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 三人で話していて、いつも通り(ちょっ、話し過ぎ話し過ぎ)と思いながら話し過ぎていて、一体いつになればやめられるのか、というか、1に対して10も20も返すのを抑えられるのか、と思いながら、そこから離れたあとにも思いつつ、思い返してみると年々酷くなっている気がする。
 じじいになった際、1に対して80も90も返して、孫や曾孫に長話じじいと呼ばれないためにも、今から訓練せねばと思うが、そうするとまだ極端さが強い俺には1に対して0.5もしくは0みたいなことになりそうで、というのも、明確に求められていないこと以外こちらから何か言う必要は本当はないと思っているからで、でもそうするとつまらないとも思っているから10も20も返していて、だから抑えなくちゃと考え始めた訳だけど、あれ、あれあれ。

 で、その流れで、具体的なことは避けるが、その流れで「ずっと前に言ってたことを、このことか!と気付くことが多い」というようなことを言われて、素直に嬉しい、から、言っていただけて、友人だから、言ってもらえて、だから素直に嬉しくて、で、それは10も20も返すからそのときに処理し切れないということと、10も20も返すからこそ、数打ちゃ当たる的に後で思いあたるということでもあるだろうし、ありとあらゆることと同じく、全てが無駄、その全体が悪い、なんてことはなかなかないねと。
 で、思い返してみると、俺は誰かの言葉、条件を合わせるために声での、誰かの言葉に後で思い当たるみたいなことがなかったかもしれない。
 誰かの言葉を書き残しておいて、それを見て、ぉぉおう、みたいなことはあれど、書き残していない声での言葉を、まず思い出すことがない。
 で、それはものすごく悪い癖のようなものを始点に起きているような気がして、誰かと話しているとき、そのすべてが理解できる、できていると勘違いしてしまう、専門用語的なことはそこで「なんですか?それ」と聞くし、そうでなくても分からないことはその場で「〜〜〜ってことですか?」と聞くし、そうでない部分はなんもかんも分かっている気で聞いてしまっている、あ、違う、なんもかんも翻訳しながら聞いてしまってる、「〜〜〜ってことですか?」に至るほどでもないすとんと分からないことを勝手に翻訳してしまっている、それもそうしている意識もなくしてしまっている、とても良くない感じがする。
 で、何でそんなに思うかと言うと、人と人の関わりでそのような、言葉を、声の言葉を、それを思い出して生活が回転することの豊かで温かな感じは、当然というか、あるべきものだろうと思えるもので、単純に羨ましいのかもしれない。

 何もかもで未熟な点しかない、未熟が故にその点から形作られる、俺の全体像は歪んでいる。
 綺麗な正八角形で生きたい感じ。何角形でもいいけど。成熟しなくちゃいけない。

 というようなことを思っていて、思っていたからこそ思ったようなことで、想像というものがあったとして、俺の中でそれは「想像されている」っていう感触がある。
 本でも人の話でも音楽でも、このような言い方は不本意だけれど、直接体験でないものから体験する際に、歩く・走る・食べる、のように想像「する」ということができていないように思う。
 それは勝手に想像されていて、俺はそれをずっと想像している、と思い込んでいただけではないか、だから想像力のようなものは、筋力的に考えるとまだまだ未発達で弱いのかもしれない、いや、想像力を使う力が弱いということなのか、想像力自体はわりと強靭に働いてくれているような気がしないでもない。
 というふうに考えると、訓練で確実に培えるはずで、そうすると「うわっ、ぜんっぜんわかんね!なんやこれこれこれ」って本やら音楽やら絵やら何やらを一つ決めておくのがいいのかもしれない、一つと言わずいくつでも、いや、いくつもあると系統が違う場合もあるだろうから、訓練がややこしくなるか、いや、甘えてはいけないか、とにかく定点があると「うっわ、ぜんっぜん見えるもん、感じるもん違うっすわ」ということに気付きやすいかもしれない。

 というようなことは、ついつい「もっと想像力をさ〜」とか言ってしまいがちな、舞ってる木の葉ばりに目にうつるニュースや街での様子に当てはめてみても、何となく納得がいくというか、まあそっか、という程度には落ち着く。使い方の知らない道具は間違うこともあるもんね、と何様?な雰囲気を帯びて頷く。

 

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