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 同じ調子で続いてって、時々、何があるでもなく気が昂るような小説は、何歳になってもいい、とても好きなままでいる。何にも起きなくていい、ただそこにある文を読めたらいい。
 何度読んでも「お」と思う本はだいたい、何にも起きない、リズムがあって、温度を感じる、映像がくっきり浮かぶ、そこにいる人が書いている。
 一人称で自身が漏れ出しているのは、技術や鍛錬が不足している、きっと、自伝以外の一人称で滲みがあるのは、冒涜だ!というような気持ちにさえなってきて、不可能だし極端だから、君若いね?って感じだけど、思ってしまうものは思ってはしまう。

 俺程度が言いたいことなんて完全に無意味だから、自身の覚えている言葉を通路に、誰かの言葉、まだ語られていなかった言葉、死んでいなくなった人の声や言葉、何かそういったもの、その人を語るんじゃなくて、その人の語りかけた口の動き、それ、続き?
 中高生の頃、死にたかったかと考えると、結構死にたくなかった気が、仲間たちと楽しく、浅い罪の遊びに興じていた気が、やっぱり多分、高校を辞めてから、大きな時間の枠がなくなってから、気付かなかったものに気付き始めたような、そんなこともないな、ただ、初めてのことに過集中していたから、もやぁっと分かりづらかった、まあ、分からん。

 その時間すげえ嫌だった場面に入っていって、そこにいる俺に重なったり見たりしていると、今になって発見することや、新しくかんじることがあり、そのときその気配すら感じなかった自分を恨む、それはまあ思い出せることが少ないからか、一つの映像に負荷がかかりやすい、本人がどうか関係なく、いくつかの感情を喚起する人に惹かれるが、ツルハシが俺の中のどっかをカツンカツンやる音が聞こえてくるからで、自身にあるもの、あるけど見えてないものが空気としてまわりにふわふわしてる人ということか、教壇に寝転んでいつまでも、時計が表す時間でいえば三十分もないくらい、ずっとキスだけして、どこかの教室から人が出てくる音や気配が耳元と、その本当の場所、二箇所でなっていて、俺らはその二つの時間の中を行ったり来たりしてる、たくさん人がいて、半円状に俺らを眺めている、そのうちの二人は俺たちで、そこから遠くに見える音楽室や準備室から、部長や各楽器で決められた数人ずつが、何やらがやがや話しながら出てきた、俺たちは体を離して立ち上がり、あちこち払ってから楽器を構えて、楽譜を指差したりしながら、彼らが来るまで何の意味もない話を続ける。

 絵を三週間くらい描いていない。何も書いてないし、少しの本と、適当に大量の映画。今はそういうモードなのかもしれないが、ふつっと何か描きたい、書きたい気持ちが湧いたり過ぎったり、どうだろうって。
 比留間久夫『YES・YES・YES』、1989年の末に出た本だけど、割と新しいものとして読めていい感じで読み進んでいく。著作が少ないことと、このフレッシュさとざくざくした感じは他ではないかもなと思うと残念だけど、やっぱり最近知った人や本がかちっとはまると嬉しさがどばどばしてくるから、良しとして、次気になってる本の著者がまた早稲田卒で恐ろしくなってきた。

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