間と離れていない陸地に住む人々とは違った言語を持ち、違った宗教観や死生観を持っていた。生まれてすぐ、赤ん坊は海へ沈められる。何というかそれは、自らが生活する空間へのお披露目に近い行動だった。ひとつよろしくお願いします、ということだ。陸に住む人々は彼らのことを、半分は海洋生物だと考えていた。少なくとも心底で信用はしていなかった。互いに、あらゆる意味合いで距離を取り、利害の一致する点だけで関わり合った。子どもたちは、本当に小さな頃から海で泳ぎ、十二歳になるあたりから泳がなくなる。それからは船に乗るのだ。その町ではっきりと漁師ではない男の人は三人しかいない。一人は年老いた元漁師で、あとの二人は赤ん坊だった。残りの男の人はみな漁師かそれに準ずる者だ。女の人や幼い子どもは舫いを修繕したり、渡し板を補強したり、船で買い物へ出たり、そんなふうだった。一軒だけある何でも屋のような店も、占い師も、居酒屋のような店も、材木屋も、どこもかしこも何もかも女の人が営んでいた。数人の漁師もいたが、彼女たちは変わり者だと思われている。ある程度の年齢になると、人々は船を作る。自分のためでもあるし、一族のためでもあった。その年一番の船を決める催しでの勝者は、翌年からのその家の繁栄を約束されたようなものだった。明日からここはお前の場所だ、というようなことはなく、半ば無意識的に彼らは、優先して良い漁場に漕ぎ出すことを許可される。美しく実用的な船をつくれる者は少なかった。何人かがその催しの優勝者を順繰りになっているだけだ。しかし人々は年に一度の宴に熱狂する。至るところで好き勝手に楽器が演奏され、その音は陸地にまで届いた。あらゆる家の先で何かが売られているし、人々は太くはない渡し板の上をすれすれで行き交っていた。子どもたちの内の何人かは板から海へ、海から板へと移動した。大人たちにとって海はもう泳ぐ場所ではなかった。海を抜ける子どもたちは、大人たちには鬱陶しそうにされ、他の子どもたちには羨ましく思われた。町でつくられた楽器には、弦楽器はなかった。どれもこれも打楽器か管楽器で、弦を張った楽器は陸地から持ち込まれた数点しかない。町の人たちにとって楽器は、船よりも身近なものだった。あまりの身近さに競うこともなかった。既にそこにあるもののように捉えられていた。一人で船に乗れない子どもでも、あらゆる楽器を演奏できた。上手く演奏できることは当たり前だという意識すらなかった。誰もが自身の楽器を持っている。一つの船に数人が乗り込んで漁場へ向かう場合でも、それぞれの船に一人ずつ乗る場合でも、誰もが楽器と煙草を欠かさなかった。彼らは町を遠く離れた海上で数日寝泊りするあいだ、眠りに就くまでの短な時間、それぞれの家に伝わる曲を演奏した。一様に、静かにその音楽に耳を澄ませる。細波が船にぶつかる音や、煙草のちりちりと燃える音、揺れて軋む船板の音以外、誰も何も発しない。黙って演奏に聞き入っている。聴く者も演奏する者も、みな誇らしげで、若い漁師はそこに少しばかりの照れを見せた。漁の最中に死んだ者は生まれ変わって魚になると考えられていた。老衰や病気で死ぬ者は海になる。漁師たちはみんな死に様を語り合ったが、結局、魚になるでも、海になるでも、海で死にさえすれば何だって良かった。もちろん、陸地での生活へ憧れる者や、実際にそこで生活を始める者もいた。移住者は煙たがられたが、町と陸地を結ぶ貴重な人間だという認識も確かに持たれたいた。逆に、陸地から町へ住み始める者はほとんどいなかった。数年に一度、漁師になるために住み込んで働く若者がいるくらいで、そういった人たちも時期が来れば陸地へ帰っていった。町には伝承というものがほとんどなかった。あるのは音楽くらいで、伝説や神話の類は既に失われかけている。それに、あまりに小さなコミュニティであるにも関わらず一貫性がなかった。我々の先祖は陸地を追放された一族だとか、巨大な人喰い鮫を殺した褒美として海上の家を与えられたとか、何世代か前までは人々は船に乗らずに泳いで漁をしていただとか、そんな具合に、どれもが子どもの耳を引く程度のものでしかない。私はロッキー・ラクーンで、小さな本屋をしようとよく考えていた。漁師たちは楽器と煙草に本を加え、月光の下、明日の英気を養うよう、その日の昂りを鎮めるため、その紙の束を開く。朝陽を避けるために顔に乗せて眠り、急激な覚醒を免れる。幾度もの漁の間にようやく一冊の本が読み終えられる。シイノさんは何をするだろう。何となく、船をつくっている姿が思い浮かぶ。上手く自分で船を拵えることのできない者は、シイノさんの元へやって来るのだ。
 新幹線はいつの間にか海の見える場所を通っていた。私は窓に顔を向け、海上の家がないか目を凝らしたが、当然そんなものは見えなかった。大型の船すら浮かんではいない。ただどこまでも、薄く積もった雪が見えるだけだ。

 彼女は俯いて眠っている。『愛情生活』はどこかに仕舞われ、足の間で指が組まれていた。さっと前を通り抜けて、煙草を吸いに行った。
 煙草に火をつけてから、降りる駅まで十分もないことに気が付いた。一人で美草について考えていると、シイノさんと話していたときのような前向きな気分にはならなかった。感情や思いは完全に断たれていた。そう感じていたことは思い出せるのだが、それだけだった。窓の外にある三センチくらいの海を眺め、何も考えないように煙草を吸うことに集中した。紙や葉が燃える音を聞いた。細く吸い込まれた煙が、口の中に流れた途端に膨らみ、体の奥へと渦を巻いて消えていく様を想像した。肺に到達した煙はじわじわと薄くなっていく。血液は有害な物質を体中に隈なく運び出し、私の意識は冴えていった。

 席に戻ってシイノさを起こし、荷物を下に降ろしておいた。
「もうすぐ?」
「はい、あと五分もないです」
「そっか」と言って彼女はどこかへ行き、一緒に買ったハンカチで手を拭きながら、時間ぎりぎりに戻ってきた。

 ザックを背負って電車を降り、まばらな人のあいだを通って、改札へ向かう階段を下りた。一段ずつ肩に食い込んでくる重みに、その度に気持ちが仕事へシフトしていった。シイノさんも、単に荷物が重いのかもしれないが、いつもより表情や印象が固く見えた。唐突なあまりの寒さに、二人とも軽く震えていた。改札を出て横にずれ、ザックからマフラーを取り出した。彼女は手袋をつけ、ダウンジャケットのジップを首元まできっちり上げた。
 雪は降っていなかったけれど、くるぶしを超える高さでびっしりと積もっている。ほとんどの人がブーツを履いてしっかりとした足取りで静かに歩いていた。

 駅からすぐそこにある店で予約されていたマツダのCX-3に乗り込み、ナビを設定して出発した。
「結局今日はどうしようか」
「そうですねえ、寒すぎるんで移動日でもいいっちゃいいんですけど、今日しなかったら最終日にそこだけやって帰る感じですね」
「やっちゃう?」
「うん、うん、そうですね、しましょう。かなり楽そうなところでしたし」
「これからずっとこんなに寒いのかあ」
「山に入っちゃえば歩いてるうちに暑くなるんですけどね」
「ね、散歩が辛いよ」
「こんなところでも歩くんですか?」
「いや、まだ分かんない、仕事でこの時期にこんな雪のあるところに来るの初めてだもん」
「歩くなら付き合います」
「ありがとうね、でも、流石に部屋に籠るかも」
「仕方ないですね」
 スタッドレスタイヤの四駆ではあれど、何年ぶりかの雪の中での運転は恐ろしかった。まだ路面の凍った部分はほとんどなかったけれどそれでも、リラックスして運転できる時間はないに等しかった。

 宿までは駅から三時間の場所にあり、それは距離のせいというよりも、山を一つ超えることでかかる時間が大半を占めていた。私が住んでいた頃の美草は、町の北側からしか出入りができなかった。今ではどの方角からも自由に出たり入ったりできるようだ。東西の道はかなりしっかりとした幹線道路であるように見える。北側からの唯一だった道も、地図やナビの画面で見る限り、ずいぶん拡張されている。私たちが通る南東寄りの道路は、駅から真っ直ぐ伸びたあと、峠へ繋がる道へ合流した。
 無い方がましにも思えるほどぐねぐねと連なる道を上り続け、ちょうど頂点に立つ頃に地点の近くに出た。少し下った道の膨らみに車を停め、出来得る限り車の中で色んな作業を済ませた。私もシイノさんもまだ寒さに慣れず、小さく震えて歯がかちかちと鳴っていた。

 山に入っても、初めのうちはただ下り続けていたために寒いままだった。地点を歩き回って用紙にあれこれ書き込み、切り株や倒木の状態をチェックし、書き加えていった。それでも体は温まらず、下ってきた斜面をハイペースで登り切ってようやく少し熱を感じる程度だった。体中の筋肉も固く縮こまり、無駄に体力を消費する。むしろかなりハードな地点の方が楽に動けそうだった。 

 小走りで車まで行って急いで中に逃げ込んだ。暖房を最大でつけて体を震わせ、着替えを始めるまで時間がかかった。こんな場所で服を脱ぐなんて考えられなかった。

 ホテルまでにあった二つの道の駅は、どちらも閑散としていたし、記憶にあるよりも数段粗雑な造りだった。どこの誰が買うのか分からない土産物が並び、地元の小学生や中学生が描いた絵や作文が貼り出されていた。私はまず寒さでフィジカルに衝撃を受けたからか、想像していたよりも、美草に来ることで起こる精神的な乱れをほとんど感じなかった。覚えているもの、知っているものを目にしても、何も思わなかった。シイノさんが何かを手に取って、これは?、と訊ね「これはそこら中に生えてるんで、特産品として、私が中学生くらいの頃に出てきたお菓子ですね」とか何とか答えることも、何も特別なことは思わなかった。

 十六時前に宿に着き、チェックインを済ませた。エレベーターに乗って三階まで上がり、部屋の前で別れようとしたけれど、結局は一つの部屋に入った。荷物を置いてからシイノさんは枕とバスタオルだけを取ってきて、机の前の椅子に腰掛けた。

 一地点分のデータをまとめている途中で、迷惑じゃないかな?、と彼女は言った。私は何のことかが分からず、彼女の顔とパソコンの画面を交互に見ていた。
 何も答えられずにいるともう一度「迷惑じゃないかな?」と言って小さく首を傾げた。
「何も、迷惑じゃないですよ、むしろいてくれないと、もう落ち着かないです」やっと意味を理解した私はそう言って、彼女がいつもそうするように笑おうとしたが上手くはいかなかった。
 シイノさんは、ありがとう、と言ってパソコンでの作業に戻った。戻ってからもしばらく消えない笑顔を見ていると、励まされるような気持ちが湧いてきた。彼女が何かを思ったり感じたりする限り、私はどこか、ここでも、よそでも、どこにでもいていいような気がした。

 三十分ほどで仕事を終えてカギタニくんに送ったあと、少し前に済んでいたシイノさんと散歩に出た。手袋とマフラーをして服を着込み、なるべく隙間がないように、見えない部分は全部パンツに入れた。上着を着る前に互いに、あまりのだささに写真を撮り、指をさして笑っていた。

 地元と呼ぶには実家から離れているがそれでも、大抵どこの道にも、少し目立つ建物にも、見覚えや懐かしさがあった。シイノさんは私が反応したものや、反応したことにすぐに気が付いて、それは?、とか、これは?、とか逐一訊ねた。
「近くに神社があるんですけど、そこがゴールになってる、なんか、町を知ろうみたいな行事があったんです。低学年くらいのときかな」
「どれくらい離れてるの?」
「五キロくらいですかね、今考えても長いですよね」
「長いね、楽しかった?」
「寒かったことと長いなーって思ったことくらいしか覚えてないです、道もそんなに覚えてないし、そこの味噌蔵だけ何か見たことあるなって、班になって行ったんですけど、誰がいたかも」
「じゃあ、その神社、ちょっと見に行ってみようよ」
「おもしろいところでもないですよ」
「いいよ」
 朽ちかけていた石製の鳥居は笠木にあたる部分が落ちてそばに横たわり、妙に太く見える二本の柱だけが残されていた。その柱にしても左右で長さが違っていて、断面というのか、抉れたように凸凹した面には十五センチほど雪が積もっていた。鳥居がないだけで神社は神社に見えなかった。うらぶれた空き地でしかない。小綺麗な対の狛犬とぼろ屋のような手水舎のコントラストも惨めさを助長している。シイノさんは、もはやこんなの見たことないよ、と軽やかに笑っていた。この場所を手入れしようとする人がもう町には残っていないのだろう。幼い頃には、鳥居が朽ちかけていただけで、それだって町に修復に回す財源がないだけで、近所の誰かが手の届く範囲で何とか維持しようとしていた。

 広くはない境内を一通り歩き、敷地の中と認められるのか、はずれの方にある池を眺めた。大ぶりな鯉が五、六匹泳いでいる。どれも薄めた墨汁のような色合いの鱗をもち、曇天の下で見ると燻っているみたいだった。餌が売ってる訳もなく、誰かが定期的に餌を与えに来ているのか。湖面が凍る頃にはどこかへ運ばれるのか、そのまま氷漬けにされるのだろうか。

 裏手の小径を抜け、古い住宅街を歩いた。
 所々で営業している商店は、昔と同じように数少なかった。荒物屋と毛糸やボタンを扱う店だけだ。歩いている人もいないし、車も通らない。私たちは手を繋いで歩き、適当に角を曲がったり、異様に狭い路地を通ってみたりしていた。それくらいしかすることがなかった。

 ふっと、道幅の広い短かな商店街に出た。そういえばここの駄菓子屋に自転車で来たことがある、と思い出したのはその店の前を過ぎてからで、私たちは寒さから適当な喫茶店で体を温めようとしていた。
 商店街の端、の少し先に店はあり、開いているのか閉まっているのかが分からない。シイノさんは扉に手をかけ、開く扉と同じくらいの速度でこちらを振り返った。鈴の音と彼女につられて店内へ入り、通りに面した四人がけの席へ腰を下ろした。古びたストーブが店内を隅まで暖めていた。上部の網にはやかんがのっていて、ゆらゆらと蒸気が流れ出ている。
 意外に若い、と言っても六十代くらいではある男の人がどこからかやって来て、いらっしゃい、と言った。私たちは黙ったまま会釈をしてメニューを受け取った。
 ホットのオレを頼み、運ばれてくる頃に電話がかかってきた。私には見るまでもなく、誰からの着信かが分かっていた。少し失礼します、と言って店を出てから確認すると、非通知設定になっていた。
「もしもし」
「美草にいるだろう」以前に比べると、何を言っているのか聞き取りづらいほど声が嗄れていた。
「仕事ですから」
「もう助けてやれないぞ」
「私にはあなたが、あなたたちでしたっけ?、あなたたちが何を言いたいのか分かりません」
「こうして電話してるのは、規則違反なんだ
「規則?」
「これからアドバイスをいくつかお前にしてやる、メモはあるか?」
「ないです」
「それなら覚えろ、よく聞けよ、忘れてたとか、思い出したとか、そういうのはなしだ」
「なしだって言われても」
「町の反対側へは行くな、誰とも話すな、何も食べるな」
「無理ですね、反対側ってのがどこかは知りませんけど、仕事の範囲は全域ですし、もうホテルの方と話してますし、今からコーヒー飲んで、夜にはきっと何か食べます、アドバイスするならもっと具体的なことを言ってください」
 しばらく沈黙があり「お前らがガガ山と呼ぶ山があるだろう、そこを超えるな。そこへも行くな。そのホテルの奴は大丈夫だよ、喫茶店の奴とは話すなよ、この町で生まれ育った人間と話さなければそれでいい。食べ物も同じようなもんだ、どこでも手に入るものを食べるんだ」
「ここで作られたものを食べなければいいってことですね」
「そうだよ、お前はだんだん物分かりが良くなってきて助かるよ」
「その三つを守らないとどうなるんですか」
「そんなことは知らなくていい、知ったところで何も変わりはしない。シイノミヤにもこのことを伝えろ、これが最後の電話になることもあるだろう」
 今度は私が黙りこむ番だった。理解するふりだけでもしていよう、と思っていたが、シイノさんの名前が出てくるのなら話は別だった。
「どうして知ってるんですか」
「お前は賢いのか馬鹿なのか分からないな。お前が今喫茶店にいることを知っているのに、ホテルのフロントマンと話したことを知っているのに、どうしてシイノミヤは知らないと思うんだ?、むしろ聞きたいよ」
「誰に頼まれたいたずらなんですか」
「いたずらでないことはお前ももう分かってるだろう、電源を切っても無駄だぞ、お前が出るまで、いつまでだってかけ続ける、店の電話にも、シイノミヤの携帯にも、お前たちが泊まる宿のフロントにも、どこにでも、とにかく鳴ったら出ろ。お前のた」
 電話を切ってから深く息を吸い込んだ。冷気が一気に体中に満ちた。そうだ、私はもうこれがいたずらでないことは分かっていた。だからと言ってどうすればいいのだろう。

 店へ戻り、大丈夫?、と言うシイノさんに笑いかけたが無理だった。私は手短にこれまでのことを話した。
「全然意味が分かんないんだけど、忠告してくれてるんだよね」
「すみません。そう、みたいですね一応」
「ううん。それに、私にも伝えろ、と」
「はい、はっきりそう言ってました」
「どうしようか」
「そうですね」
「誰かと話さないことと何も食べないことは簡単だよね、ちょっと、申し訳ない場面がたくさんありそうだけど」
「そうですね、それはまあ比較的簡単だと思います」
「問題は、ガガ山ってところには行くの?」
「二地点はぴったりガガ山で、三地点か四地点は超えてると思います」
「そっか」彼女はぬるくなったカフェオレを一口啜り、煙草をくわえてじっと何かを考えていた。私は電話の相手が誰なのかを考えていた。心当たりはもちろんないし、私には三回の電話がどれも違った人に思えていた。声の質やトーンは同じなのだが、その具合やリズムに類似点がなかった。電話の内容を伝えたい誰かがいて、その都度新しい人を使っているようだった。これからの電話も、これまでの三回とは違った人からかかってくるような、誰も一度も重なることがないような、そんな気がした。
「その五地点か六地点、飛ばそうよ」いつの間にか火をつけて煙を吐いたシイノさんはそう言って、何かを憐むように微笑んだ。それは恐らく、私たちの現実的な未来だった。大抵の場合、地点を飛ばすことは、明確な理由があったとしても、私たちの評価をはっきりと下げる。結局のところ何事も起こらずとも肌感覚からして立ち入りたくない場所も、土砂崩れが頻発していそうな危険な場所も、かなり新しい熊のフンが点在している場所も、その他あらゆる地点での調査を、むしろ進み入るための理由をでっち上げてまで、遂行しなければいけないくらいだった。そうしなければ次年度からの仕事が取りづらくなるし、それは私たちのようにフリーでない場合、会社全体の問題になるということだった。彼女は、それを踏まえた上で言っていたし、そうなると私が断る理由など、個人の内では一欠片も見当たらない。
「幸い、地点が集中してるから、積雪を理由に、それほど会社に迷惑もかからないんじゃないかな」彼女は、何も言い出さない私に向かって、洞穴の奥で身を潜める野生動物へ声をかけるように優しく言った。
 知らない間に俯いていた顔を上げ「私は正直、それでも、迷惑がかかってもかからなくてもどちらでもいいんです。もちろん、かからなければかからない方がいいし、そうするために努力します、だけど、もう、そんなことをしたら何か、終わっちゃう気がして、しかも、たかだか電話で、誰かも分からない人からの意味の分からない電話で」と言った。私の声はうわずっていた。
「でも、もう半年くらいになるんでしょう?、ユカコさんもいたずらとは思えなくなってきてるって、私も、今聞いたばっかりだけど、そうは思えないよ。仮にいたずらだったとしても、何の意味もないようなものではないんじゃない?、その、アドバイスを無視して、そうすると何が起こるのかは分からないけどさ」
 店の中はやけに静かだった。誰もいない。やかんの蓋がぱかぱか鳴る音と、蒸気が漏れる苦しげな鼾のような音だけで、あとは何の音もなかった。くすんだ窓からは通りが薄い黄土色に見えた。相変わらず誰も歩いていないし、風に流された木の葉一枚すらない。
「そうですね、うん。本当に、すみません」とだけ言うのに長い沈黙を必要とした。
「雪がめちゃくちゃ降ることを願っとこう、なるべく嘘の割合が少なくなるように」彼女は楽しそうに笑って、私の肩に触れた。

 宿までの道々、私たちは雪を投げ合いながら歩いていた。寒さは、私たちがこれ以上何かを思い煩うことを肉体的に止めた。商店街を通り抜けてから、シイノさんは屈んで雪を丸め、私の頭に投げた。ぼそっといって崩れ、私もその場にしゃがみ込んで雪玉をつくった。私が体を落とすのと同時に彼女は走り出し、こっちを向いて、さあ来い、と言った。唇の左端だけで笑うシイノさんは、雪合戦が始まったことを忘れるくらい町から浮いて見えた。しばらく見惚れているうちに、いつの丸めたのか、ふんわりとした雪玉が顔に当たった。
 スピードはないのに的確に当ててくるせいで、私はどんどん真っ白になっていた。シイノさんは身軽そうに避けている。五回に一回くらいしか当たらなかった。このーとか、おりゃーとか、何とか言いながら雪を丸めては投げ、反響する二人の声を聞くと余計にうきうきと雪合戦にのめりこんでいった。

 汗だくになった体の火照りを落ち着かせようと、暖房をかけたまま出た部屋へは戻らず、シイノさんが泊まるはずだった部屋のベッドに寝転んだ。火のついていない煙草をくわえ、天井のしみを一つずつ見るくらいしか、することはなかった。子供の頃、自然に近くにあった遊びは、大人になってからの方が楽しかった。そのほとんどが、思い出せないくらい久しぶりに興じる、その割りに以前よりうんと上手く遊べる、という二点に支えられていた。それにしてもシイノさんは上手だったな、と思い返していると、知らず知らずくっくっと笑えてきた。
 彼女は手を頭の上に挙げて眠っていた。じっと耳から鼻にかけてを見つめ、何となく、今だ、と思ったタイミングで起き上がって眼鏡をそっと取った。音を立てずにサイドテーブルに置いて、窓枠に座って町を見下ろした。こんな高い建物はなかった。せいぜい十階程度の建物だけど、以前は町全体で市役所が、縦にも横にも、最も大きな建造物だった。その次に博物館があって、あとはまちまちだが、道の駅だろうか。

 私は連絡先を開いて、一方的に知っている電話番号やメールアドレスを見ていった。そのどれもが、今でも使われているのか、私には分からない。二人の妹や両親、何人かの友人とモリイチ、高校時代のバイト先、見慣れた数字の羅列や英数字の連なりに、感慨のようなものはなかった。試しにモリイチの電話番号にタップしてみたが使われていなかった。私は少からぬショックを受けたが、私自身がもっと前に彼らに対して行ったことでしかなかったし、彼らには変更時点で知らせる術すらないのだから、同じことではなかった。
 そのままシホに電話をかけ、ごく短い期間で聞き慣れたアナウンスに耳を澄ました。それからアサギにかけ、彼女は不用心にもワンコールで出た。
「もしもし」
「久しぶり」
 数秒の沈黙、幼いアサギが私のスカートの裾を掴んで離さなかった頃を思い出した。
「姉ちゃん?」
「急にごめんね、元気?」
 さっきよりも短い静寂、彼女は怒っている様子はなかった。ただ呆れているだけだろう。
「うん、シホが怒ってたよ」
 私は一番下の妹とは仲が良くなかった。それは彼女が物心ついた頃から、私が町を出るまでそうだった。歳が離れているからか口喧嘩すらしたことはないが、こっちの方は歳の差は関係がないように思うのだけど、何かが通じるような瞬間も、一度もなかった。
「シホは、うん、そうだろうね。二人とも美草にいるの?」
「私は引っ越したよ、結婚して、子どもも二人いるし」
「そっか、おめでとう」
「姉ちゃんは?、元気、というか、大丈夫?」
「うん、仕事でこっちに来たから」
 訊くと、アサギは私の住んでいる場所から数駅のところに住んでいた。そう知ると、会わなかった時間が膨張していくような気がした。「今度会いに来てよ、子どもに」と彼女は言って、唐突に電話を切った。

 シイノさんは寝返りをうって背中を向けた。
 雪が降りだしている。少しでも風が吹くと、ふわふわと上昇していくような柔らかく軽い雪だ。車の往来が増えている。夕陽がシイノさんの背中を赤みの強い橙色で染めている。照らされた雪の粒も、その小さな結晶の中心部が鮮やかに色付いていた。透明な膜に包まれたオレンジの球体に見えるものが窓の外で舞っている。遠く連なる山々の、ここからちょうど真ん中に見えるガガ山の、その背後にすっかり陽が落ちるまで、飽きることなくその光景を眺めていた。
 久々に見る本格的な雪景色は、悪くないな、と思えるほど私から遠く離れていた。そこに含まれていた私から、私が考えていたよりもとっくに、計れないほどの距離があった。いつだったか、まだ小さなアサギが転んで泣いていた公園も、彼女と上った物見台も、祖母の家も、そこに遊びにやって来た猫たちも、モリイチが寝ていた博物館も、実際に経た時間よりも、どれだけも隔たれている。
 山の後ろから滲み出た光のみで、ほとんど真っ暗になった部屋の中、濃淡の影に覆われたシイノさんの顔をぼんやりと見ていた。彼女は仰向けになって、ガッツポーズみたいに手を投げ出している。濃い方の影は、私の投影だった。見えれば見るほど、一体何にこれほど強く惹かれているのかが分からなくなった。何もかもが好きだとも思えたし、どれもこれも嫌いではないし好きでもないようにも見えた。それでも、分からなくなっていても、どの部分にも引きつけられて目を離せなかった。視線はそれぞれの部分と輪郭を行ったり来たりした。

 光が届かなくなってから彼女を起こし、何か買いに行きましょう、と声をかけた。彼女は目を擦ってから眼鏡を探し、サイドテーブルからそれを見つけた。

 この寒さの中、歩いて行ける距離に店はなかった。
 外よりも寒い車の中で震えながらエンジンをかけ、のろのろと走り出した。夕方から夜にかけて急激に下がった気温のせいか、路面の雪は昼間よりも固く締まった箇所が増えていた。両手でしっかりとステアリングを握り、いつもより前傾姿勢で辺りを見やった。ラジオを流し、適度に気が抜けるようにいつもより少しだけ音量を上げた。

 しょっちゅう来ていたスーパーは改装されて面影もなかった。駐車場はいつも何故かいっぱいで、時間帯を間違えると道路の脇で伸びた列に加わることになる。今度は、目の前で空いたスペースに滑り込むように車を入れ、駆け足で店内へ入った。
 私たちはしばらく惣菜コーナーの辺りを見ていたが「これは駄目なんじゃない?」とシイノさんは言った。
 それから店内をうろうろと歩き回り、食べたい物が見つからないままカップ麺を買うことにした。二人ともシーフードを手に取り、おにぎりくらい食べたいね、と生産地を見ていると、一体私たちは何をしてるんだろう、という気になった。シイノさんは結構ラフに楽しんでいるようにも見えたが、私は少しだけ苛々していた。美草に工場があるのかは知らないが、仮にあったとして、そこで作られたコンビニの商品はセーフなのかどうか。きっと大丈夫なのだろう。しかし確かなことはほとんど何も分からなかった。
 レジの店員と話しそうになり、シイノさんが私の肘に触れた。言葉を飲み込んで頷き、首を降ったりまた頷いたりして、カゴを持って荷台へ寄った。

 車に戻ってからシイノさんは小さく吹き出して、「ユカコさん、めちゃくちゃ危なかったよ」と言った。
「シイノさん楽しんでますね」
「うん、なんか、ミッションみたいでいいじゃん」
「気をつけないと」
「うん、私も注意して見ておくよ」歯を見せずに笑って、私も気を付けなきゃ、と言い足した。
 それに、私は長くここを離れていたが、ここで生まれて育っていた。シイノさんは私と話してはいけないのだろうか。もちろん、そんなことなら電話で伝えるだろうが、そんなふうに、厳密になればいいのか、その必要もないのか、それもいまいち分からない。電話越しの声音や話の断定の仕方からすると、私たちがアドバイスを無視することで起こる何かは、私たちに大きな影響を与えそうだったし、ルールはきっちりと守った方がいいように思える。しかし、その曖昧な態度や言葉の選び方からすると、どれもこれも適当にしていても、何も大きな問題へは発展しないようにも思えた。

 小さなケトルで湯を沸かした。シイノさんは、お先にどうぞー、と言っておにぎりにを一口で半分くらい食べた。そういえば彼女はいつも食べるのが早かったけれど、一口ってそんなに大きいんだ、と思っていると湯が吹きこぼれた。
 三分待っている間に彼女の方の湯が湧いて、食べ終わったのはシイノさんの方が先だった。彼女は窓際に椅子を持っていき、本を読みつつ時々、目を休めるように外の景色を見つめた。雪は降っていないが、街灯のあたりはけぶっているように見えた。

 彼女が本を読んでいる間にシャワーを浴びて、薄手のパジャマに着替えた。
 私が部屋に戻ると、言ってよー、と言いながら浴室へ入っていった。置かれたままの椅子に座って、煙草をくわえてから吸うのをやめた。ベッドに入って『城』の同じ段落を何度も読みつつ、彼女を待った。小さな鼻歌が壁の向こうから聞こえる。何日か前にCMかどこかで聞いたことのあるメロディだったが、ずっと昔にも同じような場面で聞いたことがあるような気がした。少し長いタイトルの、真ん中だけが思い出されていた。

 彼女が上がってから歯を磨き、ベッドの中でぼんやりと今日を思い返していた。
 ガガ山というのは、この町のどの世代の人も口にする愛称で、私は正確な名前を未だに知らない。その言葉は初め、祖母の声で聞いた憶えがある。「ガガ山へは一人で行っちゃいけないよ」
「ガガヤマ?」と幼い私は言って、頭の上の祖母の顔を見た。縁側に座る祖母の足の上に座っていた。まだアサギもシホもいなかった頃だ。私は毎週末になると祖母の家に預けられた。買ってもらった小さなジョウロで草木に水をやり、同じようにまだ小さな野良猫たちに餌をあげた。当時はミミタレとミミの他に、ゴマシオとクルミと呼んでいた猫もいた。もう名前を忘れてしまったのや、名前も付けていない猫もたくさんいた。祖父は朝早くからどこかへ出かけて、夕方になる前に戻ってきた。私は祖母に出汁の取り方や野菜の処理の仕方を教わり、簡単な料理ならうんと小さな頃から作れるようになっていた。和物だとか漬物だとか、そんなところだ。
「お山さんだよ、ガガ、山」
「どうして一人で行っちゃ駄目なの?」
「ガガ山にはね、傷付いた神様がたくさん休みに来てるんだよ』
「傷付いたって?」
「うーん、疲れちゃったってことかなあ、ユカコちゃんもたくさん遊んだ日は、ふーってなるでしょう?」
「なるー」
「それで、神様はガガ山のあちこちで休んでるの」
「じゃあ一緒に遊んであげる」
「それは、ユカコちゃんは優しいねえ、でも神様は本当に本当に疲れて、少しでも休みたいんだよ。それにこんな元気なユカコちゃんが遊びに行ったら食べられちゃうかもしれないよ」
「やだー、どうして食べちゃうの?」
「ユカコちゃんも、おじいちゃんもおばあちゃんも毎日ご飯食べてるでしょう?」
「うん」
「美味しいのやあんまり好きじゃなないのや、お魚やお野菜、お肉だって何だって食べるでしょう?」
「お肉好き」
「うんうん、今度はすき焼きでも食べようね」
「やったー、覚えててねー」
 祖母はそこでしばらく黙って「神様も色んなものを食べてるの、だから、一人で行っちゃ駄目だからね、約束できるなら来週はすき焼きにしましょう」と言った。
「約束するー」私は言い付けも約束も守って、今に至るまでガガ山には行かなかった。モリイチと町中を巡った時でさえ、近付きもしなかった。彼は、そんなん迷信やろ、と言った。
「ユカコが一緒に行かんのやったら、俺一人やん、それはええの?」彼は私を試すように笑って、それから真顔になって目を見つめた。
「名前」私も彼の目を見返し、「それなら行かなきゃいいじゃん、そこだけ行かないからってどうにもならないよ」
「そんなんやったら意味ないやん、それなら、あそこは畑しかないしやめとこ、あっこは田んぼしかないしやめとこって、これ自体の意味がのうなるやろ」
「だから、初めから意味ないって言ってるじゃん、そもそも意味なんてないよ」
「例外はなしや」
「それじゃあ、お好きにどうぞ」
 彼にしては珍しく、明らかに焦っていた。私はストーブの前の椅子に座り、彼はカウンター下の作り付けの机の上でトランプを組み上げていた。その年の冬はよく雪が降った。私たちはアルミホイルでみかんを包んでストーブの上に置き、その待ち時間に話していたのだった。珍しく、と思ったがそれは間違いで、私は彼が焦っているのを見るのは、出会った六歳から十年間で初めてのことだった。
「近くまではついて行くよ」と言って飛び出したアルミホイルの端を開き、みかんの様子を見た。
 五段くらいになっていたトランプに息を吹きかけて崩し「よっしゃ」と言って回転椅子の向きを変えた。
 シイノさんは暖房を調整してから裸のままでベッドに入ってきた。ひんやりしていて、抱き締めると温かかった。
 しばらくそうして、彼女は「読んであげるよ」と言った。私は彼女の顔を見てから手を離し、『城』を渡した。
「ここまでも読めたことないなあ、『Kはいささかあっけにとられたような顔つきでその場に立ちつくしていた。オルガは、それを笑って、彼をストーヴのそばの長椅子のところへ引っばっていった。彼女は、こうしてKとふたりきりで腰をかけていられることがうれしくて、ほんとうに幸福そうに見えた。しかも、それは、平和な幸福であって、たしかに、嫉妬の影にくもらされてはいなかった。Kは、こうして嫉妬からまぬがれ、手き』」私の意識はそこで途絶えた。

 陽が昇っていない時間に目が覚めた。シイノさんは眼鏡をかけたまま丸まって眠っていて、本はしっかりとサイドテーブルに置かれていた。水気のある夜の暗さが部屋の中で揺らいでいる。手を動かせば、明るくなったり暗くなったりしそうだ。そっとベッドを抜け出し、窓辺へ寄った。月は見えなかったけれど、外はまだ月光で照らされていた。ちかちかと明滅する街灯のシェードにも雪が積もっている。車の上にも、嵌め込まれた窓の向こうの細い枠にも、町中の至る所に雪が積もっている。どこもかしこも、最後に見たときよりも数センチは高くなっているようだった。このまま降り続いてくれれば、ガガ山の辺りの地点を飛ばすのは簡単だろう。しかし、それが簡単になればなるほど、他の地点での調査や作業はすべからく困難になることを意味する。
 冬になれば雪が降るというのは、町を出るまでは疑いようのない摂理の一つだった。もっと単純に、吸い込めば体の中がぴりぴりと痛むような寒さになれば、いつ雪が降ってもおかしくはなかった。町はいつも静かだった。固く短い音以外は雪に吸い込まれていった。あらゆることにかかる時間が延びる。毎日一時間ほど歩いて学校へ行き、帰ってくると雪かきをしてから、バイトまでの時間をモリイチと過ごした。大抵の場合彼は、家の前まで迎えに来てくれた。自分で編んだという、三人でも何とか巻けそうくらい長大なマフラーは、何度見ても笑えた。どこも均一な網目でしっかりとしているのだけど、目の下辺りまで覆われ、肩幅以上に膨らんでいるのを見るとおかしかった。「半分で切って、ちょちょっと編み直せないの?」と言ってみたが、「この暖かさを知っても、おんなじこと言えるか?」と、手早く解いたマフラーを私の首にぐるぐると巻いていった。彼が巻いている時には垂れた両端は肩甲骨にかかる程度だったが、私の場合は腰を少し過ぎた辺りまで垂れた。その日は別れるまでそのままで、確かに、とてつもなく暖かかった。熱はどこへも逃げていかないし、どんどん生まれていく。博物館でのバイトは、冬の間はほとんどが休みだった。そういった時期、月に一回か二回か、それくらいしか実際に学校へ行く必要のない彼は、よく私のバイト先へ顔を出した。よく、というのは七日間のうちで六日か七日訪れるという意味だ。
 高校と家の中間に、『VONT』という割と大きな喫茶店があって、私はそこで三年間働いていた。朝は八時から、夜の二十三時まで営業している、この辺りでは考えられない店だった。カウンター八席と二人席が三つ、三つの角に四人がけのせきがある。店主の夫妻は、私をユカちゃんと呼んで可愛がってくれた。入学式の日に面接へ行って、卒業式の日に辞めた。
 土日は朝からほとんど暇もないくらい忙しいのだけど、平日は身震いがするほど暇だった。五日間は毎日十七時から二十二時まで働いて、二十三時まで勉強をするか遊びにきたモリイチと話す。大体は彼と話すことになった。それまでの暇な時間に、課題やら何やらは済んでいることの方が多かった。
 シラキ夫妻は「暇な時間は好きにしててよ、何か思いついたら降りてくるから」と言って二階の自宅へ篭り、三年間でそのようなことがあったのは数えられる程度しかなかった。平日はユミさんと二人になることが多かった。そういうときジュンさんは二階にいて、棚を作ったりブレンドを組み直したりしているらしい。私はどちらと働くのも好きだった。だから休日は、何か別のことをする暇がなくとも出来る限り店にいたかった。ジュンさんは店に降りてきているとき、たいてい隅の席で分厚い本を読みながらコーヒーを飲んでいる。そんな姿をカウンターの内側から見ていると、お客さんにしか見えなかったし、実際、何か用があってこちら側に来るとき、え、と思うことが多々あった。
 モリイチは朝も夜もカレーライスとホットのセットを頼み、コーヒーを何杯かおかわりした。ユミさんもジュンさんもモリイチを気に入って、試作段階のデザートや料理を食べさせていた。モリイチは、ジュンさんの席とは対角に位置する席に座った。窓際の席で、本を読んだり何かを書くのに疲れると、背もたれに肘をのせて外を眺めていた。降っている雪と積もった雪か、積もった雪だけしか見えないはずだが、彼は熱心に何かを見つめ続けていた。ただぼんやりと、そこにある雪すら見ていないような、焦点がどこにも合っていないような、そういった視線ではなかった。私はお皿やカトラリーを磨いたり、自分が飲む用にコーヒーを淹れたり、課題に向けた集中が途切れたりすると、そんな彼を見ていた。何かを呟いているように見えることもあった。唇が小さく震え、形作られている。
 私が仕事を終えて向かいの席に座ると、彼は顔を上げるか向けるかしてにこっと笑い「お疲れさん」と言った。そのときのモリイチの笑顔は、父親や母親が私に向けるものよりも、厚くて優しいものだった。知らないうちに強張っていた部分が柔らかく力を抜いていく。私は唇の内側を噛んで一瞬だけ目を逸らし、ありがとう、と言った。毎日繰り返されているはずなのに、私はその、あれこれ切り盛りしていた時間からモリイチとの時間へ移行していくその瞬間に慣れなかった。いつもに比べて穏やか過ぎたし、あまりの強度に心配になった。いつかモリイチの中の、その笑顔をつくり出す何かがぽっきりと、そのあと、粉々になってしまうんじゃないかと思った。
 ちらっと振り返ると、シイノさんは同じ体勢のまま反対側を向いていた。丸まった背中は焼成前のパン生地のようにつるつるしている。陰影の加減で、捻れてはいけない方向に捻れているようにも見えた。

 稜線が、白色や赤色の混ざった濃いとも淡いとも言える橙色に輝いている。数分も経たないうちに太陽が現れ、光が一直線に部屋の壁に伸びた。カーテンをぴったりと合わせ、アラームを確認してから、シイノさんを後ろから抱いて瞼を閉じた。
 眠りは私の体を落下させた。球状に浮かんでいるゼリーのような、水のような何かへ私は入り込み、その衝撃で対流が起こった。私の体は突き上げられるように弓形に浮かび、再びゆらゆらと落ちる前に真っ暗になった。

 アラームの音を聞いたような気もするが、シイノさんの声で目が覚めた。
 買っておいた菓子パンを食べ、インスタントコーヒーを分け合い、荷物を適当にまとめた。
「明日からは二泊か三泊か、同じところだよね」
「そうですね、三泊です」
「それ以降で、泊まるところ見てたんだけど、数が少ないからどうしようかなって」
「ああ、そうですね、移動で多少時間かかっても連泊でいいと思います、というか地点近くで考えると一つか二つくらいしかないですよね?」
「うん、仕方ないけど、大変そうだね」
「連泊の気楽さを楽しみましょう」

 フロントガラスに積もった雪を払い、デフロスターが効くまで車内で抱き合って震えていた。思えば私は、住んでいた頃も妹たちや両親に比べて極端に寒がっていた。転校生のモリイチの方が寒さには強かった。シイノさんの体はすぐに熱を帯び始め、私の体はいつまでも冷えたままだった。
「今日は二地点、よろしくお願いします」
「うん、雪結構すごいけど道から近そうだね」
「そうですね」
 いつもより二十分ばかり遅く出発し、大した距離でもないのに時間がかかった。私たち以外の車は普段と変わらないスピードで走っていたし、大半の道は、びくびくする必要もないのは分かっていたが、本格的な雪道での運転に慣れなかった。いくつものカーブや下り道は冷や汗をかかせたし、早く少しでも慣れておかないと、山道があるんだぞ、ということにも嫌な汗が流れた。

 のろのろと林道を上り、駐車位置に着いたのは昼前だった。想定していた倍くらいの時間が過ぎていた。
 さくっと着替えを済ませて山に入り、荒れた作業道をひたすら歩いた。冬の山の静けさは記憶に残っていなかった。これだけ広い空間が成立するために必要な音が足りないような気がして、間違った場所に来たんじゃないかと落ち着かなかった。歩くごとに、それまでいた場所から切り離されていくようだった。
 スノーブーツのおかげで、普段と大して変わらないペースで歩くことはできた。多少地図の読み取りづらさは増すが、まだまだ問題はなかったし、シイノさんはわざわざそんなことを考える段階でもないように見える。
 いくつか鹿や猪の足跡を見つけ、写真を撮った。記入することを頭の中に留めながら歩き、何本かの倒木を避け、数分の藪漕ぎの後、地点に着いた。二手に分かれて円形に指示された範囲を歩いた。
 靴底に張り付いた雪が踏みしめられ、数歩ごとに歩く感触が変わった。意図的にも無意識的にも高く膝が上がり、体力を消耗していく。シイノさんの気配を感じなくなる瞬間がいつもより早く訪れ、前後感覚も距離感もすぐになくなった。数十歩後ろにある杭まで、地図を見ずに戻ることも難しそうだ。三メートル四方の地点を適当に選び、そこに積もった雪をかき分けた。植生をチェックして書き込み、足跡を辿って戻った。
 シイノさんは、立ち枯れかけた太いホオノキにもたれて煙草を吸っていた。私は少し駆け足で杭まで戻り、車まで戻らずにこのままここの道に合流しましょう、と地図を指差しながら言った。

 車に戻ったのは十四時を少し過ぎたあたりだった。
 温かさを逃さないよう、しばらくは着替えずに運転した。シイノさんは青盤に合わせて歌っていた。話し声よりも優しいけれど乾いた声が心地好かった。発音の良さについて訊ねると、小学生の頃あちこち引っ越してたからね、と答えた。シイノさんの父親は、輸入食品を扱う商社に勤めていたらしい。その関係で彼女は六年間の間に五回も引っ越し、どこでも英語さえ話せれば特段の不自由はなかった。中学一年からこっちの学校へ通うようになった。今では読み書きは、何故だか、一般的なレベルかもしくはそれ以下になっているらしい。会話や発話に関しては、しばらく続けているとほとんど問題のない状態まで戻るということだった。
「頭で覚えてることと、どこでだか分かんないけど、ま、体で覚えてることの違いなのかな」
「どうなんでしょう、別の言語を真剣に勉強したことってないからなあ」
「話したりすることだけは、ほんの少しずつ元に戻るというか、昔くらいになるまでの時間がかかるようになってきてるけど、一定の水準から下には行かないんだよね」
「読み書きは、こっちに来たてくらいの頃は得意だったんですか?」
「うん、めっちゃ得意、というか普通にすらすら、でもよく考えてみたら長い文を読んだり書いたりしたことよりも圧倒的に、比べられないくらい話す時間の方がたくさんあったね」
「単純に通過した量の問題なんですかね」
 転校してきてからのシイノさんは、一ヶ月ほどはクラスの人気者だった。それからだんだん、彼女もそこにいた子供たちも、互いに距離を置くようになった。はっきりとした理由はもちろん何もなかった。彼女はそれについて、悲しく思ったような気もするけど、と言っていた。彼女は日本語をもっとしっかり勉強するために図書館へ通い、本を読むことにのめり込んで言った。学校の授業は、彼女にとっては簡単過ぎた。保健室か図書室で多くの時間を過ごし、卒業すると二人の先生以外に思い出せる人はほとんどいなかった。高校生になると彼女は電車に乗って通学することになり「そこでどれだけ読んだか分かんないな」と、最良の思い出を話し聞かせるみたいに言った。

 五日目、チェックインの時間ちょうどに宿に到着した私たちは疲れ果てていた。ついさっきまでの地点の厳しさがその原因の大半を占めていたが、二人とも体がまだ雪山に順応していなかった。
 部屋に入って荷物を下ろし、そのままベッドに倒れ込んだ。二人とも、あーとか、疲れたーとか言って仰向けになったりうつ伏せになったりを繰り返していた。目が回ったように、疲労が体の中を巡っている。油を差していない機械を無理に動かしたみたいで、あらゆる関節部が軋んでいる。
 二時間ばかり、起き上がろうとも思えないままだらだらと過ごしていた。ほとんど話しもしなかった。瞼を閉じて、何かが過ぎ去っていくのをじっと待った。先に起き上がったのはシイノさんで、「コンビニ行くけど何かいる?」と、割りに軽やかな声音で言った。上半身だけを起こして首を鳴らしたり、指を組んで背中をゆっくり伸ばしたりした。私も行きます、と言って立ち上がり、そうすると意外にも体は楽になっていた。

 歩いて五分ほどのコンビニで夕食や明日以降の軽い食べ物やら飲み物やらを買い込み、部屋に置いてから少し歩くことにした。
 昨日から雪は止んでいて、緩くなった積雪が至る所で崩れていた。通っていた高校の前を通り過ぎ、それから思い出した。校舎や体育館が改装されていたせいで分からなかった。どちらも真新しく、溶けた雪の反射で輝いていた。大きくなっているはずだが、辺りに積み上がった雪のせいだろうか、縮こまっているようにも見えた。

 学生時代の話を聞きたがったシイノさんにあれこれ話していると、不意にバイト先の喫茶店の前に出た。私は自然に立ち止まった。記憶に残っていない路地を歩いていて、急にあまりにもよく知っている場所へ出ると、若返ったような、年老いたような、そんな気がした。
「これ?」と彼女は言って、奇しくも、と返すと「行こうよ」と手を取って歩き出した。
 外観や内装に大きく変わったところはなかった。オーブンが新調され、いくつか棚が増えているくらいだ。ジュンさんはすぐに私が気が付いたようで、あ、と言ってから店の奥へ行ってしまった。私たちは四人がけの席に挟まれた、窓際の二人席に座った。ちょうど私の方から、モリイチが座っていた角の席が見える。今は私たちの他には誰もいなくて、そこにももちろん誰も座っていなかった。
 ジュンさんはユミさんを連れて来て、二人の間には小さな男の子がいた。
 立ち上がって二人の顔を見て「お久しぶりです」と言った。
「びっくりしたよ」ジュンさんは一切表情を崩さずにそう言って、「ユミとソウ」と二人を見やった。
「覚えてますよもちろん、ソウくん初めまして、フクヤユカコです」
 ユミさんは淡く笑っていて、男の子の肩に触れて、何て言うの?、と促した。
「シラキソウです、四歳になっています」と彼は言って、その言い方にジュンさん以外の三人は軽い緊張が砕けたように顔をほころばせた。ジュンさんは相変わらず表情が読めない。あ、と言ったときだって、そう言っただけで何を思っていたのかは分からなかった。
 二人を残して彼はキッチンへ入り、どうする?、と声をかけてくれた。ユミさんは、ゆっくりしてってね、と言ってソウくんを連れていった。さっとメニューを見て、カレーとホットのセットを二つ頼んだ。
「ここで働いてたんだね、ユカコさん」
「うん、高校の三年間だけですけど」
「入学式の日に来て、卒業式の日に辞めてったよね」ジュンさんは口角を上げて言ったけれど、笑ってもいないし、だからといって腹を立てたりしているわけでもなかった。カレーを温めている間に、コーヒーを淹れる準備をしていた。
「その節は、すみません」
「いやいや、君はいつもはっきりしてて気持ちよかったよ」
「ありがとうございます」
「ユカコさんは昔から今のユカコさんに近かったんだね」シイノさんがそう言うと、ジュンさんはドリッパーに向けていた視線を彼女に向けた。今、そこにいることに気が付いたみたいに彼女をしばらく見てから、私の方を向いて、それから視線を元に戻した。
「君は、ユカちゃんが仲良かったモリイチって子に似てるよ」彼はサーバーに落ちていく抽出液を見ながら言った。
「そうですか?、そうかな?」シイノさんは広い場所に出た小動物みたいに顔を左右に振った。私は、確かに、彼女を見ているとモリイチを思い出すことがあったが、何がどう似ているかということは相変わらず分からなかった。
「うん、何となくね。もちろん見た目が似てるわけじゃないし、モリイチは関西弁で話してたしね、何だろうな、君もモリイチも、見てると不思議な気持ちになるよ」
「不思議な気持ちですか」
 大ぶりのマグにコーヒーを注ぎ「そこにいたりいなかったり、そう見えるな、今はいる」そう言いながら、私たちのテーブルにそれを置いて戻った。
「どういう意味だろう?」シイノさんは私の目を見ながら小さな声で言った
「気にしなくていいですよ、ジュンさん、昔からあんな感じです」私も声を抑えてそう言って、働き始めて間もない頃に突然「出てくときには店の何かやるよ」と言われたことや、初めてモリイチが店へ来たときに「二人はなるべく離れない方がいいよ」と言ったことを思い出していた。
 運ばれてきたカレーは、私が働いていた頃よりも格段に美味しくなっていた。使われているスパイスの種類にはそれほどの差があるようには思えなかったが、それぞれの質や使い方をずいぶん変えたのだろう。当時の私は、これ以上美味しくすることは不可能だと思っていたし、実際にそんなふうなこと言ったこともあった。ジュンさんは「いや、まだ上はあるよ、今はこれが限界だけど」と言っていたが、まさにその通りだった。二人とも驚いたような顔を見合わせ、美味しいね、と言い合った。ジュンさんはキッチンとカウンターの隣の、馴染んだ隅の席で本を読み出していた。私はその光景の変わらなさに、無意識にシイノさんの肩越しに奥の席を見ていた。

 食べ終えてから、大福とコーヒーのセットを頼んだ。
 ジュンさんは「これ、めちゃくちゃ美味いよ」と言って、小さな大福が二つずつのった小皿と薄口のグラスに入れたコーヒーを静かに置いた。元の席に戻って本を開くのを見届けて、黒文字の菓子楊枝を手に取った。ふっくらとした大福は、それぞれ粒餡とこし餡が包まれていた。粒餡は餅が薄く、それでいて歯応えがはっきりとしている。ぱつっ噛み切れて、それは餡の中の薄皮の食感に近い。こし餡はそれとは逆に少し厚めの餅で包まれていて、穏やかな甘さだった。ほとんど舌触りだけの印象から徐々に甘みが立ち上がり、ピークを迎えるのと飲み込むまでの時間が大体同じで、後味は長めに残った。さっぱりとしているが濃く出されたコーヒーとよく合う。カレーもそうだったけれど、セットである意味がよく分かる。私たちはしばらく何も話さないでコーヒーと大福の組み合わせを味わった。

 帰り際、シイノさんが先に店を出て私も続こうと、彼女の手を離れて緩やかに閉じていく扉に触れるか触れまいかのあたりでジュンさんに声をかけられた。私は振り返り、背後で扉が閉まる音と「え?」と言ったのが同時で、改めて「すみません、聞こえなかったです」と言った。
「これは、前にも言ったけど、二人はなるべく離れない方がいいよ」と彼は言って、「モリイチよりもそう思うな」と付け足した。
「ジュンさんにはいつも何が見えてるんですか?」
「別に何も」
「気を付けます」と私は言って、店を出た。
 シイノさんは、また来ようよ、と言って腕を組んできた。私は「そっか、連泊ですもんね」と言って、歩き出した。

 私たちは翌日を全休にして、朝から祖母の家や実家を見て回った。どちらも外から眺めただけだったけれど、ほとんど何一つ変わっていなかった。シイノさんは、寄ってかないの?、と言ったが、私が短く「はい」と答えると何も言わずに何度か頷いた。
 久々に朝から晴れ渡っていた。所々に雲は浮かんでいるものの、どのような気配もないただの真っ白な雲だったし、何もない青空よりもかえって清々しく見えた。私たちはわりと薄着で車に乗り込み、あてもなく適当に流していた。見たところどこも何一つ変わっていなくて、精巧な模型を眺めているような気分になっていった。どこへも降りずにいたからかもしれないが、それにしたってあまりに代わり映えがない。

 結局は建設されたダムを見るために、スーパーの駐車場でナビを入れて、そのあいだにシイノさんは飲み物を買いに行った。どのような利益がもたらされたのかは知る由もないが、多くの人を直接的にも関節的にも巻き込んで行われたデモもには何の意味もなかったわけだ。私はそこで、何一つ違和感を抱かないまま喫茶店で食事を摂ったことを思い出した。それに、ジュンさんとユミさんはまだしも、ソウくんと言葉を交わしたのは駄目だったのではないか。

 お菓子や飲み物で膨らんだ袋を持って歩くシイノさんがフロントガラスの向こうに見える。彼女は何かに気付いてジーンズのヒップポケットに手をやり、iPhoneを耳にあてた。すぐに視線は私に向けられ、私は誰からの電話か知った。
 後部座席に荷物を置いてから助手席に乗り込んだシイノさんからiPhoneを受け取り、もしもし、と言った。
「お前らの馬鹿さには驚くよ、本当に、これは貶してるわけじゃない、純粋に感動するくらい驚いてるよ」声は少し前の電話よりもクリアに響いた。
「それはどうも」
「忘れてたとか、思い出したとか、そういうのはなしだって言っただろう」
「そうですね、それは、すみません」
「いや、謝罪はいらないよ、ただ残念なだけだよ」
「私たちはどうなるんですか?」
 しばらくの沈黙があり、嗄れた声が聞こえてきた。いつも通り、電話の向こうから伝わる音は、その誰かの声だけだった。それ以外どんな音も、気配もない。どちらかが声を発するたびに電話が繋がり直しているみたいだった。
「もう何もしてやれることはない、答えられることもないし、残念だ」
「あなたたちは誰なんですか」
「我々について語れることは一切ない。シイノミヤに代われ」
 私はシイノさんにiPhoneを返した。彼女は目配せしてから、もしもし、と言った。
「はい」、「はい」、「はい」、「でも」、「いえ」、「はい」と続き、私に回ってきた。
「今、シイノミヤにも伝えたが、これからお前たちは、この場所を移動してもらう」
「どういうことですか」
「彼女の方が聞き分けがいいな。これは最後の電話になる、お前たちを逃してやると言ってるんだ」
「何かあなたにリスクがあるんですね?」
「そうだな、でも、それはお前たちの問題ではない。ただ言うことを聞けばいい」誰かは長いあいだ何も言わず、それから小さな声でそう言った。
「でも」
「とにかく聞け」
「分かりました」
「お前たちは今日中にここを出ろ、とにかく出ればいい、お前たちがここですることはそれだけだ、シンプルだろ?」
「私たちが出来ることはそれだけってことですね」
「そうだ、そして、お前は二度とここへ来るな」
「それから?」
「シイノミヤを家まで送って、彼女との一切の関わりを捨てろ、デパートで買ったものを捨て、連絡先を消して、お前は携帯を変える、それからなるべく思い出さないよう、徐々に記憶から消していくんだ」
「嫌です」
「お前になら出来る、お前は珍しいんだ」
「珍しい?」
「普通、人は何も忘れたりはしないんだ」
「そのことならさっき」
「いや、そんなことを言ってるんじゃない、あれはただの度忘れだ。そういうことじゃないんだ、もっと根本的なことだよ」
「よく意味が分からないです」
「例えば、誰かに何年何月何日のことを思い出せ、と言ってすらすら思い出せる奴は、たくさんはいないだろう」
「はい」
「でも、それは忘れているわけではないんだよ」
「ただ引き出せないってことですか」
「そう、つまり、馬鹿みたいに広い空間のあちこちに大小様々な収納があって、人はそこから記憶や思い出とかいったものを引っ張ってくるんだが、それがどの辺りにあったか、そこが分かったとしてどこへ仕舞い込んだか、どうやって開けるのか、ここの鍵はどこだったか、忘れているのはそこだけなんだ」
「そのものがなくなるわけじゃないんですね」
「そうだ、そしてお前が珍しいのは、お前はそういったものを完全になくせるんだよ、しっかり、さっぱり消えてなくなってるんだ」
「仮にあなたの話が正しいとして、それと、どんな違いがあるんですか」
「まあ、まず、それらを思い出す機会を失うということだな。多くの人は、忘れるはずがないと思ったものでも、引き出してこれなくなることがあるが、それはまたいつか引き出してこられるかもしれない。自転車での走り方を思い出せなくても、乗りさえすれば自然と走り出せる」
「他には」
「言っただろう、お前が忘れると、それは、跡形もなく消えてなくなるんだよ」
「よく分かんないですけど、私はそれが意識的にできるんですね」
「そうだ、ある意味で誇れるほど珍しいよ、そんなにたくさんはそう出来る奴はいない」
「でも、どうすればいいか分からないです、本当にそう出来るかも」
「出来る。呼吸みたいなもんだよ、意識し過ぎると上手くできない、流れに乗るとほとんど無意識に、何の問題もなく続いていくだろう」
「ここを出ていくのは、ひとまず、分かりました。ここに二度と来るなっていうのも」
「ああ」
「でもそれ以外には従えません」
「お前たちが間違えたんだろう、もう仕方のないことなんだ」
「まだどうにか出来るかもしれないから電話してきたんでしょう」
 長い沈黙があった。ホワイトノイズのようなものさえ聞こえない。耳から離して画面をタップし、切られていないことを確認した。シイノさんは私の顔を見つめているが、見ているというよりは目を向けているだけだった。
「分かった」
「何ですか」
「シイノミヤをここに残していけ、どうなるかは知らん」
「どれくらいの期間ですか」
「さあな、でも今日中に決めろ、それだけは動かせない」
 私が何か言う前に電話は切れた。
「どうだった?」
「シイノさんは何を言われたんですか?」
「今日中にここを出ろって、それと」
「私に忘れられる、ってことですね」
「うん、お前も努力しろって」
「それを拒否したら、シイノさんが一人でここに残れとのことでした、どれくらいの時間かは分かりません」
「私はそれでいいよ」
「この電話を信用しますか?」
「それは、何とも言えない。でも無視するには真剣過ぎるというか」
「そうですね」
「ユカコさんは?」
「私は、ここに残って今まで通り仕事します、一人でも、シイノさんは、送ります。今日中に」
「それじゃあ、私も残るよ」
「何がどうなるのか、全く分からないですよ」
「うん」
「他には、何て言われたんですか」
「忘れられることは、お前のためじゃなくてユカコさんのためだって」
 電話の主は初めから、私だけを何かから逃れさせようとしているのか、私たちを分断しようとしていた。二人でここを出て私がシイノさんを忘れるのも、同じことだ。電話の後で私たちが話し合い、その結果としてシイノさんがここに一人で残る、なんてことにならないのをよく分かっていた。だからこそ一度目は私の口からシイノさんに伝えさせたのだろう。
「大丈夫?」
「昨日、ジュンさんにも言われたんです」
「ジュンさんに?」
「二人はなるべく離れない方がいいよって、モリイチよりもそう思うなって、なるべくっていうのが今あてはめられるのか分かんないですけど、電話の向こうの誰だかを信用するよりは、ジュンさんを信じてます」

 私たちは二人とも携帯の電源を切っておくことにした。そもそも誰からも連絡などないし、会社とのやり取りはパソコンで事足りる。宿へ電話をかけ、これからどのような連絡があっても部屋に繋がないで欲しい、というようなことを伝え、それから電源を切った。
 そうすると私たちは、ガガ山の地点をどうするべきか分からなくなった。どうせ忠告を無視するならば済ませておきたかったけれど、気分の問題でしかなかった。無視するならガガ山へ行かなくては気持ち悪い、行かないつもりで数日過ごして今更面倒だ、そもそもの初めからガガ山へは行きたくない、そんな程度だった。
 話し合うまでもなく、ガガ山や近辺の地点は当初の予定通りこなすことにして、ダムへ向かって車を走らせた。思えば、美草のダムを見るのは初めてだった。ここへ来て建設されたことを知ったくらいだから当然なのだけど、見落としていたものを確認しに行くみたいだった。
 どの道もがらがらだった。私はもう思い煩うこともなく、妙に昂っていた。初めから全て気にも留めないでおけば良かったのだ。シイノさんはバター醤油味のポップコーンを食べながらスプライトを飲んでいた。私は何粒かもらってスプライトを一口飲ませてもらった。彼女はまだ少し考え込んでいるようにも見えた。
「よく分かんないのに、何かを伝えようとしてる熱意とか意思とかだけを感じるのって、あてられますね」
「うん、確かに、頭とか体とかちょっとぼんやりしてる」
「何が起こるでも起こらないでも、二人でいましょう」
 シイノさんはしばらく私の横顔を見つめ、大きな声で、うん、と言った。私は声量に驚いて少し体をびくつかせ、それから笑い出した。

 ダムまでの峠道は異様な狭さだったけれど、整備だけは行き届いていた。ガードレールも待避所も過不足なく配置されているし、カーブミラーや路面の状態も良かった。雪がなければもっと運転しやすいのだろう。シイノさんは崖下に流れる川を眺めていた。こんな澄んでる川初めて見たよ、と何度か言って、私も見たくてそわそわしていた。

 展望台になっている場所にはぱらぱらと人がいた。三脚を立てて写真を撮る男の人と、男女の二人組。車は私たちのを入れて四台で、二人組はそれぞれ別の車で訪れているのだろうか、二人は端に停めてあった真っ赤な車に乗り込んで、峠を下っていった。
 私たちは記念撮影をして、各々好きに過ごした。私は離れたところで煙草を吸いながら彼女を眺め、シイノさんは写真を撮ったり風景を見たり、三十分くらいはのんびりと楽しんだ。黒っぽい巨大なダムは、その大きさのせいか、間違ったもののようには思えなかった。あのとき、デモの先頭にいたおじいさんは今どうしているのだろう。一度くらいはダムを眺めに来ただろうか。
 写真を撮り終えたのか、五十代くらいの男の人は三脚を畳んでリュックに入れた。ちらっとシイノさんと私を見て、車まで歩いていった。後部座席にリュックを放り投げ、運転席に乗り込んでドアを閉めてからすぐ、外へ出て私のところまで歩いてきた。
「フクヤさんのところの」と言いながら近づいてきた。
 見覚えはなかったが「そうです」と言うと、やっぱり、と表情を崩した。
「フジノです、昔お母さんとお父さんにお世話になった」
「フジノ、ああ、何となく、覚えてます」シイノさんは柵にもたれて私たちを見ていた。
「そうですか、ユカコさん、でしたよね」
「はい」
「ご両親は、お元気ですか?」
「さあ、知らないですね。連絡も取ってないので」
「そうですか、また、お邪魔しますね」
「どうぞ」
「それじゃあ、お元気で」
「はい」
 彼は車に戻ると、しばらく間をあけて、手を振りながらカーブの向こうへ消えていった。私はフジノという男の人を覚えてはいなかった。私が中学生の頃から高校を卒業するまで、家には私の知らない人がたくさん出入りしていた。そのうちの一人だろうが、今既にどんな顔や見た目だったかも忘れているくらいだから、定かではない。
 誰だったの?、と言いながらシイノさんは隣に腰掛け、煙草を吸い始めた。
「私の両親って、今もだろうけど昔、新興宗教にのめり込んでたんですよ、そのときの知り合いみたいです」
「なるほど、ごめん」
「大丈夫ですよ」
「お母さんお父さんは結構、熱心だったの?」
「そうですね、かなり熱心だったと思いますね。大きくはないけど小さくもない団体で、割と初めの方から幹部みたいなポジションに就いてましたし」
「大変だったでしょう」
「私は、そうですね」
「辛かった?」
「いえ、妹が、二人いるんですけど、彼女たちが、何も分からないうちから巻き込まれていくのが、それをどうも出来ないのが」
 シイノさんは私の左手を両手で包んで、握る力を強めたり弱めたりした。目頭が熱くなっていたが泣くわけにはいかなかった。結局のところ、アサギも自力で抜け出したのだろうし、シホはどうしているか分からないけれど、彼女なりに何かを選択したはずで、私がその果てで涙を流すのは間違いだった。何もしてやれなかったのなら、もう私が彼女たちを思って何かをする権利はない。

 宿に戻る前にVONTへ行った。
 この際もう何を食べるのも、誰と話すのも、何も気しないでおこうと決めた。シイノさんもそれに賛成して、私たちはまたカレーとホットのセットを頼んだ。
 ジュンさんは買い物に行っているらしく、ユミさんとアルバイトの子がいた。私たちの他に客はいなかった。まだ入ったばかりらしく、ユミさんは奥に引っ込まずに彼女の近くで座っていた。私たちはその日の三組目の客で、二組目から二時間ほど暇があったからか、シイちゃんと呼ばれている子は慌てているように見えた。
「ユカコさんもあんな感じだった?」シイノさんはトーンを落として言った。
「そうですね、半年くらい入ってからやっと一人で任せてもらえるようになりましたね」
「半年か、それって早い方じゃない?」
「どうだろ、多分?」
 ユミさんの淹れるコーヒーは、ジュンさんのよりも苦味やコクが前面に出ていて、変わらない傾向というのか特徴というのか、そういったものに私は頬が緩んだ。

 私たちがカレーを食べ終える頃にジュンさんとソウくんが帰ってきた。ソウくんは私を指差して「ユカちゃん」と言ってから、ユミさんに抱きつくために走り出した。
 また大福が食べたかったのだけど、なくなったということで、ガトーショコラとのセットを頼んだ。ユミさんと入れ替わりでジュンさんがシイちゃんについた。彼女はユミさんといるときよりも落ち着いているように見えたがそれは、私たちに慣れただけかもしれない。
 ジュンさんはコーヒーを淹れながら「あ、そうだ」と呟いた。
「ユカちゃん、久々にコーヒー淹れてくれない?」と彼はドリッパーを優しく揺らしながら、目線を上げて言った。
「今ですか?」
「そうそう、大丈夫?」
「全然、何も問題ないですよ」
「じゃあ、お願いします、シイちゃんも飲む?」
「あ、じゃあ、いただきます」
 キッチンに入ると、目眩がするくらいの懐かしさが込み上げてきた。急流のような音が耳の奥で鳴り、体が熱くなった。
 何度かきつく瞬きをし「何で出しますか?」と訊いた。
「ネルかなあ、濃いのが飲みたいな。シイちゃんは牛乳で割ればいいよ」
「あ、はい。そうします」
「じゃあ、ネルで、豆はどうしますか」
「うーん、揃ってるからなんでもいいや、濃くて美味しければなんでも」ジュンさんは眉を上げ、上の歯だけが見える笑顔で言った。
「プレッシャーかけないでください」つられて笑い、そういえば久しぶりに表情と言葉の合ったジュンさんを見たな、と冷蔵庫を開けてタッパーを取り出した。シイノさんはカウンターに手をついて、そんなやり取りを見ていた。そんなに優しい表情を見たのは初めてに近かった。タッパーからネルを取り出して絞り、木製の取手のついた金属の輪にそれを通した。マンデリン、と書かれたボトルからミルに三十グラム入れ、中粗挽きで挽いた。
「シイちゃん、よく見ときなよ。彼女は昔ここで働いてて、これまでユカちゃんより上手な子は誰もいないんだ」
「あ、はい」
 私は、誇らしかったのか、無意識にシイノさんの顔を見た。彼女は歯を見せないでにっこり笑い、何度か無言で頷いた。湯を沸かしてケトルに移し、挽いた豆をネルに落とした。スケールの上にサーバーをセットし、均した豆の上に静かに湯を注いだ。近い日に焙煎されたのだろう、思っていたよりも膨らみが大きい。しばらく蒸らし、輪に添わせた親指と人差し指の熱さに時間の長さを感じた。ドームを崩さないよう、細い湯をゆっくりと注いだ。久々に持つ重いケトルが、それでも体に馴染んでいた。落とす湯の速度も量も、容易にコントロールできる。
 小ぶりなマグに一五〇ずつ注ぎ、ジュンさんとシイちゃんの前に置いた。そのままキッチンを出て、カウンター席に座るシイノさんの隣に腰を下ろした。
 小皿にのったガトーショコラと大きなグラスに入ったコーヒーが置かれていた。ジュンさんは一口啜り、声を出して笑った。
「すごいな、鈍ってないよ。はい」と言ってシイノさんにマグを渡した。彼女は受け取ったものの、どうしていいのか分からないという表情だった。
「飲みたそうだから」と彼は言って手の平を見せて彼女を促した。
 シイちゃんは一口飲んでから牛乳を足し、美味しいです、と言って小刻みに頷いている。近くで聞くと彼女の声は、芯があって通るのだけど、ふわっと柔らかく広がって響いた。
「何かとろっとしてる」とシイノさん言って、ジュンさんにマグを返した。
「ネルだし、マンデリンって豆だしって感じです」私は今更緊張して、三人の顔を交互に見やった。
「一年に何回か思い出してたんだよね、飲みたいなあって」
「それは、嬉しいです、本当に」
 みっちりと詰まったガトーショコラは表面が炙られてあった。香ばしいカカオの香りと苦味の強い甘さがさっと過ぎていく。甘みの頂点に達するのが早く、消えていくのも早い。濃厚だけど、どんどん食べられる。標準よりも少し湯を多く注いだのだろうか、苦さと酸味のバランスのいいコーヒーもよく合う。わざとコーヒーから抜いた味の層をガトーショコラが補っているようだった。

 宿に戻り、どこに泊まっても大して変わらないのならVONTの近くにしようと、フロントで宿泊する日数を最終日まで伸ばした。予約もなく、私たちは同じ部屋に計九日間泊まることになった。
 それから私たちは本を買いに行こうと、ジュンさんに教えてもらった古本屋へ行くことにした。

 車で十分くらいのところに古本屋はあった。小さな杉材の看板には『長い船』と書かれていた。話を聞いていなかったら、何屋にも見えないし分からないだろう。三台分ばかりの駐車場に車を何とか停めて、ガラスの扉を抜けた。
 十五畳くらいの広さに本棚が三つ置かれている。左右の壁に同じ大きさに、扉の真正面に半分の大きさの棚と奥へ繋がる隙間とカウンターが並んでいる。カウンターには同い年か少し上くらいの歳の男の人がいて、文庫本を読みつつ煙草を吸っていた。
 私たちに気が付くと急いで煙草を消してから「いらっしゃいませ」と言って読書へ戻っていった。
 左手の半分は旅行記が、もう半分には日記が収められている。右手にはエッセイと小説、カウンターの隣の棚はミュージシャンの書いたものと音楽に関する本で埋まっていた。
 私たちは左の棚から順に見て回った。二人とも特に読みたい本もなかったが、どちらかと言えば、普段あまり読まない種類の本を読みたかった。それは私で言えばエッセイの類だったし、シイノさんは旅行記や日記だった。一周回ってから、棚の前で集中して背表紙を眺めた。シイノさんは早速、何冊かの目星をつけて、開いては閉じて棚に戻していた。私は、ある年齢から本屋が苦手だった。量に圧倒されて何を買えば、以前にどれを手に取ればいいか分からなくなる。そうして、何も買わずに帰ることになる。
 何冊かを適当に手に取って、一行目と真ん中あたりの文章を数行読むことを繰り返した。それからまた一周して、『そしてカバたちはタンクで茹で死に』を買うことにした。シイノさんはもう既に会計を済ませていて、店主と話しながら煙草を吸っていた。
 カウンターの彼の真上には巨大と言ってもいい換気扇が取り付けられていて、それは見るからに後で付けられたものだった。二人の吐く煙は、おもしろいくらいその範囲を出ない。流れ出ようとする煙は、境界を超えると引っ張られたように上昇して消えた。
 手に持った本をカウンターに置き、これを下さい、と言うと「あ、失礼しました」と言って煙草をもみ消し、それを取り上げた。後ろの表紙との間に挟まれた紙を確認し、「千円です」と言った。
 シイノさんは、「おもしろそう」と言って本を受け取り、ぱらぱらとめくってから手渡してくれた。
「どうぞ」と言って灰皿を私の方へ押し、頭の上を指差しながら「かなり強力な換気扇なんで、この付近にいさえすれば何も気にしなくて大丈夫ですよ」と続けた。
 シイノさんをちらっと見てから煙草を取り出して火をつけた。してはいけないことをしている気がしたけれど、本に囲まれて煙草を吸うのは悪くはない気分だった。特に、素晴らしい、というわけでもないけれど、買った本も含めて、より親しくなるような気がした。
 彼女は『奇妙な髪の少女』という小説を買っていた。本当は、普段読まないのを買おうと思ったんだけど、と言って、照れたように笑った。
「この作家、知らないですね」
「今はほとんど出回ってないですね、この前スピーチを訳したのが出たかな」
「うん、それは読んだことないんだけど、何かずっと気になってて」
「おもしろいですよ、何で復刊したり新訳が出ないのかなあって思いますね」
「へえ、楽しみだな」
「ここの本、内容もチェックしてるんですか?」
「え、そうですね、店に出す前に一応一回は読みますね」
 シイノさんは、大変だなあ、と言ってカウンターを離れた。彼女を目で追いながら煙草を消して、カウンターに背を向けた。彼女はもう一度全ての棚をざっと見てから、行こっか、と言って私を振り返った。
 それじゃあ、と言ってカウンターに一度向き直り、彼女について店を出た。

 ベッドに並んで寝転んで、買ってきた本を読んだ。さくさくと読み進められる感触は久々だった。数ページごとに『城』を読みつつ、部屋が暗くなるまで黙ってそのままでいた。
 集中して本を読んでいると時々、体が組み変わっていくような感じがあった。頭の方はそういう時でも本へ向かって冷静さが保たれていた。体中がむず痒いような気がして、それから火照りはじめる。頭の裏と耳孔からまっすぐ奥で低い音がしばらく続いていた。唾を飲み込んだり鼻から肺を出たり入ったりする空気の音が、体の中から離れなくなる。実際に太腿や二の腕の裏が痒くなり、無意識のうちに掻こうとする指先に、新しい感触と、新しい体の感触があることに気が付く。私は、数十秒前までの私とは違った組み合わせでできていた。全く変わってしまったとか、すっかり新しい人間になったとか、そういった感じはしなかった。何か画期的なことを思いつくわけでも、気の利いたことが苦もなくできるようになったわけでもない。ただ、私を形作っていた諸々が、それ自体はどんな変化もせずに、別の組み合わさり方で私としてそこにあるだけだった。ほんの少し爽やかな気分ではあった。冷ややかな風の吹く草原に一人で立っているような、思いつく限りの邪魔なものは何もない空間で、浮遊感のある昂りを感じている時と同じ爽やかさだった。私はゆっくりとため息をつき、その感覚が全身の隅々にまで行き渡るよう緊張を解いた。シイノさんの体の気配が、いつもよりはっきりと肌に感じられた。その質量の大きさや密度を感じた。彼女だけではなかった。シーツやサイドテーブルや鏡、部屋の中でそれぞれに独立したものは、触れたようにくっきりと理解されていた。

 一時間もないくらいの昼寝から目が覚めると、シイノさんは窓枠に座って煙草を吸っていた。手元で開いたままの二冊の本を閉じ、頬杖をついて彼女を眺めた。眼鏡を取るとシイノさんは実際よりも随分若く見える。
 彼女は、え、と言ってくわえていた煙草を落とし、慌てて拾い上げたことで指先を火傷した。私も同じくらい慌てて立ち上がり、冷蔵庫に入れてある中で一番冷えていそうな小さいパックの豆腐を手渡してから、どうしたんですか?、と隣に腰掛けた。
「そこ」と彼女は窓の外を指差し、「モリイチくんじゃない?」と言った。
 モリイチは小雪の降る中、傘をさして私たちを見上げていた。傘を持った手を上げ、もう片方で私たちを指差した。
「来るってことかな?」怯えたような表情でシイノさんは言った。
「分かんないですけど、降りてみましょうか」
 鍵を持って部屋を飛び出し、待ちきれずに四階分の階段を下った。
 ロビーに出ると彼はフロントの女の子と話していた。フロントで働いている人とは思えないくらい大きな声で彼女は笑い、ああ来たわ、と彼が言うと真顔になって、私たちを見て軽く頭を下げた。
「久しぶりやな、ユカコ」片手を上げて朗らかに笑いかける彼が、そこに立っていることに馴染めなかった。黒に近い焦げ茶色のコーデュロイ地のジャケットに、同じ素材で少しくすんだパンツで、モリイチがセットアップを着ていることにも、よく分からないけれど違和感があった。
 顎髭のあるモリイチが、私の中の彼とは上手く像が重ならない。それでも、その少し傾いた立ち姿や声の質感が、確かに彼のものだと分かると、私は上手く立っていられなくなった。彼はゆっくりと近付いてきながらフロントに笑顔を向け、シイノさんをちらりと見てから私を抱き締めた。
「名前、って言わへんのか?」と彼は耳元で小さな笑い声と一緒に言ってから、私が何か言う前に体を離した。
 近くで見ると、モリイチは何も変わっていないように見えた。顎髭はまだ見慣れないが、それでも顔全体での印象は同じだった。
 ここで話してもええけど、まあ、上がろか、と言ってエレベーターのボタンを押し、開いた扉の先に私たちを通した。私たちは奥に並んで顔を見合わせ、モリイチの後ろ姿を眺めた。

 椅子をすすめ、私たちはベッドの縁に座った。
「ほんまに久しぶりやな」
「うん、元気にしてた?」
「元気元気」
「それは良かった」
「ユカコこそどうなん?」
「私、私も元気にしてたよ」
「そうか。急に連絡取れへんようになるし、どこ行ったかも分からへんし、心配してたんやで」
「ごめん」
「まあ、それはええわ、何かしら事情があったんやろうし」
「うん」
「うんうん、それで、君がシイノミヤさん?」
「えっ、と、はい。そうです」
「ここからお前らを出せって、何日か前に電話あってん」
 私とシイノさんは顔を見合わせ、何も言葉が出なかった。
「よう分からんかったけどな。三、四日前かな、そのことを頼むかもしれない、って」
「なのに来たの?」
「まあな、別に帰らんでも、ユカコに会えるかなって、ま、久しぶりに美草の町を見るついでやな」
「それから電話は?」
「昨日の夜、明日、恐らく頼んでいたことを実行してもらうことになる、って。我々の言う恐らくは、決まったことと限りなく近い言うてたわ」
「なるほど」
「それで、どうする?、俺は、よう分からんから一応車で来てるけど、二人は?、旅行?」
「いえ、仕事で来てて」
「仕事か、その、このことっていうか、この一連の流れは知ってんの?」
「はい、一応」
「おっけーおっけー、じゃあ、ま、二人に任せるわ」
 まず私たちは、一から順にモリイチに話した。彼は刀鍛冶みたいな真剣な表情で、私やシイノさんの話を聞いていた。
「どう思いますか?」
「どう思うか、まず俺だけやなくて、そっちでもよう分からん感じやねんな」
「うん、どこまでそれに則ればいいか、未だに決め兼ねてる」
「その、現実的に、仕事を今切り上げることはできんの?」
「そうですね、簡単に何のしこりも残さず、って訳には行かないですけど、難しくはないです」
「せやったらどうする?」
 五分、十分と相談になっているのか分からない会話を続け、私たちは帰ることに決めた。私はもう、私たち二人だけではどうしようもないと思い始めていた。それは彼女が頼りないとか、私自身が信用できないとか、そういうことではなかった。もっとずっと単純に、私たちではどうすることもできない領域に入り込んでしまっているということだった。私は割と、かなり具体的な目標と適度な運、目標に沿っていると思える細かな努力、それさえあれば何だってできると思っていた。それでも、どんな些細なことであったとしても、私やシイノさんや、モリイチやジュンさん、ソウくんやユミさん、立場や年齢や経験にそれほど関係せず、出来ないことと出来ることの間には、当人だけではどうすることもできない遠方もない溝があるとも、思っていたというよりも信じていた。今回のこれは、時間をかけ、私たちの選択を経て、もうどうしようもなくなっていた。外から来たモリイチをあてにする以外に具体的な策はない。それは今から私たち二人でここを出るといったことも何の意味も為さないほど、当初とは姿を変えていた。
 荷物をまとめてロビーに降り、チェックアウトを済ませた。モリイチは「外で待ってるわ」と言って私たちの荷物を持って行った。フロントの女の子は私たちの話、諸事情で仕事の内容が変わり、今日明日中に帰らなくてはならない、といった話を聞き流し、裏に回って誰かに声をかけた。責任者だけが奥から出てきて事情を聞き、面倒くさそうに、キャンセル料を引かずに残りの日数分の宿泊費を返してくれた。
 私たちはお礼を言ってから外に出て、駐車場の方へ歩いていった。
 モリイチは真っ黒のラングラーのドアにもたれて煙草を吸っていた。荷物はどこへ行ったのだろう。彼は顎をしゃくって後部座席を示し、私は勝手にそこに荷物があるのだろうと、「ありがとう」と言って煙草を取り出した。
「ユカコも喫煙者か」
「やめられないね」
「シイノさんは?」
「私もです」
 私たちは車の脇で携帯灰皿を囲んで煙草を一本吸い、「ほな、駅前まで後ろついて走るわ」と言うモリイチと別れた。
「うん、分かった。気をつけて」

 私たちは車に乗り込んでから、何か話す気にはならず、黙ったままだった。頭の中で高揚した部分と冷ややかな部分がはっきりと分かれていた。私たち自身はその中間の、ぬるい、ぼんやりとした存在だった。
 一時間ほど走ってからやっと思い出したように、すみません、と言うと「大丈夫だよ」と彼女は言った。
「本当に、申し訳ないです。諸々の処理はもちろんほとんどこっちでやりますから、すみません、迷惑かけます」
「ねえ、ユカコさん、会社とかホテルの人とか、業界的なことでは迷惑かもしれないけど、それですら微々たるものだし、私に関しては、本当に何とも思ってないよ、何ともって、その、ネガティブな方向でね」彼女は体を私に向けてからそう言った。
 私は、ありがとうございます、と言って唇の内側を強く噛んだ。何かもっと具体的なものあればいいのだけど、どれだけ考えても何も出てこなかった。私には、事務的な面で彼女に、可能な限り、負担をかけないことくらいしか思い付けない。現実でない領域で、彼女の気持ちに報いることは、私には何も思い浮かばなかった。
 景色も思い出も、どんどん見知った場所からは遠のいているのに、小雪の降るなかで車を走らせていると、町の中心に向かっているような気がした。ぐるぐると同じ場所を、同じ性質の場所を巡っているようだった。
 シイノさんは窓の外を眺めながら、どちらかと言うと音楽に神経を集中しているようだった。この出張中にも何度聴いたか分からない曲が流れていた。私は運転に集中しようとしていたが、どこか力が抜けきっているようで、彼女を見たりルームミラーからモリイチの車を見たり、必要以上に左右を確認したりと落ち着きがなかった。

 閉店間際にレンタカーを返却し、私たちはモリイチの車に乗った。
「君は?、どこの人?」彼は振り返ってシイノさんに訊ね、彼女が答えると「ほな、ミヤちゃんを送ってからユカコやな」と言いながら前に向き直った。
「これはもう町を出たことになるんか?」
「さあ、どうなんだろう、町名で考えたらとっくに出てるけど、別の所ではないし」
「そんじゃあちょっと飛ばし気味で帰ろか、まあまあ時間もぎりぎりやろ」
「そんなに厳密なのかな」
「知らんけど、ま、事故らんようにだけして急いどこ」
 シイノさんは体の力を抜いて、積み上げたザックとシートに身を預けている。小さな音でラジオがかかっているが何が放送されているのかは聞こえなかった。鏡越しに見ると、シイノさんは人形のように白く見えた。私は振り返って彼女に笑いかけ、少し驚いた表情のままの彼女が笑ったのを見ると安心した。
「二人とも気にせんと寝ときや」モリイチは音もなく車を発進させ、狭いロータリーをするりと抜けていった。
「ありがとうございます」
「ありがとう」

