『ノクターナル・アニマルズ』を観た。主演二人の演技がすこぶるいい。アンディーズ警部補役のマイケル・シャノン、レイ役のアーロン・テイラー・ジョンソン、カタカタにさん付けを止める、彼らも良かった。いいなって思った人を別の作品でも観てみたいけれど、主演で観たいので、あまり叶わない。
ジェイク・ギレンホールとエイミー・アダムスがレストランで食事を摂るシーンと何にせよエドワードが来ることはない、そう決めて来ないでいることに気が付いたようなスーザンの表情が強く残っている。
誰かを羨んだり妬んだりすることがあまりない。それで、誰かを羨んだり妬んだりする人の話を聞いていると、全く理解できない部分がいくつもあって、途中からおもしろくなってくる。そうしたことよりも、その人が僕に、そういった話をできることが、あまりない中で起こる羨望の一つで、人に相談ないし悩みごとを話すことができるというのは、ひとつの特筆すべき美点だと思っている。それがほとんどできない。
打ち明け話のようなものは、自分の身だけのことであれば、聞かれれば誰にでも言えるけれど、悩んでいること、悩んでいるようなこと、相談のようなものは出来ない。
相手について、そういう話の間、その人に「どっか弱ってるのかな」とか「そんなことを日々抱えて生きているんだ、大変だろうな」とか「なんとか糸口になるような返答ができないものかな」とかなんや考えているんだけど、自分が誰かにそういった話をする姿を想像すると、弱っているという印象ではなくて「弱い」姿を見せるようで、それが何故か申し訳ないと思って、踏み出せない。自分で考えりゃいいじゃんみたいな軽い気持ちもあり、誰か人と会うからには何か楽しい気持ちでいて欲しいし、帰り間際まで笑っていて欲しいと思い、そうすると、会ってるあいだに重苦しい話ができない。というか出来るのだけど、おちゃらけて、結局芯の部分ははぐらかしている。
それで伝わらないのかというと、きっとそうではなく、親しい間であればあるほど言外の何かを感じ取ってくれるんだろうけど、じゃあ信用していないのかと聞かれると、そうなのかもしれないけれど、例えば「お金を貸して欲しい」と言われれば「いいよー」と言って貸せるだけ貸すと思うし、実際そうしてきて、じゃあ連帯保証人になってくれと言われれば、何人かの相手であればOKと言うだろう、こっちは未経験だけど。
じゃあ「弱っている」と思われるのと「弱い」と思われるのとで、何が自分にとって違うのかと考えると分からない。「弱い」は「格好悪い」と同じだと思っている節もあるけど「格好悪い」ことをするのはそれほど苦ではなく、思われるのと思わせる違いなのかもしれない、いずれにせよ基本的に傲慢なんだろうと思う。緊急時、全く話が通じなければ最後は暴力だろうと思っているし、何かを明け渡して自分がいなくなってしまっても誰かが助かるならそうするし、何度言っても分からない人には何も言わなくなるし、傲慢なんだろうと思う。
それで、じゃあ、傲慢であることを前提にすれば、相談事や悩みごとを話せないでいるのは、信用していないからではなく「理解できないだろう」と思っているということで、ということになるのかな、思われる思わせるという違いが出るのも「理解されてたまるか」と思っているということで、そうなのかな、羨んだり妬んだりの話が面白かったり理解できないでいることさえも、歪に堅い自己の像があって共感できなかったりしているのかもしれない。
今年に入って、ほとんど日本人作家の本しか読んでいない。海外の作家の小説を読んでいて、簡単な言葉で短いのだけど、意味がよく分からない文章が出てくると、訳者を疑ってしまって、一度そうなると集中しにくくなってしまう。初めから変な文章が続けば、そういう作家なんだろうなと思えるのに、途中からぽっと出てきたりぽつぽつ出てくると駄目になってしまう。ものすごく、読みたい気持ちは強くあって、不朽の名作みたいなものはほとんど全部読んでしまいたいというのもあって、でも、やっぱり集中できない。すぐに別の本を読んでしまったり、たんに読まなかったりして、厚くない本に何ヶ月もかかってしまう。
今書いていて「すぐに別の本を読んでしまったり」のあと、一度「読まなかったり」と書いてから「たんに」を付け足したのだけど、それは、と書いてアプリのコトバンクで調べてみると
『たんーに[単に]
[副](あとに「だけ」「のみ」などの語を伴って)その事柄だけに限られるさま。ただ。ただに。「単に個人のみの問題にとどまらない」出典 小学館 デジタル大辞泉について 情報 凡例』と書いてあって、なんて言葉を知らないのだろうと思って、単に○○ってかなり口語的なのかと思って、で、とにかく「単純」の意味で「たんに」を付け足したのは、途中で別の本を読むことも中断した本を読んでいるというのと等しいと感じたからで、それはその本を読み止めて次に何でもかんでも読めるわけではないと考えているからだと思う。
句点を遠くに遠くに書けば、考えている最中の寄る辺なさというか、あっちゃこっちゃ思い付いては飛んでいく感じを表せるのではないかと思う。書くとなると、ふんわりと順序立ててしまうけれど、それでも、近くにはいる。
読む側でしては読みにくいのかもしれない。書いている側からすると、まずスラスラ書けることと、考えていることを基本的にそのまま書ける気持ち良さと、書く流れで考えていなかったことや考えたいことが出てくるとことが嬉しい。
この、書くことで掘り出されるという現象は何がどうなって起きているんだろう。何となく、匂いや音楽が思い出を呼び起こすのと近い気がする。ちょうど今、そんな気がした。それで今、このことを考えていると、面積の広い何かでなんがしかの塊を砕く映像が浮かんだ。なんだろう。
ダイナマイトでトンネルを少しずつ掘っている人の話を思い出した。掘っているというか広げ進めている。かなり細かく計算して一日に少しずつ進んでいくんだろうけど、多分、予定通りに進まなかったり、それ以上に進んだりして、それも天候やら岩や砂の質に左右されたりして、そういった感じ、コントロール出来そうで出来ない、でも割に行き届く、そういった感じを好きでも嫌いでもない出来事で何かを思い出したり考えついたりしたときにも感じているような気がする。
そんな気がしたのは今で、いつもそんなことを感じているのかと思い返すと分からない。