1
その頃のシクミと僕は、歩くことだけを求めていて、週のほとんどの時間を一緒に過ごした。目が覚めると、どちらからともなく連絡を取って、お互いの家の間にある喫茶店で落ち合った。朝食か昼食を食べて歩き始め、夕食と夜食も食べてそれぞれの家に帰る。そんな日々が何年か続いた。
半年もすると街を歩き尽くしてしまったが、それでも変わらずに歩き続けた。今となっては、出会った日のことは思い出せない。一緒になっていつまでも歩いていたことだけが、それだけが記憶としてぽっかり残っている。二人とも大学を辞めていて、失業手当と知人の仕事の手伝いで食い繋いでいる、という共通点だけ。それでも互いに、互いの言葉が分かった。そんなふうだったのに、あの頃の互いの言葉は今では風景のようだった。
同じ場所を何度歩くことになっても、歩く行為自体にうんざりすることはなかった。町並みに向けられる注意が、そこを歩く人たちや、些細だけどいつもとは違った出来事に向かいやすくなっただけだった。二人とも、同じこと、同じようなことを繰り返すのを苦痛に思わない人間だったというのも大いに、限りない歩行を続ける要因になっていただろう。
シクミはいつも、そのとき読んでいる本の話を歩き始めにしてくれた。作者はどこそこの生まれで、まあ概ねこういった人物像、何歳でこの本を書き、こういった評価を受けていて、何歳で死んだか、そんなようなことを教えてくれた。彼は小説を読み、僕は学術書を読むのが好きだった。強い興味のない分野の本でも読んでいられた。小説に関しては、いつ何を読んだかも分からないくらい、そんな疑問が初めに浮かぶくらい読んでいなかった。
彼の父親は割と有名な大学の英文科の教授で、息子であるシクミのことはなかったことのように無干渉でいた。彼はそれに対して、ああだこうだぐちぐち言われるよりはいいよ、と言って眉頭を上げた。父親の話をするシクミは、基本的には彼を罵るばかりだったが、ごく僅かに誇らしげな顔をすることがあった。そんな話をすることも、そんな顔をするのも稀だったから、今でも同じような場面に出会すたびに思い浮かぶ。
彼の話し方は僕に、緩やかな風の抜ける林を思い起こさせた。声音に拠るところが大きいだろうが、言葉の選び方や繋ぎ方、そういった部分からそんなことを思い始めたようにも思う。だからなのか、彼が何について話していても、僕はいつでもにこにこした気分で聞いていられた。空気が声帯を通る音というのか、すーっと声を囲む柔らかな膜があった。発せられた声自体は明瞭で真っ直ぐなのに、掠れているように聞こえることがあった。
幹線道路沿いの道を歩いていた。左の方で低いマンションがずっと続いている。彼はいつも右側を、ポケットに両手を突っ込んで歩いていた。僕らは、次曲がろう、このまま進んでこう、そこ右、とか何とか言わないで、小舟みたいに流れに任せていた。
前日に別れた後の話をしてから、あとはただ、今では思い出せない話をし続けた。僕らは息ができないくらい笑っていた。大抵の場合、僕らは危ないくらい笑っていた。互いの話す話に、心底面白がっていた。少なくとも僕は、彼の話す、興味も関心もない話をおもしろおかしく聞いていることができた。彼の話は脈絡も文脈も無視してあちこち飛んでいった。その繋がり方や本筋への戻り方にさえ笑いがこみ上げてくる。
それなのに、今そのことを思い出そうとすると、何一つ浮かび上がってこない。それは、僕にとっては初めから終わりまで老人であった祖父母の、彼らの若い頃の話を誰かに聞いたときと同じように体の中央部分を震わせる。頭や体のどこかがそれを理解することを拒んでいるようだった。
彼は母方の祖母が所有しているマンションの一部屋を与えられ、そこに猫と暮らしていた。二人ともが歩く気分でないとき、大抵は僕がシクミの家へ行って、終電までいつものように話し込んだ。彼の猫はウジュといって、祖母からその部屋と一緒に贈られた。話し疲れるとウジュの体を撫で、お腹空いてないか?とか、喉渇いてないか?とか、そうも思ってないことを話しかけた。ただそうしているだけで、僕が彼に抱いている、人間に向ける好意とは違った姿だが同質の気持ちが伝わっていくだろうと考えていた。常に眠そうな顔をしていて、野良猫よりも何を思っているのか分からない。いくらケアしてもごわついた毛先に比べ、皮膚に近い部分の毛は鞣革や若葉のように柔らかでしっとりとしていた。シクミはその猫をずいぶん可愛がっていて、これは俺に残されたものの中で一番なくしちゃいけないものなんだよ、と言っていた。
スワンボートが浮かんでるような池の周りを歩いていた。彼はアイスクリームを食べながら、僕はフランクフルトを食べながら。ベンチに座ってコーンを砕いて鳩にやり、背もたれに合わせて腰を反らした。何も言わず、鳩や柵の向こうの池を眺めた。池に浮かぶ鳥と鳩が、同じように括れることが何かしらの違和感を生んだ。僕がそんなことを言うと、彼は、確かに、と言って黙った。
