いつまで経っても、路上での女の人との距離感が分からない、昼間でも人気のない道で、ばっと路地を抜けるとそういう道、初めから結構近いところを彼女がすでに歩いてる道で、気付かれた時点で、必要以上に離れるのも追い越すのも、どちらであっても、恐怖のようなものでも、そういった類のものを感じていたらどうしよう、悪いことしたなと思うのは、彼女が、例えば遠くから見えているときにさえ、小柄であったり細身であったり、肉体的に俺よりは壊れやすそうだった場合より一層、悪いことしたなと思うのは、差別なのかもしれない、それは差別ではあって、するべきではない考え方、感じ方なのかもしれない、それはするべきではない考え方、感じ方でもあって、それは彼女のことのみを考えて、一切の恐怖、それに類するものを感じない距離を探ろうとしている訳ではなくて、俺が俺のまま性だけが変わったと仮定したとき、その多くは自身より大きな別の性の生物が微妙な距離、近く、怪しげに遠くにいることを怖いと感じるからで、だからこそするべきではない考え方、感じ方を元にした差別だと感じているのかもしれない、この場合「だからこそ」というのは何も説明していないし、繋がっていない、で、じゃあ俺は、男として、その多くは自身と同じくらいの同じ性の生物が微妙な距離、近く、怪しげに遠くにいることを恐れていないかと考えると、俺が俺のまま性だけが変わったと仮定したときよりは恐ろしくないが、結構怖がっていて、それはその多くは自身より小さな別の性の生物が微妙な距離、近く、怪しげに遠くにいることよりは当然のように恐ろしくない、どうしよう、昼間ですら人気のない道だと、どうしようどうしようと思っているのに、夜だった場合それが何倍にもなって、カメレオンかコノハムシのように街に溶け込みたいと思う。
高いビルを見上げていると、誰か飛び降りてくるんじゃないかと、身近でない人の死を目の当たりにすれば、どちらにせよ何か踏ん切りがつくんじゃないかと、横断歩道の先のマンションを見ていて思うが、どこにも接続されなくて、分からない。
読んでいる本に『垂直の記憶』が出てきて、YouTubeにて山野井泰史、山野井妙子夫妻の動画を観ていた。グリーンランドのミルネ島にある「オルカ」と名を付けた岩壁を登る動画、二人はその五年前にギャチュン・カンで手足の指をあまりにも多く失っていて、それでいて完璧にピュアに、岩壁を登る楽しさに夢中になっている、その姿のまっとうさに涙ぐむ、そりゃそうですよね、と思う、したいことをしたいようにした結果に一切の悔いなんてないし、あればそれは不純物があっただけのことで、外部の人間が見ると苦労や努力に見えるものは、夫妻にとっては大前提としてもう考えるまでもないくらい当たり前のことで、というか、それらはきっと苦労や努力でもなくて、とにかく溢れてどうするべきか、その熱意を向けられるものがしっかりと見えていると、それとの関係性以外消え去る、他は本当にどうでも良くなる、そりゃそうですよね、とんでもなく普遍的なことで、なんていい映像を観たんだ、ポジティブとかあっけらかんとしているとかでなくて、失われつつある、人が何かと向かい合ったときの通常の状態というのか、あー!