 彼の運転は意外に、どんな想像があったわけでもないが、スムースで安定していた。空調も、ハンドルの操作も、ブレーキングも何もかもがちょうど良かった。私は横目でちらちら見ながらも、時折シイノさんと話していたが、彼女が眠ったあとは黙っていた。
「寝はった?」
「うん」
「ユカコも寝えや。彼女んとこでもまだ三時間くらいはかかるし、ユカコがどこに住んでんのか詳しくは知らんけど着くのは朝やろ」
「本当にありがとうね、でもまだ眠くないから起きとくよ」
「気にせんでええで、このために何かしたわけでもないし」
「モリイチは、今何してるの?」
「俺?、俺はあっちこっち行って物書いたり、そこで会った人らの作ったもんをまとめて売ったりしてるわ」
「モリイチらしいね」
「せやなあ、何も変わってないな、ユカコは?、何しに行ってたん」
「私たちは、山とか川とか行って、まあアセスメント系の仕事だね」
「なるほど、あんなにどっか行くの嫌がってたユカコがなあ」モリイチは笑ってからハンドルの持ち手を変えた。
「本当にね」
「卒業してすぐ?」
「ううん、しばらく別のところで、それから今のところ」
「そうか」
 私はふと思い出したことで「あのさ、モリイチって結局全国歩き切ったんだっけ?」と言った。
 彼は、これといった障害物もない真っ直ぐな道だったけれど、それにしても長い時間私の目を見つめてから「歩いたで」と言った。車は小刻みに左右に揺れ、モリイチが視線を戻すとおさまった。
「ほんまに忘れてるんやな」
「え?」
「いや、電話でな、忘れられてるときはすぐに引き下がれって」
「覚えてるよ」
「やけど、俺が帰って来てから祝勝会みたいなんしたん覚えてへんやろ?」
「本当に?」
「四年の秋くらいに帰ってきて会って、冬の間はそれまで通りたまに集まって、そんで春になる前から連絡しても音沙汰なかったで」
「モリイチが出発してからのモリイチとの思い出がすっぽり抜けてる」
「それ何なん?、電話の奴はそれだけ言うて何も教えてくれへんかったけど」
「ごめん、私も分かんない」
「他のことは?」
「どうだろう、多分、何かあるのかも」
「何を忘れてるかも分からんって感じか」
「うん、そんな感じ」
 モリイチが言ったことを思い出そうとしたが、すやり霞のようなものが邪魔をして何一つ思い出せなかった。最後の記憶は、長い散歩のあとの喫茶店での二人だった。それより先はどうしても思い出せない。手繰るべきものすら、私には見つけ出せなかった。
 私たちは週に二回か三回、十キロから十五キロほどの距離を歩き、喫茶店で夕食を食べて駅前で解散するというのを、私の記憶では、彼が出発する数日前まで続けていた。
「絵葉書とか手紙とかも覚えてへんのか?」
「うん、ごめん」
 そうだった。彼は新しい場所へ行くたびに手紙や絵葉書を送ると言っていた。そうすると、私の家のどこかにはそれらがあるのだろうか。繰り返される引っ越しの中で、段ボール二つ分の、出しておくようなものではないけれど捨てるわけもないものがあった。きっと、その中に彼から送られてきたものがあるのだろう。
「まあ、ええか」
「モリイチは何買ったっけ?」
「何買った?、あ、ユカコの婆ちゃんの話か」
「そうそう」
 私たちはよく庭園を歩いていた。前日に決めた場所の最寄駅に集合し、そこからまず庭園へ、寄り道もせずに向かう。入り口にある地図を見て、それを覚えたモリイチの隣について隈なく歩き回った。私は、彼が「あれなに?」と気になった植物についてあれこれと教える係だった。
「持ってくのは中くらいのザックで、帰ってから使うもんは、ほんまに覚えてへん?」
「うん。私に預けてたの?」
「せやで、そんで、帰ってきた次の日に会って受け取った」
 庭園をとりあえず見尽くすと、どこかに適当に入って昼食を食べた。モリイチは歩きながらも身振りが大きく、すれ違う人はほとんどみんな、ちらっと彼を見やった。読んだ本や観た映画の、何が面白かったのかをよく話してくれた。彼は、ここが駄目だった、とかそういった話は全くと言っていいほどしなかった。私が詳しく聞きたがったときにだけ、補足のように、あれがこうだったら、ということを話した。
「それで、何を預かってたの?」
「でかいグレーのマグカップやで」
「そっか」
「ユカコに使っといてって言うて出たけど、使ってた記憶は?」
「あ」
「それはあるんか」
「うん、というか今思い出した。割としょっちゅう引っ越しするんだけど、そのときにあのマグどこにいったんだろう、とか思ってたのも思い出した」
「それに付随して、俺のを使ってたってふうには?」
「言われてみればそんな気がするって程度かな」
「なるほどね」
 私はそこで聞いた話を、ほとんどみんな思い出せる。彼が唯一、何かの作品に対して文句を言うのは、音響に関してだった。私にとっては何故、楽器をしていたわけでも音楽を聴くのが特別好きなわけでもないモリイチが、そこまで映画の音響に言及するのか、今一つ分からなかった。彼は「音って聴く側の俺らにはどうしようもないやろ、せやのに、自然に、無意識的に、知らず知らずのうちに、大きく影響されんねん、やのに、そんな大事なもんを適当に、としか俺には思えへんそういうのに腹立つねん」と言っていた。そこから十年以上経つと、当時の十分の一も映画を観なくなった私でも、彼の言っていたことの意味の、触りようなものは掴めた。
 私たちが庭園の他によく歩いたのは墓地と住宅街だった。墓地はモリイチが好きで、住宅街は私の希望だった。初めのうちは抵抗があったのだけど、彼が、一番静かなところやろ、と言っていたことを次第に体感した。生きている者の少ない場所は静かだった。すぐ近くを走る車の音も、植わった木々を飛び交う鳥の鳴き声も、私たちが踏み鳴らす玉砂利の音も、どれも些細な響きを残すだけだ。汚れの酷い墓石を綺麗にしたり、乱れた砂利道にとんぼをかけたりもした。
「ごめんね」
「いや、別に謝らんでも、みんな何かしら忘れたり、忘れたってことも忘れたりしてるやろ」
 シイノさんの静かな寝息と走行音、小さなラジオの音とモリイチの穏やかな気配が混じり合って、強烈な眠気に覆われた。あくびを噛み殺して首を鳴らし、意識的に瞬きを繰り返した。
「休憩したかったら言うてや、まあ、高速乗ってからの方がお互い楽やろうけど」
「うん、まだ大丈夫。ありがとう。モリイチは眠たくない?」
「俺はまだ全然、昔っから宵っ張りやからなあ」
「そういえば、よく夜に電話したよね」
「せやったなあ、それこそ、何話したか覚えてへんわ」
「しょうもないことだよ、そのときはすっごい笑ったり、考え込んだりしたけど」
「ユカコは、結構大人っぽくなったな」
「つまんない?」
「やっぱ変わってないかも」
 ナビに目をやると、あと十数キロ程度で境界線を超えそうだった。
「もうすぐだね」
「せやな」
「何て言うべきか、超えちゃったらあとは、眠かったら好きなだけ寝てね」
「大丈夫やで、やっぱり、ユカコは、大人になったというよりは気にしいやな」
「気にしい?」
「実際昔もそうやったんやろうけど、だからか、むしろか、ユカコもっと強気やったやん、そんな、俺にまで」
「名前」
「それでええ」モリイチは短く笑ってからそう言った。
 左右に積もった雪は次第に薄くなっていった。
「こんな道なかったのにな」
「ね。モリイチも帰ってなかったんだね」
「せやな、大学行くために出て、それ以来やな」
「お父さんとお母さんは?」
「卒業してすぐくらいに引っ越して来よったで、何かと近い方が都合ええやろ言うて」
「寂しかったのかな」
「せやろな、俺みたいなうるさいのがおらんなったら静かやったやろうなあ」
「そうだと思う」
 私たちは歩き疲れると、そこら中で腰を下ろした。モリイチは絶妙に邪魔にならなそうな縁石を見つけるのが上手かった。公園があればそこのベンチに三十分くらい座って、何も話さずに心地好い疲労感の中に沈んでいた。私は今でも、縁石に座って見ていた低い景色を覚えていた。そのときに何度も、モリイチが越して来た時の私たちはこのくらいの目線だったのかな、と思っていたことも思い出せる。その目線の高さは、普段どれだけの目を見て歩いているのかを思い知らさせた。それがすっかりなくなった身震いのするような気楽さは、軽い恥ずかしさをどこかへやってくれた。
「いつから、名前呼ばれても平気なん?」
「いつから、分かんないな」
「彼女に呼ばれてからちゃうか?」モリイチはちらっと後ろを振り返って、二秒くらいそのままの体勢でいた。一瞬だけ対向車線に入り、すぐに復帰した。
 私は、入社した年の暮れにシイノさんと初めて一緒に仕事をした。四月から八ヶ月間、ほとんど休みもなく各地を転々としていた。研修も兼ねていたけれど、あれだけ休みを取らない年はそれ以来ない。前職でお世話になっていた人の口利きで、ほとんど何事もなく働きはじめた。当時は何の資格も持っていなかったのだけど、誰よりも知識はあった。そのせいで新人にしては実地的な仕事が多かった。運動らしい運動をしてこなかった私は、数ヶ月で十二キロほど痩せ、次第についた筋肉で入社時と変わらない体重になっていった。
 もうそろそろ限界を迎えそうな頃に、シイノさんとの仕事が始まった。彼女は初め、ものすごく無口で、何を考えているのか想像することさえ拒絶されているような、常に気を張っているような感じだった。結局それは、初めて人を使う立場での仕事だったからで、その日の夜には今と変わらないくらいに打ち解けていた。私たちはそれまで、同性の同業者と仕事をすることがなかった。業界全体で見ても、圧倒的に男の人が多かった。彼らは、普段付き合うのにはこれといった問題はない。会社を離れ、長い時間外に出て仕事をしていると、彼らはどんどん不機嫌に、粗野になった。私はそんな変化を見ているのが何よりも嫌だった。なっていった、変化した、と言うよりも、元々そうだったのが見えやすくなった、と言った方がいいのかもしれない。中には、一貫している人もいた。彼らの一番大きな違いは、初めて対面したときの人当たりの良さだった。初めから終わりまで変わらない人は、単なる疲労からくる大人しさや粗雑さは別として、初対面の時の印象が悪くもないし良くもなかった。むしろ、良い印象を抱かせる、そうしようとする人は後々、どうしてか乱暴になったし、本人はそれに気が付いてもいないように見えた。眠気や空腹にぐずって泣く子供のように、実際のところ自分がその時々に抱えている思いや感情を処理し切れていないみたいだった。
 私たちはその三週間、毎日の激しい運動による疲れや移動時間の多さにうんざりする以外、どんなストレスもなく、淡々と仕事をこなしていった。私たちの組み合わせでしっかりとした調査ができれば、次年度からも一緒になれるかもしれないとも思っていたし、どの程度役に立っているのかも分からない調査を粛々と進めていくことが二人とも苦ではなかった。
「それは、そうかもしれない」
「意識したことなかった?」
「もちろんその前からきっと、誰かに名前を呼ばれること自体、特に気にならなくなってはいたんだと思うけど」
「うん、そやろな、でも何となく俺は、ミヤちゃんが決め手っちゅうか、大きな理由やと思うな」
「そう言われると、そうだった気もする」
 その年から今まで、毎年何度か一緒になった。私とモリイチの関係は、親密さが球体のようなものだったとして、それを広げたり磨いたりするみたいに、共同で何かをしている感覚が強かった。シイノさんとのそれは、球体の大きさほとんど変わらず、内部を密にしていくようで、一人一人がそれぞれ互いのために動いているような、あくまでも私たちはどこまでも切り離されていた。
 私が住宅街を歩きたがったのは、ちゃんとした家族というものを、幻想でもいいから肌で感じたかったからだ。私がモリイチにそんなことを言うと、長い間口を噤み、歩いてみよか、と言った。どこにだって大なり小なり問題があることは、中高生の私にだって分かってはいた。だからそれは、幻想しかないと理解したかっただけだ。家族構成が分かる洗濯物や、辺りに漂う料理の香りや、漏れる光や見える団欒に、私は私の家族を重ねていた。そうやって、何処にも、私の思う形での家族なんてものはないのだと、確かめていった。
「モリイチは、昔から私に優しすぎるよ」
「そうかもしれんなあ」
「そのままでいて欲しいけど」
「好きなやつはとことん甘やかしたいんやろな」
「そんな感じがする」
「あ、美草中歩いたんは覚えてる?」
「覚えてるよ、多分、本当に、モリイチが出発する前のことは何も忘れてないと思う」
「あんときのユカコ、めちゃくちゃ嫌がってたなあ」
「そんなことして何になるの?」
「そうそう、もはや口癖やったな」
「本当にごめんね」
「別に、そんときも今も何も気にしてないで」
「うん、そんな気はするけど、悪いことしたなって思うし、謝ってどうってわけでもないけど」
「なんだかんだ言うて、結局はユカコ、いつもついて来てくれたし、ほんまに止めたりはせんかったやろ」
「まあ、それはそうだけど」
「俺は俺で、嬉しかったりしたで、うちんとこも同じようなこと言うてたけど、もっと、心配とかそういうんじゃない感じで言うてたし、ユカコはまずは心配してくれてたんやろ?」
「うん、あとは、モリイチがそのままどっか行くのが怖かったんだろうね」
「可愛いこと言うやん」彼はひとしきり笑ったあとそう言った。
 私は、モリイチと話せる事柄が、中距離の過去に留まっていることが寂しかった。私たちにはもっと話せることがあるはずだった。ものすごく近い将来と中途半端な過去のことだけを話せる、そんな二人ではなかった。
「VONTには行ったん?」
「行ったよ、ジュンさんもユミさんも元気そうだっし、ソウくんって男の子もいた」
「バイト?」
「ユミさんとジュンさんの子供だよ」
「へえ、何となくジュンさんが子供とおるとこ想像できんな」
「確かに、もう見て知ってるのに、思い浮かべたら変な感じ」
「やろ、俺なんか、そもそもあの人に奥さんいんのも違和感あんのに」
「一人が似合うのは似合うよね」
「そうそう。子供かあ」
「モリイチは?」
「俺は、おらんよ、相手もおらんし、どっかに子供もおらへん」
「モリイチこそどっちも想像つかないなあ」
「俺も、せやからおらんねん」
「仕事が順調?」
「せやなあ、まあ忙しくはしてるな、それほどやりたないことをする時間はないってくらいやけど」
「良かった」
「心配してた?、こいつ将来どうやって飯食うねんって」
「ちょびっとだけね」
 シイノさんはドアの方に倒れかかり、額を窓にくっつけて眠っている。眼鏡はどこにいったのか、目につくところにはなかった。
 私たちはインターを抜け、もう美草とは無関係な場所を走っていた。高速でもモリイチの運転は相変わらず安定していたし、シイノさんは安らかな表情で深く眠っていた。私は、このままずっと三人で車に乗っていたかった。いや、三人であちこちへ行きたかった。色んな風景を見て、名前も知らないようなものを食べ、適当なホテルに泊まる。夜には煙草を吸いながら、その日のことや次の日のことを話していたい。四十八時間のサイクルで毎日を過ごしていたかった。
 日付はとうに変わっていた。モリイチは私の半分の時間で倍近い距離を進んでいた。あまり速度を意識していなかったけれど、ほとんど常に一四〇キロほどで走っていた。事故が起これば、何となく私だけ死ぬ気がした。きっとみんな死ぬんだろうが、二人が死んだことを知らないまま、真っ先に意識を失いそうだ。私は、引き出し方を忘れていることと、そのものがすっかりなくった状態は、消息の分からない知人と、死んだ人との違いと同じだと思った。だけど、どこかしらでも確かにそれが存在していることと、何もかもなくなってしまったことの、現実的な違いが分からなかった。
「ちょっと、トイレ休憩挟むわ」
「分かった」
 何が違うのだろうか。私は、アサギが生きているのか死んでいるのか、電話をするまで知らなかった。彼女は生きていたわけだけど、だからと言って、今まで通り会わずにいたとして、その先に、私にどんな影響があるのか、何かを思ったり思わなかったり、そのような面以外でどんな違いを知るのだろう。いる/いない、ある/ない、のはそれを意識できさえすればどうでもいいうように思えてならなかった。私が死んでいるとして、それでも二人に知覚されているなら、その他のことは何だって良かった。私が忘れて、私の中で跡形もなくなってしまった物事も、私に思い出されるものとしての姿形を失っただけだ。私が分からないのは、その出来事を知る人が誰一人いなくなったとして、そのとき、その出来事の消失が、その出来事から何かしらの影響を受けた誰かがいなくなったあと、どのような問題を生むのかということだった。歴史にならないことだ。記録に残されないことだ。
「腹は?」
「ちょっと減ったかな」
「ほな、なんか見ようや、俺めちゃくちゃ腹減ってんねん」
「ここ?」
「そこが大きそうなら、どこでもええで」
「じゃあ、あと十分だって」
「ほな五分やな」
 モリイチが言った通り、割と大きなサービスエリアに着いたのは五分後だった。一時を回った駐車場は、仮眠を取るためか車中泊をするためか、満車に近く、建物に近いところの方が空いていた。シイノさんはエンジンを切ると目を覚まし、もう着いたの?、と言った。
「いや、しょんべん、ああ、トイレ休憩、とお腹が空いたんで何か買おうかなって」
「シイノさんは?」
「私も行く」
 彼女はしばらくかがみ込んで何かを探しているようだった。私は車を降りて助手席の下を覗き込み、眼鏡が落ちていることに気付いた。取り出して声をかけ、三人で並んで歩いた。
 売店を一通り見てから、がらんとしたフードコートへ行った。私とシイノさんは温かいうどんを頼み、モリイチはそこに大盛りのカツ丼を付けた。券売機の前でごたごたとして、結局モリイチが私たちの分まで出してくれた。

 薄く曇った天板の上にトレイが三つ、シイノさんは私の隣に、モリイチはシイノさんの前、それぞれ特に何も話さずに空腹を満たした。三人で摂る食事に意識が向いて、ほとんど何の味もしなかったが後で二人は「味薄かったね」、「白湯ちゃうんか」と言っていたから、私の意識の問題ではなかった。
 モリイチは土産物売り場で何かを買っていて、外の喫煙所で中身をくれた。私たちは煙草を吸いつつ、個包装のカステラのようなものを食べた。サービスエリアにはもう雪は積もっていなかった。所々に汚れた雪が寄せ集められているだけだ。高地でこれなら、地理的にも美草との関係性は薄まっているだろう。
 私たちは二本ずつ煙草を吸って、車に向かった。
 シイノさんは、短い睡眠で目が覚めたようで、前乗ろうか?、と耳打ちした。私はモリイチの背中を見ながら、ぼんやりと半分眠ったような状態で歩いていた。何を言われたかあまり分からないまま、お願いします、と答え、それでも体は一人でに後部座席のドアの方へ向かった。
 車に乗り込んだモリイチは「眠そうやな」と言って私を振り返り、隣のシイノさんに「ミヤちゃんも、助手席やからって気にせず寝えや」と笑いかけた。朦朧とした視界の中で二人は、私の思っていた家族のように見えた。両親というわけでもないけれど、こういうのだ、と思いながら眠り込んだことを思い出せる。

「美耶ちゃんは知ってるんやろ」
「何をですか?」
「俺のこと」
 守一は美耶の顔を見つめた。大きく揺れた車体は、夜の空気の中で、鋭い音を立てて進んでいる。
「知ってますよ、ちょっとした有名人でしたから」
「そんなことちゃうで」
「分かってます。冗談ですよ」
「雪華子には黙っててくれるか」
「はい。というか、言い方が分かんないです」
 しばらく声を出して笑い、何とか聞こえる程度の小さな声で「せやな」と守一は言った。
「守一さんは、雪華子さんのこと」
「うん、悪いけど、君のことは考えられへんかった」
「私も同じようにすると思いますよ」
 二人はそれから長い時間、口を開かなかった。守一は片手で持っていたステアリングを両手で持ち、ほんの少しだけアクセルを強く踏んだ。運転に集中するために彼はそうしたのだが、それはむしろ彼の意識を散漫にした。目に映る何もかもに、彼の意思とは関わりなく視線が向かい、少しずつ曖昧になっていった。美耶は彼の意識がもつれていくのを感じていた。彼女は何かを言おうとした。固く合わさった唇が開くと、言葉は跡形もなく、その重みだけを残していった。
 高速道路はどこまでも空いていた。広い間隔で設置された灯りは、その間に真っ暗な空間をいくつも生み出していた。それは明滅しているように目にされた。二人の意識は次第に絡み合って、どの線を辿れば自身へ行き着くのか分からなくなった。
 彼らが追い越すのも、追い越されるのも、トラックしかなかった。椎野美耶はその車体が近づくたび、体を強張らせた。彼女には、今では守一の意識が散り散りになっていることが分かっていた。彼は何とか意識を保っているだけで、それをまとめたり、強く固めたりすることはできない。彼女は、守一の手の上からステアリングを支えた。
 雪華子は二人の声を聞いていた。眠る彼女の耳には、意味を持った言葉としては認識されなかった。その音は彼女の体を内側から温め、より深い眠りへと連れていった。彼女は美草での日々を夢で見ている。そこではまだ雪華子と守一は高校生だった。二人は町を歩いている。その名が冠されているだけあって、辺りの植物は陽を受けて輝いていた。美草は四方を山に囲まれた小さな町だ。陽光は町をすっぽりと包み込んだ。彼女たちは陽の光をたっぷりと吸って育った。守一は父親の運転する車から町を眺めていた。幼い彼はそれでも、この町のことを好きになれるだろうと、後にそう解釈される何かを思った。彼は町中に綿毛が飛ぶのを見た。彼は、その後何十回と見たこととは無関係に、その光景を決して忘れなかった。両親が感動したような、間抜けな声を上げている間、幼い彼は、窓に触れた両手と額に冷たさを感じながら、ただ黙って外の景色を見ていた。
 同時刻、雪華子は祖母の家の縁側にいた。彼女は見慣れた光景を、後ろに手を着いて見上げていた。野良猫たちが乾燥した餌を食べるかりこりという音以外、何も聞こえない。家には彼女の他に誰もいなかった。すっかり冷めたお茶と、よく懐いた薄茶けた黒猫が傍らでじっとしている。生垣の向こうに祖母の気配を感じ、スリッパを履いて駆け出した。細い数本の竹で出来た裏口の扉を押し開け、そこに誰もいないのを彼女は見た。祖母は数分後に玄関から帰ってきた。左右で伸びる道にも誰もいない。彼女はしばらくそこに立ったまま、降り落ちる綿毛を眺めていた。
 二人より幼い美耶は、母親に手を引かれてスーパーの中を歩いていた。彼女の視界はすでにぼやけていたが、本人を含め、まだ誰もそのことを知らなかった。間の悪い、ぼんやりとした子だと思われていた。彼女は濃い色彩に強く反応した。お菓子売り場の小さな階段のようなものの一番上に立ち、いつもとは違った光景を見た。母親は彼女がお菓子に夢中になっているあいだ、裏側の棚を見ていた。隙間から時々彼女を確かめた。美耶は高くなった視線の先に、誰かが向かって来るのを見た。下に降りれば、同じくらいの身長だろう。誰かは、彼女を突き飛ばした。彼女はしりもちをついてから肩と頭を打ち、何が起こったのか分からないまま泣き出した。母親は小走りになって棚を回り込んだが、そこには泣きじゃくる美耶しかいなかった。彼女を突き飛ばした誰かは、すでに走り去っていた。
 守一は少しずつ元の意識を取り戻していった。指先にまで力を込めることができた。「ありがとう」と言うと美耶の手を抜けて、ステアリングを握り直した。
「雪華子に見られたら、お互い困るやろ」、軽口をたたけるくらいには守一は意識に馴染んでいた。
「それは、確かに、ちょっと困ります」
「でも、ほんま助かったわ、ごめんな」
「ひやひやしましたけど、大丈夫です」
 美耶は汗ばんだ手をジーンズで拭ってから、無意識に雪華子を振り返った。彼女は小さな高い音を鼻で鳴らして眠っている。美耶は微笑ましい心持ちでその姿を見ていた。
「美耶ちゃん」
「はい」
「美耶ちゃんは美草初めてやった?」
「そうですね」
「いつか、綿毛が飛ぶ頃に来てみ、一人で」
「綿毛ですか」
「そう、何か長い名前やったな、雪華子に教えてもらったけど忘れた」
「それがどうしたんですか?」
「うん、美草な、昔々、よう山火事があったらしいねん、俺らのじいさんばあさんよりも昔な」
「あ、ダンドボロギクですか、雪華子さんが言ってたの」
「それそれ、それやそれや、ダンドボロギクな、そっこら中に生えてんねんそれが」
「はい」
「そんでその綿毛が町中に降りよんねん、土地柄かなんか知らんけど、美草ってなんか眩しくて」
「眩しい」
「俺、色んなとこ歩いて回ってみたけど、ああいう太陽の当たり方ってあんまりなかったなあ」
「あんまりちゃんと感じなかったな」
「まあ、また来たらええやん、その、太陽の光を受けてきらきらした綿毛がほんまに綺麗やねん」
「また行けますかね」
「美耶ちゃんは大丈夫」
 小さなパーキングに入り、二人は煙草を吸うために車を出た。雪華子はドアの開閉音に小さく唸り、体を捻った。
 駐車場には、彼らの他には誰もいなかった。煙草の煙は真上にのぼり、何かにぶつかったように飛散した。固く鈍い音が聞こえ、二人は同時に雪華子に目を向け、それから互いを見て笑った。
 ほとんど灯りのない駐車場は暗かった。トイレの向こうに広がる森も、美耶の目からは影にしか見えない。守一は煙草をくわえたまま、車のまわりを歩いていた。
 物音がすると守一が身を固くするのが美耶には分かった。守一は足を止め、黒く塗り込められた森の辺りをじっと睨み、それから煙草を一口吸いながら歩き出した。どんな小さな音でも、美耶は彼が動きを止めたことで、さっきのは音だったのかと知覚するような音でも、守一は聞き逃さなかった。そのうち、美耶も森の方に目を凝らすようになった。眼鏡をかけていても、遠く暗い場所はよく見えなかった。小さな音は、あちこちで起こっているようだった。それは微風で揺れた草木の擦れる音ではなかった。それは、身を潜めた何かの身じろぎの音だ。大きくはない、時間帯や状況を鑑みると人間ではないだろう。四つ足の何かが、気配としては無数に、二人の様子を窺っていた。
「鹿、ですかね」
「ちゃうで」
「見えるんですか」
「いや、暗くてよう見えんけど、俺はあそこにおるんが何か知ってんねん」
「たぬきとか?」
「もっと身近な生きもんやで」
「じゃあ、野犬とかですか」
「そう、犬は犬やな、野犬かどうかは知らんけど」
「何ですか?」
「美耶ちゃんは知らんと思うわ」
「変わった犬なんですね」
「せやな、特別な犬や」
 美耶は何も言わず守一の横顔を見つめ、そのまま森の方を見た。何も変わらず、気配だけを漂わせて、それらは動かない。その気配だけは、先ほどよりも二人に近づいていた。守一は森の影というよりも、その気配の動きを追っているようだった。そよそよと揺れる木々の影に、何か光るものはないかと、美耶は目を凝らす。そこにはかたまった影もない。美耶は鼻の奥で獣の匂いを感じた。音は、肌に気配を感じさせ、それから匂いを感じる地点まで感覚を誘導した。守一は横目で美耶の様子を確かめた。彼女が匂いを感じ始めたのを彼は知った。ゆっくり、出来るだけ音を立てずに車に乗ってくれ、と彼は言った。彼女は、守一の声を聞いていたが、意識の大半は何かの気配に向けられ、意味を掴めなかった。守一はもう一度、今度は少しだけ強い語気で、同じことを言った。 美耶の体は、固まったというより、ただ思うように動かなかった。守一の言っていることの、意味は分かった。姿は見えないが、かなり近くをそれらが歩いていることに気が付いた。匂いや気配は、比べるまでもなく強まっている。守一は少しずつ美耶に近付いていた。
 守一は美耶の名前を呼んでいた。彼女は顔を上げ、守一がすぐそばまで来ていることを知った。彼女は言われたことを思い出し、声を出さないで「もう、大丈夫」と言った。彼は黙ったまま頷き、運転席のドアまでそろそろと歩いた。
 先にドアに触れたのは美耶だった。彼女はゆっくりとドアハンドルを引いた。どれくらい静かにすればいいものか、彼女は数ミリずつ開くように、同時に体をずらしていった。
 風がふっと抜け、守一もドアを開いたことが分かった。美耶は体を引き上げるように車の中に滑り込ませ、すぐには閉じずに開いたままにした。守一が乗り込んでから同時にドアを閉め、そこにいたことを忘れるくらいの速度でパーキングを後にした。
 二人はぐったりと疲れていて、雪華子が目を覚ましたことにしばらく気が付かなかった。彼女は守一と美耶の、暗くはないが重い雰囲気を感じ、何も言わないで窓の外を眺めていた。

 シイノさんは小さな溜息と手を開いたり閉じたりするのを繰り返していた。もたれかかったザックから、土や木の匂いがする。どれくらい眠っていたのか分からないけれど、頭はすっきりと冴えていたし、軽い空腹すら感じていた。
 わざと大きく伸びをしながら低い声を出した。モリイチは一瞬振り返って、もう起きたんか、と言った。
「おはようございます」
「もうちょいしたらあるサービスエリア寄るわ」
「おはよう」
「お腹空いた気がする」
「ほなちょっと長めに休憩しよか」
「モリイチに任せるよ」
「もう結構近いですね」
「あ、そうか、ミヤちゃんをまず送らなあかんな、次んとこで詳しい場所教えて」
「はい、ありがとうございます」
 私が眠っている間に、高速道路の感じが変わっていた。ほんの少しだけ往来も灯りも増えている。

 三時前でも賑わったサービスエリアは、時間の感覚を鈍らせる。売店やフードコートの店員も、一つ目と比べるとまだ元気そうだった。土産を買うつもりでうろうろしている人も、流動的な車の数も多い。
 モリイチはフードコートのカウンター席の隅に座って、無料でもらえるお茶を飲んでいた。何か車で食うもん見て来いや、と言われて、私とシイノさんは売店でホットコーヒーを三つとポッキー一箱、ポテチ一袋を買った。
 袋を下げて、モリイチの方へ歩いていると、彼は私たちに気が付いて、シイノさんに目配せをしたように見えた。私はカップを三つ持って、そろそろと歩いていた。眠っている間に何があったのかは分からないけれど、二人の雰囲気は初めの方よりも親密でも険悪でもないように見えた。
「お、ありがとう」と言ってカップを受け取り、何買うたん?、と言った。私たちは彼の隣に座り、袋を机の上にのせた。
「ポテチとポッキー」
「何味?」
「のり塩」
「俺も何枚かちょうだい」
「今食べる?」
「あー、そうしよか」
 シイノさんは袋から出したポテチとポッキーを大きく開き、私の前に並べて置いた。
 窓の外に見える駐車場では、一人でいる男の人が多かった。煙草に火をつけながら喫煙所へ歩く人、トイレの方へ歩く人、自販機へ向かう人、フードコート近くの自動ドアへ向かう人はいなかった。モリイチは、ちょっとトイレ行ってくるわ、と言って立ち上がった。
「モリイチと何かあったんですか?」
「え?」
「二人とも、最初はもっと朗らかだったなって」
「何にもないよ、私もまたちょっと眠くなってきてるし、モリイチくんも疲れてるんじゃないかな」
「なら、良かったです」
 シイノさんは、嘘はついていないけれど何かを隠してはいるようだった。彼女が言わないでおこうと決めたのなら、私が言えることはなかった。それに、二人の間で何かがあった訳ではないようだったし、そうだったら、何も問題はなかった。私はモリイチとシイノさんが仲良く、というか、良好な関係であればそれでいい。

 戻ってきたモリイチは、さっきよりも明るかった。顔洗ったら眠気飛んだわ、と言って、隣に腰を下ろした。
「丸々往復?」
「ああ、そうやな、別に近くにおったわけではないな」
「本当にありがとうね」
「気にすんなや。仕事の方は何とかいけそうなん?」
「うん、何とかなると思う」
「そうか、良かった。ちょっと、飯食うてええ?」
 シイノさんと私は顔を見合わせ、「大丈夫ですよ」と彼女が言った。
「ありがとう。何か妙に腹減るわ」、モリイチはそう言って立ち上がり、券売機の前まで行って一つ一つ吟味しているようだった。
 少し前にうどんと大盛りのカツ丼を食べていたのに、かき揚げののった温かい蕎麦と大盛りの親子丼を平げ、残ったポテチとポッキーも食べた。私には、モリイチがよく食べるイメージがなかった。

 喫煙所まで行き、煙草がないことに気づいた。
 ちょっと待ってて、と言って建物の方へ向かった。夜気が上着の隙間から入り込んで体が冷えた。雪はないのに美草よりも寒いのは、サービスエリアが高所に位置するからだろうか。複合的な理由でそうなっているのだろうが、山間にいるといつも、風の通り道にいるようで、そのせいで寒いのだと考えた。それは、参拝時に道の真ん中を歩いてはいけない、と小さい頃から言われていたことと無関係ではないような気がした。してはいけないことをするときの、胸のあたりから頭の方へ向けて抜けていく冷ややかな感触があった。実際には、そんなことではなくて、そんなことは、複合的、という中にさえ組み込まれず、ほとんどは地形の問題だろう。
 売店にはいつもの煙草がなく、それならとシイノさんのピースを買った。店員の男の子はあくびを堪えつつ、お釣りとレシートを手渡して、どうぞ、と言って煙草の箱を滑らせた。

 二人は、吸い終わったのか何もせずに立っていた。
 私に気が付くとモリイチは軽く手をあげてから煙草をくわえて火をつけた。シイノさんは彼を見てから私を見て、それから煙草をくわえた。私がそのスペースに入ってから彼女は火をつけ、ピース?、と言った。
「いつものがなくて」
「何吸うてんの」
「アメスピの青いやつ」
「二人ともきついの吸うてんな」
「モリイチは?」
「やめようやめよう、とここ二年くらいキャスターの三ミリやな」
「やめられてないじゃん」
「思っててもそんな気ないんやろな、むしろ増えたわ、軽軽いし」
 二人の間に立って煙草を吸った。重たい質感の煙が口の中に流れ込んでくる。彼女はいつもこんなのを吸ってるのか、と風味の濃厚さやタールのきつさに一瞬立ち眩んだ。
「大丈夫か?」モリイチは半笑いでそう言って、体を支えようとした。
「大丈夫、ありがとう。ちょっとびっくりした」
 慣れてみると密な甘さが美味しかった。カラメルのような、香ばしさに拠る甘さではなくて、糖蜜だとかコンポートだとか、そういったむっとするほどダイレクトに甘さの伝わるものに近いようだった。数ミリずつ吸い込むと、紙の辛さも立ち眩むこともなく、そのまろやかな甘みを楽しむことできた。
「ユカコ、昔から何でも美味そうに食ったり飲んだりするなあ」
「そう?、そんなの初めて言われたよ」
「だって俺、VONTでコーヒー飲み始めたん、ユカコが休憩中に飲んでんの見て、今から思うとやらしいくらい、はあーって顔してたからやで」
「何それ」
「だから初め飲んだとき、ちょっといらっとしたもん、めちゃくちゃコーヒーやん、てか記憶にあるのより苦いやんって」
 シイノさんと私は、大袈裟に顔を歪ませるモリイチを見て笑っていた。
「でもまあ、あんな顔するくらいやからって、無理矢理飲み続けて、今では美味いコーヒーないとあかんわ」
 私は、そういえば、高校生くらいの頃に誰かに、同じようなことを言われた気がした。ジュンさんがそう言ったのか、男の人に言われたようだったけれど、誰だかは思い出せない。当時のモリイチに言われたのかもしれない。
「ユカコさん、結構、何か食べたり飲んだりしたときの表情豊かですよね」
「やろ?」
「自覚ないなあ」
「はっとしたり嫌そうな顔したり、それこそちょっと色っぽい顔したり、結構はっきり」
「何か恥ずかしくなってきた」
「すまんすまん」

 喫煙所を出るとき、暗くてよく見えなかったのだけど、感触からするとそれほど若くはない男の人と肩がぶつかった。私は振り返って謝ろうとしたのだけど、モリイチは私の手を取って、ええから、と呟いて引いて行った。小さく低い声は、誰だか知らない人の声に聞こえた。胸の辺りに響いて、どこへも抜けずに足の方へ落ちていく。ライターで火をつける音が聞こえて振り返ると誰もいなかった。誰かがいた気配もないし、近くにもいない。見間違いかと考える前に、モリイチの反応や、そもそも三人ともがその人をよけるように喫煙所を出た光景が思い出された。自然にうわずった声で、モリイチ、と呼びかけたが、それはこの距離でも風に流されるほど小さかった。彼は手を離し、頭の上で組みながら背中を伸ばした。わざとらしいくらい大きな声で、もうちょいやな、と言って私たちを振り返り、シイノさんはその視線をパスするみたいに私を振り返った。

 車に乗り込んでからも、私はついさっきのことを思い返していた。窓の外に、溶けたようなぐじゃぐじゃとした風景が流れていく。シイノさんとモリイチは仕事の話をしているようだったけれど、その大枠が分かるだけで、内容までは意味を追えなかった。二人の話に集中しようとするのだが、繰り返される映像の方へ引っ張られて、気が付くと聞こえなくなった。まず、全員見えていたのは間違いがないし、私がぶつかったことも、モリイチのその後の行動からすると記憶違いではない。その辺りに問題はないように思えた。だから、そこを数歩離れて振り返ったとき、そこに誰もいなかったことだけが私の関心というか、恐怖心を起こしていた。ライターのぢりっという音が聞こえたことも、多分、間違いはないだろう。
 結局私は、きっと死角に入ったのだろう、と考えるのをやめることにした。半透明の板四枚で囲われたスペースだけど、腰から下は隠れてもいないけど、と思いながらも、そう考えることにした。

 ナビでは、シイノさんの家まで残り一時間ほどだった。そこから私の家までは四時間もあれば着くだろう。朝日が完全に上りきった後に車の前でモリイチと別れることを思うと、少しぐったりするように暗い気持ちになった。多くの人が一日をスタートさせる時間に、親しい人と別れて眠りにつくのは、毎回のことだけど、何かが大きく後退していくように思えた。昼までには起きて、会社に連絡しなくてはいけない。あれこれ嘘をつく姿を思い浮かべるとうんざりした。
 いつだったか、モリイチが言っていたことを思い出したが、何と言われたのかが思い出せなかった。言われたあと、体のあちこちの強張りが解けていったのを覚えているし、当時と同じくらいの強度で思い出せる。それでも、肝心なはずのその言葉が、候補すら思い浮かんでこない。いつかの私はそれを、忘れることにしたのだろうか。あるいはそれは、モリイチのことを忘れようとしたときに、付随して忘れられたのだろうか。それなら、私は、二人に忘れられたとき、どんな言葉と一緒に消えていくのだろう。私は、シイノさんを忘れた時のことを考えてみたが、当然、どんな言葉が彼女と共にいなくなっていくのはか分からなかった。例えばモリイチは、私が彼を否定するような言葉を忘れるだろうか。そうではない言葉が私を形作っていれば、と願うことは簡単だったけれど、それじゃあそうでない言葉を、単純な数としても、私は彼に投げかけていただろうか。修復を兼ねて、私たちの関係をこれからどうにか出来るのだろうか。私はもう、モリイチのどんなことも忘れたくなかった。
 私は、どうして、両親と話すことをやめたのだったか。妹二人に何も言わずに家を出たのか。美草で何を見ていたか。何か一つ、確かに思い出せるものはないだろうか。ジュンさんは、なるべく二人は離れない方がいいよ、と言った。私は、何と返したのか。モリイチと離れることがあるなんて、考えもしなかった私が、その言葉を真剣に考えるはずがなかった。
「ユカコが毎日のように会いに来たから、俺も行ってたねん」
「引っ越してきてからすぐ、そんなに仲良くなったんですか?」
 二人が、私とモリイチの話をしているのを聞いていると、よりいっそう、何も定かではないようだった。その話は、シイノさんとモリイチに置き換えることは出来ないだろうが、じゃあ本当に出来ないのかと考え始めると、出来るんじゃないかと思い始める。私のあれこれは、要素として、シイノさんが持っていないものはない。もっと良くなるかどうかは別として、それなら代替不可なことではないように、むしろ、どうすれば交換出来るだろうか、と考えの流れ方が変わっていく。
「結構すぐやったと思うな、きっかけは思い出せへんけど」
「モリイチが声かけてきたんだよ」
「え?」
「モリイチが、昼休みだったかな多分、校庭の端の方にいる私に声かけてきた」
「そんな気もせんでもないなあ、なんて言うてたん俺」
「さっき、自己紹介のとき聞いてへんかったやろ、って」
「強気な転校生ですね」
「ガキん頃の俺が言いそうなことやわ」
「ユカコさんはそれで?」
「聞いてたよって、あ、それでモリイチって呼び出したんだ」
「ああ、そっか、そこでモリイチくんでしょって」
「そうそう」
「本当に聞いてなかったんだねユカコさん」
「ね」
 モリイチは黒板の前で仁王立ちで、腕を組んでいた。教室にいる先生以外を全員睨んで、それでいて目以外は親しげな雰囲気ではあった。先生は彼の肩に触れて、ほら、と軽く前に押した。くるっと振り返って、赤いチョークで黒板いっぱいに名前を書くのが見えた。私は、窓の外を彼を交互に見ていた。綿毛があちこちでゆらゆらと降り落ちている。何人かは私と同じように、校庭とモリイチを見ていた。字は汚いけれど、まだ習っていない漢字も込みで彼は名前を書いた。朝磨いた深く鮮やかな黒板の緑に、粉っぽい赤色が綺麗だった。私はそれを、何をしているとか、何をしようとしているかとか、そういったことを無視して、景色として眺めていた。授業と授業の合間の休みで、彼は囲まれてあれこれと質問されていた。私は図書室で借りた本を読んでいた。十何巻ある児童文学の真ん中あたりだったと思うが、タイトルも作者もぼやけていて見えない。モリイチは人混みの中からちらちらと私の様子を見ていた。私以外にも彼の周りに集まっていない子もいたけれど、無関心ではなかった。私は視線に気付いてはいたが、その時点では彼に特にどんな興味もなかった。そう思うと、モリイチは、六歳か七歳の頃にはもう、よく見てるなあ、とか言われそうな特性を発揮していたのだろうか。単に子供は、自分に無関心な人に向かって反応しやすいのだろうか。生存するための何かの機能の名残のようにも思える。私は半分ずつ、本と視線の動きに集中していた。
「それから?」
「多分俺がついて回ったんちゃうか」
「どうかな」
 どこだか分からないのに、どこから来たかを彼が言うとみんな「すごーい」と言った。まばらになっていく人だかりの隙間から何度か、まわりにいた子まで振り向くくらい長いあいだ私を見ていた。私の集中力はもう半分ずつではなかった。本を閉じて引き出しに入れ、早歩きで教室を出た。校庭ではサッカーやらドッジボールやら鬼ごっこから派生した何かよく分からない遊びやら、好き好きに方々で騒いでいる。学校はぐるっと高いネットで覆われていて、それがないのは正門と空だけだ。下駄箱から外に出て見える小さな土手に向かって歩いた。それは通学路と並行してプールの辺りまで続いている。私はその土手と通学路の間、ネットがあるせいで道と認識されるその狭い通りを歩くのが好きだった。よく知った通学路は緑のネット越しでは歪んで見えた。私の前後に伸びる道は白っぽい砂の道で、左側は校庭がすっかり見えない程度には高い土手が続く。そこを歩いているとしばしば、トンネルの中を歩いているような気分になった。実際のトンネルのような、全身が固く締まる感覚はもちろんなくて、適度な閉塞感が心地好かった。
「ミヤちゃんとユカコは?」
「私たちは、何年か前に仕事で一緒になって、そこから、ですね」
「なるほど、縁やなあ」
「おじさんみたいですよ」
「自分でも思うわ」
 土手が途切れたところに、錆びて使わなくなったサッカーのゴールが置きっぱなしになっている。塗料が剥げて錆び付いたゴールポストに触れ、木製のベンチに座った。いつも、座ってから本を持ってくればよかった、と思った。土手を形成する分厚い石の壁にもたれ、走り回る人たちを見た。上級生に混じって遊んでいる子は同い年に見えなかったけれど、その上級生とも同じ歳には見えない。モリイチは多分、下駄箱から一直線に私のところまで走ってきた。息も切らさず走ってきて、そのままの勢いで隣に座った。私もモリイチも何も言わずただ、走り回るみんなを見ていた。
 その日、一緒に下校した覚えがあるけれど、私たちの家は別に近いというわけでもなかった。だから、どうしてもっと近い家の子が一緒に帰らなかったのかは分からない。モリイチは、私が聞いたことに何割も増して返事した。私は彼に本を貸したような気がする。モリイチの家は私の家から、学校の帰り道では奥にあった。彼は門柱にもたれて私を待っていた。何を貸したんだったか。割りに厚めの本だったと思うのだけど、それが一冊なのか、何冊か重ねて渡したのか、それも分からない。モリイチは本を受け取ると、そのときの私には大人に思えた笑顔で、また明日、と言って走って行った。
「博物館でバイトしてたんですよね」
「せやで、あんなに楽で居心地のええ職場は後にも先にもないわ」
「ほとんど寝てたもんね」
「それはユカコのタイミングが悪い、いつもユカコが来る前に宿題終わらせたり本読んでたりしててん」
「お客さんいたの?」
「ほぼおらんな、今思うと何で雇ってくれたんか」
「人柄でしょ」
「アルミホイルで包んで焼いたみかんとか、小さい土鍋買ってきて二人で食うたんとか、ユカコの練習で淹れたコーヒー飲んだりとか、懐かしいなあ」
「全部ストーブに関連してるね」
「ほんまやな、でも、なんかあれ良かったよなあ、人と人の間にああいう触ったら熱いもんがあるのはええねんな」
「それはなんか、太古の先祖たちが焚き火を囲んでたみたいな感じで?」
「そうそう、たまに思うねん」
「すごい羨ましい」
「二人も、一緒に暮らしたりしたら触ったら火傷するもん買い」
「そんなおすすめあるんだ」
 私はモリイチの一言で、シイノさんと一緒に暮らしている光景を思い浮かべた。そこは今の、彼女の家でも私の家でもなかった。どこかのマンションで、窓からは海が見える。そこを飛ぶ海猫や砂浜、開いた嘴のような地形なのだろうか、向こうには岸壁が見える。雪が降っていて、空も海もこれ以上ないくらい鈍い色をしている。私は背後で、ストーブの熱と動くシイノさんの気配を感じていた。
「そんくらい、俺の中であの場所って特別やねん」
「それは、私もそうだよ、何も意識せずに思い出すとだいたい博物館のことが出てくる、あとは散歩かな」
 シイノさんはキッチンで何かの支度を進めている。私はカーテンに触れ、ぼんやりと外を眺めている。絶壁の上に建てられているわけでもないだろうが、角度的に、今見えている海が真下まで伸びているように感じる。ここはどこだろう。私は今まで、海の近くに暮らしたいなんて考えたこともなかった。
「歩いたなあ」
「あの時ってモリイチ、どこ住んでたっけ?」
「下高井戸」
「そっか、あ、学校の近くか」
「そうそう、たまに来てくれてたやん」
「うん、今思い出した」
「私、東高円寺だったから、結構近いよね?」
「まあ、近いと言えば近いな。遠くもあるけど。駅の近くの、よう分からん喫茶店知ってる?」
「おばあさんが一人でやってるとこですか?」
「そうそう」
「知ってますよ、たまーに行ってましたし」
「俺とユカコもたんまに行ってたから、知らず知らずのうちに会うてたかもな」
 海は荒れていた。遠くから見ても分かるなら、波頭はかなり高いのだろう。シイノさんの鼻歌が聞こえた。彼女はキッチンで何をしているのか。どこかを開けたり閉めたり、何かがぶつかったり。私はカーテンを閉めようとして、しかしもう少し海を見ていようと、中途半端な格好でカーテンの端を掴んで固まった。お湯を沸かす音も聞こえた。彼女はコーヒーを淹れようとしているのだろうか。テトラポッドに当たって砕けた波は、砕けながら空中に投げ出され、一定の高さまで上がると不意に落下した。キャニスターから珈琲豆を取り出す音が続く。ここは、特にリビングやキッチンは、二人の家にあった家具がちょうどいい按配で置かれていた。電動のミルが素早く豆を挽き、コンロを切る音が聞こえた。私は腰を捻るようにして、連動した手でカーテンを閉めた。海のない場所で育ったからか、昔から海を見ていると体が硬直した。緊張しているようでも、動きを制限して集中しているようにも、私には分からなかったけれど、長い時間見ていられた。
「そんときから知り合ってたらなあ」
「そうですねえ」
「ええ友達になってたと思わん?」
「確かにね」
「今はミヤちゃん、遠いっちゃ遠いもんな」
「そうですね、割とありますよね」
「な、大学生の頃やったら、なーんも考えんと適当にその辺歩き回って、どうでもいい映画観たり、特に居心地がいいわけでもない喫茶店で二時間三時間話したり、いい感じに無駄に時間潰せるのにな」
「別に、今でもそうすればいいんじゃない?、無理に、どっか行く計画立てたり、わざわざすること決めなくても」
「お、また会ってくれんのか」
「そういうこと?」
「いや、そんなつもりないけど、何となく。二人、正月は?」
「全部で一週間くらい休みありますね」
「私もそのくらい」
「どっかで会おうや、車出すし」
 向かい合ってコーヒーを飲んでいる。私はシイノさんの淹れるコーヒーが結構好きなようだ。しっかり苦いのだけど、後味がすっきりしていて、ついついたくさん飲んでしまう。私たちは何かを話している。何について話しているのか、身振り手振りを交えて、楽しそうに何かを言い合っている。つま先が触れ合い、私は車の中で足元を見下ろした。二人の声が聞こえる。シイノさんは、それじゃあ三人でたくさん歩きましょう、と言って、モリイチはそれに賛成した。
 高速を降りて、街灯の少ない下道を走り始めた。私たちは同時に財布を出したけれど、モリイチは「ETCついてるから」と頑なに受け取らなかった。お礼を言って財布をしまい、ほとんど真っ暗な町を眺めた。シイノさんはいずまいを正して、すぐに降りられるように荷物を整理した。誰かと別れる前の時間は気分が落ち着かない。
 モリイチはしばらく黙って、ラジオに耳を澄ませているようだった。私とシイノさんは会社へ連絡するタイミングやでっち上げる話を考えた。二人ともあらかじめ引き上げることを連絡してはあったけれど、そんなことに見合う理由は何も思いつけなかった。
「ストーカーが来たことにすればええやん」
「ストーカー?」
「何ヶ月も続く電話に、出張先まで来られて、ミヤちゃん一人置いてかれへんかったんも納得してもらえるんちゃう」
「それは、いいかもしれませんね、実際そんなふうなところもあるし」
「その場で通報したりせんかったんも、特殊な状況で切羽詰ってた的なこと言えば大丈夫ちゃうか」
「通用するかな」
「まあ、もう帰って来てもうてるし、ある程度の不備っていうか、そういうのはしゃあないやろ。ミヤちゃんはまあ、知らぬ存ぜぬで」
「そうですね、軽く事情は知ってたんですけどって」
「そうそう。そんで、俺に迎えに来てもらったって、二人の共通の知人が近くにいたからって」
「うん、じゃあ、もうそれで行きましょう、本当にすみません」
「別にいいって」
「あとで名刺渡すし、二人とも、何かあれば電話して」
「モリイチもありがとう、ごめんね」
「俺は面白いだけやから、何も謝らんでええで」
「うん、ありがとう。じゃあ、昨日、地点から帰って来たら駐車場にその人がいて、怖くなって部屋に籠もって、それから迎えに来てもらったってことで」
「まあ、警察ちゃうねんから、思てるよりはなんともないんちゃうか」
「私も、そう思います、実際、ちょっと突飛なだけで、特に何ともないと思う」
「そうかなあ」
「ユカコは割と、昔からそういうの真面目やな。別にこれで不正に儲けようとしたりしてるわけちゃうんやし」
「真面目、真面目っていうか、不真面目だからこそちゃんとしないとずるずるそっちの方へ行っちゃうから」
 やけに野良猫の多い町だった。暗くて色まではよく見えないけれど、モリイチは何度も減速して、道を横切る猫たちをやり過ごした。彼は毎回、口を尖らせてちゅっちゅっちゅっと音を鳴らし、どいてくれー、と言った。聞こえるはずもないのに猫は、音が鳴るとこっちを向いた。ライトや車そのものをちらっと見る時よりも、きちんと何かに反応しているように見える。シイノさんは、今の子かわいい、とか、ゼミにそっくり、とか、猫が通るたびに何かを言っていた。
 野良猫たちはみんな、左側の茂みから右側の茂みへと移動した。どうしてか、一匹たりとも右から歩いてくる猫はいなかった。どの猫も薄汚れていたが痩せてはいなかった。高速を降りてからの数キロでどれだけの猫が横切ったのだろう。十五は超えているだろうが、それ以降は三十でも四十でも、そうかと思える。
「二人とも泊まったら?」とシイノさんが言ったのは、家まで十五キロを切った地点だった。モリイチは、ありやな、と言って、私は迷った。気持ちとしては何の異論もないのだけれど、朝一番に会社に行かないのはどうなんだろう、とさっきも今も考えていた。
「迷ってるなユカコ」とモリイチは笑って、「起きてから言うてたこと電話したらええやん、もしくはもっと夜にそいつが来たことにして、昼とかに今帰ってるところですみたいな感じで」
「この年齢のちゃんと仕事してる人としてどうなのかな」
「そんなもん、どうでもええやん」モリイチは妙に真剣な声音と、笑ったあとの顔で言った。そう断言されるとそんなような気もしたが、私はいつも思いついたことの前後関係での優位性が分からずにいた。どちらも間違いではないし、覆されたという点では後に思うものの方が何より正しくも思えるし、そんなことより何より最初に立ち上がったものを優先すべきだとも思えた。
「どっちみち私たち、今日はいなかったはずだし、引き継ぎを誰かに頼むにしてもそんなに変わらないと思うよ」
「そうですよね、そうですね、うん」
「じゃあ、決定、今日はゆっくりしていって」
「やったー」
「ありがとうございます」
 結局、気が楽になる部分と重たくなった部分を見ている私は、何を考えているのか分からなかった。私はそれを見ているだけだ。寂しいだとか嬉しいだとか、そういったものも、そういう幾つかがあって、その中から私が感じたものだということにして選んでいるだけだった。何かに対して湧き起こる諸々のあれこれは、その都度テーブルの上に割りに綺麗に並べられている。私はその中から、そこにはないけれど最も近しいものを選ぶ。いくつかの例外は、何かを食べたり飲んだりして思うことと、肉体的な苦痛と快楽と眠気、それらは、普段はそこにあるものの中から何とかして選びとる私が抱いているものとほとんどぴったり重なっている。大まかにその五つは、分かるし伝えることができる。
 どこかへ寄って軽く食べられるものを買おう、とモリイチが言って、私とシイノさんは頷いた。彼はコンビニを指差して、あれでええ?、と言った。シイノさんが、はい、と返事して、私はモリイチを見た。
 車を出ると、寒いのだけどぬるくも感じる空気に包まれた。温度としては合間に寄ったサービスエリアとそれほど変わらないだろう。私たちはモリイチを先頭にセブンへ入っていった。
 若い男女の店員は何かの話で盛り上がっていた。人の家にお邪魔している気分になるが、楽しそうで何よりだった。以前少しの間だけ、深夜のファミレスでアルバイトをしたことがあったけれど、最後まで慣れなかった。頭も体も怠く、それまでにどれだけ眠っていても変わらず眠たかった。
 モリイチはカゴを持って、何でも入れてや、と言って私たちを先導した。彼は歯ブラシと缶ビールを二缶、大盛りのどん兵衛と塩むすびを二つカゴに入れた。私とシイノさんも缶ビールを二缶ずつと、鮭おにぎりと梅おにぎりを入れ、レンジで温める唐揚げも入れた。
 意外にしっかりとした接客に軽い感動のようなものを覚えた。それそのもにというより、その切り替えの鮮やかさにだった。彼は、手際良くバーコードを読み取っていき、それが正解としか思えないような組み方で袋に詰めていった。

 マンション近くの駐車場に車を停め、歩道いっぱいに並んで十分ほどの距離を歩いた。大学生の頃ではなく、高校生の頃を思い出した。私たちは三人とも同じ制服を着て、美草の暗い夜道を歩いている。こういうとき、実際の記憶よりも鮮明に浮かんでくるのは、出力の問題なのだろうか。本当にあったことよりもそうでないものの方が、もっと記憶らしい。
 モリイチは袋の持ち手を腕に通して、そっちの手に携帯灰皿を持って煙草を吸っている。誰一人いない道でも歩き煙草を見て少しぎょっとするのは、何かが間違っていた。美草の、一時間に三台か四台かしか通らない道の赤信号を渡らないでいるときも、同じようなことを考えたことがあった。
「ミヤちゃん家は動物飼うてるん?」
「実家に犬と猫が一匹ずついますけど、家にはいないです」
「あ、そうか、家空ける仕事やもんな」
「まあ、そうですね」
「他にも理由ありそうやな」
「そうですね。高校生の頃に、物心つくかつかないかくらいからいた犬が死んじゃって、それから、自分では生き物を飼わないようにしようと思って」
「そんなに好きやのに?」
「うん、だからこそって訳でもないですし、よく分かんないですけど、私が飼わなければ私の犬とか猫とかは死なないから」
「まあ分からんでもないな。他に言い方ある気もするけど、目の前で死なれてもええ人とか動物とだけ付き合ってたいな」
「何となく分かります」
 モリイチは、それでいいやん、朧げに生きとこ、と言って煙草を揉み消した。半歩分もないくらい後ろから、二人のやりとりを見ているのが心地好かった。

 久々というほどでもないシイノさんの部屋は、やはり安らげた。私とシイノさんはソファに深くもたれ、モリイチは揃いのオットマンに腰を下ろした。袋の中身を出すと、机はいっぱいになった。
 それぞれに食べたり飲んだりして、缶ビールを飲み終わる頃には昂っていた気も落ち着いた。私はモリイチとシイノさんが話しているのを眺め、返事をする以外では会話に加わらなかった。ソファに深く沈み込んでいると、アルコールと満たされたお腹の具合も相まって、知らず知らずのうちにうとうとと記憶が途切れ始めた。さっきまでしていた話と今話している話の繋がりが分からなくなり、短い夢を見たり覚醒したり、シートの化粧落としあるから寝たら?、と言われるまでそんな状態でそこにいた。

 雪華子が寝室へ移動してから、守一はソファに移動した。美耶はオットマンに足を投げ出し、そろそろ寝ますか?、と言った。
「別にどっちでもええねん」
「じゃあ、一応毛布持ってきますね」
 美耶が音を立てないように寝室へ入ったとき、雪華子はもう眠り込んでいた。彼女はクローゼットから毛布を取り出し、片手に抱えたままベッドの縁に腰掛けた。指の甲で頭を撫で、何度か短く顔や髪の匂いをかいだ。
 守一は頭の後ろで手を組んで天井と壁の境目を睨んでいた。彼は決めかねていたし、実際どうなるのか、分からないし知っているわけでもなかった。何が持ち上がり、どう起こるのか、自身を含むのか除くのか、何一つ確かなことがない。毛布を抱えた美耶の気配を感じ、組んでいた手を投げ出した。
 毛布を間に置いて、二人は残った缶ビールを飲んでいた。二人きりになると何を話せばいいか分からなくなった。二人の会話は、その内容に関わらず、雪華子がその場にいないと成立しなかった。二人はほとんど同時に煙草に火をつけ、煙を天井に向けて吐いた。細く開けた窓から煙は流れていった。入居者用の駐車場にいた猫がその煙を見た。見たが、それは猫にとって煙ではなかった。煙は地上から伸びていくように上がるものだった。煙とよく似たそれを、猫はただ見ていただけだ。傍らには仔猫がうずくまって眠っていた。美耶は煙草をくわえ、ゴミを袋にまとめた。彼女は何か言いかけ、その素振りもなく取り込んだ空気を吐いた。
 守一はいくつかの考えるべき事柄を順に思い浮かべていった。彼は雪華子を送り届けた後、美草へ戻る必要があった。白木淳に会わなくてはならない。住民のほとんどが正確な名前を知らない、ガガ山と呼んでいる山へ行かなくてはならない。算段をつけようとするが、意識は散漫に、名案のようなものは浮かび上がらない。美耶の体の火照りを感じた。守一は一瞥してから煙草を深く吸い、煙を吐き出さずに息を止めた。体中が開き、閉じた。もう一度開いたときには、初めより開かれた感覚があった。唾を飲み込んでから口を開くと、目に見える呼気といった具合に弱々しい煙が漏れ出た。守一の意識は、雪華子が近くにいないときには、接続と切断を繰り返していた。美耶にはそれが分かっていたが、だからといって出来ることは何もなかった。
 缶ビールを飲み終えると、彼女は「それじゃあ、ソファで申し訳ないですけど、好きにしててください。おやすみなさい」と言って立ち上がった。守一は手をあげて、おやすみ、と言った。彼女はリビングを出る前、色々とありがとうございます、と振り返ったが、そこには誰もいなかったし、適度に片付けられた机のせいか、誰かがいたような気配も感じもなかった。
 雪華子が使ったまま洗面台に出たままの化粧落としを棚にしまい、浴室から石鹸とネットを取った。ぬるま湯で泡を作り、柔らかいそれで顔を洗った。目が覚めたとき、守一は戻って来ているだろうか、とそればかりを考えていた。
 守一はソファに座っていた。美耶の焦点が、自身と彼女の間の空間に合っていることが分かった。彼はそろそろ休まなくてはならなかった。ここ数ヶ月ろくに休めていない。これからのことを思うと、疲れている場合ではなかったがどうしようもない。美耶がリビングを出ていくのを見送ってから、勢いよく寝転んだ。ソファの肘掛けに頭をのせ、体はすっぽりと収まった。柔らかい革が沈み込み、守一の両耳を緩く覆った。美耶の足音が、その振動を耳の奥で感じる。もう雪華子は眠っただろうか、と彼は考えていた。こうなったのは誰のせいでもなかったがそれでも、あらゆる考えは雪華子を起点に始まり、彼女へ帰結した。
 立ち上がって電灯のスイッチを探し、何度かキッチンや壁に近い灯りを着けたり消したりして、ようやくリビング全体を暗くした。オレンジ色の淡い灯りを見つめながらソファに寝そべり、カーテンの隙間から夜空を見た。腕を伸ばして机の上の煙草を取り、火をつけながら空き缶を胸の辺りに添えた。吸い込まれた煙は体中から漏れ出ていく。かぶっていた毛布を足で引き下げ、目だけを下げて空き缶の口に灰を落とした。静かになった家の中では、自身の立てる音と、そこにいると知っているからこそ感じる気配で満ちている。美耶はまだ眠っていないだろう。あれこれと、天井や雪華子の顔を眺めながら思いを巡らせているかもしれない。それとも、彼女は案外別のことを考えているのかもしれない。目が覚めてからの食事や、道すがら見かけた野良猫のことや、彼女はよくやっている方だったし、無駄に慌てたりするところがない。守一は彼女が雪華子と親しくしていることを誰かに感謝しないわけにはいかなかった。彼とっては、有難いこととしか思えなかった。いくつもかの思い出が繰り返し浮かび上がってくる。雪華子が既に忘れ去ってしまったことも、守一は何一つとして忘れてはいなかった。底に残ったビールにタバコが落ちるじゃっという音を聞き、そろそろと机の上にそれを置いた。毛布を引き上げ、頭をさらに沈み込ませた。徐々に熱を蓄える革の質感が、彼を安心させた。久々に感じる眠気のようなものを、定義し直すようにゆっくりと確かめていった。頭の中心と外側が膨張し、空気が抜けたように元の大きさに戻る。はっきりとそう動いているようなのだが、何度手で触れてみても少しも動いていない。それでも手が触れている間も伸縮に近い感覚は続いていた。瞬きの音が聞こえるほど静かだった。
 顎の下まで布団に包まって、強烈な眠気を感じているものの、美耶の目は冴えていた。部屋の暗さと視力からくる薄ぼんやりとした視界の中で、雪華子の顔を見つめている。彼女は本当に忘れてるんだ、と思った。美耶は雪華子の無関心さが好きだった。彼女は大体において、何事にも興味がなさそうで、これといって特別好きなものもなさそうだった。それは垣間見る程度に何度か見た人付き合いにおいても変わらないようだったし、一歩引いている訳でもなく、その場にいるのだけど、そこの空気や雰囲気をつくる何かに参加していないように見えた。彼女は自分自身がなぜ、雪華子のそのような部分に惹かれるのかが分からなかった。その分からなさは、間違っているか合っているかは一旦置いて、ある程度、他の人には通じないような言葉に表せているせいで起こるものだった。彼女の、足が長いのでも腰から上が長いのでもないバランスの好い体つきも、低く澄んだ声も、体中にある黒子も、そのどれもに惹かれていたが、もちろん、何一つ理由は分からなかった。美耶は、自分らしくない、と考えていた。確定できないことを考えるのは彼女が意識的に避け、そのうち常態になったことの一つだった。元がどうであるにせよ、ある目的を持って変えたものは、変更後の姿が正しいものなのだと彼女は考えていた。それは彼女の生きている中での哲学だった。何事も、どのような結果をもたらすにせよ、正しい姿は今なのだと、そう感じていたし、だからこそそう考えた。守一は、今になって何をしに来たのだろうか、彼女はそんな考えを払拭することができない。何を今更、と。しかしそれも、彼女の考えに当てはめると、正しい行動だった。どれだけ手遅れに見えたとしても、何かを変えようとし続けることは、美耶にとっても当たり前のことだった。それでもやはり、何を思ってそうしているかの、その、発端が上手く掴み切れなかった。雪華子を本当はどうしたいのか。私や、私たちをどこへ導きたいのか。一度だけ見にいった彼とは、雰囲気が違っているせいで、別人に見えた。それは顎髭や分厚くなった体のせいではないように思えた。人はあれほど塑性の高いものだろうか。無機物と生物に共通する科学的組成のように、何となく信じがたい思いがあった。今の守一は、彼を形作る要素の、最低限の集合体でしかないように見える。それは、残骸ではなかった。ただいくつもいくつも、何かが足りないだけだった。言葉も交わしたこともない彼のことを、自身がどれだけ分かっているのか、美耶には自信がなかった。それでもその思いつきの強さには抗い難いものがあった。
 雪華子の頬を撫で、手の甲についたタオルの糸屑をつまみ上げた。美耶は彼女と暮らすことを、現実的に考え始めていた。それは、守一の言ったことのおかげだったが、ストーブ以外に触れて火傷するものは思いつかなかった。彼の言ったことが、何故だか頭の隅の方に残っていた。小ぶりなアラジンのストーブでも置こうか。灯油を注いで使うものがいいのだろうか。雪華子さんは私と一緒に暮らすことに、どれくらい、私が彼女らしさの根幹の一つだと感じている冷淡さから離れてくれるだろう。少し分かった。私は、そんなふうに見える雪華子さんがたまに見せる、愛着の持ち方が好きなんだ。私は今の部屋自体は好きではなかった。今あるいくつかの家具を置けるならどこだって良かった。家具が窮屈そうにしていなければ尚いい。仕事だって何だっていい。雪華子さんと行った百貨店の中でランダムに決めたっていい。端から見れば、私の方が冷淡に見えるのかもしれない。確かに、私は何かに対する愛着というものが少ない。ぱっと思いつくものは、家具と雪華子さんだけだった。読み終わった本も、どうだっていいと言えばどうだって良かった。それらを読んだ時間と、今に私がいればそれで何も問題はない。極端なことを考え始めると、もうこれしかない、と思い始めるが、旅行の準備のようで、それが楽しかった。こんな時間まで夜更かしするなんていつぶりだろう、と彼女は感じていた。そんなものはないにしても、もう今の仕事を辞める頃合なのかもしれない、とぼんやりと考えていた。
 守一の意識はリビングの隅まで染み込んでいた。今の彼は、どんな気配も逃すことができない。限界まで先鋭化した意識は、むしろ当人を傷付けた。何もかもが終わって、変わってしまった後、何から始めればいいのか、途方もない選択肢の前で立ち尽くした。何を選び取ることも選び取らないことも、全ては裁量にかかっていた。俺は、何も選びたくなかった。すっぱり終わったと思っていた。こんなことになるなら、初めからちらっとでも教えてくれよ、と彼は思った。どういう訳か、何をするにも疲れ過ぎていた。言葉は、彼の中で意味を失ってしまった。それはただの音になってしまい、何かを伝える手段としての言葉は、彼の手元には何も残されていなかった。守一は方法を知っているだけだった。美耶ちゃんがいるなんて聞いてない。俺がやるべきことは、美耶ちゃんが代わりにしても何も変わらへん。俺はむしろ、何もせん方がええんかもしれん。二人の、ずっと先を邪魔してるのかもしれない。それでも俺がやれることは、やらへんわけにはいかん。何が出来るのか、未だに守一には分かっていない。飛び出してきたようなもので、何が必要かも分かっていない。あるのは車と少しばかりの現金だけだった。そんなもので何が出来るのか。とにかく、二人を美草から離すことはできた。でも、雪華子はまだしも、美耶ちゃんは?またすぐに行かされるんちゃうか。そんとき、もう俺に出来ることは、強引な手段しかない。なるべくならそんなことはしたくなかった。それに、そうなったら雪華子は美耶ちゃんを追いかけるんかも知らん。それこそ、もう終わりや。これはただの旅行に過ぎひん。突発的な休みや。俺らは、二人が目覚めたあと、どっかに飯でも食いに行って、雪華子を送るタイミングを見失ったまま、まあまあ夜までここにおることになるやろう。それはそれでええ。そんなことはどうでも良かった。とにかく、雪華子を、出来るなら二人が、美草へ訪れる機会を奪い続けなくてはならない。誰の協力も得られない。美耶ちゃんは?無理や、結局のところ、彼女が出来ることと、俺が出来ることは全く別のことやねん。白木淳は?もっと無理やな。会わなあかんけど、俺はあの人に俺の言葉を預けてあんねん。巻き込むわけにはいかへん。本来なら、美耶ちゃんも巻き込むべきじゃなかった。雪華子自身は?それが一番利口やけど、あかんし、それに無理や。というかお前誰や。あの子はもう三つ目の犬を見てるぞ。守一は大きな溜息をついた。体中の力が、瞬間的に何もかも抜け落ちたようだった。そういうことは早よ言うてくれや。それなら大丈夫?知るか。事情は説明できても、それだけや。雪華子が納得するんも、手伝うというか何というか、それに立ち向かうのも、俺には分からん。諦める?それがええんやろうな。俺には何もできひんかった言うて、諦めるのが一番ええんやろうな。でもそれはないな。守一は煙草に手を伸ばした。雪華子の置いていったピースを手に取り、一本くわえてポッケからライターを取り出した。しばらく唇で煙草を転がした。煙草を吸う気にはなれなかったが、頭の中だけで何かを考えていることに疲れて飽きていた。起き上がる気力も沸かないし、外に出て夜気を浴びるのも面倒だった。指先が耐えられなくなるまでライターの火を見つめた。何度もそれを繰り返し、観念したように煙草の先端を火の中に差し込んだ。先の数ミリが捲れ上がって熱を抱え、濃密な味と煙が流れ込んできた。守一は、美耶と雪華子がきつい煙草を吸っていることを何故か愛しく思っていた。彼は、ピースを吸いながら、長いあいだ瞼を閉じていた。幼い頃から今までの、雪華子の声を思い出していた。彼女の声はいつも、喉の窪みよりも下から響いているように聞こえた。明瞭な声音は、いつでも彼を癒した。彼は博物館で眠ったことなど一度もなかった。いつも、顔を伏せ、机にしがみついていただけだ。自分自身が散り散りになってしまわないよう、出来うる限り物理的な策を講じていただけに過ぎない。重心を低く、机や何かを強く掴む。そうすれば吹き飛ばされないと、そう信じていた。そんなときでも彼女の声だけは、守一へ届いた。彼は顔を上げる。まだ雪華子に自分の顔が見えない地点から笑顔をつくる。彼女は、また寝てたの、と言う。彼は安心する。俺は寝てただけや、と一瞬だけでも、信じ込むことができる。大丈夫や、俺は寝てただけや。雪華子は彼の目を見つめる。守一は目玉が邪魔だと感じていた。そこに穴だけがあれば、彼女の声はもっと俺の体の奥の方まで届くんちゃうか。果汁の焦げた香りをくっきりと思い出すことができる。話し込んで近付き過ぎた膝の熱さを思いだせた。やかんから勢いよく吹き出す湯気の色を思い出せた。淳さんの言う通りやった。守一と雪華子は、離れるべきではなかった。もしくは、出会うべきではなかった。淳さんに合わす顔がない。いや、あの人なら、ほんまに力になってくれるんやろうな。いつぶりかの美草は相変わらず綺麗やった。葉がなくても、ようけ陽を浴びた草やら木やらは見てるだけで気持ちがええ。昔の人はえらいシンプルな名前つけたな。守一は灰を落とさないように空き缶を取った。半分ほど残った煙草を中に落とし、机の上に置いた。毛布の重みが心地好く、頭がぼんやりと鈍くなってきた。
 美耶は眠っていた。夢も見ず、深い眠りの中にいた。雪華子は寝返りをうち、彼女の体に右半身が重なった。美耶は口角を上げ、ほんの一瞬瞼を開けた。そこには何の意識もなかったが、目は勝手に何かを確認しようとした。彼女は雪華子の体を抱き締め、そこで初めて彼女の体の重みを感じていた。雪華子もふっと瞼を開け、微笑みを残したままの美耶の顔を認めた。近さと眠りのもやでよく見えなかったが、笑っているのは分かった。自身の意識のない時にも、誰かが自分のことを思っていたのだと、彼女はさっきより深い眠りへと落ちていった。二人は太陽が中空へ昇るまでぐっすりと眠った。

 遮光性の高いカーテンのかかった部屋で目覚めると、今が何時頃なのか見当も付かず、寝過ぎたことだけが分かる。シイノさんと私は、頭の横っちょをくっつけて、八の字みたいに眠っていた。開いた扉の向こうから物音が聞こえる。水を流す音や足音。
 シイノさんを起こさないよう布団を出て、ベッドのそばにしばらく立ったまま彼女を見下ろした。彼女は寝返りをうって何かを呟き、口をもごもごさせてから落ち着いた。

 ほとんど隙間を変えずに扉を抜け、リビングへ行った。
 モリイチはキッチンでコーヒーをつくっていた。おう、飲むか?、と言ってインスタントコーヒーの瓶を指さした。
「おはよう、もらおうかな」
「よう寝たなみんな」
「多分、今何時?」
「いや、まだ時間見てへん」
 ソファに向かいながら時計を探し、ちょうどソファの前の壁、キッチンへの吹き抜けの上にかかっていた。十二時を大きく過ぎ、あと数分で十三時になるところだった。私は慌てて立ち上がり、iPhoneを探した。
 見つけたそれにはカギタニくんとアキちゃんからの着信が数件ずつと、社長からの一件残されていた。足音を立てないよう小走りで玄関まで行き、裸足のまま靴を半分履いて外へ出た。
 扉にもたれかかって、社長、カギタニくん、アキちゃんの順に掛け直した。拍子抜けするくらいみんな話が通じて、私はまだ眠ってるんだ、と思うほどだった。普段は割りに厳しい社長でさえ、軽い注意と「ゆっくり休め」と言ってくれた。電話を切ってカギタニくんへかける短い間に、言伝したらしく、間を開けて通じたカギタニくんは少し慌てた様子だった。代理の人探しとけって言われたんでこっちに任せてください、と彼は言って、私が返事をする前に電話を切った。アキちゃんは涙声で、三人の中で一番心配しているようだった。ほんの少し関係のない話をして、彼女が笑ってから電話を終わらせた。そのまま廊下の先を見つめ、何も考えずしばらく立っていた。何かを考えるべきなのだけど、こんなんでいいのかな、と文字になって浮かんでいるのを見ているだけだった。
 思ってもいないような形で、物事が上手く落ち着こうとしていくのは不気味にも思えた。初めから終わりまで、私自身はほとんど無関係に、それらは進行していったようだ。

 リビングに戻り、ソファに座って出来上がっていたコーヒーを啜った。モリイチはオットマンに腰掛けて、開けた窓から外を眺めている。私はそれでも、ちらちらと時計を見ていた。
「どうやった?」
「みんな、かなり心配してたけど、特に何事もなく終わりそう」
「良かったやん、何時に帰りたいとかはあんの?」
「うん。ううん、これといって指定の時間はないかな、今日のうちならって感じで」
「うんうん、ほなミヤちゃん起こしてご飯でも食べに出ようや」
 マグを机の上に置きながら立ち上がり、寝室の方へ歩き出した。
 シイノさんはまだぐっすり眠っていて、もう時間を知っているけれど、薄暗い部屋の時間はよく分からなかった。起こしたくなくなるほど気持ち良さそうに眠る彼女を、壁にもたれてしばらく見つめたあと、シイノさんも会社に電話しなくちゃいけないんだ、と思い直した。壁から離れ、ベッドに腰掛け、シイノさんの肩に触れた。声をかけながら軽く揺さぶるとすぐに目を覚まし、おはよう、とがらがらした声で言った。

 モリイチとコーヒーを飲みながら待っていると、シイノさんは戻ってきて、手で頭の上に丸を作った。
「大丈夫やった?」
「うん、今日中に別の奴を行かせとく、って」
「ほんじゃ今日は二人とも休みやな、なんか食べ行こう」
「行こー」
 私たちがあれこれと用意している間、モリイチはベランダに空き缶を持って出て、煙草を吸いながら遠くを見ていた。

 駐車場まで歩く間に、何を食べようか、と話し合った。時間も微妙だし中華しかないかも、とシイノさんが言った。三人とも食べたいものはなかったし、とりあえずそこまで行ってみようということになった。
 それなら車はいらないよ、と進路を変更し、路地を抜けて別の少し広い道路へ出た。
「生まれも育ちもここ?」
「そうですね、大学の四年間だけしか出てってないですね」
「何で戻ってきたん」
「何で、うーん、特にはないですけど、好きなんですよねここ、何となく、何があるわけでもないですけど」
 モリイチは少しだけ驚いたような顔をして何度か頷き、煙草をくわえたあとポッケにしまった。

 中華料理屋は広い道路から住宅街へ入ってすぐのところにあった。赤と黒と茶色の外装は割と綺麗に保たれていた。私たちが中に入ると、厨房にいた男の人が大き過ぎる声で「いらっしゃい」と言って、その声で奥さんだろう人が暗がりから出てきた。
 四人がけのテーブルに落ち着き、メニューを見た。厨房の方から「ランチもできるよ」と声をかけられ、私は彼が何か言うたびに体をびくつかせた。ランチのセットは一時間以上前に終わっていたけれど、私たちは好意に甘えようとランチセットを三つ頼んで、単品でエビチリと酢豚を追加した。
「美味そうやな」と店内を見回すモリイチを見ていると、おかしくも見えたけれど分かるような気もした。
「たまに来るんですけど、結構好きですね、お昼過ぎたら今みたいにのんびり食べられるし」
「ユカコさん、よく眠れた?」
「え?、うん、車でも寝ちゃってたけどぐっすりだったよ」
「良かった」
「二人は、割と遅くまで起きてたの?」
「でも三十分も空いてへんちゃうかな」」
「そっか。二人とも、本当にありがとう」
「どういたしまして」シイノさんは唇の右端だけで笑っている。モリイチは眉を上げて頷いた。

 餃子とスープ、炒飯と小皿の青椒肉絲がのったお盆が三人の前に置かれ、その隙間にエビチリと酢豚が並んだ。私はその時点で少し空腹度合いが減った。モリイチとシイノさんはさらにお腹を空かせたようで、いただきます、と言うと黙々と食べ進めていった。
 どれもこれも美味しいのだが、餃子だけ格別に美味しかった。焼き目の香ばしさと薄く透けて見えるほどなのにもっちりと食感のある皮も、肉汁と野菜のスープが溢れてくる餡も、五つじゃ足りないくらいだった。気が付くとモリイチは私を見つめていて、目が合うとにやっと笑った。やるわ、と言って二つ残った餃子を指差し、目線をあげると、二つとも、と言った。
 国産ではなさそうな酢醤油も良いアクセントになっていた。香りが多く、味そのものは薄いくらいで、旨味の強いこの餃子と合わせるといつまでも食べていられそうだった。
 シイノさんはエビチリを、モリイチは青椒肉絲を気に入ったように見えた。モリイチは卓上で残ったものを全て平げ、メニューを見て胡麻団子を頼んだ。私たちは杏仁豆腐を二人で分けることにして、お皿やらを引き上げてから持ってきてくれた六堡茶というお茶を啜った。すっと抜けるような甘みのあるお茶だった。

 腹ごなしにドライブでもしようや、とモリイチが言ったのは、会計を済ませて店を出てすぐだった。
「やったー、でも、疲れてないですか?」
「大丈夫やで、ユカコは?」
「私も、大丈夫」
「ほな行こ、このまま車んとこ行って」
「カメラ取ってきていいですか?」
「ほな二人で乗って待っとくわ」
 来た道を戻り、右手に駐車場が見えるところで二手に分かれた。
 何とか押し切って駐車料金を払い、助手席に座った。
「別にええのに」
「お昼ご飯も出してもらったし、昨日も色々」
「気にすんなや」
 モリイチは車を出し、マンションのロビー前につけた。
 数分後に降りてきたシイノさんは、首からカメラを下げ、布を抱えていた。それは人数分のブランケットとマフラーで、後部座席に座ると「さあ、行きましょう」と言った。
 彼女は、行く場所が決まってなかったら湿原でも行きませんか、と言って、私とモリイチはもちろんそれに賛成した。二人ともこの町のどこに何があるか知らなかったし、うきうきしているシイノさんに水を差す気もさらさらなかった。
 モリイチがその場所の名前を聞いて、ナビは私が設定した。一時間ばかりで到着するようだ。「ちょうどええ距離やな」とモリイチは言ってアクセルをくっと踏み込んだ。
「コーヒー淹れるセット持ってきたからさ、ユカコさんお願いしていい?」
「え?、全然いいですけど」
「良かった、あの、何だっけ、喫茶店で淹れてたの美味しかったから」
「ああ、VONTでですね、同じようにはならないですけど、頑張ります」
「うん、丸っぽいドリッパーと一応豆の状態で持ってきた」
「丸っぽい、一つ穴のリブが、線がうずっぽくついてるやつ?」
「そうそう、豆はね、インドネシアって書いてある」
「あ、じゃあ、結構近いのが出せるかもしんないです」
「やったー」
「ユカコ、VONTでコーヒー淹れたん?」
「うん、ジュンさんが飲みたいって言ってくれて」
「ほー、ええなあ、俺も久々にあっこでユカコの淹れたん飲みたいわ」
「何とか再現してみます」
 どの道もまっすぐ伸びていて、退屈だろうが走りやすそうだった。広めの道はどこも、何度曲がってもすっと伸びていく。コンビニで二リットルの水と紙コップを買い、煙草を吸った。モリイチは、昨日もらったから、とキャスターを一本くれた。何となく煙草をイメージした時通りの味だった。苦さや甘みのバランス、煙の量や立ち上り方、どれも頭の中の煙草と同じだ。
 美草と何が違うかと聞かれると、これといったものは何一つ挙げられないのだけど、それでも息苦しくはなかった。ここにあるものは向こうにもあるし、向こうにないものはこっちにもない。私には自分が美草をどうしてこんなに嫌がっているのかも分かってはいない。印象や思い出のせいでしかなかった。何か分からないけれどここを好きだと言ったシイノさんの表情が頭の中で再生されている。何かを好きになるのに理由はなくていいけれど、嫌うとなると明確な理由が必要であるような気がした。それで言えば私は、生まれ育った美草に対して、まだどのような評価も下してはいけない。モリイチは多分、どちらでもなかった。数多ある町のうちの一つ、その中ではほんの少し特別な場所として美草はあるような、そんなふうに見えた。
 私にはこんな時に、じゃああそこへ行きましょう、と言えるような場所が一つもなかった。それはどんなところでもそうだけど。どんな場所で何がしたいかを訊ねてからなら、それじゃあ、とどこかへ行くことを提案できるのだけど、何もないところから、きっと気に入るはずだと示せる場所を持っていない。
 シイノさんは布にまみれたまま椅子に深く座り、窓の外や私たちを見ていた。大体モリイチとシイノさんが話して、私は特にどこも見てはいないけれど、ぼんやりと会話に参加していた。満腹で眠いような気もしたけれど、そういうわけでもなく、ただ意識が浮腫んだようにぼわぼわしていた。彼女はしょっちゅう、やったー、と言ってにこやかにしていた。後ろに座っていても、ルームミラーで心底嬉しそうにしている彼女が見える。

 駐車場に着く頃には陽はほとんど落ちかけていた。三人ともシイノさんの持ってきたブランケットを羽織り、マフラーをしっかりと巻いた。シイノさんの背負っていたリュックをモリイチが「持つで」と言って肩にかけ、彼を先頭に湿原まで伸びる山道を歩き始めた。
 私たちは狭い道で並んで歩き、モリイチの背中を見ながら下っていった。普段山歩きをしているのか、彼の足取りは軽やかだった。少し心拍数が上がる。乾いた地面を踏み締める音と風が左右の森を抜ける音、リュックの中で何かがぶつかる音以外ほとんど何の音もなかった。鳥もいない。時折誰かの靴の下で、ぼっという音がなるくらいで、例外的なものは他にはない。シイノさんはいつもこんなところに一人で来ているのだろうか。モリイチは時々振り返って、大丈夫か?、と言った。私たちが元気よく、うん、と返すと、何度か後で「そっか、二人ともようけ山歩いてんのか」とひとりごとを言った。
 それからも何度か彼は振り返ったけれど、何も言わず、私たちの奥にある道の方を見ているようだった。私はモリイチが前に向き直ってから、後ろを見た。何もないし誰もいない、今し方歩いてきた山道があるだけだ。細い丸太で作られた階段と、そのせいで抉れた階段の左右の溝、丈の低い笹とその少し奥の藪らしい風景、そんなものがあるだけだった。シイノさんは一度も振り返らなかった。彼が何を確認しているのかを知っているような、あえて見る必要もないといった表情にも見えた。
 十五分ほどで平地に出た。背丈くらいある枯れたタカノハススキの間を縫うように続く道を歩き、湿原の上をぐるりと回る木道の前で立ち止まった。腰をかがめてちょうどよく見える看板に、湿原の名前と簡単な地図、よく見られる植物などが書かれてあった。全長一キロほどの木道は、半分ほどは左手にある湖に沿っている。後の半分は私たちが降ってきた山側で、まずはそっちの道を進むらしい。
 看板を過ぎると途端にススキは消え、湖と山や木道が一望できるようになった。木道は湿地から一メートルもないくらいの高さで伸びていて、音の響き方から橋の上を歩いている浮遊感があまりなかった。
 シイノさんが前を歩いて、私とモリイチは後ろを歩きながら煙草を吸っていた。誰もこおへんし誰もおらんやろ、とモリイチが煙草を吸い始め、私もそれに倣った。一人だったら吸ってないな、と思いながらも、開けた場所で吸う煙草は美味しかった。空気も、駐車場のあったところよりも澄んでいるけれど瑞々しいようにも感じる。肌に当たる風がちょうど良くしっとりしていた。シイノさんが振り返って、いいなー、と言ってから吸い始めた。
 私は湿原と木道を挟んで向こう側の湖を見ながら歩いていた。モリイチとシイノさん比較的ずっと前の方、これから歩く木道の方を見ていた。湖や海や池といった、巨大な水の溜まりが幼い頃に側になかったせいか、大人になってからそういったものに惹かれることが多くなっていた。川なら町のどこにいたって見ることができたのだけど、どこにも溜まらずに流れていくだけだった。夕陽をたっぷり吸い込んでオレンジ色になった湖面は、ゆらゆら揺れるたびに淡く輝いていた。対岸の山は黒っぽい影に覆われていたが、湖は目にうつる端から端まで輝いていた。波頭と、次の瞬間には波頭になる湖面はそれぞれに違った光の反射の仕方があるようだった。鈍く光る部分と鋭く光る部分が層を成している。

 うねうね続く木道がカーブして右手のすぐ側に湖が見える頃、陽の光は弱いのだけど局所的に鋭く差し込んでいた。湖上に迫り出し、背もたれのないベンチが一つだけある場所で立ち止まった。モリイチとシイノさんがベンチの両端に座り、私はその前に腰を下ろしてリュックを受け取った。ポール型の手挽きミルと小さな琺瑯のポットを出し、ガスを使って湯を沸かした。紙コップを出していても飛ばされないくらい風がない。それでも、とぼとぼと歩いて火照った体にはちょうど良かった。サーバーの上にフィルターをセットしたドリッパーを置き、沸いたばかりの湯を紙全体にかけた。サーバーに溜まった湯を紙コップに移し、ミルからドリッパーへ珈琲豆を流し落とす。気持ち程度に、蓋を取ったポットを揺らし、中の湯が冷めるようぐるぐると回した。
 二人ともやけに真剣な表情で、火のついた煙草をくわえたまま一連の動きを見つめていた。VONTで働いていた頃の緊張感を思い出しながら、湯を注ぎ始めた。少し細挽き寄りにして、熱めの湯をゆっくりと注いでいく。蒸らしている間に、まだ光っている湖を眺め、水上すれすれを飛んでいく鳥を見つけた。中心から外側に向かって、そのポットで出来る限りの細い湯を時間をかけて注いでいった。遅れてやってくる濃い香りが辺りに漂い、一瞬だけ寒さを忘れた。終盤に少しだけ湯量を増し、濃密な抽出液を湯で伸ばすような感覚で落としていった。
 出来上がったコーヒーを三つの紙コップへ移し、二人の間に座る前に片付けを済ませた。モリイチとシイノさんは、紙コップを両手で持って私を待っていた。そうか、二人は飲み物の飲み方が似てるんだ、と思い付きながら傍らに置いていた紙コップを手に、ベンチの空いたところに腰を下ろした。
「ああ、美味しいなあ、ありがとうユカコさん」シイノさんは一口啜った後、何かを思い出しているような表情で言った。
「懐かしい味するわ、豆なんかいつもいつもちゃうやろうに、ユカコのコーヒーって思うんなんでなんやろ」
 二人の表情を見ながら、少し体を反らせてにやにやした顔が収まるのを待った。一口飲み、上手く淹れられたことと、陽が落ち切る前に終われたことを喜んだ。陽の光が背後から差しているのは分かっているし、背中の暖かさから、体でも感じているのに、湖の中から光が広がっているように見えた。
 それから陽が沈み切るまで、私たちは何も話さずにそこに座っていた。熱かったコーヒーも冷め、体も、芯までとはいかないまでも冷えて固まっていた。二人はやっぱり私より寒さに強いようで、ブランケットをしっかり体の前で合わせてはいるが震えてはいなかった。腿や胴体といった、そのほかの部分よりも若干太いところの奥が震えていた。肌で感じる寒さは、もう感じ取れなくなっているのか、それほどでもなかった。
 暗い湖は高い粘性を持っているかのように揺らめいていた。鴨たちは流れのままに漂っていて、陸地に近づき過ぎると飛んだり泳いだりして距離を取った。その行動は本能によって為されているのだろうか。いい感じの場所、みたいな淡い感覚を元にしているのか。何に対しても予想の範囲を出ない。
 最初に立ち上がったのはモリイチだった。ごっそうさん、と言って空の紙コップを振りながら腰を上げた。シイノさんのカップをちらっと見てから、半分くらい残っていたコーヒーを一息で飲み干した。彼女のカップを受け取り、背中を伸ばしながら立ち上がり、モリイチのカップも回収した。
 リュックは変わらずモリイチが、重ねた紙コップを私が持って、残りの木道を歩いた。もちろん灯りはないのだけど、月光で足元はしっかりと見えていた。広くはない木道をシイノさんと並んでいると、冷気とは違った冷ややかさを感じることになった。普段の山の中では見れない植物を見ていると、縁から爪先が出ていたりする。そのたび釣り針のような形で、おへそから鳩尾にかけてすっと冷ややかさが抜けていく。意識しないうちに高度を増していたようで、ぽつぽつよ高山帯に生える植物を見ることができた。どれもこれももう花はないけれど、奇妙な形のものが多くて好きだった。そういえば、シイノさんが好きな植物を知らなかった。彼女はどちらかというと動物に強い印象があったけれど、私が何かしらの植物を発見すると、その私に気がついて「それは?」と訊ねた。それは、私のためという面もあるだろうが、声音からすると、彼女自身にも興味があるようだった。彼女は「どんな花が咲くの?」と言うことが多かったから、基本的には園芸植物の方が好きなのかもしれない。私は地味な植物が好きだった。一見、何のためにこんな形状に育つ必要があるんだろう、と思えるものに惹かれた。まだ花を咲かせていな蘭科や桔梗科の、地面からいびつに伸びる姿は何度見かけても飽きなかった。
 歩き始める前に、「写真撮ろうよ」とシイノさんが言って、モリイチは「恥ずいわ」と言って嫌がっていた。私は二人のやりとりを見ながら、すっと部外者のように立ちすくんでいた。モリイチがそんなに何かを嫌がっているのを見るのが珍しくて、口元が緩んでいた。シイノさんは「いいからいいから」と言ってモリイチを私の横に押し、私が彼を抱き止めた。シイノさんは座っていたベンチにリュックを、その上にカメラをのせてセルフタイマーを設定した。私はモリイチごとしゃがんで、シイノさんが隣に来るまでじたばたする彼を抑えていた。
 シイノさんがすぐ側に腰を下ろしたのと同時にフラッシュが瞬き、そこでようやくモリイチは体の力を抜いた。そうすると途端に彼の体が重たくなって、左の足の裏と右足の爪先で取っていたバランスが崩れた。木道の狭い出っ張りの上で私たちは倒れ込んだ。彼の体は、ホテルのロビーで抱き締められたときとは違って、立ち枯れた巨木のようだった。見た目や触れたときの印象と、力一杯叩いたときに響く高いのか低いのか分からない微妙な音や水分が抜け落ちて朽ちた軽い感触の差のように、今こうして見ているモリイチと、何かがずれているみたいだった。
 私はモリイチの上から横にずれて立ち上がり、彼の手を取った。彼は、怪我ないか?と立ち上がりながら言って、ぱたぱたと服をはたいた。シイノさんは「大丈夫?」と言ってから私たちに液晶画面を向け、いい写真、と言い足した。
 私は、自分でも見たことがないくらい笑っていた。モリイチはカメラに顔を向けながらも、何かを見つけたような表情で、目も口も中途半端に開かれていた。シイノさんだけぶれないで写っている。横目で私とモリイチを見て、下唇を噛んで笑っている。
 ふっと周りの空気が軽くなったように感じるほど、隣のモリイチが体の力を抜いたのが分かった。彼は画面を見つめたまま、内側から噛んでいるのか、唇をもぞもぞ動かしていた。何か言いたいのか、言おうとしているのか、それを我慢しているようではなかった。沈黙の長さが違和感に変わる少し前に「ええ写真や」と言って木道に体を向けた。それは本当にいい写真だった。きっとこれ以上に良く写る私はこの先にはいないだろう。
 モリイチは左肩にリュックと束ねたブランケットをかけ、対岸の山を眺めていた。思えば丸一日以上お風呂に入っていない体から嫌な匂いがする。顔を下に向けるともわっとした匂いを感じた。私はそれで、反射的にというのか、シイノさんの匂いを嗅ぎたいと思い始めた。何となく、犬や猫みたいに人に近いところで生きている動物や動物園で見れるくらいの動物たちは、種類によって匂いの違いがあるにせよ、獣臭いと言ってしまえるが、人は割と、短い日数であれば、それぞれに違った匂いがあるように思っていた。最後に体を洗ってから何十時間か経って、人の匂い、と言って通じる範囲の中でも、私とシイノさんとモリイチとでは全然違った匂いがするはずだ。それを確かめたかった。二人の今の匂いをどう思うのか知りたかった。
 月の光は湖面に反射されているように見えた。夕方に木道を歩いている時よりも、見えるものは少なくなったが、今の方が明るく感じられた。うっすら緑がかった青白い光が私たちを照らし、濃紺の影がちらちら震えている。
 木道を歩き終え、ほとんど何も見えない山道の階段を登り始めた。私とシイノさんは体を寄せ合い、モリイチはすたすたと速度を変えずに歩いている。シイノさんからは、私が思う彼女の匂いが、少し濃くなったな、というくらいしか違いがなかった。意識しているからこそ分かる程度の汗の匂いと、ブランケットの埃の匂い、ずっと前に付けただろう香水の残り香、そんなものが混じり合っていた。
 前を歩くモリイチのジャケットは、その布地の畝に夜の暗さが溜まり、つるりとしているように見えた。彼の足取りは一定だった。仕事でもたまに出会う、どの地形でも歩く速度の変わらない人と同じ足運びをしている。微々たる差だけど普段より少し狭い歩幅と、腰から歩いていると印象に残る筋肉の動かし方、横にも縦にも動きの少ない上半身の動き、その全ての動きがしっかりと連動している。今すぐにでもシャワーを浴びたい。自分自身の匂いが気になって呼吸が浅く乱れていた。冷え切った体のせいもあるだろうが、いつもなら何てこともない坂道が苦しかった。