そのときの僕は一人で平家に住んでいた。元々は写真家の叔母の家で、彼女は五年前にドイツだったかフランスだったかに行ったきりめったに帰って来なかった。家屋自体は小さいのだが、小さな子どもなら迷うこともできるやけに広い庭があり、僕はそこにテントを張って寝るのが好きだった。
彼女が置いていったカメラを使って木々を撮り、プリントした写真を何枚かコルクボードに貼り付けて台所に置いた。シクミはたまにふらっと現れて、いい家だな、とその日中繰り返す。僕らは縁側に座って熱いコーヒーを飲みながら話し、やってくる野良猫たちにべちゃべちゃしたキャットフードを食べさせた。どの猫も毛並みが整っていて、本当に野良猫なのかどうかは分からない。全部で六匹の猫が訪れた。濃い赤茶とそれよりは薄い赤茶、淡い水色っぽいの、真っ白と透けたような灰色、幾何学模様ちっくなさび、前の三匹は僕に、後ろの三匹はシクミに興味を示したようだった。
月曜か火曜の夜と土曜か日曜の夜に彼らは、付かず離れずで庭の奥の方から静かに現れる。シクミがいないときの白と灰とさびは、小皿にあけた餌を食べるとすぐにどこかへ走り去った。赤茶たちと水色は餌を食べたあとでも縁側の近くをうろうろしたり、胡座の足のそばに寝転んだりしていた。
叔母の写真集を二人で見ていた。彼女の撮る写真はどれも瑞々しく見える。乾いた壁をうつした写真でさえも、どこか遠くに水の気配がある。僕らを釘付けたのは老婆が裸で椅子に座っている写真だった。彼女は足をぴったり閉じ、腕は肘掛にふんわりのせられている。一見、目元の深い皺や鼻の形で柔和な表情にも思えるが、瞳からは何かに対する強い反抗の意思が横溢していた。それはカメラやその状況に対してではなく、彼女の生きている時間に育まれてきた、もっと強固で揺るぐことのないものだった。僕とシクミは唾を飲み込んでその写真に見惚れ、叔母さんすごいな、と彼が言った。叔母はきっと彼女の眼球で堰き止められようとしている何かを撮りたかったのだろう。彼女の写真がどれも瑞々しいのは、彼女自身が対象の中に潜む何らかの、その形を水のようなものとして認識しているからだろうか。僕らは彼女の写真の中で、対象物からそれが噴き出してこないようにしている栓みたいなものを探しながらページを繰った。これ、これ、これ、とぱっと見てそれらしいものを指差していった。シクミは、叔母さんとお前は結構似た目をしてるのかもな、と言った。
思えば僕は、叔母に懐いていたかもしれない。彼女がまだ僕らと暮らしていた頃、彼女はよく僕を連れ出した。それは、ちょっとした撮影だったり、ただの買い物だったり、カメラの使い方を教えるためだったりした。その時期には両親はまだ、まともさを保っていたようにも思えてくる。
彼女が僕たち家族にとっての栓の役割を担ってくれていたのだろうか。彼女の仕事が忙しくなるにつれ、彼らは冷静さを忘れてきたみたいに慌ただしく、いつまでも騒がしくしていた。
眼球の裏には小さな扉があって、何かを思い出そうとするとそこが開き、投光器からそれぞれに合った強度の光が伸びる。おもむろにスクリーンが降りてくるが、その距離や色味を僕たちは選択することも調整することもできない。僕はシクミと過ごした時間を、仮に、忘れたくなる日がきても忘れられないんだろうな、とかなり真剣に、つい最近まで信じるように思っていた。僕たちが無意識に従っている諸々の動きと同じく、彼と過ごしたいくつもの晴れた日は、驚くほど遠い地点で輝いているだけだった。その光の存在や温かさ、今の僕が思い出せるのは、短い時間ではあるが確実にあった感触と、その日から遠くない未来に思い返したときの、知らず知らずのうちに笑ってしまうあの、僕や彼の中にあった腐りかけたどこかを癒す、その波のあまりにも際立った気配だけだ。カタヌキみたいなもので、どれだけ注意深く思い出そうとしても、壊れるときには絶対に壊れた。
雪がちらつく街の中を歩くのは、何かに抵抗しているような気持ちにさせる。僕らは傘を閉じたり開いたりしながらも歩き続けていた。シクミは耳当てのついたニット帽を被り、寒いな、と言い続けていた。僕は寒さに強いようで、彼に比べてずいぶん薄着でいた。目に入るだけで寒い、と彼は言って、僕に手袋を買ってくれた。薄めた黒と白のしましまの手袋で、彼がどこで、どうしてそれを買ってきたのか。
僕は後年、そのことを思い出して、雑誌か何かの広告用の撮影中に吹き出した。それまで無口でいたせいか、誰も一緒に笑ってはくれなかった。しばらく笑い続けたあと、モデルのマネージャーが野生動物に近付くときのように僕の元へやってきた。彼はいくつかの意味で、大丈夫ですか?、と言った。それでまた思い出し笑いに陥った僕を、鍋で煮たヘドロのような顔で見つめていた。
