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 人が疎らも疎らの電車に乗ったり、そのとき強い陽光が照っていたり、初めて訪れた町や馴染みのない町で大型のショッピングモールへ寄ったり、歩き慣れた道から数本ずれて新しい道を歩いたり、そういったことをするとヒッチハイクでの旅を思い出して、今まさに旅の中という気分になる。色んなところをうろうろして、だいたい同じような町ばかりで飽きて、しなくなってしまった今でも、そんなふうな気分になるのは開け放した窓から時折入ってくる風みたいで気持ちがよく、それでも妙に悲しくなる。
 数日、何故だか弱気になっている。何かに挑戦しようとしてそれを諦めたり、欲求のようなものが見あたらなかったり、嗚咽するような悲しいことがあったり、したわけではなく、全くないまま、弱気になっている、と感じていて、体が悲しくなっている。この文章を書いたのが、朝には満員だった電車に三人くらいしかいない時で、だからそのとき「ヒッチハイク中に寄った町のローカル線みたーい」と思って、それからぬうっと広がって、それで悲しくなって、そんなことで悲しくなるのは、ここ数日、弱気になっているからで、多分それで、そして恐らくそれは、何日か前から少しだけ昼間が暖かくなったからだと、体が冷えた途端に気分が晴れて思った。

 聴き続けているLEO今井の『Too Bad/Kubi』に

『ぐらぐら 密かにみんな 血が煮え立ってく』

『悲しみと 楽しみで 煮えたぎりそうになる』

 という歌詞があって、ここを聴くたびに大声で泣きたくなって、でも我慢してじわっと涙が出てを繰り返している。たまらなくいい。
『Too Bad/Kubi』を聴き続ける日々に移行する前は、ポール・マッカートニーの『Fuh You』を聴き続けていて、その中で彼は『On the night that I met you』と歌っていて、その『met』の『me』の声を聴くと、簡単に言えば、歴史を感じる。歳をとった人が歌っていることは歌い出しの『Come on baby now,』の『Come o』くらいで分かるし、ずっと、おじいさんの声だなあと、The Beatlesの頃の声が好きだから、そんなふうに思っているけれど、『me』の部分を聴くと、若い頃のポール・マッカートニーが今も確かに存在していることを感じる、それゆえに今のポール・マッカートニーも確かに存在していると感じて、それが、だからなんだと考えるとよく分からないけれど、時の経過が奪っていく様々なものに紛れずに何かそういった、時の経過が奪っていくものリストに必ず記載されるようなものが、全くそのままで存在しているということに、慰められたみたいに安らぎ、生きていこうと思えてくる。それにしても、本当に、もう、ユニコーンとか天狗くらいの存在感で感じていたポール・マッカートニーをメロディに乗った、たった二文字で「絶対にいる!」と感じるというのは一体なんだろうか、いや、もちろん元々、絶対に海の向こうのどこかにいらっしゃるんだろうけれど、それは俺はユニコーンや天狗もそんなふうに思っていて、だから、ずいぶん些細なことで思い至るもんだなと楽しくなっている。

 

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