 駐車場に着いて、車に乗り込む前に煙草を吸った。柵から見える木道は、実際よりも長く、脆そうに見えた。月光の下では舞台装置にも見える。あんなところを歩いていたのかと、体が大きくなったような気がした。
 モリイチはリュックを助手席に置き、私はシイノさんと一緒に後部座席に乗ることにした。彼はさっと後ろを振り返り、前を向いてから「このまま帰るか、いったんミヤちゃんとこで休ませてもらうかどうする?」と言った。
「シャワー借りてもいいですか?」
「シャワー?、もちろん、汗かいた?」
「そういうわけでもないですけど、自分の匂いが気になって」
「そう?まあ好きに使ってよ」
「ありがとうございます」
「そんじゃあ、車停めて、ユカコはシャワー浴びて、それから適当に帰り始めよか」
「うん、お願いします」

 帰り道の途中でシイノさんは私の肩に頭をのせて眠った。彼女の側の窓から外を見る意識を持って、つむじに鼻先を当てて匂いをかいだ。思った通り、ほとんど同じような時間を過ごしていたのに、嫌な匂いはしなかった。私もそのまま眠ってしまうほど、いつもと変わりなく、安心する匂いだった。

 目が覚めたのはマンション近くのパーキングでエンジンが切られたあとで、私が目覚めて数秒経ってからシイノさんも目を覚ました。
 着いたで、と言われてから目覚めたことに気が付くようなタイプの睡眠だった。私たちは、ごめん、とか、すみません、とか言いながら体を伸ばし、車から降りた。シイノさんは素早く助手席の方へ回ってリュックを取り、私はドリンクホルダーに置いておいたカップを手に取った。

 シイノさんと分担してリュックの中身を洗ったり片付けたりして、私はシャワーを浴びることにした。
 浴室の角にはラックがあって、シャンプーだけでも五種類あり、トリートメントは八種類あった。どれも同じくらい減っていて、洗顔料はチューブタイプが三つと固形タイプが二つあった。意外な一面というか、ドラッグストアやらどっかで、訪れるたびに新しいのを買っている彼女を思い浮かべると自然に笑顔になった。折角だからとばらばらに使って、三種類あるボディソープから選んだものは、何故かいつものシイノさんの匂いがした。私と彼女が会うときは毎回仕事に限られていて、各ホテルで毎朝顔を合わせるときは私と同じ匂いがしていたのに。
 久々に鏡で自分を見ると、最後に見た時よりも数段痩せているようだった。痩けるほどではないが頬から顎にかけてのラインが、肉よりも骨に意識が向く。何歳からか、腰の上に座り込んだみたいな肉も目立たなくなっていた。毎年冬になると、夏場よりも山での運動で痩せた。今年はそれを認識するまでが長かっただけで、ずっと前から痩せ細っていたような気がしてくる。
 立ち上がって体の隅々を見て、知らない痣や黒子を見つけた。私よりもシイノさんの方が先にそれらを見つけているのかもしれないと考えると、実際よりも長い時間、彼女と同じ時間を過ごしてきたように思えた。
 匂いを取るというよりも、ボディーソープを擦り込むみたいに体を洗い、最後に、耐えられる限界の熱いシャワーを浴びた。熱が体に蓄積され、湯が当たってから「熱い」と思うまでの感覚が瞬間的に短くなっていく。それも限界を迎えるとシャワーを止め、浴槽の縁に腰掛けた。体の表面が一気に冷えていく。引き剥がされる感覚があり、肉感的に気持ちがいい。急激に冷えていく、ように思える体とそれに対抗するように熱っぽい芯のあたりのバランスを見極めるみたいに、じっと、瞼を閉じて座っていた。私が思っていることと、体の自発的な運動、脳味噌の捉え方がちょうどよくなったころ、立ち上がって扉を開いた。
 固くも柔らかくもないタオルで体を拭きながらいつも通り、全部頭でなんて信じられない、と感じとしては首の後ろあたりで思っていた。お風呂を上がる前に熱いシャワーを浴びるようになったのがいつ頃からだったか、多分、高校生になってからだろうが今とは違って、性欲を解消しようとしていたように覚えられている。満たされるというわけではないのだけど、その、空のどこかに、何かが注がれることが、そういう事実が私を満足させていた。もしくは、溢れたものを収めておけるものが自分の外側にあることにほっとしたのか。どちらにせよ、性欲そのものをなくすというのではなくて、ただ、それに対して自分自身が対処可能かどうかを確かめようとしていたのだろう。結局それは、誰かとの性行為とマッサージの中間くらいの、気持ちのいいこと、として習慣化された。

 新品の歯ブラシが置いてあり、多分シイノさんの字で「良かったら使ってねー」と書いてあった。
 予想していたわけではないけれど驚かなかったのは、予想することの前にそこへ含まれるだろう物事が私自身にもそのものにも関わりなく包括されているからだろうか、洗面台の鏡を開くと、歯磨き粉のチューブが十本、大体半分のところから口に向けて膨らんで、ぬっと立ち並んでいた。何かがおかしくて、鼻で小刻みに笑いながら、左から三番目の黒っぽいパッケージのチューブを選んだ。
 シナモンと強烈なミント、あとからコリアンダーのような苦味のする、全体は油っぽい粘土の風味で包まれた歯磨き粉だった。少しだけ吐きそうになりながら、涙目で歯を磨き、ゆすぎに普段の三倍くらいの時間をかけた。すっかり洗い出してしまうと、ほわっとミントの香りが残るだけだった。洗い上がりもいいし、後で買おうかとパッケージをしばらく見つめ、名前を覚えようとしている最中に味を思い出して吐きそうになった。

 髪を乾かしてからリビングに戻ると、二人はソファに座って煙草を吸いながら笑っていた。
「ありがとうございました」
「すっきり?」
「うん」
「俺はいつでも出れるし、いつでもええし、ゆっくりな」
「うん、ありがとう。私も、煙草吸ったら出ようかな」
 オットマンに腰を下ろし、煙草をくわえて火をつけた。私がそうだから、目玉の表面とそこから少し染み込んで、シイノさんは寂しそうに見えた。口数が減って、時計を見上げる回数が増えた。モリイチはソファの背に深くもたれかかって時計を睨みつけるように見上げている。予定があるというより、時間が経つことそのものを恨めしく思っているような顔だった。
 煙草を一本吸っても口の中の状態が変わったようには思えなかった。覚えた歯磨き粉を思い出して、また仕舞い込んだ。それがそうだと知らせるように、ゆっくりと立ち上がり、モリイチを見た。
「行くか」
「うん、行こ」
「駐車場まで送る」
「寂しいなあミヤちゃん」立ち上がってからシイノさんに向き直り、戯けた声で言った。
「また年末に、会いましょう」
「せやったな。すぐやな」
 それぞれに、上着を着たり手持ち無沙汰にうろうろしたり、じりじりと玄関へ近づいて行った。

 マンションからパーキングまでの道は、もう覚えていたのに、長くも短くも感じない、不思議な感覚で歩いた。鼻の奥が痛むほど冷えた空気で良かった。さあ答えて、と言われれば「寂しいです」と言うだろうが、何と言えばいいのか分からないけれど、その何かの気配を感じたことはあった。どこかの国の言語に、今思っていることと対応する言葉があるのだろうか。私は、私のほとんどは今使っている言葉に作られているはずなのに、どうして大抵の場合どれも違っているのか分からなかった。あらゆる言葉を知っても、まだ自身の内に起こることさえ分からないままなのだろうか。言い換えること意外何もできなかった。私はそれを知っている。知っていることを覚えている。それは寂しいと言う前に訪れる何かと似ている。姿形が似ているわけではない。色や匂いや温度が似ているわけでもない。ただ気配が近しいもの。その近さは私とシイノさんと同じようで、私とモリイチとでも、モリイチとシイノさんとでもいい。同じ言葉で括られることが多く、それでも微妙な差で呼び変えられるもの。大抵は呼び変えられることもない。誰か、私からすれば完全に違っているもの。それでも引いて見れば同じだとも思えるもの。霧のように、手を素早く振ると水の粒を感じられる程度の湿度を持っているもの。粘り気はない。簡単に体の中まで入ってくるもの。それは外でも内でも、性質を変えないし、変わらない。それに対して私が思うことや感じること、考えることも変わらない。変えられるけれど、一人でに変わっていくことはない。濃い灰色にも、群青にも、真っ黒にも、とんでもなく明るい茶色にも、要は何色にも見えたし、結局何色にも見えないもの。色はない。何色だろう、と考えて初めてそのものに何かしらの色があることを理解するもの。それほど自然で、それにしか存在しない色を持つもの。何か別のものの色を借りて見てみることはできない。暗いのか、明る過ぎるのか、色か色でないかも分からないもの。私の後ろに位置する。それをどれだけ吸い込んでも、ひとかけらも取り込まなくても感じ方は変わらない。あれ、意外と軽い、と思うような種類の、存在感と重さの差があるもの。はっきり目に見えているようで、そこには何もないようにも見えるもの。どんな音も出さないし、音を発生させる何かを持たないもの。何とでも言えたが、何かは分からなかった。ただ、外圧が変わったように体が痛かった。私は二人に挟まれて歩き、押し込められるような、押し付けられるような感覚を持て余していた。あとで、一人になったときにじっくり感じ直すのでもいいから、どこかに置いておきたかった。私はまだここから、二人といる時間から意識を逸らせたくなかった。
 車に乗り込んで、シイノさんは助手席側の窓からなかなか離れなかった。私は構造的に動けないわけだけど、同じように離れられないでいた。モリイチは私たちの様子を窺って、何か、接続された何かが途切れるのを見極めようとしているみたいだった。シイノさんも私も、またね、とか、年末ね、とか、また来て、とか、また行きます、とか、切れ切れに短いセンテンスだけで会話していた。その、言葉になる前の離れ難さが大きくて、結局どの言葉にすればいいのか分からなくなった。彼女の肩越しに、道を横切る野良猫の姿が見えた。私の視線を追って彼女も振り向き、私の目線は彼女の後頭部に移動した。シイノさんが向き直りつつ目線が私に合ったか合わなかったの瞬間に、「行こか」、とモリイチの声が聞こえた。今度は私が振り向いてから向き直り、それじゃあ、また、すぐ会いましょう、と言った。

 相変わらず車で流れているラジオの音は聞き取れなかった。別に聞きたいわけでもなく、音量を上げるほどでもないけれど、聞こえそうで聞こえないのは気持ちが悪かった。それに、ずっと同じものが流れているように聞こえた。
 湯当たりしたようにぼんやりとしていた。車の外に流れる景色が、いつもよりぼやけて、崩れ去っていく。前を向いて見えるものはピラーのあたりから線状になり、その柱を超えると、一本一本が膨張して色が垂れ、ぐじゃっと混ざり合った。私の目の焦点はピラーのほんの少し手前で定まっていた。かすみがかった視界から見えるのは不確かな形とはっきりとした色だけだ。首が捻れているのと、側頭部と後頭部の間がヘッドレストに当たっているのが感じられる。鎖骨に触れるシートベルトのひんやりした感触もある。私はその時、何も考えていなかった。
「アサギちゃんたちには会うたんか?」
 恐らく高速道路に向かう人の多い幹線道路は、中央分離帯にぽつぽつと立った灯り以外はなく、滲み出てきたみたいに細い歩道は真っ暗だった。犬種の分からない大きな犬を連れた男女の組み合わせが見える。犬に詳しければ、同じ速度で種類が分かっただろうか。何かを知ることは無意識の範囲を広げることなのかもしれない。私は今では、山に生えている大抵の草木の名前が分かる。いちいち立ち止まって、葉の裏を確認したり、石や巻尺の先に付いた針で幹を抉って匂いを嗅いだり、かじってみたり、そんなことをしなくてもいい。
「え?」
「いや。アサギちゃんとか、シホちゃんには会うたん?」
「ううん。会ってないよ。アサギは近くにいるみたいだけど」
「美草出たんか」
「子供もいるらしい」
「まじかあ、何歳?」
「さあ?、二人いるらしい」
「ユカコが叔母さんか。アサギちゃんには会うたってもええんちゃう」
「うん、割と今は、そのつもり」
「ご両親は、あれ以来、てか、そのままか」
「そうだね」
 そうだ。どうしてお母さんやお父さんと話さなくなったのかを今思い出した。彼らは、家に遊びに来た、いや、私を迎えにか、訪れたモリイチを居間に通した。私は確か二階の部屋で着替えたり、何か、持っていくものをまとめたりしていたんだったか。彼女たちは、かしこまって正座しているモリイチに冷たいお茶と小さな茶請けを出した。それと一緒に、枚数は少ないのに開いたままにするためには、いちいち手のひらで下から上まで押しつけなくてはならないパンフレットを出した。モリイチは誰にでも親切だったし、その親切さは彼自身にも扱いきれないようなものだった。何があっても、一旦であったとしても、そうせずにはいられなかった。私の両親だということもあっただろう。彼は真剣に彼らの話を聞いていた。私は気持ち悪くなって、階段の途中に座り込んでいた。手すりの下の柱に頭をつけ、横目で彼らの様子を見ていた。彼らは、本当に、モリイチのためを思ってそのパンフレットに書かれたことを逐一説明していた。よく見かける光景だった。いつもより熱が入っているのは、相手がモリイチだからで、それは彼のしっかりとした態度と長女の友達だからだろう。私は下半身だけ力が抜けていて、なかなか立ち上がることができなかった。モリイチは頷き、ああとか、はあとか、時々質問を投げかけ、その度に彼女たちは嬉しそうにしていた。私は、両親がそのよく分からない団体にはまり込むのはどうでも良かった。一人で生きていくまでは、物申す権利もないと思っていた。彼らが、どこか、何か救われているなら、それならいいと願っていた。本部の建物ができるまで、私たちを連れて週に一回、会館の一室を借りて催される集まりに赴いた。まだ小さなアサギの手を引いて、私も彼らの後ろについて歩いた。私は、私なら、今ならアサギを連れてどこかへ行くことが、行動としては不可能ではないことに吐きそうだった。出来るのに出来ないことは、遊園地にある落下するアトラクションと同じように体をひきつらせる。体の重心が無理に変えられてしまったようだった。私は、アサギの手を握る手に力が込もらないように歯を食いしばり、なるべく真っ直ぐに歩いた。モリイチは、「フクヤさん、ああと、ユカコさんは?」と言った。
「ユカコはもちろん、中学生の頃から、さっき説明した、この、ほら写真にも写ってるでしょう」
「そうですか。ユカコさんは自分の意思で、その、こんなふうに説明してもらったんですか?」
「そんなの、ユカコは別に私たちとまず行ってみればいいんだから、これはモリカズくんから、ご両親にも話しやすいようにって」
「それじゃあ、ユカコさんがどう考えてるとか、思ってるとか、そういうのは関係ないわけですね」
「あの子も、分かってると思う。私たちと一緒に、ソウジン様のお話を聞いて、あの子も何か感じてると思う」
 昼に食べたコロッケが挟まれたパンを吐きそうだった。音を出さずに深呼吸を繰り返し、立ち上がろうとしたが駄目だった。モリイチの声は明らかに苛立っていた。私はその時、彼は私に対して怒っているのだと思っていた。それを隠していたことや、こうやって面倒事に巻き込まれないように口止めしておかなかったことや、そういった何やかやに腹を立てているのだと。もちろん彼は私の両親に腹を立てていた。そういえば、彼が何かに対してはっきりと怒りを向ける姿を見るのは初めてだった。だから勘違いしたのか、彼が怒っていることに気が付いていない両親と同じようになっていたのかは分からない。階段を降りて来たアサギが「お姉ちゃん?」と言って、私は彼女を見上げた。顔を元の位置に戻すと、居間からの視線に気が付いた。モリイチは私を見て、泣きそうな顔をしてから唇だけで笑った。どうしたの?、と言いながら降りて来たアサギは、モリイチに気が付くと「あー、モリイチー」と言って駆け下りていった。彼女が居間に入った途端に体に力が巡る気がした。呼吸も楽にできる。手すりに腕を伸ばし、しっかり掴んでから、掴んでいることを意識しながら体を引き上げた。足の裏や腿は何事もなかったようにいつも通り、階段の硬さや冷たさを捉えていた。動いていないのに、靴下越しでも滑らかな木目の肌触りまで分かる。
 モリイチは立ち上がってアサギを受け止め、おお、と声を漏らした。私は階段を降り、居間に入った。彼らはパンフレットをどこかに仕舞い込んで、ダイニングとキッチンに分かれて何やら細々と動いてた。私は「行こ」と、モリイチにだけ聞こえるように言って、玄関へ向かった。遊ぼうよ、と言うアサギに「悪いな、今日はユカコちゃんと約束があんねん」と言った。
「高速乗る前にコンビニとか寄らんでええか?」
「うん。ええ、ここ、このサービスエリア寄ってもらってもいい?」
「何かあんの?」
「そういうわけじゃないけど、距離と膀胱的に」
「オッケーオッケー、俺も膀胱的にはちょうど良さそうやわ」モリイチはひとしきり笑ってからそう言って、首の骨を鳴らした。
 シイノさんから泣いてる熊のスタンプが送られてきて、私は棒人間が四つん這いになって床を叩いているスタンプを送り返した。日が変わる前には家に着くだろう。何となく、そうなれば明日から今まで通りに過ごすことができそうだった。日の出からの数分とか、沈む直前の強烈な夕陽とか、そういった特別に思える時間は、その後体や頭をぐったりさせる。昨日からの一日はずっとそんなようなもので、今日中に家の布団に入っておいた方がいいような気がした。
「疲れったら寝ててええしな」
「うん、ありがとう。でも起きとく」
「ミヤちゃん、ええ人やな」
「うん、また、三人で会おうね」
「せやな」
 モリイチは運転席側の窓を少し開けて煙草をくわえた。ライターを探し、なかったのか「火貸してくれ」と言った。胸ポケットからライターを出して火をつけ、私もいい?、と言うと「もちろん」と言った。
 煙草を吸うと、散っていた視界がまとまり始めた。どれもこれも、真横以外では輪郭を保っている。窓を開けていても、狭い車内で二人で煙草を吸っているとすぐに煙がいっぱいになった。溶媒に溶け込めるものの量が決まっているみたいに、空気中に漂える煙にも限界量があるのだろうか。モリイチの吸う煙草の甘い香りが流れてくる。昔モリイチが吸っていた煙草が何だったか。アメスピだった気がするし、私が吸い始めたのもそれだったからきっとそうだろう。間を開けて、モリイチがしていたことや言っていたことを、それを自分でも終えた後、無意識になぞっていたことに気が付くことが多かった。何となし、そういった物事は、モリイチから与えられたものに思えた。

 高速に乗って一時間もしないうちに、予定していたサービスエリアに着いた。車を降り、トイレと売店のある方へ別れるとき「知らん人に着いてくなよー」とモリイチは言って、言い返す前に手を振りながら歩いていった。

 モリイチは自販機の前のベンチに座って待っていた。
「何か食べる?」
「ユカコは?、腹減った?」
「うん、空いてると思う」
「じゃあ何か食べよ」
 売店を一周して、フードコートで定食を食べた。セットのざる蕎麦は茹で過ぎてねちゃねちゃしていたが、つゆは何故かちゃんと出汁を取って作ったような味がした。モリイチは大盛りの焼肉丼と大盛りの温かいうどんを食べた。じっと見ていると、ほとんど噛んでいなかった。木製のレンゲで二掬いしたご飯と一枚の焼肉を口に入れ、三回くらい噛むと飲み込み始めた。噛むのと飲み込むのが一連でなくて途切れているように見える。頑張って飲み込んでいるように見えるのだけど、何も浮かんでいない表情からするといつも通りなのだろう。私の半分くらいの時間で倍以上の量を食べ終え、足りひんな、と呟いた。
「もっと噛まないと」海老天を飲み込んでから言った。
「それ、昔も言われたことあるわユカコに」
「言ったっけ」
「うん、何回か言われたで」
「何て?」
「あの、あれ、みかん焼いて食うたときとかに、半分ずつ食べてそれぞれ四回しか噛んでないよって」
「回数まで」
「そうそう、それまで意識したことなかってんけど、俺食べ物の味変わんのが嫌やねん」
「ああ、噛むことで。お米とか結構甘くなるもんね」
「そう、俺はなるべく口に入れた瞬間の米がええねん、粒立ってて、甘みも適度にあって」
「あ、せやったらおかゆ食うわって言ってたね、それ」
「思い出した?、そう、それなら初めからおかゆにしたらええねん」
「で、私は、それとこれとは別じゃんって」
「言うてた」
「まあ、別だよね、その時よりは言ってる感じは分かるけど」
「俺もそう思うわ」
 結局モリイチは返却台に食器を持って行ったあと、メロンパンを二つとクリームパンを一つ食べた。
「高校生のとき、パンって口の中で剥がす作業あるから嫌いやわって言ってたよね」
「言うてたな、でもあれは、あれ、購買のパンとかに限るわ、あんな乾いたパンあれ以降食うてへん」
「何か普通に不味かったよね」
「な、安いのだけは有りがたかったけど」

 プレハブの喫煙室で煙草を二本ずつ吸ってから車に戻った。

 満腹になった眠気でうつらうつらしているとラジオの音声が大きなったように聞こえた。何を言っているのかは分からないままだったけれど、何かを伝えようとしていることは分かった。音楽や無機質な天気予報ではなかった。もっと人数を絞って、誰かが三人以下の人に何かを伝えようとしている時の声だ。はっきりと聞き取りたいと思うのだけど、眠らないようにする以外できることがない。唇を巻き込んで歯を立てたり、瞼を強く閉じたりして、何とか起きていた。
 モリイチは何度かあくびをしてから煙草をくわえ、火をつけないでいた。その手があったか、と私も煙草を取り出してくわえた。

「寝たらええのに」何分か経って、同じようにしている私を見てから言った。
「うん、でも流石に毎回寝過ぎてるし、寝たいわけじゃないから」
「お腹いっぱいやな」
「モリイチも?」
「うん、やっと膨らんできた感じするわ」
「どの食べ物だったら噛めるの?」
「するめとか餅とか」
「噛まなきゃ飲めないだけじゃない?それは」
「ああ、そっか、何やろ、噛んで味変わらんもんって何がある?」
「そう言われるとないかも」
「やろ?、大抵何でも噛んでたら甘なるやろ」
「じゃあ、果物は?」
「くだもんは昔から好きやな、でも、確かに変化が穏やかかもな」
「何かしょっちゅう焼いてたもんね」
「せやなあ、桃とか柿とか、意外と美味かったやろ」
「うん、あれは良かった。ぶどうとかは何か気持ち悪かったよね」
「せやな、渋さが増して不味いぬるい玉って感じやったな」
「ストーブ買おっかなあ」
「ええやん、煮物とかも作れっしな」
「うん、今思えばバイト先で好き勝手し過ぎてたねモリイチ。私なんて何も関係ないのに」
「でもおでんとかも美味かったしええやん」
「まあ、ささっとスーパー行って具材買ってったの楽しかったね」
「金物屋で鍋買うたら結構したしな」
「あれどこやったっけ」
「あれはカウンターの下の棚になおして辞めたから、今も使われてんちゃうか」
「迷惑でもないけど、見つけた時いらっとしそうだね」
「俺が館長やったらイラッとしてから笑うな」
「すぐ何してたか分かるしね」
「な」
「近くに住んでるなら、また一緒に歩こうよ」
「うん、せやな」
「ごめんね、急に連絡しなくなって」
「いや、それはええで、しゃあない」
 前の方には何台かのテールランプが見えるが後続車の少ない道行きだった。懐かしい話をしていると、頭は冷めて体は熱くなった。眠気はうっすらと残っているがもう眠ってしまうようなことはない。
「歩いてったところの話聞かせてよ」
「せやなあ。まず、なるだけ海岸沿いを歩こうと思ってたから、海岸まで歩いてって、時計回りか反時計回りかコイントスで決めてん」
「うん」
「そんで反時計んなったから北上して、何日かは砂浜の上の方にテント張って寝てたな」
「ご飯は?」
「ああ、クッカーっつって小さい鍋があるから、それで適当にスーパーで買ってきたもん煮込んだり、パスタ茹でてあっためてかけるソースで食べたり、そんな感じやな」
「なるほど」
「んで、まあそりゃずっと海沿いやから特に何も変わらんわけやな、左っ側の遠くに栄えてそうな町が見えるか見えへんかくらいで。最初の半島をぐるっと回るのがちょっと面倒やったな」
「何が変わるの」
「ほぼ気分的な問題やわ、そこんとこ回り込んでる最中も、結局道は真っ直ぐっていうか、人の大きさで人の歩くスピードくらいなら真っ直ぐな道歩いてんのと大差ないねんけど、回り込んでるって俺は知ってるからさ、進んでない気がしてくんねん」
「最初にそれはしんどそう」
「うん、まあでもそのおかげで急速に慣れたな、もうどこ行っても、海岸近くにいればこのくらいの苦労と楽しさで済むなって」
「その、楽しさも予測できちゃっていいの?」
「うん、大抵楽しさは予想超えてくるしな、単純に、俺がやじろべえみたいなもんで、その楽しさとしんどさを、こう、常に計ってる感じで、それぞれを計るためにやじろべえは存在してんねんけど、やじろべえが立ってるためには同量くらいのなんかがいるやろ」
「うん」
「そのために仮でええから、俺のバランスを取るために、その、今回なら歩いて旅してる俺のバランスを取るために、そこに関係してる何やかやを決めんねん」
「しんどさは超えてこない?」
「せやねん。よう分からんけど、体験したことよりしんどい、疲れることは山ほどあんねんけど、その、楽しさとかと一緒に予想したそれを超えることはないな」
「ふーん」
「でまあ、たまに歩きたくないときがきて、そういうときはほとんどテントから離れんとぼーっと海眺めて、しけもく吸うたり砂で何か作ったり、だらだら過ごして」
「いいなあ」
「ま、今思い返すとよう出てくるわ、砂浜のないとことかやと野良猫が寄ってきて、なんかくれみたいな顔で俺のこと見よんねん、あれば、コンビニで買っといた鶏肉の茹でたやつとかな、洗ってからほぐして、その辺に盛ったり、手から食べる猫も多かったな」
「ついてくる猫はいなかった?」
「うん、そこにいる間は割と引っ付いてまわりよんのに、テントたたんで歩き出したらすんってどっか行きよったな」
「旅のお供にはなんなかったか」
「いたってくらい猫はうじゃうじゃおったけどな。半島抜けた後はもうひたすら北上やな。どうせ行けへんやろうから海離れて陸路、てか内陸の道に移動したな」
「音楽とか聴いてた?」
「や、本すら持ってってへんな。ぞっとするくらい煙草吸うてたわ。帰ってきて一、二ヶ月受け付けへんかった」
「帰ってきたときめちゃくちゃ痩せてたよね」
「思い出した?」
「ちょっとだけ」
「せやな、煙草吸ってる間はお腹空かへんから、節約にもなるしな」
「なんのかな」
「宿とかには泊まらなかったの?」
「全部テントやったな、やっすい宿もようさんあるから泊まっても良かったけど、別に必要にはならんかった」
「強靭だね」
「テントと寝袋とマットだけはええやつ買うたからほんまに何の苦もなかったで、雨やら風やらの強いときも耳栓したらだいぶんましやし」
「そうかなあ」
「うん、ま、たまに誰かと話したくてそういう宿に泊まろうかなあって思うことはあったけどな」
「それは、何が押し止めたの」
「特にこれってのはないで、まあいいやってくらいで、どんなに安くても俺がみっけたんは煙草三箱分かあって」
「恐いよ」
「そんくらいそんときの旅に煙草は必需品やってん。別に誰かと出会いたいとか、地元の人と交流したいとかもなかったしな」
「本当に、歩きたかったんだ」
「そうそう、ただ自分の足で色んな場所を通過したかってん」
「海を離れてからの道は?何か大変そうだけど」
「せやな。まず気分的なところから言えば、なんべん曲がったりすんねんって感じやったな、結果的に進んでてても。あとやっぱり山が多いから、回り込むんも嫌やし、繋がってるなら大抵は越えたな」
「そういうのってよく名前聞く山じゃないよね?」
「そう、名前はあるんやろうけど、よう分からんな。そういう里山みたいなんは大体、越えてかもまともな道に合流できるからな」
「うん」
「地図見つつそろそろ山ぶつかりそうやなってときは、コンビニやらで食べもんとか買い込んどいて、適当に歩いてたわ」
「もちろん観光名所みたいなものも見ずに」
「せやな、今歩いてる道に看板が出てて、百メートル以内で、興味惹かれたらって感じで、ほとんど何も見てへんな」
「何に興味惹かれたの」
「防風林とか小っちゃい池やら湖やらかな」
「写真とかは?」
「撮ってへんってかカメラ持ってへんかったしな」
「ひたすら歩いてたんだね」
「やな。また海岸沿いに戻ってからは、結構雰囲気が変わった感じはあったな、単純に開けた感じがした」
「長いこと内にいたからかな」
「うん、それもあるやろうけど、半島じゃないからってのもあると思う」
「なるほど」
「何でか知らんけど、その辺の海沿い歩いてると、漁師の人とか奥さんに食べもんもらうのが多かったなあ」
「そこだけ、そこっていうか」
「うん、まあ距離で言えばすごい開きがあるけど、一帯ていうか、海外沿いに復帰してしばらく、船乗るまではそんな調子やったな」
「何くれたの」
「刺身も焼き魚も煮付けも食べたな、山菜煮たんとか、白米もらったり」
「すごいね」
「な、嬉しいけど、気分じゃなくても歩いてその辺から離れなあかんしそれだけ大変やったけど」
「同じ人にお世話にならないために?」
「そうそう、別に向こうもしたくてしてるんやろうし、俺も嬉しいし助かるし、気持ちよく受け取ってたらええんやろうけど、まあでもかなり、その辺いるときは距離かせげたし」
 私たちはうずうずしていたかのように煙草を吸い始めた。モリイチは一挙に思い出しているからか疲れているようにも見えた。話を聞いていると、砂浜や防波堤を歩くモリイチの後ろ姿が見えてくる。私は彼の後を十メートルほど開けて歩いていた。
「船乗って渡ってからはなかなかハードやったな」
「距離も形もしんどそうだね」
「うん、距離はもうこの際どうでも良かってん、歩けば歩くほど俺は、真っ直ぐな、比較的真っ直ぐな道を歩きたいんやなって自覚してったわ」
「めっちゃ辛そう」
「海の雰囲気も歩いてる場所もかなり変わったし、どんどん変化してくから楽しくはあってんけどな」
「そっか、一応三つ海あるのか」
「うん、割とそれぞれに特色って言うていいんか分からんけど、差もあっておもろかったな」
「名付け分けられてる意味が分かるくらいの違いはあったんだね」
「やな、基本的にずっと青を基調にしてたり、近づいたら濁ってるわけでもないのに灰色っぽかったり、濃い青色で刺々しい感じ、大体ずっと荒れてる感じやったな」
「境界みたいなのはあるの?」
「や、いつの間にか変わってるな、ここからってのはない」
「やっぱそういうもんか」
「うん、で、半分くらい歩いた頃に一旦気力が失せて、二週間くらい同じ海岸におったわ」
「なんかそれ書いてた気がする」
「うん、送ったで」
「そのときだけすごいいっぱい送ってくれてたよね」
「やな、今日もまたここです、みたいなんを」
「うん、結構心配で会いに行こうかと思ったもん」
「すまんすまん」
「でもモリイチ携帯持ってってなかったでしょ?」
「せやな、来たらおらへん可能性のが高いな」
「あ、私、返事書いてたんだった」
「返事?」
「うん、出せないけど、送られてきた手紙全部に同じくらいのハガキに書いてた」
「それ読みたいなあ」
「絶対駄目、訳わかんないこといっぱい書いてる気がするし」
「だからこそやん、自分の書いたのも読みたいし」
「そっからかなりハイペースで歩いてたよね」
「せやな、遅れた分ってのも変やけど、ちょっと気合入れて歩くかあって」
「急に、そのじっとしてた時期以外でそんなにたくさん届くことなかったから、ああめちゃくちゃ歩いてるなって」
「シンプルな感想やな」
「うん」
 何台かを追い越すと先行する車はなくなった。灯りはあるのだけど消えているものが多く、本数の割には暗かった。私もモリイチも多分、満腹からくる眠気を過ぎ、勘違い的に頭が冴えたような状態になっていた。窓の隙間から入り込む冷気が心地好い。ふとモリイチの匂いが濃くなったことに気が付いた。シイノさんと同じように、嫌な匂いに変わったわけではなかった。彼の匂いが意識されると、車内の狭さにも意識が向いた。ぐっと体の輪郭線が膨らんだように、彼の体や息遣いを身近に感じる。私が、自分の匂いに敏感で、他人の匂いに惹かれるのは、同じ形状の体を欲望することと何か関係があるかもしれないと思い始めた。私はずっと、別の形の体に欲情する意味が分からなかった。初めから違っているもののその差異に享楽することができない。同じ形を成しているのに違っているもの、そこに、飲まれるように、抗う余地もなく巻き込まれていった。それまで、男の人と付き合ったことも女の人と付き合ったことも、何度もあったけれど、性的に満足できるのはいつも女の人だけだった。私は、モリイチのことが好きだったし、彼とセックスすることもできるが、したいとは思わなかった。それでも、私とあまり変わらない部分、腕や首、胸から腰にかけて、足や髪、そういったものを愛撫したいとは思ったことがあった。それはでもシイノさんに抱くそれとは強度が違った。彼女はもっと私と同じ体をしている。
「寒ないか?」
「うん、ちょうどいい、懐かしい話って火照るし」
「ああ、そうかもな、思い出して話すのも、話して思い出すのも、まあまあ脳味噌的にはエネルギー使うてそうやもんな」
「うん、だからいい感じ。煙草もいつでも吸えるし」
「やな」
 モリイチの匂いは、山の中にいるときに嗅げるものと似ていた。蜜の垂れた樹皮の香ばしく甘い匂い、歩いている最中に足元から昇ってくる、踏みつけられた草木と土や泥が混ざった冷たく乾いた苦い匂い、それらが混ざり合った無機質で短い匂い。それはきっと着ている服との兼ね合いもあるのだろうが、要素は彼の体から匂い立っている。
 他人の匂いを深く吸い込むことは、その人の侵入を許可することと同等に思えた。私はシイノさんもモリイチも、私の中に入ってきても構わなかった。そのときのその人の匂いを嗅いで、吸い込んで記憶することは写真を撮るのと似ている。私は何枚も何枚も二人の写真を撮っていることになる。いくつかの印象的な場面での、二人の匂いを覚えていた。香水と同じようにベースからトップまであって、いつでも変わらない、その人の匂いだと思えるものを支える要素がベースノートにあたる。ミドルからトップは際限なく広がっていく。モリイチのそれは、水分を多く含んだ広葉樹に火をつけた瞬間にだけある香ばしい匂いだった。そこには香ばしさが支える甘い匂いと鋭く苦い匂いが共存している。シイノさんを思い浮かべると、まだ私は彼女のベースになるような匂いを知らなかった。何となく、無機物の粒の細かな、乾いて粉っぽい香りを思い出すが、もっと、焦げた砂糖や何かに溶かしたあとの甘味料のような匂いもあったように思えた。とにかくそういった、変化の少ないものと、変化した後もその要素が大部分を占めるような、そういう釣り合いで匂いが成立している。
「一周して船乗るくらいには、会ったときと同じくらい痩せてたな」
「そんなに食欲なかったの」
「というより、買い出しとか、それ持って歩くこととか、ゴミ捨てんのとか、そういうの差っ引いて、じゃあ最低限でええかって」
「なるほどね」
「で、何の違いがあるかはさておき、戻ってきて反対側やな」
「うん」
「そっち側はとにかく、初めの頃は雪が大変やったな。海からの風も訳わからんくらい冷たいし」
「そっか、ちょうどそのくらいの時期になるのか」
「歩くの以外は別に大した弊害もないねんけどな、とにかく進めへんかったな」
「そんなこと書いてたね」
「毎日ちょびっとずつしか進めへんかったからな。荒れた海を長いこと見てられたんは良かったけど」
「そんなときでも砂浜とかで寝るの?」
「や、流石に離れてたで。近いと耳栓してても寝れへんくらいうるさいしな」
「ああ、そっか」
「冬のめちゃくちゃ荒れた海をずっと見てるとな、しゅって海原の上にワープしたみたいな気分になんねん」
「岸も見えないくらい?」
「せやな、何もないな海以外、俺のすぐ下で波があちこちから流れてきて、ぶつかって混じって、でも俺には、その見てる距離的にはおかしいねんけど、しぶき一つ当たらへん」
「温度とか匂いは?」
「ああ、どっちもなかった、というか、その、ほんまに俺が立ったり座ったりしてるとこの寒さやら磯臭さ以外はないな。その、宙ならではみたいなのは」
「しょっちゅうあったの?」
「三回に一回とかちゃうかな」
「かなりだね」
「せやな、見る頻度も高いしな」
「それでも海から離れなかったの?」
「まあ、特に困ったことでもないし、なんとなくおもろかったからな」
「ふーん」
「その頃になるともう歩くこと自体の楽しさみたいなんは薄れてきてたから、なんかそういう別のんがあって助かったってのもある」
「よくやめなかったね、というか、一旦帰ろうとかは思わなかったの」
「不思議とそういうのは一回もなかったなあ、歩きたくなかったら歩かんかったし、歩きたかったいつまでも歩いてたからな」
 車が走り去るスピードよりも早く、外に広がる景色は変わっていった。私は、どんどん私の居場所のようなものへ近づいている実感を持ち始めた。なんとなく体や頭のモードが変わっていっているようだった。実際以上の速さで美草やシイノさんから離れていく。モリイチの声は、何かを思い出させようとする力と、そうはさせまいという力が拮抗しているように響いた。彼は私に、何を思い出して欲しいのだろう。何を思い出してはいけないのだろう。私は、本当に、何を忘れてしまっているのだろう。彼との思い出の他に、電話の先の誰かが言っていたように忘れ去ったものは一体どういうものだろうか。私は彼の話に何も言わず、ただ話の切れ目に頷いているだけだった。話の内容も言葉の意味も分かる。ただそちらへ意識が向かないだけだ。私の中で何故か、それ以上話を聞いてはならないと、どうしてそう思うのだろうというのと同じ強さで、拭い去れないほど強く感じられるようになっていた。モリイチは黙々と歩いていた。私への手紙を書いていた。どこへ行くにも、去るにも、戻るにも、何をするにも一人だった。彼は暖かなテントの中で、寝袋に包まっていた。彼の吐く息は白い。テントは横たわった彼とザックが置かれた部分以外は風にはためき、切れ目のない不規則な音を立てている。私は何も聞いてはならない。彼の話をこれ以上聞いてはいけない。彼は、砂浜の上に立ち、今日何本目かも分からない煙草に火を付けた。フィルターに火が移る寸前まで深く吸い続けた。シイノさんは今頃もう眠っているだろうか。彼女がどんな悪夢も見ずに朝を迎えられるといい。モリイチの声は今では遠くから聞こえてくるようだった。私はもうその意味も成り立ちも何も分からなくなっていた。音が途切れると頷くだけだ。彼はずっと前の方を向いて、私が話を聞いていないことに気付かない。モリイチは、一山越えれば美草に着くだろう海岸線を歩いている。彼は独り言も言わず、音楽も聞かず、煙草も吸わないで歩いていた。彼にはその向こうに美草があることが分かっていた。旅の初めの方に彼は、美草へ寄って行こう、と考えていた。それはその海岸線に至るずっと前に改められた。わざわざ行く必要もない、別の機会に行けばいい、と。私はフロントガラスに散らばる景色を見るともなしに見ていた。もう頷くこともやめた。モリイチはいつからか話すのをやめ、煙草の煙を吐き出していた。私は何かを思い出しそうになっていた。そして、何かを忘れそうにもなっていた。どちらもそうなってしまってはいけないものだった。それは分かっていた。どうすればいいのだろう。その移行を止めることができない。私は一体どうすればいいのか。小さな井戸があった。上部に錆びて朽ちかけた滑車があり、それは、最後の力を振り絞るように何かを引き上げていた。私はそんなふうにして、誰もいない、誰も、その滑車を動かす者もいない風景を眺めていた。それが引き揚げられてしまったとき、私は何かを思い出すのだろうか。私が思い出したそれは、そのものがなくなってしまったものなのだろうか。電話の先で誰かが言った。それはでも、その誰かが言っていたこととは食い違っているのではないか。それは完全に失われてしまったのでなかったか。私は、忘れたいことを、忘れてしまいたいことを、どんどんその小さな井戸に投げ込んでいったのか。私は何を忘れたがった?誰かの手。誰かの感触。モリイチは私の名前を呼んでいる。私たちは高速道路の脇に、壁面のように高くそびえた柵の前に、触れる手前まで寄せられた車の中にいた。モリイチは私の異変か何かに気が付いてそうしたのか。誰かの手。誰かの感触。私の中に入ってくる。色々な熱。私はいつだったか両親に連れられて、どこかへ行った。私は泣いていた。泣いていなかった。私は唇を固く閉じ、同じくらい強く拳を握り締めていた。誰かの手。モリイチの声は相変わらず遠くから響く。彼は私に触れない。ただ私の名前を呼んでいる。私の手。誰かの手は私に触れた。私は、声を聞いた。どんな?くぐもった声。張り上げた声。怒号。私はどうしたんだったか。私を撫でた。誰かの手。両親は喜んでいるようだった。少なくとも笑ってはいた。笑顔だった。誰かの手。無数の、誰かの手。モリイチの声は私に何を思い出せようとしているのか。それは違う。彼の声は、何も、何も思い出させないようにしていた。彼は、私に、何一つ思い出させないようにしていた。してくれていた。彼はどこから来たのか。私は。もう何も聞こえるものはなかった。滑車は勢いを増して、回り続けている。海。私は海のそばに住んだことがあった。屋上から、どこまでも向こうを見渡すことができた。シイノさんは眠っただろうか。私は、彼女がどのような悪夢を見ずに朝を迎えるために、何が出来るだろうか。シイノさん?誰だろう。私は誰を思っているのだろうか。私は。誰かの手。その手は私を優しく撫でている。それは、私を宥めるように向けられた手だった。そんなものは必要ではなかった。誰かの声。私は誰かの声を聞いた。それはいつも上から聞こえてきた。短く。乱れた呼吸と一緒に聞こえてきた。私は。どうした。モリイチは私に触れない。モリイチは私の名前だけを声に出し続けている。彼は。彼だけは。誰かのことを思った。その誰かが、どのような悪夢も見ずに、その誰かの望む形で最良の朝を迎えてくれたらと願った。私は思い出せなかった。誰かの手。私は固く閉じた。瞼も唇も手のひらも。誰かの手はそれには構わなかった。私は。今そこにある私が、その私だけが過ごす時間を眺めた。その時間が彼女にとって早く過ぎていくことを願った。願ってあげた。誰かは、今頃深く柔らかな眠りのうちにあるだろうか。私は、そうであればいいと、強く思っていた。モリイチの声。彼の声は私の中で響いている。彼は海岸の流木に腰掛けた。煙草をくわえ、手の中でライターをいじった。火を付けたり消したり、真ん中を持って人差し指で弾いたり、いつまで経っても煙草の先に火を近づけなかった。私たちはどこにいるのだったか。彼の声は私に向けられていた。私にだけ向けられていた。誰かの寝顔。小さな、本当に小さな粒が。私の前に見えるのは。誰かは立ち上がった。私の前に。誰かの手。私はその手のひらを覚えていた。その温かさや柔らかさ。誰かの手。いつまでも思い出せない。何を忘れたのだろう。あるだけの力を込めて閉じた足は開かれる。誰かの手。優しい声が部屋に響いている。私の耳にはやまびこのように、その声が残っている。誰かの声。読み上げられる。がさがさとした手のひら。部屋の隅で笑顔でいる二人。彼らはその表情以外の表情を奪われたみたいだった。何をしていても笑っていた。何をされても。誰が何をされても、しても、笑っていた。誰かの手。声。彼はまた私の名前を呼んだ。思い出すな、と言っている。忘れるな、と言っている。何を?私は何を思い出そうとしているのだ。私は何を忘れようとしているのだろう。どうして?声は私に向かっている。拡散して、車の中に響いている。残響が、私の中に溜まっていく。滑車は、まだ回っている。勢いよく。私はどうしたのだろう。どうしてしまったのか。小さな井戸はこれ以上ないくらい古びている。それ以上古びるためには崩れ去る必要があった。井戸の中に水はなかった。その井戸に、水などなかった。あったこともない。誰が。私は手を伸ばした。声が。モリイチは意を決したように私の手を取った。誰かの手ではなかった。モリイチの手だ。私たちは校庭にいた。錆びたゴールの周りを歩いていた。彼は質問した。私は答えた。私は質問した。彼は答えた。モリイチの手は、声と同じように柔らかで、私は、小屋の中だった。その建物に合わせてつくられたにしても小さな扉があった。私はそこから入ってきた。誰かと。私たちは入ってきた。私はそこへ行きたかったわけではない。私は連れられてきた。私は連れられてきた。誰かの合図。私は連れられてきた。モリイチの声は私の名前を呼ばなくなった。それでもその声は私を呼んでいるのと変わりなかった。彼は言った。思い出すな。忘れるな。私は何も考えられない。何も思えない。何も見えない。私は瞼をきつく閉じていた。真っ暗ではなかった。モリイチは私の手を握りしめていた。私たちは、私たちの手は汗ばんでいた。こんな寒い日に、私たちの手だけは汗ばんでいた。私は寒かった。とても。寒かった。モリイチは叫んだ。何かを。それは車の外に向けてだった。私の向こう、私がもたれている窓の、その向こうに叫んでいた。何を?分からない。聞き取ることができない。彼は焦っていた。私はどこにいるんだろう。私たちは?モリイチは車を走らせた。私たちは速さの中に閉じ込められる。モリイチはアクセルを踏み込んでいる。体が揺れる。私はどこを見ているのか。まだ瞼は閉じられているのか。分からない。モリイチは私の名前を呼ぶ。私は背中の向こうに気配を感じている。彼が叫んだ何かだろうか。私はどこにいるのだ?モリイチはほとんど泣きそうな声で私を呼ぶ。私はそれに応えてあげられない。私には何もできない。私はそこに。ここにいることしかできない。私は声を出したいと思う。私は彼に触れたいと思う。何かできればと思う。私は瞼を開けることができない。声を出すことも、震える体から手を伸ばすことも。モリイチは何も言わない。彼は急いでいた。時間がなかった。もう残されていなかった。それは初めからなかった。無理やりだった。私は部屋の真ん中にいた。寝転んでいた。気が付くと壁に背中が付いていた。私はどうやってここまで、そこまで来たのだろう。私はぐらぐらしていた。体のあちこちが熱かった。痛かった。誰かは叫んだ。近づいてくる。モリイチは何かを言っている。頼むから待ってくれ、と言っている。何を待つのか。私には分からない。何も分からなかった。ずっと。ずっと何も分からなかった。何かが吠えている。その鳴き声を、私は初めて聞いたわけではなかった。モリイチは苛立っているようだ。二度目だ。何か声をかけられたらと思う。私も、彼の名前を呼べたらと思う。一度も呼んだことがなかった。彼は守一だ。モリイチだ。私は彼の名前を一度も呼んだことがなかった。私は瞼を開けた。モリイチは胸板がほとんどハンドルにくっつくように前傾していた。彼は汗ばんでいた。私は手を伸ばした。彼は私の手が頬に触れると体を震わせた。彼はそこにいた。彼はここにはいなかった。私は誰かを忘れた。私は、彼を思い出した。モリイチを、私を思い出した。彼は私の名前を呼んだ。私は彼の名前を呼んだ。体が動かない。力なく伸びた手は私の腕には見えなかった。私の腕だ。モリイチは速度を緩めてから私の手を取った。彼の名前を呼ぶ以外、私の声はなかった。モリイチは何も言わない。私は頷いた。モリイチもそうして、もう一度アクセルを踏み込んだ。車体が大きく揺れた。いつからか閉まっていた窓もがたがたと揺れている。私の体も。鳴き声は遠くに聞こえる。近く、私のすぐそばで聞こえる。モリイチは何かを言っている。聞こえてたら頷いてくれ。私は手を握り返す。分かった。大丈夫か?悪いけどもう時間がないねん。運転できるか?私は手を握り返す。二回。ううんってことか?一回。体が動かん?一回。どっかに停めるから、そっから運転できるか?一人で、うちまで帰れるか?二回。頼むユカコ、頑張ってくれ。私はモリイチの手を曖昧な力で握り返した。彼の願いを聞き入れたかった。私だってそうしたかった。体は重くもないし、それと意識しないほど軽くもない。ただ動かない。左手の、手首から先、彼の手を握るのがやっとだった。俺も分からんけど、とにかくもうすぐやってことだけは分かんねん。一度握り返す。運転できひんならそれでもええ。それはしゃあない。とにかく、体が動くようになるまで絶対に車から出んといてくれ。私は彼の手を、モリイチの手を握る。すまんな。私は彼の手を強く、強く、二度、握り返す。モリイチは私を見ているようだ。私は瞼を開けているが、見えているのか見えていないのかどうか分からない。分からなかった。彼は笑っているように見える。泣いているように見える。手の甲に涙が落ちたように見えた。手の甲は何も感じなかった。モリイチ、と呼んだ。私は一人だった。モリイチはいない。彼はどこに行ったのか。誰が?どこへ。私の手はだらりと伸びている。誰もいない運転席が見える。誰かを待っていたのか。誰を?私は誰を待っていたのだろう。誰も待っていなかった。そのはずだった。私の体は動かない。ここはどこだろう。何かを噛み砕くような音。無数の気配。夜が。空が白み始める前の、暗い、もっとも濃い黒。私は何に手を伸ばしていたのだったか。運転席の窓の向こうに柵が見える。その向こうには木々が、そのまた向こうには町が、光が浮かんだように灯っている。誰かの声が聞こえる。聞こえていた気がした。私の名前を呼ぶ声?誰が?誰か。私はその誰かを知っている。知っていた。知っている。私は頼まれた。ここから出ないように、と。私は言いつけを守る。私がここから出ることはない。私は車の中にいた。一人で。どうやってここまで来たのだろう。ここがどこかも分からない。高速道路の途中。何台ものトラックが過ぎていく。私はここで何をしているのだろう。誰かの寝顔。私の願い。何かを啜る音。私の後ろにも前にも、何かがいる気配に満ちている。車はその気配に囲まれている。私はここで何をしているのか。何かが千切れる音。荒い息遣い。私を囲む何かは、それでも満足しない。それは決して車から離れない。私がここから出てくるのを待ち構えている。それらは油断しない。私がどんな策を講じても、それらは私の首元に目掛けて飛びかかってくるだろう。それら?鋭い牙は私の喉に、しがみつくように爪が体に食い込んでゆく。私は抵抗できないままそれらに食い荒らされていく。誰かのように。誰か?誰だったろう。私は懐かしい気持ちに満たされていた。モリイチは元気にしているだろうか。唸り声が私を取り囲んでいる。彼は全国を歩くと言って大学に入って割とすぐに休学届けを出した。私はいつも通り呆れていた。羨ましくもあった。彼は手紙を出すと言った。私たちは幼馴染だった。感じきれないほどの数がいるがそれは、群れを成しているわけではなかった。同胞ではなかった。それらは飢えていた。私はそれらを知っていた。知っていたはずだ。私は、誰かの言いつけ通り、車から出ない。いつまでだかは分からないが、いつまでも車を出ない。この車はなんだろう。私は、私は美草へ行った。旅行?仕事で。誰と?一人で。その帰り道だろうか。私はこんな車を持ってはいない。やはり私は誰かを待っているのだろうか。どこでこの車を借りた?借りた覚えはない。ここはどこだろう。私はずっと、何かを思い出そうとしている。何を?私はずっと、何かを忘れようとしている。何を?分からない。私は何故か動けない。左の手のひらが汗ばんでいる。誰かの手を握っていた感触を覚えている。私が?手が。私は体を動かそうとしている。どうにかして。そうやって体を動かしたことのない私にはその方法が分からない。考えなくてはならない。左手を閉じたり開いたりしてみる。そこから伸びる腕に、そこにある筋が動いている。それは肩までは届かない。後頭部が冷たい。唸り声は数を増しているようだ。何かを噛み締める音。滴る音。呑み下す音。無数の何かがそこに立つ音。歩き回る音。私は音に囲まれている。それは車の中にも入り込んでいる。車は震えている。インパネが光っている。私は車を動かさなくてはならない。きっと邪魔になっているだろう。左手でコンソールボックスの向こう側を掴んでみる。掴める。体を引き寄せてみる。どこに力を込めればいいのか分からない。思い切り握り締めてみる。肩から首筋にかけて力が入る。そのまま肘を曲げようとしてみる。ロックがかかったみたいに固定された肘は簡単には動かない。何度も繰り返していると、不意にかくっと力が抜けた。私は手を離し、一時的に浮いていた上半身がドアにぶつかった。もう一度同じようにして、運転席の側面に体を倒した。左胸にじわっと、鈍い痛みが広がった。痛みはその周辺に留まった。私の心臓はそれまでにないくらい早い鼓動で血液を循環させている。窓に私の顔が映る。私は悲しそうな顔をしている。何をそんなに悲しむ必要があるのか。両頬に一筋ずつ、吹き出し口からの風を冷たく感じる部分がある。私は泣いていたのだろうか。何に対して?私には分からなかった。しばらくその顔を見ていると、左腕が動くようになっていることに気が付いた。その腕で、助手席に座り直し、体中を触ってみた。どこもかしこも触れられた感触はあるのに動かない。外の空気を吸いたかった。私は左手で煙草を取り出し、唇に挟んだ。ライターで火をつけ、灰皿を探しているとキャスターの空箱を見つけた。やはり誰か乗っていたのだろうか。その誰かは、腹痛か何かで外にいるのだろうか。その誰かが私に、車から出るな、と言ったのか。それならそれは、後続車のことを考えて言われたのだろうか。わざわざそう言うには今は、交通量が極端に少ないように思える。私はその空箱を灰皿の代わりにした。体の中に、空気とは別のものが入り込んでくるのが分かる。時間をかけ、慣れない左手で煙草を吸った。気分や意識は少しばかり軽くなったような、それでいて体の硬直は解けなかった。試しに、思い切り太腿を叩いてみた。青痣ができそうな痛み、その波が去ると左足を浮かせることができた。私はそれで、体中を叩いていった。痛みは、それがどれだけ近いところで広がっていても、重なった部分でより痛むということがなかった。私は両手を使って、叩けるところは全部叩いた。体中がそれぞれに違った膨らみ方で膨張していくようだった。あちこちを折り曲げながら運転席に移動し、シートベルトを締めた。余った部分があるのは、誰かがいたことを私に意識させた。私よりも体の厚い誰かはキャスターを吸っていた。ミラーを調整し、アクセルを軽く踏んだ。途端に、無数にあった何かの気配は消え去った。そんなものを感じていたことが嘘だったように跡形もなかった。後続車は一台もなかった。ナビには私の家までの道順が示されている。腕を伸ばしてグローブボックスの中を見た。何もない。レンタカーではないのか。後ろには私の荷物しかない。この車は誰の車なのだろうか。私は本当に一人だったのか。ついさっきまで停まっていた場所の近くに、誰かを置き去りにしていないだろうか。今すぐには戻れない。前を向いたまま、後ろの荷物から手探りでiPhoneを取り出した。シイノさんという人から、おやすみなさい、とLINEが送られていた。そのまま、サイドボタンを押して太腿の上に置き、シイノさんというのが誰だったか思い出そうとした。その名前を見たときから私の中で、鳩尾の辺りから染み出すように何かが広がっていた。私は、シイノさん、と声に出した。それは何の抵抗もなく声になった。私はそれを言い慣れていたし聴き慣れていた。私は、おやすみなさい、と返信してみる。それはすぐに読まれ、モリイチくんによろしくね、と返ってきた。私とモリイチに、共通の知り合いがいただろうか?それに、私はもう何年も彼には会っていない。遡っていくと、シイノさんだろう人と私が写った写真があった。湖だろうか。背景には、暗くてよく見えない山々と、フラッシュを反射して輝く水面が写っている。私たちは張り出した木の台のようなところでしゃがんでいた。私は口を大きく開けて笑っている。何かを掴むような格好で、激しくブレた私は楽しそうに見えた。この瞬間以上に最良なものはないような表情だ。私は彼女を忘れていた。まだ起きてますか?、と送り、起きてるよ、と返事があってすぐ、電話をかけた。
「もしもし」
「すみません、こんな時間に」
「ううん、何でか眠れないし大丈夫だよ」
「私、さっきまでシイノさんのこと、思い出せなかったんです」私の声は震え、それと連動するように両手が小刻みに揺れていた。
「え?」彼女は一呼吸置いてからそう言った。
「おやすみなさいって、それが、その送ってきた相手が誰だか分からなかったんです、シイノさんって、名前は分かってる、見えてるのに、それが誰だか、分からなかった」私は嗚咽し、涙で滲んだ目は歪んだ道路の上をあちこちに動いている。
「モリイチくんは?」さっきよりも短い沈黙の後、彼女は確かるみたいに言った。
「いない、私、今、誰のか分からない車を運転してます」
「今どこにいる?」
「今、は分からない、もう少しでサービスエリアがあるみたいです、シイノさん、私、どうしたらいいんでしょう」
「そのSAで待てる?すぐに行くから」
「待てます」
「急いで行くから待ってて。そこの名前送ってて」
 私はしばらく画面を見つめたまま、彼女の名前を見ながら、何も考えられずにいた。どうやって彼女を忘れたのか。唇が震えて煙草をくわえられない。足元に落ちた煙草を拾い、くわえた煙草をまた落とすというのを何度も繰り返した。そのたびに車体が揺れた。私は無事に着かなくてはならない。それは何故か、私のためというよりも、彼女のため、シイノさんのためにそうしなければならない。落ちままの煙草を諦め、運転に集中した。
 彼女はモリイチを知っている。私は、どれだけモリイチのことを覚えているのだろうか。彼との記憶を辿っていこうとするが、どれだけやってみても、彼が帰って来たのかどうかも思い出せない。違う。彼は帰ってきたのだ。遠近を歩き切り、戻って来た。会っていない間の話をした。私は、彼からの手紙でも知っていた話を、彼の口から聞きたがった。彼は、めんどくさそうにしつつも、一から話してくれた。痩せ細っていた。瞳や声以外、すっかり別人になったようだった。彼は私の話を聞きたがった。私は何を話したのだったか。彼に比べて、大した話はできなかった。モリイチは、しばらくは真面目に学校行くわ、と言っていた。私は、今度は二人でどっか行こうよ、と言った。彼は何と言ったか。数台の乗用車に追い越され、私はアクセルをほとんど踏んでいないことに気が付いた。シイノさんにSAの名前を送り、ついでに煙草を拾った。唇の震えは止まっていた。ぐっとアクセルを踏み、ようやくまともな速度に追いついた。彼女からは、二時間以内に着く、と返事があった。モリイチは一体どこへ行ったのだろう。私たちは三人でいた。湿原の近くの木道を歩いた。シイノさんの家に泊まった。彼は何か言い残して言った。何と言っていたか。この車はモリイチの車だ。真っ黒のラングラー 。彼は車を置いてどこに行ったのだ?彼はまたどこかへ歩きに出たのか。私にはもう、さっき車を停めていた場所も分からない。モリイチを置き去りにしてしまったのだろうか。そうではないと分かった。彼は、歩いてどこかへ行ったわけでも、置き去りにされたのでもなかった。じゃあどこへ行ったのか。私たちは三人でいた。そのはずだ。私はもう思い出している。私とシイノさんは美草にいた。仕事だった。彼女はモリイチを知っていた。私たちは電話を受けた。その先の誰かは私たちに忠告した。モリイチもその電話を受けた。だから彼は迎えに来たのだ。本当にそうだろうか。彼は電話を受けたか。電話をかけた?彼は私たちに忠告した。美草へは行くな、と。私たちは美草へ行った。彼は何度も忠告してくれた。それを破ったのは私だった。彼は私たちを迎えに来た。私を。彼は私たちの泊まってる部屋を知っていた。彼は手を上げていた。雪が降っている。傘をさしている。私たちは部屋を出た。彼はホテルのロビーにいた。私は抱きしめられた。シイノさんはモリイチを知っていた。何をどれくらい知っているのだろうか。私の知らないことも、彼女は知っていた。
 サービスエリアへは十分もかからないで到着した。シートベルトを締めたまま背もたれを倒し、ルーフを眺めた。煙は堰き止められたようにそこを漂い、気付いた時には見えなくなっていた。車の中は寒かった。どれだけ暖房を強くかけても変わらない。風邪を引いてしまったのかもしれない。私の体が冷え切っているのだろうか。建物に入っていく人が見える。何台もの車が入れ替わった。私は出入り口の前にいた。左右に車はない。体中が浮腫んでいるようだった。体が膨らんで、感覚は鈍化している。二の腕をつねってみるが大した痛みはない。声を出してみるがぼわぼわと聞こえづらい。視界だけははっきりとしていた。滲んだりぼやけたりした部分はない。着信音が鳴り、慌てて体を起こした。食い込んだシートベルトで息が詰まる。少しだけ体を倒し、ゆっくり起き上がった。助手席に投げ出されたiPhoneを手に取り、耳に近づける動作の中で電話に出た。
「大丈夫か?」聞き慣れた、聞き慣れないモリイチの声。私の中で、色濃く残っている声はその声ではなかった。
「SAに着いたよ」
「車ん中におるな?」
「うん」
「悪かった」
「ううん、大丈夫、というか思い出せないから。モリイチは?どこ?、大丈夫?」
「俺は大丈夫やで。ただ忙しなってん、悪いけど、年末年始はあかんわ」
「車は?」
「車は。ミヤちゃんは?」長い沈黙の後、彼は言った。
「来てくれるって」
「そうか。車は。車はそこに置いてったらええわ、ミヤちゃんが来たら、そっちに乗り込んでくれ」
「全然よく分かんない」
「ミヤちゃんにもよう言うといてくれ、すまん、ミヤちゃんが来るまで、車から降りたらあかんで」
「何を?」
「年末会えんようになったわって」
「それだけ」
「それだけでええ、すまんな」
「モリイチは大丈夫なんだよね」
「うん、大丈夫や」彼の声は平坦でそれは、抑揚を抑えるためにわざとそうしているように聞こえた。
「分かった」
「ありがとう」
 私には、この車にモリイチと二人で乗っている記憶があった。私たちはシイノさんと別れて、それから私の家に向かっていた。通話が切れた後でも、彼の声が聞こえてくるような気がした。それくらい、その間の彼の声は遠くから響いていた。私は写真を見返した。そこにモリイチは写っていたはずだ。彼はそこにいたはずだ。私には、そこに写っている私すら、そこにいた私なのかどうか分からなくなっていた。モリイチはぽかっと口を開けてレンズの辺りを見ている。シイノさんなら分かるだろうか。煙草を吸い続けた。モリイチが吸っていたキャスターの空箱に、吸い殻をねじ込んでいった。どれくらいの時間が経ったのだろうか。もう二時間以上経ったようにも、五分と過ぎていないようでもあった。時計を見ても、彼女からその連絡があった時間を見ても、私には今が何時か、分からないというよりも、断定することができなかった。二人の声が聞きたかった。モリイチはきっと出ないんだろう。私は、シートベルトを外してから起き上がった。辺りを見回す。何台ものトラックと数台の乗用車。車高のおかげか、中の様子がよく見えた。トラックの方はカーテンで見えないのだけど、どの車の中でもシートを深く倒し、ダッシュボードの上に足を投げ出して携帯をいじっている。誰かを待っているのか。ただ時間を潰しているのか。もうシイノさんが来てもおかしくはないはずだ。時計の見方が分からない。きっともうすぐ来るだろう。私はシイノさんの顔を覚えているだろうか。彼女の声、体、言葉、匂い、気配、立ち振る舞い、態度、雰囲気、手触り、その何もかもを、私が知った彼女を覚えていられるだろうか。少なくとも、彼女がここへ来るまで、私の名前を呼ぶまで、私が彼女の名前を呼ぶまでは。どうすればいい?私はそれらを覚えていたい。それらを知覚する器官で覚えていたくない。私が覚えていたいのだ。彼女の、私が知り得た全てを。私は考えていた。思い出していた。さっき、シイノさんを忘れていた時のことを。何の違和感もなかった。忘れたことも、思い出したことも、そのどちらのきっかけも見当たらない。私が考えるべきは今だった。モリイチが言っていたことを思い出した。この時のために、私は今まで何も考えてこなかったんじゃないのか。そんなことはなかった。ただ、それは正しくもあった。私は思い出す必要があった。モリイチは言った。思い出すな。忘れるな。思い出してはいけないものと、忘れてはいけないものを考えた。忘れてはならないものの方は簡単だ。もちろんそれはシイノさんのことだ。彼ならそう言うだろう。誰のことだって忘れてもいい。私は、今の私は、シイノさんのことだけは忘れてはいけない。思い出してはいけないものは?私はそれを思い出しそうになったのではなかったか。だから私は取り乱し、モリイチを見失い、固まった。彼は今どこにいるんだろう。そこは寒くないだろうか。そう遠くない場所に彼はいるような気がした。決して近くにいるわけではないのだけどそれでも、遠い、と括れる範囲にはいなかった。車の外、十メートルと離れていない。そこに彼は立っていた。私を見守っているわけでも、見ているのでもない。ただそこに立っていた。彼は何も言わない。語りかけてこない。語りかけてくるのはいつも死者だけだ。私は。声を聞いた。何人も何人も。誰も彼もが私に声をかけた。私はそれを無視した。聞く耳を持たず、そうやってここにいた。だからここにいた。彼らは私に語りかけた。何を?私が持っていないものがあると。私のまわりには気配すらないものがここにはあると。私は聞き取った。彼らは手当たり次第、私の興味を引きそうなものの名前を言った。読み上げた。私は歩き出した。私は裸足だった。細かな砂が指の間に入り込んだ。視線を足元に落とし、それが砂ではないことを知った。私は顔を上げる。彼らはすくっとそこに立って、私がそこに、彼らの伸ばした手が届く距離に来ることを待っていた。私の意思で、そこへ歩いていく必要があった。彼らの声はずっと同じ調子だった。何を言っているのか。私にはもう内容なんてどうでも良かった。私は彼らを見据えたまま歩いた。一歩ずつ、足元の質感が変わっていく。ひとときも同じ場所はなかった。彼らの静かな呼吸が届く頃、誰かが私の耳を塞いだ。それは誰だったろう。私がまだ知らない誰かだった。その人と私が顔を合わせることはない。本当はそこにいてはいけない人だった。その手に温度はない。その人は何も言わない。音を立てない。背後にあるはずの気配もない。耳を塞ぐ手のひらだけだ。振り返ることはできない。私とその人は会ってはならない。彼らは腕を伸ばした。鼻先で空気が対流した。彼らは何度も手を伸ばした。彼らは諦めるということを知らない。諦める必要などなかったのだ。時間はいくらでも、彼らが望むだけあった。その人は私の体を引いた。私は後退りして、彼らから離れていった。彼らの姿も見えず、私は何から遠ざかったのだろうと思い始める頃、音が聞こえ始めた。私は決めかねるように振り返り、何もないことを確かめた。車が小刻みに揺れている。ずっと向こうの木々も揺れていた。風が車体に当たって散っていく。車のあちこちから甲高い音が聞こえた。車の外に立っていたモリイチはいなくなっていた、どうして?小屋の中で私たちは歩き回っていた。私たちは美草にいた。美草には海があった。そうだ。海はあったんだ。私はモリイチの前を歩いていた。ほとんど獣道にしか見えない山道を、私たちはもう小一時間は歩いている。モリイチが後ろで吸っている煙草の煙が流れてきた。それは私を先行し、倍くらいの速さで後退した。そうして渦になり、頭の上あたりでぱっと散っていった。私が煙草を吸い始める前だ。私たちは美草にいた。崖の上に立った小屋を目指して歩いていた。私はそこへ行く必要があった。本当は一人で行くべきだった。私にはそれができなかった。私たちは何も話さない。覚えていたよりも長い時間をかけて小屋の前に出たとき、それでも私は、もう着いてしまった、としか思えなかった。モリイチは私の隣に立ち、顎をしゃくってから私を見た。私は頷き、彼は、まあ休憩しようや、と言った。私たちは小屋の近くの岩と切り株に分かれて座り、かなりの時間をその上で潰した。私は動けなかった。そうだ。そのときも、私は何かを思い出そうとしていた。固まった私の体を、モリイチは優しく撫でた。彼は火のついていない煙草をくわえていたり、煙の上がる煙草をくわえていたりした。私は長い間、モリイチの足の隙間に、彼にもたれるようにして挟まっていた。彼は切り株の上に座っていた。私は地面に腰を下ろし、彼の顎が乗った頭頂部の熱を感じていた。その他のどんな部分も、どのような温度も感じなかった。私は何か呟いて、モリイチは、ああ、とか、せやな、とか、そんなふうに、何気なく返してくれた。私は思い出していた。波の音が向こうの崖下から響いてくる。それは空中を伝って響いているはずだった。私には地中から波の音が聞こえてくるようだった。私は立ち上がった。大丈夫か、と言いながらモリイチも立ち上がり、手を組んで背中を伸ばした。小屋はほとんど朽ち果てていた。屋根もあってないような状態だ。床材だけはしっかりとしていて、所々にカビや欠けがあるくらいだった。踏み心地や歩いた感触は変わらない。私たちは小屋中を歩いていた。何もない、がらんとした空間だった。いくつもあった椅子は一脚も残っていない。真ん中に敷かれていた固い毛布のようなものも、たくさんの蝋燭も、もちろん、何もなかった。強い海風を受けた壁はたわんでいる。窓なんて一つもない。モリイチは扉近くの壁にもたれている。私はまだ歩き続けていた。何か、探し物でもあったのだろうか?何もない。見当たらない。初めからそんなものはない。モリイチは睨みつけるように私を見ている。その目は私の変化を見ている。私がまた固まってしまわないように、観察していた。私は歩き続ける。波の音は小屋に入り込んだ。それはよく聞いた音だった。屋根はほとんどないはずなのに、その音は小屋の中にしばらく留まっていた。モリイチは何も言わない。私も何も言わない。蝋燭の火が見える。三十脚ほどはある椅子の、何本もの脚が見える。声。波の音。新しい人。よく見かける人。誰かが笑っている。風が吹き付ける。窓もないのにこの小屋は、がたがたと音を立てる。一体何の音なんだろう。足音。床の匂い。固い毛布の感触。背中に鳥肌が立つ。頬もその肌触りを思い出している。靴を脱ぐ音。裸足の指先。何種類もの匂い。音。波の音は増していくばかりで、ちっとも減らない。呼び掛けられる。読み上げる。手のひら。誰の手も合わない。床が軋む音。砂粒が落ちて跳ねた。何度も見た顔。鈍痛。屋根が揺れている。儀式。羽が。靴底の大きな石ころ。蝋燭の火の向こう。影が。影がいくつも重なっている。大きな人影。誰か。モリイチは勢いよく壁から離れ、私を羽交締めにした。私たちはそのまま倒れ込んだ。彼は何も言わない。私も。何も聞こえない。私は空を見ていた。眠っていたのか、モリイチはそばで煙草を吸っている。真っ暗だった。供物。波音はまだここにあった。気にならなかった。私は忘れた。思い出せなかった。モリイチは先を歩いた。うっすらと見える道を歩いていた。私たちはどこかを歩いている。山の道。ほとんど獣道だ。モリイチは何度も振り返った。両脇の暗がりには何かがいた。ずっと、ここへ来るときにもそれはそこにいた。私はそれを知っていた。モリイチは知らなかった。私はモリイチの背中を見つめて歩いた。何も見なかった。何時間経った?静かだった。波の音はここまでは届かなかった。領分が違った。モリイチは振り返る。私はそこにいる。私は振り返る。それはそこにいる。私は前を向き直す。彼と私の間にもそれはいる。私は構わなかった。それらはただそこにいるだけだった。私たちに関り合いのないものだ。まだ。私はiPhoneを取り出した。一体何時なんだ?シイノさんからの連絡はない。私はまだ彼女を覚えていた。モリイチと私は駅前の食堂にいた。私たちはまだ何も話していない。私は彼に負けじとたくさん食べた。それまでもそれ以降も、そんなに食べたことはなかった。彼は笑って、大丈夫か?、と言った。私はそれに答えないで、丼に残ったお米をかき込んだ。車に乗った。彼は、どうする、と言った。分からない。どうすればいいのだろう。その頃はまだ高速はなかった。私たちは途中からも合流せず、長い時間をかけて下道で帰った。モリイチは疲れているはずだったけれど、私には分からなかった。私は眠った。眠っていた。夢は見なかった。音が聞こえた。ありとあらゆる音を聞いた。目を覚ました。モリイチは、おはよう、と言った。私は答えたか。覚えはない。口は開かれた。私たちは帰った。それからどうした?私はそれからモリイチに会っただろうか。もう彼は電話をかけてくることもないだろう。電話の向こうの誰かも、私に忠告をすることもない。私はよく迷子になった。いつも誰かが私を見つけ出した。ひとりでに帰ったことなどなかった。誰かが必ず私を見つけた。私は迷子になったことに気が付いてもいない。歩いていた。走っていた。誰かが声をかけたのだ。だからそっちへ行った。手を離して。私は迷子ではなかった。言われるがままに進んでいった。どこにも見覚えがあった。知らなかった。知らない場所だった。心細くもない。誰かがずっと隣にいた。前の方にも、後ろにもいた。私は囲まれていた。歩いていた。走っていた。見飽きるほど見たことのある風景が続いている。まだ知らなかった。私の前で伸びる道を、私はまだ歩いたことがなかった。それでもその道を知っていた。それに、道の先にあるものを知っていた。私たちは手を繋いでいた。名前を呼ぶ声。私は振り返る。見知った顔がある。私は吸い寄せられるように歩き出した。何を言っているのかは分からない。私を連れて歩いていた誰か。言葉は意味を成さない。私は笑っていた。車の中はどんどん寒くなっていた。靴を脱ぎ、両足を抱え込んだ。窓の向こうに見える車は何台目だったか。ここへ来てからもう何度も入れ替わっている。シイノさんは無事に辿り着くだろうか。空腹を感じていた。車の中には何もない。彼女の車に乗った後、私はどこへ向かえばいいのか。家に帰るべきなのか、彼女の家に行けばいいのか。私が忘れていることは、シイノさんを覚えている間は、忘れられたままだった。反対に、彼女を忘れている時には、何かを思い出そうとしていた。その何かは私に、思い出されようとしていた。モリイチはきっとその中間にいた。私は彼のことを思い出したり忘れたり、少しだけ思い出せる範囲が広がったり、ずっと前から覚えていたことを忘れたりと行き来した。体の芯が冷気に震えている。白い息が赤色の車に重なって見える。誰も乗っていない。いつからそこにあったのか。時計はまだよく分からないままだった。いつだったかに妄想していた、シイノさんと暮らす家のことを考える。目が覚める。私は隣で眠るシイノさんを見やる。彼女はぐっすり眠っている。少し汗ばんだ額が、カーテンの隙間から入る朝陽に光っている。私は何の気なしに彼女の額を指先で拭う。彼女は寝返りを打って目を覚ます。おはようございます、と声をかけた。彼女は、おはよう、と言って腕を開く。今日は休みだった。私は彼女に抱きしめられたまま眠り始める。夢を見る。私は泳いでいた。濁った水の溜まりに浮かんでいる。小さな島が遠くに見えた。私はそこを目指して泳いでいるのだろう。島には見たことのない樹木が生えている。私は海岸をぐるりと一周歩いてみる。島は、歩くたびにその外周を広げていった。歩き疲れると木々の影で昼寝をした。私たちはダイニングで向かい合って座っている。適当な朝食を食べ、今日一日何をしようかと、あれこれ言い合った。彼女は買い物へ行きたがって、私は何だって良かった。それに賛成して、私たちは家を出る。まだ彼女の気配が残った家具と、よく見知った家具が混在している。私たちはその間を通り抜けた。明るい日差しが一瞬で私たちを覆う。エレベーターに乗るまでに上着を脱ぐ。彼女の腕に触れる。産毛と肌のさらさらとした感触が手に移る。私は目を覚ます。すっかり夜だ。これまでに見た数を合計しても足りないくらいの星が見える。細波の音が星々の震えのように耳に届く。高く伸びた木の先に大きな実を見つける。私はお腹が空いていて、なんとかしてその実を取れないかと、使えそうなものを探し始めた。砂浜は昼間よりも鋭く光っている。意外なほどに遠くまで見通すことができる。泳いでいた時には気づかなかった大小の島々が見えた。そこにもきっと誰かがいた。私は寒さを感じた。空腹よりも先に、その冷ややかさを落ち着かせる必要がある。火があれば何かと便利だろう。見たことのない樹木の落葉落枝は見慣れたもののようだった。私は手当たり次第に石を集めた。どの組み合わせでも火花を出せないでいた。冷気はもう我慢できないほど、骨の奥まで染み込んでいた。私は震えていた。積み上げた枝葉が見える。水平線や島々が揺れて見え始めた。私は全身を包み込むようにうずくまった。半分埋まった耳の中で、砂粒の擦れる音が響く。体を寄せてみると、表面のずっと向こうに熱が残されていることが分かる。私はその温もりに縋り付くように体を押し付けた。右肩が砂地に食い込んでゆく。温かい。私はふと目線を上げる。忘れていた果実が、空腹感を思い出させた。折り畳むみたいに体を曲げ、今ある熱がなくなってしまわないよう、じっと動かなかった。右目には驚くほど近くに見える砂とぼやけた遠景、左目には堆く見える無用の塊、割りにはっきりとした遠近がうつっていた。私は目に入る一つ一つを数えていった。眠気はなかった。とにかくここは冷えるだけだった。私の体はどこへいったのだろう。私は砂を抱えていた。こぼれ落ちていった。ひとかかえも残らない。風に吹かれた落ち葉は海にも何枚か浮かんでいるようだ。あとに残ったのは小さくて細い骨だけだ。違う。それは枝だ。私が拾った。私がまだあった頃に拾ったものだ。海上の葉っぱは揺れていた。沈んだ。数枚だけ、砂浜へ寄ったあとぐんと遠くへ流れていった。もう見えなくなった。私は砂の中にいた。体は?細波と砂の流れる音は同じだった。同じように響いた。暗くはなかった。眩しくはない程度の明るさがあった。初めて訪れた場所だった。私は立ち上がった。ひんやりとした、リノリウムのような感触がある。私の足の形に沿って形を変え、それでいて硬質な踏み心地はそのままだった。何も見えない。どの感覚も遅れてやってきた。歩き出すべきかどうか分からない。私は何故か立ち上がった。何のために?右足を上げる。踏み出すとあとは自動的に歩き始めた。どこへ向かっているのだろう。何も見えない。どんな方向に進んでいるのかも分からない。足が向いている方が前だとは分かっているのだけど、一歩進むたび、私もその場所もそれぞれに回転しているようだった。目を覚ます。私は焚き火の前に寝転がっていた。私が眠ったあとで、誰かが来たのだろうか。火の向こうに、膝を抱えて座り込む人が見えた。起き上がろうと力を込めた。誰かは、そのままでええ、と私を制し、火の上に手をかざした。言われた通りというよりも、自然に力が抜けていった。私は夜空を見上げ、熱いくらいの火の暖かさを蓄えようと動かなかった。よう来たな、と誰かは言った。顔を向けると手が伸びた。私は星々に向き直り、すみません、先客がいるとは、と言った。星の明滅に合わせたような木の爆ぜる音が聞こえる。気にせんでええ、定員もないし、早い者勝ちでもない。心地好い声だった。慰撫されるのとは違った、もっとはっきりとした感触のある声。火、ありがとうございます。ほんまにな、君、がちごちに冷えとったで。誰かは大きな声で笑い、ぐらっと火が揺れた。他には誰かいるんですか?おらんな、俺と君だけや。唾液を飲み込む音が響く。大丈夫、心配せんでもええ、何もせえへんよ。すみません。いや、そりゃ怖いわな、でもまあ、信じてくれとしか言えへんな。大丈夫です、分かってます。何かもらうんも怖いやろう、火花の散る組み合わせで、君の集めた石ころ並べといたるわ。どこ行くんですか?向こうや、まあ大体君の反対側におるわ。反対側。一人でどうにもならん事があったら来たらええわ、ただあんまり歩き回ったあかんで、君も歩き回って気付いたやろ。はい、気をつけます。ほな行くわ。しばらく、これはいらん、これはいけるな、と声が続いた。私はまだ星を見上げていた。どの星も同じような強さで光っている。ほとんど違いはない。大きさが少しずつ違っているだけだ。瞬きをすればそんな基準は消える。私は起き上がって辺りを見渡した。誰もいない。焚き火の向こうに並んだ石と、そのすぐ隣に窪みが残されているだけだ。私は火に手をかざした。静かだった。私はその声を聞いたことがあった。聞いたことがあるなんてもんじゃない。私はその声を頼りにしていた。その声のする方へ歩いていった。その声が響いた場所に立っていた。その声の響くものを見た。その声が届く範囲から、片時も離れたことなどなかった。それまではなかった心細さが、弛緩していく体の一部を硬化させた。私は近寄れるだけ焚き火のそばへずれた。目を覚ます。繋いだ手が汗ばんでいる。私たちは並んで歩いていた。見上げたマンションは深い黄土色だった。シイノさんは、何食べようか、と言ってiPhoneを取り出す。私は彼女の様子を窺いながら、何も言わないで手を引き、適当に歩きましょう、と言った。炎天下、二人のシャツは濡れていた。同じ柔軟剤の香り、いつかの香水、それぞれの体に匂い、そんなものが私たちを包んでいた。新しい私たちの匂いだった。汗が体中で流れている。私たちは知らない道を歩いていた。ここはどこだろう。私の知らない街。それでも私は彼女の手を引いて歩いている。路地に入る。二人の靴音が反響する。長い路地を歩いていた。大通りを目指していた。洗濯物がなびいている。食べ物の匂い。混ざり合ったそれらを判別することはできない。シイノさんは眼鏡を外している。私は彼女の手を握り締める。彼女が微笑んだ。どれだけ歩いても塀の間を抜けない。私たちは同じところを歩き続けていた。彼女はそれに気づいていないようだ。私は立ち止まる。少し先を行った彼女も立ち止まる。私は振り返って歩き出した。シイノさんは動かない。歩き出した力でくるっと彼女に向き直る。彼女は何も言わない。どれくらい見えているのか分からない目で私を見ている。私は何か言おうとする。おかしいですよ、この道、と。言葉は出てこない。浮腫んだ声帯は振動しない。シイノさんは私の手を引きはしない。私たちの腕は、立ち入り禁止のチェーンのように力なく垂れている。私は彼女の手を引いた。彼女は動かない。首を振ることもない。ただ私を見つめていた。私の目を。私たちは人混みの中に立ちすくんでいた。私は一人で立っていた。静かな雑踏の中に。初めから一人で立っていた。ここから見上げても巨大だと思える広告看板がいくつも見える。無数の足音だけが辺りに満ちていた。誰もいない。私は座り込んだ。何本もの足と路面しか見えない。それでも届く日差しが背中や首筋をふつふつと焼いていった。人々は急足でどこかへ向かっているようだ。振り返る。誰かが私に向かって走っている。私は立ち上がる。追いつかれてはならない。私は走り出す。数えきれないほどの人にぶつかった。あちこちが鈍く痛んだ。振り返る。逆光の中とはいえ、もう見えてもいいはずだった。それが何か、誰か。私たちの距離は広がっていかない。私は何度も転んだ。それは誰ともぶつからず、真っ直ぐに私へ近付いてきた。脇腹と肺が切られたように痛む。私はもう諦めていた。逃げ切ることは出来ない。それは絶対だった。私は立ち止まった。振り返り、せめてそれの一部でも見ようと目を細めた。どの瞬間とも変わらず、何も見えなかった。私は瞼を閉じ、体中の力を抜いた。もう見ている必要はない。薄桃色の視界の中でも、それが近付いて来るのが分かった。体がみるみる冷えていく、その速度、その程度でそれとの距離を知れた。それは私との距離を断続的に縮めていった。それが私を捉える直前、私は瞼を開けた。鼻先が触れ合うほど近く、そこにはよく知っている顔があった。私は倒れた。頭を強く打ち、残響が体中に響いた。手を伸ばす。ぬるぬるした、それでいて擦り合わせる指の動きを止める感触。人影の下ではそれはほとんど真っ黒に見えた。横目にとろりとした流れが見える。踏みつける音。引き剥がされるような音。私はまた瞼を閉じる。体はこれ以上ないくらい冷たく、強張っていた。瞼の裏で蛍光色が散らばって光っている。硬い音。繰り返される音。振動。くぐもった声。名前。私の。応答はないようだ。ここには誰もいない。誰一人、ここにいたことはない。名前。応答なし。堰き止められていた。途切れていた。硬い音。繰り返される音。声。呼びかける声。私は車の中にいた。誰かの車。寒い。あまりにも寒い。名前。私は起き上がり、靴を履いた。足の指の感覚がほとんどない。視線。確かな、私に向けられた視線。お腹が空いていた。胃が痛み出している。外に出ようと、それは、ドアは外側から開かれた。私の手は掴み損ねたまま投げ出され、そのまま強く握られた。体がふっと軽くなり、車の外へ飛び出した。鋭い冷気。温かかった。私は誰かに抱きしめられていた。

 


56967字

-月曜日-

 ヨルコは街で見かけた人をみんな覚えていた。彼女がソヨにその話をしたとき、彼女たちは雲の多く浮かぶ砂浜をただ歩いていた。それより少し前、一時間だったか、ヨルコは海岸沿いの駐車場に停めた車の脇から、ほんの先で伸びる遊歩道を歩く老人を見つけた。それはここより五十キロ以上離れた彼女たちの住む街の、木曜日のスーパーで見かける男だった。ソヨはそう言われても、どのような既視感も得なかった。それで「そういえば、わたし。最近気づいたんだけど、小さい頃から今までに街で見かけた人のこと全員覚えてるんだよね」と言った。彼女の言葉を正確に言い直すなら、一人で街に出るようになってから見かけた人は全て記憶している、ということだ。ソヨはそれを信じず、そんな訳ないじゃん、と笑いながら、海へ向かって歩き始めた。ヨルコは、そんな訳ないか、と考え直し、彼女のあとを歩いた。私は彼女たちの一週間を書き残しておくことになった。私の番になった。私の前はヴァイが、その前はククが、その前にはサコが。こうやって、何の意味にも結びつかないまま書き付けていた。分厚いノート、これはどこから引っ張り出してきたか。私の手には見知らぬペンが握られている。ヴァイが、彼がくれたのだったか、おそらくそうだ。私の家(小屋に近く。もっと言えば、雨に濡れずには済むといった程度のもの)には紙の束も、あらゆる筆記具もなかったのだから、これは私のものではないはずだ。
 ソヨは深くまで濡れて柔らかくなった砂の上を、飛び跳ねるようにして、波打ち際までの長い距離を歩んでいる。ヨルコは距離を取って、彼女の歩かなかった場所を無意識に選んで歩いている。彼女は詩人で、ソヨは主に菜食者に向けた店の共同経営者だった。彼女たちは大学で出会っていた。仏教哲学の講義で隣の席に座った。先に座っていたのはソヨだった。彼女はプリーツの消えた真っ黒なスカートの裾を整え、緊張した顔(動きの止めた虫に近づくような面持ち)で会釈をし、ヨルコは無邪気に笑って、「こんばんは」と言った。
 彼女たちは、講義が行われている部屋にいる、といった状態で小さな声で話し続けていた。一時間半ずっと。ヨルコはソヨの顔立ち、大きく見える瞳や薄い唇、広い額、血管が透けて見える肌の白さ、そういったものに惹かれていた。ソヨはヨルコの声、掠れているのに澄んだ、情報の多いその声に惹かれた。彼女たちはそのあと、講堂の近くのベンチに座って夕食を食べた。そのあいだもずっと話していた。彼女たちが何を話していたのか、私には分かりかねる。その日は、それで終わった。
 波音は静かだったが、それに比べると高い波が寄せていた。彼女たちは、この砂浜へ来る人々のほとんど皆がそうするように波の寄せる間近に立ち、いかに寸前までそこにいられるか、と、その瞬間の表情や声音に対していくらか真剣すぎる心持ちで繰り返していた。ヨルコの頭の中では詩が形作られる前の、軽い熱が(彼女がそれに気付くのは九日後)漂っていた。そうすると彼女は、この時間の中にあって何故か、郷愁のような気持ちを抱く自身を不思議に思った。ただ楽しいだけだと、彼女はいつものように考えていた。ソヨはただ楽しんでいたが、失礼、サコが饅頭を持ってやって来た。薄桃色の生地に包まれた、焼いた栗が練りこまれた餡、甘い、甘い。「一服してっていいかな?」、彼女はいつものように、私の返答を聞く前に椅子に腰掛けた。私は戸棚からマッチと煙草の入った箱を投げてやり、向かいの椅子に腰を下ろした。「調子は?どう?」、煙とともに流れた言葉は、私の内側に籠り、明確な返事を求めた。「いいよ。結構いい。ついさっきまで書いてたよ」。私は一本、マッチを無駄にして煙草に火を付けた。強い香気が鼻を抜けていく。「邪魔した?」、手土産を一口頬張り、飲み込む前にそう言った。私は灰皿を小指の先で引き、こんっ、と音を立てて灰を落とした。「ううん。邪魔してないよ」、サコは微笑んで(それは、彼女が安心したときにだけ見ることのできる優しい思い出)「『良かった』」、と言った。彼女が今、どこから言葉を引用したのか、無学な私に見極めることはできない。彼女が他者の言葉を引用するのは、本当に言いたいことを飲み込んだときと、それをどう言葉にすればいいか分からないときだ。
 そう、彼女たちは海岸沿いから離れ、木曜日のスーパーにいる男が歩いていた道へ移動した。私は、サコと世間話を続けながら、書き始めた。彼女は席を立ち「『コーヒー淹れてもいい?』」と、昨晩焼いたばかりの豆をミルの中へ注ぎ始めた。ヨルコとソヨは色違いのコートを着て、それぞれ中に厚手のセーターを着ている。彼女たちはそのコートを新宿高島屋を、ほろ酔いで巡っている時に買った。彼女たちはシルクの、膨らんだ部分の目立つライン、美しく灰がかった黒いワンピースを試着した。ソヨは158センチ、ヨルコは171センチ。そのワンピースはヨルコによく似合っていた。彼女のかけた眼鏡、細い銀縁のクリアな、出掛ける前にも、バルのトイレでも洗われたそれと調和していた。ソヨもおおむね同じようなことを彼女に言って、しかし二ヶ月分の生活費と等価のその、着ていく先の思いつかない薄い布は、買われることはなかった。彼女たちはセールで安くなったコートを、互いを着せ替えるようにして、キャメルをヨルコ、強い日差しの下でそれと判断できる紺をソヨ、それぞれにこの先の倹約を誓いながら買っていった。
 サコは私の分のコーヒーも淹れてくれた。彼女は「わあ、すごいすごい、膨らむ膨らむ」、「見てー、見て見て」と言いながら、それでも視線は湯を吸ってドーム状に膨れた粒状の珈琲豆から離れることはなかった。彼女は美濃焼のマグを二つ戸棚の端から取り、そこへコーヒーを注ぎ入れた。汲んできた水は、円やかな質感を生む。それは全体を包むようにしてあるのではなく、一つ一つの要素、味の要素、その輪郭をなだらかにしていった。サコはきび砂糖をティースプーン一杯分入れ、そのままそれでからからと混ぜ合わせた。私はノートに目線を落とした。月曜日。奇しくも私たちは、私とサコも月曜日を生きていた。私は午後には、しばらく歩いていかなくてはならない。サコはついてくるだろう。彼女は私よりいくつも若く、それでいて衒いや臆するところがなかった。私よりずいぶん前に書き物を終えたことも、私が彼女を気に入っている一つのポイントだった。それは簡単な結論を導き出してくれる。それは、彼女が私よりも確かに知的で、独特の知性に基づいた賢明さを手中にやさしく収めているということだった。それは改めて言うまでもなく、彼女はある種類では私よりも遥かに賢く、私がそこへ及びつくことは永遠にない。しかし、これは、私たちにとって儀式のようなもので、この行為を通してしか、私たちは知性を養うことができない。近くに住む者は大抵この連接に加わり、そしてそれは終わることがない。彼女は瞼を閉じ、両手でマグを包み込んでいる。のぼる湯気が顔の辺りを漂い、隙間だらけの小屋の中をうろうろ、それは決して扉からは出ていかない。新しい一本に火をつけ、たっぷりと煙を吸い込んだ。体のあちこちに染み込んでいく。煎り殻のような甘い香り、サコは私の目を見つめ「あなたの匂い」と言って、しばらくしてから笑った。