叔母が帰国した日、シクミは何日か僕の家に泊まっていて、彼女は僕らと顔を合わせるなり、あとで写真撮らせて、と言って奥の部屋に引っ込んだ。久々に会う彼女の勢いで小さい頃のことを思い出した。叔母が何か言うたび、何かするたび、そこから発生する振動みたいなものが、僕自身にフィットするまで時間がかかる。シクミはそれに順応、というか資質があるのか、とくに顔色も変えず、いいですよ、と言ってお茶を啜った。
僕たちはいつも通り、座布団を折って枕に縁側で寝そべっていた。叔母が帰ってくることを知っていたのか、野良猫たちは一匹も姿を見せない。髪を括りながら叔母が僕らのあいだに座り、あんたら渋い趣味してるね、と言って背筋を伸ばした。僕とシクミは多分、薄いタンクトップに浮かんだ乳首を見ていて、それはきっともう眼球の自動的な働きだった。
「お土産」
「ありがとう、ええ、と、彼はシクミ」
「シクミ?」
「はい、志に、久しい、美味の美、です」
「意味ありげな名前だ」
「みたいですね、昔、学校の授業か何かで親に聞きましたけど、忘れました」
「ふーん、二人は仲良さそうだね」
「うん、ほぼ唯一の友達だよ」
「あんた、ちっちゃい頃から一人としか遊ばないね、ほんと」
「多分、僕らはそれでいっぱいいっぱいなんじゃないかと思います」
「それがどんなでも一人の人間と付き合うのが?」
「はい」
「言うねえ」「あんたたち多分生きていくのに苦労するよ」
「うん」
「だと思います」
「はははは、まあ、いいよね、それで」
「うん」
「そう願います」
叔母がくれたのは、どこだったか、高山地帯の国を回って撮った何十枚かの写真だった。鮮やかな服を着て笑う子どもたちの後ろには、ぞっとするくらい大きな山が連なっている。万年雪だろう上部の色合いが不気味に澄んでいる。彼女は僕らが写真を見る姿を、写真を撮るときの目で見ていた。僕たちがどの写真に興味を示すのか、それ自体に関心があるわけではないだろうが、見極めようとしていた。シクミが、これは、という顔をしたのは山間にある奇妙な色の湖の写真だった。濃い赤色や緑、靄がかったような青色、それらの無数のグラデーションが入り混じっている。叔母が立ち上がってどこかへ行き、カメラを持って戻ってきた。彼女は僕らに、あんたはそっちに座って、とか、シクミはもうちょっと遠くを見て、とか指示を出し、何度かシャッターを切ったあと、僕にカメラを取ってくるように言った。
デジタルとフィルムのカメラを一台ずつ持った僕が縁側に戻ると、彼女は服を全部脱いで立っていて、シクミは、その過程を見ていたのに、一瞬の出来事にあったみたいな顔で驚いていた。叔母は、そこからあんたが私を撮って、と言い、草木があまり生えていない場所を歩き始めた。僕は裸足で庭に出て、その前にデジカメを投げるようにシクミに渡して、距離を詰めないで彼女を撮った。なるべく彼女の姿だけを見ながら絞りを調整した。彼女の体は、稀に見ることができる、果てしなく柔らかそうな石像を思わせた。それは抱えきれない量の可能性と矛盾と整合性の重なりだ。僕らより頭ひとつ高いが、離れているおかげで真っ直ぐ撮っていられた。何となく、上からも下からも撮りたくなかった。彼女の体は、彼女の体であることの喜びで満たされていた。シクミは初めと同じ顔のまま、僕と叔母を見ている。本来であれば撮る必要のない被写体というのは、それに向き合うと距離の異なる映像が同時に目や頭に浮かんでくる。彼女に触れるくらい近づいたかと思うと、表情がかろうじて分かるくらいの距離まで突き離れた。後にも先にも、そのときの叔母の姿より美しいものを、僕は見つけることができなかった。歴史的な意味を持った彫像も、ただ優れた彫像も、それ以前のようには鑑賞できなくなった。
狭い食卓で、叔母の作ってくれた夕食を三人で食べた。僕とシクミはそのときになって、微妙な年上の裸体を間近で見たことを恥ずかしがっていた。彼女は、他人が作った料理を食べるみたいに、これ美味しい、とか、これいいよ、とか言って、僕たちの平静でなさには気が付いていないようだった。
「思ってたよりも才能あるね、続けなよ」
「写真?」
「それ以外ないでしょ」
「僕も、少し前に、何となくお二人、というか、似てる感覚があると思ってました」
「似た感覚?」
「はい、その」
シクミはそう言うと、二人で見た写真集を取ってきて、裸の老婆の写真を見せながら説明を始めた。叔母はそれを、胡麻のかかったゴボウをくわえたまま聞いていた。
「それって、あんたたち二人で考えたの?」
「いや、違います、僕はただ、今説明しただけです」
「なるほど、考えたことなかった」
「どういうことですか?」
「ん?」
「そういうこと考えながら撮らないんですか?」
「うん、あんたらと一緒だよ、撮ってるものとのことでいっぱいいっぱい」
「ああ、そういうものなんですね」
「他の人は知らないけどね、わたしはそう」
