2018.5/31

 昨日はスタジオ練習。その前に空きがあったので、親友とみっちり駄弁ったり、手巻き煙草で交信を図ったり、この年の若者らしく将来を案じたりと、これだけで何かした気になりそうな危険な、でも実際に体の動きを促してくれる時間を楽しんだ。
 彼とは高校生の頃からの付き合いでなんやかやと一緒にバンドもして4、5年になるけれど底が知れず、飽きない。自分自身を見ているのかと思うほど似通った部分と全く理解出来ない部分もあり、自分に近いが故に鼻で笑ってしまいそうなことと生物そのものが初めから持つものではないその人ならではの培ってきた深みへの及ばなさから抱く尊敬がある。そういった人としか長い間一緒にいることはできない。そうでないと鳩尾のあたりがうずうずして吐き気を催す。
 友人と呼べるような人が20人いるかどうかも怪しいけれど、その中で親友だと思える人は当たり前に更に少なく、けれど確かで5人いる。うち2人がバンドのメンバーであることは、幸福でありつつ気持ちの良いプレッシャーでもある。
 身の危険を感じるほどの人からその場で笑ってしまうほどの人まで、変な人に絡まれやすいけれど、総合的に見て、人に恵まれていることを何かにつけて思い出す。

 絵を描いたり曲をつくったり小説を書いたり、そういうあいだ無であるため、完成後に「これは一体なんなんだろう。これでいいのかな」と思ってしまう。確かなのは「これで終わり」という感触と、あいだの無の感触のみ。そんなつもりは一切ないけれど、いわゆる生みの苦しみというのを感じないことで手を抜いていたのだろうかという疑問が湧いて付きまとう。ただ常日頃、絵や曲や小説について考えてはいる。紙を買って画材を選んで、さてどうしようかと考えてはいる。ギターを持って爪引き歌い、さてどうしようかと考えてはいる。分量とタイトルを決めアプリを立ち上げて手を広げ、さてどうしようかと考えてはいる。筆や何かが紙や板に触れるまで、楽器を鳴らして声を出すまで、一文字目を打つまで、考えてはいる。ただそこから、一塊できるまで何も考えていない。これは手抜きなんだろうか。
 死ぬまで考え続けなくてはいけないことが多過ぎて息がしづらい。何も考えてない馬鹿の権化なのに、考えなくちゃいけないものが目に入ってしまう。なんとか自分なりにまっとうに生きよう。

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