 彼女たちは遊歩道にのった小石を砂浜に向けて蹴りながら歩いていた。鈍色を吸ってキャメルのコートは鮮やかさと光沢を持ち始めた。ヨルコは眼鏡を外し(その判別のつかなさから、何も見えないと言っていい)コートの内側でゆっくりと鏡面を拭った。私とサコは海へ行ったことがない。私たちはそれを嬉しく思った。ヨルコとソヨを通して、変動し続ける波と不確かさを呼び起こす動かない砂浜、腐敗したような今生まれたような潮の香り、しっとりとした風、それらを感じることができた。彼女は緩く笑っているが、それは私と過ごす時間に対してではなく、それらに対してだった。
 前を歩くソヨの背中を見ていて、ヨルコは自然に(ペン先を紙面に当ててからそれに気が付くくらい)小さなノートを取り出した。そうして、二週間前に訪れた熱を言葉に置き換えていった。彼女はソヨとの時間が増えるほど、翻訳の精度、頻度、強度、それらが明らかに高まっていることに、まだ無意識ですら気付いていない。遊歩道を折り返し、途中でまた砂浜を歩くことにした。生活のあらゆる残骸が流れ着いている。それは、そのしばらく前の海洋から残骸に近づき、すっかり、そうなっていった。ソヨはそれらのなかから、そのあとで手に汚れが残りそうでないものを拾い上げていった。彼女は乾いたもの、手に残らないものは(払えば変わりないもの)汚れていないと考えていた。ヨルコはそんな彼女の姿を見ながら、これといった意図もなく書き連ねていた。私たちは饅頭を食べ終わり、予定よりも早く、腹ごなしに外を歩くことにした。サコは私の右肩を、温かく硬い指先で揉みながら歩いていた。私は火のついていない煙草をくわえ、静かに空気を吸い込んだ。外気は、荒く刻まれた葉の隙間を通り抜け、厚紙を巻いてつくったフィルターを勢いよく過ぎていった。正直に言えば、火をつけた煙草より、そうでない煙草の方が好きだった。なくなることがない。ほぐれた右肩が熱を帯び始めた。やっと運動を始めたということかもしれない。私たちは足だけで歩いている訳じゃなかった。水を汲むために訪れる川へ向けて、私の爪先は動き出した。
 いくつかの海水の溜まり、半分だけ干からびた海藻、おそらく三輪車のサドル、意外にも綺麗なボトル、彼女たちはそれらの間を抜け、駐車場へ戻った。ソヨは助手席の方へ回り、ヨルコは意識的に運転席へ回った。ソヨはキーを投げた。ちゃきちゃきと音を立て、フォークボールのように不意に、ヨルコの手のひらに落ちた。
 濃い緑のインクを溶かしたような色合いの川、私は一週間に一度は必ずここへ出向き、飲み水としてタンクを満たして帰った。サコはクリーム色のスニーカー型に作られた革靴を脱ぎ、淡いカスタード色の靴下をくるくる、糸くずのついた足先を清流に浸した。彼女の足はほとんど川の流れと同じように透けた白色で、陽の光がその足を焼いていくことを心配してしまうほどだった。隣に腰を下ろし、くわえていた煙草に火を点けた。私たちの(もちろん、ヴァイ・クク・サコ、それ以前の多くの同胞のことだ)仕事は、誰にも理解されることがなかった。それでも私たちは、その事実を知りながらも、事に仕える時間を躊躇わなかった。勤勉さに差こそあれ、ヴァイやククだって、今では良き助言者だった。彼らはそれだけ真面目に、仕事に従じていたということだった。私が直接、その仕事ぶりを見たのは(サコの二代前)キタンが初めてだった。彼は、細く長い身体を揺すり、柔らかな革のソファに深く腰掛けていた。左側にたまったページを丸く折り曲げ、群青のボールペンで書き留めていった。私は向かいに持っていった木の椅子に浅く座り、彼の動きを見るともなしに見ていた。それは彼の集中を、どのような意味でも妨げなかっただろう。キタンは宙空を眺め、書き残すべき物事を見極めようとしていた。いや。それは不正確だ。私たちが何かに目をつけて、それを見事に選びとることなどなかった。私たちはただそこにあるものを書き続ける必要があった。それだけがあった。彼の、陽光を受けた稲穂のような瞳は、一体どのような風景を見ていたのだろう。私は、彼の働いている姿を見たことに満足し、ついぞそのノートを読むことがなかった。そういった意味では、私がその仕事を初めから終わりまで逐一観察したのは、サコだけだった。
 彼女たちは走行中の車の中で、大音量で流れる音楽に合わせて歌っていた。その歌声が聴こえないほど、スピーカーから流れる音は大きい。両側の窓を開け放し、それぞれ扉側の腕を放り出している。ヨルコは、詩として形作られた熱源と、まだその姿を留めたままの不整な塊を思っていた。市街に向けて走る彼女たちは、街に降る湿った雪をまだ知らなかった。紅色の車は、弱い日差しの下で鈍い色の空気を裂いていった。彼女たちの中で空腹感がもたげ、行きがけに買っていたお菓子やジュースに手を伸ばした。いくつもの可能性の中で、彼女たちを書く役割が私に巡ってきたことを、私自身はどのようにも感じていなかった。
 私たちは帰り道、ククの家へ寄り、私の小屋の隙間を埋めるべく木材を何枚かもらった。「そげに気つけろよ」と彼は言った。一緒に釘ももらった。金槌をヴァイの家で借り、それからようやく小屋に辿りついた。私は裏手に回り、木材を立てかけた。その裏に釘と金槌を置き、家に入った。サコは靴を脱いでソファに寝転がっている。毛玉を取り除かれた古い靴下は、彼女の堅実さを表しているだろうか。彼女の足を持ち上げながらそこへ座り、腿の上に置いた脹脛をやさしく揉んだ。「出歩かないから。少しで疲れた」と彼女は言ったが、私はその疲れを癒すために始めたわけではなかった。割に発達した筋肉は強張り、浅く押した指先に反発のようなものを感じる。乾いた指先に、靴下の毛羽立ちが引っかかった。私たちは午後の穏やかな時間を、会話もなく、各々が別のものに熱中するわけでもなく、そこにある時間のように過ごしていた。
 ヨルコは詩人だと書いたが、それで生活費を賄っているわけではなかった。彼女はソヨの店で働いていた。彼女がそれだけ、それに類する仕事だけで生活するのは、もう少し後のことだった。彼女自身はペスカタリアンだがそれは単に、肉を食べると腹を下すからだった。思想的なものは何もない。ソヨは厳格なヴィーガンだったが、ヨルコの食生活に関心はなかった。互いにそのような食生活を送っている、というだけだし、彼女たちもそれを理解していた。彼女たちはフロントガラスの少し先の、風景でもないような空間を眺めていた。ごく短い時間で過ぎていく景は、私やソヨにとっては、そのすぐ後に目に入るものと何ら変わりのないものだった。サコやヨルコにとってのそれは、全く異なる。彼女たちの時間は、私たちの時間よりも細やかで長い。私はそれが分かっていても(同じように見えるがそれは確かなことではないこと)同質のものとしか思えなかった。
「夜ご飯どうする?」
「ソヨは?」
「んー、外出ないなら冷蔵庫ので適当に済ます、かな」
「そっか。じゃあ、橘行こうよ」
「よっしゃー、ヨルコは大丈夫?」
「何が?」
「いや、何となく」
「あれ、板は?」
「裏に置いてきたよ、明日打ち付ける」
「一人で出来る?」
「大丈夫だよ」
「『手伝おうか?』」
「うん、じゃあ、頼もうかな」「ありがとう」
「何食べようかなー」
「私はいつも通りかな」
「鱈と山菜のパスタ」
「うん、あれが美味いんだよねー」
「それ以外食べてるの見たことないかもしんない」
「確かに」
 私たちは夕食に人参のスープと厚く切った角食パンを食べた。パンはサコが家から持ってきてくれた。スープを温めているあいだに「ちょっと待ってて、パン、取ってくる」と飛び出していった。小さな机を向かい合って座り、食前の祈りを捧げた。

 彼女たちは、ヨルコのアパートの駐車場に車を戻してから『橘』へ歩いていった。表通りに出るまでの道には、橙色の電灯が異様な本数立ち並んでいる。夜道であることに変わりはないのだが、くっきりと照らされているせいでセットにも見えた。私たちはどちらからともなくソファへ移動し、ほのかな眠りの中へ落ちていった。

 サコの記録は、老婆の十年間、その月日の中での土曜日の出来事だった。彼女はそれを言わば二年かけて書き残した。私は毎日のように彼女の家を訪れ、休息の時間を共に過ごした。彼女を外へ連れ出し、少し前まで書いていたものの話をした。彼女は爛々とした目でそれを語り、私の小さな意見をじっと待っていた。
 図書館へ行くこともあった。司書は私たちを見かけると目元だけで笑みをつくり、ふわりとした辞儀を見せてくれた。それは一点だけ差し込んだ光の中で、ゆらゆらと落ちていく木の葉のように、私やサコには印象的だった。私たちもなるべく努めて頭を下げ、そこここの書架を見てまわった。手を繋いだか、肩が触れ合うくらいだったか、そうして私たちは歩き、書名だけを読んでいた。必要な本はすでに揃っていたから、私たちはただリラックスしていれば良かった。「これは?」と彼女は背表紙に触れた。「それは、昔話だよ。私たちの。もしくは、ファンタジー。誰かの」

-火曜日-

 ヨルコが私よりも早く目覚めることはない。彼女は、12時に開ける店へ電車を乗り継いでやって来る。それで大体、9時には目を覚ます私は彼女へLINEを送る。おはよーとか、その日の業務的な連絡等々。11時過ぎに返信がある。その時点で彼女はまだ目が覚めたばかりで、毎度のことながら、間に合うのかな、と思う。あとはもう靴を履くだけの私は、店から歩いて5分とかからない所に住んでいた。この数年の間に彼女が遅刻したことはないから、何も心配する必要はないのだけど、時間の感覚が違った人と付き合うのは緊張感があった。

 シャッターを押し上げ、ガラス扉の錠をあけた。いくら掃除してもなくならない細かな埃が流れ入った風で舞い、それは鼻につく匂いを想起させた。匂いの粒のようなもの。それらが鼻の中や上唇と鼻の間に付着するイメージ。
 30分かけて店中を整えた。記憶にない、商品の乱れやその向こうを拭う。iPhoneを繋いで音楽を流していた。特に何かを聴きたい気分でないときは適当にESSENTIALSをかける。手足を余計に動かしたり、くるっと回ったり、そんなふうに。
 きっかり3分前にヨルコが到着した。肩を上下に、呼吸を正しながら、おはようございます、と園児のような声で言う。いつも通りだった。私はラグが起こるくらい自然に笑った。2畳はないくらいのバックヤードでてきぱきと用意を済ませ、必ずどちらかの肩紐が捻れたエプロン姿で戻ってきた。
 無言で、でも笑ったまま肩紐を直し、じゃあ今日もよろしく、と立て看板を持って外へ出た。ヨルコはその間、レジのあるカウンターと狭いキッチンのあいだをうろうろしている。彼女は小声で歌っている。店で流れている音楽とは違った歌なのに、どうしてかぴったりと合っていた。彼女の声は私の耳に真っ直ぐ届いた。普段よりクリアな声が不思議だ。朝のこの時間が一番好きだった。いつまでもそうであればいいくらい好きだった。

 店内に戻った私はカウンターに、うろついていたヨルコはキッチンに。それぞれの定位置から、お客さんを待ちながらも、あまり意識せずにそれほど大きくはない声で話していた。彼女は、前の日店に入っていれば上がってからの話をする。この前できた店で晩ご飯を食べたとか、本屋でこんな本を買ったとか。彼女の話し方は、私がそれを聞いていても聞いていなくても気にしないふうで、それがむしろ耳を傾けさせた。
 彼女はしょっちゅう本を買った。古書店でも大型書店でも。夕方の短い休憩時間にも近くの本屋へ走り、1冊は手に戻ってきた。学生の頃から私は、ほとんど恐ろしい思いでいた。彼女のペースならばと、何となく売っている様子もないし、積んだ本の上で眠り、本で出来た棚に本を収めていく、本に座って、本の上で本を読む、そんな空想が頭に浮かび続けた。訊ねてみればいいのだろうが、その空想を守っていたい気もどこかにあって、いまだに彼女は本の中に住んでいた。何度か行った彼女の部屋は、実際にそのようになっていきそうではあった。

 火曜日の昼間は毎週のように暇だった。月火金土に私はいて、ヨルコは毎日いる。水木日はワダチくん、たまにどこかにフキちゃん。彼女は私と一緒に店を始めたのだけど、今はジュエリー作りに勤しんでいるようだった。
 カウンターを乾いた布で磨いたり、在庫のチェックや発注するものをまとめたり、ヨルコの淹れてくれたホイップクリームののった豆乳モカを飲んだり、キッチンの中を歩き回って本を読む彼女を見たり、仕事らしいことは何もない時間を過ごした。初めのうち、最初の2年か3年はこんなふうに暇な時間が苦しかった。フキちゃんは、大丈夫だよ、としか言わなかったが、それは分かっていた。どう大丈夫なのか、詳しく知りたかっただけだ。
 それでも夜の部は火曜日でも忙しくなることの方が多かった。私たちはそれまでの数時間を結構のんびり、した方がいいくらいの用事を細切れに済ませていった。ヨルコは途切れ途切れに仕込みをして、そういえば、みたいに本を読んだ。

 16時過ぎに常連のお客さんが来て、乾燥タイプのソイミートと朧豆腐を買っていった。何千回も繰り返しているはずなのに、暇な日の、その日初めてのお客さんに対して少しぎこちなくなるのはどうしてだろう。ヨルコは、今日も気持ちいい天気ですねー、と話しかけ、ずいぶん前に彼が話したことに対して、どうでした?、みたいなことを言っていた。ヨルコが働くようになってから、目当てとまではいかなくとも、彼女がいるから、というような雰囲気で訪れる人は少なくはなかった。あくまで体感だけど。彼は、そういうことなら、的な態度でホットソイラテも買って帰った。ヨルコのお客さんに対しての平易な接し方を見ていると、晴れやかな空気が満ちていくようだった。はっきりとした感じではないが、本人も気付かないくらい、彼らは朗らかに帰っていく。朗らかさを増して。
 それから立て続けに何人かが食材を買って、ドリンクをテイクアウトしていった。ワダチくんが来てランチプレートを頼んだ。ゴボウのスープとたっぷりのサラダ、辛味の強いトマトソースに薄切りのテンペの入ったリングイネ。
 ヨルコは、日頃のしなやかさに比べると違和感を覚えるほど手際良く動いていた。特に意識を向けなければ何も気にならないけれど、じっと見ていると初めと同じように驚きに似た気持ちを抱く。彼もそんなような表情で彼女の姿を見つめていた。

 ワダチくんが帰った後で20分くらい雨が降った。店の中から見ていても大きく思うほどの水の粒は、昼と夕方のあいだの光を帯びている。一粒ずつ違った速度で、地表に落ちるまでにくっついたり離れたり、散り散りになって、多分霧状になったりして、暇を持て余し始めた私たちの午後を賑やかした。彼女はキッチンの前のカウンター席に座ってそんな外の様子を眺め、いつも持ち歩いているノートを両手で挟んでいる。彼女は詩集を出していて、だからてっきり、何か書き付けるだろうかと、楽しみにも近い感覚でちらちら見ていたのだけど、身じろぎもなく風景に集中していた。遊具の少ない公園で走り回る子供のような雰囲気が漂っている。彼女は、書き出したい気持ちを我慢しているんだろうか。それとも、ノートをほっぽって雨に打たれに行くのを堪えているんだろうか。どちらもが強烈にあるような、それでいてどの粒をも見逃すまいと見ることだけに集中しているような、これまで通り色んなのに見えた。
 来週か再来週に、彼女はここで働き始めて3年になる。最初の年は、店長、と呼ばれ、次の年から、ソヨちゃん、に戻り、ソヨ、と変わっていった。いつ、どんなふうに変えていったのかは分からないが思い返すと、自然に、としか思えない。彼女の、近いのか遠いのか測りかねる距離感が心地好かった。そういう距離の取り方が、と言うべきか。とにかくそういった、独特でいて馴染みのあるような、彼女が生きているあいだに形作られているものが好きだった。フキちゃんもワダチくんも、ヨルコに対してはやけに開けた態度だった。私は、好きな人たちが私を除いて睦まじくしているのを見るのが、何よりも愉快だった。少しだけ離れた位置でにまにましている私を見る優しい目や、重なり合い判別不能の一つの声や、緩急の激しい身振り、それは、そこへ直接参加しているわけではないが私がいることで出来上がってもいた。一体感というのではなかった。煮え立った湯の表面みたいにぼこぼこしたボールが頭に浮かぶ。柔らかな何かから、どこへ向けてか飛び出していこうとする何か、誰か。そういうエネルギーみたいなのを感じられた。

-水曜日-

1月3日(水)
 三ヶ日最終日。初詣のために早起き。大学に入って、やっと?、できた友達と行くことになっていた。
 お洒落したい気分だけど、詣るからではなくて、だらだら過ごした年末年始の後に友達に会うからだと思う。

 結局、ブラックスキニーとノーカラーのホワイトシャツ、面倒だからかなり濃い灰色のダウンを着て、細身の黒のスニーカーを履いて、ばたばたと家を出た。

 年末年始は電車が一日中走っていて、夜道で見つけたコンビニみたいに、いつもはない(あることが分かっていてそこへ向かう)のと、いつもある(求めるでもなく求めていたように知らないうちに到着する)のとで意味は変わってくるけど、同じように安らぐ。わくわくと安らぎは似てる。
 日常→非日常、非日常→日常。どちらも、矢印から右側へ飛び込む、何かを飛び越えてその状態へ至るものだと、意識するまでもなく思っていて、でもそれらは淡く滲むように移り変わっていく。日常が非日常へ、非日常が日常へシフトし始め、あと少しで変わるとき、電車やコンビニを認める。そうすると一挙に右側へ流れ込む。でもそれは勘違いで、右側の姿をした左側でしかない。普段何気なく乗る電車へ、真夜中に乗り込む、何となしに物体的な差。普段何気なく行くコンビニの、心のどこか(すこし深い所)で探していた明かりの、バカバカしいほどの光量、何となしに精神的な差。厳密には何かを隔てることは、隔てないことよりも難しいけれど、そういう感じ。
 私はそれに、わくわくする、している、安らぐ、いでいる、と感じ、その運動の仕方が似ているのだと思った。効果と目的が同じ、それに向かう方法が違うものくらい類似している。

 私鉄の駅前で集合。しかしかのグレーのロングコートにカフェオレみたいな色の厚手のワンピース。肌が透けるくらいのタイツとサイドゴアブーツ。可愛いし、とても似合っていた。

 さらっと、参拝を済ませてジョナサンへ。パンケーキとあんみつをシェア。というかあんみつを一口もらった。
 夜中、朝方の店は、薄暗いか明るすぎるかのどちらかだった。
 二時間くらい話して、目の奥がぴりっとする朝日の中で別れた。

 お風呂に入るのが面倒で、ジェルの化粧落とし。

 エマニュエル・ボーヴの『ぼくのともだち』を読みつつ眠る。

1月10日(水)
 昨日から後期の後期が始まった。講義の合間、中庭で寝転んで『建築する身体 人間を超えていくために』を読んだ。共著を読むのは初めてだった。彼の、本心をはぐらかすためではない確固とした話し方が好きだった。笑っちゃうくらい明言するのに、次々に発展していく。

 楠の伸ばした枝葉の影に私はいた。Tully’sで買ったスコーンとシナモンロールを食べた。あまりにも喉に詰まったが、飲み物を用意していなかった。

 演習を終えて帰路。寒い。

1月17日(水)
 ユウコさんから『猛進ロイド』の収録されたDVDを借りた。ずっと観たかった。張りのある、優しげな顔のつくりが好きだ。初めて出演作を観たのがいつだったか、どれだったか思い出せないが、化学者という肩書きが似合いそうだなと思っていた。瞳の妖しさや、元からあったみたいにしっくりな眼鏡のせいかもしれない。

 ハロルド・ロイドのことを考えながら、パスタを仕上げたり、明日の仕込みを始めたり、お水を飲んだり、いつもと同じ夜をこなしていった。

 帰り道、ではないけれど、深夜まで開いている本屋へ行き、あちこち吟味した挙句なにも買わずに外へ出た。珍しい。疲れてるのかな。
 敷地内をたくさんの犬が散歩していた。昼間に見かけるよりも楽しそうに見えるのは、私が夜の楽しさを知っているからだろうか。
 犬たち、ごめん。

1月24日(水)
 昨日も書いて、今日も書くくらいにはまだ納得できていない。どうしてあんなふうに言う必要があるのか。内容や口ぶりはどうだっていい。私が腹を立てているのは、私にあるものを何一つ顧みない態度、そこへ至る彼の中での必然性の高まりに対してだった。どうしてそうなる?そればかり考えてしまう。
 必然性は、程度に限らず必然であるが、高まっていくものだとも思っているのは何が関係しているのだろう。ただ、今回のいざこざ、と私が勝手に思って引きずっているだけ、と関係してるのか。
 とにかく、答えがあるのかも分からないことでも書いていないと気が済まない。むしろ書けば書くほど、出来事を反芻することになって余計に悲しく苛立つのだが、それでも何か、納得できるような点を探そうとしている。
 必然性は、その名を冠されるだけの何かを潜めていて、それが正しく必然であるために高まっていくのかもしれない。辞典を引くと「必ずそうなる(はずの)こと。」とあった。

 とにかく、ぎりぎり瞼を閉じては出来ない程度に繰り返したお気に入りのメイクに、分析するみたいに時間をかけ、芥川の短編集を適当に選んで散歩することにした。

 どこに行っても(デパート、神社、公園、本屋)人が少ない。何かイベントでもあるのかと、でもそこへ集う人たちの共通点が思いつかなかった。あまりに特別ではないから。

 帰宅後、微妙に広いワンルームの部屋を掃除して、買ってきた根菜(ゴボウ、じゃがいも、人参、里芋)を天ぷらやフライにして食べた。ピンクソルトは何というか主張が強い。

1月31日(水)
 午前中ずっと体調が悪かった。軽い悪寒と吐き気。仕方がない、と毛布に包まったままで『眼球譚』を読む。
 高校生の頃に一度か二度読んで以来、本棚の隅の方に入れられていた。うっすら、退廃的で前向き?なエネルギーに満ちたものを読みたかった。
 アガベシロップを溶かしただけのお湯をちょびっとずつ飲んで、太陽を浴びたり、ストレッチをしたり、そうすると午後には食欲も湧いて、外へ出ようかという気分になった。

 本と日傘と財布。リップと、少し濃いめにアイラインを引いただけで、まずは近くの本屋へ。
 頭のモードがバタイユになっていて、パラパラと捲る本はどれも物足りなかった。鮮やかな暗い風景、田園地帯よりも牧草地、低地よりは高地、海や山は身近ではなく、起伏の多い土地、そういう本が読みたかった。
 二周ほどで店を出て、商店街へ足を向けた。

 山菜うどんを食べてから大学へ。午後の講義のあと、ソヨちゃんとお茶。構内にあるのかもしれない。
 春休みどうする?のような話。

 ユウコさんは今日も、というより二年前から今日に至るまでずっと美しい。化粧っ気のないつやつやした肌やまとめられた長い髪。ずっとそうであるような気もするし、試行錯誤を経て今のユウコさんになったような(もちろん、試行錯誤を経た)ゆわゆわとした上品さがあった。
 ユウコさんとツギタくん、きっと私、その三人以外の妙に弛んだ雰囲気が好きではなかった。嫌いでもないけど、気にはかかる。店に対する(調理道具や食材、ユウコさんの意気や彼女の選んだインテリア)敬意がないように思う。どうすればそれが表されたことになるのかは分からない。道具の扱い方やお客さんとの接し方、なにをとっても、ユウコさんの意図に全て沿う必要もないけれど、相反しているようにすら見える。どうすればそれが相反したように映らなくなるのかは分からない。それでも、違いを感じていることは確かで、ツギタくんの働きぶりなんかを見ていると、素敵だな、頑張らなくちゃ、と思い、毎回それで気を引き締めるとまでは行かなくとも、所作は変わってくる。そういった意味では、他の人たちを見ていても、頑張らなくちゃ、とは思うのだけど、それは何か、大事なものが欠けたままの張り切り、そんな感じだった。
 もっと良くしたい、というよりも、もっと良くなりたい、と思っているから、思っているのは(やっぱり単純に)店のことやユウコさんのことが好きなんだろうなと思う。

 帰り道で見かけた野良猫に餌をやるのを我慢する。
 ちょっと落ち込んだ気持ちのままお風呂に入って、体を冷やさないようにすぐにベッドに潜り込んだ。

2月7日(水)
 バレンタインの準備。今年はユウコさんとツギタさんだけじゃなくて、ソヨちゃんにもあげたい。思って作ったものを食べてもらいたい。というわがまま。
 もちろん「美味しい」って、「嬉しい」って言ってもらえるのはいい気分だけど、シンプルに「受け取って!」、「食べて!」という気持ちが強い。これはなんだろう。
 というわけで試作。ベース的な簡素なチーズタルトとチョコのパウンドケーキを焼いてみた。美味しい。美味い。お菓子作りの天才かもしれない。
 二人用のレシピとソヨちゃん用のレシピをあれこれ考える。両親が菜食だからか、彼女もまたそうだった。ヴィーガンの友達は初めてだから、絶対的な注意が必要。
 イチジクやプルーンでフィリングを作ったり、代用できるものを調べたり、作り過ぎた甘味を食べ続けて胃もたれしたり、楽しい午前だった。本当に楽しい。

 掲示板で春休みであることを知る。損したような得したような。もやっとすっきりした気分で散歩する。
 運よく?レポートを出すだけの講義ばかりで、それももうとっくに出しているから、本当にしばらく来なくていい。楽だ。
 何しようかと無駄に歩く。入ったこともない教室や、いまいち何のためか分からない部屋を覗いた。
 巨大な図書館に入って怖くなり、小さな本屋へ駆け込んだ。一時間くらいよく見てレシピ本を買った。

 夕立。風の強さが、生き物に対するときと同じ質の恐ろしさを喚起させる。
 絵本の代わりとして『DONNIE DARKO』を観る。
 あー。

2月14日(水)
 バレンタイン当日。施策を重ねた結果、二キロ近く太ってしまったが、美味しいレモンタルトとココアのパウンドケーキが出来た。
 費用を考えると別々に材料を用意する余裕がなく、どちらも非動物性。

 ツギタくんはおいしいおいしいフィンダンショコラをくれた。ユウコさんからは、細い細いつるまでべっこうのロイド眼鏡!欲しい欲しいと思っていたところでの予期せぬプレゼント。ちょっとだけうるっと。
 二人とも、おいしー、と言ってくれて、私の贅肉たちも喜んでいることでしょう。

 ソヨちゃんは生チョコをくれた。小箱にレースのリボンがしてあって、それを解くとき理由も分からずドキドキした。
 経緯を軽く説明したレモンタルトを、どんどん頬張るのがおかしくて、ものすごく嬉しかった。

2月21日(水)
 まだまだ寒くて、毛布から出ていくのに苦労する。

 朝、高校時代の友達と会うことに。
 昼、彼と別れてから散歩。
 夜、働いたあと散歩。明日は久々に一日中空いている。何を読もう。

 さらに夜、缶ビールを飲みつつ『雨月物語』を持って散歩。
 もっともっと夜、結構遠くの見知らぬ町でしばらく迷子になる。

2月28日(水)
 磯良や宮木の気配をずっと感じている。何を読んでいても、何を観ていても、ふと気付くと彼女たちのことを考えている。
 あなや。

 ソヨちゃんが店に来てくれた。ペペロンチーノと、試作でたまたま持っていったスコーンを食べてくれた。
 またねー、と言って笑う顔がすごく良かった。

 家に帰って少しゆっくりしてから、本を持って散歩するのが習慣になりつつある。
 いつ読んだか、たぶん中学生の頃ぶりに『旅のラゴス』を持って出た。ラゴスはずっと旅の最中にいる。
 夜中まで開いてる本屋をちらっと見て、もう本を持ってるからか、これから歩くつもりだからか、買うまでには至らなかった。メモ、カフカの『夢・アフォリズム・詩』。

 本を読みながら歩くためになるべく、知らない明るい道を選ぶ。でも明るい道はもう知っていることの方が多い。そうすると暗い道を選ぶしかなく、そういった道の先に石段なり縁石なりの腰を下ろせる、街灯がそこやその辺りを照らす場所を求めながら歩くことになり、それは散歩なんだろうかと思う。

3月6日(水)
 受け忘れていた補講で、新入生たちと一緒になった。フレッシュな感じはないけど、やけに慌ただしい。先輩風を吹かせたい人の気が分からないでもない。男の子と女の子一人ずつから連絡先を聞かれ、一瞬、嘘をついて逃れようとした。結局交換することに。別に、返したくない気分のときには返さなければいいだけだった。

 ソヨちゃんと合流してショッピング。
 新しいルースパウダーを買おうかと思っていたけれど、どれもしっくりこない。
 日焼け止めしか塗らないソヨちゃんを連れ回してしまった。同性と買い物に出て初めて抱く恥ずかしさ。楽しそうにしていたのは良かった。
 結局THREEで買い直し。適当に服を見てから、彼女のよく行く店へ。

 ラーメンと唐揚げプレート。たまには肉とか食べるんだ、と思ったけれどそれは大豆ミートというものらしく、一個食べさせてくれた。
 あなや。
 噛んでいくと独特な風味(豆腐や油揚げとは違った臭み)があるけれど、慣れていきそうな感じもある。けっこうおいしい。
 ラーメンも、強烈な味はないが和食的な味わい深さ、食べるごとに美味しくなっていくような。
 焼き菓子と違ってどうなんだろう、と思っていたけれど杞憂だった。ソヨちゃんは嬉しそう。
 食べ物を共有するというのは、そのとき感じる気持ちというのは、私たちの繋がりやつながり方を意識させる。

 お酒でも飲もうかと思っていたが、用事があるらしく別れる。残念。
 遠回りしてから家に帰り、荷物を置いてスーパーを回った。
 三軒目で乾燥タイプに大豆ミートを見つける。

 帰って、散歩。寝る前にメルヴィルの『ビリー・バッド』を読む。

3月13日(水)
 ほんのちょっとだけ暖かい。
 ソイミート料理探究はまだ続いている。回鍋肉、生姜焼き、肉じゃが、カツ、野菜炒め。どれでも美味しいのだけど、やはり臭みが抜けきらない。それも割とクセになるといったタイプではなく、どうしたものかと思う。ただ、それはその他で食べる料理全てを非動物性にしていないからかもしれない。味覚がどこに準拠しているかということだと思う。うーん。

 ソヨちゃんに誘われて、小劇場での演劇を観に行くことになった。

 内容としてはあまり面白くなかった。ただ初めて直接観る演技というものの不思議さに視線が固まった。すごいすごいとずっと頭の中に繰り返されていた。
 主人公である男の人の、何かを思い出そうとする目をしたままセリフを繋いでいく、その目を覗き込んだ私の中では彼が想起する景色がはっきりと浮かんできた。そうならない役者もいて、それが演技の良し悪し、というか上手い下手の一つの要素なんだろうか、と興奮した。とても奇妙な感覚だった。彼が実際にその目で見ているのは、天井の張り出してごつごつとした梁だろう。極めて強度の高い、記憶の再出力が行われているのか。「本当に」見えている。それはでも、可能なのかな。仮にそういったことが出来たとしてそれは、練習で養われていくものなのだろうか。
 何かの出来事や思いにあったとき、そのことをしつこく反芻する。私の中でそれはまだ記憶ではなくて、そこから徐々に記憶へと移行するという印象がある。記憶というのは反芻に耐えうるものだと思えなかった。だから彼は、台本なり原本なりを読み、そこに書かれたことを丸ごと自身の記憶として抱えている、と考える方が自然に思えた。演じる、ということがつまりそういうことなのかもしれないが、とにかく初めから終わりまで、そういう部分に亢進していた。

 わきゃわきゃしたまま近くの喫茶店へ。二人とも、頼んだものを忘れるくらいには熱中して舞台の話。

 帰宅後、ブコウスキー『詩人と女たち』。

3月20日(水)
 一日中、考えられないくらい眠たい。気が付くと頭が後ろにゆらっと倒れる。元に戻ると異様に目が冴えているのに、少しするとまた倒れる。それを何度も繰り返していた。
 体調としてはいいはずで、ただただ眠たい。
 数秒おきに分断される意識の中、働き始めた頃にもしなかったようなミスを続けてしまった。ユウコさんは心配して、しばらく裏に引っ込んで、椅子に座ってぼーっとしていた。何度かツギタくんが様子を見に来て、一言二言、返答したか、したとして何と言ったのか思い出せない。彼が言ったことも思い出せない。

 早上がり。ふらふら、本屋へ寄って、ふらふら、コンビニで栄養剤とミネストローネと塩むすび、ふらふら。
 買った物を全部玄関に置いたままベッドへ、引き寄せられる。
 おやすみなさい。

3月27日(水)
 誕生日。ユウコさん、ツギタくん、ソヨちゃん、の三人からおめでとうと言ってもらえる。歳をとったことに、これといって何も思わないけれど、祝ってもらうことはとても嬉しい。褒めてもらうときよりも、確実に私を思っているような、捉えているような、近しいような、そういうことで嬉しい。
 何となく、その言葉に応じるべく、美味しいものを食べようかと思い付く。

 掃除、本屋、散歩。二年に一回くらい、つまりここに住むようになって二回目のレストランへ。
 一人でコース料理を食べるのは気楽で、料理の味に集中することができた。玉蜀黍だったかじゃがいもだったかの冷製ポタージュが美味しかった。これだけをずっと食べていたかった。

 一昨日くらいから、集中しきれないことが多い。本を読んでいても映画を観ていても、それと無関係なことを、連想的にでもなく考え始める。
 日曜からどうしてか、ずっと忙しい。昼の時間にヘルプを頼まれたり、お使いを頼まれたり、いつもと少し違った働き方、フレキシブルでない私にとって、そういった変化は、ぼんやりをもたらす。と仮定しておく。

 ソヨちゃんと電話。彼女の声を聞いていると、どこかが凪いでゆく。そう伝えると、よく言われる、と彼女は答えた。それは「そうかな?」とか「そんなことないよ」とか「ありがとう」とか、そんなふうなことを言うだろうなとも思っていない私に、意外だと思わせ、とても気持ちのいい風の匂いがした。
 人によっては伝えるのが恥ずかしいようなことを「よく」伝えられるソヨちゃんのことを、大好きな本と同じように愛おしく思った。そしてそれは、会ったこともない、名前も知らない多くの人たちの存在感を香りのように立ち上らせ、思いを馳せさせた。よく分からないけれど、そういう人たちへの有り難さのようなものを結構はっきりと感じた。

 二時間近く電話に付き合ってくれた。
 枕元の本に手も伸ばさず就寝。

4月3日(水)
 相変わらず忙しさが続いている。少しだけ慣れてきた。ぼんやりすることはなくなって、体が凝り始めたように思う。春休みは結局いつも通りだった。
 どこへ行くこともなく。残念に思いつつも安心する。夏はどこかへ行こう。

 テンジくんからの誘いを断り続けていることに申し訳なく思う。映画行きましょーとかご飯食べに行きましょーとか、本当に用があって断ってはいるんだけど、よく諦めないよなとは思う。数打ちゃ当たるって感じ?
 同じ日から連絡を取り始めたのにトキワちゃんは、それほど多くの連絡を寄越さない。比べると寂しいような気もするけれど、私とソヨちゃんですら、直接会う以外ではあまり交流してないから、やっぱりテンジくんがすごい。
 一度くらい予定を合わせた方がいいんだけど、期待通りなのも、良くも悪くも期待外れなのも、そのためにちょっと張り切っちゃう自分も、いいことがあまり見つけられない。

 あなたは日記を書いた方がいいよ、と言ってくれた高校時代の友達に、私は今すぐにでも感謝の手紙なり連絡なり、何か表さなければいけない。その手立てを持たない私は、日記を書き続けることで彼女に応えている、というのは建前で、やっぱり彼女の言う通り、私には毎日の些細な、些細であることで忘れてしまう、どちらかと言えば忘れたくないことを書き残しておくのが必要だった。
 どうしよう。

4月10日(水)
 講義のあとテンジくんと会った。予想外に落ち着いた様子で良かった。実家の酒蔵の話をいくつか聞かせてもらった。
 私のまわりには、家業や家族への誇りを表す人が多いように思う。実感はできないけれど理解はできる。くっきりと嫉妬する。他人や他の物を自身のものとして抱える、抱えられる器の大きさというのか。それだけだとつまらない人だけど、そうじゃない人、そんな器、端正に盛られたものと、それを抱えているのがきちんとその人であると実感させる人、そういう人は本当に素敵だ。

 どこかへ行くこともなく、ただ二人で歩いていた。
 たくさん話して、たくさん笑ったはずだけど、あまり思い出せない。楽しかったなー。

 ユウコさんもツギタくんも疲れてきたみたい。必要以上にてきぱきしてる。もちろん私も。
 何か近くでイベントでもあるのかな。それにしても持続的に忙しい。仕方ない。
 他者を完全に理解できないという点で、ユウコさんのコンセプトでつくられた店は閉じていて、それでもこれだけの人が毎日訪れるのは、多くの人は店というものにそれほど関心がないのか、ただ心地好いのか。

 帰り道。灰色っぽい薄茶色の野良猫がずっとついてきた。何に目をつけたんだろう。
 階段の下まで来て、振り返った私と目が合うとどこかへ走っていった。

 ニコルソン・ベイカー『中二階』。久々の眠る前に本読み。

4月17日(水)
 Camperでスニーカーを買った。なかなか歩きやすい。レザーのスニーカーで歩くのは初めてで、心配していたけれど大丈夫そう。
 これでたくさん歩ける。

 淡い青色のポロシャツを着た。暑い暑い。
 どこに行っても人。人。人だかり。人。
 暖かくなってみんな歩き始めたのだろうか。気持ちいいもんね。

 途端になにかつまらなくなって、全部やめたくなった。

 忙しさがそれほどでもなくなってきた。思うに月曜くらいから?
 どちらの原因も分からずじまい。そんなもんか。
 ユウコさんは喜んでいた。ツギタくんは首を回して、長いため息をついた。

4月24日(水)
 中庭の木に麻布みたいなのがぐるぐる巻きつけられていた。何だろう。
 虫食い防止。

 新しくできた本屋へ行ってみた。
 狭くて一望しやすいのだけど、なにかに疲れる。
 天井も低いとは思えないし、立ち読みしている人がいてもするっと歩ける、何が疲れるんだろう。
 何も買わずに出てしまった。

 固めに茹でられたクリーム系のタリアテッレが食べたくなって、早くに店へ。
 ユウコさんは結構あとになっても思い出すくらい嬉しそうな顔をしていた。(五年後にも思い出す)
 ほうれん草としめじがいっぱいのクリームパスタ。美味しい。改めて賄いでない形で食べると、同じものなはずなのに、とてつもなく美味しい。
 あまりに美味しいと、それを超えて楽しさが出てくる。その二つは共存しなくて、思い返すと「楽しかったな」となる。

 平岡あみ『ともだちは実はひとりだけなんです』を読みながら、アイスミルクティーとともに時間までのんびり過ごす。
 三年前か四年前に観にいった宇野亞喜良さんの展示を思い出す。
 それと会ったことのない作家に敬称をつけるかどうかというのも思い出す。何というか、夏目漱石を夏目漱石さん、上田秋成を上田秋成さん、と書くことへの抵抗感がある。仮に会ったことがあっても、書き出すと違和感がある。同時代の
作家には敬称をつけるだろうか。でも宇野亞喜良さんの著作について書くことを想像すると、多分、つけない。ついて、というか端的にその本の作者として書く際にはということで、展示に関しては何故か変な感じがしない。
 より個人的な感じを感じているのかな。仮にそうだとして、それがどう作用しているのか。
 外国の作家に敬称をつけないのはMr.とかMrs.とかの存在を知ってるからか。

 そこへは一人で行った記憶もあるし、アシちゃんと行った記憶もある。彼女の服装、ブラックデニムのオーバーオールにぼてっとした淡い黒のスニーカー、薄いオレンジかピンクかのパーカー、その記憶もある。
 でも一人で行ったような気の方が強い。きっと、二人で行った。鈍行を乗り継いだ。ほとんどどの路線でも貸し切りだった。乗り降りする人は一駅、二駅の間隔で、私たちだけがずっと乗っていた。
 車で移動する人の方が多いんだろう。時間帯もあるんだろうけど。大体終点まで乗って、急いでホームを移動して乗り込み、また終点まで揺られる。
 持ってきたお菓子なんかはもう食べ終わっていて、着いた頃にはお腹いっぱいだった。
 騒がしい駅前から、物静かな緑道へ向けて歩き出した。アシちゃんは、今日のことは日記に書くだろうね、と言った。彼女のそのときの表情、悲しそうな口元と華やかに笑う目元、左右で光り方の全く異なった瞳、言い終わってぐにっと合わさった唇、そういったもの何もかんも、まだ全部覚えていた。膝くらいから頭の先まで霧のように、色で言えばグレーや明るい透けた青や鈍い赤、消えそうなベージュ、そんな気配が覆っていた。
 目当ての私立の美術館まで、私たちはつかずはなれず歩いた。
 思っていたよりも小振りな、みすぼらしくも見える建物の前に出た。その前の道すら埃っぽく、逆なのかもしれないけれど、早く中に入りたいと思っていた。
 受付を済ませて、それぞれで観てまわった。

 食べ終わって、そのままキッチンに入り、そこから働き始めた。
 なかなか暇な日。

 帰宅。久々に湯船に浸かって、ストレッチ、マッサージ。

5月1日(水)
 暑くて暑くて仕方ない。
 大教室のクーラーの調子が悪いらしく、ぼーっとする。

 食堂でソヨちゃんとのんびり。
 ほとんど毎日いるのに、話が尽きない。
 まだ周回していない。

 一度限界を超えて暑くなると、どこで何をしていても汗ばむ。

 着替えに帰って、食べかけのアイスを食べ切ってから店へ。

 珍しくツギタくんが休み。
 運が良かった。二人で回せる程度の混み具合で、それでいて、よく働いた、と気持ちのいい日だった。

 寝る前にベケットの『名づけえぬもの』を、適当なページを開いて読む。
 ステップを踏む無表情の人が浮かんで、眠気が醒めてしまうくらい笑えた。動きの総数としては、前後左右細かく多い気がするけれど、全然どこにも進んでいかない感じがすごく面白い、けどよく分からないまま笑いながら進んでいく。

5月8日(水)
 起床、リングルアイビー、連絡、入眠。

 昼過ぎまで寝転がって、本も読まずにぐるぐる。
 講義も休んで、店も休んで、それでもちょっとだけ散歩。

 宇野亜喜良さんのグッズが欲しい、と何日か思い出すように考えている。お皿がいいかポーチがいいか。
 物としては、使いたいからポーチがいいけれど、お皿かな。

 近所の図書館と公園をまわる。

 帰宅、軽食、シャワー、おやすみ。

5月15日(水)
 とにもかくにも魯肉飯が食べたくて、電車を乗りついで仙へ。
 大盛りの魯肉飯とスープメインの水餃子。
 熱い。口の中をいっぱいヤケドして完食。
 なんかい食べても色んな味がしておいしい。

 せっかく来たんだから、と繁華街を歩いてみる。
 数分後、ひっそりとした路地へ。

 たまに行く、古本と新刊が混じってある店でカフカの『夢・アフォリズム・詩』を発見。脇目も振らずにレジへ。
 疲れたけど行って良かった。
 三ヶ月に一回くらいがちょうどいいけど、ガリへは週二回は行きたい。

 歩きながらも、電車の中でも、駅から家までもずっとカフカ。

5月22日(水)
 夏の長休みにどこかへ行こうか、ということばかり考えている。
 船に乗りたいような気がしているけれど、どうだろう。
 それよりも一人で行くか、ソヨちゃんを誘ってみるか。

 木から包帯が取り去られていた。結局なんだったのか。
 食堂で買ってきたカレーライスを食べる。今日のごはんは適度な固さで、ラッキーだった。

 あちこち見ていると、もうどこにも行かなくていいんじゃないかと思い始める。
 それで解消される欲求なら、どこかへ行きたいっていうのはそれほどでもないのかな。
 行きたいけどなあ。

 帰り道、何度思い返してみても思い当たらない。
 よく分からないことで叱られた。ユウコさんが慌てて出てきて、でも二人とも、どうしてこんなことになっているのか分からなかった。
 彼女は私の何かに腹を立てたらしい。罵詈雑言ってオノマトペっぽい。
 家に帰って、壁にもたれながら床に座ったとき、そこで初めて、あんなふうに怒られるのはおかしい、と思う。

 集中しきれないまま『愛の試み』を読む。
 すこし平らになる。

5月29日(水)
 自転車とぶつかって怪我。
 紙袋の中の本たちが無事で何より。
 私も軽傷で何より。

 陽に透かしたコーヒーみたいな色の太ももの側面。
 けっこう色っぽいんじゃないか。
 とても熱い。押してみようと指先を当て、その意識がはじまったくらいから痛い。

 ユウコさんに電話。おどかす人が相手の叫声に驚くように、ユウコさんの、ええっ!、に、ええっ!
 何か持って行こうか?、と、好きな人が優しいことへの感激、ももが痛い。

 ギンズバーグ・バロウズ『麻薬書簡』、中島らも『アマニタ・パンセリナ』。
 痛み止め等を切らしているため。装画の少年少女、真っ黒の目がどこも見てなくて、彼らのいる森の広さが拡がってゆく音が聞こえた気がする。

 もらったきりだったブラックティーを飲みつつ、ヘッドボードにもたれたままずっと。

 店に行っていないことを知ったソヨちゃんがパンとサラダとスープのセットを持って来てくれた。
 歩き出すと意外にも思えるほど痛い。
 迎え入れ、狭いダイニングの椅子をすすめる。
 一緒に夕ご飯を食べた。そういうの久しぶりでとても楽しい。
 色んな時間帯で会えることが嬉しかった。関係が縮こまっていかないような、恥ずかしいことなんてないような、広々した気分になる。

6月5日(水)
 眼鏡を新調。明るい場所で見ると灰色っぽく見える黒のロイド眼鏡。
 視力は変わりなく、一安心して、駅前のアイスクリーム屋でピスタチオとリコッタチーズのアイス。
 変わることのない信じられない美味しさに毎回びっくりする。

 そのまま歩いて本屋へ。
 ラフィク・シャミの『マルーラの村の物語』、探していたシドニー・ノーランの『Nolan’s Nolans: A Reputation Reassessed』を買う。
 あまりの嬉しさに、まかないをもりもり食べた。

6月12日(水)
 店でお皿一枚、家でお皿一枚、コップ一つ。
 想像するまでもなく馴染んだ重みよりも重いものだとして手が掴んだ。あれ、軽い、と思ったら力んだ指先が弛緩して、あいだがないみたいに床に落ちる。
 手元が覚束ない。かなりしょげてしまった。
 勢いに任せて宇野亜喜良さんのお皿を二枚、通販で買った。

6月19日(水)
 休講。

 タイ料理を食べに電車に乗り込む。
 鉄道橋を過ぎる。アーチの影が車内に飛び込んで、もったりと引き去られていく時間。

 カオマンガイ・小、プーニムパッポンカリー、ガイヤーン。満腹。

 そういえば、とソヨちゃんの職場へ。
 くすんだ緑色のワークシャツを肘まで捲ったソヨちゃんにアイスカフェラテを頼む。
 照れたような表情だったのが、マシーンに向き合った途端消えて、ぐぐっと体が大きくなったように見えた。
 外のベンチで『カスバの男 モロッコ旅日記』と一緒に過ごす。
 熱いくらいの場所へ行くのもいいなあ。立ってるだけでというか、いるだけで汗ばむようなところ。あらゆるものが香りたつところ。

 ソヨちゃんがふっと隣に座って、そうすると冷たい煉瓦みたいな、焦した砂糖みたいな、濡れた樹皮のような、彼女の匂いが、その体の存在感より強く、強く私の体に寄り添った。
 何か言おうとして、多分、美味しい?とか、大丈夫?とか、目が合うと何も言わなかった。
 しばらく話し込んで、ソヨちゃーん、と聞こえて振り返った。それから顔を見合わせて、それじゃあね、がんばって、と別れた。

 半分くらい残ったカップを持って歩いた。
 どこかへ寄るのも、家に帰るのも面倒で、そのまま店まで歩くことにした。

 久々に焦るほど忙しい日。気持ちいい。
 ツギタくんもユウコさんも、何か前向きな表情で、流れるようでいて確実にこなしていった。
 そんな二人に先導されるみたいに、私もすらすらミスなく終えることができた。

 帰宅。熱めの半身浴、汗をだらだら流しつつ『カスバの男』を読む。
 ずっと口元が緩む。

6月26日(水)
 テンジくんとお茶。
 一昨日観た映画の話の続き。
 家族と過ごす時間は、大体において外部の要因でつくられていく。
 そこで関係性が決まっていくし、固まっていく。ほぐせないくらい固くなっていく。
 クロースアップされた主人公の顔、そこから派生するように、連想するように見えてくる前後のシーンの豊富さ。
 陰影に印象が左右されてしまわないように抗う目線や声音。複合的な演技。純粋な演技、それさえあれば、というのは目?、目元。
 演出や意図から躍動したみたいに見えてしまう、残像的な表情、発散された共有されることない心、絡み合いがより複雑で強固なもの。

 そのまま、冷やし中華を食べに行って、店の前で名残惜しくも別れる。
 長い間、ソヨちゃん、テンジくん、ソヨちゃん、ソヨちゃん、テンジくん、みたいなのを続けている。

 ソポクレス『オイディプス王』を読み微睡む。

-木曜日-

 閉め忘れたカーテンの隙間からの陽で目を覚ました。枕元の時計はいつもの時間を示している。割と長い時間陽光を受けていたはずだが、体にセットされた睡眠時間、起床時間の方が強力だということだろうか。
 凝り固まった体をベッドの上で、足首からのぼっていくようにほぐす。開店の準備に方方へ駆ける日々も今日でひとまずは、起点が店に変わるという意味で、終わる。何かを始める前の強張り、それも今までとは種類が違うように異質で重い。

 朝食にコーヒー、米粉食パン2枚、グレープフルーツ半分。ヨルコから、今日何時だっけ?、とLINE。開け放した窓から風が、生温く、肌にひやりと当たって流れていく。すべての動きが緩慢になってしまう。彼女が手伝ってくれると言うのに、縋るように飛びついた。
 基本的には私とフキちゃんで回していけるが、どちらかが出られない日や途中で抜ける日なんかは、というかフキちゃんがそうだった場合、私は彼女のポジションに代われない。そこをヨルコが埋めてくれる。フキちゃんと遜色なく料理できる人を、彼女以外に知らない。確かもう7年くらい同じ店で働き続けていて、何度行っても新鮮に流れる空気に、私なんかは毎回のように感動していた。内装を詰めていく際、ユウコさんの店がずっと念頭にあった。主人の気配りが隅まで渡った素晴らしい店だった。

 珍しくフキちゃんから電話。すぐ死ぬわけじゃないし楽しんでいこうよ、とのことだった。突き抜けるような明るい声に緊張が溶かされていく。
 身支度を済ませ、開店時間よりかなり早くに家を出た。

 もう慣れてきた?、とサコの声が聞こえ、ノートから顔を上げた。いつからそこにいたのか(数時間前からいただろう雰囲気)、ずっと下を向いていて膨らんだ舌を元に戻してから、すこしずつ、と返答した。彼女は何度か頷いて「『休憩しなよ』」と言った。私はペンを机に放って、ソファに深くもたれかかった。彼女がいつものようにコーヒーを淹れてくれる姿、後ろ姿、側面を見ながら煙草をくわえ、そのまましばらくマッチ箱を弄んだ。私はこのままで、言葉を守ることができるのだろうか。私たちが考えるべきではないことを考え始めてしまうほどには、ヨルコやソヨの存在が近くに寄っていた。
 サコは備前焼のマグに熱いコーヒーを注いで、私の横にゆっくり腰を下ろした。はい、と言って、私はそれを受け取り、煙草を指でのぞき一口、啜る、しばらく前に焼いた豆は独特な(濡れた土のような、発酵したような)香りを口中に満たした。
「休憩しないと」
「うん、ありがとう」
「どう?」
「美味しいよ」
「じゃなくて」
「ああ。うん、調子がいいとは思わないけど、慣れてはきた。今、木曜日」
「もうすぐ終わるんだ」
「うん、そうなるね、たぶん」
「何を考えてる?」
「いや、何も。いや、このままで言葉を、当てはまるものを、守れるんだろうかってこと、もちろん、そんなこと考えるのは他の人だってのは分かってる」
「終わり頃になると考えるものじゃないかな、区分けされてるわけじゃないんだから、何を考えててもいいはずだよ」
 私たちは外へ出て、水を汲むために川へ向かった。彼女たちは雪の積もった街を歩いていた。ヨルコが傘をさし、その下に彼女らは並んでおさまっている。私は彼女たちが共にした時間を考えた。二人はそれぞれが、相手を選択して残っていく関係性の中で一番長く続いていることを知らない。ヨルコにとってのそれは、アシになるはずだった。ソヨには(不思議なようで初めから、フキではなかった)ヨルコだったが、それは特例みたいなものだ。彼女たちは、互いに自身を与えることでそこにいた。私とサコのように。だからこそ、私が彼女たちを書くという機会を与えらたのだったか。おそらくそうだろう。ヨルコがアシから、日々を記録する術を与えられたのと同じように。私はサコの歩く速度に合わせ、彼女は私の歩く速度に合わせた。
 ヨルコは本屋を目にとめると、申し訳なさそうな顔でソヨの表情をうかがった。彼女は呆れたような納得したような、にやっと笑って、どうぞ、と言った。すぐ戻るから、とヨルコは言って、数分もしないうちに本を何冊か買って戻ってきた。傘の下に戻ると(どちらも意識することなく)持ち手はヨルコに取られた。舞った雪は、空から降ってきたものとは思えない。私がサコにそんなことを言うと、「『あなたは雪を見たことがないから』」と言った。空のタンクが互いの足にぶつかる音が遠くから鳴っているように響く。彼女にマッチを擦ってもらって煙草を吸い始めた。吐いた煙は前後に大きく揺れたあと、昇って散った。サコは捥ぐようにタンクを取り、ぴったりと体を合わせた。煙草を吸っていると安心する、と彼女は言ったが、何に対してどう安心するのか、私にはその答えらしきものの組み合わせが多く浮かぶだけだった。

 今日から店になるのか、とシャッターを上げただけの、ただその前に立って眺めていた。錠を開けて入り、時間潰しにしかならないような掃除に取りかかった。音楽を聴きながらでいると、途端に親和性が高まった。私たちは今日から上手くやっていけるだろう、という楽観的でしかない思いが湧いてきた。それは何の根拠を持たず、それでいて腑に落ちた。
 きっと私やフキちゃんの友達は、明日のオープニングパーティに来るだろう。招待状も出しているし、参加する意思も伝わっているがそれでも、きっと、と曖昧な思いがむくむくと顔を出した。それは今日、初日から暇で暇で仕方がない、といった状況になることを、ほとんど確信に近い形で諦めているからか。

 開店30分前にヨルコが来た。フキちゃんはそれからすぐ後に来て、みんな変に落ち着き払って、狭い店内を歩き回った。
 私の定位置になるだろうカウンターの席に座り、キッチンで楽しそうにしてる彼女たちを眺めた。何となくぎこちないけれど、料理という共通点が彼女たちをそこに留めた。ノートとペンがいるだろう、と私は思い付いた。息をつく間もないくらい忙しくなるとは考えにくいし、それでいて必ず何人かで働いているとなると、各々の過ごし方を確立する必要があった。それは、どこでだってそうだという点で見れば正しかった。

 ちょっと出てくる、と声をかけて、意識的にゆっくり歩いても10分とかからないローソンへ行った。なるべく素地みたいな黒表紙のノートとペン先の細いボールペンを買った。
 店の前のいくつかの祝い花が、ここからでも見える。アーケードのない長い商店街は、私のイメージする、記憶の中の商店街とは違っていた。全体の型としては古くからあるのだろうが、ここの店々はどれも真新しく、若い店主ばかりだった。とりわけ若い私たちは、私は、何故か侵略者のような気分にもなった。もうそこに住む人を持たない星へのこのこと現れたような、そんな気分だった。

 戻ってしばらく、ヨルコの淹れたソイラテを飲みながら、キッチン前のカウンター席に並んで座っていた。フキちゃんはすでにリラックスしていて、ヨルコも、言うまでもなく落ち着いていた。

 最初のお客さんは開店してから40分後に訪れた。インスタを見て、云々、彼女は油揚げと空豆の味噌と野菜を数種類買っていった。
 何分かして戻ってきた彼女は照れた様子で、忘れてました、とアーモードミルクのホットラテを注文した。本当に恥ずかしい気持ちがあるのだろう、少しだけ上気したその目元の細かな皺、桃色のひだがとても美しく見えた。彼女のような人が初めてのお客さんで良かった、と私は、半分泣きそうになりながら、再度お金を受け取った。
 彼女が出て行ってすぐ、さっきの人で良かったね、と言ったヨルコや、その隣でしっかりと肯くフキちゃんにも、同じような種類のぐわぐわしたあったかい気持ちをもった。

 川幅は先週よりも確実に狭くなっていた。サコはキャップを外しながらしゃがみ込み、力を入れてタンクを半ば沈めるように水を集めた。何か言う前に、いいのいいの、というような顔を見せ、唇の片方だけで柔らかく笑う私は、彼女の横に屈んだ。細い腕にいくつも筋が浮かんでいる。濃い杏色のワンピースの裾が濡れ、煮詰めたような色合いに変わっていた。彼女は私の視線に気付くと、大丈夫だよ、と言った。まあ、そうなんだろうが、心配するまでもなく見ていた私の、そのあとの変遷を察知できるのはどうしてだろう。タンクを受け取り、固くキャップを閉めて傍らに置いた。立ち上がった彼女の服の裾を、摘むようにして両手に挟み、なるべく擦れないように絞った。大丈夫なのにと言う彼女の声で笑っていることが分かる。それは彼女が私の、後の思いを推量することと同じか、同質のものだった。彼女たちは電車に乗り込み、二つ先の駅で別れた。ヨルコはさらに向こうへ。ソヨはそこで。私たちは来た道(どこを見回しても枯れた芝と砂地しか見えない)を辿って、家に戻った。
 シンクの脇にあるもう一つのタンクの横へ水でいっぱいのそれを置き、準備を始めた。まず初めに濾過、それから煮沸、空のタンクへ流し込む。サコは靴下も脱いでソファに座り、出る前から飲んでいたコーヒーに口をつける。薄い唇が震えているのが見える。熱さへの記憶の表れだろうか。持ち上げたタンクからの水滴が濃緑のシャツを濡らした。そのまま手作りの濾過器へ水を流し込み、空になったタンクを洗った。それから彼女の隣へ座り、しばし、汚水の変化を待った。彼女は、こんな面倒なこと毎週してるの?、と何度目かも分からない質問をし、私はそれに答える代わりに煙草に火をつけた。ソヨは真っ直ぐ家に帰ったが、ヨルコは小さな本屋へ寄って、程近い場所に住むイラストレーターの画集を買った。

 15時になると明日の慣らしで来ていたヨルコが帰り、私とフキちゃんだけになった。お客さんはそれまでに4人。まずまずだと思ったのだけど、それはどうか。

 1人、祝い花を送ってくれた友達が、明日も来てくれるのに顔を出しにやって来た。ちょうどお客さんがいて、彼らは何やら買ったり、注文したり、体裁を保てたような無関係なような、気恥ずかしい思いもありつつ、しばらく談笑していた。彼女とは高校が一緒で別の大学に進み、ここ半年のあいだにまた交流を持ったというタイプの友人だった。何度か会うたびお互いに距離感が掴めず、話しすぎたり気まずくなったり、今日は前者だ。
 ささっと、こんにゃくとパックのヘンプミルクを買って帰った。フキちゃんは忙しそうに何かを炒めている。彼女の肩の辺りで揺れる髪先が、目の奥でちかちかと明滅した。中期的に集中した疲れが肩から上にずずんと乗りかかっていた。

 温かいお茶を用意してヨルコは、包装紙を剥いでからからと、ページを流していった。私の肩に埋まるように眠るサコの呼吸は静かで、辺り一面に何も見えるもののない時間にぴったりだった。私は首を伸ばして煙草をくわえ、そのまま彼女の髪をゆっくり撫でた。感触は私の手が加える力で変化していった。小さな動物を包む時のような力であればそれは、しゅらっと流れるように、私の手のひらを撫でた。半分に開いた本に鼻を近づけ、風邪薬のシロップのような粉っぽい甘い香りを吸い込んだ。ヨルコの中でのその行為は読書の一環だった。まだ手にとっていない、その存在も知らない本を(数秒後か数十年後)求めるべきものとして思い浮かべるとき、それが読書の始まりだった。彼女はそのようにして茫漠とした空間をひたすら歩き続けていた。
 私たちのうちでそのような、本を読むことの愉悦を知っている者はサコとヨルコの二人だけだというのは(明言しないまでも繰り返しているような今)改めて書く必要もないかもしれないが、事実だ。彼女たちは、彼女たちの思いの行き届く世界を、その手中に、身のうちに収めるように本を手にとっていく。それそのものでは機能不全な状態へ落下、もしくは上昇していく言語を、いかなる書物の端からも見つけていく。私もそのように、持ち得る一切合切を投げ出したあとにだけ訪れる、固く湿った扉を優しくたたく音、遥か先からこの場所へだけ流れ込む風、焼けて乾いた地面からのぼる香り、切断された他者の感覚を身につけたかった。

 夕陽が店中に満ちてくるとぱったり、誰も来なくなってしまった。フキちゃんも退屈そうな顔で外を見つめている。深呼吸してからノートを開き、初めて自分のために書き物をはじめた。数ヶ月前から今日まで、今日からずっと先まで。ヨルコが長いあいだ日記をつけていることは知っていた。それでも始めなかったのはただ面倒だっただけで、初めてみれば何のことはない、必要なものだと気がついた。
 フキちゃんがアイスコーヒーを淹れて、水滴がたくさんついたグラスと陶製のコースターを持ってきてくれた。舌を湿らすくらいにちょっとずつ飲みながら、かりかりと書き続けた。明確に、もちろんヨルコほどではないにしても、今まで読んできた本があって初めて書けるものだと感じた。そしてそれは、どうしても誰かに向けて、というほどか、そっちにメッセージを送るわけではないけれど、確実に誰かに向けて開かれていた。感じたことのない、姿を変えたそれとはどこかで会ったかもしれないそんな思い違い、とにかく澄みやかな気分だった。

-金曜日-

7月5日(金)
 袖なし、リネンのワンピース。何をしても暑い。

 テンジくんに借りた『愛情生活』。
 彼の作品自体には苦手意識が強い。人が写ってない写真は好き。
 彼の、人間に対する視線や切り取り方を、もう一度確かめてみるべきかもしれない。
 陽子さんの言葉のあとでは、そんなふうにも思えた。

 朝からぐらぐらと全身が怠く、揺れている。
 そろそろ宿や船を取っておこうかと、夜更かしで調べものに夢中になってしまった。

 帰宅して仮眠。
 溶けかけた熱い鉄球を持っている大男が、道に迷ってしまって、と泣き止んだあとまた涙が出そうな顔で言っていた。

 何とか遅刻せずに到着。
 人の出入りは激しいのに、仕事量としてはとっても暇。
 注文が重なったり、調理の工程を素早く組み立てたり、そういったことがないからか。
 どれも手早く終わった。

 あまり居心地の好くない本屋へ、意を決するように、それで、状態の良い『宇野亜喜良 マスカレード』を発見。
 助け出すみたいに買って、苦過ぎる温緑茶をおともに、出窓の前に座って読む。窮屈な態勢でいることで、出たり入ったりしやすい気がしないでもない。
 素朴に、こんなタッチの作品もあるのか、と、すっかり彼の絵のファンになった様子。

7月12日(金)
 予約を取ったあとでも、何度もその宿や船の内装を確認してしまう。
 それが特段、好みというのでも気に入ったというのでもないのに、ただ気になる。

 日傘の柄を握る手のひらにすら汗が滲んでくる。
 それほど気候の差はないらしいが、本当にそうだろうか。
 これ以上暑いと動けなくなってしまう、それに、来月の時点ですでに今よりも暑いはずだ。

 初めてソヨちゃんとテンジくんの三人で集まった。
 私を真ん中に、横に並んで映画を観た。『ペパーミント・キャンディ』。
 強靭な美しさと、それを呼び込む空間の脆さ。それそのものの強度に依らず、場に依存する美しさの物哀しいこと。

 しっとり歩く。一言二言、沈黙、ざっざっざっ、二言三言、沈黙、ざっざっざっ。
 繰り返し、歩き続けた。
 やけに涼しい夏の夜で私は、三人で良かった、と思っていた。二人でも一人でも、もっと大勢でも寂しいだろうと、三人で良かった。
 大学生らしいこともたまにはしておこう、とテンジくんが缶ビールを買ってくれた。
 それが学生らしいのかは分からないけれど、楽しかった。結構真剣に楽しかった。
 歩きながら飲み、大きな公園のベンチに座って飲み、ジャーキーの袋を順に回しながら飲み、そうやって泥酔していった。

 最寄りであるテンジくんの家にそのまま行って、床に突っ伏した彼を見たのが最後、ソヨちゃんも私も、実際以上に大きく見えるベッドに倒れ込んで眠った。

7月19日(金)
 先週から引き続きバタイユ。
 いつだっか、一月とか二月に『眼球譚』を再読したような。
 そこからずっと、読みたいな、とは思っていて、ただ彼の本は夏に読むのは疲れる。
 ただでさえ暑いのに、読んでいるとふつふつして、目が爛々と、頭が拡散的に働き始める。
 とは言っても『呪われた部分 有用性の限界』、『内的体験』、『マダム・エドワルダ』。
 私ってバタイユだったっけくらいの気持ちで歩いていた。

 早くに行って、ボロネーゼの試作。
 何かがずっと、ちょっと足りない気がする。
 セロリをいつもの倍くらい多めに作ってみようか。

 ツギタくんが胡桃とチーズのマフィンを味見させてくれた。
 飲み込んだあとにも香りが残る焼き菓子が好きだ。香水みたいに香りが変わっていく。
 ソースを味見して、かなり美味いと思うよ、ともう何がどうなってるのか分からなくなっていた私には大変有難い。

 比較的忙しい日。ユウコさんにも確かめてもらって、今日はこれを出すことになった。
 お客さんはいい反応。良かった良かった。

 レモンピール多めのポプリをツギタくんからもらった。
 見えている景色、ピントが合っている範囲は狭いけれど、その場所自体は広大で、私はそこで何を考えるでもなくただ立っていた。
 そんな気分になれる匂い。枕元に置こう。

7月26日(金)
 もうすぐ船に乗るのか。半日近く船内にいるというのは初めてのことで、とてつもなく恐い。
 船の中で読む本、その時間に対しての期待はあっても、それ以外はただ不安があるだけだった。
 お土産はどうしよう。帰ること、帰ったあとのことばかり考えている。
 楽しまなくては。

 もうすることがなくて、何の意味もなく学校まで行って中庭を覗いてから、ソヨちゃんのところへ。
 いつかに見たワークシャツ姿で、汗を拭って働いている。ものすごく胸が痛くなった。
 大きいサイズのアイスラテを頼んで、ああっ、とラズベリータルトも追加した。
 一緒に働いている大柄で、顔のつくりがやさしげだからか絵本の中のクマに見えるキダさんが、いつもありがとうございます、と回数まで覚えてそうな目で言った。
 何となくそれがおもしろくて、にこにこ、いつものベンチに座った。
 ツギタくんの作るものと比べると、種類も傾向も違うけど、ここで食べる焼き菓子はどれもその時々の果物が美味しい、と思う。悪く言えば調和してないということだけどそれは、悪く言えば、でしかなく、そんなものは存在しない。
 ソヨちゃんは、毎回少しのあいだ外に出てくれて、申し訳ないと思う反面、でもないくらい素直に嬉しい。

 ある程度絞らないと、荷物のほとんどが本になりそうだった。
 一体どんな本がふさわしいんだろう。
 行き帰りの船を除いて三泊四日。
 十冊は必要ないけれど、五冊以上は必要で、どう組んで行こうかと先週の頭くらいからもやもや考えている。

 今のところ『DAVID LYNCH―PAINTINGS & DRAWINGS』、『ブローティガン 東京日記』、『五重塔』、『既にそこにあるもの』、『近親相姦の家』。

 テンジくんと合流。またソヨちゃんのところへ。
 木曜か金曜の習慣になりつつあるような、でも曜日も定かではないから違うのか。
 毎日のように二人に、どちらか一人には会っているのに、待ち合わせた場所に立つ二人を見ると、懐かしさが「懐かしいな」と言葉になってじゅわじゅわ染み出してくる。

 ベンチに座ってアイスラテ。ラージ。
 がぶがぶ飲みたいのを我慢する。

 テンジくんは旅行先のことを聞きたがった。
 ここから電車で一時間、港から十一時間ちょっと、おおまかに分けると主だった三つの島がある。無数と言っていいくらいそのまわりにも島があるけれど、そこへの公共交通機関はない。私たちはその三つの島を巡ることができるだけで、その島々にしたって、一島を除けば特に何もない。
 何でそんなとこに?、と彼が言って、長い時間船に乗りたかったから、と答えた。
 答えになっていないが納得してくれたようで、二口目に飲み干していた。

 駅前で別れてから、本探しの続き。

8月4日(金)
 異様な熱気。自転車のペダルを踏み込む足が、熱風の中にいることを意識させる。
 見慣れた景色、狭い車道と群生、短い坂の多い隘路とどの箇所も錆びた自転車、どれもこれもずっと前から、目に見える形では変わりなく続いていた。
 カゴに放り込んだポカリが不安になるほど大きな音を立てている。汗が。汗がずっとどこかを伝ってくる。
 束の間の下り坂。頬にかかる風や髪は涼しげで、ひととき、いくつものことを忘れていられた。

 砂浜に着いた。落ちているゴミや漂流物も同じ。
 あまり汚れていない流木を引きずって、座って、頬杖をついて海を眺めた。
 音が、種類ごとに、というわけでもなく、色んなところで聞こえた。
 耳元で鳴っているような気がすると、その音はずっと先で鳴っていて、枕に耳を押しつけたときに聞こえるごぉぉおおという音だけはずっと、そこら中で鳴っていた。
 サンダルを脱ぐと、親指と人差し指のあいだが一瞬ひんやりして、それからすぐに砂浜の熱を帯びた。
 脛の始まりくらいまで砂の中に足を埋めた。
 よーい、どんっ。その瞬間に時間が止まったような、止められたような格好の枯れた大木の影が、膝から上を覆っていた。
 いつ来ても、どれだけいても、この場所での安堵は、どのような方向にも揺るがない。

 廃村にも見える民家の連なりの先にバス停があり、自転車でないとき、一時間以上かけて島の反対まで歩かずに、その真新しいバスに乗る。
 二時間に一本、横断する形でバスが走る。

 火傷しそうなくらいのサドルに跨って、来た道を帰る。
 野生動物も車も人も自転車も、誰ともすれ違わない。

 宿に着いて、まずはシャワー。それから畳の上に寝転ぶ。

 夕食。ここで食べる川魚の煮物が美味しい。
 女将さんが来て、久しぶりやねえ、と言った。
 しばらく会わなかっただけで彼女は、ずいぶん老けたように見えた。疲れたように見えた。

 何となく不文律に触れたような気がしていた。
 だからこそしばらくと見送っていたのだが、そんなのは気の迷いに近いもので、もっと早く来れば良かった、と実際は大したブランクでもないだろうに、考え込んでしまった。

 コンビニへ。
 日を跨ぐ二時間前に閉まる。
 部屋でぼんやり、それほど集中せずに本を読んでいてアイスが食べたくなった。

 船に乗って通学するというのはどんな気分だろう、別にバスや電車と変わらないんだろうか、と研修中の男の子を見て、このコンビニで何十回思ったのか、そんなことをまた思った。
 ハーゲンダッツのバニラを買って、砂浜に座って食べた。
 波音が昼間よりも大きく聞こえるのは、これだけ閑散とした島でも、昼の間では様々な雑音が満ちているのだろうか。それとも潮流の関係か。
 あまりに大きくてうるさく、味がわかりづらいような。

 戻って『審判』。

8月11日(金)
 全く思いつきで、一ヶ月泊まってみようか、と思ったことは間違いではなかったようだ。
 空白を埋めるため?、そうしたのかもしれないが、それはそれとして。
 日が経つごとに気分が楽になっていく。

 朝。キエさんと熱いお茶を啜る。三つ編みになったかりんとうを食べながら、彼女は私の近況を知りたがった。
 定点的な場所があるだけで、ほとんど何も知らない、知らないようにしている島々で、そのような場所に長く住む人、彼女とそんなふうに世間話ができることは、何か特別なもののように思えた。

 二階、部屋の窓からは、砂浜を切り取った海だけが見える。
 砂浜とセットでない海は恐いだけだった。
 アントワン・ダガタの『PARAISO』を思い出す。自身の現実とは違った現実は非現実的に目にうつるのだが、じっと、凝らすように見ていると実際は地続きだったことが照らし出される。遠くに見えていた景色が実は隣接していること。
 構図や被写体が非現実的だということではなかった。被写体、レンズ、機構的な何か、撮影者の目。そのレンズと被写体の間の質感というのか。プリントを見たことがないから何とも言い難いけれど、紙面で見た写真のその表面の質感が非現実的だった。写真の内部というよりも外部?
 キリコの絵を観に行ったことも思い出した。描かれているものが実際にあるわけでもなくて、それでも、どこか細部にフォーカスを合わせて観ていると、フィードバックされたみたいに全体が現実を帯びてくる。
 それがそのままそこにあることを認識するためには、それに見合った行動なり反復なり、何かが確かに必要なのだろうか。

 十二時過ぎに乗船。
 キエさんが見送ってくれた。
 また来年、と彼女は言ってくれた。
 私と同じく、毎年のように訪れる人もいるだろうに。嬉しい。

 十一時間かけた変化と、三十分もないくらいで訪れる変化は、短い時間の方が著しい。今回は巡る順を間違えたかもしれない。
 港には大勢。
 初めてここへ来てから毎年増えているような気がしていたが、あながち間違いではなかった。
 それでもその他の観光地よりも居心地がいいのは、たくさん思い出があるからか。目的が分かるからか。

 カウンターに荷物を預ける。
 すぐ隣で自転車を借り、島を半周ほど流した。
 いつも通り、元気はないようだけど鮮やかな草たち。
 外周とその円の真ん中を突っ切る、ちょうど車両通行止めの標識のようにアスファルトが敷かれている。当然、小道だらけ。

 商店でラムネを買って、軒先のベンチで飲む。
 隣のベンチでは、地元の人だろう老婆が二人、あまり時間を感じさせない、最近友達になったような話し方だった。
 年々、可愛くて格好いいおばあちゃんになりたい欲が増していく。歳を取るごとに欲深くなっていくような。でも、可愛さと格好良さは、わざわざ二つ並べるほど離れたものだろうか。
 ビー玉、転がってきて、飲めない時間が楽しい。ラムネを飲んでいるな、とそこで思う。夏でしかなかった。
 砂浜と海が見える。どの島のどこにいても、波が寄せては返すことが不思議だった。どちらかにしかいかない波はない?、それは波ではない?

