9238字

 何日か、何か分からないけれど大きな、悲しいような気分に圧迫されて、目が覚めている間中の動悸と軽い耳鳴り、聞き取れない程度の幻聴と頭痛で、家から出ずにじっとしていた、動悸のせいか些細な動きでぐったりと疲れ、それでいて眠れるほどでもなく、普段見ない悪夢で飛び起きる、それがまたその日の動悸スタートのスイッチの一つとして作用して、そういった諸々が起きないといいなーと心配になってくる、で、何かするときに、そういう諸々を連れてくるもんじゃなかろうな?と不安になっていき、布団やらソファの上やらで身動きが取れないような気分で、実際は動けるのに動かないことにまたうんうん唸る羽目に陥る、で、一、二日めちゃ元気になって、そっから普通、雨が続くそうで、天候に左右されてまた戻っちゃうかなーとびびっていたけれど、何故かセーフ、やったー。

 それで、何か書きたい気になって、あれこれメモっていたところ、1/22から何か書き始められた。

 初日、33枚ほど、13210字となった、パソコンに向かう前に一塊、メモにがりがりと書き込まれ、あまりに汚いためにほとんど読めないまま、苦労して清書された、間に一時間ちょっと、晩御飯と体を温めるためにコタツへ逃げる時間があったので、もう少し縮められるはず。

まだ本調子でないようで、よく分かんないけど元気がないときの頭の中のうるささが残っている、元気なときは元気なときでうるさいんだけど、種類が違うような、とりあえず明日も書いてみようって気分が湧いている。

 何かしよう、と思えるだけでとても嬉しい。

 今回は確実なお供本が一冊と、そのお供みたいな感じの一冊で、二冊、ありがたいね。

 二日目、昼食を食べに出たり休憩だったりなんだかんだを挟み、11261字、駄目だこりゃ、明日だ明日だ。
 まだ二日目でなーに言ってんだって感じだけど、今回はかなりメモと絡み合っているような気がする。
 正当化するのではなくて、再構築する、言いたいことを、言ってしまいたいことを、成立させる、分解して、別の形へ、全く同じ形へ、構築し直す、それは治療行為に近い?、いくつもある可能性を捨て去ること、書くことは頭の中の急流から逃れること、どこでいつまで立っているか、見極めるのはそこ?、どこまでどうやって逃げるのか、生き延びること、滑っていく筆を制御すること、その運動の軌跡としての書かれたもの、小さな声で話されたこと、涙は俺の中に入りきらなかったものでも、俺の体の中に入ってきたものが起こした反応の結果でもなく、俺の体がそれを拒絶したもの。

 記憶の出来なさや思い付かなさにぐったりとし始めた。
 残酷な世界に生まれたのではなくて、生まれたことそれ自体が残酷で、その中に、これから起こる全ての惨たらしいことが含み込まれている。
 俺がずっと待っている人は、いつかそうなるはずの俺で、それが叶うことはないし、「そう」が何を指しているのかも、いつまでも見当たらない。
 その一文、一文字を書いたことが、生き延びることに直接くっついている、それでいて書くことは、生き延びることは、救われることから遠く離れている。
 正しさが独立していることに悲しみに近い何かを感じる。
 そういうのが人間でしょ、とか、それが大人ってこと、とか、そういう、それがそれってのを言われて納得できたことがない、ほぼ「は?」って感じしかない、そんなことではないよって思うよね、反射的にも、そのあとうんうん考えた後でも。

 三日目、11275字、15章まで来たが、頭の中がシャッフルされている。
 今回は何かを破壊しながら進んでいっているような気がする、頭がぴこんぴこんと痛む、というか、いつも使う部分と違うところを使ってる感じ、それでそこが熱くなって、ちょっと膨らんで、その近辺およびそれが痛いような。

 日毎に減っているのが気になるなあ、ひゅーんとなんかが切れるタイミングが早まってるのかな。
 三日で100枚行くかなーと思ってたんだけどなー、92枚、8枚3200字足りず、まあいっか。

 メモが日に日にカオスになっていって、あっちのページ、こっちのページ、とうざい。

 なにかを感じているときは、それがどれだけ具体的でも大丈夫で、なにかを思っているときは、それがどれだけぼやけていても駄目、全く進まなくなる。
 ギターをぽろぽろ弾きながらほにゃーっと歌っているときの、そんときの脳の感じがいいのかもしれない。

