悔しさや怒りを作品として、作品にする過程で、昇華、消化するのって、具体的にはどうするの?と見聞きするたびに思う。
そんなの無理だよー教えてよーっていうのと、そういうのなくても良くね?というのが半々あって、そもそも病的に負けず嫌いなのと暴力的な怒りがあり、それに振り回されないように意識を変えた、変えようとしているから、そういうものを始動力にするのにびびっているだけなのかもしれない。
それは言葉を変えると、自身のどちらかと言えば、そのままであれば?、負の部分のようなものを見つめるということで、それは芸術的な分野でもはや推奨されているようなことで、それはしなければいけないのかもしれない。
が、絵の、サイズや手法で決まっていく大体の価格が何となくあるのと同じで、そういうことにルート、テンプレートみたいなのがあることがもう駄目じゃない?、とも思うが、それは一つのルート、テンプレートからは逃れているだけで、そのものからは離れておらず、まあいっか。
とにかく、怒りや悔しさ、的なものを何かに転換することが出来るようにならないと、〇〇したい、だけでやっている今、それがなくなったときは何も出来ないということになりかねない。
本当、どうすりゃいい?、助けてー!、と思うようになってくると、それは、ぼっこり落ち込む前兆のようなものに感じ、そわそわする。
で、五年前くらいにヒッチハイク中に泊めていただいた家の、自分たちの学校にいたら最高そう!な元教員のお爺さんがいて、ふと思い出して確認すると立原正秋さんを教えてくださっていた。
で、当然のことながら早稲田中退だったため、五年越しに読んでみるかといった気分で、高原英理『リテラリーゴシック・イン・ジャパン 文学的ゴシック作品選』が届き、明日から中に取り掛かるとして、表紙の球体関節人形が素敵で、ぐちゃぐちゃになるのやだからカバー置いてこうかな、と思いつつ旅先で見た過ぎるじゃん、と。
で、本からではなくその世界と触れ合っていたものを、本で、本を通して遠く離れた見知らぬ土地で読むことを考えると、もうそれだけで満杯ですって気持ちで、ぐるぐる何かが巡っている、楽しみ。
果たして一冊でも読み終わるのか?という心配はあるけれど、そんなことはどうでもいい、なんか、そう考えてしまう、こう考えてしまう、というところから離れたい、や、そう考え始めるように感じてしまう、こう考え始めるように感じてしまう、ことから離れたい、か?