 おばちゃんが空き瓶を取りに出てきて、暑いなあ、と言った。
 自転車に乗る前に日焼け止めを塗り直す。

 汗。汗。ずっと汗が流れ続けている。
 島の大体真ん中を横切る道を走る。
 坂。坂。ずっと坂で全身が軋んでくる。

 どうせ何をしても汗をかくから?、贅沢に、銭湯へ。
 大人六百円。高いのか安いのか分からない。
 サーキュレーターが静かに首を振って、冷ややかな空気が巡って肌を冷ます。
 しばらく脱衣所でじっとしていた。
 脱衣、鏡の前に立つ。首から下は、知らない誰かの体のようだ。誰か。

 良くないと知っているし分かっているのに、上がってから体を冷やし続けた。
 エアコンから出た風をサーキュレーターが最初に捉える場所に立って、立ちすくんでいた。
 係がいない店は、それがどんな場所であっても違和感が強い。描かれているものの中にいるような気にさえなる。

 ミス。替えの服を取り出してこないで来てしまった。
 汗みどろの服を着ると、何故か毎回、少しだけ性欲があがってくる。

 何度も匂いを確認して、馴染みのカフェへ。
 タガさんはすぐに、おっ、ひさしぶりぃヨルコちゃん、と言って、アイス?、と続けた。
 互いに近況報告。彼は島に映画館をつくろうとしているらしい。凄い。私は?
 去年出した詩集を、押し付けるように渡した。『あくまで レモンクリームのはなし』。
 コーヒーを受け取って裏へ回る。何が作用しているのか、ずっと涼しい風が吹き流れてゆく。
 読むものがなくなったが、読みたいだけで必要そうではなかった。

 チェックイン。リノベーションされたのだろう、がちゃがちゃしている。
 同い年かいくつか下の従業員たちが、それだけで気持ちがいい。
 二階の角部屋。荷物を置いて、すぐ浴場。

 煮付けと漬物、お味噌汁と白ご飯、それだけを食べて、談笑する人たちから早々に離脱。

 ソヨから電話。何となく、外を歩きながら話した。

 ほとんど眠りながら、マルケスの『愛その他の悪霊について』。

8月18日(金)
 転んで擦り剥けた膝頭、まだ血が滲んでくる。滲出液か。

 主にキッチンにいる子と仲良くなって、彼女の暇な時間にあれこれと話していた。
 二つ下、よく本を読んで、料理が好きで、香水とトマトが好きな子、チタちゃん。
 ヌテラみたいにまったりした甘さと、多種のスパイスの香り、それらがパウダリーに香ってきて、不思議な感じがした。
 香水をつけていると聞いて、注意深くかいで初めて気が付く。
 彼女はちょうど『生きて、語り伝える』を読んでいた。

 部屋に戻って、ほんのちょっと香水を付け直しす。
 古本がたくさん置いてあるカフェへ。
 目指していたわけでもないけれど、三年目にしてようやくその存在を見つけることができた店だった。

 小腹が空いていた。クロックムッシュとネルドリップのアイスコーヒー。
 待ち時間に本棚を見ている。ちらちら気になる本を見つけるが、荷物のことを考えると買わない方がいい。
 マルケスの『ぼくはスピーチをするために来たのではありません』。先に会計を済ませて、気兼ねなく読んだ。
 こうやって、来た時よりも荷物が重くなっていく。

 追加でコーヒーを頼みつつ、二時間以上そこにいた。

 観光地だから、そりゃそうだと言われると、そうかとしか返せないのだけど、飲食店の選択肢の多さにすこしたじろぐ。
 イタリア料理屋二軒、スペイン料理屋一軒、和食の店(どんもの、定食、蕎麦等々)五軒、ハンバーガー屋二軒、カフェ十一軒、フランス料理屋一軒。

 早上がりのチタちゃんとハンバーガーを食べに行った。
 私、フィッシュフライバーガー、タルタルソース多め、ポテトとペプシ。チタちゃん、グラムバーガー、ピクルス抜き、サラダとペプシ。
 なかなか美味しい。あれ読んだ?これ読んだ?と時間を感じないまま話し込む。
 実家に住んでいて、それは海の向こうにあった。夏の忙しい時期にだけ宿で住み込みで働いているとのことだった。
 思い返せば、書店員の友達はいなかった。チタちゃんは向こうでは大型書店で働いていて、棚を一つ担当しているらしい。
 一ヶ月以上も空けていいの?、と聞くと、店長がお父さんの弟で、いろいろ、好意に甘えてます、と言った。にわかに彼女のことを、長い時間を共有した友達と同じように好きになったし、彼女のつくった棚を見てみたいと思った。
 住所をメモして、別の話。

 宿まで一緒に歩き、入り口の前で別れる。

 寝惚けまなこでシャワーを浴び、同じまなこで『愛その他の悪霊について』の続き。

8月25日(金)
 寂しくなって、チタちゃんの宿に戻って来た。
 彼女の計らいで荷物を置かせてもらえることに。ありがたいなあ。

 この旅中、五度目の美術館。通算すると一体どれだけここへ来ただろうか。
 来場者は靴を脱ぎ、一定の人数を保つように誘導され、中へ入ってゆく
 柱のない広い空間で、どのようにしても入り込めない隙間と高い天井が同時に見える。自身のいる位置によって、音の聞こえ方や響きが変わった。私から発生した音が、遠くで鳴って、それが反響して私の元へ帰ってくる。感覚や時間のずれと遊ぶ。ずれ自体を操ることはできないが、日頃と違って、ずれを起こそうと思い立つと、容易くそれを実現できた。
 大きく開いた穴から光が、差し込んでくる、入り込んでくるというよりも、大きく開いた穴と光がある。
 穴のふちに付いて揺れている長く細いひもが、その影が、一帯の風の流れを教えてくれた。
 いつものように、光の中へ足を投げ出し、腰から上は高い天井の影の中にいた。小さな音も大きな音も、どれもが後ろからやってきて、穴を通って消えるようだった。
 ものを認識する機能や体の感覚が膨らんでいくようで、しかしそれは鋭敏さが増すこととは一致しない。ただふくよかに、むしろ本来の私たちの体や知覚の大きさを目指すような。
 手にした数少ないものの豊かさを知ることを促すような膨張、そんなことが私で行われていた。

 長い時間過ごしたあと、ミュージアムショップに併設のカフェでフェットチーネのカルボナーラを食べた。
 かなり粗挽きの黒胡椒が美味しい。買って帰りたいくらい美味しい。

 チタちゃんに『族長の秋』を借りて読んだ。
 偶然に同じ作家の本を続けて読むのは、どこかいつもの読書よりも太く強いつながりを感じさせる。

 スペイン料理を食べるためしばらく、恐さよりもどうしてこんなに、と思うような暗い路地を歩く。
 チタちゃんは慣れ親しんだ散歩道みたいにすいすい進んでいった。

 ピンチョスの盛り合わせ、タコとホタテとキノコのアヒージョ。
 指先の熱で脂が溶けていく、分厚く切られた生ハムが美味しかった。たくさん食べて、ぞっとする。
 小さいサイズのボロネーゼとたっぷりのパエリア。
 キンズマラウリ・ピロスマニという赤ワインを飲み続けた。ジョージアのお酒らしい。かわいい陶器、と思って頼んでみただけだったけれど、正解。
 攻撃的ではないはっきりしたスパイシーな味わい。ふっくらした重めの甘さは緩やかな波で消えていった。

 体を寄せて夜道を歩く。宿までの道のりが倍以上に感じた。

9月6日(金)
 テンジくんの家で目が覚める。
 二人はまだぐーっと眠っていた。
 そろそろ起きるだろうと、一応静かにテーブルの上の空き缶やコップを片付けたあと、三人分のコーヒーを淹れた。
 適当にマグを選んで、一つに注いだところでソヨちゃんが起きた。

 昼過ぎまでだらだらと。
 テンジくんは慌てて、どっかに隠しといて、と鍵を投げ、映画館へ働きに出た。
 昼過ぎまでだらだらとしていたのは私たちだけで、ハル・ハートリーの『AMATEUR』と『SIMPLE MEN』を流して観たり観なかったり。
 家主のいない家でゆったりするのは、慣れた場所でも、地に足のつかないような楽しさがあった。

 二人とも軽い二日酔いがあり、洗い物を済ませたあと眠ることにした。

 ノックの音で目を覚ましたのはソヨちゃんだけだった。
 目が覚めたときにはもうテンジくんがいた。目が合うと笑って、寝過ぎだろ、と言われた。
 頭痛が、二日酔いによるものか、眠り過ぎからくるのか分からなかった。

 一時間くらい話す。ソヨちゃんは仕事。
 ここに帰ってくるつもりだったらどうしよう、と帰るタイミングを逃す。
 テンジくんと『SIMPLE MEN』みたいに踊って、ピザを頼んだ。

 届いてから溝口健二の『赤線地帯』。
 読んだついでくらいに『雨月物語』を観たことがあった、それだけだがピザと溝口健二の組み合わせは間違っている気がする。おもしろく、おいしい。
 テンジくんは、人間の突発的な激しさが好きなんだろうか。いや、それが自然な動きなのか。

 ソヨちゃんから電話。
 まだいることに驚きつつも、戻ってくるつもりでいる。
 察したテンジくんは頭の上で丸をつくって、それを伝えた。

9月13日(金)
 シラバスと三人で喫茶店。

 早くに解散して本屋。
 ボルヘス『砂の本』。
 山本容子さんの装画。奥に座る男と手前に横たわる男、その遠近感、家具やコップ、なびくカーテン、様々に奇妙なバランスがボルヘスに合っているように思う。

 帰宅、仮眠。

 ユウコさんと買い出し。
 野菜たちを買う。モロヘイヤ、かぼちゃ、ニンニク、唐辛子。
 青パパイヤと大福も買った。

 店に戻って、熱いお茶と大福。

 買い出しと、ゆっくりした時間のおかげで張り切っていたけれど、とてつもないように暇な日だった。
 そわそわと、うろうろとしていた。

 結局閉店までの三時間あまりのうちに二組来ただけだった。
 仕方がない。

 帰宅。
 細かく、細かく刻んだモロヘイヤにめんつゆをかけ、ご飯を温め直した上にのせて食べた。
 店でつくっためんつゆは、家で食べていると濃く感じる。
 食事中、お風呂まで『砂の本』。
 少し読んで表紙を眺める、というのを繰り返した。

9月20日(金)
 体調不良、あることないこと考える。
 ボルヘスの『アトラス』。
 マリア・コダマの方を見ている視線がいい。彼女を見ているのではなくで、彼女のいる方。

 訳者が違っても、タイミングさえ合えばきっり訪れる、同じ作家の本ばかり読む時期はどうしてあるんだろう。
 同じく、刻みモロヘイヤを食べながら『アトラス』とドノソの『夜のみだらな鳥』を交互。

 夕方になる前にテンジくん、店屋もんだけど、と親子丼を持って来てくれた。
 上がってもらって、しばらく、二時間を超えて話し込む。
 お土産に刻んだモロヘイヤと小さなボトルに入れためんつゆを渡した。
 ものすごく小さい子みたいにはしゃいで帰っていった、その顔が、寝るまでの時間で何度か思い出し笑いをさせた。

9月27日(金)
 久々に学校で二人と会った。
 昨日も一昨日も会ったのに、中学での友達を高校で見かけたような違和があった。

 テンジくんと私は学食で大盛りカレーを買って、ソヨちゃんはお弁当、中庭。
 樹影のなかにいると、ほんの少しだけ涼しい。冬が待ち遠しいと言うと、二人は暑い方がいいみたいだった。
 これまで仲良くなった人で、夏が好き、というか、暑い方がいい人というのはいなかったような。
 新しい、これまでになく親しく付き合ってくれる人たちがそうであることが、それまであったかなと思うくらい嬉しかった。

 二人は引き続き学校。
 映画館へ。
 観たいものはなく、本屋。

 暇で暇で、しらみつぶし的に大型書店をまわった。
 何かぐったりしまま『永遠の歴史』を買う。
 そのままサンマルクへ行って、耽る。

-土曜日-

 そうだったそうだった、とサコは言って、羊皮紙を束ねたものをくれた。眠りながらそのことを思い出したみたいだった。濡れた手のひらを拭ってからそれを受け取り、つらつらとした紙面を撫でた。いつまでも、どのようなときも触っていたい、心地の好い手触りだ。私たちは並んでソファに座り、濾過したばかりの水で淹れたコーヒーを飲んだ。つい煙草に手が伸びる、ゆるやかに複雑な味だった。フクフが一ヶ月に一度届けてくれる生豆は、焙煎する前からすでに油が滲んでいるかのようにしっとりと、後の、優しくも豊かな時間を思わせる。豊かさは時として、暴力的に我々を変容させる。たかだかコーヒーと言えど、たかが一杯の液体だと侮れど、豊さはどこにでもその姿を現すことができた。私もサコも、幸運にも、ただその味わいを享受するだけに留まった。
 ヨルコが今、目で追っている一行、一文、そこにはその本に書かれていることの影か光か、そのすべてがあった。サコはそのとき読んでいる本の数行をよく朗読した。私にはどうとも理解できなかったが、彼女はそれには構わない。ある本のある箇所のある感情、ある理念を感じ入った自身を曝したかっただけだ。私はそれを喜んだ。私にとってそれは快挙だった。寿ぐように何か一言、二言、私は彼女に向けて言葉を、サコは何度も見た、見たこともないような笑顔を向けた。

 馴染みのお客さんや不定期に訪れるが見覚えのある人が、ヨルコについて何も言わなくなるまで2年弱かかった。それは、ここへよく出向く人たちが1周したことを告げた。
 誰もが寂しがっていた。彼らは今でもたまに来るヨルコのことを知らない。そんなことがあるだろうとも思っていないような寂しがり方だった。
 私がそのことを伝えるとヨルコは、2年か、店のお客さんがそれで回るっていうのは早いのかな?、と言った。ヨルコは自分自身に関心がないように見えた。洒脱で、いつもいい香りがして、荒れた肌を見たこともないし持つものみんな手入れされてるような彼女に対して、どうしてそう思うのかは分からない。でもその色形を摸写できそうなくらい強くそう思うことが多々あった。それは彼女の、ある意味で冷酷とも思える人との付き合い方を見ても思われることだった。

 ワダチくんはコンロのまわりや換気扇のあたりをメラミンスポンジで掃除している。
 何年前だったかにノートに雑記するようになって、初めの方はただ純粋にその時間が楽しかった。何かを見て何かを書くことが楽しかった。それが最近になって、書かれたことは書かれたことによって膠着してしまうんじゃないかと思い始めた。それはきっと、始めたときから感じているなぜか誰かに向けているような気がすることと関係しているのかもしれなかった。私や、このノートに書かれた人たちや店、本や雑貨や食べ物、それらがみんななくなった後、誰かがどうしてかこれを読んだとき、そのとき、彼なり彼女なりの中で、書き記されたものが再び形作られ、固まる。そんな気がした。

 そうだったそうだった、と私は言って、昨晩焼いたクッキー(丁寧に濃く抽出したコーヒーを練り込んだ)をサコにやった。煙草を二本吸い終えてようやく思い出した。温かく乾いた手でそれを受け取り、実際にそれが見えるように香りをかいだ。いつでも、どのようなものにでも合う、すっきりとした味に仕上げた。サコは、ありがとう、と言って、一際小さなネズミのように齧った。つい煙草に手が伸びる、なごやかな雰囲気とそれを含む情景だった。フクフが二週間に一度届けてくれる小麦粉は、挽き立ての穀物が立ち上らせる香りの中でも至上のもので、後の、躍るような律動の時間を思わせる。律動は時として、その周期を崩し、祝祭的な狂気へと変容する。たかだか小麦と言えど、たかが一つの焼き菓子だと侮れど、律動は何にでもその律を強いて、掻き乱すことができた。私もサコも、不運にも、ただその愉快な時間を享受するだけに留まった。
 ソヨが今、書きとめている一行、一文、そこにはそのノートに書かれることの喜びや悲しみ、その全てがあった。ヨルコはそのとき読んでいる本の数文をよくテンジやソヨへ送った。彼らが返事をすることは少なかったが、彼女はそれには構わない。ある本のある箇所のある光景、ある時間を彼らにも感じて欲しかっただけだ。私はそれを哀しんだ。私にとってそれは自棄だった。寿ぐように何か一言、二言、誰かが彼女に向けて言葉を、生きている者が言葉を、ヨルコは何度も見た、見たこともないような満ち足りた、痛み沈んだ笑顔をどこかへ向けた。

 天変地異のように暇だった。土曜日なのに、と理由になるようでならないから、その続きが出てこない。ワダチくんも早い段階で、今日に見切りをつけたのだろう。12月末にするような掃除に勤しんでいる。感心感心、と思いつつ、帳簿を軽くまとめたり、掃き掃除をしたり、彼に対抗するように仕事をこなした。

 退勤後、昨日の夜と同じようにヨルコと長い長い電話。
 旅行に出ているらしい。一ヶ月?、半年?、どちらでも同じようなものだった。そんなに会わなかったことがあったか。
 誰かと仲良くなると、出会う前のその人の時間の中にも私たちがいたような気になることがあった。それはヨルコが初めてのことだったけれど、それ以降で何度かあった。どこかで友情というものを軽視しているのかもしれない。これだけ仲の良い、恥を忍んで、一心同体とも言えそうな私たちの共有した時間がこれほど短いはずがない、と量で決めようとしてしまう癖があった。いつの間にかそういうのがベースになっていた。
 思い返せば、一ヶ月以上会わなかったこともざらにあった。学生時代でもその後でも、何度もあった。整理して考えてみると、何故か今回に限って、そんなに会わなかったことがあったか、というようなことを考えている。土曜日なのに、暇で暇で仕方がなかったからかもしれない。

 ヨルコはあとがきを先に読んだ。それから一枚一枚の、淡く鮮やかに描かれた絵を眺めた。ティーカップや白猫、髪の長い少女、その髪と同じ光沢のあるネグリジェ、それぞれの矜恃があった。彼女が目に留めたのは二百枚近くある中から三枚だけだった。その先は遠く霞む大河の、側に立つ黒馬と少女。水中にいるのだろう、無数の泡が覆うように全体に浮かぶ、女はその中央にただ沈んでいる、泡の中にある細々としたものは彼女の持ち物か、彼女だけが泡に包まれていない。カメラの視点、真正面、部屋の隅に立つ少女、天窓から差し込んだ月光、胸から上を照らしている、自身の前に立つ何者かへの峻烈な眼差し、その目は、この絵が実際にこのようにして描かれたものであるかのように思わせる、それほど、他の絵のどの部分、この絵のどの部分と見比べ、感じ比べてみても、異質で、見覚えのあるものだった。ヨルコはその三枚の絵を何度も見返し、一枚を丹念に切り取った。何かの用で買った額で、その絵を額装し、ベッドから見える位置に置いた。私たちはまた外を歩いていた。ついでに、久々にフクフに会いに行こうかという話になった。サコがそれを言い出して、私が承諾し、それに彼女が頷いた。私たちは川とは反対の方へ歩き出していた。まばらに建つ小屋の軒先には箱が吊り下がっている。細かな網が二重に張られた、真ん中に仕切りのある箱、中には厚めに切られた肉が並んでいる。どこの小屋でももう準備が整っている。私とサコはまだ取り掛かってすらなかった。おそらくフクフもだろう。彼はそういう奴だった。
 誰ともすれ違わなかった。みなそれぞれに、各々の小屋の中で何やら楽しそうに過ごしているようだ。そのような気配だけが辺りに流れていた。私たちはそれだけで浮かれたような気分になっていった。ほとんど誰も、フクフがどこに住んでいるのか知らなかった。親しく付き合っている者など、私とキタンくらいだろう。そしてその仲にサコが加わろうとしている。私はそれにも賛成だった。元よりサコとフクフは気が合うだろうと、夢遊的にも思っていた。

 ヨルコはよく笑った。小さな声で、大きな声で。よく笑った。何を話してみても、ヨルコと話している、誰でもいいわけではないのだと思い至った。時折、どうしてヨルコみたいな人が私と、というような私たちに失礼な疑問が頭から離れないことがあった。今まさにそうで、だから彼女とのことばかり考えてしまうのだろう。そういう時期、私は彼女に見限られることをほとんど恐怖のように捉えていた。そんなふうに思ってしまう時期の私はもう、友達でもなんでもない。私が私でいれば、誰かと比べた上での私でなければ、いつまでだって友人として彼女との時間を過ごせるだろう。テンジだってそうだ。
 顔を見せるみたいに訪れるテンジは、その行動そのものが彼らしかった。肉を食べるし、ミルクも飲むし、蜂蜜をパンに塗ったりもするし、わざわざ店に来なくたって会えるはずなのに、それでも私がいたりいなかったりする店に顔を出すのは、友人としての真心、というのか、見返りを求めないピュアな思いだった。私が大切に思っているものへの敬意を、彼らは自然に垣間見せた。その点、私は運の良い方だった。店、というものがある。
 テンジたちの作った日本酒や、ヨルコの出した詩集を買うことはできる。仕入れて売ることもできる。それでも、彼らが私に対して向けるものとは全く違ったように、何も足りないように思えてならない。

 どれくらい歩いただろうか。サコの声が少し嗄れる程度だ。私たちはフクフの話をしながら歩いていた。彼は確か、重瞳の女のことを書いていたはずだ。サコとキタンの間、そこで彼は書いた。彼女の生まれてから死ぬまでを。私はそれを読んだ。彼女は二十二歳まで生きた。彼女が八歳の時、フクフは彼女のことを書き始めた。彼女の年齢に追いついた頃には、もう二十歳になっていた。どのような気持ちだったろうかと、思い返すのは彼のことばかりだ。私たちは書いている間だけ彼ら彼女らの(書かれている瞬間からの仮設的な)終わりを知る。彼は変わらなくなった結末を、いつから、どれだけ見ていたのだろうか。現時点でのソヨは大往生と言って差し支えない最期を迎え、ヨルコは二年後に自殺する。しかしそれらは、少し前の段階では真逆に近い形だった。彼女たちの選択や意思とは(もちろん私たちのそのようなものとも)一切の関わりもなく、到達地点は変更されていく。書くことから離れた今の(フクフの小屋へ歩を進めている)私には、近いうちに書くことになるソヨやヨルコの今が、どのような帰結を定めているのか、知る由も仮定もない。サコは大抵、どのような瞬間からも老死以外の終わりを見なかったと話していた。それはある点では気楽だったろう。実際、彼女はそのように言った。現実的にいつ死んでもおかしくはないような老人の十年を書くことは、十年は死なないのだという慰みでもある。私たちは何一つとして、彼ら彼女らに関与できない。それでも、フクフやキタンのような者たちは、何かあるのではないか、抜け道のような、せめて、今見えている帰着を避ける手段がありはしないか、と図書館中の書物を読み、先代たちの話を聞き、それらの本を読み、失意以外に何も得ないまま諦めた。
 キタンに惹かれ、フクフと親しくしている私が、ソヨとヨルコを書くことになったのは納得だった。日曜日、最終日、最後の行、句点を打つ私に、彼女たちのどのような姿が見えるだろう。何が見えようが、どのような光景だろうが、私に出来ることは何もなかった。彼らと比べて(唯一と言っていい)恵まれた点は、極めて短い期間であるということだった。私が何を見たところで、それは次の瞬間から、それまでと同じように変わり続ける。

 彼女の声は何度聞いても、ふとしたとき、不思議な響きだと思った。聞こえている声を、これがこうでと書き出していくことは出来る。でもそれは何も解かない。書き出されたものが合わさってそのような響きになっているのだから、その作業には何の意味もない。それでも、単なる好奇心から、要素を書き出してみたことがあった。それは書いた途端から要素ですらなくなっていった。

-日曜日-

10月6日(日)
 残暑らしい生温さ。

 ブコウスキー『くそったれ!少年時代』と傘を持って散歩。
 歩くのが楽しくなってくると汗をかくけれど、その火照りを保つほどは暑くない。
 冷えたり汗をかいたり、風邪みたいで過ごしづらい。
 高い空に強い日差しの組み合わせは気持ちいいのに、と何度か思う。

 ベンチや美味しい飲み物がありそうな店を探しながら歩いた。
 そこでしばらく読書。
 少しでも集中できなくなると歩き始める。

 朝から夕方までそれを繰り返す。

 テラス席で食事を摂る人が多かった。
 キッチンから眺めているだけで、幸せそうなノリのようなものが伝わってくる。
 たくさん食べて、たくさん飲んで、たくさん話している。

 明日の準備を済ませてまた散歩。

10月13日(日)
 まだブコウスキー、『ブコウスキー・ノート』。併せて『リチャード・ブローティガン詩集 突然訪れた天使の日』
 分岐に差し掛かるたび、いつもとは逆へ。
 どんどんよく知らない場所へ行くのが、当たり前だけど、わくわくする。

 縁石や花壇のふちに座って休憩がてらに読む。

 見かけた喫茶店に入ってアイスコーヒー。
 レジの下の本棚に『不運な女』を発見。
 持ってる二冊そっちのけで読み始めた。

 テンジくんから電話。
 ソヨといるけどヨルコも来ない?とのこと、行く!

 川沿いを三人で歩く。
 手を繋いで歩いてみると、今までに経験しなかった種類の高揚感があった。
 恋人と繋ぐ緊張と恥ずかしさ、親と繋いだ穏やかさと嫌悪、そういったものとは似ても似つかない。
 テンジくんもソヨちゃんもそういうふうに思っているようで、晴れやかでゆったりした表情だった。
 汪々としているのは私だけではなかったはずだ。

 ソヨちゃん帰宅。
 駅前まで見送って、そのままラーメンを食べに行った。
 餃子とレバニラを分けつつ、ビールを飲んで、もくもくと、二人とも味噌ラーメン。
 床と同じくらいぬるぬるしていそうなテレビには何も映っていない。

 テンジくんの家で『FOUR ROOMS』。
 二人して笑い声を上げて、隣の家の人がどんっと壁を叩くか蹴ったかした。
 彼は口を閉める動作をして、しーっと言った。
 多分、真剣な顔で頷き、次のシーンでも二人はけたけたと笑った。

 ベランダで煙草を吸うテンジくんをちらちら見ながら、『不運な女』の続きを読みたいと思いながら、『ブコウスキ・ノート』を捲っていった。

 ソヨちゃんも合流して『DEATH PROOF』。
 隣人を困らせないように、それぞれ集中して観なかった。
 テンジくんは窓枠に座って煙草を吸っていたし、ソヨちゃんはネイルケアに励んでいた。
 特にすることもなくて、ぼんやり見ていたけれど、何かがずっと面白くて、きっかけがあれば大笑いしてしまうと心配だった。
 タランティーノらしさ、というのか、そんな展開、場面では二人も笑っていた。

10月20日(日)
 頭が痛み、ベッドの上で唸っていた。
 紛らわせるために『マルセル・デュシャン全著作』を読みつつ、ポッキーを食べたり紅茶を飲んだ。
 イミグラン錠を飲んで眠る。

 すっかり治って、散歩。
 軽い目眩。すっかりではなかったか。
 安部公房『第四間氷期』と『カンガルー・ノート』を持って歩く。

 強烈に空腹を感じて急ぎ足。
 久々に食べる台湾料理。
 排骨飯、青菜炒めたっぷり、カシューナッツと海老とイカの炒め物、餡に何やらの海鮮が練りこまれた小籠包。
 梅サワーと豆花も。
 一人で来たのは間違いだったけれど、やっぱり美味しい。

 歩くのも億劫なくらいの満腹。
 すぐ近くのエクセルシオールで休憩。
 どうかしているのか、ココアを頼んで、一時間ばかりそこにいた。
 装丁、素敵だなーとか何とか、開かれることはなかった。

 隣の二人組、年末年始の旅程を話し合っていた。
 いいなあ、と、思い立って二人に連絡、快諾。
 どこへ行こう。

10月27日(日)
 別々の課題のために図書館に集まった。
 仕切りのある机に並んで、終わったら食べるとか何かのことを考えながら、テンジくん一抜け。
 彼は耳元に寄って、外出てくる、と言った。どきっとしたまま返事ができずに頷く。
 しばらく、参考文献や少し前に書いた文章を読めずにどまどましていた。

 私とソヨちゃんは、違った意味で苦戦して、昼過ぎに喫煙所に出た。
 何か読みながら煙草を吸うテンジくんをまともに見れない。

 ソヨちゃんについてって、ほうれん草の入ったラザニアとキノコのペペロンチーノ、名前も知らない野菜がたくさんのったピザを食べた。
 それだけ食べると浮ついた気分も落ち着いた。

 早めに解散することになって、ソヨちゃんはそのまま店へ。
 近くまで送って、駅まで歩く。
 ご飯食べるまで元気なかったけど大丈夫?、と言われ、さすがによく見てるなという驚きではなく、気に掛けてもらったことに対して反応した自分に慌てた。

 改札を通ってそれぞれのホームへの階段前で別れた。

 帰宅。
 ゆっくりお風呂に浸かって、『砂の女』を読み返す。

11月7日(日)
 休みの日って書くことがない。
 でも書くためにどこかへ行ったり、何かするのも間違えてるような。

 アシちゃんは、あなたは日記を書いた方がいいよ、と言ったけれど、どうしてそんなふうに思ったのだろう。
 思っただけじゃなくて、あんなに無口なのに、それを超えて言葉をかけたのは、もっと分からない。
 別に思ってることをいつもいつも我慢しているように見えているわけでもないけれど。
 今のところ私は、日記を書くためにつけ始めた習慣でメモ魔になっていた。

 課題を済ませてから、小島信夫さんの『静温の日々』を読む。
 兄ちゃんやお母さんが下の階で立てる音が割とはっきり、隣の部屋で鳴ってるみたいに聞こえてくる。
 何かを炒める音。じゃわっじゃわっとリズミカルだから、ピラフとか焼き飯とか、そんなのか。たどたど鳴ってるのは兄ちゃんの足音、鼻歌も聞こえる。今週ずっと、同じメロディを歌い続けてる。

 昼食、海老ピラフ。
 食べ終わってすぐ、慌ただしく家を出る兄ちゃんを見ていると、外行こうかなと思い始める。

 日焼け止め、メモ帳とペン、『静温の日々』、お財布、日傘。

 去年できたアウトレットへ。
 バスに乗って二十分。
 ちょうど中間地点でアシちゃんが乗り込んできた。
 貴婦人みたいな笑顔で手を振りながら、何の音も立てずに隣に座った。
 それからすぐに、何読んでるの?、と言った。
 答えると、抱擁家族と別れる理由は?、と言った。それから、抱擁家族が一番好きでしょ、と言った。
 その通りだから頷くだけで何も言わなかった。

 何度行ってもやっぱりすることはなかった。
 ハワイ風のカフェに入って、フライドポテトとバニラシェイクを頼む。
 アシちゃんはアヒポキボウルとかいう名前の丼ものをばくばく食べていた。
 食べっぷりにいつも惚れ惚れする。
 ぼんやりと、彼女が食べている姿を見ていると、ハンバーガー食べてるの見たいなあ、と思うことがあった。
 ハンバーガー以外の食べ物は、豪快だけど荒々しい感じはない。それを食べる時だけ、あっちこっちの指を舐めたり、どうしてそこにと思うようなところにケチャップやマスタードをつけたり、中身をぽろぽろと落としたり、汚いと言ってしまってもいいくらいだった。それでも私は、うっとりしたような心地で彼女を見ていた。

 アヒポキ、アヒポキ、アヒポキ、と覚えたせいか、味の印象が強烈だったからか、湿布でしかないようなジュースの名前を忘れてしまった。

 同じバスに乗って移動。

 街に出て本屋巡り。
 一人ずつで来たみたいにそれぞれに熱中していた。
 庄野潤三さんの『絵合せ』と『早春』を買った。
 長い冬にちびちび読もう。

 カフェディエスプレッソで休憩。
 ホットキャラメルラテ二つ。
 アシちゃんは堂々と煙草を吸いながら、シュティフターの『水晶』を読んでいた。
 何か恥ずかしいからこっそりメモをとった。

 夕方までそこにいて、駅前でそれぞれに別れた。

11月14日(日)
 とてつもなく寒い。
 一日中『夢の女』を読んでいた。

11月21日(日)
 続けて休んでいたアシちゃんから電話。着信音で目が覚めた。

 急いで用意をしてバス停まで走る。

 何も食べてないからか酷い車酔い。
 バスやタクシーの酔い方は、お父さんやお母さんの運転する車とは全然違ったものだった。

 ドトールで集合。
 案外元気そうで、少し前まで体調が悪かったようにも見えないくらいで、思っていたよりもずっと安心した。

 お蕎麦を食べに行って、適当に歩き出した。
 夜になってもまだ点かないけれど、歩道脇の木々はどれも電飾だらけになっていた。
 どの店先も賑やかで、ただ歩いているだけでもうきうきした気分になる。アシちゃんもきょろきょろしていた。

 いくつか本屋にも寄ったけれど、大体は何もなく歩いているだけだった。
 見つけるたびにベンチに座るところを見るとまだ全快ではないのかもしれない。
 何かを読んでいて、つられるように『濹東綺譚』をぱらぱら読み始めた。

 気が付くと彼女は私の顔を覗き込んでいて、きっと答えが分かった上で、先週は?、と言った。
 予想していたような言葉でも、実際声に乗って聞くと、何一つ予想できていなかったことが分かる。
 永井、荷風、の、夢の 女、みたいに途切れ途切れ言って、そっかー、と聞くと肩の辺りの力が抜けた。いつもどこかで緊張というのか、何かに臨むような気持ちがあった。

 なんか食べに行こ、と言って立ち上がったアシちゃんを見て、その、夕陽に照らされた輪郭を見て、敵わないというような、妙な敗北感に覆われた。
 手をとって立ち上がり、どこへ行こうかと。

 待ちに待ったハンバーガー!
 アシちゃんの「いいよ」は、「それでいいよ」なのか、「見せてあげてもいいよ」なのか。
 何をしても何を言っても、見透かされたような、それでいて優しい彼女は「いいよ」と言ってくれているのだろうか。
 年上の人と接する機会が多いように、自分では思っていた。それでも、彼女みたいな人はいなかった。

 マックに入って、それぞれに注文。
 来てくれたから、と私の分まで出してもらった。しまった。
 二階に上がって、商店街の様子を見下ろせる窓際の席に座った。

 どうしてそんなに汚れるのかが分かった。何度か日記に書いたことで分かるようになったのかも。
 アシちゃんは、包みを全部剥いでから食べ始めた。てりやきなのに。どうして。
 両手でしっかり持って、そのしっかりでソースがどこからも垂れ始めている。構わずかぶりついて、咀嚼しているあいだにソースのついたところを確認した。
 次の一口までにそこを舐めて、よせばいいのに、しっかり持ち直したあとで噛みつく。そういう動きを続けて、その隙間にポテトをつまんだ。そのポテトだって、口の端に当たって食べ損じたり、トレーの上に落としたり、バーガーを持つこと以外に何も考えていないように見えた。
 もういつも通り、自分のを食べるのも忘れて、彼女を見ていた。
 長い立ち眩みを抜けたみたいに、はたと包みを(もちろん半分だけ)あけて、落ち着いて食べ始めた。

 見ているだけの時間が長かったせいで、食べ終えて指を拭きながら言う「どう?」が、「美味しい?」なのか「じっと見てたけど、どうだった?」なのか分からない。
 彼女の言うこと言うこと、ほとんどみんな分からないでいた。
 構えすぎてるんだろうし、例えばどこかのポイントで、私が今のようになってしまう言葉があったのだろうと思う。
 それはきっと、あなたは日記を書いたほうがいいよ、だろうし、それから私は、アシちゃんの言葉に何かを探しすぎていた。

 駅前で別れ、少し歩いてから帰ろうと遠くのバス停まで向かった。

11月28日(日)
 朝から何故か兄ちゃんとケーキを焼いた。ショートケーキ。
 彼女にあげるらしいから、兄の理由は分かる。
 私はどうして手伝うことになったんだっけ。メモが見当たらない。

 確認すると五月末から日記を書き始めていて、たった半年でメモを取らないと些細なことや、そのときの淡い気持ちみたいなのを思い出せなくなってしまった。
 これは、好転反応のようなものだろうか。
 書くことや読み返すことで、覚えていられる物事や思い返せる出来事は増えた気がしていた。それは書かれたこと、書かれるに至る思われたことに限られていた。
 むしろそれは自然な、より自然に近づいている感じがしないでもない。
 だからこそ、日記を書く前の何気なく忘れていたことや意識してなかったことの溢れ落ち方に目が向くようになったのだろう。
 覚えているべきことは、思い返すべきことは、より覚えていられる、より思い返される、それで良いはずだ。

 お母さんの運転する車で病院へ。おじいちゃんのお見舞い。
 思いのほか元気そうな姿にほっとする。
 左足のギプスが見えなければ健康そのものに見える。

 良くないことだけどしらけた気分になって、ジュースか何かを買うために病室を出た。

 階段で四階から一階へ。
 こういったところにあるコンビニは実際以上に狭く感じる。早く出たくて、コーラとグミを持って列に並んだ。
 一体どこがどう悪いんだろうと思うような、大きな体の若い男の人がいて、その前に同い年くらいに見える、私みたいに誰かのお見舞いに付き添う形でここへ来たように見える女の子が見える。
 何かに気付く前に声が出て、それは、アシちゃん、と鳴っていた。
 男の人が振り返って、それから、アシちゃんらしき人が振り返った。
 アシちゃんだった。

 どうぞ、と言って、男の人と入れ替わるように目の前に来て、低い小さな声で、何してるの?、と言った。
 何か、怒られるんじゃないか、そう思って慌てて、おじいちゃんの、とだけしか言えなかった。
 ああそう、とアシちゃんは息を吐いて、いつもの笑っているようにも無表情にも見える顔に戻った。戻った、と言っても彼女のその前の顔を見れたわけではなかった。見てはいけない、と私のために思ったのか。

 すぐ外の石造りのベンチに座って、それぞれ買ったものを飲んだり食べたり。
 家に帰ってこうして書くまで、その少し前のよく分からない居心地の悪さを、そのときだって忘れていた。
 珍しく二人とも何も読んでなくて、学校や今度遊びに行くところなんかの話をしていた。

 心配したのかお母さんが降りてきて、私の名前を呼んだ。
 それじゃあ、と言って立ち上がり、自動ドアに向けて歩き出した。
 また明日とか何とか言おうと振り返るとアシちゃんはいなくて、立ち止まって辺りを見たけれど誰もいなかった。

12月1日(日)
 テンジくんに借りた『スペインの朝食』を読みながら、そのせいでやけに時間をかけてコーヒーを淹れた。
「10月22日 銀座」を読んでいると、何故だか泣いてしまうくらい笑えてきた。

「1階に姿は見えなかったが、2階に上がる途中で、降りてきた彼女とバッタリ会う。

 ネルシャツにエプロンをしてバンダナで髪を留めた彼女の胸には「お客様係T」という名札が貼ってあり、強ばっていた顔がぱっと輝く。

『あのうすいません20メートルの定規あります? えと・・・挽き肉で出来てるやつ』
『うわあ・・・・・・あれ? あれ?・・・・・・何で?・・・・・・どうしたんですか?』
『あのねえ、さっきまで歌舞伎座の裏のスタジオで仕事だったんだ。ほら俺、世界一上手いじゃん? サックス(笑)。30秒の曲が4秒で終わっちゃってさあ、これって物理的にどう考えてもおかしいと思うんだ。それぐらい上手いの。天才かもしれない。ねえ? ドキドキしない?』
『ええ~? うふふふふふふふふ』

 彼女は、スパンクスのファンで、ヴォーカル募集の頃に、自分からエントリーしてくれた一人だ。「アタシに務まるかどうか解りませんけど、私菊池さんと音楽がやりたいです。菊池さんが作った歌が歌いたいです」真っ直ぐな目でこちらを見て彼女は言い、僕に長い溜息をつかせた。

 彼女には素晴らしい歌唱力と才能がある。これはサーヴィスなんかじゃない。背はちっちゃいけど、凄いガッツもある。だけど、僕が欲しい声とは違ったし、それに何より、彼女は今までのスパンクスと僕の音楽を愛しすぎていた。

 丁寧すぎるほど話し合って、僕達が友達になることが出来たのは彼女にガッツと知性があったお陰で、実際は危ないところだった。彼女は自分のバンドに戻った。彼女と彼女の両親に感謝する。」(PM2:07 銀座「銀座文具」)。
 ここから次の章というか、次の時間までがどういうわけか、これまで仲の良かった人たちとのことを、列挙するみたいに思い出させた。

 家の中なのに口元を隠して笑っていた。あはははと笑うのは、何かが勿体無い気がした。全体に、類するエピソードを持っているわけではないのに、懐かしさが満ち満ちていた。
 堪えきれなくなってテンジくんに電話をかけて、貸してくれたのおもしろいよ、今から会おう!、と言った。
 彼はいつものように、すこしも鬱陶しそうにせず、聞き入れてくれた。

 急いで準備。楽しみに取っておこうと本を持たず、お財布、ポーチ。

 ソヨちゃんはつかまらず、とりあえず二人でバールのようなところへ入り、ミックスナッツとチーズをつまみながら濁ったビールを飲み出した。
 彼のお酒の強さが、私の中で知らないうちに酒蔵の息子であるというところを拠り所にしていて、しっかりなさいヨルコ、と久々に思った。
 もしかしたら本当にそういうことがあるのかもしれないけれど、それはあったらちょっと面白いだけだ。かわいらしい、と思うだろう。

 頼んだピザが運ばれてくると同時に、ソヨちゃんが来て、そこからは三人でいた。
 チーズがたっぷりなピザに同じくらい蜂蜜をかけて食べる私を、テンジくんは恐ろしいものでも見るみたいに見ていた。
 一人でいるときご飯食べてる?、と彼は言って、その質問が今ここで出てきたことが理解できなかった。
 体に悪そうな、カロリーの凄まじそうなものをぱくぱく食べてる→思い返せば、いつも結構な量をぺろっと食べてるな→私の希望的な観点から、(何で太ってないんだ?)→(あ、俺たちといないときしっかり食べてないんじゃ)→「一人でいるときご飯食べてる?」、ということだろうか。
 賄いか、たまに外で食べる、と答えると、今度なにか作ってやるよ、と言った。
 だんだんおかしくなってきて、家で我慢してたあはははが飛び出してきた。
 ソヨちゃんは一端に触れたのか、つられて笑い、テンジくんだけが困った顔でピザを頬張っていた。

 あとで思い出してみると確かに、というか、自分のために料理することはかなり少なかった。

 夕方。
 川沿い。吹き上がってくる風の冷たいこと。
 冬の装いで三人並んで歩いているのは素敵な思いのするものだった。
 何故か視点がぐーっと引いていって、ちいさなちいさな子どもたちが一生懸命に、目的地へ向かって足を動かしているように見えた。
 実際のところ私たちは、目的地もなく、ただ酔いを醒ますような形で歩いていた。

 テラス席のあるカフェへ入り、ホットコーヒーを大きなグラスに頼んだ。
 三人ともそれを溢さないよう、氷の上にいるみたいな突発的で奇怪な動きを取りつつ、何とかテラスの造り付けベンチにたどりつくことができた。
 私を真ん中に、ソヨちゃんは楽しそうに誰かとやり取り中、テンジくんは美味しそうに喫煙中。
 ずっと探していた本を見つけたときの、胸を撫で下ろすような気分がおへその辺りから湧いていた。何かが、信じられないくらい、信じない方がいいくらい心地好かった。
 本を持たずに出たことを、初めて後悔しなかった。

 散歩を再開。

 駅前。
 名残惜しけど、また明日、とテンジくん。
 私たちは一様に頷き、さようなら。

 帰宅後『スペインの宇宙食』。
 残り少ない。

12月8日(日)
 バナナをキャラメリゼしたのを食べて、年末に向けてほんのちょっとだけ、掃除や整理を始める。
 その前に課題をやっつけて、ツギタくんの作ったクルフカを食べた。

 三日くらいかけて徹底して掃除するよりも、レベルを上げていくように進める方が良かった。
 どこかの日から本格的になっていく。

 しなくちゃいけないこと、した方がいいことと、したいこと、しなくてもいいことのバランスを間違えたようだった。
 昼過ぎから妙に、何もする気がなくなりベッドに寝転んで、天井とのあいだにある空間を見つめていた。
 眼鏡もなかったから当然だけど、ピントがあってるわけでもないし何かがあるわけでもないのに、その間を見ている感覚というのは、はっきり物を見ているときと同じだった。

 立ち上がって、背表紙を撫でながら見るともなしに見ていた。
 家の中をうろうろ。永井荷風や小島信夫や庄野潤三の小説がかたまって収まっているのを見ると、喉の奥が膨らんで狭くなった気がした。
 表紙を見ないように、手にとって、隣り合わないように収めなおした。

 外気が足りないのだと散歩を始め、野良猫と遊んでいると気が晴れた。

 そのままソヨちゃんのところへ。
 キャップを被った彼女は、その店の店長に見えた。

 ホットチャイラテ。
 苦手な味だったけれど、この味はあれかな、と探索するように飲むとおもしろい。
 初めてチャイを飲んだときのことを思い出す。

 大通りに出て、本屋の外観だけを見て回る。
 何も読みたくないし、何を読んでいいか分からない、いつぶりかの気分だった。

 無礼かもしれないと思いながらも、テンジくんに会いにcinema06へ。
 予想通り、カウンターにいて、何やら分厚い本を読んでいる。
 私に気がつくと手を振って、今は観た方がいいのないよ、と言った。怒った顔と残念がる顔が似ている人が好きだった。
 どっか行こうよ、と言うと、夕方には終わるよ、と言った。

 近くの喫茶店で時間を潰す。
 二時間近く、気が付いてびっくりするくらい何も考えていなかった。
 アイスコーヒーは見事に分離して、紙のコースターは完全にむにゃむにゃしている。
 ずっと同じ音楽が流れていた気がするが、もう変わっていた。意識は最後に意識されたものを保持するのかもしれない。

 二人でまたソヨちゃんのところへ。
 私は二人にまとわりつくハエのようではないかと思い始めたが、いくらなんでもそんなことはなかった。
 お客さんもいないからしばらく談笑して、ホットカフェラテ二つ。
 煙草、コーヒー、煙草、煙草、煙草、コーヒーというリズムがあって、見ていると笑いそうになる。

 先週にも、三日くらい前にも行った気のする店でピザ、パスタ、ビール。
 日曜は比較的静かで、人と人との距離があっていい。気忙しい感じがなかった。
 何読んでたの?、と言うと、『ゴダール全評論・全発言Ⅰ 1950-1967』が机の上に置かれた。
 「全発言」というのがいい。本当に?

 駅まで遠回りして、別れる。
 同じ道を歩いて本屋、ベケット、『ワット』。

 電車の中で読む。
 これぞベケット!、ベケットベケット、と思いながらくすくす笑った。

12月15日(日)
 静々と年の瀬の気配が街のそこかしこに、クリスマスムードの影に見え隠れしている。
 季節の変わり目のように体が気怠い。毎年そうかと思うとそうではなかった。

 引っ越してからは、クリスマスが終わると冬が始まる感じがした。
 それまでは、それより一ヶ月前くらいから、冬だー!、と思うような。
 そう考えると、ここでは今が季節の変わり目なのかもしれない。仕方がない、と思うことにした。

 長い長い散歩が続いている。
 一人か二人。何故か三人では長く長く歩くことはない。
 それでも、テンジくんと歩くときと、ソヨちゃんと歩くときの時間の差はなかった。
 何でだろう。

 当然のようにベケット。『ベケット伝 下巻』と『消失したもの』。あれ、ベケットじゃない人の方が多い!
 久々に『千のプラトー』か『感覚の論理-画家フランシス・ベーコン論』を読み返したくなった。
 書かれているものと書いているものの飛躍、そのものを感じたい。
 それで手にとられてのは何故か『エロティシズム』。
 やっぱりバタイユが好きだな、と何を読み返しても都度フレッシュに思い知る。
「だがじつのところ文学は宗教のあとに位置付けられる。文学は宗教の跡継ぎなのだ。供犠は、一篇の小説に相当する。血なまぐさい挿絵を付された小話(コント)といったところだ。いやむしろ供犠は、根本的には、演劇表現である。動物あるいは人間の生贄だけが演じる、しかし死ぬまで演じるクライマックスに切りつめられたドラマなのである。祭儀とは、決まった日に繰り返される神話の上演、本質的には神の死の上演である。」(第七章 殺人と供犠)。 

「個としての存在の束の間の不連続性を前にして、人間精神は二通りの反応を示す。それらは、キリスト教においては、渾然一体になっていた。一つの反応は、失われた連続性を見出したいという欲求に対応している。私たちは、連続性が存在の本質だという気持ちを断固として持っている。第二の反応では、人間は、死という個人の不連続性の限界から逃れようと試みる。この場合、人間は、死が到達しない不連続性を想像する。人間は、不連続な存在の不死性を想像する。」(第十一章 キリスト教)。

 読めば読むほど、声で聞くように身の内で反響される。いつもは「第六論文 神聖さ、エロティシズム、孤独」を読んで満ちていくものが、今日は始めからずっと近くに感じられた。
 どうしていつも、こんなにも優しくも頼もしい、確かに、励まされるように思うのか。

 外へ出る気力に変わる。
 気になってはいたけれど、どうだろうと思うだけで行ってなかったカフェへ行った。
 これだけ家の近くにあって、良くても悪くても、どちらでも困ってしまう。
 顔以外、見えているところ全部にタトゥー(動物の絵が多いようだった)のある人が切り盛りしていた。柔和な目元と胸より下で響いているような低く掠れた声に落ち着いた。優しくも頼もしい、確かに、励まされるような声。

 冷たいカフェラテを受け取って、外の席へ。
 とんでもなく濃くて苦いのだけど、どこかでも見かけた牛乳のおかげか、まろやかに甘い。美味しい、困った。
 香りが少ないからか、味の強烈さの割には、無意識に口へ運ぶ回数が多いように思う。ずっと飲んでいられる気がしたが、きっと二杯も飲めば私は具合が悪くなってしまう。
 チョコチップ入りのクッキーを買って、席に戻って続きを読んだ。
「私たちは、限界の裂け目に、必要とあれば、客体〔対象、事物〕の形態を与える。限界の裂けめを一個の客体とみなそうと努める。死を嫌悪しているために、私たちは、強いられてでなければ、私たち自身から極限へ赴こうとはしない。そして私たちはいつも自分を欺こうと努める。すなわち、自分たちの不連続な生の限界を出ることなしに、連続性の地平に、限界が越えられていることを前提にしている連続性の地平に到達しようと努める。私たちは、決定的な一歩を踏み出さずに、賢明に此岸に留まりながら、彼岸に到達しようと欲している。私たちは、自分たちの生の限界のなかにいないと何も考えられないし、何も想像することができない。この限界の向こうではすべてが消えると私たちは思っている。じっさい、死の向こうに出ると、考えられぬものが生起する。それは、私たちがふだん直視する勇気が持てないものだ。だがじつのところは、この考えられぬものとは、私たちの非力さの表現なのである。私たちは分かっているのだが、死は何ものも消し去らず、この世の存在の全体をそのまま無傷の状態にしておく。しかし私たちは、私たち個人の死をもとにして、私たちにおいて死につつあるものをもとにして、存在の連続性をその全体において考えることができないのである。私たちは、私たちにおいて死につつあるこの存在に対して、限界を認めようとはしない。この限界を、私たちは是が非でも越えようとする。だが私たちはこの限界を超出すると同時に維持したいと思っているのだ。」(第十三章 美)

 するすると流れていく雲を見ていると、この距離でそうなら、そこでは一体どんなふうに流れているんだろうと思う。
 バタイユの文章は(むしろ酒井健の翻訳?)そのような、異なる速度で動く同一のものを眺めている気になる。異なる速度で動く同一のもの、というものがあるのかは分からないけれど、ちょうど、遠くで流れている雲を見ているとそう思い始めた。

 彼は外に出てきて、薄茶色の煙草を吸い始めた。カルダモンのような爽やかで独特な香り、タフィーのような長く甘い香り。
 ほとんど閉じているような瞼の隙間から空を見上げている。何も考えていないだろうか。少なくともバタイユのことは考えていないだろうか。

 スーパーでパックもの。揚げ春巻き、タコと玉葱のマリネ、コロッケ。

 食べつつ読む。

12月22日(日)
 今年が、今年が終わってしまう。
 慌ただしい。

 朝から三人で集まって、電車に乗って遠出。
 何故か海を見にくことになった。

 合流した駅から十分ほどで乗り換え。
 そこから新幹線で二時間。

 テンジくんが寝て、ソヨちゃんもそのすぐあとに寝た。
 真ん中。起こさないようにシェードを上げる。
 気が張っていた。何か思い出しそうで出てこないときの気持ち悪い感じがあった。

 テーブルに出されたままの煙草を一本もらい、喫煙室のある車両へ。
 入るのを躊躇うほど狭い。
 サラリーマン風の男の人が二人。
 壁に寄りかかって煙草をくわえた。ライターを借り、まごまごしながら少しだけ息を吸った。
 恥ずかしいくらい咳き込み、落ち着く前にもう一度吸った。がはごほ。
 しばらくそうしていると、ごほっ、ぐらいで済むようになった。こんなのを日常的に吸うのは無理だ、とアシちゃんに一口吸わせてもらった時にも思ったことを再度思った。
 あれって二人で宇野亜喜良さんの展示を観に行ったときだったっけ。うつろな記憶に対して、くっきりとその光景が浮かぶ。

 席に戻るとテンジくんは目を覚ましていた。
 私に気がつくと、ちょっと煙草、と言って通路に出て、あれ?煙草吸った?と言った。
 ごめん一本もらった、と言うと、全然いいよ、と嬉しそうな顔で、そんなに?と思うくらい嬉しそうな顔で、一緒にどう?、と続けた。

 入室。
 意外だな、一人で吸うのが好きなの?
 ううん、何となく、二回目
 なるほど、上手く吸えた?
 ううん、かなり咳き込んだ
 はははは、そっかそっか、あ、ライターは?
 煙草に火をつける。
 サラリーマンっぽい人に貸してもらった
 ああ、そう、そう、俺さ、運がいいの
 運?
 うん、煙草と人に関して
 煙草と人に関して、
 うん、煙草は、こういうところで誰かと居合わせることがなくて、ライター忘れても絶対にそこにある
 こういう狭いところ?
 そうそう、二人いたら狭く感じるようなところで、俺が行くときは誰もいないし、持ってなければ誰もいないそこにライターだけある
 しばらく咳き込む。
 ははっ、まあすぐに慣れるよ
 人の方は?
 人?
 人
 あ、ああ、人はね、これは恥ずかしいけど、ヨルコとか、ヨルコやソヨの知らない人たちのこと
 ソヨちゃんはその、こと、には入らない?
 今はもうそうだけど、まあそれも運が良かったのか、俺が言った意味での運の良さはそうじゃなくて
 そうじゃなくて
 うん、そうじゃなくて、たくさん人がいると、誰と仲良くするべきか分かるんだ
 誰と仲良くすべきか
 そう、それはでも、この人と仲良くしてれば人脈がどうこうしそうだとか、課題のとき助かりそうだとか、そういうことじゃなくてさ
 うん、うん、意味は分かるよ
 そっか、だから、そう、煙草と人だけは強運の持ち主なの

 そんなふうなこと、しばらく。
 ずいぶん慣れて、もう一本吸って、席へ戻った。

 到着。
 駅前の騒がしさを抜けてバスに乗り込む。

 見慣れた懐かしいバス停の標識が流れていく。
 少しだけ息苦しい。
 止める術のないまま、何から何まで思い出していった。

 長い時間のあと帰宅。

12月29日(日)
 昨日から冬休み。
 もう来年にいる気分。

 誰かを集中的に読もうかなと思ったけれど、気持ちが漠然としたままで、なかなか定まらない。

 近くのカフェ。
 もう馴染んだ外の席。

 煙草を吸いに外へ出たツカモトさんはじっと私を見たあと、今日は一段と寒いな、と言った。
 そうですね、もう年も変わりますから、とよく分からない返事をした。

 何度飲んでも美味しい。
 目の前にある公園の隅で、小さな渦をつくって落ち葉が舞っていた。

 どの本屋を覗いても、ぴんとこなかった。

 もう眠たい。


103512字

『渠』で画集を二冊買った。いつも通りのクラフト紙包装で、今日は日陰の苔みたいな色のスタンプが捺してある。本と一緒に煙草も買った。片手で作った丸くらいの大きさの筒に十五本入っている。同じ色のスタンプで57と捺されていて、この数字は、少し焦げたミルクのような香りの煙草を表している。
 この店が開かれたのは五年前で、私はその始まりの日から今まで通い続けている。多分、三年くらい前から、コーヒーや軽食の楽しみもできた。棚に並んだ器具と豆を選び、額縁型のカウンターの中にいるヌマキさんに渡す。彼女は世間話をしながら手際よくコーヒーを淹れてくれる。ずっとその姿が目にあるのに、いつのまにかコーヒーが出来上がった気がする。
 四階建ての最上階と三階がこの店のスペースで、それは四階の隅にある四角い穴で繋がっていた。梯子がかかっていて、自由に行き来することができる。ヌマキさんが作った梯子は、いすのき、という名前の木から出来ているらしい。

 私はだいたい月に二度ここで本を買い、毎週煙草を一つか二つ買い、毎日のようにコーヒーを飲みに訪れる。

 家に帰って、買った画集を窓辺にある机の上に放り、57を吸いながら洗い物を済ませた。マグを三つと平皿二枚。それからカーテンを開いて海がある方を眺めた。いつもなら見える海が今日はよく見えない。腰高の椅子に座って包装をといた。鴨居玲と井田秀治の画集を買った。どちらもささっとめくってから目を閉じ、頭に多く浮かんだ方を始めからゆっくり読んだ。

 インターホンが鳴った。机の上にあったメモ用紙を挟んで席を立った。リビングにあるモニターには見知らぬ老婆が写っている。
「どちら様でしょうか?」通話ボタンを押して言った。
「隣に越してきたスガワラです。ご挨拶をと思いまして伺いました」
 老婆の声は妙に若々しいが、それよりも気になったのはこのマンションには隣室がないことだ。呆けた老人だろうと玄関へ行き、扉を開けた。
「こんにちは」
「こんにちは、お隣ってどちらのでしょう?」
「隣は隣ですよ、これよろしければどうぞ、食べてください」
 老婆は小さな仏像を私の手に握らせた。この大きさのものが持つ重さの中で最も適した重さだった。小さいながらに凝った造りの顔が目につく。
「ありがとうございます。いつ頃越してこられたんですか?」
「つい一週間ほど前です。今後ともどうぞ、よろしくお願いしますね」
「そうですか。はい、こちらこそ、お気をつけて」
 彼女はそのまま階段を降りて行った。私は扉を閉めてチェーンをかけた。小さな仏像は窓辺に置いた。窓を開けて顔を出すと老婆がうろうろと歩いていた。気配には次の目的があるように感じるのだが、足取りは不明瞭に見えた。
 メモを挟んだところから画集を読み直した。メモには私の筆跡ではない文字で「午後十六時、隣人が訪ねてくる」と書かれていた。いったい誰が書いたのだろう。
 それから、画集を読んでも煙草を吸っても軽い体操をしても、ずっと老婆の姿が思い浮かんでいた。メモ用紙はくしゃくしゃにして捨てた。眠る前にヌマキさんに電話をしたが、彼女は出なかった。

 店の前に太い柱がぽつんと一本だけ立っているカフェが『渠』へ向かう道の途中にある。その柱までが店の敷地らしく、ソファ席がそこまで伸びている。私はいつもそのソファに座って食事を摂る。通りを歩く人は迷惑そうな驚いたような顔をしている。特等席だ。店長は坊主頭でひげを伸ばした若い男で、『渠』で小説を買い、23と41の煙草を買っている。
「どう?美味しい?」私の食べているオムライスを指差して言った。
「美味しいですよ、いつもどおり」
「そう、良かった。この後ちょっとあそこ行くけど、今日は行く?」
「一緒に行きますか?」
「じゃ、そうしよう、ゆっくり食べてていいからね、ちょっと用意するからさ」私はこういう時、用意がなければ急がなくちゃならないのだろうかと思うのだけど、彼の言葉にそんな意味はないし、彼もそんな人ではないと分かってはいる。
 たまにこんなふうに連れ立って『渠』へ行くことがある。だいたい、見る限りルーズな店の開け閉めをしているせいか、私以外の客を見かけることはほとんどないが、私が決まった時間、というほどでもないにせよだいたい同じ時間に訪れているせいかもしれない。

『渠』まで歩いているあいだに小さな仏像を見せた。何度持っても手のひらにしっくりくる重さだ。
「なに?これ」
「分かんないです、昨日お隣さんらしき人にもらいました」
「へえ。らしき人って?」
「私の住んでるマンション小さくて、各階に一部屋、というか、隣なんてないんですよ」
「へえ、呆けてるのかな」
「多分そうだと思います、それ何か分かりますか?」
「いや、小さい仏像ってことしか分からないなあ、ヌマキさんに聞いたら分かるかもね、彼女物知りじゃん」
 ヌマキさんもその小さな仏像が何かは分からなかった。彼女はしばらく黙ってそれをいろんな角度から見ていたが、分かんないや、と言って私に返した。
 カフェの店長、『くるくる』のヒキタさんはカウンターの後ろの本棚を物色していた。彼は分厚い小説しか読まないそうだ。私は分厚い小説も、そうでない小説も読まない。高校生の頃は熱心に読んでいた気もするが、ここ数年は手にしたこともない。
「ねえ、ヌマキさん、ヘミングウェイのさ、分厚い本ってないかな?」
「そんな質問あなた以外しないよ、下、見てこようか?」呆れた顔で笑いながら言った。
「助かるよ」
 彼女は四角い穴から階下へ、梯子で降りた。そこには上の棚に収められる前の本と作り付けの机と椅子があった。
「まだ小説は読まない?」
「そうですね、今のところは。別にそうしようと決めてるわけじゃないですけど」
「ねえ、どれくらいから分厚いって言うの?」くぐもった声が聞こえた。
「縦にした親指二本分」ヒキタさんが叫ぶと笑い声がしてから、あったよと聞こえた。
「なんでいつも分厚い本、小説ばっかり読むんですか?」
「なんでって、分厚い方がより本に近い感じするじゃん」
「より本に近い?」
「うん」
 どういうことですか、と聞く前にヌマキさんが上がってきた。小さな肩がけのカゴに、より本に近いらしい本が二冊入っている。ヌマキさんは私からすれば、ありとあらゆる本を読む人で、私が一生かけて読むだろう分量を一ヶ月くらいで読んでしまう。
「少し高くなるけど、大丈夫?」
「大丈夫大丈夫」
 彼は悩んだ末にどちらも買った。
「コーヒー飲む?」
「飲みます」
「飲みたいな」
 彼女は素早く屈んでカウンターから出ると、豆と器具を見繕ってまたしゅっと中に戻った。
 私たちはヌマキさんに声をかけてから下に降り、彼女がつくった小さな椅子に座った。57と23を一本ずつ交換した。23は熟れる寸前の果実の香りがする。果肉が瑞々しいフルーツ。
「お店、いつも決まった時間に開けたり閉めたりしなくていいんですか?」
「大丈夫だよ、きっと」煙を輪っかに吐き出して、ヒキタさんはそう言った。
 この部屋の中央には肩くらいの高さの四角い台がある。人力の昇降機がそこに降りてくるのだ。軽食が乗っていたり、コーヒーが乗っていたりする。小さな滑車がからころ鳴る。私はこの音が好きだ。からころからころ。
 木箱が到着してからすぐに、ヌマキさんは降りてきた。
「私もちょっと休憩」
 彼女の足が見えたのと同時に動き出したヒキタさんが三人分のコーヒーを運んでくれた。ソーサーの端に丸いクッキーが二枚ずつ乗っていた。ヌマキさんは12を吸った。若い木のような香りがする。三人でそれぞれのを交換した。
 一時間ばかり過ぎてヒキタさんは、そろそろ店を開けてくるよと言って帰った。
「昨日、夜、電話出られなくてごめんね、いつもより早く寝てたみたい」
「あの小さな仏像のことを話したかっただけですから、私こそ夜遅くにごめんなさい」
「気にしないでよ、いつもは起きてるんだし」
 ヌマキさんはこんなとき、いつも私の手の甲にそっと触れる。彼女の指先は温かくも冷たくもない。

 帰りに『くるくる』の前を通った。数人の客がヒキタさんと話しながら何かをつまんでいた。ヒキタさんは私に気づいて手を振り、何か飲むか食べるかする?と聞いた。
「じゃあガトーショコラとコーラ、お願いします」
 彼は、はいはーいと言ってキッチンに入っていった。私はいつもの席に座ってぼんやりした。トートバックの中には小さな仏像と鴨居玲の画集が入っている。画集を取り出して机の上で開くと、紙片が落ちた。拾って開くと、見慣れた筆致で「乾いた袖、灯の下で夕暮れの逃避」と書いてあった。『渠』で本を買うと、こうやってヌマキさんの書いた詩みたいなのが挟まっていることがある。私は今までに百枚近く、これで九十七枚になるヌマキさんの詩みたいなのを集めている。それから星の見えない暗い空を見上げた。一つも雲がないのに星が見えないでいることは私を不安にさせる。シームレスに別の世界へ移動してしまった気分になるからだ。

 家に帰ると扉の前に昨日と同じ老婆が立っていた。手には恐らく小さな仏像が握られている。声をかけようか迷っていると彼女はこちらを向いて笑った。
「夜分遅くにすみませんねえ、これ、渡し忘れちゃってたみたいで」
「それなら昨日頂きましたよ」
「あら、そうだったかしら、でも、まあもらってちょうだい」
「分かりました」
 彼女はまた私の手にそれを握らせ、階段を下っていった。
 私は二体の仏像を窓辺に並べて置いて眺めた。新しく手に入れた方は心なしか微笑んでいるように見える。やはり凝った造りで、見れば見るほど実際より大きなサイズに見えてくる、というか造りの細かさが見合う大きさではないように思えてくる。重さは同じく適当で、手に持つとやすらぐ。彼女が彫ったのだろうか。それにしては、奇妙なほど端正で細かい。イチゾー、ニゾーと名前を付け、そのまましばらく窓辺に飾っておくことにした。カーテンのかけていない窓から今日は海が見える。
 眠る前にヌマキさんから短い電話があった。今日はありがとう、また明日。

 目が覚めてリビングへ行くと、窓辺のイチゾーとニゾーが少しだけ大きくなっているような気がした。気がしただけでなく、ほんのちょっと、でも確実に大きくなっていた。ヒキタさんが、より本に近いと言っていたのを思い出した。
 四枚切りの食パンを二枚焼いて食べた。昼過ぎまで雑誌で連載しているコラム記事を書いて、『くるくる』へ行った。トートバックの中にはヌマキさんの詩みたいなのを貼り付けたノートが入っている。
 ヒキタさんは外のソファで分厚い本を読んでいた。すこしの間とおくから見ていた。ページをめくるごとに、割り箸でポテトチップを何枚か食べた。彼以外誰も店にいなかった。私は店の前を通らない道で『渠』へ向かった。
 子供の頃に見たような気がする化学系の番組で、博士と研究員が乗ったちいさな探索機が、博士の一声を合図に観察する対象物に入り込むべく急激に小さくなるその視界の激しい動きが、何か遠くのものを見たり聞いたりすると起きてしまうことがある。目に映ってはいないけれど、存在を知っている公園が先の方にあって、そこからの声が耳に届くと、私の視界はその公園まで飛んで、まだ見ぬ音の発生地を見ている。少なくない頻度でそんなことが起きる。私はなぜ突然こんなことを書いているのか分からない。

『くるくる』へ行かないとき、私は『KIWI』でカレーを食べることが多い。銀色の大きな器の真ん中に細長いお米が盛られ二、三種類のカレー、酸味の強い副菜、だいたいココナッツの味がする豆とがざっと盛られている。この店の店長は髪を一つくくりにしている若くはない男で、プロのバーテンダーがつくる丸氷みたいにつるりとした顎に髭は生えていない。
 ノートをちらちら読みながら食事を済ませた。今日はオクラとレンコンのカレー、豚バラとレモンのカレー、ラディッシュのピクルスとレンズ豆を甘く炊いたものがいっしょくたになっていた。一年半ほど来ているが一度も同じメニューにあたらない。

ここで、私が気に入っているヌマキさんの詩みたいなのをいくつか書き起こしておく。ここで、なんて書くとクイズが始まりそうで、体が痒くなる。
・あとすこし触れればこそ許される あなたの罪を食む音の方
・遊こそ望む緑の丘 はぜる馬の蹄 ざわめきは灰色
・浅い息を繰り返す ただ聞こえぬ色と香り もう遠い手向けの花束
・麻が尾に触れた 湖を別つ二人の声 未だ私の耳には響かない

 カレーを食べてから『渠』へ行くと、ヌマキさんは本棚を整理していた。店に入った私に気がつくまで四分かかった。本を何冊か動かすたびに、距離を取って何かを口ずさみ、また本を動かした。ヌマキさん、と小さな声で呼びかけると、わあっと叫んでほんの少し跳び上がった。
「びっくりした、ごめんね気がつかなくて」
「こちらこそすみません。ぼんやり見てました」
「恥ずかしいな」「コーヒー、飲む?」
「お願いします」
「今日の朝、新しいのが入ったから、それ、試してみる?」ヌマキさんは、カウンターに置かれた麻布の袋に目を向けて言った。
「はい、それで、お願いします」
 ヌマキさんはまた何冊かの本を入れ替え、一冊を手に持ったままカウンターの中に入った。これはね、蜂蜜みたいに甘いの、でもしっかり苦い、うーん、苦いというか、香ばしさが強いって言うのかな。
「鴨居玲好きなの?」ヌマキさんは、豆を挽きながら私に訊ねた。
「いくつかの作品が好きで、でも画集を買ったのは昨日が初めてです」
「なるほど。これ、昨日下の部屋を掃除してるときに見つけたの、読むかなって」
「ありがとうございます、見てみます」
 彼女は、沸騰した湯を小さなケトルに移し入れ、柄の長いスプーンで何度かかき回した。それから木の持ち手のついた布のフィルターに挽いた豆を振り落とした。私はこの方法で淹れたコーヒーが好きで、そのフィルターを中心とした道具を一式揃えた。それでも自分で淹れるのは稀だ。
 持ち手を三本の指で掴み、人差し指と親指は、輪に沿うように広げられている。右手に持ったケトルを正確に数ミリ傾け、細い湯を垂らす。私は彼女のどのような所作と比べてみても、これほど美しい瞬間を知らない。彼女の視線は挽いた豆に置かれ、まばたきの回数が減る。金魚鉢みたいなサーバーに少しずつコーヒーが落ちてゆく。私から話を膨らませることを躊躇ってしまう。
 今日の私は画集を繰りながら、彼女に何度も視線をやった。昨日買ったものより古い画集で、それほど多くない作品数にも関わらず見たことのない絵が多かった。私は彼の、輪郭のはっきりしていない人物画を気に入っていた。じっと目を向けると、描かれた人物のまわりだけが波打ち、画上の人は微動もしないまま叫んだり、嘆いたりしているようで、それが正しい姿だと感じていた。
 コーヒーを淹れ終えたヌマキさんは、私用の小さなマグに注いだ。どうぞ、と言って左手のそばに置いた。画集を閉じ、コーヒーを飲んだ。彼女の言う通り、濃密な甘さがあった。確かに、強い苦味と感じるような香ばしさがあるが、純粋な苦味はそれほどではない。
「美味しい」
「でしょ、たまにしか入らないんだけど、私はそれが一番好き、おかわりもあるからね」
「ありがとうございます」
 ヌマキさんはにっこり笑って、本棚の整理に戻った。彼女がにっこり笑うとき、右側の口角だけが大きく動いて、そのアンバランスさが妙な親しみやすさを抱かせた。
 コーヒーをすこしずつ飲みながら画集の続きを読んだ。集中して見ていたのだろう。いつの間にか隣にはヒキタさんが立っていて、私が気がつくと笑ってから、よっ、と言った。ヌマキさんももうカウンターの中にいた。
「ヒキタくんもコーヒー飲む?」
「うん、頼むよ」
 ヌマキさんは、今度は厚めの紙のフィルターでコーヒーを淹れた。ヒキタさんの手元には分厚い本が二冊並んでいた。
「昨日買った本ですか?」
「と、今日買う本、それは?」
「鴨居玲って画家の画集です」
「知らないな、買うの?」
「はい」
 彼は小刻みに頷くと、あ、そうだ、と言って鞄から何かを取り出した。
「きっといるだろうと思ってさ、これ、二人にサンドイッチ、食べる?」
「ありがとうございます、いただきます」
「ありがとう、その本と交換しよっか」
「やったー、ありがとうヌマキさん」
 薄いライ麦パンで、スモークサーモンと橙色のチーズ、玉ねぎのスライスが挟まれていた。仕上げにこれ、と言ってカットしたライムを取り出した。
「まあ、好みによるけど、かけても美味いよ」
「かけてみます」
 ヌマキさんはサンドイッチを緑の小さな平皿に乗せ、それぞれの前に置いた。食べ終えるまで私たちは黙っていた。彼の料理にはいつも「ここにあるすべての食べ物の味がするのに、飲み込んだ後には一つの食べ物としての味が残っている、これがきちんとした料理か」という素朴な驚きがある。

 帰り道のスーパーで老婆と何度かすれ違った。彼女は私に気づかず、何も入っていないカゴを持ってふらふらと歩いていた。声をかけてみようかと考えたけれど、真剣な表情を見てやめた。彼女はどこかの施設から逃げ出して来ているのだろうか。それとも、隣とも言える距離のどこかに住んでいるのだろうか。
 左手にスーパーの袋を持って家に帰った。扉の前には誰もいなかった。ふっと肩の力が抜けた。何百回と繰り返して当たり前になったことも、たった二度の訪問で揺らぐのかと鼻で笑った。
 食材を冷蔵庫に入れてから、窓辺の椅子に腰掛けた。イチゾーとニゾーは朝に見たままの大きさで、私はすこし安心した。今日も海が見える。海と空は似たような色で、ちょうど交わる部分に連なった山がなければ判別出来ないほどよく似た色をしている。ごくまれに海まで歩いていくことがある。ベンチに座って本を読む。煙草を間断なく吸う。
 今日買った画集は、寝る前のベッドで読むことにして、枕元の机に置いた。ぬるい湯に浸かり、天井を見つめた。湯が青くなる入浴剤を入れてみたが、香りはしなかった。

 髪を乾かして布団に入ると、本を取るのも面倒なほど眠気を感じた。一瞬、読む読まない読む読まない、と考えて、そのまま首元まで毛布に包まって眠った。いくつか印象的な夢を見たが、目覚めたときには忘れていた。いつ印象的だと思ったのだろう。

 首をひねって枕元の机を見ると、画集の上に小さくなったイチゾーとニゾーが乗っていた。頭の中で床が軋むような音が聞こえ、痛み出した。iPhoneを見ると、昨日の夜にヌマキさんから電話があったことを教えてくれた。。かけ直すと三コール目で彼女の声が聞こえた。
「おはよう」
「おはようございます、出れなくてすみません」
「ううん、大丈夫、用があった訳じゃないし、いつもの電話」
「はい、今日はちょっと行けそうにないです、頭が痛くて」
「わざわざ言ってくれなくてもいいのに、また、待ってるね。お大事に」
「ありがとうございます、また」
 電話を切ってから布団を出た。痛み止めを飲んで洗い物と洗濯を済ませ、ソファに座って何も考えずに一時間ほど過ごした。三通のメールに返信し、昼食にコーンポタージュを作った。食後に昨日買った豆でコーヒーを淹れた。57を吸いながらコーヒーを飲んでいると頭の痛みが少しやわらいだ。
 何度も観ている映画を流しながら本棚を整理した。家には本棚が三つあり、どの棚ももう埋まっていて、新しく買ったものは近くの床に積まれていく。いくつか目星を付けてぱらぱら捲り、まずは十五冊を玄関の小さな机の上に置いた。それから夕方までかけて二冊分くらいの空きを作った。結局玄関では二十二冊の本が売られるのを待つことになったが、部屋の様子が変わったようには見えなかった。
 私は小さなギャラリーを二つもっている。一つは立体、もう一つは平面。今はどちらも、私が今までに集めた作品と家に置ききれない画集があるばかりで長いあいだ、一年以上誰の展示会も開かれていない。

 夜になって、ヌマキさんから電話があった。
「体調はどう?」
「ずいぶんよくなりました、ありがとうございます」
「そう、良かった。それで、今くるくるにいるんだけど、何か持って行こうか?」
「いえ、そんな、悪いですよ、私が行きます」
「遠慮しなくていいのに、ヒキタくんが特製弁当つくってくれるらしいよ」遠くの方からヒキタさんの、つくるよーという声が聞こえた。
「じゃあ、お願いします。ありがとうございます、メールで住所送ります」
「ううん、待っててねー」
 そこら中に散らばった画集をとりあえず角の方に積み上げて掃除機をかけた。メールを送ってから手持ち無沙汰になり、外で待つことにした。薄いカーディガンを羽織って、ロビーのベンチに座った。それから十五分くらいして、ヌマキさんが来た。私を見ると小さく手を振って、こばしりでロビーへ入って来た。お待たせ。
 ヌマキさんは部屋に入ると、本屋できるよ、と言いながら本棚を見て回った。私は冷たいお茶とお弁当を窓辺の机において、そんなヌマキさんを見ていた。
 しばらくして、ごめんね、いきなり来てあちこち見て回って、と言って窓辺の椅子に腰掛けた。
「大丈夫ですよ、目がきらきらしてました」
「うん、多分してた、ほんとに本屋できるよ」ヌマキさんは笑いながら言った。いつもより早口になっていることが、私を嬉しくさせた。
 私たちはヒキタさんの特製弁当を食べながら、ぽつぽつと話をした。お弁当は、メインの炒め物と手の込んだ副菜三品が入ったもので、一口でヒキタさんのつくったものだと分かる独特な美味しい料理だった。
「それで、体調を崩してしまって、今はどっちも開けてないんです」
「そうなんだ、今度、近いうちに、見にいってもいい?」ヌマキさんはいつも、はっきりと願望を口にだす。
「いいですよ」
「ありがとう、ごめんね、急に押しかけて、頼み事もしちゃって」
「ううん、助かってます、楽しいですし、ヌマキさんに興味を持ってもらえるのは嬉しいです」
 お弁当を食べ終わってから二人で画集を読んだ。よほど本そのものが好きなのだろう、『渠』で買ったのではない画集の装丁や製本に逐一反応していた。
 日が変わる少し前まで私たちは話し込んだ。
「ヌマキさん、ここから近くですか?」
「家?歩いて三十分くらいかな」
「今日泊まっていきませんか?それで、明日の朝、ギャラリー見に行きませんか?」
「そうする」ヌマキさんはおもちゃを買ってもらった子どもみたいにはしゃいで言った。
 彼女の淹れたコーヒーを飲んでから、近くに歯ブラシや替えの下着を買いに出た。学生の頃以来で楽しい、とヌマキさんは言った。私もです、と言って、二人で公園に寄って煙草を吸った。彼女は今日は14を吸っている。焼き菓子みたいに甘い匂いがする。それぞれ一本、交換して一本、吸い終わって砂に動物の絵を書いてから家へ帰った。
 お互いシャワーを浴び、ヌマキさんが買ったミニボトルの白ワインを飲んだ。寸前まで笑いながら同じベッドで眠った。

 目覚めるとヌマキさんの姿はなかったが、キッチンの方から音が聞こえた。私は誰かと同じ布団で寝て久々に、というかほとんど初めてぐっすり眠り込んでいたみたいだ。
 私はそのまま、顎の下まで包まったまま、天井を眺めた。イチゾーとニゾーの大きさは変わっていなかった。おそらく気のせいだろうが柔和な顔つきになっているように見えた。元々それほど険しい顔つきではなかったけれど、一ミリ以下、口角のつくりが変わっている気がした。
 枕元の時計をはめて寝室から出た。ヌマキさんは集中して何かをつくっていたようで、おはようございます、と声をかけると、わ、と叫んで手に持っていた桃を投げた。わ、と同時に彼女の頭から桃が現れて、それが下手な合成のように歪で懐かしいような気持ちになった。
「おはよう、びっくりしちゃった」床に落ちた桃を拾い上げ、私を見て笑いながら言った。
「すみません」
「朝ごはん、楽しみにしてて」
「ありがとうございます」
 私は歯を磨いてから顔を洗った。鏡には少し浮腫んではいるが、いつも通りの私の顔が写っている。昨日の朝に鏡に写っていた私よりも若く見えた。
 部屋に戻ると、窓辺の机の上に朝食が並べられていた。冷たいコーンポタージュと舞茸とアスパラガスのパスタ、桃の上に砕いたナッツがかかったデザート。ヌマキさんは私を、すこし上目遣いで見ていた。誇らしげで、ちょっぴり恥ずかしそうだった。
「美味しそう、これ、食べていいんですか」向かいの席に座りながら、呆けた質問をした。
「もちろん、食べて食べて」
「ありがとう、いただきます」
 ヌマキさんの淹れるコーヒーと変わらない、必要な手間を惜しみなくかけた料理だった。一口食べるとすぐに次の一口が食べたくなる味付けで、それでも薄いわけではない。彼女は細かなラインをいくつも設定し、それがどれだけ細かな間隔でも正確に、意図した値まで到達することに長けているように思う。どれも全く過剰でない。私がつくったポタージュも、彼女の手を過ぎると別段の味わいだった。
「美味しいです」フォークで桃を切りながら言った。
「やった、嬉しいな」
 彼女はいつも言葉と表情がぴったりと合っていて、見ている私は気持ちがいい。
「早くに目が覚めたんですか?」
「ううん、七時過ぎくらいかな、そんなに早くは起きてない」
 私が食器を洗っている間に彼女は身支度を整えた。私も着替えを済ませ、地下に降りて車に乗った。

 車で十分くらいのところに『NUE』がある。平面作品を扱う方のギャラリーだ。近くに車を停め、久々にシャッターを開けた。二階建ての小さな建物で、私はここを叔母から安く買った。叔母は二年前に、何度聞いても覚えられない名前の病気に罹って死んだ。彼女は新しい展示があるたびに季節の花を一輪持って来た。真ん中にある台座に乗った花瓶の中にも埃が積もっていた。
「掃除だけでも来るべきでしたね、でも、まあ、こんな感じです」
「今から掃除しようよ、軽く」
 ヌマキさんは部屋を見渡しながら微笑んでいた。私は無意識に、ここの二階で、『渠』の本やコーヒーを出せないかな、と考えていた。
 床と壁を掃き、水拭きと軽い乾拭きを済ませると、それだけでずいぶん綺麗になった。私たちはうっすら汗ばんでいた。台座も同じようにして、花瓶は洗った。花を買ってくれば良かった。
「階段と二階は、近いうちにしておきます」
「また始めるの?」
「そんな気がします。それで、さっき勝手に考えてたんですけど、もし再開したら、ここにヌマキさんのところの本とコーヒーを置かせてもらえませんか?」
「もちろん、実は私も、勝手だけどそんなこと考えてた」
 悪戯を始める前の抑えられないにやけた顔で私たちは話していた。多分。
 シャッターを閉め、車に乗り込んで『uzo』へ向かった。最後の展示会以来そのままになっているはずで、私はここの掃除は一人でしようと決めた。もう昼前で、そろそろヌマキさんを送らなくてはいけない。
「もう一つも近いの?」
「はい、五分もかからないです」
『uzo』は一階建で、奥に向けてワンピースみたいに広がっている。今では無名に近い二人の建築家が設計した。
 近くにあった駐車場が広くなっていた。ゲートのあたりに停め、車を降りた。ヌマキさんは朝からずっと笑顔でいるようで、つられた私もずっと笑っていた気がする。
 シャッターを開けると、不思議と『NUE』ほど汚れていなかった。奥の一番広がった部分は吹き抜けになっていて、まだ朝の柔らかい光がそこを照らしていた。細かな埃が輝き漂っている。その光の柱の中では生き物にすら見えた。
「ここの掃除は、明日にでもします、そろそろ送っていきますよ」
「細かなところ以外は一緒に、今しちゃおうよ」
 楽しそうな彼女を見ていると断れなかった。ここは一人で掃除しようと決めていたときの私ですら、こうなるだろうと、面倒さからではなく期待していたのかもしれない。
『NUE』の時よりもかなり早く、一通りの掃除を終えた。ここにも花瓶がある。二週間ずつ交代で展示をしていたときは一日と十五日に必ず訪れる叔母と、近くで食事をしながら話をした。彼女は一族の中で唯一自分に似ている私を小さい頃から何かと可愛がってくれた。私も叔母に懐いてあちこちを二人で旅行したり、家族の誰かの愚痴を言い合ったりしていた。思えば、叔母が亡くなってから私の体調は安定しなくなったような気さえする。彼女は私が生きているあいだに必要なものをたくさんくれた。

 ヌマキさんを送ってから車を戻し、歩いて『くるくる』へ行った。ヒキタさんは昨日と同じ席で本を読みながらサラダを食べていた。
「こんにちは、お店開いてますか?」
「開いてるよ」ヒキタさんは口の中のものを慌てて飲み込んで言った。
「昨日、お弁当ごちそうさまでした」
「なんてことないよ、美味しかったでしょ?」
「美味しかったです、だから今日、同じものを食べたいなって、来ました」
「任せて」得意そうな顔をして立ち上がったヒキタさんは、サラダの入った小さなボウルを置いたままキッチンへ行った。
 ボウルを端に寄せ、彼が座っていた場所に座った。車の後ろに積んであったままの玉井雄二の画集を読んで料理を待った。
「味付けも具材も同じ?それとも味付けが同じ感じで具材は別のにする?」鎖骨から上だけ見えるヒキタさんがよく通る声で言った。
「じゃあ、味付けが同じで具材は別のでお願いします」私は立ち上がって言った。
 ヒキタさんは親指と人差し指で輪っかを作って私に見せた。座り直して空をみると細かい雲が散らばっていた。
 ナスと薄く切った厚揚げの炒め物、シラントロと玉ねぎの和え物、アスパラガスに胡椒を混ぜたクリームチーズがかかったもの、挽肉で包んだルッコラのフライを食べた。ヒキタさんもヌマキさんも、ただ料理が上手い、美味しい料理が作れるというところから離れている。その人以外では食べたことがないのに、初めから知っているみたいに馴染みやすい味付けは、どこからくるのだろう。彼女たちの料理は優れた彫像と同じようなざわめきを胸に起こす。両極の間を高速で移動する金属の玉が思い浮かぶ。あまりに高速で動いているので、私たちの目にはほとんど真ん中にあるように見える。
 ヒキタさんは向かいのソファに座って本の続きを読んでいる。昨日とは多分違うポテトチップを箸で食べている。ポテチ食べる?と聞かれたが、首を降ってマンゴージュースを一口飲んだ。
 私が帰る頃に、三人ずつくらいのグループが二組、奥のテーブル席へ座った。振り返ると、彼らはソファに座ってのんびりしていたヒキタさんを店の人だとは思っていなかったようで、注文をとる彼を訝しげに見ていた。

 そのまま電車に乗って山へ行った。何度もきているところで、登ったり登らずに何時間も眺めたり、登頂はしなかったり、好きに気持ちよく付き合っていた。標高四百メートルくらいの山で、くねくねと穏やかだが長い道が続いている。東西に山道の入り口があり、どちらから登ってもあまり変わらない時間で登りきれる。東口からの中腹には青い屋根の四阿、西口からの中腹には緑の屋根の四阿がある。同じ造りで、屋根の色だけが違う。屋根の尖った部分は丸く切り取られ、真下のベンチに同じ形の光の溜まりができる。
 私は電車に乗っているあいだ、登る登らない、と頭の中で唱え続けていた。最寄りの駅に着いたとき、登らない、と唱え終わった。山の東南東に古い喫茶店があり、私は山に登らないときには、そこで日が暮れるまで過ごすことが多かった。
 喫茶店は登山客や地元の人で相変わらず賑わっていた。窓際の席に座って57を吸った。店主は、お久しぶり、と声をかけてくれた。ここの窓は、山を額装するつもりで拵えたんだと以前教わった。それを聞いた後で、私はこの店をより親しく思った。ここからぼんやりと山を見ていると、動く絵画を見ているような気になっていたから。
「お久しぶりです、変わらず賑やかで嬉しいです」
 ここの小ぶりなエスプレッソマシンから作るカフェラテが57とよく合う。シナモンのような香りがする。店主も『渠』で煙草を買っていて、彼は2を吸っていた。おそらく最も人を選ぶ煙草で、私は吸えないが、乾いた原っぱのような匂いは好きだった。
 日が落ちてからは私と店主しか残っていなかった。
「最近、お店は開けてないみたいだね」
「ええ、ちょっと体を壊してしまって、でも近いうちにまた始めようと思っています」
「そうかそうか、それじゃあ、また行かせてもらうよ、レジの前も空けてあるよ」白い口髭が、彼が話すたびに懐かしい陰影をつくった。
「ありがとうございます」
 持ち帰りでカフェラテを頼み、輪郭のぼやけた山を見ながら待った。喫茶店の名前は『くぬぎ』だ。

 次の日は早くに目を覚まして『NUE』と『uzo』の細かな掃除と整理を昼過ぎまでした。床を軽くワックスがけし、壁を丁寧に塗り直した。『uzo』の奥の部分が四阿の造りに似ていることに気がついて、近くの古道具屋にあった背もたれのないベンチを置いた。馴染み深い山の匂いが立ち上がる。そういえば以前にも同じようなことを思い、四阿とここの建築家が一致しているのかどうか調べたことを思い出した。どう調べても四阿については何一つ分からなかったから、類似の感触すら忘れていた。
『NUE』に戻って、二階を片付けた。家から溢れ出た画集と収集していた平面の作品でほとんど埋め尽くされている。まずは私が今まで集めてきたものの展示から再開しようと思った。いくつか見繕ってから、物足りなさを感じていることに気が付いた。
 これまでに『NUE』と『uzo』で二回ずつ個展を開いたナバタくんに電話をかけた。十コール待って、さっきまで聞こえていたみたいな声が聞こえた。
「お久しぶりですね」
「久しぶり」
「体調はいかがですか?」
「もう良くなった、ナバタくんは、調子はどう?」
「そうですか。僕は変わらずですよ」
「なら良かった。それで、再来月の初めから『NUE』を開けるつもりなんだけど、ナバタくんの新しい作品を見せて欲しくて電話しました」無意識に具体的な日取りが口を出たことに驚いた。
「分かりました、それじゃあ、来週の木曜日はどうですか?」
「ありがとう、その日で、お願いします」
「じゃあ、用意しておきます、それでは」
「ええ、よろしくお願いします」

 日が落ちる前に『くるくる』へ行った。めずらしく混みあっていたが、いつもの席は空いていた。ヒキタさんは私に気がつくと、やあ、と声は出さずに口を開けて手を振った。何人かの客が私の方をちらりと見た。
 外のソファ席に座ると、足元に電源の入っていない小さなストーブが置いてあった。そろそろ季節が変わる。暑い時期が短かったぶん、早くに寒い時期が訪れるのは、当たり前といえば当たり前なのだろうが、単純でおかしい。
「やあ。何食べる?」
「こんばんは、忙しいみたいだけど、昨日と同じのが食べたいです、味付けが一緒で具材が違うの」
「いつもより人が多いだけで、忙しくはないよ。じゃあ待っててね、つくってきまーす」
 確かにヒキタさんはいつもと全く変わらない早さで動いていた。客はそんな彼の雰囲気や気配を感じ取って、混みあった店で待つことは当然のことなのだと感じ、むしろ落ち着いているように見える。

 私が食事を食べ終えるまでに、他の客たちは帰って行った。ヒキタさんは首を回して鳴らしながら、隣のソファ席で、流れてくる香りからすると、23を吸っていた。何故か疲れているようには見えなかった。そっち、行っていいかな?と彼は、煙草を消しながら言った。
「いいですよ」
 ヒキタさんは向かいで頭とふくらはぎをそれぞれの肘掛に乗せて寝転がった。
「コーヒーでも飲む?」しばらくそれぞれの時間を過ごしたあと、彼は言った。
「このあと、渠へ行くので、何か別のでもいいですか?」
「もちろん、何にする?」
「桃のジュースで、お願いします」
「はーい」
『渠』へ通い始め、その途中にあるここにも来るようになって、その始めの方には彼は、陽気でふわっとした人なのだろうと考えていた。でも、そうではなく多分、陽気でも陰気でもなく、ふわっとしているのでもずしっとしているのでもなく、何があってもなくても何処ででもただフラットなんじゃないかと、最近では思い始めている。
 彼はグラスを二つ持って戻って来た。
「俺も飲んだら一緒に行っていいかな?」
「そんな、もちろんですよ。一緒に行きましょう」
 飲み終わってからヒキタさんは、ちょっと待ってて、とキッチンへ入っていった。十分もしないうちに、これ夜食か何かにどうぞ、と言って小さな紙袋を私にくれた。
「ありがとうございます」
「こっちはヌマキさんの分」もう一つの紙袋を顔の高さまで持ち上げて言った。

 ヌマキさんはカウンターの中で椅子に座ってコーヒーを飲んでいた。
「これ、こないだと同じのだけど」
「サンドイッチ?ありがとう、帰って食べるね」
 ヒキタさんは、いえいえ、と言いながら既に本棚を見始めていた。
「再来月の頭から、再開することにしました。まずは平面の方から」
「良かった、DMは作るの?」
「はい、そのつもりです」
「じゃあ出来上がったらちょうだい、ここに置くから」ヌマキさんはカウンターを撫でながら言った。
「ありがとうございます」
「うちにも置きなよ」本棚を見たままのヒキタさんが言った。
「助かります、ありがとうございます」
「二人ともコーヒー飲む?」
「お願いします」
「いただきます」
 三人でコーヒーを飲みながらそれぞれ煙草を吸っていると、幼い頃からの友人であるような気がしてくる。私がそんなふうなことを言うと二人は笑って、ほんとにね、とヌマキさんが言った。

 朝早くに目を覚まし、山の四阿へ行った。一年三ヶ月ぶりに山に登った。予想していたよりもずっと楽に登れたが、毎週末登っていた時期に比べると当然衰えていた。四阿までは三十分程度で着いていたが、一時間近くかかってしまった。
 私はベンチの真ん中に座って、丸い穴から落ちてくる光にすっぽり包まれた。屋根から外れて全身に光を浴びているよりも何故か暖かい。ギャラリーも併せて働いていたとき、私は毎週末ここにきて一時間から二時間、何もせずに過ごした。雨の日も雨合羽を被ってそうしていた。登頂しても特に素晴らしい景色が広がっているわけではない山だが、四阿のあたりの心地好さは格別だった。
 日が暮れる前に山を下りた。『くぬぎ』に着く頃には辺りは暗くなっていて、少しだけ雨の匂いがした。もうこの時間には客はほとんどいない。それでもこの店は日が変わる直前まで開いていて、私も一度だけ遅くにここへ来たことがある。こういった店が遅くまで開いているということだけで私は癒される。その時の客は、ほとんどパジャマみたいな格好の老人と長距離ドライバーらしき二人組と私たちだけだった。
『くぬぎ』の扉は、そうであって欲しいと願っていた椚でできていて、店主が原木から切り出してつくったらしい。私はこの扉の手触りが好きで、後ろに誰もいないのを見計らって、店に入る前に長いあいだ撫でていることがある。
 持ち帰りで温かいカフェラテを頼み、カウンターの席に座って待った。
「再来月、お店を開けようと思っています」カップを受け取って言った。
「それはいい、必ず見に行くよ」
「お待ちしてます」

 木曜日の朝は雨が降っていた。『くるくる』でナバタくんへの差し入れを買い、『渠』に寄って大きなタンブラーにコーヒーを入れてもらった。
 ナバタくんのアトリエは、以前は近くの商店が倉庫として使っていた建物で、大きくはないが仕切りがないぶん広いスペースが確保されている。私はもう何度もそこへ訪れているが、何度行ってもそわそわしてしまう。彼の作品が好きで、それらが生み出される場所であるから仕方がない気もするが、そうではなく単純に心躍っているような気もしている。

 倉庫の前のスペースには車が二台停まっていた。私はその間に車を停め、そっとドアを開けた。インターホンはなく、来客は事務的な小さい扉から入ってナバタくんを探す。彼は一階の隅の方の床に座って絵の具を混ぜていた。
「お邪魔します」
「ああ、お久しぶりです、ちょっと待っててくださいね、あとこの色だけ、塗ったら終わりだから」
 彼の前の壁には五十号くらいのキャンバスがかけられていた。二人の人物が向かい合っていて、右側の人が左側の人に何かを手渡しているような格好で、今までとは違って全体的に明るい色が多くなっていた。
 そばにあった椅子に座って彼を待った。透明で薄い、下敷きみたいなものを遠くから絵に重ね、その上に細い筆で色を足していった。それから色を調整し、同じ動きを繰り返した。何度か頷いたあと、キャンバスに向かい実際に筆を重ねた。
 私の視線の位置が正確に分かっていたのだろうか、振り向いたナバタくんとの目の合い方が不思議だった。彼は私に笑いかけた。
「お待たせしました、できました」
「最近はこういう色使いなの?」
「どうだろう、いくつかごとに、こうなってる気がしますね」
「そっか。これ、差し入れ、食べられそうなら食べてみて」
「ありがとうございます。なんでも食べれますよ僕、嬉しいな、あ、コーヒー淹れますね」
「コーヒーも持って来たよ」
「じゃあコップ持って来ます、最近手伝ってもらってる人が来てるんですけど、その人にもコーヒー、いいですか?」
「もちろん、私は残ったらでいいから、その人とナバタくんで分けて」
 ナバタくんは小走りで二階へ行き、側面がごつごつしたままの木のトレイに小さなカップを三つ乗せて戻って来た。彼は側の台にトレイを置いた。私は奥の二つにコーヒーを注ぎ、それから手前のカップに残りを注いだ。おーい、たにもとー、とナバタくんが叫んですぐに、はーいと声が聞こえた。勝手に男の助手を予想していたがそうではなく、やはりよく見ているというか、大学の頃の後輩の女の子で、なかなか有望なんですよ、とナバタくんは言った。
「ああ、こんにちは、タニモトです。ギャラリー、の方ですよね?」
「初めまして、ええ、そうです。再来月からまた開けようと思って、ナバタくんの絵を見に来たんです。タニモトさんは絵を描くの?立体?」
「私は立体です、今も奥でナバタくんの次の立体作品の粗彫りをしてました」
「なるほど。あ、良ければタニモトさんの作品も見せてもらえないかな?」
「二階にある半身のを見てもらえばいいんじゃない?」
「あれ、大丈夫ですかね?」
「僕はいいと思うけど」
「じゃあ、あとで、お願いします」
「ありがとう」
「ついでに昼休憩にしようか、タニモト、今日お弁当持って来てる?」
「はい、持って来てます、車にあるんで取ってきます」タニモトさんは短距離走みたいな速さで見えないところまで行った。
「さっき、あれ大丈夫ですかねって言ってたけど、未完成なの?」
「いや、そうじゃないんですけど彼女、自分の作品に対しては過度に疑り深いというか、あまり確信がないみたいなんですよ。最近、グループ展とか出展数の少ない展示では彼女に選んでもらってるんですけどね」
「ナバタくんが彼女の目を信じてるのなら間違いないんだろうね」
「そんなことないですけど、いいと思いますよ、少なくとも上の、二階にある半身像、僕は好きですね」
 タニモトさんは巾着を乗せたタイヤ付きの机を押して戻ってきた。彼女はそれを私とナバタくんの間まで押して、これ机に使ってください、と言った。

「タニモトさんの立体はどれくらいの大きさ?木彫?」ヒキタさんのサンドイッチを一口食べて言った。今日は燻製のベーコンと炒り卵で、味付けは胡椒の効いたサワークリーム。
「木彫です。大きさは、だいたい三十センチから一メートルくらいです。最近は十五センチくらいのしか作ってないですけど」
「二階にあるのは?」
「一メートルくらいです」
「そう、ありがとう。そういえば、ナバタくんの最近の作品ってまとめてある?」
「ざっとまとめておきましたよ、これ美味いですね。コーヒーも」
「良かった、ここから車で三十分くらいだから、何か機会があれば寄ってみて。サンドイッチは『くるくる』、コーヒーは『渠』っていうお店の、『渠』は本屋さんだけどね」「どっちも遅くまで開いてるしいいと思う」
「タニモト、明日の夜にでも行ってみようか」
「行きたいです」

 食べ終わってから二階に上がった。一階はものが広がっているが、二階ではものが積み上げられている。高い天井が近く見えてくるほどだ。私は、先にタニモトさんの彫像を見たい、と言った。彼女の作品は二階の隅の方にあり、厚い麻布で覆われていた。私が像から一・五メートルくらいのところに立ち、お願いします、と言うと、彼女は一瞬躊躇したあと、わりに勢いよく布を取り去った。
 顔の部分が捻れた、がっしりとした体格の像だった。へその辺りまでの半身で手も彫られている。襟のついたシャツを着ている。胸ポケットからは緑で彩色された腕時計がぶら下がっている。私は一目で気に入った。顔の部分は岩絵具をそのまま擦りつけたような粒の細かな淡いコントラスを持った黒色、パーツさえ定かではないほど捻れた顔からでも表情が窺える。
「タニモトさん、再来月のの半ば、十五日から、この像を貸してもらえないかな?展示したいです」
「え、むしろいいんですか?無名ですよ私」
「彼女が言うなら大丈夫だよ、僕も初めて『NUE』で展示してから他のギャラリーにも声をかけてもらえるようになったんだよ」
「でも」
「嫌でないのなら、お願いしたいです。それに、他の作品も見てみたい」
「もちろん、嫌なんかじゃないです、びっくりしちゃって、その、ほんとにいいんですか?」
「ええ、お願いします」
「ありがとうございます、それじゃあ、よろしくお願いします」
 タニモトさんの目は終始、私とナバタくんとを交互に見ていた。ナバタくんは本人以上に嬉しそうに、彼女の背中を優しく叩いていた。
 それからナバタくんの作品を見た。私が休んでいる間も、当然、彼は作り続けていて、相当数知らない作品が増えていた。私は時間をかけて一つずつ見ていった。
「ずいぶん作ったのね」
「そうですね、しばらく没頭してましたね」
 数百枚あった絵から二十枚、二十体あった像から三体ピックアップし、さらに時間をかけて見直した。彼の絵はいつも私に、無音の海辺にある無機質で精巧な建築物を思い起こさせる。その、もの哀しさと妙なあたたかさが私を惹きつける。あるものを見て初めて揺れ起きた部分で、物事を改めて知覚するのに似ている。少し前に描いていた新しい絵は、そこに音が加わったもののような気がする。最終的に七枚の絵と一体の木彫を選んで残した。そのうち三枚と一体を買い取り、四枚を借りた。
 それから一階に降りて残っていたコーヒーを飲んだ。ナバタくんはこの後も遅くまで制作を続けると言った。
 日が暮れてしばらくして、私は彼らに、それじゃあまた、今日はありがとう、と言った。彼らは外まで私を見送り、車の前で短い別れの立ち話をした。

