背後や遠い向こう、建物の裏や人の真後ろ、見えないから存在してないけど、何かが起こる可能性に満たされた場所、そこの色を見てみたい。何となく色がありそうな感じだけあって、色じゃないなら黒か白とも思うけど、どちらでもないし灰色でもない。誰も見ていないあいだのそこの色、禅問答か何かで読んだ、誰も聞くことのなかった木の倒れる音はどんなかっての、そんなんだっけ、そういうのがあって、音ってのは広がるからいてもいなくても同じなんじゃね?と思ってしまう。
知らない、理解できないから、まだないってのとは少し違った形で、見ていないからまだないってのがあるような、でもそうすると視力を失った人は、耳が目になるとか指先が目になるとか皮膚感覚が目になるとか、そんなことは当然なくて、目が担っていた役割を、少し真似る形で他の部分で発揮されるだけで、やっぱり全く違った世界の構造があるんだろうか?、初めから見えない人は、初めから眼球の機能が、後から見えなくなった人が技能的に身に付けていくものを、他に割り振られてるんだろうか、いや、そんなことはないか、言葉を覚えたりするのと同じように、覚えていくのか。
見る、見える、見られる、そんなことが気になるから、目玉や、そこからの運動についてふにゃふにゃ考えていると、いつも目の見えない人のことを考え始める。
誰かと向かい合うとき、俺の背後は相手の世界像の一部だけど、俺には見えていないからなくて、でも前を向いたまま後ろに歩くとあって、だから俺は常に、俺の大きさ分だけ出来た世界像の欠損を埋めるべく動いているのか、や、よく分からん、何人か集めて死角のないように方方を見つめても、ちょっと遠くは、常に俺の大きな分以上の欠損があって、数字にして見ると少なくね?って思うくらい現実感のない数、世界像があり、まじ?ってくらいの倍数、現実があり、は?ってくらい人の数は少ない。
どこまでいけば「めちゃくちゃ」あるってことになるのか分からないのと同じく、俺にとってもギリあるって感じの俺はどれくらいあるのかと思うが、程度はどうでもいいからいいか、意外にまわりにいる人の方が確かにある感じがする、知覚は外部のためにあって、それが自動的に向かう自身の内部は外部と差がないのかもしれない。
ピザみたいな、大きくて味がきっちり分けられているクッキーを食べたい。というか、甘いものとコーヒー、どうやって進めばいいか分からないままきてる、そういうのは良くない。
どうやってやればいいか分からないまま、じゃあこうしてみるか、ああしてみるか、とやってみても、しっくりこないまま続けていることが山ほどあって、大抵好きなことで、いちいち疲れて鬱陶しい。