「それって、撮る前、それまでに、家でとか、ホテルで、とか、一定は考え尽くしたってことですか?」
「どうだろうなあ、言葉にならない程度には考えてるんだと思うよ、もちろん、でもわたしはいっつも、撮ってから、撮って、撮って、撮ってから、現像して、それからやっと腰を据えて考えてるかな」
「これはこっち、これはあっち、みたいに?」
「うん、まずは流れを見つける、そのときそのときでわたしが惹かれたものを再確認していくって感じ」
「展示に合わせて、とかそういうこともあると思うんですが、そうでないときも、ある程度写真が溜まったらそうするんですか?」
「うん、写真家にとってのステートメントって、わたしは、画家や彫刻家たちよりも大事にしなくちゃいけないと思ってるから、予定がなくても、訓練ってわけでもないけど、うん、そこは考えてるかな」
彼女はそれから三泊して、ドイツだかフランスだかへ飛び立った。僕らは何となく彼女を空港まで見送りに行った。彼女は何故か僕らの頬にキスをして、生きとけよー、と言って、ゲートを通っていった。
歩き過ぎで膝を痛めたシクミについて整骨院へ行った。特に不調を感じていたわけではないが僕も診てもらい、足の指の関節が多いことが分かった。彼は、しばらく安静にしていれば大丈夫、と薬用の湿布と同じような効能の飲み薬をもらうことになった。
帰り道はいつもよりもずっと遅く歩き、早い時間に解散した。僕はそのまま街に出て、中古のカメラ屋をいくつか巡った。叔母に言われたように、写真を続けてみようと、自分のカメラが欲しくなった。
結局、目ぼしいものもなく帰路につき、家に帰ると縁側に座って、彼女を撮った写真を見た。あれから何度も見返しているが、これは僕が撮った訳ではなく、どのような意味においても、彼女に撮らせてもらった写真だった。生物には、その体に内包された激しく動き回る美しさというものがあることを知らなかった。それは彼女だからあるのではなくて、彼女にもある、といった種類の美しさだった。僕はそれで、シクミのことを撮りたくなって、すぐに電話をかけた。彼は眠そうな声で、どうした?、と言い、僕があれこれ説明すると数秒黙ってから、分かった、いつがいい?、と言った。
「早ければ早いほどいいけど、膝が治ってからでいい」
「いや別に、大したことじゃないから、明日、家行くよ」
「ありがとう」
2
僕らは、互いに大学を辞めた理由を話さなかった。興味を引くような訳もないし、特に意識もせず、その話に繋がる話をしなかった。一度だけ二人で山を登ったことがあり、そのときに少しだけ話したような気がする。五〇〇メートルもないくらいの山で、日頃、計算してみると恐ろしい距離を歩いている僕らには苦もなく頂上に立つことができた。色褪せていることと、その対象が遠すぎることで無意味なパネルがあり、いくつかの山の影と絵を何度も見比べ、それでも、多分あれはこれかな、くらいのもので、早々に切り上げて景色を眺めることに集中した。こんなとき、叔母なら煙草を吸うだろう。彼女はきっと、あとになっても忘れていたくない場面に出会ったとき、煙草に火をつける。僕らはただ黙って街を見下ろし、そこにあることを知っているからそれだと認識できるくらいかすれた海を見つめた。
僕たちは上ってきた道とは違う道で下山することにした。シクミは、ほとんど滑り落ちていくみたいに走り下りている。僕はその姿も合わせてびくびくしながら、着実に足を進めていった。シクミは自然との付き合い方が上手い、とそれまで考えたこともなかったことを思った。軽やかでしなやかな跳躍や、連続しているようでそのつどきっちり離れている判断の様を遠くから見ていて、体の使い方が上手い、と思わなかった理由は何だろう。そんな考えも、浮き石を踏んだ足首が捻れかけると消えていった。
ずいぶん遠くに行ったシクミが立ち止まり、おーい、と叫んだ。距離を詰めようと急ぎながらも呼吸を整えてから返事をし、鉄塔があるぞー、と聞こえてきた。
それから五分か十分かけて彼の元へ辿り着き、こっちこっち、と手招きするあとをついていった。夕暮れまでまだかなりの時間があるはずで、太陽の位置もそれほど変わっていないのに、上りのときとは明るさの質が違っていた。薄暗く、巨大な工場を想起させる。
鉄塔は、それまでに見たどの建物よりも高く見えた。彼は支柱を撫でたり叩いたりしながら歩いている。僕はイメージの大きさに圧倒されてしばらくそこに立っていたが、電流が体を駆け巡っているのだろう少年が描かれた看板を見て、動き出すことができた。
彼は、支柱を支えるように埋め込まれた平たい大きな石に座り、鉄塔にもたれかかって街に目を向けている。開けていた頂上とは違って、樹木があっちこっち重なった隙間から見える街は遠くに見えた。僕は隣に腰を下ろし、こういうところ好きだな、と言った。
「鉄塔含む?」