 私が見えなくなるまで、バックミラーの彼らは手を振っていた。十分ほど走っていると疲れを感じ、広い道路の端に車を停めた。しばらく目を閉じて、何も考えずにこめかみを揉んだ。
 十五分ほど経ってからある程度気力が戻り、帰路へついた。力み過ぎず、まずは最低限のことをこなしていこうと考えた。前を走る微妙に蛇行している車が急ブレーキをかけたが、その少し前に急ブレーキがかかることが何故か分かっていた。車間距離を空けていたおかげで避けることができ、サイドミラーが擦れる寸前のところを走り抜けた。
 家に帰るとすぐに、鞄とナバタくんの作品を窓際の机に置いて、ベッドに倒れ込んだ。イチゾーとニゾーに目をやると、にっこり笑った気がしたが、気味が悪いと思うより早く、『uzo』のベンチの真ん中に置こう、と考えついた。それから転がるように眠りに落ちた。

 何年振りかの昼過ぎの目覚めは、特に心地よくもなく、後悔もなかった。服を洗濯機に放り込んでから熱いシャワーを浴びた。
 鞄の中身や作品を整理し、薄いTシャツに厚い紺のカーディガンを羽織って外へ出た。ぼうっとするくらいの空腹を感じていた。
『くるくる』へ行くと、ヌマキさんが外のソファに座って煙草を吸っていた。私に気がつくと手を振って、ここ座りなよ、と言った。私は彼女の向かいに座り、煙草に火を点けた。
「あれ、二人になってる」ベリージュースを持ったヒキタさんが言った。
「こんにちは。注文してもいいですか?」
「なんなりと」
「おまかせのプレートとマンゴージュースをお願いします」
「オッケー、ジュースは先?後?」
「先でお願いします」
「はーい、じゃあ待っててね」
 キッチンへ体を向けたヒキタさんは、くるっとこちらに向き直り、忘れてた、と言ってベリージュースをヌマキさんの前に置いた。
「私も、見てたのに忘れてた」ヌマキさんは笑って言った。
 料理が来るまで私たちは、ギャラリーのことや『くぬぎ』のカフェラテの美味しさについて話しをした。彼女は、展示が始まるまでにコーヒーの淹れ方を教えてあげる、と言った。
 私は以前、長く付き合っていた人から、私はあなたが一人でいたいのか私といたいのか分からない、と言われたことがあった。ヌマキさんにコーヒーの淹れ方を教えてあげる、と言われてふとそのことを思い出した。長く同じ時を過ごしたのに、どうしてそんなくだらないことを言うのだろうと別れて数ヶ月のうち考えては分からなくなり、分からなくなったからこそまた考えた。私は彼女が、一人では抱えきれない何かを解消する為だけに利用されているのではないか、と感じていたのかもしれないという考えに至るまでに半年もかかってしまった。ということは、やはりそういうことなんだろう。

 ヌマキさんとは『くるくる』で別れた。私は『NUE』と『uzo』へ行き、展示のレイアウト案をいくつか書き起こした。『NUE』はナバタくんの絵のおかげで、何とか成立するだろうと見通しを立てられたが、『uzo』は作品数が少なく、まだ目にしていないタニモトさんの作品込みの青写真になった。
 鞄にそのまま入れていたイチゾーとニゾーをベンチの真ん中に並べて置いた。光の溜まりで彼らは、家で目にする時のような揺れ動く不気味さを感じさせず、単なる優れた彫像であるように見えた。位置を調整し、その度に少しずつ後ろ歩きで遠ざかって確認した。最も美しく見える地点の壁に目印を付けた。ここに昨日見た、タニモトさんの半身像を置こうと考えた。それから夕方近くまでギャラリーを行き来しながら作業を繰り返した。

 家に帰って一時間ほど仮眠を取ってから『渠』へ行った。ヌマキさんは煙草を吸いながら大判の画集を見ていた。筒井修也という夭折した画家で、絵画がその力を最大限に発揮する大きさは三メートル×五メートルで、それ以下でもそれ以上でもない、と言い、そのサイズ以外の絵は一作たりとも残さなかった。私は彼の作品を一枚だけ持っている。知人のギャラリーで見かけ、会期中通い詰めた末に買った。
「疲れてるみたいね、あれからずっと仕事してたの?」
「夕方で終わって、さっきまで仮眠してました、だから多分、寝起きの顔です」
「ああ、そうなんだ」「じゃあちょっと、濃いめのコーヒーを淹れてあげよう」ヌマキさんは配属されたばかりの部署の上司みたいに笑って言った。
 私はヌマキさんともっと、五年も通っているのだから、親しくなれたのではないかと考えることがある。これから先その機会がないわけではないだろうが、それでも。別の私であれば、五年もかければ今頃は無二の親友にでもなっていたのではないか。私からすれば、あらゆる意味で他には無い存在なのだけど、それはヒキタさんもナバタくんも『くぬぎ』の店主もそうで、問題は彼女らから見た私の存在位置であり、私はどうしても勿体無い思いを捨て切れない。
 布で淹れた濃いコーヒーを飲んだ。ヌマキさんも飲んでいる。彼女は何かを飲むときいつも目を閉じている。
「それで、ギャラリーは順調に再始動できそう?」
「そうですね、おそらく、あとは立体作品の数が集まれば問題ない、と思います」
「そっか、それなら大丈夫そうね」「そういえば、立体ではないんだけど、ヒキタくんの絵、見たことある?」
「ないです、というか知らなかった、ヒキタさん、絵描いてるんですか?」
「私も最近知った、くるくるの、キッチンから正面を見た方の壁に大きな絵がかかっててね、妙に目をひくなと思ってヒキタくんに聞いたら、一昨日描いたんですよって」
「意外というかヒキタさんらしいというか、明日見てみます」
「ね、結構大きな絵だったよ」
「楽しみです」
 コーヒーを飲み終わってから煙草を二本吸った。私が、じゃあそろそろ帰ります、と言うと、今日泊まりに行ってもいい?とヌマキさんは言った。
「もちろんいいですよ、何かあったんですか?」
「やった、ありがとう。ううん、何かあった訳じゃないんだけど、この前が楽しかったから、迷惑じゃなければでいいんだけど」
「迷惑じゃないです、私も楽しかったですから、なんなら三日でも一週間でも、一ヶ月でも泊まっていってください」
「じゃあ、そうしちゃおうかな」大きな声で笑ってからヌマキさんは言った。私はヌマキさんが笑ったところばかり書いているようだ。
『渠』を閉める手伝いをして、煙草を吸いながら家へ帰った。途中で必要なものを買い、これはもう置いていってもいい?、いいですよ、と笑いあった。

 夜中に目を覚ました。ヌマキさんは左肩を下に、右手の親指の付け根を唇に当てて眠っていた。普段は眠る姿を決して見せない小動物を見ているようで、緊張感があった。私は彼女を起こさないように抜け出し、キッチンで冷えたお茶を飲んだ。しばらく窓際に立って海の方を眺めた。ヒキタさんの描く絵を想像してみたが、くっきりとしたイメージは湧かなかった。なぜかやたらめったら色を重ねている姿が思い浮かんだだけだ。
 寝室に戻ると、ヌマキさんは同じ姿のまま眠っていた。夕暮れの中の巨大な建築物の影みたいな滑らかさで布団に潜り込んだ。目を閉じると意外にもすぐに眠った。

 前と同じように、ヌマキさんの姿はなく、キッチンからの音が聞こえた。しばらくその音に耳を澄ましていると、様子を見に来たヌマキさんと目が合った。
「ごめん、起こしちゃった?」
「少し前に起きてましたよ、ちょっとぼんやりしてました」
「それなら良かった、オープンサンド作ったから、朝食に食べよう」叱られていないことが分かった子どもみたいに、と書いて、私は彼女の表情を思い返すとき、なぜかいつも、名も知らぬ子どもを思い浮かべてしまうことに気がついた。
「ありがとうございます」
 ヌマキさんは返事を聞くとキッチンへ戻り、途切れ途切れに口笛を吹いた。私は布団を整頓してから歯を磨きに洗面所へ行った。鏡を見ると私は知らないうちに淡く笑っていたようで、他人事みたいに、いいじゃん、と思い意識的に笑顔になってみた。

 オープンサンドを食べて彼女を店まで送ったあと、『くるくる』へ絵を見に行った。いつもの席に座って洋梨のジュースを頼んだ。
 壁にかかっている絵は一〇〇号くらいの大きさのキャンバスだった。淡い想像とは違い、白と黒で描かれた絵で、手前に数人の人物、奥には船らしきものがある。色をやたら重ねている想像と近い部分と言えば、グラデーションの異様な細かさだ。
 私は、それがどういった絵かというと言語化できないのだが、ある特定の絵を見ていると地面が波打ったように感じることがあった。まず初めに視界がサッカーボールくらいに縮んで揺れる。それから足元が、テレビで見る蟹漁の漁船みたいに揺れているように感じる。そういう絵はだいたい、その先ずっと折りに触れて見返すものになった。
 そしてその感覚は、ここ数年、恐らく三年ばかりは感じることがなかった。そんな中でも、いくつもの優れた作品や、生活の質を変えるような作品には出会っていたけれど、それでも私は、己の存在の圧倒的な不確かさを根源から揺さぶるようなあの感覚を懐かしんではいた。
 ヒキタさんの絵は私の足元を大きく揺さぶった。何度経験しても実際に地面が揺れているようにしか感じない。立ち眩みなんかと同じで、座ったり何かに掴まったりしてじっとしていればいいのだけど、今すぐにでも逃げ出したくなってしまう。まだ慣れていないころには何度か、大きな地震だと思って机の下に逃げ込んだことがあった。
 しばらくすると揺れは収まった。揺れる前と後では、まわりの景色が少し違って見える。微妙な色の差やものの形がくっきりとしている。いつからかいたヒキタさんは、大丈夫?と言っていた。もう大丈夫、と言ってソファ席へ戻った。
 冷たい水を持って来てくれたヒキタさんは、まだ心配していて、何か言わなくてはと考えてはいるが言葉が出ない。彼は向かいの席に座り、私の言葉を待った。聞き馴染みのない鳥の声が聞こえた気がしたが耳鳴りかもしれない。ふっと指先に、眠るヌマキさんの頬に触れた感触がしたが、私は触れていない。
 水を一息で飲んでから、静かに深呼吸を繰り返すと少しずつ言葉が戻って来た。
「心配かけて、ごめんなさい」
「ううん、大丈夫だよ」
「あの絵、ヒキタさんが描いたの」
「そうだよ、一昨日くらいかな、久々に絵描くかーって思ってさ」
「知らなかったです、もう何年も通ってるのに」
「いつもソファに座ってるもんね、でもそもそもそんなに飾ってないよ、持ってくるの面倒だし」
「絵、買わせてもらえないですか」
「そんな、買わなくていいよ、あげるよ」ヒキタさんは何気無く笑いながら言った。
「駄目ですよ、素晴らしい絵ですから、それ相応の対価がないと」
「そうかな?うーん、じゃあ、本と交換しようよ」
「他の絵も見せてもらいたいです、本当にいいんですか」
「じゃあ、明日からたまに絵を変えることにするよ、それほど多くないし」
「ありがとうございます」
「いいよ」

 私とヒキタさんは連れ立って『渠』へ行った。ヌマキさんは煙草を吸いながら、コーヒーを飲んでいた。ナバタくんがいて、彼もカウンター席で同じようにしていた。
「あ、どうも」
「二人、知り合いなんだ」
「前に私のところで何度か個展をしてくれたんです。もう四年くらいになるかな」
「そうですね、初めて個展開かせてもらったのが二十一だから、それくらいです」
「結構長い付き合いなんだ、紹介してくれたんだね、ありがとう」
「うちにも来てくれたよ、サンドイッチ食べてたっけ」
「差し入れで頂いたのが美味しかったんです」
「良かった」
「ヌマキさん、下の本、見て来ていいかな?」
「いいよ」
「ありがとう」
「ナバタくんは今きたところ?」
「いえ、もう帰ろうとしてました」
「そっか、また、近いうちに連絡します、タニモトさんの彫刻、見に行かせてもらうね」
「はい、待ってます」
 ヒキタさんが分厚い本を三冊、小さな木箱で上にあげたころ、ナバタくんはアトリエへ帰った。それからヒキタさんは鼻歌を歌いながら戻ってきた。
「コーヒー飲む?」
「飲みたいな」
「お願いします」
「このうちの一冊と交換しよう」
「本当にいいんですか?」
「むしろ、あげるのに、いいの?」
「はい、でもせめてその三冊全部でお願いします」
「高くなっちゃうじゃん」
「私のわがままですけど、一冊だと、考えてた値段と比べてあまりに安くてむずむずしちゃいます、それ全部でもまだまだ」
「じゃあ、言う通り、この三冊と交換しようか」
「はい。ありがとうございます。あとで、車で取りに行きます」
「いつでもいいよ」
 ヌマキさんはマグを私たちの前に置いて、何と何を交換するの?と言った。
「絵だよ、店にかけてた」
「ああ、あれ、ずいぶん気に入ったみたいね」
「はい、久々に、私、自分にとって本当に意味のある作品を見ると、地面が揺れたみたいになるんですけど、それがあって、どうしても欲しくなりました」
「あ、それで、具合悪そうにしてたんだ。でも、まあ、気に入ってくれたんなら良かった」

 絵を引き取ったあと、そのまま『NUE』へ行った。入り口から真正面の奥の壁にキャンバスをかけた。天井のレールについた照明を調節し、三十分かけて適切だと思える位置を見つけた。展示する予定だった作品を見直し、家にあるナバタくんの新しい絵も合わせてレイアウトを考えた。
 二階で熱いお茶を飲んでいるとiPhoneが鳴った。ヌマキさんからだった。彼女は、気を遣うのは無しで、本当に全く迷惑でなければ今日も泊まりに行かせてもらえないかな、と言った。
「もちろんいいですよ、迎えに行きます」 

 ナバタくんに電話をかけ、来週の水曜日にタニモトさんの作品を見に行くことになった。
 家に帰り、洗い物をしてから掃除機をかけた。いつもより多い洗い物を心地良く感じた。窓際の椅子に腰掛け、『NUE』で『渠』の本を並べる棚を作るため、あれこれと製図した。今日は海が見えない。
 日が落ちてからヌマキさんから電話があり、『くるくる』で落ち合うことにした。薄手の紺のシャツにグレーのカーディガンを羽織った。そろそろ初めの雪が降るころだが、涼しい日々が続いていた。扉を閉める前に部屋の中から誰かに呼ばれた。
 ヌマキさんはソファ席で火のついていない煙草をくわえたまま空を見上げていた。星はあまり見えない。私に気がつくと、手を振ってからマッチで火をつけた。
「お待たせしました」
「ううん、あのさ、今さらだけど、もちろん、私から言うことでもないけど、年上っていうので敬語なら、もう何年もそんな仲というか、何か壁があるような仲じゃないんだからさ、使わなくてもいいよ」
「ええっと、じゃあ、徐々にやめます。やめる」私はヌマキさんを見たりその奥のソファを見たりして言った。
「まあ無理にとは言わないけど、なんとなく、緩く、ね」
「はい、うん、ありがとう」ヌマキさんはずっと笑っている。
「揃ったね、ご注文は?」
「桃のジュースとオムライス」
「私も桃のジュースと、ハンバーグプレート、でお願いします」
「ジュースは先でいい?」
「うん」
「はい」
「オウケイ、じゃあちょっと待っててね」
 料理が来るまで、勉強し始めたばかりの言葉みたいに辿々しく、彼女と話す練習をした。私を一番に落ちつかなくさせたのは、ヌマキさんを、ミミコ、と呼ぶことだ。頬や首筋が熱くなるのを感じ、目線がうろうろする。
「DMはもう出来上がったの?」
「まだです、でもヒキタさんの絵を使おうと思ってるから、あとは作るだけ、です」

 ヒキタさんの絵はどれも私を揺さぶった。それでも彼は頑なに、分厚い本との交換にこだわっていた。夕方前に『くるくる』へ行き、『渠』で交換する本を探してコーヒーを飲み、三人で『くるくる』に戻って晩ご飯を食べる。それからミミコは私の家に泊まりに来る。目が覚めてミミコの料理を食べ、彼女を店に送ってから、ナバタくんのアトリエへ行ったり、山へ行ったり、ギャラリーへ行ったり、そんなふうな、以前と変わったような変わらないような日々を過ごした。
 数日前から、ちらほら雪が降り始めている。私は今のところ、ヒキタさんの絵を全て持っている。あとどれくらい彼の手元にあるのかは分からない。初めに交換した絵をDMに使おうと考えていたが、昨日交換した絵をプリントすることにした。八〇号のサイズで、池に浮かぶボートの上に二人の人物が立っていて、彼らはこちらを見ているように思える。ヒキタさんは白と黒の絵しか描かない。彼は、なんとなく、と答えたが、私はそうではない気がしていた。

 出来上がったDMを、知り合いのギャラリーや喫茶店、古道具屋やライブハウスへ配りに回った。久々に顔を見せた私を、みな心配してくれた。『くぬぎ』と『くるくる』と『渠』にはA2のポスターを貼ってもらった。あとは店を持っていない知人や友人へのメールを送れば、一通りの広告は終わりだ。一昨日から断続的にある鈍い耳鳴りが心配だが、何とかなるだろうとも思っていた。

 ミミコは窓辺の椅子に座って、少しずつ重さを増してきた雪を見ている。彼女は雪が降り始めるたびにそこに座ってぼんやりと時間を過ごしている。昔からそうであるみたいにしっくりと馴染んでいた。

 ベッドに寝転んで天井を眺めていると耳鳴りが鋭くなった。歯を食いしばり、きつく瞼を閉じた。深呼吸を繰り返した。
 徐々におさまっていく耳鳴りの中に何人かの声が聞こえたが、何を言っているのかは聞き取れない。枕元の机から煙草をとり、ライターで火をつけた。かなり深く吸い込んで息を止めた。視界が滲んでから息を吐いた。耳鳴りはもう小さく低く響いているだけだ。ミミコは私の右腕に額をつけて眠っている。彼女は寝付きも寝起きもスムーズで、それらが得意でない私はなぜか安心していた。煙草をくわえたまま、左手を伸ばしてミミコの頬に触れた。『くるくる』で感じたのと同じ感触が指先にある。そのまま額まで沿って、小さな犬を撫でるみたいに髪の毛を触った。多分、ミミコは私が頬に触れた時から起きている。そんな気がした。眠ってはいるが、起きていて、私が触れたことに気がついている。きっと。手を離して、灰皿に灰を落とした。私はヒキタさんが絵を描いているところを想像した。がらんとした部屋で、背もたれのない椅子に座って遠くから描きかけの絵を眺めている。何度か首を鳴らしながら、くわえ煙草のまま再びキャンバスに向かう。大小の刷毛を左の指に挟んで持ち、つど持ち替えて右手で絵を描き進める。垂れた絵の具や灰が混ざって、床は彼の絵のように精妙な色合いの白と黒で汚れている。私はその床板が欲しい。彼は短いが伸びた髪を刷毛が当たらないように撫でながら、そろそろ剃らないとな、と考えながらさらに色を重ねていく。想像すればするほど、その通りなんじゃないかと思い始めた。こんなふうに改めて書くと、まるで小説の中の登場人物の描写みたいで、彼、なんて書く勝手さに軽い眩暈を感じた。
 いつのまにか眠っていた私が目を覚ますと、めずらしくミミコがベッドにいた。仰向けになって彼女の体温を感じた。まだ目を閉じている私の頬を、私がしたように触れ、髪をくしゃくしゃと撫でた。おはよう、と言うと、起きてた、と返ってきた。

 タニモトさんの彫刻はどれも人型で、必ず一部が捻れていた。捻れた部分は像ごとに別の色が刷り込まれている。十体あるうちの二体を買い、二体を借りた。だいたい一メートルくらいの大きさで、一体だけが一メートルを超えていた。一七十センチくらいだと思う。左足が捻れ、青い岩絵の具が刷り込まれている。眼球はなく暗い眼窟には真鍮でできた箱が収まっている。
「配送は僕がしますよ、軽トラがあるんで、緩衝材と箱で梱包します」
「わざわざ大変でしょう、私の方でいつも頼んでいるところがあるから、大丈夫」
「いえ、何となくですけど、運びたいんですよ、折角だから、慣れてますから慎重に運びますよ」
「それは心配してないけれど、うん、じゃあ、お願いします」
 タニモトさんはずっと落ち着きなく私とナバタくんの表情を伺っていた。何か言うたびに細かく何度も頷いた。
 帰り道の途中、久々に海を見ようと思い立ち、進路を変えた。ここから海まで二十分もあれば着く。十二時を少し過ぎたばかりの街は、昨日の夜薄く積もった雪が溶けて濡れていた。空を見上げているよりも、たくさんある水溜りの反射が目を痛める。通りを歩く人の多くは薄手のダウンコートを着ている。遠くの方に雨雲が見えるが動きはない。何か音楽が聴きたかったが思い付かず、窓を開けた。冷え切った風が頬に吹きつける。街路樹は黒く濡れている。しぼんだ風船らしきものがぶら下がった木にはまだ葉が残っていた。風にゆらゆらと身を翻している。
 海は波を荒く、砂浜のずいぶん上の方まで伸びていた。ベンチに座って海を眺めた。私の家はここから見えるだろうか。自販機で買ったココアを飲んだ。粉っぽく甘すぎる。強い風に煽られた海鳥がふらふらと飛んでいた。夏にはここから海の向こうの山並みが見える。空気の調子によっては意外なほどくっきりと木々の姿が見える。私はそんなとき、何時間もここに座ってその景色を見ている。何となく種類が分かるからか、近くまで行って樹皮や葉を見た気になる。視界が飛んで、ベンチから見えている木々のそれらを見た気になる。私が見ているのは知っている木々の集積で、この世にはない木だ。波の音は葉が擦れる音に聞こえてくる。そっと上を見上げると海鳥の影が枝葉のまだらな影のように私の顔に重なる。 

 飲み終わった缶をゴミ箱に捨て、そのまま車に戻った。気がつかなかったが体は芯まで冷えていたようで、暖房の送風を受けると身震いした。厚手のパーカーのジップを首元まで上げ、車を発進した。
 駐車場に車を停め、階段を駆け足で上がった。家の扉の前には老婆が立っていた。手には何も握られていない。私が声をかける前に振り返り、軽く頭を下げた。私も会釈し、何でしょうか、と言った。老婆は何も言わず私を見つめていた。私はその場で立ち止まり、何でしょうか、と同じように言った。彼女は何も言わない。そのまま通り過ぎて素早く家に入ろうかと考えたが、その瞬間に話しかけられるような気がしてそのままでいた。老婆は口元だけ笑っている。目は何も語りかけてこないが、敵意や悪意のようなものは感じない。
「まいごなの、お母さんは、どこか行っちゃった、お母さんは?どこ?」突然泣き顔になった彼女は言った。
「どこではぐれたの?」老婆に近づいて肩に触れた。
「分かんない、おもちゃであそんでたら、お母さんいなくなっちゃった」彼女は涙を流しながら私の袖を掴んだ。
「とりあえず、入って、私がお母さん、探してあげるから」
「うん」
 彼女を窓辺の椅子に座らせ、近くの老人ホームや介護施設を調べた。電話をかけ、いなくなった入居者はいないかどうか訊ねた。彼女はまだ泣いている。最後にかけた山手にある介護施設で、彼女の服装や特徴を伝えると、今すぐ迎えに行きます、と慌てたようなほっとしたような声で若い男が言った。
「今、迷子になって、お母さんは?と泣いているので、私が送り届けますよ、ここから近いですから」
「いえ、決まりなので僕が迎えに行きます、いや、でも、確かに僕が今行ったら混乱するかもしれないですね。でも、うん、少し待っていただけますか、親族の方に連絡してみます」
「分かりました」
「ありがとうございます。後ほど、お電話させていただきます」
 私は彼女に、お母さん見つかったよ、と言った。
「ほんとに?お母さん見つかったの?」
「ほんとだよ、もうすぐ会えるよ」
 十分ほど経って電話が鳴った。
「お待たせしてしまってすみません、何度か電話をかけたのですが繋がらなくて、今女性の職員で手の空いてる者がおらず、申し訳ないですがヌマキさんを送っていただけると、助かります」
 ヌマキさん、と言うのを聞いて、低い耳鳴りが大きく鳴った。スガワラ、と名乗っていたはずだ。
「分かりました、三十分後くらいには着くと思います」
「はい、よろしくお願いします」
 ただの偶然なのだろう、考えてみれば驚く必要はないことだと、手汗を拭った。彼女と一緒に駐車場まで降り、車に乗った。施設に着くまで彼女は静かで、時々私の袖をぎゅっと握った。
 林道に入る手前で左に折れると黄色のポールが二本立っていた。看板には施設の名前が書いてある。くねった道をゆっくりと走り、広い駐車場に出た。入り口に近いところに車を停め、ちょっとだけ待っててね、と言って車を降りた。クリーム色の大きな建物に入り、受付で事情を説明した。内線でムラキさんという人を呼びかけ、少々お待ちくださいと言われた。入口の大きな窓ガラス越しに、車を見た。彼女は宙を睨んだまま動かない。ムラキさんは電話で話した若い男で、彼は四十代くらいの同じ制服を着た女と連れ立って現れた。名札にはスガワラと書かれている。
「すみませんでした、本当にありがとうございます」
「いえ、彼女は車にいます」
 私とスガワラさんは並んで車まで歩いた。私が鍵を開け、彼女が扉を開いた。スガワラさんは彼女に声をかけ、手を繋いだ。
「ごめんねミミコ、怖かったよね、もう大丈夫」
「うん、こわかった。ほんとに?もうおいていかない?」老婆は涙を流し、彼女を見上げている。
「ヌマキミミコっていうんですか?」私はスガワラさんに訊ねた。
「そうです。もう長い間ここにいるんですが、最近になって抜け出してしまうことがあって」
「そうですか」
 私は老婆の姿を見ながら、ミミコと似ている部分を探した。深い皺で分かりづらいが、目元は何となく似ているようにも感じた。鼻の根本の高さも似ているように見える。呼吸が浅くなり、足元が柔らかくなったようだ。
「本当にありがとうございました、もう暗いのでお気をつけて帰ってくださいね」
「はい、それじゃあ、彼女を、よろしくお願いします」

 交代で外に出てきたムラキさんに見送られ、車に乗り込んだ。彼はしばらくそこに立っていたが、私がすぐに発進しないでいると一礼して建物へ戻っていった。私は激しい頭痛で身体がぐらぐら揺れていた。同姓同名で、ただほんの少し似ていただけだろう、というか仮に、彼女が彼女であったとして、今のミミコは変わらず存在しているのだ、何が問題になるのか。私は自分自身が何にこれほど動揺しているのか分からない。それに、仮にも何も、彼女はただ別のヌマキミミコだ。そしてやはり、もし映画や漫画のように彼女が私の知っているヌマキミミコであったとして、一体どのような問題がもちあがるのだろう?何もない。ただそうであるかもしれない奇妙さに私は、自分でも制御できないほど振り動かされている。初めて車の中で煙草を吸った。運転する前にもう少し気を落ち着かせなくてならない。

 ミミコの生まれた国は、五十万人くらいの人口に対して無闇と言っていいくらい広い国土をもち、大小の湖が点在しているところで、彼女は夏のあいだ毎日、小さな別荘の近くにある湖で昼食を食べたあと夕暮れまで泳ぎ、適当な果物を齧りながら本を読んだ。周りを囲む森の中をヘッドフォンで音楽を聞きながら歩き、形の良い木を見つけると必ず登った。樹上にある、彼女のために用意されていたような馴染みの良い窪みに腰掛け、また本を読んだ。彼女の父親は国で一番大きなテレビ局の顧問弁護士で、母親は小説家だった。サマーハウス以外では父親の後ろ姿すら見たことがないと冗談めかして言っていた。翻訳されていない彼女の母の小説を、私は何度か、ミミコに朗読してもらったことがある。原文の強度が高いのか、ミミコの翻訳が上手いのか分からないけれど、聞いているあいだ冬の初めのころの風の中を歩いているみたいで心地よかった。二年に一度の長編、一年に二度の短編集というペースを十一年続け、詩を書き始めた。
 父親はミミコがここへ来る前に死んだ。出張の帰りに走っていたハイウェイで後続車に追突され、道の脇の大きく堅い木にブレーキも踏まずに衝突した。母親は訃報を聞き、彼女を連れて田舎に越した。彼女は父親が死んだことは悲しくも嬉しくもなく、新しい家の近くがサマーハウスの周りと似ていることを喜んだ。彼女はそのころ十六歳で、その冬から煙草を吸い始めた。母親は新しい家で編み物を始め、代表作と言っていい長編を二作書き上げた。父親の死の影は二人にはほとんど無関係に搔き消え、とくに大した変化ももたらさなかった。
 高校を卒業したミミコは、半年ほど国中を旅した。どこへ行っても湖で泳ぎ、そばで煙草を吸いながら本を読んだ。それから一度地元の出版社に就職し、二十二歳の時にここへ越してきた。父方の祖父母の家にしばらく住み、『渠』を開くために働いていたが、その祖父母も今ではもう亡くなっている。私は一体なぜこのような、彼女の愛した湖もない、海と山だけの土地へやって来たのだろうかと考えてしまう。 

 霞む視界の中でゆっくり車を走らせた。すべての音がくぐもって聴こえている。何度か路肩に停まり、瞼の上から眼を解すように指先を押し込んだ。頭痛は鈍く消えかけている。耳鳴りももうそれほど気にはならない。ただ音が聞こえずらいだけだ。ミミコにメールを送り、スーパーマケットの端の方で少し眠った。
 一時間もない睡眠で、体はほとんど元に戻った。五分前に『くるくる』に着いたミミコからのメールが届いている。私は車を出て伸びをした。冷たい水を買って車に戻った。オムライスと桃のジュースを頼んでいて欲しい、とメールを送ってからエンジンをかけた。

 家の駐車場に車を停め、水を飲みながら『くるくる』へ向かった。気分もずいぶんましになっている。
 ミミコは私を見つけると手を振り、ヒキタさんは手をあげた。私も手をあげ、何か言おうとして、やめた。席に着いてすぐにジュースが出された。
「なんかげっそりしてるね、大丈夫?」ヒキタさんは去り際に言った。
「大丈夫です」
「そっか、じゃあオムライスつくっちゃうね」
「お願いします」
「ほんとに大丈夫?」
「うん、ちょっと怠いだけ」
「そっか、今日は早く寝なきゃね」
「ミミコは?体調はどう?」
「私?私は大丈夫だよ」ミミコは笑っている。
「そう、良かった」
「ねえ、隣においでよ」
 私は彼女の左側に座り、左手で煙草を吸った。ミミコは私の右手を取って効果を説明しながら掌のツボを押している。私はソファの背に深くもたれかかり、空を見上げながら彼女の横顔をちらちら見ていた。少し倦怠感が和らいだ気がした。ありがとう、少し良くなったみたい、と言うと、ミミコもソファに深くもたれかかり、私の額に右手の掌を押しあてた。煙草を消して、私もミミコの額に手をあてた。二人とも目を閉じていた。
「仲いいね」ヒキタさんの声が聞こえた。
 私たちは起き上がり、気恥ずかしさに何も言えず笑っていた。彼はオムライスとカルボナーラを置いてキッチンへ戻った。私とミミコは黙って食事を摂り、交換した煙草を吸った。
「デザート食べる?」
「食べようかな、ミミコは?」
「じゃあ私も食べる」
 私はチーズケーキを頼み、ミミコは小さいチョコレートパフェを頼んだ。私たちはまた寝転がるみたいにソファにもたれ、切れ切れの雲のあいだの星を見ながら手を繋いだ。ミミコの手は私の手より小さい。柔らかいが細く、こうしてみるまでこんなに小さいことに気がつかなかった。私の方が手が大きいだろう、と考えたこともなかったけれど。握る力を強めたり弱めたりするミミコは星座の話をしている。私はあまり集中できないままその話を聞いていた。ミミコは私の肩に頭を寄せ、時々私を見上げた。
 デザートを食べてから少し遠回りをして家へ帰った。今までもそうだったみたいに手を繋いで歩き、遅くまで開いている雑貨屋に入った。若い夫婦の店で、他ではあまり見られないものがたくさんある。彼女はスタンプのためのインクと詩を書くためのペンとノートを真剣に選んでいた。私はノートと木製のスパチュラを選んだ。それらを選び終わってから、家に何本も木製のスパチュラ、とくに今持っているようなサイズのものがあることを思い出して棚に戻した。ノートはヒキタさんの分厚さの基準に達したもので、表紙には何も書かれていない。紙面は、見た目にはつるつるしているが、触ってみるとわりあいはっきりとしたざらつきがあった。ミミコは私が手に持っていたノートを素早く取って会計を済ませたあと、プレゼント、と笑いながら手渡してきた。

 残すところは無事に初日を迎えるだけ、というところまでギャラリーの準備を進め、残りの日は『渠』を手伝った。在庫や本棚を整理し、メモみたいな帳簿をつけ、コーヒーの淹れ方を教わった。思っていたよりも来店者は多かった。どの客も何冊かずつ本を買い、コーヒーをテイクアウトしていった。
 昼食は、朝に『くるくる』で買っておいた弁当を食べた。あと一週間と二日で『NUE』を開ける。ヒキタさんとナバタくんの作品がほとんどで、ナバタくんも世間的にはまだ無名の範囲で、ヒキタさんと言えば無名ですらないが、それでも私は、彼らの作品の力を確信していた。会期を二週間ではなく一ヶ月にした。月の最後にくる火曜を毎週休みにして、毎日十時から二十時まで。一ヶ月あれば、ある程度口コミでの集客も見込める。『uzo』はいつでも始められる。初めに見たタニモトさんの木彫をDMに使う。
 ミミコはずっと私の家に泊まっている。化粧品と洗面具が入ったポーチとTシャツ四枚、下着三セット、アウター二着を詰めたリュックだけが彼女の荷物で、中身を入れ替えに帰った様子もない。私はもうこのまま住んでしまえばいいのに、と考え始めていた。部屋も一つ余っているし。

 昼食を食べてから、ネルでのコーヒーの淹れ方を教わった。きちんと教わると、初めてではないのになんとなく動きがぎこちなくなった。二杯分抽出して私のマグとミミコのマグにわけた。
「この豆にしては、ちょっと酸味が出過ぎてるけど、充分合格点」
「いつもと全然味が違う、あとで同じように淹れて欲しい」
「もちろん好みもあるからね、これはこれで、この豆のいつもとは違った部分を引き出したってこと」

 夕方、ヒキタさんとナバタくんが来た。『くるくる』にサンドイッチを食べに来たナバタくんを誘ったらしい。
「あれ、カウンターの中に二人いる」
「こんばんは」
「手伝ってくれてるの」
「手伝ってます」
「なんかいいね。あ、そうだ、じゃあコーヒー淹れてよ」
「頑張ります、ナバタくんも飲む?」
「じゃあ、お願いします」
 ミミコに見守られながら、家を思い浮かべつつ習った通りに淹れた。小さな紙コップで味見をして、ヒキタさんとミミコのマグに注ぎ、ナバタくんは客用のマグに注いだ。昼過ぎに淹れたものよりも上手く出せたような気がする。階下のナバタくんに声をかけた。ヒキタさんとミミコは一口ずつ飲んでから何度か頷き、美味いじゃん、さっきより上手、と言った。ナバタくんは三冊の画集を木箱に乗せて上にあげ、ゆっくりと梯子を登った。
「いただきます」
「どうぞ」ナバタくんはいつも熱いコーヒーをぐいっと飲む。その度に上あごを火傷している。私はもう何度もそれを見たせいか少し笑ってしまう。
 ヒキタさんはコーヒーを飲み終わると、じゃあ店戻るわ、と言って颯爽と帰って行った。
「DMの絵って彼のですよね?」
「うん」
「僕、めちゃくちゃ楽しみなんですよ、実際に彼の絵見るのが」
「うん、ナバタくんには絶対見て欲しい」
「会期中手伝えることあるかな?」
「ううん、大丈夫、ただ、朝ここに送れない日が多いかもしれない」
「それこそ大丈夫、歩いてすぐだもん」
 それからナバタくんは三冊の中から二冊選び、包装なしで買って帰った。ミミコは伸びをして、もう少ししたら閉めて、ご飯食べに行こう、と言った。

『KIWI』へ行ってカレーを食べて帰った。ミミコはここを知らなかったようで、店の中をきょろきょろと見回していた。

 家に帰ると、二人で窓際に座ってミミコが淹れたコーヒーを飲んだ。海は見えない。夜になると毎日雪がちらついている。勝手に数えようとして目がちかちかしてくる。
「毎日当たり前のようについて帰ってきてごめんね」
「ううん、ずっといればいいよ」
「そんなこと言ったらそうしちゃうのに」
「いいよ」

『NUE』での展示が始まった。初日の来客数は九時間で二十人。そのうちふらりと入ってきた人は八人で、十二人は知り合いだった。まずまずの数字だろうと思う。長く音沙汰なく閉めていたし、特別有名な観光地でもない。ただ、作品が素晴らしいだけに、申し訳なさを感じていた。出来る限り多くの人にヒキタさんやナバタくんの絵を見てもらいたい。
 休憩の時間に二階で熱いお茶を飲んでいると、ミミコが『くるくる』のサンドイッチと花を一輪持って来てくれた。私は祖母を思い出しながら、ヌマキミミコを思い出さないよう、サンドイッチを食べながらしばらく話していた。ミミコは来年の秋に母親に会いに行くと言った。
「それで、迷惑じゃなかったら一緒に行かない?お母さんに紹介したいし、湖で泳いだり、その側で煙草吸ったりしようよ」
 私はミミコの誘いを聞いてなぜか泣いてしまった。顎の先からぼたぼた落ちる涙の音と彼女が何も言わずに私の背中を撫でる音が狭い部屋で混じって、ミミコの手の暖かさを忘れてしまわないように目を閉じた。ミミコは私の手を取って両手で揉んだ。それから私を抱きしめた。
 それじゃあまた夜ね、と言って帰るまで、何も言わずに私の体に優しく触れていた。私は泣きやんでからも何も言えず、窓から何もない外を眺めていた。

 二週間ばかりは一日に二十人前後の客足が続いた。ナバタくんはヒキタさんの絵を見て興奮していた。同じ街のこんな近くにこんな絵を描く人がいたなんて、と文言を変えては繰り返し同じ内容のことを言った。僕の絵もこれから絶対良くなりますよ、と言って、何やら呟きながら帰って行った。
 ヒキタさんもナバタくんの絵を見て、いいじゃん、こんな絵描くんだね彼、と言って嬉しそうにギャラリーの中をまわっていた。
 私とミミコは夜に顔を合わすくらいで、その他の場所では会わなかった。私は何となく恥ずかしがっていて、ミミコはそれを察知してそっとしてくれた。毎晩ミミコの作る料理を食べ、彼女に抱きしめられながら眠りについた。朝起きると私が朝食の用意をして二人で食べた。連れ立って家を出て左右に分かれた。頑張って、また夜ね。

 三週間が過ぎ、一日の来客数が倍になった。調べてみると、何度か食事をしたことのある知人がブログやTwitterやその他のSNSで紹介してくれていたらしいことが分かった。私はお礼のメールを送った。結局彼は一度もギャラリーには来なかったし、メールの返信もなかった。
 私よりも若い人が多かった。彼らはだいたい、ここから電車で二十分くらいの市街地から来ていた。画集やポストカードを買って行く人も多かった。どこか近くにいい店ないですか?とほとんど全員に聞かれた。その都度『くるくる』と『渠』を勧めた。

 私はその夜、ミミコに返事をしていなかったことを思い出した。焦りで何の脈絡もなく、一緒に行く、と言った。ミミコはしばらく首を傾げて私の目を見ていた。来年、ミミコの生まれたところに一緒に行く、と言い直した。彼女はああっと言って、歯を見せずににっこり笑った。彼女は私の手の甲をさすりながら、ありがとう、と言った。

 会期も残り二日というときに知り合いのギャラリーから電話がかかってきた。来年の暮れにうちのギャラリーでキュレーターとしてナバタくんとヒキタさんを主軸にした企画を組んでくれないだろうか、という内容で、私は彼らの作品が認められたのだろうかと嬉しくなった。作家に確認を取り次第、こちらからご連絡させていただきますということで、私はナバタくんとヒキタさんに電話をかけてあれこれと説明した。ナバタくんは、ありがとうございます、よろしくお願いしますと言い、ヒキタさんは、いいよーと言った。

 終盤、『uzo』での展示の準備が重なっていたからだろうか、耳鳴りが酷くなっていた。遠くから聞こえている感触なのに、音は耳の裏から聞こえてくるみたいだ。私は落ち着きを保てなくなっていた。暴れたり大声をあげたりする訳ではないが、ふとしたときに涙が流れてしまう。帰り道やミミコと夕食を食べているときや休憩時間に花を眺めながらコーヒーを飲んでいるときや知人からのメールや電話を確認していると涙が出てしまう。ただ勝手に涙が流れるだけで、感情がどうといったことはない。それでも明らかに体が変にはなっていて、私はそれが恐い。これからどうなっていくのかと恐ろしかった。
 ミミコが作ってくれたピーマンと鶏肉が入ったグラタンを食べているとき、それで?と聞こえた。誰の声でもない。それで?と繰り返すだけだ。性別も年齢もわからない。というか鼓膜が震えているのかも分からない。それで?それで?と一定の声量で間断なく続いている。
「ねえ」
 私はスプーンを落としたまま、机の真ん中をじっと見ていた。それで?私は泣いていた。もういつも通りというような感覚で泣いていた。
「ねえ、大丈夫?」
 きっとミミコが何かを言っている。確かに言っている。ねえ、と。大丈夫?、と。言っている。私は何も答えられない。誰かからの問いかけは止まらない。
 ミミコは私を背中から抱きしめ、つむじに唇をくっつけてもごもご、大丈夫、大丈夫と言っている。私はやはり何も答えられないまま泣いている。それで?私は何もかも放り出してこのまま小さな塊になってしまいたいと考えていた。ミミコがもう少し強く抱きしめてくれたならその願いは叶うのかもしれないと考えていた。それで?私はミミコと一緒に湖で泳ぐにあたいする人間なのだろうか、ミミコの湖で泳ぐことを許してもらえるのだろうか。それで?ミミコは今度は前から私を抱きしめた。彼女は大丈夫よ、と言い続けていた。私は鼻水と涙でぐちゃぐちゃの顔をミミコに見られないよう、今さら顔を伏せた。ミミコの胸の間に顔を埋め、初めて声を出して泣いた。ミミコは私の頭を抱えた。多分五分くらい泣き続けて、ミミコの大丈夫という声を聞き続けて、誰も私に何も問いかけてこなくなった。
 ミミコはティッシュの箱を私に手渡してくれた。鼻をかみ、とんとんとんと涙を吸った。ミミコは小さい子みたい、とたぶん赤くなった鼻の下を指差して言った。私は笑って、ありがとう、ごめんね、と言った。
「立体の展示が終わったら行かない?私のお母さんのところに、何となくだけど、その方がいい気がして」
「私はいつでも動けるけど、ミミコは大丈夫なの?」
「何にも問題ないよ」

 私たちはそのままチケットを取った。来月末からの二週間あまり。異国で年を越すのは初めてのことだ。宿は、まずはミミコの実家へ行き、遠くへ行くことになったら現地で取ろうということになった。ほとんど何も持たずあっちで買おう、その方が安いよ、とミミコは言った。

『uzo』での展示は初日から、タニモトさんの同級生や『NUE』での展示を見た人が来てくれたおかげで賑わった。耳鳴りはいつからか聞こえなくなっていた。
 タニモトさんは二週間ほとんどずっと在廊してくれ、ナバタくんもしょっちゅう顔を出した。ヒキタさんはタニモトさんの木彫を気に入ったらしく、半身像を買った。彼は『NUE』の展示が始まってから二日に一度はサンドイッチやお弁当を持ってきてくれていた。
 一度だけヒキタさんが恋人を連れて来たことがあった。ルリという名前の子で、ヒキタさんに絵を描くことを勧めたのは彼女らしい。ヒキタさんと並ぶと中学生に見える。なぜかヒキタさんが女の子と付き合っていることが不思議に思えた。これまで想像したこともなかったけれど、冷たい印象を与える端正な顔立ちの男の子と並んでいる映像の方が容易に浮かぶ。そこで初めてヒキタさんが同い年だと知り、私は驚きを声にしないために唾を飲み込んだ。ずっと年上だと思い込んでいた。私が二十七歳でミミコが二十九歳、何となくそれを基準にヒキタさんは三十二歳くらいだと決めつけていた。若い頃は年齢を気にしたことがなかった。

 一週間が過ぎて一日の平均が十五人くらいに落ち着いた。私はコーヒーを淹れたり、作品の解説をしたり、画集やポストカードを包装したりして毎日を過ごしていた。ミミコは変わらず私の家に帰ってくる。休憩の間に『くるくる』へ行くとギャラリーからそのままここへ来たであろう人たちが何人か見えた。
 ルリさんが『uzo』へ一人で来てくれたこともあった。ちょうど休憩の間で、『NUE』の二階に招いた。二人分のコーヒーを淹れ、あれこれと話した。彼女は市立図書館で司書をしているらしく、ヒキタさんへ絵を描くことを勧めたのは何となくだと言った。ふと絵を描いているヒキタさんの姿が思い浮かんだらしい。
「トウが美術系の学校へ行ってたのは知ってたんです。そのときはインスタレーションばかりして、絵はほとんど書いてなかったって言ってましたけど」
「どんなインスタレーションをしてたんですか?」
「なんかよく分からないんですけど、舞台の真ん中に立って左右から別々の音楽を大音量で流して、その姿を見せてたみたいです、なんて言ってたっけ」
 ヒキタさんのその姿が思い浮かんで自然に笑顔になった。彼はそれで何を表現したかったのだろう。
 ルリさんは眉をしかめた表情が可愛らしい。装身具は何も付けていないが華やかな顔立ちのおかげか派手に見えた。
 一緒に『uzo』へ戻った。彼女は光に包まれたイチゾー、ニゾーの前に長い間立っていた。三周ばかりして、それじゃあ、と言って帰って行った。

 最終日、ヒキタさんが来て、展示会が終わって一息ついたら、みんな呼んでくるくるで打ち上げみたいなのしようよ、と言った。彼はタニモトさんの木彫の前で過ごす時間が多かった。二周すると、じゃあまたね、と言ってヘッドフォンで何かを聴きながら帰っていった。
 二十時になり、展示会が無事に終わった。木彫を台から降ろし、湿度調整剤といっしょに軽く梱包した。床を掃き、ギャラリー中の塵を袋に入れ、車の後ろに積んだ。シャッターを降ろし、『NUE』へ向かった。同じように掃除と整頓を済ませ、二階で濃いコーヒーを淹れた。上達したことが自分でも分かる。
 ミミコから電話があった、今からヒキタさんと会いに行こうと思うんだけど、どっちにいる?ということだった。私は『NUE』の二階にいる、と言った。
 十五分後くらいに、袋を二つ持ったヒキタさんと、袋を一つ持ったミミコが二階に上がって来た。二人は私の顔を見ると、お疲れ様、と言って、ミミコは私を抱きしめた。ヒキタさんは袋を机の上に置いて、窓辺の椅子に座った。しばらくして離れた私たちは向かい合わせに座った。
「打ち上げみたいなのって疲れるんじゃないかと思って、でも無事に終わったわけだし、とりあえず三人でお疲れ様でした会でもしようかなって」
「いつもより豪華な弁当にしたよ」
「ありがとうございます、二人とも本当にありがとう」
 私は最近続いていたのとは違った涙を流しそうになった。ぽつぽつ話をしながらゆっくり食事をした。
「そういえば、ルリがコーヒー美味しかったってさ」
「良かったです」
「ヒキタくんに彼女がいるのにびっくりした」
「私も、びっくりしました、しかも私と同い年って」
「こっちが年上でルリが年下に見えるよね、たまに自分でもあれ?ってなるよ」
「どこで出会ったの?」
「最初は図書館だよ、あそこの、あの、コンビニのそばの」
「市立の図書館ね」
「そうそう、それで、ルリそこの司書で、初め高校生か中学生の職業体験かなと思って、何か多分、頑張ってるねとか大変だねみたいなことを言ったんだよ」
「確かに、見えなくはない」
「でしょ?、で、それから一週間くらいして店に一人で来たんだよ。気づかなくてさ、やけに飲むお客さんだなくらいに気にはかけてて、それで途中でルリが「あ!」って叫んで、グラス倒したのかと思ってモップ持ってキッチン出ようとしたら、この前私のこと中学生か高校生かと思ったんでしょう?って言ってきて、一瞬分かんなかったけど、この前図書館にいた人だって気付いて」
「よっぽどあやすような言い方だったんだろうね」
「多分ね、なんか結構怒ってたもん。隣に座れって言われて、結構飲まされたよ。仕事の愚痴と私は大人だってことを交互に聞かされながら」
「そこから付き合うってなるのが不思議」
「そこで終わってたらね。後日謝りに来たんだよ、菓子折りなんか持ってさ、別に店の人を捕まえて朝まで酒飲んだだけなのにね、それで誰もいないランチ時だったから二人で昼食べながら話してたんだよ」
「律義な方ですね」
「ほんとにね、話していくうちにどんどん気になって来ちゃってさ、それでまあ後は普通だよ」
「それがどれくらい前の話?」
「三年前だね」
 ミミコとヒキタさんが話しているのに時折混ざって一言二言何かを言う以外、私はずっと窓の外を見ていた。ここから見える木はもう一枚の葉っぱも残っていない。窓枠にもたれたヒキタさんは私の視線は気にせず話していた。
「そういえば、二人で行くんでしょう?ヌマキさんの実家」
「うん、ヒキタくんも来る?」
「いや、店もあるし、絶対ルリに反対される」
「私たち相手なんだから気にしなくていいのにね」
「まあ、それはそう思うよ」
 私は窓の外の木を眺め続けていた。体の疲れや怠さはなかった。ただ一ヶ月半毎日続けていたものがなくなって、明日からどうすればいいんだろう?と思い始めていた。ギャラリーを閉めているあいだ、私は一体何をしていたんだろう。二週間もしないうちにミミコの生まれた国へ二人で行くのだ。それまでぼんやりしていても、何も変わらないだろうか。荷造りはすぐに終わるはずだ。ミミコは今日も私の家へ帰ってくるだろうか。二人は声を抑えて話していた。何か大事な話をしているんだろうか。それとも私の耳がまた変になっているのか。
 食べ終わってから私は、練習の成果を披露することも兼ねてコーヒーを淹れた。二人とも驚いたような顔をして、ヒキタさんは、ずいぶん上達したね、と言った。ミミコは何も言わずに何度も頷いていた。
「やけにお客さん多いなって、聞いてみたんだよ、そしたらuzoってところでとかNUEってところでって、ありがとう」
「私のところもいつもよりずっと多かった、そういうことだったんだ。ありがとうね」
「いえ、そんな、いい店ないですかって聞かれて答えただけです」
「本当に勧める気持ちがあるからみんな来てくれたんだろうね」
「確かに」
「二人のお店、私、本当に好きですから」
 コーヒーを飲んでしばらくして、ヒキタさんは帰って行った。じゃあまたね、と言って、気付かないうちに空の弁当箱を集めていた。視界にはあったのに、こっちで捨てますよ、と言葉が出ない自然さだった。
「なんかすごい自然だったね今の」
「確かに、ああいうのってヒキタくんにそもそも備わった能力って感じがしない?」
「ああ、うん、そんな感じはする」
「私さ、女の子が好きなんだよね」ミミコは突然そう言った。
「それは、どういう意味で?」
「ヒキタくんがルリさんを好きなように、ルリさんがヒキタくんを好きなように、びっくりした?」
「少し、でも、それは、女の人が女の人を好きってことにじゃなくて、ミミコがそうだってことで、そうだってこととというか、なんて言ったらいいんだろう」
「そんなに気をつかって言葉探さなくていいよ」
「ううん、私も、そうだから、だから」
 ミミコは一瞬真顔になって、からかってる?と言った。私は、そうじゃない、と言った。二年前に四年間付き合っていた人も女で、その前に一年付き合っていたのも女だし、その前も、その前もずっとそうだ、と言った。ミミコは、それ本当のこと?と言った。本当だよ、と私は言った。ミミコは私の手を取って、私と付き合って欲しい、と言った。私は、うん、と言った。私はミミコが、女の子が好きなんだよね、とわざわざ言ったのを悲しく思った。

 二人で夜道を歩いた。車は置いたまま、手を繋いで歩いた。ミミコは何度も私の顔を見た。
「私、ミミコのこと、ヌマキさんって呼んでたときから、というかずっと前から好きだった」
「私も」
 家に帰ってから私たちは、一緒に狭いお風呂に入って、他愛もない話で笑い続けていた。ミミコの体は想像していたよりももっとずっと綺麗で、でも私はその美しさをここには書きたくない。
 お風呂から上がってミミコが、コーヒー淹れて欲しい、と言った。私は嬉しくなって二人分淹れた。ミミコは、本当に上手になったね、と言った。
「ミミコ、明日から、またお店手伝わせてもらえないかな?」
「私は嬉しいけど、疲れてないの?大変だったでしょう」
「大丈夫」
「じゃあお願いします」
「ありがとう」
 ミミコが眠ってから、彼女の寝顔を見ながら帰国後の展示会の予定を考えていた。休んでいたあいだに気になった作家に連絡を取る必要がある。一ヶ月か二ヶ月かけて街のギャラリーや画廊に通うのもいいだろう。ホームページのデザインをいくつか書いて、そのまま机で眠ってしまった。夢の中で私は湖の畔に立って煙草を吸っていた。
 おはよう、というミミコの声で目が覚めた。彼女は左目を擦りながらよちよち歩きみたいにゆっくり私に近づいてきた。おはよう、と返して体を伸ばした。
「そこで寝てたの?」
「いつの間にか寝ちゃってた」
「体、大丈夫?明日からでもいいよ」
「ううん、大丈夫だよ」
 ミミコは私の右肩に顎を乗せてふらふら揺れている。あくびをしてから、歯磨きしてくる、と言っていつも通りに歩いて行った。いくつか書いたデザインは、今見ると半分以上ボツだった。丸めてからゴミ箱に投げた。
 朝食は鍋焼きうどんにした。ほとんどずっと降っている雪は、一週間前とは質が違っていた。今では毎日少しずつつ朝にまで残る雪の嵩が高くなっている。ミミコは着替えを済ませ、やったー鍋焼きうどん、と言って小走りで窓辺まできた。向かいに座って、二人でいただきますと言った。

 今日の『渠』は三十二人の来客数で、私はほとんどコーヒーを淹れる係だった。たまに手書きのメモを見ながら煙草の説明をした。ミミコの働いている姿を見るのが好きだ。昼過ぎにヒキタさんとルリさんが来た。
「もう働いてるんだ、大丈夫?」
「大丈夫ですよ、ありがとうございます」
「そっか。ヌマキさんは下にいるの?」
「はい、呼びましょうか?」
「いいよ、どっちみち降りるし」
「分かりました」
「あ、コーヒー淹れてよ、ルリも飲む?」
「飲みたい」
「じゃあ、二人分お願いするよ、あ、ちょっと待って」
 ヒキタさんは隅の穴まで行くと、ヌマキさーんコーヒー飲む?と呼びかけた。飲むーとくぐもった声が聞こえ、振り返ったヒキタさんは、ヌマキさんも飲むってさ、と言った。分かりました、と言って四人分の豆を挽いた。
 ルリさんは以前会ったときよりも緊張しているようで、ヒキタさんをちらちら見遣っていた。あと一回湯を注げば完了というところでミミコが上がって来た。
「あ、ルリさんも来てくれてたんだ」
「こんばんは」
「ヒキタくんは?」
「忘れ物したってくるくるへ」
 それぞれのマグに注いだコーヒーが冷める前にヒキタさんは帰って来た。財布忘れてた、と言って笑った。
「そんなの今度でいいのに」
「いや、忘れちゃうからさ」
「それは駄目だ」ミミコと私は笑っているが、ルリさんはやはり緊張しているように見えるままだ。彼女は私がヒキタさんと話しているときよりも、ミミコが彼と話しているときの方が強張っているように見える。
「ヌマキさん、一つお聞きしたいことがあるんですけど」ヒキタさんが下に行ってすぐルリさんは泣き出しそうな顔で言った。
「なんですか?」
「ヒキタとはどういう関係なんですか」
「それは、昔に付き合ってたの?ってことですか」
「はい」
「付き合ってないですよ、セックスもしたことないです、何も」
「本当ですか」
「うん」
 ルリさんはこれ以上ないくらい大きな溜め息をついて、良かったあ、と言った。ミミコは笑っているが、ルリさんはまだ泣きそうな顔だ。
「ヒキタが、いつもよりリラックスしてるように見えて、なんだろう、懐かしい安心感に浸ってるように見えて」
「それは単純に古い知り合いだからだと思うよ」
「心配というか、嫉妬してましたあなたに、ヌマキさんに」
「そんな、しなくていいよ、って言うのもおかしいけど、心配ないよ」
 ルリさんは私の顔をじっと見て、それから同じようなことを聞いた。
「私もそんなんじゃないですよ」
「それは今もですか、今後も」
「ないですよ。今後もない」
「今後ないってどうして言い切るんですか」
「どうしてって、私、女の人を好きになるから」何もかも面倒になった私は投げやりに、説明になっていないことを言った。
 ミミコはちらっと私を見たが、表情は変えなかった。ルリさんはしばらく言葉を見失って、閉じた唇をぐにぐに動かしていた。何をそんなに驚くことがあるんだろう。あなたと一緒、と思った。私の話からミミコへ飛び火しないよう、どう進めていこうかと考えていると、ヒキタさんが本を一冊抱えて上がってきた。私たちの顔を順番に見て、どうかした?、と言った。ルリさんが、なんでもない、と言いかけたところでミミコが口を開いた。
「ルリさんが、私たちとヒキタくんの関係はどうなってるんですか?って」引きつったような顔でミミコは言った。
「え?どうなってるも何も、結構仲のいい別の店の店主同士って感じじゃない?」
「私もそう思う」
「ごめん、ルリがなんか変なこと言った?」
 ルリさんは俯いたまま何も言わないでマグを見つめている。
「ごめんね、二人とも、これ買って帰るよ」
「いいですよ、話は終わってますし」
「私、帰ります。すみませんでした、ごめんなさい」
 ルリさんは俯いたまま席を立ち、鞄から財布を出しながら言った。ヒキタさんは、払っとくよ、と言って彼女の腕に触れ、気をつけて帰りなよ、と言った。彼女は一度も顔を上げず静かに店を出て行った。
「本当に申し訳ない、何か埋め合わせできることがあれば、何でも言ってよ」
「大丈夫」
「大丈夫ですよ」
 ヒキタさんは何かを確認するようにミミコの目を見て頷いた。ミミコは今はもう柔らかい表情に戻っていた。
「またこんなことがないように言っておくよ」
「優しく言ってあげてね」
「うん、本当ごめんね。これ買って、帰るよ」

 私とミミコは二人になると黙って仕事を続けた。彼女も私も何となく話をする気分にならなかった。彼女は多分怒っているわけではなかった。店を閉め、外に出て手を繋ぐまで何も言わなかった。今日は雪は降っていない。積もった雪はまだふんわりとしている。ミミコの手はあたたかい。
「どうして、あんなふうに言ったの?」ミミコはまっすぐ前を向いたまま言った。
「あれ以上問い質される前に、と思って、面倒になった。どうしたってあの人は私とミミコのことは聞かないじゃん」
「フォローできなくてごめんね」
「ううん、私は、別に隠さないといけないことだと思ってないから。恥ずかしくもないし」
「今度来たら、私もそうだから今後も大丈夫ですって言おうかな、あ、嘘っぽいか」
「嘘っぽい」
 私たちは自虐みたいな冗談を言い合いながら、『くるくる』まで歩いた。男女のグループが店内のテーブル席で盛り上がっていた。カウンター席にはルリさんが座っていて、『渠』からワープしたみたいに同じ俯き方でぼんやりしていた。ヒキタさんは私たちを見ると、声を出さずに手を高くあげた。
 いつも通り外のソファ席に座り、そういえば久々の『くるくる』だと気が付いた。私たちは並んで座り、向かいの席に鞄を置いた。足元のストーブが煌々と明るい。メニューを持って来たヒキタさんが肩をすくめた。
「私はハンバーグプレートとコーラ」
「じゃあ、ナポリタンとマンゴージュースでお願いします」
「かしこまりました。飲み物は先にする?後にする?」
「二人とも先で」
「おっけい、なるべく意識がこっちに向かいないようにするよ」
 キッチンへ戻った彼はルリさんに何やら話しかけている。私は57を吸って、ミミコは16を吸った。16は黒糖を炒ったような香りがする。ミミコは12と16を行き来することが多い。二人で夜空に向かって輪っかを送り続けた。料理がくるまで私たちは煙草を吸い続けた。何本か交換して、こっちも美味しいね、と言い合った。
 トイレに立ったルリさんが席に戻るとき、私たちに気が付いた。一度席に座ろうとしてから、側まで歩いてきて、さっきは本当にすみませんでした、と言って頭を下げた。ヒキタさんはキッチンからこっちを見て申し訳なさそうな顔をしている。
「気にしてないですよ」
「私も」と言いながら、謝ることがそもそも間違っているような気がして、胃が気持ち悪くなった。
「言いたくないだろうことまで言わせてしまってごめんなさい」
「私は別に言いたくないことだと思ってませんし、大丈夫ですよ」
「でも、その、すごく個人的なことだから、それを私の意味分かんないことで、本当にごめんなさい」
「本当に大丈夫ですから」
 料理を持ってきたヒキタさんが声をかけ、彼女はカウンター席へ戻った。
「ごめんね、また何か言ってた?」
「ううん、ごめんなさいってだけ」
「そっか」
「でももう、私が女の人のことを好きになる人だって言っておいてよ」
 ヒキタさんは一瞬私を見てから、分かった、そうするよ、と言ってキッチンへ戻って行った。料理を食べていると、私は突然泣きたくなった。ミミコが言った通り、ヒキタさんがルリさんを好きなように、ルリさんがヒキタさんを好きなように、本当にそれと同じなのに、どうしてこんな、最後の手段、みたいなふうに使わなくちゃいけないんだろうと『渠』での私自身の声が繰り返されるなか思った。私、女の人を好きになるから、私、女の人を好きになるから。それがどうしたと言うのか。私はミミコが女だから好きになったわけではない。ミミコも、私が女だから好きになった訳じゃない。いつのまにか自分自身を、多くの人とは違った生き物だと思っていたことが寂しかった。私は私が誰をどう好きであろうと、何も思わなくていいはずなのだ。

 何とか泣かないで食べ終え、急いで煙草に火をつけた。ミミコは私の右肩にほっぺを押し当て、火のついていない煙草を唇に挟んでいる。
 二本続けて吸うと少し気が楽になった。ミミコはまだ火をつけていない煙草をゆらゆらしている。私の肩にほっぺを擦りつけている。ミミコの体温は伝わってこないが、きっと温かいのだろう。

 私たちは会計を済ませ、海まで歩くことにした。『くるくる』から海まではゆっくり歩いて二十五分くらいで、雪は降っていないが冷え込む夜にはなかなかの距離だ。コンビニで買ったホットのカフェラテを片手に、もう片方の手は繋いで、くだらない話をしながら歩いた。靴の下で雪がぎゅむぎゅむ鳴っている。
 飲み終わったカップを別のコンビニで捨て、二人で煙草を吸い始めた。私は彼女に、ミミコの詩みたいなのが好きだよ、と言った。彼女はしばらく口籠もって、ありがとう、と小さな声で言った。私は雪が降ってきたのかと空を見上げた。それくらい小さな声だった。ノートに貼り付けて読んでる、と言った。ミミコは立ち止まって、手を離した。私をしばらく見てから、勢いよく抱き着いてきた。私たちはそのまま道路脇の汚れた雪に倒れこんだ。彼女は、私に跨ったまま嬉しそうに笑っている。好きだよ、と言うと倒れるみたいに私に覆いかぶさった。
 多分一分もそうしていなかったのに起き上がったときには体の芯が熱かった。震える体を抱き合いながら帰路に着いた。海はまた今度。

 家に着いてから急いで湯を張り、待っている間に熱いコーヒーを飲んだ。私とミミコの唇は変な色になっていて、二人で鏡に向き合って笑った。煙草を持つ手が震えている。ミミコは私の耳を噛んだり脇をくすぐったりしながらリビングをうろうろしている。二人ともほとんど寒い寒いとだけ言って、何でもないことに笑い声をあげた。

 お風呂から上がって二人は吸い込まれるみたいベッドにもぐりこみ、目を開けると朝になっていた。私はミミコの額に手のひらをくっつけて熱がないか確認した。私も彼女もいつもより体温がうっすら高くなっている気がしたが、それでも体は今までにないくらい気持ちよく動いた。ミミコを起こさないように布団から滑り抜け、朝食の用意を始めた。
 昨日よりもたくさんの具の鍋焼きうどんをつくった。ニンジン、長ねぎ、鶏肉、たまご、厚揚げ、ゴマ。ミミコは私が起こすまで眠りこけていた。
「ミミコ、おはよう」
「おはよう」聞き取れない声で何か呟いてから、やけに大きな声でそう言った。
「また鍋焼きうどんだけど、できてるよ」
「やったー、急いで歯磨きしてくる」
 私は煙草を吸ってミミコを待った。彼女は髪を一つにくくって戻ってきた。彼女のその姿を見るたび、ずっと短くしている髪を伸ばしたくなってしまう。ミミコの細い首筋が見えることに私は緊張する。私も一本吸ってから食べよ、と言って12を吸い始めた。髪をくくったミミコが煙草を吸っていると私は、視界がぐらぐらしてしまうほど彼女に触れたい気持ちが湧いてくる。彼女は海の方を見ながら煙を吐いている。ミミコは、今度は海まで歩こうね、と言って笑顔を向けた。私は何とか、うん、と声に出して、彼女をじっと見ないように湯気を見つめた。私は、ミミコを悲しませたくない、とこの時初めて頭の中で言葉として意識した。

 ミミコはずっと下の階でなにやら作業を進めていて、私はその間コーヒーを淹れたり会計をしたり煙草を吸ったりしていた。彼女は朝にくくったままの髪で、私は今日一日中どぎまぎしてしまうだろうなと思っていた。お客さんはめいめい棚の前を行ったり来たりしていて、みな今自分が読むべき本をあてなく探しているんだろうと思うと、何か手伝えることはないだろうかと余計な思いが湧いてきてしまう。ほとんど本を読まないくせに。ミミコはそういうところが上手で、コーヒーを手渡す短い時間の会話で、それだったら下の階のあの棚のあたりはどうでしょう、というようなことを押しつけがましさなんて少しもない声音で言ってのける。真剣で自信に満ちているのに、その勧めが外れても別に構わない、そういうこともあるとちゃんと分かっているのだと思う。私にはできないことを彼女は、もともとあるものと経験を合わせて簡単にしてしまう、と私は思い込んでいるが、そんなことはないのかもしれない。
 昼過ぎにミミコが上がってきて、休憩しよう、と言った。朝とまったく変わらず私は、彼女の姿に緊張した。ガラス扉の持ち手に掛かったプレートを引っくり返して、私たちは『くるくる』へ向かった。私はミミコの少し後ろを歩き、耳にかかって揺れている髪を眺めていた。なんて美しい人なんだろう。彼女は彼女が持てるすべてを手にしているように見える。ありのままのミミコであるように見える。私はまだありのままの私にはなれないでいる。ありのままというのは、その人の持つもの全部が最も高い水準で発揮されている姿で、何の努力もしないただの存在としての自分ではない。私はずっと勘違いしていて、何もしないでいる私を愛してくれる人を探していた。ミミコは、彼女に相応しい努力や結果的にそうではなかった努力も経てありのままの彼女になったのだ。私は一体いつ、きちんと私を全うできるような人間になるのだろう。

 ヒキタさんは外のソファ席に寝転んで、煙草を吸っていた。いつ見ても彼以外ではあり得ないような光景で、遠目から見ていて声に出して笑ってしまった。
「どうしたの?」
「ヒキタさんのああいう態度、というか格好、を見るたびに、ヒキタさんじゃない人がああしてたら少しでも嫌な気分になるのかもなって」
「確かにそうかも」
 私たちが隣のソファに座ってメニューを開くまで彼は空を眺めたままで、あ、と言って起き上がった。
「ごめん、ぼおっとしてたよ、いらっしゃいませ」
「気持ち良さそうだったね」
「気持ちいいよ」
 私はカルボナーラを、ミミコはガパオライスを頼んだ。クランベリージュース二つは先に持ってきてもらった。私は煙草を持ってない手でミミコの頭を撫で、ミミコは両手で私の膝をぐりぐりしていた。
 ヒキタさんが料理を持ってきて、一緒に食べてもいいかな?と言った。同時に、もちろん、と言って、本当仲いいね、と言いながら彼は向かいの席に腰をおろした。
「ルリに一応、言っておいたよ、ヌマキさんのこと」
「どうだった?」
「え、って言ってしばらく固まってた」
「だろうね」ミミコはおかしそうに笑った。自然に口元に伸びる指先が綺麗だ。
「本当に申し訳ないよ二人に」
「別に良いよ、気にしてないし」
「私も、大丈夫です」
「ありがとうね」
「ルリさん、私のことも言ってましたか?」
「うん、聞いたよ」ヒキタさんは何気なく言った。私は彼のこういうところが好きなのだろう。
「私、その、ヒキタさんはどう思いました?」
「ヌマキさんのことは昔から知ってたし、別にどうも思わなかったよ、俺はたまたま女であるルリを好きになって、ルリもたまたま男である俺を好きになって、それと変わんないでしょ」
「ヒキタくん、あなた本当にいい人ね」
「別に俺は普通の人だよ、いちいちそんな誰かの、些細なことに反応する方が変だよ」
 私は何も言えずに、ヒキタさんのことをもっと好きになったと文字で思いながら、同時にミミコのことをもっと好きになっていいんだ、と体で分かった。本当はそんなこと誰に言われるでもなく分かっていたはずなのに。
「ヒキタくんみたいな人って珍しいよ」
「そうなのかな、まあでも、ルリに聞く前から、二人を見てたからさ、ヌマキさんのことも知ってるし、何となく分かってたしね。それに二人を見てるとなんか分かんないけど、幸せな気持ちになるんだよ。この二人はなんて幸せそうなんだろうって、でもそれってやっぱり二人を色眼鏡で見ているのかもしれないし、たんに自分が大切だと思っている二人がそう見える、幸福そうに見えるってことを幸せに感じてるんだったらいいんだけど、関係ない話だな、分かんないや」
「あなた今まで色んな人に好かれて好かれてしょうがなかったでしょ」
「しばらく話してみて好きになられなかったことはあんまりないかもね」ヒキタさんは、ははは、と楽しそうな照れ笑いをあげてから言った。
 ミミコも私も、多分、別のことに気を散らしていないと泣いてしまう。私は料理をたくさん噛んで必要以上に味わい、ミミコは不釣り合いで俗っぽい冗談を言って、そうしていないと彼の言葉で涙を流してしまいそうなんだと思う。

 私とミミコはいつもより強い力で手を繋ぎながら『渠』へ戻った。何も話さず煙草も吸わず、時折顔を見合わせて笑う以外何もしなかった。
 店を閉めるまで彼女はカウンターの中で細かい作業をしていて、私はやっぱりまだ慣れないその姿をちらちら見ながら、煙草の特徴を覚えようとメモを読んでいた。お客さんがいないあいだに何本か吸って書き足した。当たり前だけどよくできたメモで、私が書き足すことはほとんどなく、大したことではなかった。 

 店を閉めてから久々にミミコの淹れたコーヒーを飲んだ。当然、というか私より格段に美味しかった。冷たいミルクを少しだけ入れた。彼女は髪をくくり直し、煙草に火をつけた。ミミコが私に吸い口を向けた。深く吸い込んで、天井に向かって吐き出した。ミミコは私の耳を噛んでそのまま耳元で、夜ご飯食べて帰ろう、と言った。
 掃除をしながら何を食べようか話し合った。『くるくる』以外に何も思いつかないまま、掃除を終え、とりあえず帰路についた。コンビニで適当に何か買って帰ろう、とミミコが言って、そうしよう、と返した。
 私たちは手を繋いだまま店の中を何周かして、なんてことないサラダとチキンステーキのお弁当を買った。牛乳と氷も買った。コンソメ味のポテトチップスと大きなペットボトルのジンジャーエールも買った。

 窓辺の机に買ったものを広げて、ジンジャーエールと牛乳で乾杯した。お弁当を食べながら、彼女のお母さんの話をした。彼女は今もまだ詩を書いていて、再来年から小説に戻る予定らしい。ミミコのことを大切に思いながらも心の中で最も重きを置いているのはいつも小説のことで、ミミコはそれを子どもの頃から嬉しく思っていたそうだ。私と一緒に実家へ帰るという電話に、今までにないくらい喜んでたよ、とミミコは言った。私はその喜びに見合う人間だろうかと思いながらも、彼女の母親に会うのが待ち遠しくなった。
 ミミコは小さな紙に何かを書き付けていた。私は窓の外の積もった雪を見ている。ミミコと一緒に過ごすようになってから、火のついていない煙草を唇に挟んでぼんやりする癖がうつった。彼女はたまに顔をあげて私をじっと見て、それからまた続きを書いてたまにポテチを食べた。
「ホットミルク飲む?」
「飲みたい」
 二人分用意したマグを机の上に置くと、ミミコは書く手を止めて伸びをして、それから、ありがとう、と言った。
「何書いてたの?」
「詩みたいなの」
「出来あがったら見せて欲しい」
「いいよ」
 私たちは足でじゃれながらミルクを少しずつ飲んだ。
「飲み終わったら海まで歩かない?」
「うん」

 昨日よりも服を着込んで、海を目指して歩いた。ミミコは私に抱きつくようにして歩いている。私は左手で煙草を持って、右手をミミコの体に回した。彼女は髪をおろしてダウンジャケットのフードをかぶっている。たまに目に入る鼻先が赤くなっていて、私はそれを見て頬のあたりが熱くなる感覚に気付いた。ミミコの生まれ育ったところは常夏と言っていいくらいで、もう十年近く住んでいるこの街の冬にまだ慣れていないらしい。私たちは数日後に湖で泳いでいるのかと考えると、たまらなく浮かれた気分になった。
 道路も歩道も、灰色のゼリーみたいな雪で汚れている。私たちは歩幅を狭くしてゆっくり歩いている。ミミコは私の脇をたまにくすぐって、私のあげる声に喜んでいた。
 海までの二十五分間、誰ともすれ違わなかった。車が数台向こうから走ってきたが、誰も私たちを追い越さなかった。海は荒れていて、その割に風は強くなかった。浜辺のベンチに座って煙草を吸った。ミミコはやはりというか、火をつけないままで海を眺めている。長い髪が緩い風で揺れている。フードが風で膨らみ、彼女の首にしがみ付いているように見えた。私はミミコの頭に鼻をくっつけて匂いをかいだ。砂浜に落ちているたくさんのものが影にのまれ、小さな動物がうずくまって何かをやり過ごしているように見えた。何をやり過ごしてるんだろう。
 じっとベンチに座っていても不思議と寒いと感じなかった。ミミコは寒そうに体を縮めて左右に揺れている。ミミコがいつもするみたいに彼女の耳を噛んでみた。彼女は一瞬震えてから目を細めて私を睨んだ。私は笑って、ミミコの真似、と言ってもう一度、反対の耳を噛んだ。ミミコは抵抗せずにじっとしていて、私の中で意地悪な気持ちが頭を擡げ始めた。そのまま耳の色んなところを甘噛みした。だんだん温かくなるミミコの体が服の上からでも分かった。彼女の耳はシンプルな造りで、盛り上がった部分も覆うような部分もあまりない。小さな耳たぶはふっくらしている。
 ミミコが、もうおしまい、と言うまで両方の耳を噛んだり、吸ったり、舐めたりした。ミミコは顔を真っ赤にして、泣いたあとみたいな目で私を睨んでいる。私は自分の中にこんなにも意地悪い心があったのかと驚き、真っ赤な顔のミミコの頭を撫でた。彼女が電話でタクシーを呼び、浜辺から出てすぐの売店の前で煙草を吸いながら待ち時間をつぶした。ミミコはダウンの前を開けていて、私のことをまだ睨んでいる。被り直したフードの影から見えるその顔が可愛くってしょうがない。髪がくしゃくしゃになるように頭を撫でたい。

 私たちはタクシーが来るまで煙草を吸い続けた。ミミコは二本吸ったあとジップを首まで上げ、寒い寒いと言った。私が、こっちへおいでよ、と言うと、意外にもすんなり、急ぎ足で私のそばまででやってきた。彼女を後ろから抱きしめ、寒いねえと言った。ミミコは何度も頷いてから、駄々をこねるみたいな声で、早く家に帰りたい、と言った。
 タクシーはミミコの電話から十分後に到着した。私とミミコは開いたドアを飛び込むみたいにくぐって、シートに深くもたれかかった。私たちはひとつの座席に収まるようにくっついて体を震わせていた。ミミコが住所を告げると、返事もしないまま急旋回し、今し方通ったであろう道を猛進した。

 玄関の鍵を閉めてそのままベッドになだれ込み、朝まで眠った。先に目が覚めたのはミミコで、彼女は朝食の準備をしていた。私はしばらくベッドの上でぼんやりしてから、おはよう、と声をかけた。ミミコは振り向いて、おはよう、と言い、明日から旅行に備えて店を閉めるつもりだから今日が最後、頑張ろう、と続けた。頑張ろー、と返してミミコの隣に駆け寄った。

 今年最後の来客数は二十三人で、比較的ゆったりとした一日だった。私の今日の仕事は下の階での作業が主で、画集を整理し、この画集を読んだなら次はこれ、と私が思い描くルートみたいなものを、それぞれの画集から考えて表のようなものを作った。数が少ないからこそできることではあるが、ミミコのようにお客さんの手助けになれればと思った。
 昼過ぎに滑車の音が聞こえ、マグが二つ降りてきた。ミミコは梯子をつたって下りてきた。休憩しよう、と言う声を聞いて、二つのマグを机に運んだ。
「疲れたでしょ」
「ううん、楽しくてそんなに疲れてない」
「そう、それなら良かった」
 熱いコーヒーをちびちび飲んで煙草を吸った。
「今日は自分の家に帰るね、それで荷造りして、夜か明日の朝にまたお邪魔してもいい?」
「いいよ、私も今日のうちにある程度準備しておく」
「ありがとう。水着とかTシャツなんかは向こうで変なのを買おうよ、だから水着は無しで薄い服は最低限」
「分かった、上着はどのくらいのが必要?」
「私はほとんど着ないけど、薄手のパーカーくらいあればいいかもしれない」
「じゃあそうする」

 店を閉めて、ミミコが作ったプレイリストを流しながら大掃除をした。床やサッシを磨き、カーテンを新しいものに変えた。深い青色から濃い緑色のカーテンへ変わった。『渠』がより近しい空間になったように思う。無香の防虫剤をいたるところにおき、細かな塵を払った。小さな箱に加湿剤と一緒に煙草を入れた。ガムテープで封をして、ボールペンでいくつか穴を空けた。残った焙煎後の珈琲豆は分けて持ち帰ることにした。

 家に帰って一時間くらい、久々に感じる一人きりの時間を窓辺で過ごした。私はそれでも今夜中にミミコが帰ってくることを望んでいて、持って帰った豆で淹れたコーヒーを飲んでいるあいだも、煙草を吸っているあいだも、画集を繰っているあいだも、ずっと彼女からの連絡を待っていた。洗濯物をたたんでから、昨日のミミコを思い出しながら一人でした。そんなことは今までになかったことで、一瞬自分自身が誰だか分からなくなったような気がして、でもそれは勘違いで、ただ隅の方に隠れていた自分を見つけただけだ。石鹸で指を洗って、途中で消した煙草に火をつけた。
 ミミコから連絡があったのは二十二時くらいで、荷物を置いたら『くるくる』へ行こう、ということだった。それからすぐにインターホンが鳴り、私は早く彼女に会いたくて、迎えに下りた。
 ミミコの荷物は私の家に置いたままのリュックと大して変わらない大きさで膨れてもいなかった。私はそれで荷造りを忘れていたことを思い出した。ミミコは笑いながら、明日一緒にしよう、と言った。

『くるくる』は外のソファ席以外満席に近かった。奇しくも年末最後の営業日らしく、ヒキタさんの学生時代の友人知人で賑わっていた。私たちはいつもの席に横並びで座ってメニューを見た。いらっしゃいませ、と言いながら向かいの席に座ったヒキタさんは少しも疲れている様子がない。
「騒がしくて悪いね、同級生とかが来てくれててさ」
「そんな、問題ないですよ」
「ヒキタくんも今日が最後?」
「うん、毎年年末になると来てくれるんだよ、普段はほとんど来ないけど」
 大勢の友人に囲まれるヒキタさんを見ていると不思議な気持ちになった。彼は一人で飄々と考え事をしている姿が一番しっくりくるように思えてしまう。それは、ヒキタさんが、これだけの人数といても普段と全く変わっていないように見えるからかも知れない。

 しばらく三人で話してから、ハンバーガーのセットを頼んだ。私はオニオンリングとハンバーグ、ミミコはローストチキンとクリームチーズフライ。
 ミミコは、明日から二人でゆっくりしようね、と言った。私は、うん、と言って彼女に初めてキスをした。薄く開けた瞼の隙間から驚いて瞼を見開いたミミコの目が見える。彼女がゆっくり瞼を閉じるのを見て、私も同じようにした。唇を離すとミミコは笑って、嬉しい、と言った。その顔はまた赤くなっていて、私は今すぐ彼女と二人で消えてしまいたくなった。

 私たちがハンバーガーを食べ終え、残ったフライを食べている頃に、大勢いた人たちは帰っていった。ヒキタさんは通りに出て手を振っている。千鳥足に近い彼らは大声で何かを言っているが、聞き取ることはできない。
「お疲れ様」
「ありがとう、疲れたよ。ここいいかな?」そう言うヒキタさんは疲れているようには見えない。
「うん」
 ヒキタさんは向かいに座って、腰を伸ばした。元の姿勢に戻って頭を撫でるのを見て、絵を描いている彼の姿を想像していたことを思い出した。
「ヒキタさんって、アトリエか何か、絵を描く部屋みたいなのってあるんですか?」
「実家に住んでる時に使ってた部屋で描いてるよ、狭いけどまあ、どれだけ汚れても構わないしね」声色も普段と変わらない彼は、一体どういうとき、私の知らない彼になるのだろう。絵を描いているときの彼はいつもと違っているのだろうか。
「今度見に行ってもいい?」
「部屋を?絵を描いてるところを?」
「絵を描いてるところと同時に部屋を」
「いいよ」ヒキタさんは笑って、髭を触りながら言った。
「私も、いいですか?」
「もちろん、って言っても別に変わったことなんてないと思うよ」
「それでいいの」
「ふーん、じゃあ年明けで都合のいい時に来てよ」
「ありがとうございます」
「ありがとう」

 会計のためにレジのところへ行くとヒキタさんは、今日はいいよ、今年も一年ありがとうございましたってことで、と言って、それじゃあ尚更払わせてよ、とミミコが言い、私が、そうですよ、と言うと、じゃあ今日は初めから俺の奢りだったってことでさ、とレジスターの鍵を閉めた。
「それじゃあ、ありがとう、ごちそうさまでした」
「ごちそうさまでした」
「いいよいいよ、二人は本当によく来てくれてるし、たまにはさ」
「ヒキタくんだってよく来てくれるじゃん、でも、まあ、ありがとうね。お疲れ様でした、良いお年を」
「本当に、ありがとうございます。今年もお世話になりました、良いお年を、お過ごしください」
「気まずくなって来年から来なくならないでね、二人も良いお年を。仲良くね」

 和やかな年末を過ごしたのは久しぶりで、私はこの人たちと出会えてよかった、と簡単なことしか考えられなくなっていた。あまりに健やかで楽しくて、勝手に涙がでそうになったけれど、これを涙と呼んでいいのか分からない、でもこれこそが涙なのかも知れず、私は帰り道で静かに泣いてみた。ミミコは私の頬に涙越しにキスをした。声は出さないで流れてくるままに、二人で並んで歩いた。

 私たちは一緒にシャワーを浴び下着のままで窓辺に立って煙草を吸った。いつのまにか降っていた雪はほとんど真横になっていて、外に出ることを想像した私は身震いした。
 寒くなってきた、と言った彼女は煙草を灰皿に置いてベッドに潜り込んだ。私は二人分の煙草を消し、彼女に倣った。ミミコと私は頭だけ出して、寒いーと言い合った。
 寒いよーと言い続けるミミコの左耳を噛むと静かになって、頭まで布団のなかに隠れた。ミミコを追って私も布団を被り、彼女を抱き寄せた。起伏の少ない耳を口に含んで舌を動かした。腕のあいだで体を捻っている彼女は逃げ出そうとしているわけではないようで、私はそのまま舐め続けた。ミミコから今まで聞いたことのない声を聞き、私はまた私の中の意地悪い部分と対面した。
 ミミコの下着を取って、彼女を押し上げるように、私はベッドの下の方へ移動した。私が膝を持って開こうとすると軽い抵抗がある。少し力を入れると簡単に広がって、私はそのまま顔を埋めた。ふだんミミコと過ごしていて、ミミコの匂いだ、と思うものとは全く違っているのに、いま布団の中はミミコの匂いでいっぱいになっている。彼女は腕かシーツを噛んで、はっきりした声を出さないようにしている。
 ミミコの体が小刻みに震えてくるまで続け、動きを止めた。ミミコは途中から何も噛まなくなっていて、布団の中で変にくぐもった声が響いていた。ミミコが私の体を引き上げた。私たちは暗闇の中でたぶん見つめあっていた。ミミコは私を横に倒し、彼女にしたように動いた。私は初めから隠さず声をあげて、ミミコの柔らかい舌や指を余すところなく感じようとした。どれくらいの時間そうしていたのか分からないけれど、私たちはそれぞれの持ち得るすべてを持ち寄り、隅から隅まで見せ合った。

 昼も大きく過ぎただろう時間に目が覚めた。ミミコは丸まって眠ったままで、私は体中の気怠さに、もう一度眠ることにした。
 次に目覚めるとミミコの姿はなく、リビングを漂う煙が見えた。窓の外はもう薄暗くなっている。私はどれだけ眠っていたのだろう。おはよう、と声を出すと喉が枯れていることに気が付いた。同じく声を嗄らしたミミコの声が聞こえ、煙草の火を消す音が続いて聞こえた。ミミコは髪をくくりながら寝室に来て、ベッドに倒れこんだ。私のすぐそばにある彼女の顔は笑顔で、きっと私も笑っていた。
「休みが始まってすぐ、こんな時間まで寝ちゃうなんて子供みたいね」
「ミミコはいつ起きた?」
「ついさっき起きたよ」

 それから『くるくる』へ行こうとして途中で、休みだと思い出した。私たちはそのまま『KIWI』へ行ってカレーを食べた。小さなじゃがいものフライとポークソテーのカレー、シンプルなビーフカレー、蕪の福神漬けと別の小皿に盛った黒豆の日だった。たまにしか来ないにしても、本当、いつ同じメニューにあたるのだろうか。
 ミミコは食べ終わるまでに、作り方を教えてもらいたい、と七回は言っていて、デザートのプリンを食べている時にも、作り方を知りたい、と言っていた。彼女が喫煙可能か訪ね、私が灰皿を受け取った。私たちは煙草を吸いながら、店主と軽い世間話のようなものをした。
「年内は何日まで営業されてるんですか?」ミミコは煙を吐き切ってから言った。
「うちは休みなしです」
 おそらく二人とも、少なくとも私は、明日から毎日ここへ来るだろうと思って、顔を見合わせた。ミミコは嬉しそうな顔で、私にだけ見えるように小さくガッツポーズをした。
 店主は、これサービスです、と言ってラッシーを二つ私たちの机に置いた。ミミコは、ありがとう、と言って、私は、ありがとうございます、と言った。私はこういうとき、ありがとう、と言えるミミコを羨ましく思う。私よりも早く、ここの店主と親しくなれるだろう。仲良くしたいと思っているわけでもないけれど、私が羨ましいと思うのはそういったことばかりで、どういうつもりなんだ。ラッシーは今まで飲んだ中で一番美味しくて、これ以外ラッシーじゃないんじゃないかと言い合った。

 帰り道は雪が降っていて、ミミコは小走りで私の先を進んで行った。遠くの方で大きな音が鳴って、私の耳と目はそこへ飛んでいった。私の体はそこで止まって、ミミコはどんどん遠ざかっていく。私が聞いたのは人がツーシーターの車に轢かれる音で、轢かれたのは小さな子供だった。男の子で、母親の前を走っていた。母親は、危ないから待って、と緊張感はない声で叫んでいて、それで男の子は轢かれた。私は声を出そうと力を込めた。ミミコは見えなくなった。でもたぶん隣にいて、道の真ん中に立ちすくむ私を振り返って戻ってきたのだろう。大丈夫?私はまだ声を出せないでいて、まずは爪先から力を入れようとした。足の指を動かそうとすると、声に比べて簡単に動いた。靴下や靴の中敷の感触が分かる。点字ブロックの凹凸も分かる。そのまま足首、膝、腰と感覚を確かめていった。ミミコは私を抱きかかえるようにして道の端に寄せ、抱きしめた。肩や服越しの皮膚がミミコの体温を感じる。
 つっかえてていたものが押し出されるみたいに声が出た。音量を制御できなくてミミコを驚かせてしまった。言葉にならない声で私はなぜか、行かなきゃ、と言った。ミミコはまだ言葉になっていない私の声を聞いて二度目に、どこへ?、と言った。今度は私が驚いて、彼女の顔を見てから道の先を指差した。
 ミミコに抱きかかえられるようにしてゆっくり歩いた。私は少しずつ形になってきた声で、ここを右、と言った。道を曲がってすぐに、遠くの方に人影が見えた。しゃがみこんでいるその人影は近づいていくと震えていることが分かった。たぶんそれは私が見た女の人で、彼女のそばに見えている歪んだ足は男の子の足だろう。ミミコは私を近くのコンビニの階段に座らせ、彼女らの元へ駆け寄った。電話を取り出して、おそらく救急車を呼んだ。私はガラスにもたれかかって彼女たちを見つめていた。ミミコはちらちら私の方を見ながらも母親の側にしゃがみこんで、彼女の背中を優しく撫でていた。母親はもう座り込んでいて、肩を上下に激しく震わせていた。
 救急車とパトカーが来たのはそれから数分もしないうちで、ミミコは母親の通訳のようにあれこれと説明していた。母親とその息子が乗った救急車を見送ったミミコは私に駆け寄り、大丈夫?と言った。私はいつも通り話せるようになっていて、うん、と返した。ちょっと待ってて、と言ったミミコはコンビニへ入り、すぐに常温のミネラルウォーターを買ってきた。私はそれを何口か飲んで、ありがとう、と言った。

