どんどん範囲を狭く、限定していくと楽になるというのがあって、それは生きていること、延いては生まれたことを失敗だと思っている人なら、その二つもしくは後者一つだけが「失敗」という言葉が当てはまるものだと決める、それは「ミス」でも「後悔」でも「過ち」でも何でもいいけど、それ以外は別の言葉で言い表されるものだと思い込むというもので、で注意点として、それをわざと意識的にする必要がある、そうすると、ついつい広義に傾倒していく言葉の世界から離脱せずには済む。
広義に傾倒していく言葉の世界というだけあって、そこは広くてたくさんの人がいるため、そこから離脱すると、誰からも救われない、誰にも触れられない、誰とも分かち合えない、よく分からない薄ぼんやりと暗いか明るい空間に締め出される、かもしれない。
で、それの何が楽になることと繋がるのか、生まれてこなければ良かったと結構ハードに思うAくんが、失敗を恐れてしたいことにすら取り掛かれない人であったとして、才能もない自分がこのままでいいのかと思っているとして、「失敗」やら「才能」やら「自分」を、限って限って限って限ると、今までその言葉の中に含まれていた何やかやが放たれて、まずその躍動感に、うおー!的な快感や気楽さを得る。涙が出るかも。笑顔になるかも。
うおー的な快感や気楽さを得れた人は後述の資質がそもそもあるというような気がして、というか、うおー的な快感や気楽さを得たいと思って言葉を切り詰めていくような人ならということで。
その次に、じゃあ今まで「失敗」やら「才能」やら「自分」やらの範囲に入れていた、今はもう遠くどこかへいったあの、奴らは、一体なんだったか、ということが気になり、それを確認する作業を始める。
ってことは「才能」のない「自分」で「失敗」するかもしれないことに挑む時間がいずれ訪れるということで、でもそれはもうその言葉では括られていない何かを調べる行為でしかなく、名前を付ける楽しさや再会する喜び、初めて話す緊張や手を取り合って踊る気持ち良さ、そんなこんなを探す行為でしかなくなっている。
で、これの良くないところはめちゃくちゃあって、それは、どんどんどんどん訳が分からなくなっていくということで、Ver.1の言葉は消えたのではなくて、別のフォルダにあるだけで、それで誰かと話したりしているとVer.1.8の言葉やVer.1の言葉やVer.5.5の言葉が飛び出てきて、会話にならなかったり、気張ってVer.1で話し続けることで後になって有り得ないくらい疲れたりする。
楽になる部分は大いにあるのだが、その前になかったもうどうしようもない気持ち悪いものが出てきて、それから走って逃げ続ける必要が出てくる。
もう一つの留意事項としては、他者や他のものをVer.1以降の言葉で語らないということ。
だからこれは、基本的には一人であれこれ何やらしたい人、する人、器用な人、そもそも千切れ気味の人、元気あり過ぎたり落ち込み過ぎる人、それをある程度コントロールできる人(できているかも!と勘違いでも出来る人)、一貫性のない人、何か一種類でもその瞬間だけ感情を抑えたり噴出させたりできる人、一つのことをし過ぎる人、一つのことをし続けられない人、もう既に何かをどこかで完全に諦めている人、と挙げていくとそうでない人を探す方が困難だけど、まあそういう人はお試しあれー。
と、これは誰に向かったものかと思うけど、実際のところ、俺/私ってば言葉でつくられちゃってるなって人には効果的かもとは思うし、でもやっぱり俺Ver.1に向けて書いているんだろうな、いつだったかの自身を救っていく作業なのかもしれないし、いつだったかの誰かに向けているのかもしれない。
そんなことせずに済むのが最も良い!とは言い切れないけど、まあまあいいだろうなと承知の上で。