「そうそう、ぽつんと何かがある景色」
「分かる気もする」
それからしばらく黙って、何で学校辞めたんだ?、と彼は言った。
「どうしてかなあ、そのときはあれこれ考えてたと思うんだけど」
「急に、本当に急に、何もかもに我慢できなくならない?」
「何もかも我慢してるつもりもないな、例えば?」
「例えば。例えば、まとめて作った料理がどれも口に合わないこと、怪我をするたびに治りが遅くなってる気がすること、読んでも読んでも小説がなくならないこと、そんなの」
「ないかもしれない、何も気にしてないのかも、シクミは、ちゃんと生きてるんだろうな」
「むしろ逆だと思うよ、分かんないけど、どんどん、ちゃんと出来なくなっていってる気がしてるよ」
同じくらいの背丈だが彼の体は、腹なら背中から、背中なら腹から、返しのついた細い紐で引っ張ったみたいに絞られていた。筋肉や骨の存在が確かなものだと思える体だった。全体で薄い体毛と重たそうな陰茎のバランスも、どの部分であっても、撮影に耐えうる造作をしている。恥ずかしいな、と彼は言っているが、生き物としての根源的な快楽とでも言えばいいのか、自身の位置する空間に対して無防備であるその状態を、善なるものとして享受しているようにしか見えなかった。僕はそのとき、彼の体そのものや気配に、解放された態度や気付いていないだろう笑みに、確実に欲情していたし、今そのときの写真を見ていても、自身の欲望の動きというのがよく分かる。優れた写真ではないが、彼や僕をちゃんと写していた。僕たちは庭に出て、草木が生い茂った所を目指した。彼はシートを抱えて持っている。足を踏み出すたびに引き締まったり緩んだりする筋肉を見ていると、大型の獣を前にしたときのような緊張感があった。
いくつかの種類の樹木が重なり合った下にシートを敷き、その上に座ってもらった。彼はまず、ポーズは?、と聞かなかった。服を着ているときと同じように座り、それでいてレンズをを通して見ると隙だらけであることが分かる。じゃあ始めるよ、と言って距離を取り、シャッターを切った。その初めの一枚から僕は、ほとんど意識を失ったような、一つの動作を行うのに使われる機能が半分しか起動していないみたいな気分だった。
ポーズや場所を変えながら一時間ばかり撮影した。どれだけ撮っても飽きることがない。体を動かして少し陰影が変化するだけで、たまらない気持ちになった。感覚を鈍化させることのない光が際限なく溢れ出してくる。舌を這わせるみたいに執拗に撮っていった。彼の体は彼の意思とはさらに無関係に、広がりや気配を増していく。それは僕と彼や、カメラと僕らの距離を歪めた。汗ばむ彼の体から、僕とは成り立ちから違うような男の匂いが立ち上り、吸い込めば吸い込むほど視野が膨張していくみたいだった。そこにある情報の多さに、自身の考えや技術の限界すらもどうでも良くなった。接写と遠写を交互に繰り返した。細い枝葉の深い影が、寝転がって陽の光に瞼を薄く閉じた顔に重なったところを撮ると、走り込んだのとほとんど同じような疲れを感じ、ありがとう、と言って、僕が先を歩いて家に戻った。
頭の芯は澄み、凪いでいたが、そのまわりを湿度の高い何かが取り囲んでいる。何も考えないで動くことはできるのに、考えようとすると立ち眩みのように意識が揺れた。
濡れたタオルを手渡し、お疲れ様、と言った。
「いい写真撮れたか?」
「うん、多分、正直、夢中になり過ぎて分かんない、でも、ありがとう」
「あははは、うん、良かった、俺も結構、かなり楽しめた。ありがとう」
まずは簡単なことから始めようと、カメラを常に持ち歩くことにした。これだけ歩いた街で、今になって撮るべきものがあるのかも分からないが、それでもやってみると毎日三百枚くらいは撮っていた。シクミは、何かを撮って次を撮るまでに、どこが気になった?、と聞いた。さっと答えられるものの方が多かったが、どうしても分からずに、何でだろ、としか言えないものもあった。彼はそのやりとりを楽しんでいたように思う。デジカメはいつまでも、間違った重さを持ったものだと感じた。叔母が初めに触らせてくれたカメラがフィルム式だったからだろうか。それだけではないような気もしたが、そのときはあまり考えずにいた。
その日は、枝を払われた木々にばかり目がいって、小さな公園や緑道を歩き回った。もぎとられたようなのや、元からそうであったみたいに鮮やかな切り口のや、燃やしたみたいにぐずぐずしたのや、手当たり次第撮っているように自分でも思うのだが、勿論そうでもなくて、何らかの基準があった。
3