 何か冗談を言われて、それが面白くても面白くなくても、こっちも冗談で返す、そんでそれも、面白くても面白くなくても、それでいいはず。

 相手に「悲しませてやるぜ!」って気持ちが微塵もなくて、それでも何かしらの言葉で悲しくなったとき、長く付き合うだろう人や、長く付き合いたい人に、「これこれこういう理由で悲しくなったっす」と伝えるべきかどうか、結構分からない。

 書いている時間に思われた、どこにも書きたくないことをここに書いて、そうすることで次の日の原稿を新品の状態で書き始められる、気がする、気がしてる!
 書いて初めて考えられる、と思っていたのだけど、書いて初めて考えたいことが出てくる、の間違いかもしれん。

 読めない本、読んだことのない本の文字数やペースを参考にしてみる、最終的な量が初めから大体分かるってのは、その中であればどれだけ崩壊していても、何かぎりぎり、一枚の薄い膜が包んでくれるような感じがある、今回は初めから七日間限定と決まっている。

 推敲が得意な人、好きな人ってのは、本当に文章を書ける人なんだなーと思う。
 ここまででも、推敲されるべき箇所しか持たないような文をつらーっと書いていて、それでもそうしないのは、まあそれなりの意味があるんだけど、とにかく、俺には想像力や文章を書く力はないんだなーと、何かするたびに実感する。

 そう書いてしまった、書かれてしまったものを、それがそう成ったわけを崩さずに推敲するってのがどういうことか、未だにまったく見えてこない。

 実際のところ、それについて考えを巡らせたこともないのに、意識が向いていたことに何度も気付くような日々を送っていないのに、辞書的な、口伝的な、そのような意味でしか把握していない、認識し直していない言葉を使うこと、その使用法にキー!って反応すること、そのどちらからも脱出する。

 言葉がぽんっと出ることと、そのとき考えたり感じたり思ったりしたことは別ですよね、晩御飯のメニュー考えつつ外に出て「寒!」って言う時、寒!って思ってないし考えてないし、ぎっりぎり感じてもないような、やっぱりずっと晩御飯のことが考えられたり、思われたり、感じられたりしていたような。
 だから目上の人や親しくない人の意味不明な発言に、それまでがちごちの敬語だったのに、「え、何で?」とか「ね」とかが口から出てきて、思ったり考えたり感じたことを留められない人として、飄々とした、ある意味で生きる力の強い人に見られたりするんじゃないか、うーん、ただのガキか。

 四日目、10417字、26枚、どんどん少なく、長い時間がかかるようになっている。
 今日は歌いすぎってのもある、最近、シャッフル再生で曲を聴きつつ、聴いていると書けないから、歌いつつ書いていて、今日は四日間で一番ただ歌ってる時間が多かった。本末転倒もいいとこ!
 今日は書き始められるまでに時間がかかった。いつもは、書くかーって思ってすぐなんだけど、書くかーから書かれるまでに、あれこれと別のことをして、書き始めたくなるまで待っていたような感じがある。
 三日やって休む三日やって休む系の三日坊主だから、四日目はほとんどありとあらゆる物事で怠がっている、三日坊主は三日って訳でもないけど、まじ言い得て妙!

 平日は書くことに向いていない感じがするよね。
 金土日って休みのイメージで、月火水木が平日のイメージなんだけど、それは自分がどうとか、実際どうとかは関与できなくなっていて、曜日の意識があるときにはかなり強力に働く。
 同じ時間で動いている人の存在感の強さが変わってくる、息苦しさが増すような。
 途切れ途切れ書かれても問題がない部分と、連続で書かれるべき部分との兼ね合いもある、それがちょうどよく現実の時間と合うといいんだけど、当然そんなこともなく、流れを掴み直すってのに労力が必要。

 てかさ、見えてることを書くんだから、筆が、その技巧面以外で止まることなんて有り得ないでしょ、と思いながら、いやー違うんすよー、と書き進める。

 何かを書くたび、言葉の知らなさ、扱えなさにへこむ、それが目的ではないのだけど、それでもやっぱり。
 どうなれば救われたことになるのか分かんないけどそれは、救われなさを補強している要素でもある。

