二年前に何かで知ったゲーリー・スナイダーと山尾三省の対談本があるらしく、恐ろしい気すらしつつ、楽しくてしょうがない。
で、新潮文庫の『ファウスト』は初めて読んだカフカの『変身』の訳者である高橋義孝さん、集英社文庫ヘリテージの『ファウスト』は二冊目のカフカの『カフカ寓話集』の訳者である池内紀さん、というわけで『若きウェルテルの悩み』や『ヴィルヘルム・マイスターの修行時代』等々は後にまわそう。
ということは、山尾三省『火を焚きなさい-山尾三省の詩のことば』、共著『聖なる地球のつどいかな』、ゲーテ『ファウスト』という月が訪れそう。
追加するとすれば、ゲーテ『色彩論』と山尾三省『びろう葉帽子の下で』か。ビロウがビンロウだったら、たまたま読んで結構好きだった中島敦の『夾竹桃の家の女』と繋がったのにな、と思うがそれは無理矢理過ぎる、だから自然に繋がらないんだ。
好きな俳優の一人、柄本佑さんはベケットの『ゴドーを待ちながら』と繋がっていて、彼は、見過ぎているYouTuberと繋がってもいて、言葉が好きな柄本明さんも若い頃『ゴドーを待ちながら』を上演している、ってことは三部作よりもそっちを読むべきなのか。
翻訳ものは新訳を読むべし!と思っていてでも、三部作は以前の装画というか非常にシンプルなあれが好きで、しかも『名づけられないもの』より『名づけえぬもの』の方が好きだから、やっぱり『ゴドーを〜』か。
あとは買って読むだけ!って状態にしておきたくて血眼になっている。とか言って読めなくなったりしてな。
そもそも本を読めない奴が本をいっぱい買うなよ、とも思う、思いながら買うしかない。いつか読めるようになったら、そこには読むべき本しかないというような、そういうところになっていれば。
訪れなかったとしたら、弟たちや、極めて低い可能性のもと現れた子孫が読めばいい、と気楽にいこう。
泉鏡花の『外科室』、読めな!と思ったけれど、朗読なら大丈夫だった、「その声、その呼吸、その姿、その声、その呼吸、その姿。」で体中の細かな毛が立った、そこまでの景色が一気に押し寄せて、そこに集約されるような、その速度に総毛立ったような、体がその速さを恐れたような、だから、思いと体は別々だったか。
中学生の頃にあった走馬灯の感じを思い出した。別の時間が、始まりと終わりを同じく流れていく感覚、そういうの。
というか俺、泉鏡花記念館行ったことあんじゃん。弥生美術館の『文豪・泉鏡花×球体関節人形 迷宮、神隠し、魔界の女』観てんじゃん。で、俺の中では石川県生まれということで本谷有希子と、なんかで読んだ尾崎紅葉の『二人比丘尼色懺悔』と連なる。もっと鏡花を読んでおけよぉ!
自分の中だけで、結びつけたり連想したり、連関を意識したり、こじつけたり、関係妄想的に繋がりを見つけたり、うれしい!たのしい!大好き!
いつか舟越桂さんの彫刻と球体関節人形を迎えたいなあ。子供や犬や猫などの小動物と同じくらい接し方が分からない。金銭的に難しいというのも当然あるけれど、そんなことよりも、こうしてああしてと工面できないところで躓く。
長芋やオクラを延々食べたい。