シクミや叔母が死んでから、僕はもうほとんどどこにもいないんだと思った。彼女たちに預けたままの部分があまりにも多すぎたからだ。それでいて彼らは死んでいないのと同じくらい、自身の一部として組み込まれていた。彼らは僕として生きていた。それは彼らと一緒にいなくなった僕の一部を補って有り余るほどで、寂しくも悲しくもなかった。シクミの葬式で彼の父親を殴ったことで歪んだままの右手の人差し指は、シャッターを切り続けるのに好都合な形で、彼に対してのどのような思いも今ではなくなっていた。数々の思い出と同じように霧消した。そういえば、僕らはどこを歩いていたっけな。僕とシクミと叔母は。僕とシクミとエナさんは。僕らは確か、海沿いの道を歩いていたんじゃなかったか。ぼろのコンバーチブルに乗って、初めて三人で遠出した。十キロくらい続く海岸沿いの道。僕らそれまでと同じように色んな話をしながらたまに、彼女の煙草休憩のために立ち止まった。エナさんはどこで、どの海で溺れ死んだんだっけ。彼女が残したいくつかのカメラはすべて使えなくなっていた。僕は同じ型のカメラを探し、オーバーホールして使い続けた。僕はそのとき、好きだった写真家のスタジオで働いていた。彼は僕の撮りたい写真を、僕よりも理解していて、すぐには飲み込めないが確かな言葉を投げかけてくれた。彼女の訃報は、彼が教えてくれた。僕はその報せを母国語で聞かずに済んだことに、あれから何年経ったのか、今でも感謝に近い思いがあった。彼女の遺体は、僕が死んだあとでも見つからなかった。僕と師匠は、形式だけの葬式に参列した。向かう飛行機の中、彼は僕の手を握り、誰も死なない、と言った。そうか、誰も死なないのか。確かに、シクミが死んだあとも、彼は死ななかった。死んだわけではなかった。僕にはそれが分かっていたから、彼の言葉を初めて、瞬間的に受け入れることができた。彼は自身の母親の話をしてくれた。そもそもの筋も結末も何一つ覚えていないが、彼の母親もまた死んでいなかった。彼らの時間は、僕らの時間に流れ込んだ。作品が残っているから、言葉や思い出があるから、確かにいた記憶があるから、そんなことではなくて、彼らはただ、本当にただ姿を消しただけだった。僕はまだ姿があるだけで、彼らとの差はあってないようなものだ。
エナさんが溺死する寸前まで考えていたことを、僕は今でも考えることができる。独立してからの数年間、僕は彼女のことだけを考えて写真を撮り続けた。彼女の写真集を読み込み、そこに書かれた短い文章を何度も唱えた。シクミは遺書も何も残さなかった。僕らの間では、そんなものは不必要だった。僕は海に近付けなくなり、あてもなく辺りを歩くことをやめた。そのような形で彼らを思い出したくなかった。寂しげな巡礼のようで、息苦しさが募っていくだけだ。僕らはきっと、僕らでなければ話さなかったことを話した。何か、冷えていく体を温めるものが必要だった。彼らの姿を見れなくなった今では、そんなものが必要だった。変わらないものがあっていいはずがない。彼らは孤立していたのに、意味の分からないものにいっしょくたにされてしまった。彼らはそんなふうになるべきではなかった。
僕らは海のそばで長く伸びる道を歩き続けた。その中で僕たちが歩いている時間の長さは、道の長さを超えているようだった。エナさんは数分おきに煙草を吸い、何となしに左右に分かれて座った僕らの頭をぐしぐしと撫でた。猫をそんなふうにすれば心を許すことはなくなるだろう。強い風で地表の寸前を浮かび流されていく砂つぶや、同じ景色を見ているはずのシクミもいま、頭を撫でられていることを思い、へその少し下から熱を持ったものが込み上げてきた。なるべく遠くに焦点を合わせて唾を飲み込むとそれは、おとなしく元いた場所へ帰っていったが、シクミが後ろの方を歩き、エナさんが数メートル前を歩いているあいだにさっきよりも早く流れ出てきた。
彼は僕の肩に触れてからエナさんの隣を歩き、彼女の冗談か何かで笑い声をあげた。
ウジュを一通り撫でてから、僕たちは散歩を再開することにした。朝から集まって歩き始めたはいいが、真夏の日差しの中、二人とも油断していた。まず僕が道端に座り込み、回復したあとはシクミがコンビニのトイレでゲロを吐いた。タクシーを拾って彼の家に行き、冷房の効いた部屋で氷をいれた水を飲んだ。ウジュは心配しているのか、シクミのまわりをうろうろしていた。
駅前につながる街道を、スポーツドリンクを一本ずつ持って歩いた。思い返すと、解散するか夕方まで家にいればいいのに、どうしてそこまでなっても歩き続けるのか、今もその時も分からないでいる。そのときの僕らにとって、歩くことは脱出することと同じだった。それぞれが一体何から抜け出そうとしていたのか、ついぞその姿を見ることはできなかった。
僕は、シクミを撮った写真を叔母さんに送った。
「あんた、シクミのこと好きでしょ」
「そりゃ、好きだよ」
「いや、寝たいかってこと」
「それは、正直分かんない、撮ってるあいだとか、そのあと何日かは思ったけど」
「ふーん、まあでも、いい写真、ほんとに。続けなさい」
「ありがとう、うん、そうするよ」