 あまりに酷いので、日を跨いでからも少しだけ書き足す。明日は歌いすぎないようにしなさいね。

 今回のメモには何度も「見えているものを書け」と書かれている。何度も。
 特に刺激的でもないメモを何度も見直すのはそのせいかもしれない。

 手書きのメモとiPhoneのメモと原稿とお供本っていう組み合わせがめちゃいい感じがする。
 文字の向きも組まれ方も違う、大きさも濃さも、そこに現れる速度も、定着のされ方、その強さや、消え方、その呆気なさ、何もかもが違っている。
 崩壊しかけている俺の脳みそとの親和性がものすごく高いような、そんな具合で、しかも、その四つのおかげで完全に崩れていくのを寸前で阻止してくれている。

 初日と二日目は、「この書き方、書き込み方なら、俺は無限に書けるぜ!」と息巻いていた、というか、思い込んでいたのだけど、脳みそへの負担がやばめで、「それは不可能ですよー」と言われる。

 初めにざらざらーっと書かれて、その最中に「あ、ここは推敲される」、「あ、あそこも推敲される」と思った箇所以外、推敲すべきじゃないじゃね?とよく分からんことが思い付かれる。
 で、そこを推敲した後、「誤字脱字のみを見つけるぞー!」って具合に何度も読まれる中で、それでもピコ!っと反応したところを推敲すればいいんじゃないか。
 書き終えてから「さてさて、推敲しますか」って、気合いを入れ直すみたいなのは、今の俺には合っていないのかもしれない、それは、崖っぷちに立っているような書かれたものを突き落とす行為に近いのかもしれん。
 でも、勢いがのってきたときの「あー、このままいきたい、でもここ書き切れない」って気持ちの扱い方の一つとして「推敲するしいっか」って、後の気合いを入れ直す系推敲をあてにするのは重要な気が、後で推敲されることが分かっているって点では、気付かれタイプとおんなしかな。

 何事でも大体同じだけど、それをやってる最中に感じられたり思われたこと、考えたことや悩んだことと、それから離れて一息ついている最中に感じられたり思われたこと、考えたことや悩んだこと、は似ても似つかない。
 全く別の行為だという認識の元、意識の裏っ側、無意識にいくまではいいから、そのくらいではある方がいい。

 ちょっと前に書いた小説から、歌いながら書くってのが、過集中と集中の狭間に行きやすい気がしていいんだけど、気が付いたらそっちだけになっていて注意が必要。

 書いていると頻繁に、何でこんなことになったんだろう、と思うことが起きて、俺はパソコンの前でただぼんやりしてただけなのかもしれん、と思い始める。
 これまでに書いたものを読み返してみると、より一層そういうことが増える。
 ここ最近で一番よく分からないのが、男と女よりも、男と男よりも、女と女の肉体的な交渉を書いていることで、街中で恋人然とした、外面的判断での上記の三つ、を見ても特に興味を惹かないし、ポルノで思い出してみても、まあまず圧倒的に男と女で、その次に男と男、最後に女と女でこれも、この疑問を持ち始めてから「俺は女の人どうしってのに惹かれてるのかな」と思って見てみたくらいで、なんだろう、男と男の絡みや男と女の絡みを見ているよりも単純な「体って綺麗!」とか「やっぱ男とは全然形が違うなあ」とか、そういうことを思うばかりで、勃起にも至らなかった、結構、ダンスとか相撲とか新体操とかの「まじで?」で思いつつ見る感覚に近い、で、じゃあ何で書かれるんだろう?に手ぶらで帰ってきて、ぽわぽわ浮かんでくることとしては、シンプルな「書いてて楽しい」なんだけど、その楽しさが、知ってることを繰り返す楽しさに近くて、それは肉体の構造的に完全に間違ってはいて、でもやっぱ何かそういう、慣れ親しんだものを再確認するような、まだ記憶に新しい写真を見返すような、そういった感触がある、男と女では、何度も書かれてしまうほど不明のものではないって感じなのかなあ、生理についての書けなさも、何で女と女ばかりになるんだろうって疑問と密接にあるように思う、肉体へは謎の親近感があるのだけど、やっぱり生理そのものについては、いつまで経っても分かることができない、そもそもが人によってもかなり違っているから、それを、よく聞く話としても、体験としても知っているけど、それをそのまま書くことは、書くことにならない、それでも、必要だと感じる箇所に当たり、書こうとする、そうすっと、自分の中の何かと勝手に照らし合わされる、激しい偏頭痛や腹痛が頻繁にあるから、そのどうしようもなさ、痛みからくる吐き気、怒りへのステップの減り方、それらからくる無力さ、それらを含む全体的なものへの苛立ち、等々、そういうものと重なっている部分があると仮定して書かれてしまう、書かれている人の状態が書き足されていく、でもやっぱり全く違う、仮定した重なる部分が、本当にそうだとしても、それを引き起こすあれこれが、俺には起こっていない、とにかく重く書けばいいわけでも、逆に書けばいいわけでもなく、現実と同じように、それをそれとして認識できていなければならなくて、現実に存在する人や状態を損なわずに書き込むということの難しさに飲まれていく、男と女のことを書くのも、男と男のことを書くのも、等しく問題を孕んでるし、「俺は生物学上男だから、男のことはどう書いたって問題ないだろう」って意識がいつ出てきてしまうかも分からないし、それは最低で、俺はまじで書くことに向いていない、じゃあ、妊娠や出産については?と思うが、それは俺が女になったとしてもどうでもいいことなので、書かれることもないと思う、それは原稿の外で考えればいい、ってかまあ、あれこれ書いてるけど単に、それらとの日常での向き合い方の分からなさの度合いに左右されているのかもしれない、女だったとしても日常の中で出産や妊娠はどうでもいいから、どうでもいいってか、相手もこっちも徹底的に避妊するっていう、関わりを絶つ、絶ったからこそ無関係です、だから、どうでもいいと言わせてください!って意味で、生理に関しては、そもそもの肉体的な不調の多さと情緒の乱れ方から他人事ではないように思われていて、ナプキンやらを買いに行くことに抵抗がないことや、その人がそうじゃないときにふとしてくる生理の話とかに嫌悪感がないのも関係してんのかな、「総合的にはこれが良さそうだけど、パケがまじて良くないなあ、ピル飲んだりする以外で抗いにくいのに、何でこんな」と自分の買い物のように考えてしまう、あれこれ調べると、いい感じのやつは大体、実用的な面で「えー」と思うものが多く、俺は結構、気に入ってはない物を仕方なく買うって行為にぐったりするから、もっといいものがあればいいのに、と思う、そうなると、そうなると?、書かれたものの中にそういうのが、そういうのがって言うか、今の世間では多分少数派的な考えの元で書かれた、そういう奴に書かれたものがあると、その俺自身ですら、「いや、なんかそれっぽすぎっしょ」という事態を招く、で、それが技巧面だけの問題とは思えなくて、結局全くどこにも行き着かず、空間を狭めていくだけになる。