 家に帰ってベッドに寝転がるまで、彼女は何も聞かずにいてくれた。私は天井を眺め、男の子の顔や運転手の女の顔を思い出していた。ミミコがふちに腰掛け、私のお腹を撫でた。煙草いる?という質問に頷いて、私は彼女を待った。灰皿を二人のあいだにそっと置いて、火のついた煙草をくわえさせてくれた。できる限り深く吸い込んで、肺に煙を溜めた。勢いよく煙を吐き出すとそれと一緒に何かが飛び出したみたいで、少し気分が落ち着いた。ミミコは寝転がって私の顔を見つめている。右手で私の胸やお腹を撫で、左手は彼女自身の頭を支えている。
 しばらくそうしてから、どうして分かったの?、とミミコの声が聞こえた。私は何のことか分からず、ミミコの顔を見上げて首を傾げた。
「さっき、行かなきゃって」
 ミミコは左腕を伸ばし顔を寄せた。彼女の左耳が捕える音はきっと今くぐもっている。
「ミミコは、音、聞こえた?」
「うん、聞こえたよ、でも特に気に留めなかった」
「私も、音が聞こえて別に何も考えなかったんだけど、勝手にそっちに、ってあの場所に寄っていって、見えたの、男の子が車に轢かれるのが」
「見えたって、目の前で?」
「ううん、何か思い出す時みたいに頭の中で映像になって出てきた」
「そういうことってよくあるの」
「たまに」
 ミミコは目を閉じて小さく唸った。音に喚起されて作られた映像を見たのだろうか。本当に男の子はツーシーターの車に轢かれたのだろうか。彼は母親から走って離れていったのだろうか。

 飛行機に乗る前日まで私たちは『KIWI』へ通った。事故を見た日を除いて毎日明け方まで戯れあって、昼過ぎまで眠った。目が覚めてから日が落ちるまで、部屋の中でそれぞれの時間を過ごした。私は連載の記事を書いたり、煙草を吸ったり、本を読んだり、柔軟体操をしたりして、ミミコはほとんどずっと本を読んでいた。
 結局荷造りは前日までせずにいて、慌てて、といっても結果的に国内旅行の時よりも少ない荷物になったのだけど、二十リットルのザックに入れた。私はミミコの前に必要そうなものを持って立ち、彼女の首が頷くか揺れるかするのを待った。次々に首を振るミミコを見ていると、楽しそうな顔をしているせいか不安になってきた。彼女の言う通りに向こうで買えばいいのだけど。

 夕方になってもう馴染んだ感覚で『KIWI』へ行った。私たちは腕を組んで寒さをしのごうとした。まだ夕陽が私たちを照らしている。久々に陽があるうちに外を歩いた。
『KIWI』の前には看板が出ていて、臨時休業、と書かれていた。私たちは、えー、どうしよう、と言って、ミミコがヒキタさんに電話をかけた。彼女はスピーカーをオンにした。
「どうしたの?」
「ごめんね。この辺りで美味しい夜ご飯食べられるところないかな?」
「くるくる以外で?」ヒキタさんは笑った。
「そう、くるくる以外で。ないかな?」ミミコも笑ってる。
「こんばんは」
「ああ、一緒にいるんだね」
「はい、突然すみません」
「全然問題ないよ、KIWIってカレー屋は行った?」
「今その前で、臨時休業の文字を見ながら電話中」
「休みなんて珍しいな、うーん。じゃあ、うちで食べる?」
「え、いいの?」
「いいよ、ルリもいるけど、それが大丈夫なら」
「私たちは本当にもう気にしてないですけど、むしろルリさん、私たちが行って大丈夫なんですか」
 ルリー、と少し遠くなった声が聞こえた。私たちは変てこなことになりそうだとにやにやしていた。
「大丈夫だってさ。迎えに行くよ、寒いだろうから家で待ってて」すこししてヒキタさんの声が戻った。
「ありがとう」
「ありがとうございます、ミミコに住所送ってもらいます」
「おっけい、じゃあ後ほど」
「はーい」
「待ってます」

 ミミコはすぐにメールを送った。十五分くらいで着くとのことで、私たちは急いで家に帰った。彼女は、なんか楽しいね、と言った。
 私たちはロビーの前で煙草を吸いながらヒキタさんを待った。二本目に火をつけようとしたところでヒキタさんの車が目の前に止まった。小さな四駆の車で、何となく彼らしいと思った。彼は運転席の窓を下ろし、お待たせしました、と言った。ルリさんは助手席に座っていて、緊張した顔で会釈した。私たちも軽く頭を下げ、後ろに乗り込んだ。
「ありがとうねヒキタくん、急にごめんね」
「ありがとうございます」
「いいよいいよ、なんか楽しいじゃん」
「うん、ルリさんも、ありがとう」
「いえいえ、この間はすみませんでした」
「もういいってさ、ルリ」
「でも」
「本当にもう、というかあのときすでに大丈夫でしたよ。なんか変な言い方だけど」
「ありがとうございます」
 振り向いて話すルリさんにヒキタさんは、酔っちゃうよ、と言って肩に触れた。ルリさんは、うん、と言って前を向いた。
「何が食べたい?」
「ヒキタくんのおまかせで、ルリさんの食べたいものとか」
「ルリは?」
「私は和食、が食べたいです」
「じゃあちょっと買い物するよ、二人は和食でいい?」
「うん」
「お願いします」

 車内では落語が流れていて、私はルリさんの好みなのかヒキタさんの好みなのか分からないでいる。しわがれた声が心地好い。その噺家の声でしかないのに、ほんのすこしの声音の変化でたくさんの違った人の顔が浮かんでくる。
 スーパーの駐車場で車を停めるとヒキタさんは、じゃあさっと買ってくるから、と言って車を出た。私たちは三人になって、とくにルリさんが気まずそうにしていた。ミミコは、ルリさんはどういう本を読むの?、と聞いた。ルリさんが挙げる作家の名前は一つも知らなかった。ミミコは一つ一つに反応していて、当たり前のことなのかもしれないが、さすが本屋さんの店主、と思ってしまった。二人はしばらくあの作家のあの本はどうだ、この作家のこれはどうだと話していて、今まで本を読んでこなかった自分を憎ましく思い、少し恥ずかしくなった。

 ヒキタさんが帰ってくるまで私は一言も話さず、二人の話をただ聞いていた。ミミコとルリさんはもう仲良くなっているようで、私は何となく嫉妬し始めていた。ヒキタさんは両手に袋をさげて戻って来た。
「お待たせ、そういえば家になんにもないからさ」
「いえ、ありがとうございます」私はここぞとばかりに声を出した。
「ありがとうね、ルリさんと仲良くなれたかも」
「あ、本の話?」そう言いながらヒキタさんは車を出した。
「うん、ミミコさんの店、今度はゆっくり見に行きます」
「ありがとう、待ってるね」

 そういえば、食べられないもの聞くの忘れてた、とヒキタさんが言い、私たちは口々に、ないです、と言った。ないです、と言ったのは私だけで、二人は、ない、と言った。ヒキタさんは、おっけー、と言って、あと少しで着くよ、と言った。私はミミコの手を握った。彼女は強く握り返し、小さな声で、大丈夫だよ、と言った。私は何について言っているのか分からず何も言わずそのままでいた。

 ヒキタさんの家は山沿いにある一軒家で、彼は車を停めながら、ようこそ、と言った。私たちが降りるより早く降りたヒキタさんはトランクからスーパーの袋を出して、私たちが車を出て扉の前に着くころには手ぶらで扉を開いて待っていた。ミミコはルリさんに微笑んで、ルリさんも微笑み返した。二人の言外のやりとりを想像してまた胸のあたりが苦しくなった。私は何歳なんだ、と思いながら、ミミコほど好きになった人が今までいただろうかと思い返し、仕方ない、でも表には出さないように、と言い聞かせた。

 リビングには炬燵が出ていて、ルリさんとミミコは急いでそこへ足を入れた。ヒキタさんは、じゃあ作るよ、とも言わず、もう何かを洗ったり切ったりしていた。向かい合って座った二人の足が今触れ合っているのかと考えると私の体は熱くなって、どこへ座ればいいのかわからなくなった。
 ミミコが、入りなよ、と言うまでちょこちょこ歩き回ったり、何か手伝えることありますか?、とヒキタさんに訊ねたりしていた。
 炬燵に足を入れ、いつのまにかあった麦茶を飲んだ。ヒキタさんはキッチンから、煙草吸っていいからね、と言った。
  ルリさんが立ち上がって灰皿を持ってきてくれた。私たちは、失礼しまーす、と言って煙草に火をつけた。ルリさんはキャスターを吸った。
「ルリさんも吸うんだ」
「はい、トウだけですね今ここで吸わない人」
「なんか悪いね」
「私もいつもそう思いつつもやめられないです」
「あなたはいいじゃない」
「トウが気にしてる様子もないんでそれに甘えてます、お二人のそれ何ですか?」
「巻き煙草です、ミミコのところで」
「へえ、一本いただけませんか」
「もちろん」
「私のも良かったら」
 私たちは煙草を交換してそのまま吸い続けた。ルリさんの仕事の話や旅行の話をして料理を待った。
 久々に吸う紙巻は喉が焼けるように痛い。ルリさんは美味しそうに巻き煙草を吸っていて、今度絶対買います、と言った。彼女は57が気に入ったようで、私はキャスターは貰わずに五本渡した。

 ヒキタさんの料理が並んだのは、家に着いてから一時間もしないうちで、私はなぜか少し感動した。
 みんなで手を合わせて、いただきまーす、と言った。くるくるとは別の料理なのに、何を食べてもヒキタさんの料理の味がして、そりゃあ作ってるんだから、とは思いつつも不思議だった。里芋を揚げたのが美味しかった。お吸い物の出汁が美味しかった。小骨までとりのぞかれた焼き魚が美味しかった。
 私たちは黙々と食べて、全員ご飯をおかわりした。ヒキタさんは嬉しそうな顔をしていて、今まで私は素のヒキタさんを見たことがなかったのではないかと考えた。多分、それは事実で、そんなことを言えば、ミミコのことだってまだ何も知らないのと同じで、何ならルリさんの方がミミコのことを知っているんじゃないだろうか。
 食べ終わってから、私はヒキタさんと洗い物をした。ミミコとルリさんは炬燵で本の話をしている。
「美味しかったです、ご馳走様でした」
「良かったよ。明日は朝早いの?」
「いえ、昼過ぎに空港へ着いてればって感じです」
「そうなんだ、じゃあまあ、ゆっくりしていきなよ」
「はい、ありがとうございます」
 ルリさんとミミコの笑い声が聞こえる。私は彼女たちのそばで彼女たちが話すのを聞いているのに耐えられなくなって、洗い物をすると言い出した。
 ルリさんのことが嫌いじゃないのにこんなに大人気ないのは、私が分からない話で、ミミコが一番関心を持っているであろう話で、二人が楽しそうにしているからで、私はいつまで自分のことばかり考えているんだろうかと思った。私が幸せにしたい人が他の人との関わり合いで幸せそうにしていることが、どうしてこんなに気に食わないんだろう。

 洗い物が終わってリビングに戻ると、ルリさんは眠っていて、ミミコはキャスターを吸っていた。ヒキタさんがルリさんに声をかけた。彼女はふらふらと立ち上がり、すみません、お二人ともごゆっくり、おやすみなさい、と言い、リビングを出て階段を上がっていった。
「いつもご飯食べたらすぐ寝ちゃうんだよ」
「動物みたい、二人とも洗い物ありがとう」
「ううん」
「あ、二人とも吸う?」
「もう吸ってるよ」
「いや、そうじゃなくて」
「ああ、分かった。もらおっかな」
「おっけい、ちょっと待ってて」

 リビングを出て階段を上がっていくヒキタさんの背中を見送ってから、なに?、と訊ねた。ミミコは私に耳打ちし、私は大きい声で、え、と言ってしまった。
「ヒキタくん、煙草は吸わないんだけどね」
「なるほど」
 数分もしないうちにトレーを持ったヒキタさんが下りてきた。トレーの上にはタッパーと薄茶色の紙、短いフィルターが乗っていた。机の上にそれを置いて、慣れた手つきで巻き始めた。ヒキタさんは薄手のダウンジャケットを着ているが炬燵には入らないでいる。
「じゃあ、初めての人もいるから回そうか」
「そうね」
「はい」

 ヒキタさんが火をつけて吸い始めた。私は心臓がどくどくなっているのを感じた。彼は吸い込んだ煙をすぐには吐き出さず息を止めていた。嗅いだことない香りが漂っている。青草みたいな、香ばしいような、何種類かの香りが混ざらずそのままあるような感じだった。ミミコが吸っているあいだに、ヒキタさんに説明を受けた。吸い込んで、キープ、ゆっくり吐き出す、初めてだから軽く吸うように。
 私の番がまわってきた。薄くくわえて煙を吸い込んだ。口を離して息を止めた。目が充血するような感覚がある。音がならないように息を吐いて、もう一度同じように吸った。
 それを三周して、ヒキタさんが火を消すころには、私もミミコも変になっていた。お互いの冗談に面白くもないのに笑い、すぐに黙って何かをじっと見つめた。ヒキタさんは笑いながら私たちを見ている。
「気持ち悪くない?」
「うん、大丈夫」
「私も、大丈夫です」
「二人ともきてるね」
「こんな感じなんですね」
「喉渇いたでしょ」
「乾きました」
 ヒキタさんが麦茶を注いでくれた。音が耳の近くで鳴っているように聞こえる。それに立体的だ。私の心臓は初めよりさらに強くどくどくなっている。ヒキタさんはいつも通りに見える。私とミミコは寝転んで、炬燵の中で手を繋いでいる。

 しばらくして私とミミコは元に戻った。やっぱりヒキタさんは変わっていないように見える。時計を見てから、あの時計止まってますか、と訊ねた。ううん、感覚がおかしくなってたんだよ、とヒキタさんは言って笑った。私とミミコが変になっていたのは一時間くらいで、私はもう三時間くらい経ったと思っていた。彼は、コーヒーでも飲もうか、と言った。ミミコが、私が淹れるよ、とヒキタさんの後についてキッチンへ行った。
 私は炬燵で寝転んだまま天井を眺めていた。ヒキタさんとミミコは昔からこんなことをしていたんだろうかと考えていた。ルリさんとミミコが話している姿を目にする時ほどは嫉妬心みたいなものは湧かなかった。それはやっぱり、私が女の人を好きになるからだろうか。何故か、そうではない、と思った。
 ミミコの淹れてくれたコーヒーはいつもより美味しく感じた。私はまだ元に戻っていないのかもしれない。

 私たちは日が変わる前に家に送ってもらい、荷物をチェックして服も着替えずにベットに潜り込んで朝まで一度も目覚めずに眠った。
 先に目が覚めたのは私で、ミミコを起こして一緒にお風呂に入った。彼女は、昨日は楽しかったね、と言った。私は少し遅れて、うん、と返した。
「ルリさんにヤキモチ妬いてたでしょ」狭い浴槽の中でミミコは私の目を見て言った。
「うん、ごめん」
「ううん、分かりやすくて可愛かった」笑っている。嫌みでないことが分かる。
「ルリさんに強く当たっちゃってたかな?」
「言動には出てなかったよ、雰囲気で分かった」
「雰囲気」
「そう」

 お風呂から上がって一度窓辺で互いを興じてから身支度を整えた。ミミコは私の体が好きだと言った。もちろん、体だけじゃなくて、とは言わなかったけれど、それは言わなくても私が分かっていることを分かっていたからだ。私も、ミミコの体が好きだよ、と言った。何も言い足さなかった。私の言葉を聞いたミミコの表情を見て、何も言わなくていいと分かった。
 私たちはタクシーを呼んでから煙草を吸った。雪は降っていないが寒そうな色をしている。私が淹れたコーヒーを飲みながら待った。ミミコは私の脛を足の指で撫でている。私は空いた手でミミコの手の甲を撫でている。二人は煙と窓越しに外を眺めている。指を動かしている感覚はない。あるのはミミコの手の甲の感触だけで、そのほかはない。
 私はそのとき、むしろ本当に彼女は、私の体のことも好きでいてくれているのだろうかと考え始めていた。ミミコに比べると私の体は美しくはない。彼女の体は服を脱いでも違和感がないほど完璧だった。

 タクシーが到着する前に私たちはロビーへ下りた。ベンチに座って煙草を巻くミミコを眺めた。私は意味を成していない掲示板にもたれかかっている。彼女は太ももに挟んだパウチのようなものから煙草の葉を片手で器用に取り出し、左手で持った紙にのせる。口にはフィルターをくわえている。一本分のせ終わったのだろうか。彼女は両手を使って紙を揉んでいるように見える。舌の先ですっと紙を舐めて、あっというまに出来上がった。巻き終わったミミコは、店にあるのは舌じゃないからね、と笑いながら言った。
 ミミコが煙草を六本巻いたころ、タクシーが来た。後ろに乗り込んですぐミミコが、空港までお願いします、と言った。運転手はよく聞き取れない声で何か言って、それから車を発進させた。何を言ったか分からないのに丁寧な印象を抱いた。ミミコは煙草をくわえ火をつけようとしていた。私が止めるよりも早く、何にも考えてなかった、と言ってポケットにしまった。運転手は後ろの二人の動きや気配を、あれは何だったんだろうと考えていたのか、しばらくしてから、構いませんよ、とはっきりした声で言った。私たちは何のことか分からず黙っていた。運転手は何かを盗み見るようなおずおずとした声で、お煙草、とだけ言った。それでも一瞬理解できず、そのすぐ後で分かった。私とミミコは、ありがとうございます、と言って取り出した煙草に火をつけた。
 高速道路を走っている途中、ヒキタさんから電話があり、昨日はありがとう、気をつけてね、また新年に、という内容だった。私たちは代わる代わる話した。それからしばらく、ヒキタさんがいかに素晴らしい人かと二人で話し合った。ミミコがヒキタさんの真似をした。高速を降りるまで、私とミミコと偽ヒキタさんは話し続けた。

 タクシーの運賃は、何となく私が払った。ミミコは、ありがとう、と言った。手続きを済ませる前に今更荷物をチェックした。二人とも余分なものは一切入れていなかった。チケットはミミコが持っている。
 エコノミークラスの狭苦しい座席に着くまで、私たちは施設内をあちこち回った。コーヒーを二杯ずつ飲み、私は『渠』でコーヒー修行をするべきだと怒った。ミミコは笑って、かなり厳しく教えないとね、と言った。余分なものと一緒にペンを置いてきた私はコンビニでボールペンを買った。ミミコは付箋を買っていた。
 不味いコーヒーを出す喫茶店の隣の店でオムライスを分け合った。
 隣の人とのあまりの近さに気が滅入った。ミミコは、ここからまずは六時間、頑張って、と言った。私はさらに気が滅入りながら、頑張る、と言った。彼女は分厚くはないが、私からすると薄くはない本を十二冊持ってきていた。どのタイミングで読み終えるのだろう。私は夜の機内食が出るまで面白くない映画を一本観て、それから眠った。
 目が覚めるとテーブルの上に見た目から粗末なお弁当が載っていた。ミミコはもう食べ終わったらしく、目覚めた私の目と空の弁当箱を交互に見て、首を横に振った。ミミコはもう二冊も読み終わっていた。

 トイレに行くミミコの背中を見送ると、無性に煙草を吸いたくなった。未だに名前の覚えられない空港に到着してそこから四時間後の飛行機まで、心ゆくまで吸おうと決心した。
 席に戻ったミミコは、おやすみ、と言って眠ってしまった。私はミミコの膝の上のブランケットに乗った本を手に取った。名前は見たことのある作家の本で、日記だった。闘病中の妻との日々を書いたもので、私は他人の生活を覗いてみたくなって読み始めた。美術関係以外の本を最後に読んだのは八年以上前で、その割にすらすら読めた、というか着陸の一時間前くらいまで夢中になって読んだ。
 本をブランケットの上に戻すと、ミミコが目を覚ました。彼女は声を出さないで伸びをして、今何時?、と言った。私は、二十二時、と言って、本、読ませてもらった、と言った。彼女は首を傾げてから、ああ、と言って、おもしろかった?と言った。
「十年ぶりくらいに読んだけど、夢中になって読んだ」
「そう、良かった、いっぱい持ってきてるから読みたいのがあれば言ってね」
「ありがとう」

 中継地の空港は、最初の空港の何倍も巨大で、喫煙所を探すのに手間取った。十分くらい探してやっと見つけたブースは私たちが入るともう狭く感じる代物で、二本目を吸いながらも、こんなならない方がマシでしょ、と言い合っていた。
 私たちはベンチで仮眠をとることにして、次に乗る飛行機になるべく近いところで腰を下ろした。ミミコはすぐに寝入って、私は本の続きを読んだ。書き手の妻はもう手の施しようのない状態で、彼女との日々を綴る文章は日を追うごとに少しずつ乱れているようだった。いつからか、書き手に私を、妻にミミコを当てはめて読んでいた。正しい読み方というものがないにせよ、これは間違った読み方だと感じた。安直な共感を得たときと同じ気持ち悪さだった。私は、どうすればその読み方から離れられるのか分からなかった。読み進めるごとに息苦しさが増していく。ミミコを起こして話がしたいと思った。

 結局ミミコは搭乗できる時間まで眠り続けた。目を覚ましたミミコを抱きしめ、もう乗れるよ、と言った。ミミコは、はーい、と言って立ち上がった。伸びをして、じゃああと三時間頑張ってこう、と言った。
 私たちは荷物を背負って飛行機に乗り込んだ。それほど大きい機体ではなかったが、ここまで乗った飛行機よりも座席間はゆったりしていた。
 彼女の母親が空港まで迎えに来てくれるらしく、私はすで緊張し始めていた。ミミコは本を読んでいる。私も日記を読み進めた。
 書き手は妻が死ぬ十日前くらいからどんどん冷静さを失っていった。それまで第三者的に書かれていた文章がもっとずっと個人的な、文字通りの日記へと変わった。彼は妻がこの世からいなくなるのなら、他にもっと死ぬべき人間がいるのだから彼らも一緒にいなくなってもらわないとやりきれないと書いた。そんなことを思わずにいられない、そんなことを私が書かずにはいられない、と書いた。仮にもこれまで文章一本で食ってきた私がそんなことを心の底から思い、文字に起こしてしまった、と書いた。彼はこの日記を出してから一切の文筆業から手を引き、二年後に首を吊って死んだ。彼が、他に死ぬべき人間を彼女の代わりにと願わないことが、何故かよりいっそう切実な気持ちを感じさせた。
 私は読み終わってから息が上手くできなくなった。ミミコは背中を撫で、ゆっくり息を吐いて、と言った。私は彼女がいいと言うまで息を吐き、静かに吸った。右側に座った老人二人は私を心配そうに見ている、そんな視線を感じた。すぐ隣の老婆はミミコに何かを言って、ミミコは老婆と同じ言葉で何かを言った。そうだ、私は今からミミコの生まれ育った国へ行くのだ、と初めて感じた。その時は言葉にはなっていなかった。
 次第に落ち着きを取り戻した私は、ありがとう、さっきなんて話してたの?、と言った。
「大丈夫か?ってキャビンアテンダントを呼ぼうか?って、大丈夫です、じきに落ち着きますって言ったら、あなた話せるのね、ってびっくりしてた」
 私は老婆の方を向いて会釈をした。彼女はうっすら笑って、頷いた。確かに、ミミコとは顔の作りが全然違う。私とも違うけれど。それにしても、なんて綺麗な言葉なんだろう、と今さらながら考えた。老婆が話した時、そっか、もう海外にいるんだ、としか思わなかったけれど、ミミコが話し出した途端、綺麗だ、と一瞬だけ思ったことを思い出した。細かいアクセントが多く、その一つ一つが跳ねているように聞こえた。普段よりも低い声が、ミミコの存在を意識させた。二つしか変わらないが年の差を思い出させた。

 空港についてすぐ、私とミミコは喫煙所で煙草を吸った。そこへ行くまでに私は薄手のパーカーを腰に巻いて、シャツの袖を捲った。ミミコは半袖のポロシャツで、淡いピンクがよく似合っていた。
 小さな空港はその小ささゆえ人でいっぱいで、みな誰かを探すように歩き回っていた。ミミコはブースを出るときにサングラスをかけた。いつものミミコよりも体も心も安らいでいるようで、私は見ているだけで嬉しくなった。ミミコがこんなふうになるところへ一緒に来れて良かった、と思った。
 私たちはカウンターでポケットWi-Fiをレンタルした。当たり前だけど、ミミコは一切の滞りなく全ての手続きを済ませた。冗談か何かを言って、カウンターの男の子を笑わせた。
 私たちは喫煙所に戻って、ミミコの母親を待った。彼女は、あと二十分くらいだって、ごめんね、と言った。私は首を振って、煙を吐いた。
 空港の中をゆっくり見て回った。私は売店でサングラスを買って、ミミコは小さい焼き菓子を買った。カップケーキみたいな形で、外側には何もかかっていない。
 外のベンチに座って彼女の母を待った。ミミコは買った焼き菓子を食べて、懐かしー、と言って足をばたばたさせた。私は一口もらって、素朴な見た目からは想像できない強い香りに面食らった。初めて食べる味だ。シナモンに近いけれど、確実にシナモンではない何か。ミミコは私の反応を見て笑って、見た目より強烈でしょ、と言った。私は頷いて、もう一口、と言った。今度は味わおうと噛みしめていると、やはり強い香りに驚いてしまう。舌触りは滑らかで、練り込まれたドライフルーツは単純に美味しい。ミミコはすぐに食べ終わって、もう一つ買ってこようかな、と言って中へ入っていった。

 しばらくして、歩道を挟んで目の前の道路に薄い緑色の車が停まった。運転手は五十代くらいの女性で、高い鼻の形と上下ともに薄い唇がミミコを思い出させた。彼女はエンジンを切って外に出た。私の方に向けて歩きだし、歩道に入って半分くらいで私の名前を呼んだ。私は返事をして、この人がミミコのお母さんなんだ、と思った。多分そうだ、と。彼女は私の隣に座って、たどたどしく自己紹介した。私がゆっくり、はじめまして、きょうからよろしくおねがいします、と言うと二呼吸置いて、こちらこそよろしく、と言った。
 それから彼女は胸ポケットから取り出した煙草を吸いはじめた。私が止めるべきかと悩んでいると、後ろからミミコの声が聞こえた。お母さんは慌てる様子もなく煙草を路面で揉み消した。ミミコは袋にいっぱいの焼き菓子とミネラルウォーターを買っていた。
 私は二つのリュックと後ろに乗り込み、ミミコは助手席に座った。お母さんはエンジンをかけるとすぐに発車し、その加速の仕方に、はじめから走っている車に飛び乗ったような気分になった。ミミコが多分注意して、お母さんは笑いながら速度を緩めた。私は窓を開けて景色を眺めた。前で話す二人の声と明るい色の砂ばかりの風景が合わさって、私は遠くまで来たんだと実感した。
 甘い香りがして前を向くと、ミミコとお母さんが煙草を吸っていた。ミミコが振り返って、煙草吸ってもいいからね、と言った。私も仲間に加わって煙を吐き出した。
 大きな湖のそばを通る時、ミミコの体が熱を持ったように感じた。サングラスの隙間から見える目が涙ぐんでいるように見えた。私も何故か感極まって、涙が滲んだ。ミミコのお母さんは流れてくるラジオの音楽に合わせてハミングしている。

 大小様々な湖のそばを通り、森を二つ抜け、ミミコの実家に着いた。私は家の大きさに、え、と言って驚き、ミミコは照れたように、実家です、と言って笑った。私たちはお母さんに続いて家に入り、三階まで階段で上がった。ミミコは私の前を歩き、右手で手すりを撫でるようにしている。
 ミミコがここに住んでいた時に使っていた部屋を二人で使うことにした。部屋自体はそれなりの広さだけど、天井が高いおかげか見た目以上に広く感じた。ミミコはベッドに寝転んで、掃除してくれてたみたい、と言った。私は彼女の隣に座って、部屋をぐるりと見た。
「びっくりした?」
「びっくりした」
「なんせ色々安いからね、私も最初、お父さんが死んでからここへ来たから、びっくりした」
「うん。あ、そういえばさっき、空港でお母さんに名前呼ばれたんだけど、私の写真とか送ってたの?」
「送ってないよ、今付き合ってる人と一緒に帰るってことくらいしか言ってない」
「そもそも外国人が珍しいからかな、車停めてすぐ私の方へ来たから、ちょっとびっくりした」
「そうかも、でも、あの人勘がいいから、ちょっと似てるかもね」
「私と?」
「うん、なんか、そういうの」
「うーん、どうだろう」

 お母さんの声がうっすら聞こえ、私たちは一階へ降りた。ミミコにくっいてリビングへ入ると、すぐ横のダイニングのテーブルにコーヒーと小皿にのった焼き菓子が用意されていた。私とミミコは並んで座り、お母さんは向かいに座った。改めて自己紹介をし、よろしくお願いします、と言った。ミミコがそれを通訳して、お母さんは頷いてコーヒーを飲んだ。
 焼き菓子は空港でミミコが買ったものではなくて、同じ種類でお母さんの手作りだった。売店のものより香りが控えめで、私は少し安心した。ミミコは半分食べて、コーヒーを二杯飲んだ。
「なんの仕事をしてるの?だって」
「雑誌でコラムを書いたり、ギャラリーを持っているのでキュレーターみたいなことをしてます」
「あなたも文章を書くのね、だって」
「たいしたものじゃないです」
 ミミコは楽しそうに私とお母さんの顔を交互に見た。一時間か二時間くらいそうして私たちはダイニングで過ごした。私とミミコが階段を上がっているとラジオの音が流れはじめた。

「今日の夜は何が食べたい?」ベッドの上で胡座のミミコが言った。
「うーん、何が美味しい?」
「基本的には海鮮かな、果物も美味しいけど晩ご飯ではないし」
「じゃあミミコに任せる、美味しい海鮮料理」
「分かった、まかせて」
 それから私たちは日が暮れるまでベッドの上で時間をつぶした。ミミコの学生時代の話や初恋の人の話を聞いた。私も学生時代の話をして、初恋の人の話はしなかった。というか思い出せなかった。
 一度ミミコのお母さんが上がってきて、晩ご飯はどうする?、と聞いた、らしい。ミミコは、今日は外で食べる、と言ったそうだ。

「明日明後日、町の古本屋で朗読会するんだって。私は行きたいんだけど、どうする?小さい町だから適当に歩いてても迷わないよ」
「私も行きたい、大丈夫かな、定員とか」
「それは大丈夫、じゃあ一緒に行こう、お母さんも喜ぶと思う」
「良かった」

 ミミコの運転する車に初めて乗る。私は助手席で煙草を吸いながら彼女の横顔を見ている。車は紺色で、こっちに住んでた時に頑張って買った、と言った。カントリーちっくな音楽が流れている。狭いお風呂場で録ったみたいな音が体の中をゆったり流れてゆく。私は何度か微睡んだ。
 彼女の声で目を覚まし、なんて言った?、と聞いた。ごめん、起こしちゃった、これ、私が高校生の時に作った曲、と言ってステレオを指差した。私は、え、と言って、ミミコが歌ってるの?、と言った。
「下手だけどね、一応、歌ってます」
「ミミコがバンドしてなんて知らなかった、楽器も弾いてるの?」
「うん、私はベース弾きながら歌ってた」
「よく知らないけど、ギターより難しそう」
「慣れたら同じだよ」
 高校生の頃のミミコは、何を歌ってるんだろう。私は耳を澄ませて音楽を聴いた。彼女の声はいろんな音で埋もれて聴こえづらい。メロディはなんとなく分かる。飾り気のない歌声で、私は私の中の何か強張ったものがほぐされていくような感覚を味わった。ミミコは、もう忘れちゃった、と言って、途切れ途切れに歌った。そういえば、彼女の歌声を聴くのは初めてで、私はそんな才能、というか能力もあるんだ、と感心して、なぜか、彼女をより身近に感じた。私には特にこれといった才能も能力もないが、彼女と一緒にいてもいいんだと思った。私にないものを発見してどうしてそう感じたのかは今でも分からない。

 街は私が想像していたよりも大きくて、少なくとも私たちが住んでいる町よりは遥かに大きくて、私はすこし恐くなった。ミミコはテラス席のあるシーフードレストランの近くの駐車場に車を停め、安くて美味い、と言った。私たちは車を降り、二つ隣の古本屋へ入った。
「学生の頃ここでよく買ってたんだよね、明日の朗読会はここでだって」
「ちょっとミミコの店を思い出す」
「確かに、似てるところの方が少ないけど、なんか思い出すね」
 店はコの字になっていて、二つの書き始めに扉がある。ちょうどその真ん中にカウンターがあって髪をくくった男の人が中でコーヒーを飲んでいる。私は本も読めないくせに、ここにある本はそもそも読めないのに、二歩目にはここが気に入っていた。
「古本屋さんで、美味しいコーヒーが飲めるっていうのは、ここの真似」ミミコは上目遣いで私を見つめて笑った。
 何周か回って、私は小さな本を買うことにした。いわゆるZINEで、地元のイラストレーターが何人か集まって出しているらしい。ミミコはお母さんの新刊を買った。

 テラス席に座り、私たちはコーラを頼んだ。顔は険しいが優しい声音のウエイターが注文を取ってくれた。焼き海老と蒸し牡蠣、よく分からない魚のフライと野菜と魚の混ぜご飯を頼んだ。
 料理がくるまで、私たちは買った本を読みながら煙草を吸った。『くるくる』にいるみたいで、でも流れてくる声や音楽がいつもと違って、よく分からないまま、すこしだけ寂しい気持ちになった。親しい友人たちとお酒を飲んだあと、少しずつ帰っていく人を見送る時の気持ちに近かった。本を読むミミコは今日も美しい。私は絵とミミコを交互に見て、小さな子みたいにうっとりした気分で彼女を思った。

 どの料理も今まで食べた海鮮料理をことごとく上回った。香ばしさや味の強さが全く違っていた。ミミコは懐かしい味を確かめるみたいにゆっくり食べていた。
 デザートに果物の盛り合わせを頼んだ。今まで私が食べていたフルーツは綿を固めた団子なのかと思うほど瑞々しい食感で、できることならスーツケースを買って目一杯詰めて帰りたい。ミミコは溜息混じりに食べている。美味しいね、と何度も言い合った。

 会計を済ませて、そのあまりの安さに驚きつつ、近くのバーでビールを飲んだ。食べても何なのか分からないけれど美味しいツマミを食べながら二杯ずつ飲んだ。店の角にあるテレビではサッカーの試合が写されていて、その前に座っている恰幅のいい男たちはときおり歓声をあげている。

 私は、ミミコが家の駐車場に車を停めるまで、飲酒運転だということをすっかり忘れていて、わあ、と思った。漫画の文字みたいな、わあ、が頭の中で浮かんできて笑ってしまった。ミミコが、どうしたの?、と聞いて、ううん、と答えた。

 私たちは何となく二階と三階に別れてシャワーを浴びた。ミミコのお母さんはリビングにある革張りのソファで眠っていて、タオルを頭に巻いた私は、起そうか起こすまいか迷っていたけれど、その姿の馴染み方に、音を立てずに三階まで戻ることにした。
 ミミコは窓辺に置いた腰高の椅子に座っていて、保湿クリームか何かを顔に塗っていた。彼女は私に気付くと、眠たいね、と言ってベッドに寝転んだ。私はミミコが座っていた椅子に腰を下ろし、ドライヤーで髪を乾かした。髪が乾くころにはミミコは眠っていて、そんな彼女を見ていると私も眠気を感じた。タオルを畳んで椅子に置いてから、彼女の隣で眠った。

 目が覚めるとミミコの姿はなく、椅子の上のタオルもなかった。多分一階から音楽が聴こえていて、私は歯を磨いて顔を洗ってから下に降りた。
 ミミコとお母さんはリビングのソファに座って煙草を吸っていた。おはようございます、と言うと、二人とも、おはよう、明けましておめでとう、と言って手招きした。私はミミコの隣に座り、おめでとうございます、と言って煙草に火をつけた。知らないうちに海外で年を越しているのが勿体ないような気がしつつ、何となくおもしろかった。ミミコは、お母さん喜んでた、今日二人で行くって言ったら、と言った。
 ミミコとお母さんが作ったカルボナーラみたいなのを昼食に食べ、ダイニングでコーヒーを飲みながら話をした。私は絵の話を、ミミコは小説の話を、お母さんは詩の話をした。ミミコが昨日買った新刊は久々の短編集らしく、あの話とあの話が好きだった、と言った、と後で聞いた。お母さんは、あなたは絵を描かないの?、と言ったそうで、私は学生の頃は描いていたけれど諦めました、と言って、ミミコがもう一度同じことを言った。お母さんは下唇を突き出して何度か頷いたあと、あなたは小説を書いてみるといい、と言ったらしく、私は、そんな、と声を出してからミミコに向き直って、ほとんど読んだこともないです、と返答になっているのか分からないことを言った。そんなこと、何も関係ないよ、とミミコが訳す前に、私の目を見て微笑んだ。ミミコがたまにそうしてくれるときと同じように、私のどこかで小さな波紋が広がるように何かが動いた。

 それで私はこの文章を書いているわけだ。ミミコと『渠』のために。ミミコのお母さんは、あなたの大切な何かに向けて書いていればそれでいいの、と言ったのだった。

 夕方に町に着いた。ミミコが運転して、お母さんは助手席で本を読んでいた。眼鏡もかけず揺れる薄暗い車内で本を読んでいる姿は、洞窟の奥で秘密の研究に没頭する博士を連想させた。
 私は窓の外を眺めて、湖で泳ぐ想像をしていた。夜でも動けば汗ばむ気温で、本当に遠いところへ来たんだと何度も思う。ミミコはくわえ煙草で運転している。一つにまとめた髪から流れて風に揺れているのが綺麗で、私はほとんどそっちを見ていたかもしれない。

 昨日の古本屋に入ると小さな木製の椅子が並べてあって、すでに何人かの若者が座って本を読んだり携帯をいじったりしていた。お母さんはカウンターの中へ入って、小さな鞄から紙の束を取り出した。私とミミコは最後列の左端に座ってすぐにコーヒーを買いに席を立った。ミミコはアイスのカフェラテを、私はアイスのドリップコーヒーを頼んだ。待っている間に人がどんどん入ってきて、そのほとんどが私よりも若そうで、なんとなく気持ちよくなった。
 席に戻ってミミコとの話に集中していると、ふと満席になった店内に気が付いた。ミミコが、そろそろ始まるよ、と言った。
「耳元で小さく訳して言おうか?」
「いいの?ミミコが楽しめないなら遠慮するけど」
「私は大丈夫だよ、それとも今日はそのまま聞いて、明日は訳を聴きながら、とかでもいいよ」
「じゃあそうしたい。今日は分からないなりに、そのまま聞いてみたい」
「分かった、途中で何かあったら言ってね」
「うん、ありがとう」

 それから数分して、昨日カウンターの中で見かけた店員がマイクで何かを言い始めた。紹介を受けたのか、お母さんは軽く頭を下げ、紙の束を手に取った。小さな声で始まった朗読は、私を惹きつけた。
 話している時よりも明朗な声が、耳というよりも体に、胸の中心にある小さな骨から入ってくる。ミミコは集中しているようで、深く座った椅子の上で微動だにしなかった。私はなるべく意味を分かろうとしないで声を体に染み込ませようとした。不思議なもので、分かる筈ないことを分かっているのに、気がつくと意味を拾おうとしてしまう。私は目を閉じて音に気を寄せた。
 体が開かれていくような感覚もある。私の中に確かに存在しているけれど、普段は何かの影に隠れて見えない何か何処かが照らされていくようで、私は怖くなった。隣にいるミミコがそんな私の照らされたものを見つけて、愛想を尽かしてしまうんじゃないかと思った。けれど私はその感覚を拒否してはいけない。私は今ここで、ミミコのお母さんの朗読を聞いて、体をすっかり開いてしまわないといけない気がした。そうでないとこれから先、私はその私の中の一部を見つけ出せなくなってしまうのだと分かっていた。
 私は二時間半そうして彼女の声に耳を傾けた。私は小説を書いてみようと思った。ミミコと彼女の店に向けて書いてみようと思った。

 昨日と同じレストランで食事をし、行きと同じくミミコが運転する車で家まで帰った。私は古本屋でノートを買った。そのノートに今、この文章を書いている。

 お礼を言って一階で別れ、私とミミコは三階で一緒にシャワーを浴びた。彼女は私の胸を見て、やっぱ大きいね、と言った。私はなぜかおかしくなって笑い、ミミコもつられて笑った。
 部屋に戻ってから、私、小説を書いてみる、と言って窓辺で『『渠』で画集を二冊買った。』と書き始めた。ミミコは、いいと思う、と言って煙草を吸い始め、ヘッドフォンで何かを聴きながら携帯をいじっている。
 書き始めると途端に私は、私がしたいことはこれなのかもしれない、と思い始めた。私がしたいことは何だろう?、と今まで考えたこともなかったけれど、そんなふうに思った。私はお母さんの言葉を思い出していた。あなたの大切な何かに向けて書いていればそれでいいの、と頭の中で繰り返しながら書き進めた。

 気がつくとミミコは眠っていて、私ももう疲れきっていた。彼女を起こさないように隣に潜り込み、嘘でしょ、と思うくらい早く眠りに落ちた。嘘でしょ、と思ったのは朝起きてすぐだ。
 ミミコはいなくて、階下からの音楽も聞こない。身支度を整えて一階に降りると、二人はダイニングでコーヒーを飲んで話していた。お母さんが手振りで、コーヒー飲む?、と聞いてくれた。私は、お願いします、と言ってミミコの隣に座った。
 冷たいコーヒーを飲みながら、昨日の続きとも言える話をした。ミミコは、いつも書いている詩をお母さんに訳して伝えた。彼女は、なかなかいいと思う、と言ったらしい、書き続けなさい、とも。私は、昨日から小説、と言っていいか分からないものを書き始めました、と言って、ミミコがそれを訳した。お母さんは、それでいいの、と言った。
 お母さんが作った炒め物を食べ、町へ出た。今日はカフェでの朗読会らしい。
 私とミミコは始まるまでの時間をテラス席で過ごした。かなり癖の強いカフェラテを飲みながら、ビスコッティのように固いまんまるのクッキーを食べた。中に溶けた甘いチョコが入っていて、噛むごとに混ざりあって美味しい。懐かしい?、と聞いて、ミミコの表情から、かなり懐かしいんだと分かった。彼女は、うん、と言って何度も頷き、もう二つずつ注文した。
 両目の下の頬に何かの文字が彫り入れてある店員は少年のように笑って、美味しいですか?、今日は僕が焼いたんです、と言ったそうで、ミミコは同じように笑顔で、美味しいよ、あなた才能あるよ、と言ったみたいで、しばらくして彼が持ってきた小皿には三つずつクッキーがのっていた。私は、ありがとうございます、と言い、彼は、アガトザイマスー、と言った。

 やはり若い人が多い。私とミミコはまた最後列の左の隅に座った。お母さんは少し高くなったところに置いた一人がけのソファに座っている。昨日よりも騒がしい店内が、活気を感じさせた。私のギャラリーでも朗読会のようなものを開いてもいいかもしれない。来年末の都心の展示では、ナバタくんとヒキタさんのトークイベントを組んでもいい。
 クッキーを多めにくれた店員が小さなマイクで話し始めた。マイクを通すと彼の声は、笑った時の少年のような表情からは想像できないくらい大人びていた。今日は質問会みたいなのが後であるってさ、とミミコが耳元で言った。私は背中の産毛が逆立つのが分かって、一人で勝手に恥ずかしくなった。
 椅子の間には机があり、その上に各々が注文したものがのっている。私たちは、また同じクッキーとアイスカフェラテを頼んだ。

 私はいつも探している 川のほとりを 山の裾野を
 私はいつも探している あなたの声を 私の体を
 いずれいなくなってしまう私達は、勝手な虚しさを抱え
 たった一人 探している 私を全て託してもいいと思える誰かを
 それでも私は 私を託したりはしない あなたと共にいる

 あなたはいつも探している 私の姿を 私の手を
 あなたはいつも探している 私の声を あの時の姿を
 いつも大声を上げる私を あなたは笑って見ている
 湖のそばで 煙の中で あなたは私を見ている
 あなたが煙になってしまう前に 私はタオルで体を拭いて
 あなたのそばまで走り寄る 私のために

 灯台守はいつも探している 船の帆先を 波の行先を
 鍛冶屋はいつも探している 火の粉の軌跡を 首筋に流れる汗の滴を
 画家はいつも探している からになった色を 愛すべき人を
 写真家はいつも探している 獣の道を 川の流れを
 娘はいつも探している 内側に眠る誰かを もういない人を

 私はいつも探している いつかどこかで出逢ったあの人を
 私はいつも探している 私が死んで初めて出会える誰かを

 ミミコの声が耳元で響いている。誰かがコーヒーか何かを啜る音や、多分クッキーだろう固いものを噛み締める音と混じって響いている。私はミミコの手を握った。

 そのあと二篇の詩を朗読して、質問会へ移行した。私とミミコは店を出て町を歩くことにした。店を出るときお母さんは私たちにウィンクをした。
 手を繋いで町の雑貨屋をまわった。私はペンをいくつも買い、ミミコは栞に使うのか小さい紙ものをたくさん買っていた。私たちはホットドッグを買い、店の前のテーブルで食べた。ソーセージの美味しさに対してパンが勿体ないような気がしたけれど、食べ終わるとこれがベストだ、と思った。
 すこしはずれにあるカフェに入り、アイスカフェラテを頼んだ。さっきのとは違って、全てがさっぱりしていた。喉の渇きを潤したいときはこっち、本でも読みながら考え事をしたいときはあっちだな、と考えて、それもあと十日くらいのことかと寂しくなった。ミミコは、タプタプ、と言ってお腹を撫でた。私も、と言って、お母さん迎えに行かなくていいの?、と言った。連絡がないからまだ大丈夫だと思う、と言ってiPhoneを取り出してちらりと見た。

 三十分後くらいに私たちは合流して、ステーキを食べに行った。二百五十グラムずつ食べた。大きなボウルのサラダを三人で分け、ライスは食べなかった。どうして普段食べているものよりも何もかも美味しいんだろう。私は昔の海外旅行を思い出してみたが、特に食べ物に関する思い出は浮かんでこなかった。そのとき付き合ってた恋人がスコールに腹を立てていたことくらいしか思い出せない。

 家に帰って二人でシャワーを浴び、『どういうことですか、と聞く前にヌマキさんが上がってきた。』というところから続きを書き始めた。ミミコは今日は本を読んでいる。持ってきていた本はいつのまにか残り三冊になっていて、私は次はどの本を借りて読もうかと考えていた。
 ヌマキさんと呼んでいた頃がすでに懐かしく、懐かしさや新しさというのに時間の長さはあまり関係ないのだと思った。なんとなく。私は今日は早めに切り上げて、ミミコが眠る前に彼女のそばに寝転びたかった。集中しすぎないように書いて、キリのいいところで顔を上げると、ミミコと目が合った。
 ミミコが おいで、と言う気がして、その前に立ち上がってベッドの端に膝で立った。通じた、と言う彼女に覆いかぶさって首筋を噛んだ。ミミコは体を捻って側にあるローテーブルに本を置いた。
 彼女に腕枕をしてもらいながら煙草を吸った。一本を二人で分けて吸った。明日は、水着を買いに行ってから泳ぎに行こう、とミミコは言った。私は、賛成、と言って煙草を手渡した。

 目が覚めるとミミコは隣にいて、肘をついて本を読んでいた。煙草の匂いが残っていて、それを愛しく思った。私が眠っているあいだも彼女はちゃんと存在していたんだと思うと、耳の奥が締め付けられたように痛んだ。背中や肩に気怠さが残っていることも、時間が繋がっているのだと意識させる。
 おはよう、と言ってから頭を撫で、耳に唇をつけた。ミミコは本を閉じてから、おはよう、と言ってキスしてくれた。私たちは一階に降りてミルクティーを飲みながらお母さんと話し、車に乗って水着を買いに出かけた。

 小さなコンビニみたいな店に行ってポテトチップスやサンドイッチや大容量のコーラと一緒に派手な柄の水着を買った。私は果物柄で、ミミコは幾何学模様で、彼女は、こっちじゃないと着ないね、と言った。
 私たちは荷物を車のトランクに入れて『クイーザ』へ行った。美味しいクッキーの店だ。昨日と同じ店員は私たちを見ると手を振って、テラス席へ案内してくれた。ミミコは、昨日と同じのでお願い、と言って、アイスカフェラテ二つとクッキーだね、と返ってきたと教えてくれた。
 煙草を吸いながら通りを歩く人を眺めててコーヒーを待った。ほとんどの人が半袖に短パンを履いている。ミミコは今日は濃い緑色のポロシャツに黒いスキニーを履いている。薄いパーカーを羽織っているのは私くらいで、すこしだけ恥ずかしくなり、脱いで椅子の背にかけた。
『クイーザ』のコーヒーは、味自体は、苦味が強いな、くらいのものなのだけど、そのあとに抜けていく香りや後味が今までに飲んだことないもので面白い。少し青っぽい香りのあとにココナッツのような独特な甘みが舌に残る。この感覚が残ったまま食べるクッキーが美味しい。今日も僕が焼いたんだ、とユックという名の青年が言った、とミミコが言った。ユックは私たちの隣のテーブルの席に腰掛け、どこから来たの?、何をしに来たの?、あそこの料理は食べた?、というようなことをミミコに聞いた。彼女は和かに答えて、何か冗談を言ったのかユックは大きな声で笑った。やはりあどけなさが残っていて、私は好感を持った。

 私たちはユックにお別れを言って、彼がくれたクッキーとともに車に乗り込んだ。ミミコはラジオのスイッチを入れ、鼻歌交じりで車を走らせた。私はクッキーを食べたり煙草を吸ったりしながら、前の方を眺めていた。草原や砂地が入り乱れていて、見飽きない。窓を下ろして腕を出すと温い風の感触がある。ミミコが、牛、と言って指差した方を見ると、小柄な牛が十数頭草を食んでいた。思い思いの方向に頭を向けて草を食む姿は、通信回線が乱れた宇宙船を思い起こさせた。
 クッキーちょうだい、と言う彼女の口元にクッキーを持った手を近づける。彼女は前歯でそれを噛んで口の中に転がして噛み砕く。ばりばり鳴っている音が私の頭の中で響いているみたいに聞こえる。水いる?、と言いながらストローを挿したペッドボトルを近づけた。一息で半分ほど飲んでから、ありがとうね、と言った。

 家に帰る道を途中で左に曲がった。それまでの砂道みたいなのに大きい石が混じったようでよく揺れる。ミミコの頭の上のお団子が揺れて、高い声を出す小さい生き物に見えた。ヤア!ドコイクノ?とそれは言って、私は、湖、と素っ気なく言った。
 ん?、と言うミミコに、何でもないよ、と言って前を向いた。十分くらいはそういう道が続いた。ミミコは運転に集中していて、鼻歌も歌わない。タイヤが砂や石ころを踏みしめる音とラジオの音が心地好く、私は多分、その道が終わる直前に眠ってしまった。
 夢の中でミミコの頭の上のお団子が手足を生やして辺りを走り回っていた。ヒャーとか何とか言いながら。

 どのくらいの時間眠っていたのか分からないが、目を覚ますとフロントガラスの向こうに草原が広がっていて、その前には湖があった。淡く緑がかったような色で透き通っている。これほど透徹した水の溜まりを見たことはなかった。ミミコは車の外で体を伸ばしていた。車の中で背もたれにぴったり体を預けていても全容が分かる程度の大きさで、それでも私は少し怖くなった。小さな頃から水の溜まりが怖い。海も川も湖も、取り返しのつかない何かが持ち上がる気配をそこかしこに感じていた。
 彼女は体をほぐす動きの合間に車を覗き込み、私と目が合うと眉を上げて歯を見せずに笑った。私も車を降りて体を伸ばした。トランクにまわって荷物を出し、ボンネットの上に置いた。私たちは素早く水着に着替え、やっぱ派手すぎ、と言い合って、荷物を一つずつ持って畔まで歩いた。

 ミミコがシートを敷いてくれた。その上に荷物と一緒に座り込み、湖を眺めた。やはり恐ろしい。ここに二人で入るのか。泳げない訳でもないし、見たところ足は底にしっかり着きそうだし、ミミコもいるし、一体何をこんなに恐ろしく思っているんだろう。私とミミコの関係が今日、この湖で泳ぐことで変わってしまうような気がしていることに気がついたが、それは恐ろしくなかった。どんどん変わっていけばいい。
 ミミコはシートから外れて地面の上に座り込んでいる。つま先を湖に浸し、髪をくくり直している。私は彼女のそばに座って同じように水の中に足の先を入れた。彼女は私を見て笑っている。二人で来れて嬉しいよ、と言った、ここは多分ほとんど誰も知らないところだから、と続けた。私は何も言わずにミミコを抱きしめた。

 お尻が何とか入るくらいの小さな浮き輪で私たちは浮かんで空を見上げている。私はチョコがかかったドーナツの柄で、ミミコのは激しい黄色の地にヤシの木が何本も描かれた柄。
 私もミミコもだいたい湖の真ん中に浮かんでいて、煙草を吸っている。彼女の煙草の香りだけが、私がどこへも行っていないことを証明してくれた。ミミコごとどこかへ行っていたら話は別だけど、感覚として、そんな感じがした。私はまだここにいる。

 たぶんそこで一時間ぐらい浮かんで過ごしていた。浮き輪を陸地に戻さないまま私たちは泳ぎ始めた。二人とも競泳用みたいなゴーグルをしていて、そこだけシンプルなのが変だった。水中でミミコと出会うと、どちらからともなく手を上げて、魚眼レンズで撮ったみたいな不自然に見える笑顔ですれちがっていった。私は大体、なるべく岸に近いところを淵に沿うように泳いだ。彼女は真ん中の辺りを泳いでいて、何度も潜水していた。底の方で何かを拾って、息継ぎの間にその何かを点検するみたいに見つめた。納得が行かないのかそのまま指の力を抜いて何かを落とした。ゆらゆら落ちていくそれは一瞬動きを止めたり、ほんの少し水面を目指したり、急降下したりして水底へ戻っていった。

 日が暮れるまでそうしてそれぞれ湖を満喫した。二人でシートに上がってポテチを食べたりコーラを飲んだり、また浮き輪で浮かんでクッキーを食べたり煙草を吸ったり、競争して私が勝ったり、そんなふうに過ごした。
 荷物を片付けてトランクに入れたとき、私はもう湖を恐ろしく思っていないことに気が付いた。大きいタオルを二人で使って、別に素早く着替えることもないと、いつも通りの感覚で服に着替えた。
 ミミコは、町に出て魚介料理が食べたいんだけど、疲れてない?、と言った。私は、大丈夫だけど、運転代われないよ、と言った。ミミコは、大丈夫、と言って車に乗り込み、エンジンをかけた。私は助手席に座り、足腰を軽く揉みほぐし、『クイーザ』のコーヒーが飲みたいな、と考えていた。

 町に着いてすぐ、コーヒー飲みたい、とミミコが言い出して、クイーザ行きたーい、と私が言った。彼女は、よしっ、と言って初日の駐車場に車を停めた。私は間違えてトランクにまわって荷物を出しそうになった。ミミコはもう歩き出していて私は走っていって横に並んだ。

『クイーザ』は今日は賑わっていて、私たちは隅のテラス席に座った。ユックは私たちを見つけて、やあ、また来てくれてたの、と多分言っていて、ミミコはホットのカフェラテとピザを一切れ、私もホットのカフェラテとクッキーを頼んだ。ユックは灰皿とマッチ箱と炭酸水の入ったグラスを置いて店の中に戻った。
 私はミミコと湖の話をした。今日行った湖は、おそらくミミコとお母さん以外ほとんど誰も知らないところで、それは湖へ続く道へ曲がるまでの、その先は彼女の実家があるだけで、そもそもあの道を走る人がいないからだと言った。明日はまた別の湖へ行こう、と彼女は言って、ありがちだけど、これ、あげる、と言って小さな石を私の手のひらにのせた。粗めの紙みたいな手触りで、碁石くらいの大きさなのにやけに重い。橙色の表面は小さな穴がいくつか空いている。彼女はこの石を探していたのか。
 私はテーブルを乗り出して彼女にキスをした。ありがとう、と言ってシャツの胸ポケットにしまった。ユックの声が聞こえ、付き合ってるの?、ということだった。ミミコはちらっと私の表情を見て、そうだよ、と言った、きっと。彼は、僕も恋人がいるんだ、感覚としては彼女がいるって感じなんだけど、と言ったそうで、ミミコは、じゃあ今度四人で遊ぼうよ、と言ったらしい。ユックは喜んでいるようで、トレーの上のものを一つも置かずに店内に向かったところで振り向いて、照れたように笑った。
 一口もらったピザもやっぱり今までにないくらい美味しかった。ミミコのカフェラテもすこしもらって、私はアイスが好きだな、と思った。クッキーを半分こして、会計を済ませるとき、ユックに空いている日を訊ねた。
 私たちとユックたちは明日の昼に『クイーザ』で待ち合わせることになった。私とミミコは並んでレストランへ行き、焼き牡蠣と蒸し野菜とアクアパッツァみたいなのを頼んだ。

 家に帰ると、お母さんは書き物をしていて、私たちに気がついて手を止めた。私は、すみません、と言って階段を上ろうとした。ミミコはもうシャワーを浴びに行っている、扉を開けたり閉めたりする音が聞こえる。彼女は私を手招きし、ソファに座るよう示した。
 私は彼女と斜めに向かい合う位置に座り、すみません、ともう一度言った。彼女は首を振り、ペンを持って紙に何かを書き、そうして私を見た。私は、小説はどう?、と聞かれているのだと分かった。ただ頷くだけというのも失礼な気がして、なぜかゆっくり話せば通じるだろうと思った。
「ミミコと、ミミコの店のことを思って書いています。まだ二日目だけど。今日も書いてみます」
 言い終わってしばらくしてから彼女は頷き、マィイチ、と言った。とにかく毎日書くこと、ということだろうか。私は目を見たまま頷いて、シャワー浴びてきます、と言った。彼女は右手を階段の方に向け、ミミコがするみたいに笑った。

 シャワーを浴びて髪を乾かしてから『カレーを食べてから『渠』へ行くと、ヌマキさんは本棚を整理していた。』と書き始めた。ミミコは薄いシーツに包まって眠っている。私は毎日、彼女たちに向けて文章を書くのだ。
 二時間くらい書き進め、手首の痛みとともに彼女のそばで眠った。夢の中にはまたお団子が現れ、ガンバレー、と言って林のように見える暗がりに走って行った。

 十二時に『クイーザ』に着くとユックと彼の恋人はテラス席で煙草を吸っていた。私たちは手を高く上げ、彼らの向かいに座った。アイスカフェラテを二つ注文し、クッキーは頼まなかった。
 ユックの恋人は小柄な青年で、キートです、と名乗った。指を握りこんで見えるところに一文字ずつ何かが彫り込まれていた。ユックは一人でいるときよりもリラックスしているようで、キートもそんな彼を見てくつろいでいるように見える。私たちもそれぞれ自己紹介のようなものをして、飲み終わったらどこへ行こうかと相談した。
 キートが、別に無理に決めなくても、ここで四人で話すのでもいいんじゃない、と言い、ユックも、まあそれも悪くないね、パッと思いつくまではぼんやりしてようか、と続け、それもそうだね、とミミコが言った、らしい。
 彼らが吸っているのは煙草ではなくて、ヒキタさんが吸っていたのと同じものだった。吸うか?、と言うユックから私たちは一本ずつもらい、深吸いしないようにね、と言うミミコの言葉を聞きながら火をつけた。しばらくするとカフェラテが何倍も美味しく感じて、ユックやキートの話していることがなんとなく分かった。でもそれは多分そんな気がしているだけで、会話に加わることはしなかった。三人が笑いながら話しているのを笑いながら見ていた。ミミコが冗談を言って彼らを笑わせ、彼らはそれに付け足すみたいに一言二言何かを言って三人で笑った。私は寂しいとは思わなかった。残念だな、くらいのもので、ただこうして彼女たちを見ているだけで良かった。
 しばらくしてキートが何か話しかけてきて、私は勘違いでもいいや、と思い、返事をした。三人が驚いているのに気がついて何故か、ごめん、と言った。ミミコが、ううん、びっくりしただけだよ、意味わかったの?、と言った。私は、多分?、絵描いてるんでしょ?、と言った。ミミコは、すごーい、と言って、ユックもつられて、スゴォイ、と言った。
「こんな絵なんだけど、どうかな」キートはiPadのディスプレイを私に向けて言った。
「実物を見ないと何とも言えないけれど、大きさはどれくらいあるの?」ミミコが訳してくれた。
「このくらいかな」腕を大きく開いたキートが言った。
「実際に見せてもらうことはできるかな?」
「もちろん、嬉しいよ」

 会計はユックが払ってくれた。私たちはキートの車に乗り込み、家へ向かった。私とミミコは後部座席に並んで座り、手を繋ぎながら彼らのやり取りをぼんやり見ていた。
「さっき、どうしてキートの言ってたこと分かったの?」
「うーん、なんかその前から何となく分かる気がしてたんだけど、勘違いだと思ってて、で、話けられたから間違っててもいいやって、ごめん、どうしてかは分かんない」
「また勘みたいなのが冴えたのかなあ」
「そんな気はする、あれも吸ってたし、たまたまチューニングが合ったのかも」
「なるほど、お母さんもそういうことたまにあって、びっくりしちゃった」
「私も」

 キートの家は土地が盛り上がったところに建っていて、家というよりも小屋に近い、ただ絵を描くための建物に見えた。建物の横の空いたスペースに車を停め、着いたよ、と言った。私はまだキートの言っていることが分かるみたいだ。
 私たちはキートに続いて家に入って行った。四人も大人がいると狭いが、狭苦しくはない。居心地が好い。彼女は一人掛けのソファをそれぞれに勧め、何枚か絵を取ってくる、と言って階段を降りて行った。私たちのいる一階には画材のようなものは見当たらない。あるのは四つの一人掛けソファとその真ん中のテーブル、作り付けのキッチンくらいだ。二階に続くハシゴが見える。寝室は上にあるのだろう。
 階下で物音が続いている。ミミコとユックが何かの話で盛り上がっている。私には二人の話していることは分からない。ユックが煙草を吸い始めるのを横目で見て、私とミミコも煙草に火をつけた。真ん中のテーブルの上には大きな灰皿が置いてあって、吸殻が積み上げられていた。
 私たちが二本ずつ吸い終わるくらいにキートが絵を抱えて上がってきた。おそらく八〇号くらいある。彼女は何も言わずに階段を降り、続けて同じサイズの絵を三枚取ってきた。私たちは三つのソファを横並びにして、キートは絵の隣に、私たちに向かい合うようにソファを置いた。ちょっと休憩、と言ってキートはそのソファに座り煙草を吸い始めた。彼女の絵は、iPadで見た限りだと抽象画で、必ず色の激しいモチーフが一つあり、その周辺をあまり見たことのない筆使いの線が入り乱れている。十何枚か見た絵すべてがそれで、このサイズで見ると印象が変わるだろうと楽しみだった。
 お待たせ、とキートが言って立ち上がり、一番手前の絵を裏返した。私の予想とは違い、そこには色鮮やかに描かれたユックの顔があった。やさしげな表情だ。呼び止めて振り返った瞬間の柔らかい笑顔、絵を描く彼女を階段の途中から遠慮がちに呼びかける笑顔、車で『クイーザ』の前を通るとき窓を開けて「ユック!」と声かけたあとの笑顔、そんなふうな二人の間だけで見せる彼の表情に見えた。私は思ったことを伝えた。ユックは照れ笑いを誤魔化すように髪をくくり直し、キートは力強く頷いている。
 二枚目と三枚目は見せてもらった絵と同系統で、やはり実物を見ると印象が変わる。奇抜なだけの抽象画ではない。すべてのタッチに、まだよく知らないが、彼女の人柄と呼べるようなものが滲んでいる。絵単体では難しいかも知れないが、彼女ごとメディアに出れば人気が出そうだと、ふわっと思った。それもそのままミミコに伝えてもらうと、キートは腕を組んで上目遣いで頷いている。
 最後の絵は湖が絵がれていて、私はその色使いや構図に魅かれた。二枚目三枚目と同じタッチで描かれているが、その湖を知る人が見れば「ああ、どこどこにあるやつだろ」と分かるはずだ。私はこの絵が欲しくなった。私はキートに、絵は売っているの?、と訊ねた。ミミコがそれを訳して、人に見せるのもユック以外では初めて、とキートが言った。
 私は頭に浮かんだ額を伝えてもらった。キートは驚いて、本当に?、と言った。私は頷いた。彼女は、ありがとう、嬉しいよ、と言って、私の方まで来て手を差し出した。その手を取って強く握り、郵送とか諸々の手続きはだいたいこっちで出来るから、後ででも連絡先を教えて欲しい、と言った。キートはミミコに顔を向けて、それから私に向き直り、分かった、と言った。

 私たちはステーキを食べることにして、ミミコのお母さんと一緒に行った店に向かった。途中でキートの言っていることが分からなくなり、代わりというか、ユックの言うことが分かるようになった。私をのぞく三人は不思議がっていて、私ももちろん不思議に思っていた。
「そういうのってよくあるの?」助手席のユックが振り返って言った。
「不思議なことはたまにあるけど、知らない言葉が分かったり分からなくなったりするのは初めて」
「ふーん」
 私はミミコに、一日中ごめんね、変に疲れるでしょ、と言った。彼女は笑って、ううん、面白いよ、と言った。頭の体操になりそうだし、とも言った。

 今日の私とミミコは三百グラムずつ食べ、ライスまで食べた。ユックは四百五十グラム、キートは二百五十グラム食べた。食事中しばらくキートはミミコを介さず直接話しかけてきた。そして、あ、そうだった、みたいな表情を浮かべ、ミミコと私を交互に見て話し直した。
 ユックは、こっちにいる間にもう一回くらい四人で遊ぼうよ、と言った。私とミミコは、もちろん、と言って、キートも同じようなことを言った。知らない土地で曖昧な約束をするのは、風がよく通る部屋で過ごす午後みたいに心地好い。食べ終わってからも私たちは話し続け、閉店間際に店の前で別れた。
 車に乗り込んでから何気なく、運転代わろうか?、と言った。ミミコは、助かる、と言って扉を開け、私はそのまま車内で運転席に移動した。扉を閉めてシートベルトをしている間にミミコは助手席に座り、扉を閉めた。その音で私は国際免許を持っていないことを思い出し、今さら言えないな、と思いながら、してはいけないことをする時の一番良くない言い訳だな、とも思った。
 私はミミコのバンドの曲を聴きながら車を走らせた。昼夜と通った道だから道順は分かる。そもそもほとんど直進で迷う方が難しいのだけど、勝手に不安にはなっている。ミミコは目を閉じているが、眠ってはいない。左手の人差し指で窓のそばを叩いてリズムを取っている。私はそんな彼女を見たり、楽器を弾きながら歌うというのはどんな感じなんだろうかと考えたりしてハンドルを両手で握っていた。

 駐車場に車を停めると、ミミコは眠っていて、トランクの荷物を玄関に置いてから彼女を起こした。ミミコは、運転ありがとうね、と言いながら車を出て、ふらふらと家に入って行った。私が忘れ物はないか確認して家に入ると、階段を上がる彼女の後ろ姿が見えた。
 リビングを覗くと誰もいなかった。ゴミの分別や洗い物を済ませ、三階でシャワーを浴びた。ミミコの部屋にあるドライヤーを取ってきて、脱衣所で髪を乾かした。私は朦朧としながら、今日も書かないと、と言い聞かせていた。

 部屋に戻って横たわるミミコを見ながら窓辺の椅子に腰を下ろし『夜になって、ヌマキさんから電話があった。』と続きを書き進めた。
 書き始めると眠気はどこかへ行って、一時間半くらいは書き続けていられた。窓の外に広がる暗くてよく見えない森やミミコの寝顔を見ながら書いていた。とにかく毎日手首が怠くなるまでは書こうかと思い付いた。私は書きながら、これは本当に小説になっているんだろうか、と考えた。現実にあったことかどうかも分からなくなって、何度もミミコの姿を見ないと怖かった。その人についてどこまで書いていいのかも分からない。私はなるべく仔細に書きたいと考えていて、でもそれは私の大切な誰かの、何かを損なってしまうんじゃないかと心配になった。

 日が変わってすぐに彼女の隣で眠り始めた。頭が冴えているのかなかなか寝付けず、天井を眺めて、明日はどうなるんだろう、と考えた。

 六日目の朝はミミコの声で目が覚めた。彼女は小さな声で歌っていて、私に気がつくと、ごめん起こしちゃったね、と言った。私は、いいよ、と言って腕を開いた。彼女は勢いよく飛び込んできて、私たちは窓の方の隙間に落ちそうになった。ミミコは私の顔中に唇をつけて、朝ご飯できてるよ、と言った。
 部屋を出ていくミミコの背中を見届けてから起き上がって服を着替えた。顔を洗って、歯を磨きながら携帯を見ていると、キートからメールが届いていた。アプリで調べてみると、昨日はありがとう、今日もいい日を、とのことで私は無意識に笑顔になって、慌てて口を閉じた。

 私は一階に下りて、ミミコにメールを見せた。彼女は何かを打って送った。お母さんは町に出ているらしく、私たちは向かい合わせに座って目玉焼きとリゾットみたいなのを食べた。オートミールみたいな食感で、発酵した調味料の味がした。定番の朝食らしい。ミミコは心配そうに私を見つめ、結構いけるよ、と言うと、良かった、でも無理しないで、と言った。
 食べているうちにはまったのか、私はお代わりをして、ミミコは喜んだ。食後のコーヒーを淹れてもらい、チョコレートと一緒に昼までそこで過ごした。

 今日も湖で泳ごうと、一昨日とは違う湖へ歩いて行った。ミミコの家にあった大きいトートバックに荷物を詰めて、彼女が持った。私はミミコの隣を歩きながら、見たことがある気もするけど何の木だろう、と見上げたり振り返ったりしていた。ミミコに借りたサンダルが小さくて、彼女の今までを思わせた。
 三十分くらい歩いていると道がくねくねしていって、すぐにひらけた。前のよりずっと大きな湖があって、向こうの方で泳いでいる人が見えた。ここは結構人が集まるところ、と言っても何十人も来るわけじゃないけど、とミミコは言って、辺にシートをひろげた。木の裏で着替えを済ませ、シートの上で浮き輪を膨らませた。ミミコは、頭痛くなる、と言いながら息を吹き入れている。
 私が膨らませ切るまでに、ミミコは湖の中央で浮かんで空を見上げていた。その姿は何かの碑のようで、指先で生まれる水紋は何かの信号に見えた。私は煙草を一本吸ってから泳ぎ始めた。浮き輪をビート板みたいにしてミミコのところまで泳いでいって、すぐ下に広がる深い水の溜まりを覗いて鳥肌がたった。ミミコはお尻をはめて浮かんでいるが、私は脇の下に浮き輪をあてがって浮かんでいる。彼女と同じように浮くまでに、浮いてからも、浮き輪から離れてしまうかもしれないことが恐ろしかった。
 私たちは湖の中央に浮かんでいて、岸の方で泳いでいる人が起こす波がやってくる以外なにもなかった。鳥も飛んでいないし、雲も流れていない。私は時々、水底の様子を窺った。これ以上ないくらい澄んでいるのに底の方は何も見えない。何を考えているか分からない人の目を覗きこんでいるようで恐ろしい。
 ミミコは防水のポーチから煙草を取り出してくわえ、そのまま数分ぼんやりしていた。私が、一本ちょうだい、と言うと、くわえていた煙草に火をつけ、何口か吸ったあとに手渡してくれた。
 彼女は何度かライターをかちかちしてから、あ、と言って新しい煙草を取り出して火をつけた。あげたの忘れてた、と言って笑った。私はミミコの腕を握って、一人で少しずつ流されていかないようにしていた。

 多分そこで二時間くらい浮かんでいて、私とミミコは波酔いで気持ち悪くなった。シートに仰向けに寝転んでも地面が揺れているように感じる。ミミコは、あー、とか、うー、と言ってこめかみを揉んでいる。二人とも煙草も吸わずに寝転んだまま、朝ご飯を吐いてしまわないようにじっとしていた。

 頭を揺らさないように片付けをして、倍くらいの時間をかけてゆっくり家に帰った。玄関に荷物を置き、手すりをしっかり持って階段を上がった。ベッドに腰掛けてから体を倒し、頭までシーツを被って眠った。私は夢の中で湖の中央に浮き輪なしで浮かんでいて、ミミコは遠くの岸で煙草を吸っていた。
 目を覚ますと気持ち悪さはなくなっていたが、鈍い頭痛と全身の怠さがあった。ミミコはまだ眠っている。彼女を起こさないようにベッドを出て、三階でシャワーを浴びた。
 鏡を見ながら化粧水を塗っていると、髪を伸ばしてみようかな、と思い始めた。似合うだろうか。ミミコは褒めてくれるだろう。それなら似合ってなくてもいい。薄目で鏡を見つめながら、髪の長い自分の姿を想像した。肩を越すくらいなら悪くない気がしたが、生まれてこれまで伸ばしたことのない髪を伸ばすのは、酷ければ切ってしまえばいいだけの話なのに、軽い覚悟のようなものが必要だった。

 私が部屋に戻るとミミコはベッドの上で本を読んでいた。おはよう、と言いながら窓辺の椅子に座り、夜は何食べる?、と聞いた。おはよう、うーん、何が食べたい?、とミミコは言った。
「思い付かないからとりあえず町に出ない?」
「はーい」

 眠っているあいだに帰って来ていただろうお母さんに一声かけ、私たちは車に乗った。
「今日は違うところに行ってみよっか、いつもよりちょっと遠いけど」
「ミミコがしんどくないなら」
「寝たら元気になったよ」

『クイーザ』のある街へ向かうのとは逆の道を進んだ。私たちは町に着くまで何も話さなかった。ミミコは運転に集中していて、私は窓の外の木を見るのに集中していた。

 私たちが住んでいるところと同じくらいの町に着いた。海があり、山があり、古本屋があり、レストランがあり、ギャラリーがある。
 野菜が美味しいお店に行こう、と言うミミコの横顔を見て、機嫌が悪いわけではなかったんだと安心した。だから私は、彼女は運転に集中していた、というのは、そう知っていたわけではなくて、そうであればいいと思って、ずっと後になって書いた。
 店はたぶん地元の人で賑わっていて、私たちは奥の席に座ってから、まずは冷たい水を頼んだ。この国のいいところは、湖があることと何処でも煙草が吸えること、と言って煙草に火をつけるミミコは少女みたいな顔をしていて、言葉と表情の差で笑ってしまった。
 私たちは水を一息で半分くらい飲んで、ラタトゥイユみたいな名前の料理を頼んだ。デザートは近くのカフェで食べよう、とミミコが言った。ミミコが高校生の頃、何かお祝い事があるとこの店に来てさっき頼んだ料理を食べたそうだ。私はそんな店に連れて来てもらったことに浮かれ、料理の名前を忘れてしまった。
 大皿にのった色んな焼き野菜に甘酸っぱいソースがかけられていて、野菜も格別に美味しいがそのソースがとにかく好みで、ミミコに、これは何?、と聞いた。店のオリジナルらしくて、秘密だって、と彼女は言った。皮は薄いが固いパンでそのソースを掬って食べるのも美味しかった。

 ミミコ、と呼ぶ声が聞こえて振り返ると、私と同じ歳くらいに女の人が歩いてくるのが見えた。多分その人はかつての恋人で、私は後でミミコに聞いてみるけれど、とりあえずそう考えた。答えを知ったあと、この旅のこの出来事を書く段に至って「多分その人はかつての恋人で、」と書くのは私の心の狭さゆえだろう。それで、その人は私のことには気が付いてないみたいにミミコのそばに行き、私には分からない言葉で話し始めた。
 短い髪を何度も耳にかけようとする仕草を見ているとなぜか、結構長く続いたんだろうな、と思い、ルリさんとミミコのやり取りを見ているときのように胸のあたりが痛くなった。ミミコはあからさまに申し訳なさそうな表情で、私をちらちら見ている。私はミミコと目を合わさないように空になった大皿を見つめて時間が過ぎるのを待った。
 五分か十分経ってようやく、彼女は私に声をかけてきた。目が合うと微笑み、会釈をして元の席かどこかへ帰って行った。全てが私よりも美しく、ミミコと釣り合っている気がして、泣き出しそうになるのを堪えるのに上唇の端を噛んだ。外に出ている唇より中にある唇の方が柔らかい気がする。うっすら血の味がして、そうして涙は気配を消した。
 ミミコは何も言わずフォークをいじっている。甘いもの食べに行こ、と私が言うまで彼女は何も言わなかった。会計を済ませ、彼女の後ろに続いて店を出た。

 歩いてすぐのところにある店に入って、ホットのカフェラテとチョコケーキを頼んだ。ミミコはまだ何も言わない。私は何でもいいからミミコの声が聞きたかった。昔付き合ってた人、と言ってくれたらそれでいいのに、と私は思っていた。
「さっきの人、昔付き合ってた人?なんて言ってたか分からなくて返事できなかったから、大丈夫かな」
「うん、それじゃあ、って言ってただけだから大丈夫だよ」
「それなら良かった」
 彼女との日々を思い返しているのだろうか、ミミコは話を続けない。それとこれとは別だと分かっているが、いい大人なんだから、と自分に言い聞かせ、もう何も考えないことにした。
 チョコケーキもカフェラテも味がしなかった。家に帰って窓辺の椅子に座るまで、ずっとぼんやりしていた。ミミコも何も話さず、でももう何かを考えている様子もなかった。
 別々にシャワーを浴びてベッドに入るまで、私たちはこれといった会話もなく、ただ同じ部屋にいるだけだった。私はノートに続きを書いて、ミミコは本を読んだ。私はミミコが他の女の人と話すことの何がそんなに気にかかるのか分からなかった。今までのことを振り返ってみても見当がつかなかった。よくよく考えてみるまでもなく、大したことではないし、大したことになりそうでもない。
 ミミコは本を閉じてから、なんか、ごめんね、と言った。私は、何が?、となるべく柔らかい声で言った。本当に何に対して謝っているのか分からなかったからだ。謝るとすれば私の方で、ミミコではない。うーん、なんか、構わず二人で話し込んじゃって、その、長いこと黙ってるから、とミミコは言った。
「そんなの、謝ることじゃないよ、私が、ルリさんのときみたいに妬いてただけだから、すぐ不機嫌になってごめん」
「ううん」
 彼女は私を抱きしめ、ごめんね、と言った。私は首を振って、彼女に抱かれるままにした。寝よう、と言ってリモコンを天井に向け、部屋を暗くした。私たちは変な体勢で抱き合ったまま朝まで眠った。

 私たちは二日間、お母さんと一緒に家の掃除をした。朝と夜は手料理を食べ、昼は『クイーザ』でコーヒーを飲み、クッキーを食べた。二日ともユックはいなくて、私たちは残念がりながら店をあとにした。
 私は二階を、ミミコは三階を、お母さんは一階を担当した。掃除機をかけてから水拭きと乾拭きをし、細々とした荷物を運び出した。二階はお母さんの寝室と空き部屋に近い物置部屋が二つ、シャワールームが一つだけで、特に大変なことはなかった。三階もそんなふうで、すぐに手の空いた私たちは一階のお母さんを手伝った。そこかしこに昔のミミコの名残を見つけ、息が詰まるくらい苦しくなった。名残というか、予想なのだけど。

 九日目の朝、ミミコを起こすことから一日が始まった。ミミコはヘッドフォンをしたまま眠っていて、お腹の上に本がのっている。彼女を起こす前に一階に下り、おはようございます、と言った。お母さんはダイニングでコーヒーを飲んでいて、ミミコは?、と言った。まだ眠ってます、コーヒー、いただいていいですか?、と私は言った。
 机を挟んで向かい合わせに座り、温かいコーヒーを飲んだ。私は湖よりも、お母さんと別れることが悲しかった。彼女は私の手の甲を優しく撫でた。ミミコが撫でるよりも力強いお母さんの指先は冷たくて気持ちがいい。

 コーヒーを飲み終わって、ミミコを起こしに三階へ上がった。彼女は朝に見たときと同じ格好のまま眠っていて、朝方まで本を読んでそのまま寝てしまっていたのなら起こさないほうがいいかも知れないと思いつつも、ミミコ、と呼びかけた。ヘッドフォンをしているのにすぐに目を覚まし、おはよう、と言った。
「遅くまで起きてた?」
「ううん、読もうと思ってちょっと考え事してたら寝ちゃってた」ヘッドフォンを外しながら言った。
「じゃあ良かった、泳ぎに行こうよ」
「行こう」本がのったまま立ち上がった彼女が私を抱きしめた。

 私たちはささっと身支度を済ませて車に乗った。初めに行った湖に向かって車を走らせた。運転してー、と言われたので私が運転した。もうこの旅中は国際免許がないことは言わないでおこう、と決めた。

 変わらず誰もいない湖で、私たちはしっかり泳いだ。今日はシートも浮き輪も持ってこないで、ただひたすら泳いだ。何度か競争もした。ミミコはクロールが得意で、私は平泳ぎが得意だと分かった。ミミコが平泳ぎをするとどんどん左のほうへ外れていって、私がクロールをすると息継ぎのタイミングを見失って頭が痛くなった。
 私たちは車のボンネットに座って休憩した。ちょうど上半身が収まる大きさで、仰向けになって覆いかぶさるような木々の先や雲を眺めた。私が寝転ぶとつま先が浮くのに、ミミコは足の裏までぴったりついていて、それを少しだけ恥ずかしく思った。車の上に座って、お母さんが持たせてくれたオープンサンドを食べ、煙草を吸った。ロードムービーの中のティーンエイジャーみたいで、私はこのまま元いた場所に帰らずミミコといつまでもここにいたい、と考えて、それじゃあ映画の中の主人公たちみたいじゃなくなる、と思った。
 ミミコが水筒から注いでくれたコーヒーを飲むと、久々にヒキタさんに会いたくなった。ミミコはサングラスをかけて空を見上げている。何を考えているんだろう。うしろの森はやっぱりよく分からない木が生い茂っていて、ここがいつもとは違う場所なんだと意識させるが、不安はもうない。ミミコは木の種類が分かるだろうか。私は海のそばのベンチに座って眺めた対岸の木々を思い出した。そのとき頭に浮かんだ木とここの生えている木はよく似ている。
 コーヒーを飲んで三十分くらい経ってから、私たちはまた真剣に泳ぎ始めた。私はミミコの部屋のカーテンレールにハンガーでかけたシャツのことを考えながら泳いだ。正しくは胸ポケットの石のことを考えて泳いでいた。マーマレードみたいな色の石。ミミコは何を思ってあの色のあの大きさのあの重さのあの形のあの手触りの、あの石を私にくれたのだろう。帰ったら知人に頼んでネックレスにしてもらおうかな、と考えていた。なくしてしまうよりはずっと身につけるために穴をあける方がいい。私はどんなものでも一定のラインを下回った小さなものをなくしてしまう。

 帰り、というかそのまま街へ出る運転はミミコがしてくれた。私は車に乗ってすぐに、ミミコにもらった石、ペンダントにしてもいい?、と聞いた。彼女は、え、いい、そんな、わざわざ聞かなくてもいいのに、嬉しいよ、と言った。
「私、小さいものって絶対なくしちゃうから、でもなくしたくないから、穴開けることになるけどって思って」
「元々いっぱい穴あいてるしいいじゃん、っていうのも変か、でも、ありがとうね」

 まずは『クイーザ』に行ってアイスカフェラテを飲んだ。今日はユックがいて、久しぶり!でもないか、と言って頼んでいないクッキーを一つずつくれた。私たちはお礼を言ってからクッキーを食べた。彼が働いている時に出てくるクッキーの方が美味しい気がした。今日もユックが焼いたのかは分からないけれど。
 ミミコが、まだユックの言ってること分かるの?、と言って初めて、何も意識せずユックの言葉を聞いて言葉を返していたことに気付いた。まだ理解できているのかも分からない。私は確認も兼ねてチーズケーキを頼むために手を上げた。ユックがテラスに出てきて、ご注文は?、みたいなことを言っているのが分かる。チーズケーキ一つお願いします、と言って、ミミコが伝えてくれた。
「まだ分かった」店内に戻るユックを見ながら言った。
「それって、聞いてる言葉も変わってるの?」
「ううん、言葉自体はそのまま、だから始めは勘違い、というかそんな気がしてるだけだろうなって」
「なるほど」
「ユックやキートが何か言うと、一瞬遅れて頭の中で、あの、映画の字幕みたいに意味が浮かんでくる、というか、なんかそんな感じ」
「じゃあ、文字で浮かんでくるんだ」
「うん」
「言葉遣いは?」
「あ、うん、違う、それぞれ勝手に変わってた」
「ふーん、ふしぎだねえ」

 小さな小皿にのったチーズケーキのそばにはフォークが二つ添えられていた。私とミミコは半分ずつ食べて、さあ今から何を食べようか、と相談した。夕方に近い時間で、特に食べたいものも思い付かない。クッキーとチーズケーキとコーヒーで心は満たされている。空腹は感じるけれど、我慢できる。ミミコも同じような状態で、うんうん唸りながら二人で考え続けた。
 いつからか近くの席に座っていたユックに気付き、仲いいね、と言われ、私たちが笑っていると、もう今日は上がりなんだけど、一緒に何か食べに行かない?、キートももうすぐ来るし、と続けた。ミミコは多分、ちょうど良かった、二人で今から何食べるか悩んでたところ、と言った、それは、それは良かった、とユックが言ったからで、本当は何と言ったのか分からない。
 私とミミコは別の店員にアイスコーヒーを頼んで、キートが来るまでの時間をユックと過ごした。彼も私の話す言葉が分かれば、もう少しスムーズに、ミミコの負担を減らせるのにな、と考えながら三人で話し続けた。

 キートが来たのはユックと話し始めてから二十分後くらいで、今日の彼女は暑い中、革のジャケットを着ていた。中に着たTシャツにはデフォルメされた象の絵が描かれている。お待たせ、と言う彼女に、四人で行こう、とユックは言い、最高、と言うキートの声で私は、言ってることが分かるようになってる、と気が付いた。
 四人で歩いてイタリア料理屋へ行き、トマトソースと何種類かのチーズに生のバジルがのったシンプルなピザと魚介のピザ、キノコとチーズのリゾットを頼んだ。私たちは赤ワインで乾杯し、煙草を吸った。キートは水よりも早いペースで飲んで、ユックは飴を舐めるみたいに味わって飲んでいた。私とミミコは、多分お互い途中で、車のことを思い出したからか酔わないように、遅くも早くもないペースを守った。
 ピザはユックが切り分けてくれた。リゾットはそれぞれ大きなスプーンで取り分け、騒がしい店内に負けじと大きな声で話しながら食事を楽しんだ。やはりこの町の魚介は美味しい。私はみんなより多く魚介のピザを食べた。キートは、あれから絵が少し変わった、と言った。どういう変化かは分からないけど、楽しい、とも言った。私は頷くだけで何も言わなかった。私もそれが良いことなのか悪いことなのか分からないからだ。毎月きちんとギャラリーを開いていたころも、よくそういったことを言われた。でも私はそのときも何も言えずただ頷いていた。一応は笑顔で、本人が喜んでいるならそれでいいと思っていた。本当のところは分からない。結局、絵を見て何も言わないということは出来ないけれど、それでも私はよっぽど、絵を見ても何も言わない方がいいんじゃないかと考え続けた。

 私たちは店の前で別れて、彼らはバーかどこかへお酒を飲みにいった。私とミミコはスーパーで水を買って、車に乗ってから半分ずつ飲んだ。ミミコは少し酔っているようで、運転お願いしていい?、と言った。
 エンジンをかけ、酔っていないことを確かめてからアクセルを踏んだ。ミミコは窓の方に顔を向けて瞼を緩く閉じている。私は小さな音で音楽をかけ、運転に集中した。ミミコの曲は優しい。古い車のスピーカーでは彼女が弾くベースの音はよく分からない。声が遠くから聞こえてくる。アクリル板でできた箱の中で歌うミミコの姿が浮かぶ。彼女の声は少しだけ掠れていて、普段の声との違いに緊張してしまう。歌うことが気持ちよさそうで、そんな気持ちが声に響いている。

 家に着く前にミミコは眠っていて、車を止めてエンジンを切ると、目を覚ました。左だけ閉じたまま眠そうな目を向けて、ありがとう、と言った。おんぶしてあげようか?、と聞くと、重いから駄目、と言って覚醒したみたいに勢いよく車から降りた。
 三階で一緒にシャワーを浴び、ダイニングに下りてコーヒーを飲んだ。お母さんはもう眠っているのか一階にはいなかった。ミミコは短い眠りでむしろ元気になっていて、私も眠くなかったから、リビングで映画を観ることにした。
 並んで革張りのソファに座り、音量を絞って映画を観た。鮮やかな色彩で、言葉の分からない私でも楽しんで観ていられた。酒屋の男が主人公で、あれよあれよと事件に巻き込まれていく。男は小さい女の子を連れて当てもなく車を走らせている。物語の山場で男は死んでしまうが、何事もなかったようにその後も画面に登場している。女の子も、それまでと変わらず男に話しかけている。女の子以外には誰にも見えない男は、シャッターの閉まった酒屋を見つめている。
 観終わってからミミコは、あ、と言って、ごめん、ユックたちとの流れで忘れてた、分かんなかったでしょ、と続けた。私は、でも面白かったよ、と言った。

 私たちはまたダイニングへ戻ってコーヒーを飲んだ。ミミコが淹れてくれるコーヒーはどこへ来ても美味しいままで、久しぶりに会った昔の友人の変わらない癖を見つけたときと同じような安心感を抱いた。
 二人とも、寝よっか、と言いださないまま、メモ用紙に落書きしたり煙草を吸ったり足で突っつきあったりして深まっていく夜を過ごした。私は明けない夜を願いながら、眠気を見て見ぬ振りした。二時か三時にお母さんが下りてきて、水を一杯飲んで寝室に戻った。まだ起きてたの、早く寝なさいよ、と言ったのを聞いて、自分の母親でもあるような気がした。どちらからともなく三階に上がり、歯磨きをしてから眠った。
 夢の中にまたお団子が出てきて、カエルマエニイシヲサガセヨ、と言った。私が、シャツの胸のところにあるよ、と言うと、ソウジャナクテ、カノジョニアゲルイシ、と言った。