嘘をついた。僕は今でもシクミと寝たいと考えていた。かなり強く、はっきりと。彼女はそれも分かっているだろうし、シクミも、写真を見たあとで分かっただろう。それでも僕らは街を徘徊し続けた。
「シクミは?、元気にしてる?」
「うん、元気だと思うよ」
「写真撮ったりしてないの」
「うん、多分、少なくとも見たことはない」
「ふーん」
「普通なら、何かしたくなるはず?」
「そこまでは言わないけど、撮っているところを見た経験も、撮られている人を見たことも、撮られたこともあるのになあって」
「うん、そうだけど、だれもかれも、自分の中にあるものを出したくなるとは限らないじゃない」
「そうなんだけどさあ、何か、自分自身をって訳じゃなくても、こうこうこうしたものを表現したいとかってあるじゃん、シクミはそういうタイプなのかもなって」
「うん」
「だって、じゃあ、シクミの中にある、今はほとんどわたしたちとしか共有できないものは、どこにいくの?」
叔母は年に四回くらい写真の束を送ってくれた。僕とシクミはそれを楽しみにしていて、縁側でだらだらと話しながら写真を眺めるその時間を、大切なものとして扱っていた。僕らは、どの写真のことも好きになれた。彼女は後学としてそれを送ってくれたわけではないと思う。ただ僕らに見て欲しかったのだ。だから僕たちは、ただそれを見て、感想の電話もたまにしかしなかった。
彼女の写真は、撮られた本当の時期は知らないけれど、送られてくるごとに、写真を撮ることへの素直で豊かな謝意が増しているようだった。それと並行するみたいに、被写体との物理的ではない距離が縮まっていった。それは、何に対しても。老夫、消火栓、門扉、祭りに参加する人々、群れにも見える野良犬たち、テラスで煙草を吸う若い女性、そのようなものに彼女は、恐らく無意識でどんどん近づいていった。それは初めにシクミが言い出したことで、彼はそれを、十数メートル離れた位置から撮られた少女たちの写真を見て言った。
僕はそれをすぐには理解できず、結構長い間、三ヶ月か半年かコルクボードに貼り付けたままにした。叔母とシクミを写した写真のあいだにそれは貼られ、日々、僕の視線を受け止め続けた。この写真は、シクミに何を伝えたのだろう、と考え続けた。まず、僕はその初めの辺りで気がつくべきだったのだ。技巧を凝らした構図でも、物珍しい被写体が写っているわけでも、特別な愛着や思いを抱いていない写真を、それだけ長い時間をかけて見続けることができている事実に、はたと膝を打つべきだった。僕が見ていたのは、写真ではなく、彼女たちだった。表情も朧げにしか見えない少女たちを通じて、彼女たちが辿るいくつもの道筋、それはある方向では限界を持っていたが、別の向きでは限りなく広がっている、その形作りようのないものを見ていた。そして単純な、写真に対しての最大に不明な点でもある、その少女たちが集まることで滲み現れた、雰囲気と呼ばれるものが過不足なく収まっていること。彼女は、その少女たちを撮るにあたって、その二つを押さえていなくてはならないのだと、考えるまでもなく分かっていたのだろう。だからこそ距離を取った。
僕はシクミに電話をかけ、僕なりにだけど、やっと分かった、と言った。彼は支離滅裂に近い長話を、口を挟まずに聞き、話し終えたあとでも僕が、どうだろう、と訊ねるまで何も言わなかった。
ごった返した駅前に着き、僕らはデパートの喫茶店でジャンボパフェを食べることにした。構成としてはシンプルでよく見かけるものなのだけど、ただ大きいだけで知らない食べ物に見える。頂上に乗ったさくらんぼを落とさないよう、そういう注意書きを読んだみたいに僕らは食べ進めた。二人とも黙って食べていたが、さくらんぼが机に落ちたときの、あ、は机に落ちたことに対するものではなかった。顔を見合わせて笑い、惜しかったな、と彼は言った。
彼は首を吊ったのだったか、ベランダから飛んだんだったか、日に日に思い出せないことが増えてくる。それは彼の人生にも、僕の人生にとっても大した違いを生まないからだ。どちらでもいい。どっちだっていい。彼は言う、そっちじゃない、もっと被写体に近づけよ。僕は、分かった、と言って荒れた海に近づいていく。僕らの徘徊は、車を適当に走らせた地点から始まるようになっていた。僕がカメラを持つようになったからだろう。彼は、写真撮りにどっか行こうよ、と言った。
車に乗って遠くへ行くのは毎週末の決まりになっていった。僕らは平日のあいだに適当な場所を探し、金曜の夜に集まった。猫たちは自然と金曜か土曜の夜と水曜か木曜の夜に訪れるようになった。
波はそれほど高さがあるわけではないが、あらゆる方向に伸びている。彼に言われるまで僕は、何の価値もない写真を撮り続けていた。もう数歩、それだけで、意味のある写真になる。それを撮る行為自体に価値がある場合と、撮られたものが価値を持つ場合があり、僕は後者を目指すべきだった。彼にその話をしたことはなかったけれど、彼は知っていたし、僕はそれを分かっていた。