 いい文字を書く、とか、いい文章を書く、とかで人を好きになっていた小学生の頃の俺がまだいるのかもしれない、その延長としての書くという行為、みたいな。

 得意なことって、それについて試してみたいことを思い付く回数によって、得意です!と言っていいものなのかもな、とふと思う。
 そうするとやっぱり俺には得意なことがない。

 俺のような呆れ返るくらいの馬鹿でも理解できることなんだから、100人いたら98人は理解できるでしょう!と、「少し難しいかもな」と思われた部分を修正しないのは怠慢か否か。
 一体いつからこんなに馬鹿んなったのか、としょっちゅう思うけど、そんなものはなくて、初めからずっと馬鹿で、馬鹿だからこそ今も馬鹿なのです、という一文の中に何度も同じ言葉が出てくる馬鹿さ、ほら!

 俺は俺になりたいのだと思うようになった。
 本当の俺はこんなんじゃないんだ!とかなんとか、そういうのではなくて。

 こう、長い棒が、100mの白線が、ゴールもスタートもなくて、俺は、こっちの端で反復横跳びしてて、あ!と向こうへ走って、そっちの端で反復横跳びして、あ!とこっちで反復横跳びして、ってのを死ぬ寸前までやってる予感がある。

 好きなアーティストの良いインタビュー記事で、その人の言葉で話していると「ぅぅう!」って感じ。
 いいインタビュー記事も、お供本的に、何か書く時に必要な部分の近くを刺激してくる感じがある、だから無関係とも言っていいんだけど、「お!こんなところも熱くなんのねー」とその実感なり、その感じそのものが駆動力になることもある。

