暮らすにはこと足りる町に住んでいて、本屋、喫茶店、飲食店の選択肢の少なさに疲れてしまうのは、何時だろうが望めばだいたい手に入る町を知っているからか、望めばだいたい何時でも手に入ることがそもそも好きなのか、どちらか分からない。
夜を過ぎてから、とりあえず開いてるからというのでなくて、いくつかから選べるというのは、選ばずとも、行かなくても、好きで、なんとなく気持ちいい。散歩中に風の抜ける道に出たり、いいなと思いながら読んでいる本で素晴らしい一文に出会ったり、なんか、そのものが初めから持っている可能性を認識させられるというか、なんかそういうの。で、じゃあ、町がそもそも、いつでもどこでも何らかの選択肢を暮らす人々に与えるものか、と考えると、そういうわけでもない気がするけど、とにかく、選ばなかったとしても、選べる事柄が多いというのは気持ちいい。
久々に併読している。へいどくって並読だと今の今まで勘違いしていた。併せて読むのか。感覚としては「並」なんだけど、気をつけないと。
それで、久々に併読していて、その感覚ばっかり求めているんだなと「それで、久々に併読していて、なんだか気持ちがいい」と頭の中で先に書いていて思いつつ、久々に併読しているおかげで、なんだか気持ちがいい。
本も、読み終わって、読み進めている最中に、閉じてしまえば、全然思い出せない。目次を読んだり、少し前の一文から数文読むと全部思い出せるのに、取っ掛かりがないと思い出せない。で、併読をしているとその思い出せなさが加速して、思い出すときには、思い出す取っ掛かりに選んだ本や再び読み始めた本以外の本のことも思い出して混ざる。それが気持ちいい。全く関係なさそうな本を併読し始めて、始められた時点で全く関係ないことはないと気が付いて、それぞれの呼応する部分が、その数冊の本を併読するに至らせたものだと思い始める。
暇があればベランダに出て本を読んでいるけれど、寒さで本が読めない。手先と足先が冷える。それからお腹の芯の方。ベランダで小さめの焚き火ができれば、暖もとれるし休憩がてら眺められるし何か焼いて食べられるし良いことづくしなのに、おそらく想像しているよりも早く通報されるだろうと思って、しないでいる。
料理を作っていると、あれやこれや悲観的なことを考えて疲れてしまう。何かを切っていたり、調味料を選んだり足したり、焼いたり煮たりしてるあいだずっと妙に悲しい。工程を多くしたり、いつもより丁寧にしたりしても、間延びして余計に考える時間が増える。それで袋麺とかパスタとか、一、二工程で出来るものか食べないか外へ食べに出ることになる、でもキッチン自体は好きだから、椅子やらパソコンやら何やら持ち込んで、休みの日は一日中キッチンにいる。食材を切ったり煮たりするのも行為としては好きで、じゃあ一体何がこんなに悲しい気持ちにさせるのか。
メルヴィル はカフカよりも読みやすい。もっと古典的な作品を読みたい。光文社古典新訳文庫は読みやすいような読みにくいような、どちらも感じて、変でおもしろい。『バートルビー』は読みやすい八、読みにくい二くらいで読み切れた。表紙の線画が可愛らしいので他のも読みたい。それで、今『神を見た犬』の作者のディーノ・ブッツァーティをWikipediaで見てみると『幻想的、不条理な作風からイタリアのカフカと称されることがある。』と書いていて、原典は記されていないけれど、「またカフカかよ」と少し感動して、俄然読みたくなってきた。「犬!」と思ったくらいで手にした本が、なんとなしにこんなふうに繋がると、読書の範囲が拡大されるみたいで良い。メルヴィル の『漂流船』とともに読み進めよう。
本を読み始めたきっかけのようなものが何か、全く思い出せない。かなり小さい頃は、母親に絵本を読み聞かせてもらっていたらしいが、そんな気もする程度にしか覚えていない。小学生の頃も児童文学等を読んでいたわけでもなく『かいけつゾロリ』とかなんとかを読んでいた気がするし、中学生になってからとにかく気になったものを読み始めたのが何故かは思い出せないし、こんな気がする「こんな」も思い付かない。
それで、その時仲良かった、今も仲の良い友人と本屋をうろついていて、なんとなく目に付いたのを「これ買ってよ」と冗談を言って、なぜか買ってくれた『風の歌を聴け』と、家にあった『人間失格』と、親について行った旅行先で買ってもらった『本当はちがうんだ日記』から読書が始まった気がする。旅行先で休憩に寄った喫茶店かなにか、多分駅構内、から何となく急いで本屋に買いに行く姿が目に浮かぶ。定かではないけれど。今は『人間失格』も『本当はちがうんだ日記』も読めなくなっている。
そういう、割と長いあいだ楽しんでいる事柄の発端がだいたいどれも思い出せない。絵を描くことも好きでぽつぽつ描いているけれど何故か分からないし、幼稚園か小学生の頃すこしのあいだ通っていた絵画教室のようなところでは迷路ばっかり書いていた記憶しかない。音楽は家族のだいたいの人が好きで、身近にちゃんと音楽をしている人がいたから理由がはっきりしている気もする。何故いろんなことを思い出せないんだろう。二年前の夏からカメラが旅の必需品に加わったけれど、それまでiPhoneとかお下がりのデジカメで撮っていたことはあれど、何故かよく分からない。そもそも色んなことのスタートに明確な理由が必要なわけでもないし、何となくでいいんだけど、ただ気になる。ふーんと思いたい。