僕らは波打ち際に立ち、反発する磁石みたいにかたかたした動きでいた。彼は、もう少し、と叫び、僕は、分かってる、と言って二歩進んだ。途端に、荒れた波が石や草木みたいに不確かな生命の気配を持ち始めた。竦んだ足はブレを抑えてくれた。波の隙間に杭を打つみたい撮り続けた。何色にも見えない波は恐ろしかった。ファインダーを通して見ていると、もう既に逃れられない距離にいるように思えてくる。
突発的に強烈な息苦しさを感じ、尻もちをついた。シクミは僕のシャツの襟刳を掴んで引っ張り、一緒になって倒れ込んだ。靴の先を渦巻きながら引いていく波を見て、ありがとう、と言って立ちがった。僕たちは徐々に笑い声を大きくしながら駐車場まで戻った。湿った砂を払ってから車に乗り込み、呼吸を整えた。
僕はシートベルトを外し、彼に覆いかぶさるようにして唇を重ねた。僕のよりも柔らかい唇は乾いていて、ふと、滑らかな舌が入り込んできた。それで僕は自分のしたことに気が付いた。シクミは半笑いのまま僕のベルトを抜き取り、ジップもボタンもそのままで手を入れた。手首の冷たさが熱くなった腹や陰茎の先端に心地好く、それとは関係なく、ほとんど何も感じないまま射精した。彼が笑い、僕は唇を離して、あれ、と言って笑った。グローブボックスからウェットティッシュを出して彼に渡した。彼が手を拭いているあいだに運転席に体を乗りだし、彼のベルトを外してジーンズを下ろした。口に含むと、僕の動きに合わせて小刻みに動いた。それから発される音や目の前の光景以外、まるっきり何もない。彼が力を込めて噛み合わせるのが分かった。くわえたまま精液を飲み込み、実際の長さよりも長いものであるみたいにゆるやかに顔を上げた。目が合うと彼はしばらく瞼を閉じたあと、何か食おう、と言って僕の額に唇をつけた。
確か、デパートからの帰り道でシクミの母親に会った。彼女は彼を見つけると抱き締め、お友達?、と僕に目を向けた。初めまして、と言うと彼女は僕が見えなくなったみたいにそれには答えず、彼の肩を優しく掴んで体を離した。シクミの目はそれまで見たことがない色に濁っていて、それでいて怒っているわけでも、悲しんでいるわけでもなかった。彼女はしばらく彼の目を覗き込み、ふっ、と鼻で笑ってから僕に向き直り、じゃあね、と笑顔で言い残していった。シクミは長い溜息をついてから、ごめん、行こうか、と言った。
僕らは定食屋で向かい合って座り、ローカル番組を無言で見ていた。僕もシクミも車の中でのことは何も話さなかった。それでも、お互いがどんな種類の後悔も抱いていないことは分かっていた。彼の母親は、あなたが殺したの、と言ったが、そんなことはなかった。彼は自分で決めて首を吊ったのだ。固く締めた麻のロープで、ウジュはその三日前くらいに僕の家に預けられていた。水道管の整備で業者が行ったり来たりするから、と彼は言っていた。僕は同じようなロープをホームセンターで買って、居間の梁にほどけないようにきっちりと結んだ。ロープワークを調べて輪っかをつくり、頭を通してしゃがんだ。顔が熱くなって、僕の体は頭以外なくなったんじゃないかと思った。眼球や鼻、耳までもが膨らんでいくようで、それから音が遠のき、すぐに耳鳴りが始まった。僕はそこで立ち上がり、彼はこんな悍しい瞬間を超えていったのか、と驚き、そこで初めて、弾け出したみたいに声をあげて泣き始めた。
エビフライ定食のエビフライ一本と、卵とじ牛丼一口を交換した。彼は今まで一体何本のエビフライを食べたのだろうか。僕は彼と定食屋へ行って、それ以外を頼むところを見たことがないし、家に行って何かを食べるときも必ずそれを振る舞ってくれた。彼の作るエビフライの良い点は、尻尾が取り除かれていることだった。バットに山盛りになる海老を買ってきて、食べながら揚げ続ける。僕に教えてくれれば、交代しているあいだに休みながら、時間をかけて味わうことができただろうに彼は、これだけは教えない、と頑なだった。
海沿いの道を運転するのは、窓を開けていなくても気持ちが良かった。右手にどこまでもある山並みも、落石やらのことを考えなければ非現実的なまでの存在感に心楽しい。約束の時間に間に合わせるため様々に急いだが、それでも制限速度を守っていられる時間は残されていなかった。生まれた国を離れ、恐らくここで死んでいくのだろうと考えると、妙な安堵がある。選べるものと選べないもので、エナさんとシクミのちょうど中間地点に位置するような気がしてくる。
買い替えたばかりの車はハンドルと手のひら以外、どこも馴染んでいない。足はまだペダルを踏んでいる感覚があるし、視界も浅い。それでも思った通りに動いていく機敏性には感心した。窓をほんの少しだけ開けて海風を取り込み、目玉が気付かないくらい静かに瞼を閉じた。