 起きてから手のひらに「石、探す」と書いた。ミミコはもう起きていて、お母さんと二人でオープンサンドを作っていた。私は洗い物をして、それから三人でコーヒーを飲んだ。お母さんの淹れるコーヒーは苦味が強く、同じ豆でも淹れる人が違うとこんなに変わるのか、と当たり前のことを思った。
 オートミールみたいな朝食を食べた私たちは、ミミコの運転で湖へ向かった。風で縦横無尽に舞うミミコの髪が風そのものの流れのようで、彼女は鬱陶しそうにしていたけれど、私は見ていて飽きなかった。
 湖はやっぱり誰もいないし、誰かがいた気配も訪れる予感もない。到着して水着に着替えて泳ぎだすまでに五分もかからなかった。今日も私たちは浮かんだり、浮かびながら煙草を吸ったりせず、きちんと泳いだ。私は手のひらの文字を消して、恐怖と一緒に水底まで潜った。一番深いところでも、真っ直ぐ立った私がすっかり入るくらいしかないが、それでも逆さを向いて水の底に近づくのは怖かった。私は無意識に、ペンダントにしてミミコに似合いそうな石を探していた。それは昼過ぎの休憩に車の上でオープンサンドを食べているときに思い至ったことで、朝の私はとにかく目についた石を確認するために潜っているつもりだった。
 ミミコは泳ぎ疲れたようで、私が泳ぎ始めても車の上で寝転んでいた。仰向けで本を読んでいるが、空中をぼんやり眺めている時間の方が多かった。
 私は小さくて密度のある石を探していた。できれば深い青色で、つるりとした、少し厚みのある平たい石がいい。深いところでばかり探しているな、と気がついて、淵に沿うように泳いで探し始めると五分くらいで目当ての石が見つかった。あまりに呆気なく目的の石が見つかったことが、もともとそこにあることを知っていたかのような勘違いを生んだ。昨日かいつかの私がその石をここに投げ込んで、今日の私はそれを探していただけなのだという感じ、そんなことはないのに、手元に戻ってきた、という感覚があった。
 私は車の上で寝転ぶミミコのそばまで行って、はい、あげる、と言った。彼女は本を閉じて頭の横に置き、起き上がってから私を見た。私の手のひらの上の石を見て、いつもの笑顔を浮かべ、ありがとう、と言った。軽やかに車の上から飛び降りて、ほとんどそのままの勢いで抱きついてきた。倒れないよう、石を落とさないようにしながら彼女を受け止め、疲れたでしょ?、と言った。
「泳ぎ疲れたけど、ぼーっと本読んでるのは気持ちいいよ」
「石見つかったから、帰ってもいいよ」
「うーん、じゃあ、帰ってちょっと寝て、何するか決めよう。それでもいい?」
「そうしよう」

 それで今、私たちはベッドの上で裸になって眠っている。ミミコはシャワーを浴びて拭ったそのままで、私はミミコを見てから服を脱いだ。彼女は、何で脱ぐの、と笑いながらすっと私の隣にきて、何回見ても大きい、と言ってすぐに眠った。私は枕元の机の上の石を見て、シャツのポッケの石を確認しにいった。石はまだそこにあって、ベッドに戻った私はいつ眠ったか分からないくらい早く寝付いた。

 開け放した窓から入ってくる夕方の光りで目を覚ました。ミミコは窓に背を向けていて、まだ眠っている。私は下着を着けて薄いパーカーを羽織った。窓辺の椅子に座り『ヌマキさんはカウンターの中で椅子に座ってコーヒーを飲んでいた。』というところから書き始めた。昨日書くことを忘れて眠ってしまったせいか流れに乗るまで時間がかかった。ちゃんと毎日続けることが大事なのだと、始めたばかりだけど分かった。
 書いているとヒキタさんもミミコも本当はいないんじゃないかという気がして、頭の中で大きな金属製の何かが高いところから落ちたみたいな音が響く。眠るミミコの後ろ姿を何度も確認しながら書き進めた。私は、この日々が夢でもいいから二人だけは存在していて欲しい、と思った。私はまだただの常連客でヒキタさんの絵も知らず、ヌマキさん、と呼んでいても構わない。二人が確かに、ここではないどこかでも、ただ存在しているならそれでいい。そうなることが決まってたみたいに自然に涙が出てきて、ノートにいくつかの滲みをつくった。
 立ち上がって窓の外の森を眺め、夕陽を体に浴びた。お腹や首の辺りが暖まると涙は止まった。洟をかんでからミミコを起こし、ご飯食べよう、と言った。彼女は寝惚けたまま、うん、と言って、私の名前を呼んだ。どうしたの?、と言うと、好きだよ、と言うので、痛い痛い、と言われるまで強く抱きしめ、言われてから力を抜いて耳を噛んだ。
 それから私たちは心ゆくまでじゃれ合って、汗だくになった体に冷たいシャワーを浴びた。一階に下りて冷蔵庫を漁り、ソーセージや卵を焼いて、柔らかいパンと一緒に食べた。お母さんはリビングで何かを書いていて、私はミミコに、うるさくないかな?、と言った。彼女は、多分大丈夫だと思う、小さい頃からこうだったし、と言った。私はそれでもなるべく全ての音を小さくするように心がけ、いつもより早く食べた。ミミコはいつも通りで、きっとそれで大丈夫なんだろうとは思いつつも、私は一応部外者であることを忘れないようにしていた。
 食後の煙草を吸っていると、いつからいたの?、と言いながらお母さんがやってきて、ミミコは、ほら、と言った。私は口角を下げながら目だけで笑って、一時間半くらい前です、と言ってみた。彼女は頷いて、書くのに集中して気付かなかった、と言った。また言葉が分かる人が増えた、と一瞬思って、辿々しく話していたことを思い出し、あ、違った、と思い直した。
 私がコーヒーを淹れ、三つのマグカップに注いだ。お母さんは、ミミコのに似てる、と言って、私が教えたからね、とミミコが言った。私は弟子の気分で嬉しくなって、不釣合いなくらい大きい声で、はい、と言ってしまった。二人は笑って、お母さんは、ミミコのこと好きなのね、と言った。私は出来うる限り力を込めて頷いた。

 眠りに二階へ上がるお母さんを見送り、私たちはまたダイニングで時間をつぶした。ミミコは本を読んで、私は帰ってからすることをメモに書いた。新しい展示の企画、作家を探す、コーヒーを淹れる練習、小説を書き進める、『渠』で小説を買ってみる、ミミコやヒキタさんに良い本を聞く、雑誌の連載記事を書く、ペンダントを作ってもらう。
 私はノートを取ってきて『ナバタくんは小走りで二階へ行き、』と書き始め、この旅が終わるところまで書いたら、そのあとはまた別の小説を書いてみよう、と思った。
 私とミミコはこっちに来てから、何故かは分からないけれど煙草を吸う回数が減ったように思う。ミミコは、持ってきた本を全部読み終わったのか、新しく買った本を読んでいる。薄い革の装丁が珍しく映るのは本を読んでこなかったからだろうか。

 しばらく集中して書いて、手首をほぐしている時にうつらうつらしているミミコに気付いた。寝よっか、と言うと何も言わずに立ち上がりふらふらと階段の方へ歩いていった。本とノートを脇に挟んで彼女の後ろを歩き、階段をゆっくり上がった。
 部屋に入っていくミミコを見ながら洗面所へ行き、本とノートを濡れないところに置いて、なんとなくいつもより丁寧に歯を磨いた。倍くらいの時間をかけて歯磨きを終え、部屋に戻るとミミコまた裸になって眠っていた。私は、こういうとき写真家なら迷わずシャッターを押すんだろうな、と思いながらしばらく扉にもたれて彼女を見つめた。月の光の中で彼女の体は青白く、普段より体の線が膨らんでいるように見える。触れれば柔らかいと分かっているのに硬そうに見える。
 ノートは窓辺の机に、本は枕元の机に置いて、そっと彼女の隣に寝転んだ。彼女が見ていないところで服を脱ぐのが何だか恥ずかしくて服を着たままで眠った。

 目覚めるとミミコの姿はなく、カーテンは閉じられていた。眠りすぎた気がして時計を確認するとまだ昼前で、私はベッドの上で大の字になって天井を眺めた。一階から音楽が聞こえる。ピアノの音だ。きっとレコードか何かをかけているんだろう、実際には今ミミコかお母さんが弾いているように聴こえた。私は五分か十分くらいそのままの体勢で何も考えないでいた。
 いつのまに眠っていたのか、気がつくとミミコが窓辺の椅子に座って本を読んでいて、さっきの時間か今のどちらかが夢だと思った。ミミコが、おはよう、と言って、もう昼過ぎだよ、と言うまで夢の感触のままで、どうしてかその言葉で現実に戻ってきた。
 上半身だけを起こして伸びをし、今日も泳ぐ?、と訊ねた。彼女は本を閉じて、今日はクイーザに行こう、と言った。
「すぐ用意する」ベッドから下りて体を捻りながら言った。
「別に急がなくていいよ」
 顔を洗って歯を磨いてから一階に下りかけて、部屋に戻るとミミコはいなかった。服を着替えてから下に行って、リビングでお母さんと話すミミコに声をかけた。彼女が立ち上がって私のところに来るまでに、お母さんに会釈をして、行ってきます、と言った。お母さんは笑顔で手を振って、気をつけて、と言った。

 車に乗り込んですぐに、そういえばヒキタくんから連絡あったの伝え忘れてた、とミミコは言った。明けましておめでとうございます、今年も二人ともよろしくね。今月は少し忙しいから、来月なら大体いつでも見にきていいよ、とのことだった。私は想像していたヒキタさんの姿をミミコに話した。彼女は、もうそうとしか思えない、と笑って、車を走らせた。

 ちょっとドライブしてから行こうよ、とミミコが言って私は、やったー、と言った。窓の外の木々はずっと同じはずなのに、昨日とは違う種類の木に見えた。ヒキタさんは今頃はもう『くるくる』を開いているはずで、早く彼の料理が食べたいとうずうずし始めた。ミミコの歌声が響いている。煙草の煙が所々で弾けて揺れている。
「ずっと家に泊まってるけど、どこか別のところにでも泊まる?」
「ううん、私はミミコのところがいい、今更だけどお母さん、迷惑じゃないかな」
「大丈夫だと思うよ、何かすごく気に入ったみたい」
「良かった、嬉しい」
 ミミコは私の頭を右手で撫でて、牛見に行こう、と言った。私は馴染みのなさに言葉の意味が分からず、牛?、と言った。彼女はそれには答えず、気持ちいい高原があるんだよ、と言って、車のスピードをほんの少し早めた。私はそのあともすぐには意味が形作られず、牛?、と考えていた。
 いくつかの湖を通り過ぎたが、どこも私たちの湖のようには澄んでいなかった。人々はめいめい好きなように湖との時間を過ごしている。ミミコは大きな声で高校生の頃の彼女と歌っている。お母さんの朗読を聞いたときと同じように、体が開かれていく感覚がある。それは温もりのある手で私を開き、ガラクタにしか見えない物を拾ってはどこかから射し込んだ光の下に置いていった。それはどんどん私の奥の方まで進んでいく。ミミコの声が頭と体の中で響いて、私を揺さぶっている。太陽の陽を吸ったミミコの瞳は膨らんで濡れている。彼女の眼の色を私は知らなかった。烟ったような黄色の膜が薄く淡い青色を覆っている。彼女の眼は湖だった。ゆらゆらと細波があり、一番深くまで見通せるのに底の方はよく見えない。煙草の煙で涙ぐんだ彼女の眼は無遠慮に向けた私の視線を釘付けた。彼女は微笑みながら私を見て、かわいいね、と言った。私の体はその声の響きで溢れてしまった。彼女は私の涙を右手の人差し指で拭って、おいでよ、と言った。私はミミコの太ももに頭を乗せ、それからすぐに声を出して泣いた。私は彼女の前で涙を流しすぎている。彼女はいつも笑顔でいるのに。ミミコの指先は陶器みたいに滑らかで、頬を撫でられても指紋の凹凸を感じない。彼女は私の頭を撫でたり、耳を揉んだり、顔の骨を確かめるみたいに指を這わせたりしていた。私は泣き止んでいて、しゃっくりを静めようと息を止めていた。もう少ししたら着くからね、と声が聞こえ頷いた。

 その高原に、牛は全部で六頭しかいなかった。私は何となく物凄い数の牛がいるもんだと思っていた。ミミコは煙草を吸いながら、離れた先を歩いている。私は背の高い草を手のひらで流れるように触りながら歩いていた。風は一方向から吹いているのに草は色んな揺れ方をした。手のひらと顔で感じる風とは別の層があるのか。細かい毛のようなものが、私が触れたそばから風に巻き上げられてゆく。
 そのうちに距離が詰まっていき、彼女に追いついた。あとちょっと歩いたら牛がいるよ多分、と彼女は言って、競争、と走って行った。緩い登り坂を走り、肺がきりきりと痛んだ。ミミコはもう台地みたいなところに立っていて、私を待っている。彼女の隣に立ったときには、そのまま泳いだみたいに服までしっかり濡れていた。ミミコは汗もかかず、遅いよ、と笑っていた。
 呼吸を整えてあらためて前を見ると、小柄な牛が六頭、草を食んだり、頭を擦りつけ合ったり、遠くの方を身動きもなく見つめていたり、思い思いに過ごしているようだった。ミミコは一際小さくまだらな赤茶色の牛の背中を撫でている。牛は座り込んで草をくわえている。くちびるにくっ付いているだけかもしれないが、そう見えた。
「昔はもっと牛だらけだったんだけど、どっか行っちゃった」
「私も撫でていいかな」
「どうだろう、分かんない」ミミコは目を細めて笑いながら私の手を取った。
 意外にも薄い皮膚の下に大きな骨の感触があった。それそのもので生きてるみたいだ。牛は何の反応もないまま私とミミコの手のひらを受け入れている。ほうぼうに散らばった他の牛も、私たちに反応はしないが、拒絶している様子はない。仔牛の長い舌は零れたみたいに飛び出して、やけにゆっくり仕舞い込まれた。

 牛たちから少し離れたところに座って、街を見下ろした。私たちが降り立った空港が見える。遠くのほうに巨大な湖が見える。ミミコは私を抱き抱えるような格好で、頭の上に顎を置いている。私は目立った建物一つ一つを指差し、あれは?、と訊ねた。ボーリング場、店長が嫌な奴、大学、この辺りで一番だね、港、あの湖の向こうへ渡るにはあそこから船かあっちの橋。
 ミミコの体が離れて、背中とのあいだに風がふわっと溜まった。がさごそと音が鳴って、彼女の舌先を首筋に感じた私は、自分でも驚くくらいの早さで振り返った。汗かいたから、と言うと前を向かされた。首筋と耳を執拗に舐められ、体が一つの器官になったように脈打っていた。私は今ではそれぞれに異なった風の層をはっきりと感じていた。彼女はそのままジーンズのフックを外し、長い指を挿し入れた。熱い舌で濡れた首筋が、生温い風を冷たく感じさせる。指の動きに合わせて前屈みになる私の体を引っ張り上げ、いつもより時間をかけて私を真っ白にした。全身の軽い痙攣がおさまってから振り返ると、彼女は中指と薬指をくわえたまま笑った。

 彼女に支えられるようにして高地をあとにした。車に乗り込んでから発進するまでに、ミミコはポーチからウエットティッシュを取り出し、牛触ったから、と言って私の手を拭いてくれた。きっとこの人は、私を触る前にもちゃんと自分の手を拭いていたんだろうな、と思うと体がまた熱を持った。
「あ、さっきちゃんと拭いてからだからね」私がぼんやり前の方を見ているとミミコは慌てたように言った。
「分かってる」短く笑ってから言った。

 二人とも煙草を吸い続けながら『クイーザ』へ向かった。私はあと二日か、と考えていた。そうしたら、私たちは飛行機に乗って帰らなければならない。私は上手く日常に戻れるだろうか。幼い頃からそういったことが苦手だった。ミミコは得意そうに思える。私も彼女と一緒なら大丈夫かもしれない。何だって、彼女と二人でいれば大丈夫なのかもしれない。

 私たちはテラス席でアイスコーヒーを飲みながら、話しもせずに日暮れまでぼーっとしていた。私は気怠さの中で、思い出すたびに汗ばんだ。ミミコは本を数ページ読んでは通りに視線を向けた。大きな犬が通り過ぎたとき、仔牛の背骨の感触が手のひらに現れた。彼女は尻尾の動きを追っているように見えた。

 ミミコと私は夕飯を家で作ることにして、スーパーで海老と貝、大きな灰色の魚と野菜を適当に買って帰った。
 助手席で微睡むミミコは何かを呟いている。言語的な意味で何を言っているのかは分からないが、割と楽しそうな声音であることにほっとした。木々は暗がりに没していて、影が立ち上がったようにしか見えない。そうして初めて道路灯が一本もないことに気付いた。車のライトは充分に視界を開いてくれているし、特に荒れた道でもないが辺りがすっぽり闇なのだと考えると恐ろしかった。小さな音でミミコの曲を流し、途切れ途切れに歌いながら帰路を進んだ。

 アクアパッツァとただ海老を焼いたのと貝の炊き込みご飯を作った。トマトとアスパラガスが優しい甘さを出している。灰色の大きな魚は身が締まっていて、味も濃厚だった。クリーミーな料理を食べたのと同じ感覚が残る。お母さんは、ミミコと私を褒めながら炊き込みご飯を三回もお代わりした。私たちは幼い姉妹のように自慢げな顔をして笑っていた。
 私たちが食器を洗っているあいだに、お母さんは書き物に戻っていて、その姿は、湖で浮かぶミミコを思い出させた。ミミコは彼女の娘なのだと意識した。ミミコは髪を一つにくくって口笛を吹いている。お母さんは何の音も聞いていないようだ。

 部屋に戻ってから、彼女は音楽を聴きながら本を読み、私は『私とヒキタさんは連れ立って『渠』へ行った。』と書き出した。毎日書く分量を決めた方がいいのかもしれない。日記でもないこれは一体何なのだろうか。
 ヘッドフォンをかけたミミコは少女に見える。私の視線に気づくと、変な顔をしてから恥ずかしそうに笑った。彼女のそばに飛び乗って、今日はありがとう、と言った。

 夜中に目が覚めると、ミミコの姿はなかった。体温が上がるのを感じた。名前を呼んでもどこからも反応がない。窓から身を乗り出して車を確認した。夕方に見たままそれはあって、私は取り乱したまま部屋を出た。家中のどこを探しても彼女はいない。私はもう迷子になった子どもみたいに涙を流していて、ミミコ、と呼ぶ声は大きく揺れていた。
 ダイニングのテーブルにコーヒーの入ったマグがあった。まだ湯気がのぼっている。耳鳴りが始まって、彼女はもうここにはいない、と声が聞こえた。声は私の頭の中から聞こえるが、耳で拾ったようにくっきり聞こえた。大声を出してしまわないよう、深呼吸を繰り返した。リビングのテレビは家のまわりの森みたいに真っ暗で、私は彼女がその中に吸い込まれてしまったんだと考え始めていた。そんな訳ないよ、と声をかける私はもうその頃には見えないくらい小さくなっていて、真剣にそんなふうに考えていた。
 裸足のまま外に飛び出した私は、ポーチに座って煙草を吸うミミコにぶつかりそうになった。彼女は肩をちぢめて驚いた格好で振り返った。彼女の名前を情けない声で呟きながらその場に座り込んだ。しゃくりをあげて泣く私を彼女は抱き締め、そのまま寝ちゃったから起きてシャワー浴びたんだよ、と言った。
「下でコーヒー飲んでたら何となく外で煙草吸いたくなって」背中を強く撫でながら言った。
「すぐに、色んなことで泣いてごめん」私は出来ることなら今すぐ散り散りになってしまいたかった。
 いいじゃん別に、と彼女は言って、私を立ち上がらせた。静かに家の中に戻り、ダイニングでコーヒーを飲み終わる頃にやっと私は落ち着きを取り戻した。彼女はずっと私の体をさすって、大丈夫どこにも行かないよ、とあやすような声で言った。

 次の日は夕暮れまで部屋に篭ってお互いの体を探り合った。こっちに来てから少しふっくらしたミミコの体は、ベルニーニの衣みたいに頭の中の小さなポイントを強く揺さぶった。押し殺していたのに、むしろそのせいか、二人とも声を嗄らしていた。
 一緒にシャワーを浴びてから一階へ降りた。冷蔵庫の中のものを使って軽食を作って食べると、飢えに近い空腹を感じた。私たちは急いで身支度を済ませると、車を走らせて街へ向かった。
 何種類かのチーズとじゃがいものリゾットを食べ、バジルと小海老のパスタを食べ、ドーム型で中の詰まったパンを食べ、燻製の魚とトマトのピザを食べてようやく、私たちは満たされた。ミミコは椅子に深くもたれかかり、煙草の煙を天井に向けて吐いている。私は靴を脱いだ爪先で彼女の脛を撫でている。

 東の四阿でミミコとの旅を思い出していた。彼女はベンチに座って光を浴びている。木々が風に揺れているが、風が吹いているようには感じられない。私はダウンのコートを脱いで柱にもたれて立っている。彼女の隣に置かれたそれは、指示を待つ大きな動物に見える。瞳が真っ黒で、所々毛が飛び出した動物。インスタントカメラでその光景を撮った。絶対間抜けな顔してた、とミミコは言ってとびきり柔らかい笑顔を向けた。
 雲もない空が風で動いているように見える。認識できない程度に薄い雲がかかっているのだろうか。薄い水色のゼリーみたいな、中も外も同じ色の重たいものが動いてるみたいだ。頬のあたりを流れた汗が靴の爪先に染みをつくった。ミミコはダウンジャケットの前を開けて、屋根の穴を見つめている。光の柱の周りは彼女に向かって流れているのに、真ん中の層は穴を目指してゆっくりと上昇していた。煙草の煙と白い息が混じって、ミミコの姿が霞むくらいもわもわと漂っている。途端に私とミミコとの距離が広がったように感じた。私とミミコのあいだには壁も溝も何もないのに、どれだけかけても近づくことのできない距離、でもそれはあまりに馬鹿げた距離で、私はそれとなく無視することができた。私はミミコの隣に座って、彼女の肩に頭をのせた。
 彼女は煙草を持った方の手で私の頭を撫でた。ミミコの汗と甘い煙草の匂いが、私を湖や高原や車の中へ連れていく。ミミコの軟らかい耳が頭の上に押し付けられ、彼女の声がそこから聞こえてくるみたいだった。くぐもった声で、泣きそう?、と彼女は言った。ただ訊ねるだけの声音を、彼女はいつも私に使ってくれる。大丈だよ、と言って私は体を起こした。

 山の頂上は枝の細い木が乱立していて、景色を見通すのには適していない。『くぬぎ』でそう言っていた私に、意外と見えるじゃん、と彼女は言った。確かに以前に比べて木が少なくなっていた。枯れて倒れてしまったんだろう。
 シートの上で朝に二人でつくった弁当を食べた。一体何歳まで外で食べる食べ物を美味しく感じるのか、冷め切った卵焼きや野菜を薄い肉で巻いたのを噛みながら、その度に思った。
 ミミコは背中を伸ばしてから寝転がって本を読み始めた。私はそれを写真におさめて、ちょっと歩いてくる、と言った。

 今し方登ってきた道を下った。ほんの少し歩いただけでもう彼女の姿は見えない。落ち葉と濡れた土の道は、その下がまるっと空洞みたいな音が響く。山を歩いていると刺すような不安が付き纏う。何かの拍子に、ぼくっぼくっと鳴る道の内側へ落ちてしまいそうで、何も考えないでいることしかできない。
 ちょっとした獣道や、傾斜はあるが開けた場所を歩いて頂上に戻るとミミコはいなかった。分厚い本が代わりみたいに置いてある。小さいザックから取り出した水筒でコーヒーを飲んだ。私の淹れたコーヒーはもう酸味が強くなっている。
 煙草を一本吸い終わる頃に彼女は茂みから出てきて、あ、と言った。隣に座るまでに頬が赤くなっていて、私は何も言わないままでコーヒーを啜った。

 私たちは最後の日、お互いに石を探した湖へ行った。ミミコは、そうだ、と言って裸のまま泳ぎに行った。ボンネットの縁に腰掛けて、十五分くらいそんな彼女の姿を眺めていた。体の前後の起伏が少ない彼女は、遠目で見ているとすっかり水の中の生き物に見えた。泳ぐ姿に悦を感じないことが余計にそう見えさせたのかもしれない。
 彼女がコースを泳ぐみたいにし始めたあたりで、私も裸になって湖に入った。上下の少ない布がないだけで、水の中にいる感覚が気持ち悪いくらい増した。子どもの頃に嵌った小さな沼を思い出す。歩いたそばから再生するみたいに切れ目が埋まっていく。開いたところがみるみる閉じられていくその映像が浮かんでくる。それでも、二の腕や太腿の内側で水を裂いていく感触はいつもより気持ちいい。水着をつけていても変わらず出ている部分の感度が変わるのはどうしてだろう。足首から下や首筋は沼での感じに近い。普段水着に隠れている部分はむしろ違和感がなく、特に開放感もなかった。

「服着たまま泳いだら、全身で沼に嵌った感覚を思い出すんじゃない?」
 ミミコはそう言って大判のタオルの羽織った。私はその前後の話を思い出せない。彼女に倣ってタオルを羽織り、煙草をくわえた。澄んで凪いだ湖は、鏡というより大きな穴に見える。二人とも火のついていない煙草をくわえたまま湖をじっと見ていた。
 彼女は立ち上がって汀まで歩き、腰に手を当てて大きく伸びをして、あれ見て、と私に振り返った。ゆっくり立ち上がって彼女の隣に並び、なに?、と言った。
 それは、沈んでゆく太陽に重なって種類の分からない、大型で四足歩行の動物だった。その形通りに切り取られたみたいにぽっかり空間が黒く開いている。正確な距離は分からないが、それにしても巨大で、牛にすら見えない。まるで何にも見えないそれは太陽からはみ出ないようにうろうろと行ったり来たり歩いていた。ミミコは見当が付くのか、あれ何だろう、みたいなことも言わず、ただ黙ってそれを見ていた。私も何も言わずに見ていたが、近づいて来ているように見えた途端、近づいて来てない?、と言った。
 太陽が完全に沈むとそれは月の光に照らされたが、それでも一体どういった生物なのかは分からなかった。私たちの影が湖に落ちて揺れている。ミミコは私の煙草に火をつけ、それからゆっくり自分の煙草にも火をつけた。


16251字

 1
 その頃のシクミと僕は、歩くことだけを求めていて、週のほとんどの時間を一緒に過ごした。目が覚めると、どちらからともなく連絡を取って、お互いの家の間にある喫茶店で落ち合った。朝食か昼食を食べて歩き始め、夕食と夜食も食べてそれぞれの家に帰る。そんな日々が何年か続いた。
 半年もすると街を歩き尽くしてしまったが、それでも変わらずに歩き続けた。今となっては、出会った日のことは思い出せない。一緒になっていつまでも歩いていたことだけが、それだけが記憶としてぽっかり残っている。二人とも大学を辞めていて、失業手当と知人の仕事の手伝いで食い繋いでいる、という共通点だけ。それでも互いに、互いの言葉が分かった。そんなふうだったのに、あの頃の互いの言葉は今では風景のようだった。
 同じ場所を何度歩くことになっても、歩く行為自体にうんざりすることはなかった。町並みに向けられる注意が、そこを歩く人たちや、些細だけどいつもとは違った出来事に向かいやすくなっただけだった。二人とも、同じこと、同じようなことを繰り返すのを苦痛に思わない人間だったというのも大いに、限りない歩行を続ける要因になっていただろう。
 シクミはいつも、そのとき読んでいる本の話を歩き始めにしてくれた。作者はどこそこの生まれで、まあ概ねこういった人物像、何歳でこの本を書き、こういった評価を受けていて、何歳で死んだか、そんなようなことを教えてくれた。彼は小説を読み、僕は学術書を読むのが好きだった。強い興味のない分野の本でも読んでいられた。小説に関しては、いつ何を読んだかも分からないくらい、そんな疑問が初めに浮かぶくらい読んでいなかった。
 彼の父親は割と有名な大学の英文科の教授で、息子であるシクミのことはなかったことのように無干渉でいた。彼はそれに対して、ああだこうだぐちぐち言われるよりはいいよ、と言って眉頭を上げた。父親の話をするシクミは、基本的には彼を罵るばかりだったが、ごく僅かに誇らしげな顔をすることがあった。そんな話をすることも、そんな顔をするのも稀だったから、今でも同じような場面に出会すたびに思い浮かぶ。
 彼の話し方は僕に、緩やかな風の抜ける林を思い起こさせた。声音に拠るところが大きいだろうが、言葉の選び方や繋ぎ方、そういった部分からそんなことを思い始めたようにも思う。だからなのか、彼が何について話していても、僕はいつでもにこにこした気分で聞いていられた。空気が声帯を通る音というのか、すーっと声を囲む柔らかな膜があった。発せられた声自体は明瞭で真っ直ぐなのに、掠れているように聞こえることがあった。
 幹線道路沿いの道を歩いていた。左の方で低いマンションがずっと続いている。彼はいつも右側を、ポケットに両手を突っ込んで歩いていた。僕らは、次曲がろう、このまま進んでこう、そこ右、とか何とか言わないで、小舟みたいに流れに任せていた。
 前日に別れた後の話をしてから、あとはただ、今では思い出せない話をし続けた。僕らは息ができないくらい笑っていた。大抵の場合、僕らは危ないくらい笑っていた。互いの話す話に、心底面白がっていた。少なくとも僕は、彼の話す、興味も関心もない話をおもしろおかしく聞いていることができた。彼の話は脈絡も文脈も無視してあちこち飛んでいった。その繋がり方や本筋への戻り方にさえ笑いがこみ上げてくる。
 それなのに、今そのことを思い出そうとすると、何一つ浮かび上がってこない。それは、僕にとっては初めから終わりまで老人であった祖父母の、彼らの若い頃の話を誰かに聞いたときと同じように体の中央部分を震わせる。頭や体のどこかがそれを理解することを拒んでいるようだった。
 彼は母方の祖母が所有しているマンションの一部屋を与えられ、そこに猫と暮らしていた。二人ともが歩く気分でないとき、大抵は僕がシクミの家へ行って、終電までいつものように話し込んだ。彼の猫はウジュといって、祖母からその部屋と一緒に贈られた。話し疲れるとウジュの体を撫で、お腹空いてないか?とか、喉渇いてないか?とか、そうも思ってないことを話しかけた。ただそうしているだけで、僕が彼に抱いている、人間に向ける好意とは違った姿だが同質の気持ちが伝わっていくだろうと考えていた。常に眠そうな顔をしていて、野良猫よりも何を思っているのか分からない。いくらケアしてもごわついた毛先に比べ、皮膚に近い部分の毛は鞣革や若葉のように柔らかでしっとりとしていた。シクミはその猫をずいぶん可愛がっていて、これは俺に残されたものの中で一番なくしちゃいけないものなんだよ、と言っていた。
 スワンボートが浮かんでるような池の周りを歩いていた。彼はアイスクリームを食べながら、僕はフランクフルトを食べながら。ベンチに座ってコーンを砕いて鳩にやり、背もたれに合わせて腰を反らした。何も言わず、鳩や柵の向こうの池を眺めた。池に浮かぶ鳥と鳩が、同じように括れることが何かしらの違和感を生んだ。僕がそんなことを言うと、彼は、確かに、と言って黙った。
  そのときの僕は一人で平家に住んでいた。元々は写真家の叔母の家で、彼女は五年前にドイツだったかフランスだったかに行ったきりめったに帰って来なかった。家屋自体は小さいのだが、小さな子どもなら迷うこともできるやけに広い庭があり、僕はそこにテントを張って寝るのが好きだった。
 彼女が置いていったカメラを使って木々を撮り、プリントした写真を何枚かコルクボードに貼り付けて台所に置いた。シクミはたまにふらっと現れて、いい家だな、とその日中繰り返す。僕らは縁側に座って熱いコーヒーを飲みながら話し、やってくる野良猫たちにべちゃべちゃしたキャットフードを食べさせた。どの猫も毛並みが整っていて、本当に野良猫なのかどうかは分からない。全部で六匹の猫が訪れた。濃い赤茶とそれよりは薄い赤茶、淡い水色っぽいの、真っ白と透けたような灰色、幾何学模様ちっくなさび、前の三匹は僕に、後ろの三匹はシクミに興味を示したようだった。
 月曜か火曜の夜と土曜か日曜の夜に彼らは、付かず離れずで庭の奥の方から静かに現れる。シクミがいないときの白と灰とさびは、小皿にあけた餌を食べるとすぐにどこかへ走り去った。赤茶たちと水色は餌を食べたあとでも縁側の近くをうろうろしたり、胡座の足のそばに寝転んだりしていた。
 叔母の写真集を二人で見ていた。彼女の撮る写真はどれも瑞々しく見える。乾いた壁をうつした写真でさえも、どこか遠くに水の気配がある。僕らを釘付けたのは老婆が裸で椅子に座っている写真だった。彼女は足をぴったり閉じ、腕は肘掛にふんわりのせられている。一見、目元の深い皺や鼻の形で柔和な表情にも思えるが、瞳からは何かに対する強い反抗の意思が横溢していた。それはカメラやその状況に対してではなく、彼女の生きている時間に育まれてきた、もっと強固で揺るぐことのないものだった。僕とシクミは唾を飲み込んでその写真に見惚れ、叔母さんすごいな、と彼が言った。叔母はきっと彼女の眼球で堰き止められようとしている何かを撮りたかったのだろう。彼女の写真がどれも瑞々しいのは、彼女自身が対象の中に潜む何らかの、その形を水のようなものとして認識しているからだろうか。僕らは彼女の写真の中で、対象物からそれが噴き出してこないようにしている栓みたいなものを探しながらページを繰った。これ、これ、これ、とぱっと見てそれらしいものを指差していった。シクミは、叔母さんとお前は結構似た目をしてるのかもな、と言った。
 思えば僕は、叔母に懐いていたかもしれない。彼女がまだ僕らと暮らしていた頃、彼女はよく僕を連れ出した。それは、ちょっとした撮影だったり、ただの買い物だったり、カメラの使い方を教えるためだったりした。その時期には両親はまだ、まともさを保っていたようにも思えてくる。
 彼女が僕たち家族にとっての栓の役割を担ってくれていたのだろうか。彼女の仕事が忙しくなるにつれ、彼らは冷静さを忘れてきたみたいに慌ただしく、いつまでも騒がしくしていた。
 眼球の裏には小さな扉があって、何かを思い出そうとするとそこが開き、投光器からそれぞれに合った強度の光が伸びる。おもむろにスクリーンが降りてくるが、その距離や色味を僕たちは選択することも調整することもできない。僕はシクミと過ごした時間を、仮に、忘れたくなる日がきても忘れられないんだろうな、とかなり真剣に、つい最近まで信じるように思っていた。僕たちが無意識に従っている諸々の動きと同じく、彼と過ごしたいくつもの晴れた日は、驚くほど遠い地点で輝いているだけだった。その光の存在や温かさ、今の僕が思い出せるのは、短い時間ではあるが確実にあった感触と、その日から遠くない未来に思い返したときの、知らず知らずのうちに笑ってしまうあの、僕や彼の中にあった腐りかけたどこかを癒す、その波のあまりにも際立った気配だけだ。カタヌキみたいなもので、どれだけ注意深く思い出そうとしても、壊れるときには絶対に壊れた。
 雪がちらつく街の中を歩くのは、何かに抵抗しているような気持ちにさせる。僕らは傘を閉じたり開いたりしながらも歩き続けていた。シクミは耳当てのついたニット帽を被り、寒いな、と言い続けていた。僕は寒さに強いようで、彼に比べてずいぶん薄着でいた。目に入るだけで寒い、と彼は言って、僕に手袋を買ってくれた。薄めた黒と白のしましまの手袋で、彼がどこで、どうしてそれを買ってきたのか。
 僕は後年、そのことを思い出して、雑誌か何かの広告用の撮影中に吹き出した。それまで無口でいたせいか、誰も一緒に笑ってはくれなかった。しばらく笑い続けたあと、モデルのマネージャーが野生動物に近付くときのように僕の元へやってきた。彼はいくつかの意味で、大丈夫ですか?、と言った。それでまた思い出し笑いに陥った僕を、鍋で煮たヘドロのような顔で見つめていた。
 叔母が帰国した日、シクミは何日か僕の家に泊まっていて、彼女は僕らと顔を合わせるなり、あとで写真撮らせて、と言って奥の部屋に引っ込んだ。久々に会う彼女の勢いで小さい頃のことを思い出した。叔母が何か言うたび、何かするたび、そこから発生する振動みたいなものが、僕自身にフィットするまで時間がかかる。シクミはそれに順応、というか資質があるのか、とくに顔色も変えず、いいですよ、と言ってお茶を啜った。
 僕たちはいつも通り、座布団を折って枕に縁側で寝そべっていた。叔母が帰ってくることを知っていたのか、野良猫たちは一匹も姿を見せない。髪を括りながら叔母が僕らのあいだに座り、あんたら渋い趣味してるね、と言って背筋を伸ばした。僕とシクミは多分、薄いタンクトップに浮かんだ乳首を見ていて、それはきっともう眼球の自動的な働きだった。
「お土産」
「ありがとう、ええ、と、彼はシクミ」
「シクミ?」
「はい、志に、久しい、美味の美、です」
「意味ありげな名前だ」
「みたいですね、昔、学校の授業か何かで親に聞きましたけど、忘れました」
「ふーん、二人は仲良さそうだね」
「うん、ほぼ唯一の友達だよ」
「あんた、ちっちゃい頃から一人としか遊ばないね、ほんと」
「多分、僕らはそれでいっぱいいっぱいなんじゃないかと思います」
「それがどんなでも一人の人間と付き合うのが?」
「はい」
「言うねえ」「あんたたち多分生きていくのに苦労するよ」
「うん」
「だと思います」
「はははは、まあ、いいよね、それで」
「うん」
「そう願います」
 叔母がくれたのは、どこだったか、高山地帯の国を回って撮った何十枚かの写真だった。鮮やかな服を着て笑う子どもたちの後ろには、ぞっとするくらい大きな山が連なっている。万年雪だろう上部の色合いが不気味に澄んでいる。彼女は僕らが写真を見る姿を、写真を撮るときの目で見ていた。僕たちがどの写真に興味を示すのか、それ自体に関心があるわけではないだろうが、見極めようとしていた。シクミが、これは、という顔をしたのは山間にある奇妙な色の湖の写真だった。濃い赤色や緑、靄がかったような青色、それらの無数のグラデーションが入り混じっている。叔母が立ち上がってどこかへ行き、カメラを持って戻ってきた。彼女は僕らに、あんたはそっちに座って、とか、シクミはもうちょっと遠くを見て、とか指示を出し、何度かシャッターを切ったあと、僕にカメラを取ってくるように言った。
 デジタルとフィルムのカメラを一台ずつ持った僕が縁側に戻ると、彼女は服を全部脱いで立っていて、シクミは、その過程を見ていたのに、一瞬の出来事にあったみたいな顔で驚いていた。叔母は、そこからあんたが私を撮って、と言い、草木があまり生えていない場所を歩き始めた。僕は裸足で庭に出て、その前にデジカメを投げるようにシクミに渡して、距離を詰めないで彼女を撮った。なるべく彼女の姿だけを見ながら絞りを調整した。彼女の体は、稀に見ることができる、果てしなく柔らかそうな石像を思わせた。それは抱えきれない量の可能性と矛盾と整合性の重なりだ。僕らより頭ひとつ高いが、離れているおかげで真っ直ぐ撮っていられた。何となく、上からも下からも撮りたくなかった。彼女の体は、彼女の体であることの喜びで満たされていた。シクミは初めと同じ顔のまま、僕と叔母を見ている。本来であれば撮る必要のない被写体というのは、それに向き合うと距離の異なる映像が同時に目や頭に浮かんでくる。彼女に触れるくらい近づいたかと思うと、表情がかろうじて分かるくらいの距離まで突き離れた。後にも先にも、そのときの叔母の姿より美しいものを、僕は見つけることができなかった。歴史的な意味を持った彫像も、ただ優れた彫像も、それ以前のようには鑑賞できなくなった。
 狭い食卓で、叔母の作ってくれた夕食を三人で食べた。僕とシクミはそのときになって、微妙な年上の裸体を間近で見たことを恥ずかしがっていた。彼女は、他人が作った料理を食べるみたいに、これ美味しい、とか、これいいよ、とか言って、僕たちの平静でなさには気が付いていないようだった。
「思ってたよりも才能あるね、続けなよ」
「写真?」
「それ以外ないでしょ」
「僕も、少し前に、何となくお二人、というか、似てる感覚があると思ってました」
「似た感覚?」
「はい、その」
 シクミはそう言うと、二人で見た写真集を取ってきて、裸の老婆の写真を見せながら説明を始めた。叔母はそれを、胡麻のかかったゴボウをくわえたまま聞いていた。
「それって、あんたたち二人で考えたの?」
「いや、違います、僕はただ、今説明しただけです」
「なるほど、考えたことなかった」
「どういうことですか?」
「ん?」
「そういうこと考えながら撮らないんですか?」
「うん、あんたらと一緒だよ、撮ってるものとのことでいっぱいいっぱい」
「ああ、そういうものなんですね」
「他の人は知らないけどね、わたしはそう」
「それって、撮る前、それまでに、家でとか、ホテルで、とか、一定は考え尽くしたってことですか?」
「どうだろうなあ、言葉にならない程度には考えてるんだと思うよ、もちろん、でもわたしはいっつも、撮ってから、撮って、撮って、撮ってから、現像して、それからやっと腰を据えて考えてるかな」
「これはこっち、これはあっち、みたいに?」
「うん、まずは流れを見つける、そのときそのときでわたしが惹かれたものを再確認していくって感じ」
「展示に合わせて、とかそういうこともあると思うんですが、そうでないときも、ある程度写真が溜まったらそうするんですか?」
「うん、写真家にとってのステートメントって、わたしは、画家や彫刻家たちよりも大事にしなくちゃいけないと思ってるから、予定がなくても、訓練ってわけでもないけど、うん、そこは考えてるかな」
 彼女はそれから三泊して、ドイツだかフランスだかへ飛び立った。僕らは何となく彼女を空港まで見送りに行った。彼女は何故か僕らの頬にキスをして、生きとけよー、と言って、ゲートを通っていった。
 歩き過ぎで膝を痛めたシクミについて整骨院へ行った。特に不調を感じていたわけではないが僕も診てもらい、足の指の関節が多いことが分かった。彼は、しばらく安静にしていれば大丈夫、と薬用の湿布と同じような効能の飲み薬をもらうことになった。
 帰り道はいつもよりもずっと遅く歩き、早い時間に解散した。僕はそのまま街に出て、中古のカメラ屋をいくつか巡った。叔母に言われたように、写真を続けてみようと、自分のカメラが欲しくなった。
 結局、目ぼしいものもなく帰路につき、家に帰ると縁側に座って、彼女を撮った写真を見た。あれから何度も見返しているが、これは僕が撮った訳ではなく、どのような意味においても、彼女に撮らせてもらった写真だった。生物には、その体に内包された激しく動き回る美しさというものがあることを知らなかった。それは彼女だからあるのではなくて、彼女にもある、といった種類の美しさだった。僕はそれで、シクミのことを撮りたくなって、すぐに電話をかけた。彼は眠そうな声で、どうした?、と言い、僕があれこれ説明すると数秒黙ってから、分かった、いつがいい?、と言った。
「早ければ早いほどいいけど、膝が治ってからでいい」
「いや別に、大したことじゃないから、明日、家行くよ」
「ありがとう」
 2
 僕らは、互いに大学を辞めた理由を話さなかった。興味を引くような訳もないし、特に意識もせず、その話に繋がる話をしなかった。一度だけ二人で山を登ったことがあり、そのときに少しだけ話したような気がする。五〇〇メートルもないくらいの山で、日頃、計算してみると恐ろしい距離を歩いている僕らには苦もなく頂上に立つことができた。色褪せていることと、その対象が遠すぎることで無意味なパネルがあり、いくつかの山の影と絵を何度も見比べ、それでも、多分あれはこれかな、くらいのもので、早々に切り上げて景色を眺めることに集中した。こんなとき、叔母なら煙草を吸うだろう。彼女はきっと、あとになっても忘れていたくない場面に出会ったとき、煙草に火をつける。僕らはただ黙って街を見下ろし、そこにあることを知っているからそれだと認識できるくらいかすれた海を見つめた。
 僕たちは上ってきた道とは違う道で下山することにした。シクミは、ほとんど滑り落ちていくみたいに走り下りている。僕はその姿も合わせてびくびくしながら、着実に足を進めていった。シクミは自然との付き合い方が上手い、とそれまで考えたこともなかったことを思った。軽やかでしなやかな跳躍や、連続しているようでそのつどきっちり離れている判断の様を遠くから見ていて、体の使い方が上手い、と思わなかった理由は何だろう。そんな考えも、浮き石を踏んだ足首が捻れかけると消えていった。
 ずいぶん遠くに行ったシクミが立ち止まり、おーい、と叫んだ。距離を詰めようと急ぎながらも呼吸を整えてから返事をし、鉄塔があるぞー、と聞こえてきた。
 それから五分か十分かけて彼の元へ辿り着き、こっちこっち、と手招きするあとをついていった。夕暮れまでまだかなりの時間があるはずで、太陽の位置もそれほど変わっていないのに、上りのときとは明るさの質が違っていた。薄暗く、巨大な工場を想起させる。
 鉄塔は、それまでに見たどの建物よりも高く見えた。彼は支柱を撫でたり叩いたりしながら歩いている。僕はイメージの大きさに圧倒されてしばらくそこに立っていたが、電流が体を駆け巡っているのだろう少年が描かれた看板を見て、動き出すことができた。
 彼は、支柱を支えるように埋め込まれた平たい大きな石に座り、鉄塔にもたれかかって街に目を向けている。開けていた頂上とは違って、樹木があっちこっち重なった隙間から見える街は遠くに見えた。僕は隣に腰を下ろし、こういうところ好きだな、と言った。
「鉄塔含む?」
「そうそう、ぽつんと何かがある景色」
「分かる気もする」
 それからしばらく黙って、何で学校辞めたんだ?、と彼は言った。
「どうしてかなあ、そのときはあれこれ考えてたと思うんだけど」
「急に、本当に急に、何もかもに我慢できなくならない?」
「何もかも我慢してるつもりもないな、例えば?」
「例えば。例えば、まとめて作った料理がどれも口に合わないこと、怪我をするたびに治りが遅くなってる気がすること、読んでも読んでも小説がなくならないこと、そんなの」
「ないかもしれない、何も気にしてないのかも、シクミは、ちゃんと生きてるんだろうな」
「むしろ逆だと思うよ、分かんないけど、どんどん、ちゃんと出来なくなっていってる気がしてるよ」
 同じくらいの背丈だが彼の体は、腹なら背中から、背中なら腹から、返しのついた細い紐で引っ張ったみたいに絞られていた。筋肉や骨の存在が確かなものだと思える体だった。全体で薄い体毛と重たそうな陰茎のバランスも、どの部分であっても、撮影に耐えうる造作をしている。恥ずかしいな、と彼は言っているが、生き物としての根源的な快楽とでも言えばいいのか、自身の位置する空間に対して無防備であるその状態を、善なるものとして享受しているようにしか見えなかった。僕はそのとき、彼の体そのものや気配に、解放された態度や気付いていないだろう笑みに、確実に欲情していたし、今そのときの写真を見ていても、自身の欲望の動きというのがよく分かる。優れた写真ではないが、彼や僕をちゃんと写していた。僕たちは庭に出て、草木が生い茂った所を目指した。彼はシートを抱えて持っている。足を踏み出すたびに引き締まったり緩んだりする筋肉を見ていると、大型の獣を前にしたときのような緊張感があった。
 いくつかの種類の樹木が重なり合った下にシートを敷き、その上に座ってもらった。彼はまず、ポーズは?、と聞かなかった。服を着ているときと同じように座り、それでいてレンズをを通して見ると隙だらけであることが分かる。じゃあ始めるよ、と言って距離を取り、シャッターを切った。その初めの一枚から僕は、ほとんど意識を失ったような、一つの動作を行うのに使われる機能が半分しか起動していないみたいな気分だった。
 ポーズや場所を変えながら一時間ばかり撮影した。どれだけ撮っても飽きることがない。体を動かして少し陰影が変化するだけで、たまらない気持ちになった。感覚を鈍化させることのない光が際限なく溢れ出してくる。舌を這わせるみたいに執拗に撮っていった。彼の体は彼の意思とはさらに無関係に、広がりや気配を増していく。それは僕と彼や、カメラと僕らの距離を歪めた。汗ばむ彼の体から、僕とは成り立ちから違うような男の匂いが立ち上り、吸い込めば吸い込むほど視野が膨張していくみたいだった。そこにある情報の多さに、自身の考えや技術の限界すらもどうでも良くなった。接写と遠写を交互に繰り返した。細い枝葉の深い影が、寝転がって陽の光に瞼を薄く閉じた顔に重なったところを撮ると、走り込んだのとほとんど同じような疲れを感じ、ありがとう、と言って、僕が先を歩いて家に戻った。
 頭の芯は澄み、凪いでいたが、そのまわりを湿度の高い何かが取り囲んでいる。何も考えないで動くことはできるのに、考えようとすると立ち眩みのように意識が揺れた。
 濡れたタオルを手渡し、お疲れ様、と言った。
「いい写真撮れたか?」
「うん、多分、正直、夢中になり過ぎて分かんない、でも、ありがとう」
「あははは、うん、良かった、俺も結構、かなり楽しめた。ありがとう」
 まずは簡単なことから始めようと、カメラを常に持ち歩くことにした。これだけ歩いた街で、今になって撮るべきものがあるのかも分からないが、それでもやってみると毎日三百枚くらいは撮っていた。シクミは、何かを撮って次を撮るまでに、どこが気になった?、と聞いた。さっと答えられるものの方が多かったが、どうしても分からずに、何でだろ、としか言えないものもあった。彼はそのやりとりを楽しんでいたように思う。デジカメはいつまでも、間違った重さを持ったものだと感じた。叔母が初めに触らせてくれたカメラがフィルム式だったからだろうか。それだけではないような気もしたが、そのときはあまり考えずにいた。
 その日は、枝を払われた木々にばかり目がいって、小さな公園や緑道を歩き回った。もぎとられたようなのや、元からそうであったみたいに鮮やかな切り口のや、燃やしたみたいにぐずぐずしたのや、手当たり次第撮っているように自分でも思うのだが、勿論そうでもなくて、何らかの基準があった。
  3
 シクミや叔母が死んでから、僕はもうほとんどどこにもいないんだと思った。彼女たちに預けたままの部分があまりにも多すぎたからだ。それでいて彼らは死んでいないのと同じくらい、自身の一部として組み込まれていた。彼らは僕として生きていた。それは彼らと一緒にいなくなった僕の一部を補って有り余るほどで、寂しくも悲しくもなかった。シクミの葬式で彼の父親を殴ったことで歪んだままの右手の人差し指は、シャッターを切り続けるのに好都合な形で、彼に対してのどのような思いも今ではなくなっていた。数々の思い出と同じように霧消した。そういえば、僕らはどこを歩いていたっけな。僕とシクミと叔母は。僕とシクミとエナさんは。僕らは確か、海沿いの道を歩いていたんじゃなかったか。ぼろのコンバーチブルに乗って、初めて三人で遠出した。十キロくらい続く海岸沿いの道。僕らそれまでと同じように色んな話をしながらたまに、彼女の煙草休憩のために立ち止まった。エナさんはどこで、どの海で溺れ死んだんだっけ。彼女が残したいくつかのカメラはすべて使えなくなっていた。僕は同じ型のカメラを探し、オーバーホールして使い続けた。僕はそのとき、好きだった写真家のスタジオで働いていた。彼は僕の撮りたい写真を、僕よりも理解していて、すぐには飲み込めないが確かな言葉を投げかけてくれた。彼女の訃報は、彼が教えてくれた。僕はその報せを母国語で聞かずに済んだことに、あれから何年経ったのか、今でも感謝に近い思いがあった。彼女の遺体は、僕が死んだあとでも見つからなかった。僕と師匠は、形式だけの葬式に参列した。向かう飛行機の中、彼は僕の手を握り、誰も死なない、と言った。そうか、誰も死なないのか。確かに、シクミが死んだあとも、彼は死ななかった。死んだわけではなかった。僕にはそれが分かっていたから、彼の言葉を初めて、瞬間的に受け入れることができた。彼は自身の母親の話をしてくれた。そもそもの筋も結末も何一つ覚えていないが、彼の母親もまた死んでいなかった。彼らの時間は、僕らの時間に流れ込んだ。作品が残っているから、言葉や思い出があるから、確かにいた記憶があるから、そんなことではなくて、彼らはただ、本当にただ姿を消しただけだった。僕はまだ姿があるだけで、彼らとの差はあってないようなものだ。
 エナさんが溺死する寸前まで考えていたことを、僕は今でも考えることができる。独立してからの数年間、僕は彼女のことだけを考えて写真を撮り続けた。彼女の写真集を読み込み、そこに書かれた短い文章を何度も唱えた。シクミは遺書も何も残さなかった。僕らの間では、そんなものは不必要だった。僕は海に近付けなくなり、あてもなく辺りを歩くことをやめた。そのような形で彼らを思い出したくなかった。寂しげな巡礼のようで、息苦しさが募っていくだけだ。僕らはきっと、僕らでなければ話さなかったことを話した。何か、冷えていく体を温めるものが必要だった。彼らの姿を見れなくなった今では、そんなものが必要だった。変わらないものがあっていいはずがない。彼らは孤立していたのに、意味の分からないものにいっしょくたにされてしまった。彼らはそんなふうになるべきではなかった。
 僕らは海のそばで長く伸びる道を歩き続けた。その中で僕たちが歩いている時間の長さは、道の長さを超えているようだった。エナさんは数分おきに煙草を吸い、何となしに左右に分かれて座った僕らの頭をぐしぐしと撫でた。猫をそんなふうにすれば心を許すことはなくなるだろう。強い風で地表の寸前を浮かび流されていく砂つぶや、同じ景色を見ているはずのシクミもいま、頭を撫でられていることを思い、へその少し下から熱を持ったものが込み上げてきた。なるべく遠くに焦点を合わせて唾を飲み込むとそれは、おとなしく元いた場所へ帰っていったが、シクミが後ろの方を歩き、エナさんが数メートル前を歩いているあいだにさっきよりも早く流れ出てきた。
 彼は僕の肩に触れてからエナさんの隣を歩き、彼女の冗談か何かで笑い声をあげた。
 ウジュを一通り撫でてから、僕たちは散歩を再開することにした。朝から集まって歩き始めたはいいが、真夏の日差しの中、二人とも油断していた。まず僕が道端に座り込み、回復したあとはシクミがコンビニのトイレでゲロを吐いた。タクシーを拾って彼の家に行き、冷房の効いた部屋で氷をいれた水を飲んだ。ウジュは心配しているのか、シクミのまわりをうろうろしていた。
 駅前につながる街道を、スポーツドリンクを一本ずつ持って歩いた。思い返すと、解散するか夕方まで家にいればいいのに、どうしてそこまでなっても歩き続けるのか、今もその時も分からないでいる。そのときの僕らにとって、歩くことは脱出することと同じだった。それぞれが一体何から抜け出そうとしていたのか、ついぞその姿を見ることはできなかった。
 僕は、シクミを撮った写真を叔母さんに送った。
「あんた、シクミのこと好きでしょ」
「そりゃ、好きだよ」
「いや、寝たいかってこと」
「それは、正直分かんない、撮ってるあいだとか、そのあと何日かは思ったけど」
「ふーん、まあでも、いい写真、ほんとに。続けなさい」
「ありがとう、うん、そうするよ」
 嘘をついた。僕は今でもシクミと寝たいと考えていた。かなり強く、はっきりと。彼女はそれも分かっているだろうし、シクミも、写真を見たあとで分かっただろう。それでも僕らは街を徘徊し続けた。
「シクミは?、元気にしてる?」
「うん、元気だと思うよ」
「写真撮ったりしてないの」
「うん、多分、少なくとも見たことはない」
「ふーん」
「普通なら、何かしたくなるはず?」
「そこまでは言わないけど、撮っているところを見た経験も、撮られている人を見たことも、撮られたこともあるのになあって」
「うん、そうだけど、だれもかれも、自分の中にあるものを出したくなるとは限らないじゃない」
「そうなんだけどさあ、何か、自分自身をって訳じゃなくても、こうこうこうしたものを表現したいとかってあるじゃん、シクミはそういうタイプなのかもなって」
「うん」
「だって、じゃあ、シクミの中にある、今はほとんどわたしたちとしか共有できないものは、どこにいくの?」
 叔母は年に四回くらい写真の束を送ってくれた。僕とシクミはそれを楽しみにしていて、縁側でだらだらと話しながら写真を眺めるその時間を、大切なものとして扱っていた。僕らは、どの写真のことも好きになれた。彼女は後学としてそれを送ってくれたわけではないと思う。ただ僕らに見て欲しかったのだ。だから僕たちは、ただそれを見て、感想の電話もたまにしかしなかった。
 彼女の写真は、撮られた本当の時期は知らないけれど、送られてくるごとに、写真を撮ることへの素直で豊かな謝意が増しているようだった。それと並行するみたいに、被写体との物理的ではない距離が縮まっていった。それは、何に対しても。老夫、消火栓、門扉、祭りに参加する人々、群れにも見える野良犬たち、テラスで煙草を吸う若い女性、そのようなものに彼女は、恐らく無意識でどんどん近づいていった。それは初めにシクミが言い出したことで、彼はそれを、十数メートル離れた位置から撮られた少女たちの写真を見て言った。
 僕はそれをすぐには理解できず、結構長い間、三ヶ月か半年かコルクボードに貼り付けたままにした。叔母とシクミを写した写真のあいだにそれは貼られ、日々、僕の視線を受け止め続けた。この写真は、シクミに何を伝えたのだろう、と考え続けた。まず、僕はその初めの辺りで気がつくべきだったのだ。技巧を凝らした構図でも、物珍しい被写体が写っているわけでも、特別な愛着や思いを抱いていない写真を、それだけ長い時間をかけて見続けることができている事実に、はたと膝を打つべきだった。僕が見ていたのは、写真ではなく、彼女たちだった。表情も朧げにしか見えない少女たちを通じて、彼女たちが辿るいくつもの道筋、それはある方向では限界を持っていたが、別の向きでは限りなく広がっている、その形作りようのないものを見ていた。そして単純な、写真に対しての最大に不明な点でもある、その少女たちが集まることで滲み現れた、雰囲気と呼ばれるものが過不足なく収まっていること。彼女は、その少女たちを撮るにあたって、その二つを押さえていなくてはならないのだと、考えるまでもなく分かっていたのだろう。だからこそ距離を取った。
 僕はシクミに電話をかけ、僕なりにだけど、やっと分かった、と言った。彼は支離滅裂に近い長話を、口を挟まずに聞き、話し終えたあとでも僕が、どうだろう、と訊ねるまで何も言わなかった。
 ごった返した駅前に着き、僕らはデパートの喫茶店でジャンボパフェを食べることにした。構成としてはシンプルでよく見かけるものなのだけど、ただ大きいだけで知らない食べ物に見える。頂上に乗ったさくらんぼを落とさないよう、そういう注意書きを読んだみたいに僕らは食べ進めた。二人とも黙って食べていたが、さくらんぼが机に落ちたときの、あ、は机に落ちたことに対するものではなかった。顔を見合わせて笑い、惜しかったな、と彼は言った。
 彼は首を吊ったのだったか、ベランダから飛んだんだったか、日に日に思い出せないことが増えてくる。それは彼の人生にも、僕の人生にとっても大した違いを生まないからだ。どちらでもいい。どっちだっていい。彼は言う、そっちじゃない、もっと被写体に近づけよ。僕は、分かった、と言って荒れた海に近づいていく。僕らの徘徊は、車を適当に走らせた地点から始まるようになっていた。僕がカメラを持つようになったからだろう。彼は、写真撮りにどっか行こうよ、と言った。
 車に乗って遠くへ行くのは毎週末の決まりになっていった。僕らは平日のあいだに適当な場所を探し、金曜の夜に集まった。猫たちは自然と金曜か土曜の夜と水曜か木曜の夜に訪れるようになった。
 波はそれほど高さがあるわけではないが、あらゆる方向に伸びている。彼に言われるまで僕は、何の価値もない写真を撮り続けていた。もう数歩、それだけで、意味のある写真になる。それを撮る行為自体に価値がある場合と、撮られたものが価値を持つ場合があり、僕は後者を目指すべきだった。彼にその話をしたことはなかったけれど、彼は知っていたし、僕はそれを分かっていた。
 僕らは波打ち際に立ち、反発する磁石みたいにかたかたした動きでいた。彼は、もう少し、と叫び、僕は、分かってる、と言って二歩進んだ。途端に、荒れた波が石や草木みたいに不確かな生命の気配を持ち始めた。竦んだ足はブレを抑えてくれた。波の隙間に杭を打つみたい撮り続けた。何色にも見えない波は恐ろしかった。ファインダーを通して見ていると、もう既に逃れられない距離にいるように思えてくる。
 突発的に強烈な息苦しさを感じ、尻もちをついた。シクミは僕のシャツの襟刳を掴んで引っ張り、一緒になって倒れ込んだ。靴の先を渦巻きながら引いていく波を見て、ありがとう、と言って立ちがった。僕たちは徐々に笑い声を大きくしながら駐車場まで戻った。湿った砂を払ってから車に乗り込み、呼吸を整えた。
 僕はシートベルトを外し、彼に覆いかぶさるようにして唇を重ねた。僕のよりも柔らかい唇は乾いていて、ふと、滑らかな舌が入り込んできた。それで僕は自分のしたことに気が付いた。シクミは半笑いのまま僕のベルトを抜き取り、ジップもボタンもそのままで手を入れた。手首の冷たさが熱くなった腹や陰茎の先端に心地好く、それとは関係なく、ほとんど何も感じないまま射精した。彼が笑い、僕は唇を離して、あれ、と言って笑った。グローブボックスからウェットティッシュを出して彼に渡した。彼が手を拭いているあいだに運転席に体を乗りだし、彼のベルトを外してジーンズを下ろした。口に含むと、僕の動きに合わせて小刻みに動いた。それから発される音や目の前の光景以外、まるっきり何もない。彼が力を込めて噛み合わせるのが分かった。くわえたまま精液を飲み込み、実際の長さよりも長いものであるみたいにゆるやかに顔を上げた。目が合うと彼はしばらく瞼を閉じたあと、何か食おう、と言って僕の額に唇をつけた。
 確か、デパートからの帰り道でシクミの母親に会った。彼女は彼を見つけると抱き締め、お友達?、と僕に目を向けた。初めまして、と言うと彼女は僕が見えなくなったみたいにそれには答えず、彼の肩を優しく掴んで体を離した。シクミの目はそれまで見たことがない色に濁っていて、それでいて怒っているわけでも、悲しんでいるわけでもなかった。彼女はしばらく彼の目を覗き込み、ふっ、と鼻で笑ってから僕に向き直り、じゃあね、と笑顔で言い残していった。シクミは長い溜息をついてから、ごめん、行こうか、と言った。
 僕らは定食屋で向かい合って座り、ローカル番組を無言で見ていた。僕もシクミも車の中でのことは何も話さなかった。それでも、お互いがどんな種類の後悔も抱いていないことは分かっていた。彼の母親は、あなたが殺したの、と言ったが、そんなことはなかった。彼は自分で決めて首を吊ったのだ。固く締めた麻のロープで、ウジュはその三日前くらいに僕の家に預けられていた。水道管の整備で業者が行ったり来たりするから、と彼は言っていた。僕は同じようなロープをホームセンターで買って、居間の梁にほどけないようにきっちりと結んだ。ロープワークを調べて輪っかをつくり、頭を通してしゃがんだ。顔が熱くなって、僕の体は頭以外なくなったんじゃないかと思った。眼球や鼻、耳までもが膨らんでいくようで、それから音が遠のき、すぐに耳鳴りが始まった。僕はそこで立ち上がり、彼はこんな悍しい瞬間を超えていったのか、と驚き、そこで初めて、弾け出したみたいに声をあげて泣き始めた。
 エビフライ定食のエビフライ一本と、卵とじ牛丼一口を交換した。彼は今まで一体何本のエビフライを食べたのだろうか。僕は彼と定食屋へ行って、それ以外を頼むところを見たことがないし、家に行って何かを食べるときも必ずそれを振る舞ってくれた。彼の作るエビフライの良い点は、尻尾が取り除かれていることだった。バットに山盛りになる海老を買ってきて、食べながら揚げ続ける。僕に教えてくれれば、交代しているあいだに休みながら、時間をかけて味わうことができただろうに彼は、これだけは教えない、と頑なだった。
 海沿いの道を運転するのは、窓を開けていなくても気持ちが良かった。右手にどこまでもある山並みも、落石やらのことを考えなければ非現実的なまでの存在感に心楽しい。約束の時間に間に合わせるため様々に急いだが、それでも制限速度を守っていられる時間は残されていなかった。生まれた国を離れ、恐らくここで死んでいくのだろうと考えると、妙な安堵がある。選べるものと選べないもので、エナさんとシクミのちょうど中間地点に位置するような気がしてくる。
 買い替えたばかりの車はハンドルと手のひら以外、どこも馴染んでいない。足はまだペダルを踏んでいる感覚があるし、視界も浅い。それでも思った通りに動いていく機敏性には感心した。窓をほんの少しだけ開けて海風を取り込み、目玉が気付かないくらい静かに瞼を閉じた。


10363字

 流れ込む風が乾き切る前の、二週間かそこらの季節が好きだった。まだ空は恐ろしいくらいに突き抜けてもいないし、服を着込む必要もない。そんな時は、目的もなくぶらぶらして、目についた喫茶店だかへ行くのがいい。俺はいつも通りの格好で、音楽も聴かないで歩いていた。はしゃぐ子どもの声が、風が隙間を通り抜けていく音や、波がテトラポッドに当たって砕ける音みたいに届いてくる。待ち合わせの店までに遠回りすることが楽しみにもなる。
 幼なじみに勧められてこの街へ越してきたのだが、そんな理由だからか、愛着はない。体の表面が街全体と溶け合うような一体感もないし、視界の全てのものは大体、象の腹にこびりついた泥みたいな色をしている。それでも、散歩に関しては申し分のない街だった。信用できる本屋と喫茶店が適度な距離を保って点在している。
 友人との待ち合わせは、昼過ぎ、とか、日暮れ前、とか、具体的な時間を決めないことが多かった。今日は昼を一緒に食べようと、昼前、に集まることになっていた。
 煙草の煙と天井から吹き出る温風でもわもわしている。顔は細いままで腹だけ膨れ上がった人がひしめいているようで息苦しい。入り口から見て左の角の席へついた。背もたれと壁に寄りかかって友人を待ち、キッチンの様子を眺めた。被りこなすために特殊な訓練が必要になりそうなくらい長いコック帽の男は、その帽子に見合った手際の良い切り詰められた動きで、オムライスやナポリタンを作っていく。彼はきっと、何も考えていない。瞼を閉じてもその動きは途切れないだろうが、彼が帰宅した後に物の位置を変えておけば途端に、物言わぬ人形のように固まるだろう。
 少し遅れる、とメールが届き、ウエイターを呼んでアイスコーヒーを頼んだ。トイレに行って顔を洗い、鏡にうつる頬の切り傷をなぞった。二センチもない、縫う必要もない浅い傷だったが、顔というだけでしょっちゅう見たくなった。右の口角を上げると釣り針みたいに曲がって、元の顔に戻しても真っ直ぐに見えなかった。明らかに鏡が歪んでいるのは分かるが、実際に指先で触れるとカーブが残っているように感じた。
 アイスコーヒーとストロー、マッチと灰皿が置かれ、その横に無造作になんと書いてあるのか分からない伝票が添えられている。しばらく、書かれたものを見ていたが、アイスコーヒーへの繋がりを見出すことはできなかった。あまりに簡略化したものを見ると、俺だけが誰の言葉も理解できないのではないかという思いに絡め取られた。友人はまた、少し遅れる、と送ってきていて、はい、と返したが今もさっきもそれに対しての返信はない。
 混み具合からしても、先に食べ始めておいた方がいいだろうと、デミグラスソースのかかったオムライスとカルボナーラを頼んだ。もう少し若い頃は、いつか俺も少食になったりするんだろうか、と考えていたがそれは、どうしてかその通りにはならなかった。
 コックは注文を受けて静かに頷き、パスタを寸胴の鍋に入れ、それからケチャップライスとボウルであれこれ合わせたものを作り始めた。フライパンが五徳にぶつかる音が続き、それもボウルにあけた。ソースを温めながら卵を焼き始め、煙草に火をつけてから目線を戻すとオムライスは出来上がっていた。磨き上げられているみたいに艶やかな器具でスパゲッティが引き上げられ、適度に湯をきってからボウルに入れられた。男は器具を壁にかけてから和えるようにざっくり混ぜ合わせた。換気扇の回る大きな音が響いているのに、俺の吐いた煙や彼の湯気は長い時間漂い続けた。
 二本吸い終わる頃に料理が並び、先に食べておく、とだけ送ってオムライスを食べ始めた。
 食べ終えても友人からの連絡はなく、店の近くを歩いて待つことにした。会計を済ませ、サングラスをかけながら外に出た。コンビニへ寄って冷たいカフェラテを買い、マンション群のあいだを通る緑道へ向かった。
 たいていの種類の犬を見かけることができる。その飼い主だから、という歩き方で可愛らしかった。ベンチに座って眺めているといつまでも時間を潰せる。どの犬も皮膚が薄過ぎるように思いかけるが、俺の体だって、それほど差はない。細長い雲がちらほら浮かんでいて、その白を下地にかすかに見える影が二十か三十はあった。何度か電話をかけたが留守電につながるばかりで、何の返答もない。
 飲み終えたのをゴミ箱に捨てるために立ち上がり、なぜか向こうからしか来ない犬たちとすれ違い続けた。履き慣れたサイドゴアのブーツに陽光が溜まって、全身があたたかい。時折、指を組んで背中を伸ばしながら道の先にある公園を目指した。
 マンションへ視線を向けると土曜だからか、ベランダで過ごしている人が多く見えた。多分新聞を読んでいる人、煙草を吸っている人、マグか何かを両手で包み込んで遠くを眺める人、ただ椅子に座ってぼんやりしている人。誰も彼も一人でいる。
 ゴミ箱を見つけて投げ入れ、煙草を吸うために公園を横切った。喫煙所には四角い木製のベンチがあり、残りの一辺に腰掛けた。同時に三方向からの視線を感じ、座る位置が変わった訳でもないのに三人ともが離れた気がした。俺の真後ろに座る老婆は美味そうに煙草を楽しんでいるように思う。座る直前に見えた補聴器の真新しさがやけに目に浮かび残っている。
 俺の左後ろに座る女は、同年代くらいだろうか、老婆の孫か、孫の配偶者かもしれない。右後ろの女も合わせて、三代が一同に煙草をくゆらせている姿は、明るい歴史のある記念碑に見えた。彼女たちはそれぞれの前にあるパーテーションに目を向けているが、顔を付き合わせているみたいに話し込んでいて、その内容からすると誰かの夫がトイレに立った隙にここへ集まったようだ。
 笑ってしまいそうになるのを抑えて灰を落とし、背中にくっついた空間をゆっくり剥がしながら立った。彼女たちの鋭くはない視線を感じつつ、何となく、口元だけ笑いながら会釈をすると、老婆の柔らかな笑みを引き出すことができた。
 何度確認しても友人からの連絡はないし、返信もない。来た道を戻り、店の前に出た。気取られないように店内をちらっと見てみるが、男が一人いるだけで目当ての人はいない。Oは、いつもであれば必ず細かな連絡を寄越すし、それにまずそういったものが必要になることがない。俺が遅れることはあれど彼女が遅れることは、古びた喫茶店で美味い珈琲を飲めることくらい珍しい。
「もしもし」電話をかけると、意外にも三コールで繋がり、騒音と焦った声が聞こえた。
「ごめん、まだかかりそう」
「仕事か?」
「うん、いま立て込んでて、もっと早く終わる予定だったんだけど」
「いや、別にいいけど、今日じゃなくてもいいけど、どうする」
「待てるなら今日中がいい、大丈夫かな?」
「分かった、適当に潰しとくよ」
「ありがとう」
「ほい」
「それじゃあ」
 彼女が今、どのような仕事をしているのか、俺には予想もつかない。二年前であれば彼女はバーガーキングか映画館で働いていて、そのままであるはずもないし、そこから繋がる、彼女のイメージに合う仕事が思いつかない。会計士をしていそうな気がしたが、会計士がどのような能力を用いてその仕事を完遂するのかは分からなかったし、彼女は多分、そういった意味じゃなく俺が理解できない仕事をしているだろうと思い直した。
 電車に乗って三つ隣の駅で降りた。歩いても三十分とかからないが、町の雰囲気がかなり変わる。ここらを歩く人々は、目的もなく歩いているように見える。本屋を探しながら大通りを歩き、埋め込まれたみたいに小さな店でクランベリースムージーを買った。
 大きな常緑樹が店の前に植っていて、その影がカウンターの奥まで伸びている。影は、樹木の内部まで写っているように密度を持ち、ここで働いていると暗い気分になりそうだと思わせた。若い女の店員はよく似合ったピアスをつけ、不思議な色合いの黒い瞳が光を吸って膨らんでいた。カップを受け取る短い時間に目が合い、互いの持つものを送受信した。俺の持つものはその間に尽き、彼女の持つものは俺の中に入り切らなかった。申し訳ない気持ちでジュースを飲みながら歩き、本屋を目指した。
 月に二回か三回来る本屋、十五秒くらいで一周歩けるが、本の置かれ方がいい。いつも来るたびに五冊か六冊は買い込んで、帰るのが面倒になる。カップを店の前の邪魔にならなそうなところに置いて、手のひらをジーンズの腿で拭いながら入った。哲学書のコーナーと詩集・俳句のコーナーを過ぎ、海外文学、インディーズのコミックの棚でしばらくぱらぱらと過ごした。伸びた髭を手の甲で擦り、その音が店中に響いてしまったような気がして振り返るが、誰もが目の前の棚や本に集中していた。
 雑誌を一通り見てから新刊と海外文学の棚を物色し、二冊、レジの男に手渡した。
「ポイントカードをはお持ちですか?」
「ポイントカード?」
「はい、一点につき一ポイント、スタンプを捺させていただきます」
「なるほど」
「五十ポイント貯まれば、一冊、税込み五千円以内のものと交換していただけるのですが」
「ああ、じゃあ、お願いします」
「かしこまりました」
 スタンプが五つ捺されたカードと二冊の本を持って、四つ隣のドトールへ入った。アイスコーヒーと期間限定のサンドイッチを受け取り、二階の喫煙席へ上がった。
  五ページずつ交互に読み進めたが、Oからの連絡はなかった。十五時過ぎの店内は軽食を摂る人でいっぱいで、多く見積もっても一時間くらいしか潰せそうにない。一度家に帰ってもいいが、そうするとむしろ待っていられない気がして、アプリで地図を見ながらどこへ行こうかと思案した。
 最後にOに会った日、彼女は、中絶してきた、と言った。俺は六畳かそこらの安いアパートの窓べりに顎を乗せ、煙草を吸いながら本を読んでいた。まず初めに考えたのは、俺の子じゃないよな、ということだったが、俺とOは一度もセックスをしていないし、それに類する行為もなかった。それでも反射的にそう考えた。彼女は絞った雑巾みたいにぐったりしていて、玄関で靴を脱ぐのも難儀そうだった。俺はまだ何も聞かされていないから窓際でだらっとしていて、煙草の灰が畳に落ち、手で払うとほとんどが隙間に詰まっていった。
 彼女は向かい合うように座り、件の言葉を言って、倒れ込んだ。俺は右手で本を開いたまま煙草をくわえ、左手でOの頭を撫でた。乾いているのにしっとりとした髪を撫でていると、所在不明の怒りが俺の体にもたれかかってきた。彼女が泣いているのかどうかは分からないが、顔を伏せて籠もった部分は湿っているような気がする。何か言うべきなのだろうが、それ以前のそれに関するものを持たない俺が言えることは何もない。三十分か一時間、Oは同じ体勢で、俺は『夕暮れの街で彼は、物言わぬ花束とともに最終のバスに乗り込んだ』と書かれた行を何度も読んだ。狭い部屋いっぱいに西日が満ちて、暖かい空気がそこかしこに立ち揺らいでいる。彼女は起き上って伸びをし、何か食べ行こ、と言って立ち上がった。
 過度に明るいトイレで傷跡を確認し、心配になるくらい長い小便を終えて席に戻った。トレーを持って一階へ降り、ごちそうさまでしたとも、ありがとうございましたとも、どちらともつかない、もごもごと何かを言って店をでた。夕方でも昼間でもないような時間に通りを歩く人たちは、俺と同じように誰かを待っているように見える。待ち人は俺たちの元へ無事、やって来るだろうか。
 雲の奥の部分はすでに色付いていて、その前を飛んでいる黒い点は少し低い位置に移動し始めていた。相変わらずどのような連絡もないが、これ以上は外で時間を潰すことができない。入り口からずれたところで体中を伸ばし、鳴らせるだけ骨を鳴らした。
 咄嗟に顔を逸らせ、それが過ぎ去る前に右手を上げて掴んだ。俺が好きな季節はこの、R、と呼ばれるものが飛び始める時期と重なっていること以外は完璧だった。手のひらに乗ったRは黒く光っているが、反射しているというよりも内部に光源がある感じ、そのせいで生き物には見えない。引き裂いてみても何も出てこない。道端に捨て、つもり程度で頭を屈めながら歩き始めた。人々は薄い金属を張った傘をさし、早足に屋内を目指している。そろそろ外では待てないから家にいる、と住所も合わせてOに送り、小走りで駅へ向かった。
 マンションに戻る前に右耳上部の膨らんだ部分を切られた。Rは明確な意思を持っている訳でもないし誰かが操縦しているわけでもない。それでいて、人間を見つけると近づき、結果的にどこかを切っていった。鋭い牙や爪を持つ人懐こい哀れな肉食獣のようだ。幼なじみは注意事項としてRのことを教えてはくれなかった。夏に越してきたから、初めのうちは良かった。しばらくして、空を見上げるとやたらに黒い点があることに気付いた。蝙蝠か小鳥だと思っていたが、職場の同僚と飲んだ帰り道に首筋や後頭部を切られ、俺が思っているようなものではないことを知った。どうして誰も新参者の俺にRのことを教えてくれないのか分からなかった。
 十分ほどティッシュで傷口を抑え、くたびれた革のソファに座り込んだ。
 俺たちは何を食べたかな。Oの好きだった近くのスペイン料理屋へ行ったような。後のことが出てこないせいで、俺たちは狭苦しいアパートの部屋で、いつまでも手持ち無沙汰のままでいる姿が思い浮かぶ。彼女は、そのほかの部分と比べるとやけに綺麗な壁にもたれ、膝頭を撫でたり、首を回したりしている。俺は煙草に火をつけ、次の行を読もうとするが、どれだけ経っても読み進めることができない。そのうちOは立ち上がり、何も言わずに部屋を出た。煙草を持ったまま彼女を追いかけるが、靴を履く後ろ姿を見て立ち止まる。Oは振り返って笑い、俺も笑い返そうとするが、あれこれ考えているうちに彼女は外へ出て行った。
 貼りついたティッシュを濡らした指先で拭い取り、鏡を見るためにソファから立ち上がった。
 知らないうちに右眉の上も、血が出ない程度に切れていた。幼なじみであるHは、俺に何を思ってこんな街を勧めたのだろうか。お前、散歩すんの好きだろ、と彼は言っていた。俺は多分、ああとか、うんとか言ってたか。
「もうすぐ転勤で、引っ越すんだけど、お前も引っ越さない?」
「よく分かんないんだけど」
「俺が出たあとの部屋に住めよ、駅もスーパーも近いし、がっつり、ではないけどリフォームしたからさ」
「お前ん家なの?」
「そう、残念なことに、まさに、まじで、うんざりするよ」
「家賃いくら?」
「いらねえよ。俺の家なんだから、払うな」
「かなり参ってるみたいだな、それじゃあ、光熱費やらだけでいいの?」
「ああ、使った分だけ、それだけ、あと、壁に穴は開けるな、どんな小さい穴も俺は見逃さないよ」
「分かったよ、手続きとかってどうなるんだろう、何か特殊じゃないか?」
「うるせえよ、来るか来ないかどっちだ」
「行くよ」
「よしっ、任せとけ」
 実際にはほとんど、俺があっち行ったりこっち行ったり、彼は激務の合間を縫って、俺との食事を楽しんだだけだった。集まるたびに、見るだけでも気分が悪くなるような量の酒を飲んだ。俺の周りの親しい人々はみんな勤勉に忙しなく働いていた。
 塩茹でした枝豆を食べながら野球中継を見た。歳を取るごとに、スポーツ中継を楽しめなくなっていた。今の体と、その運動の記憶との距離が開いていっているからだろうか。学生の頃はかなり体を動かしていた。何でもいいから勝ち負けのある、大量の汗をかけるスポーツを好んでいた。当時はテレビの画面を眺めているだけでも、そこで動き回る選手たちとの肉体的な乖離を、今ほどは感じていなかったように思う。出来る出来ないに関係なく、彼らの動きの意味が分かっていたし、体はもっと分かっていた。それが衰えるということなのかもしれないが、親父を思い出してみると、そうでもない気がした。親父はとりわけ、ボクシングの試合を観るのが好きだった。多くの観戦者と同じく、応援する選手と連動してるみたいに体を揺らせながら観ていた。俺には、親父は本当に、相手のパンチや視線を、自身に向けられたものとして避けているように見えた。
「もしもし」
「ああ、ごめん、もう少しで終わりそう」
「そう、どうしようか、どこで落ち合う?」
「買ってきて欲しいものあったら教えて、家行く、大丈夫?」
「もちろん、何か考えて送っとくよ」
「分かった、それじゃあ」
「おす」
 脈絡もなく、OとHと俺の三人で行った遊園地を思い出した。長い棒を、ちらちらと赤色がうつる何かに叩きつけている男に重なって、俺たちの姿が浮かんでいた。確か、Hの職場の先輩か誰かがチケットをくれた。俺たちは前日から集まって酒を飲み、昼過ぎに起きた。それからやおら準備に取り掛かり、Oの運転する車で向かい始めた。途中のパーキングすべてでHは小便をし、Oと俺は車内で笑っていた。
 俺たち音楽を聴きながら遊園地を目指した。関係を見直そうかと思うほど熱のこもったHの歌う姿を尻目に、助手席で煙草を吸っていた。三人の中で煙草を吸うのは俺だけだった。それを結構真剣に残念に思いながらも、一人で黙々と吸い続けた。彼女はたまに俺を見て、声を出さず、楽しいね、と言った。俺はなぜかうるっとして、Hの頭をはたいた。彼は動じず、本人たちよりも感情的に歌い上げていた。短い時間を、色んな場所にいる自分が同時に感じるようなとき、俺たちは涙ぐんだ。彼女は、スピーカーから流れる音楽よりも、Hに合わせて歌い、俺もそれに合わせて声を出した。
 Oは、日付が変わった直後にやって来た。膨らんだコンビニの袋をカメラ越しにかかげ、ドアが開くとにっこりしてから歩き始めた。俺はいまさら部屋を掃除し始め、大して散らかっていないことに有難がった。ソファのクッションやカーテンを整えるとインターホンが鳴り、急いで扉を開けに行った。
 彼女はとくにどのようにも変わっていなかった。ビール瓶みたいな色の瞳も、よく面倒をみられた犬みたいに艶やかな髪も、色の激しい服の趣味も、どれも変わりないようだった。
 リビングに通し、窓際のソファを勧めた。袋の中のものを机の上にあけ、グラスとタオルを持って戻った。息を吐きながらソファに座って初めて、緊張していることに気付いた。久しぶりとか、どうしてたとか、何とか、適当に過ごしていたが思い返すと、俺も彼女も何と言っていたか。
「かなり忙しいみたいだな」
「うん、急に忙しくなっちゃった」
「なるほど」「何してるんだっけ」
「キュレーター」
「キュレーター?」しばらく考えてみたが、何も思い出さないし浮かんでこなかった。
「そう」
「それなに?」
「美術の、展覧会の企画考えたり、誰のどの作品をギャラリーに入れるかってのを考えたりアドバイスしたり、そんなんだよ」
「なるほど、俺には難しい世界そうだな」
「学校も関係ないしね、私たちの」
「確かに、そうだよな、それで、何があったの」
「結構、大御所の画家の、その人の絵を何枚か予定してたんだけど、言い方ちょっとあれだけど、ごねちゃって」
「そういうことってよくあるの」無関係な手振りで訊ねた。
「そういうことがないようにするのも、私たちの仕事の一部なんだけど、やっぱり、たまにはあるね」
「ストレスフルだな」
「まあ、何だって同じだよ」
「そういう、橋渡し的な仕事は特にそう感じるよ」
「うん」「そっちは?」何秒か黙ってから、義務的ではない声音で言った。
「親父の工場の、分場で働いてる、というか手伝ってる」
「そっか、Hとは会ってる?」
「たまにね、ここもHの家だし」
「どういうこと?」
「あいつ、ここ買ってリフォームまでしたあとに転勤することになったんだよ、それで俺に住めよって」
「Hらしい、というか、いつもなんかそんな目にあってるね」彼女は初めて声を出して笑った。
「ほんとにね、かわいそうだけど、意外と本人は何とも思ってなさそうで笑けてくるよ」
「ほんまにそう」彼女の関西弁を久々に聞いた。
「明日は?」
「休み、のはず、多分、呼び出されへんはず」
「良かった」
「今日、泊まってってもいい?」思い付いた、というより思い出したみたいに言った
「何にもないけどいいよ」
「何にも?」
「いや、化粧落とすやつとか、何か、そういうの」
「ああ、あとで買いにくのついて来て」
「分かった」
 俺たちは深夜の音楽番組を観ながらつまみを食べ、ぬるいビールを飲んだ。彼女は、体は疲れていないようだが、どこかぼんやりしている。ソファの背に深くもたれ、指先をいじりながらチーズか何かを噛んでいる。
 ちょっと煙草、と言ってベランダに出た俺のあとをついてきた彼女はハイライトを吸い始めた。
「いつから?」
「え?」煙を吐き切ってから言った。
「いや、煙草、前は吸わなかっただろ」
「あっ」彼女はそう言って二秒くらい固まっていた。
「え?」
「いやあ、吸わんようにしてただけで、前から吸ってた」
「え?」
「完全に忘れった」ああもう、と言いながら煙を吐き、口角を下げた。
「何で?」
「言えへんけど、まあ、もうこれからは吸うから」そう言って、歯を噛み合わせながら唇を開いた口のままで細かく頷いた。
「そっか」
 実に慣れた手つきだった。どの動きにも意識がなく自然で、もしかすると俺よりも吸ってきたのかもしれない。その姿は俺に、彼女を初めて女として意識させた。
 新しい住民しか持たない、よく売られているのよりも分厚い鉄の板が張られた傘に二人で入って歩いた。彼女は玄関でその傘を指差して笑い、もう慣れたやろ、と言った。俺は一瞬、ふざけんなよ、と言ってしまいそうになるほど苛立ち、自分がそんなにRを怖がっていることに気付いた。
 セブンに向かう道中、彼女は傘の下から腕を伸ばしてRを掴んだ。それをそのまま投げ捨て、また新しいRを掴んだ。無言でずっとそうする彼女を見ているのは居心地が悪かった。何してんの?、と聞けないような、真面目な表情が嫌だった。
 彼女がシャワーを浴びてるあいだ、換気扇の下で煙草を吸いながら、最後に会った日に読んでいた短編集を読んだ。
『目が覚めたとき、彼らの他には誰一人、そこには残っていなかった。彼らは身支度を整えた後、改めて崩れかけた礼拝堂の中を見渡した。薄紫色の草が蔓延る埃っぽい、かつての熱気や信仰の気配すら漂わない薄汚れた空間。彼らのうちで多少なりとも信仰心のあるものは、自責の念すら帯びた目であたりの様子を記憶した。
 先頭を歩く若い男は、有能だったからそこに立っている訳ではなかった。彼らの中で最も、死んでも何の問題にもならない男だった。病弱で、大した知識や技能もない。群れによって先頭へ送られるものの使命は、後ろに連なる同族の命を繋ぐことだった。彼らはそれぞれの方向にだけ注意を払い、そうして一つの生命体のように歩いた。このような群れで、視野の広いものは最後尾、もしくは二番手に位置した。大抵それは、医学の知識を持つもの、植物や数字に強いものだった。彼らはその他の人間より幾度か広がりのある視界のなかで、出来事を考え、判断を下し、長生きした。
 彼らの巡行はすでに三ヶ月余りの時間を過ぎていた。十五人であった部隊も、今では七人を残し、その機能は失われつつあった。彼らのうちで、この果てなき歩行の目的を知っている者はもう死んでいた。残された者はその真意も知らず、ただその地を目指していた。』
 Oはソファに座って煙草を吸っていた。俺が気付くと、よっ、と言って小さく手を振った。向かいに腰を下ろし、机の上の煙草を手に取った。済ませておくべき用事が何だったのか、彼女に訊ねるべきかどうか考えながら火をつけた。俺は、彼女が煙草を吸っていたことを思い出そうとした。その姿を今こうして見て、くっきりとした像を元に記憶を探る作業は、意識的に思い出を書き換えているような気分にさせた。驚いたのだから知らなかったはずなのだが、一度その作業を通すとぼやけた景色の中に、やけに目立った彼女の姿が現れるようになった。
 彼女を寝室に案内し、リビングに戻ってソファに深く座り込んだ。気配を感じて振り返ると、部屋の中を歩く誰かの影が壁にあった。俺は座った体勢のまま数センチ跳び上がった。感覚と繋がらない速度でベランダを見やった。後でその気になっただけだが予想通り、誰もいなかった。心臓が二つに分かれて両耳の裏側に移動する。深呼吸をしながら影を目で追う。二つの人影がうろうろしている。彼ら自身もこんなところにいることを驚いているのかもしれない。ちらちらとRの影が二人の間やまわりに映り込む。俺は向かいのソファに移動し、二つの影を落ち着いて見つめた。
 彼らは動き続けているが、その範囲や動き方はあらかじめ決められているように見えた。
 別の層にいる互いを探そうとしてるみたいに影はうろついている。薄皮一枚奥の層にRの影が飛び交い、そこから遥か先に、大体右側で動き回る影があり、倍以上の隔たりの先に左側の影がいる。背格好も、時折見える顔の造形も、何も、どちらの性別も喚起させない。二つの影がいつまでも出会えないでいるだけだった。
 影は動きを止め、互いを見つめ合っている。しかし、彼らのいる位置は遠くも近くもなっていない。ただ別の層のその方向に相手がいることが分かっただけだ。Rの影のいる場所は深さを増している。長い間じっと彼らを見ていたが、R以外、動くものはいなかった。


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