 元気がなくなったときに繰り返される否定と却下が、元気になったときにも顔を覗かせる。
 そうしたい、と思ってしたことも全部意味がなくなる、一瞬だけ、一瞬で。それからずっと。
 爪を可愛く塗っても、本を読んでも、映画を見ても、歩いていても、ご飯を食べても、話していても、笑っても、泣いても、考えていても、書いても、撮っても、歌っても、描いても、漫画を読んでも、感動しても、思っていても、何をしていても、それはすぐに否定される。
 元気ないときって一個か二個かしかものを考えられなくて、その考えを何とかして退けるために、あらゆる角度からそれを覆す、その感覚が、他のものにまで影響を及ぼしているような感じ、に最近気付き始めた。
 引用という形でしか、ぐっときた詩や短歌や一節を書き起こせない、感想や考察という形でしか、好きなものを語れない。
 他人のやる事なす事「いいじゃーん!」って言うみたいに、思うみたいに、俺にも俺が「いいじゃーん!」と言ってやらないと、思ってやらないと、いつか霧散してしまう。

 五日目、9053字、22枚、見事に日毎に進捗が悪くなっていく。
 その倍は書いた気がしてて、カウントしてみてまじでびっくりした。こわ。
 酷い、ので日を跨いでから2000字ほど書き足す、あれ、昨日もそうしたから、結局毎日10000字は越えてるのか、あれ。

 昨日は書き終えてから、脳みその栓が抜けていたようで、書きたい場面や文章がどばどば、どばりすぎて寝付くのに時間がかかった。
 それは結局そのままの形では書かれないから、貴重なアイディアが尽きちゃうよーと思いながら眠ることになり、そんなことには決してならず、さあ!と体を起こす。

 俺は寝転がっているときが最も集中していられる気がする、が、読書も何かを書くのもすぐに凝って、驚きの速度で頭痛へ繋がる。
 肩と腰と首に負担のない状態で寝転がれる寝台が欲しい。

 イヤフォンで音楽聴きながらの方が捗ることに気付き、軽い混乱に包まれる。
 より近いことの、より聞き取られることの、何がよく作用してるの?、たまたま?
 生活音的なものと音楽を同時にきいているのが良くないのかな、なんとなく、音楽は聴くって感じがするし、生活音的なものは聞くって感じがすることと関係ある?、きき方は一種にせえよ!ってこと?
 外国語か日本語かはあんまり関係ない、音の雰囲気やリズムが重要になってくる、流しながらも書けるか書けないかには。
 いや、でも、むしろ静けさを求めているのかもしれない、アルバム単位で聴かないのも、うるさくするのも、数曲を繰り返して聴くのも、そのためかもしれない。

 一つのことに集中し続けられないのと耳を澄ましているってことが混ざって、ごく短い集中すらも千切れていく。

 耳が気持ち悪くならない系の無音の部屋に一人でいたい、まじで。

 想像することは悪!みたいな気分が起こってきた、それは多分、タイピングが止まった瞬間に続きを想像してしまう、その逃げのような用い方に対して思われているんだろうが、果たしてそうか。

 六日目、6632字、残り一日で書き疲れのピークに到達、ぴたっと止まる時間が多かった。
 止まった先の見えなさが最早おもしろい、昨日までなら止まっても、しばらくすると見えてきていたのに。

 言葉や体のために文章を書きたく思う、書いていると違和感のないものでも、口に出してみる、書き直す、口にできるものを書く、いつどこでも書けることを書く、句読点化した語尾の、その居心地の悪さを解消する、「この気持ちは、このくらいの深さにあるものだから、こっちの、普段使わない漢字の方にしよう」みたいな考えを全部捨てる、文体と文脈の鍛錬、口文語を目指す、どうしようもない、繰り返される。

 明日で終わるけれど、それで終わるものではないことが分かっていて、だからこそ?、緊張の糸的なものが切れた感じがある、ふっつーに200000字辺りまでいきそうな気配がある、初期設定をしくじった!
 でも、一旦終える、抜け出せなかったー。

 これまでと違う方法で書かれたから、その中で気が付くことも違ってくる。

 最終日、5652、完全に何かが切れてますね、七日間で68850字の172.125枚、ちくしょー!、100000字はいきたかったのにー、修行することで修行不足に気付く、原稿は84939字の212.3475枚、どういうこと?、吸い込まれた原稿は16089字もなかった気がするんだけど、どっかでちょっとだけ間違えてるのか、あっちこっちと、書けるところから書く!ってのを積極的に行ったためにこんなふうになった気がする、まあいいか。

 で、やっぱ後15061字では終わりそうもない、というかまだ終わりが見えていないので、日々4000字〜8000字で進んで行くしかない、通常運転だ。
 肩と頭の片側がお終い!って感じだから休みたいけれど、達成もしなかったし、続けて書く方がよさそうな、あんまり休むとよりいっそう終わりが見えなくなる気配ぷんぷん。

       

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