私たちが車へ戻るとペンコは起き出して、うわっずる、とだけ、また眠りの中へ帰っていった。
「ペンコしょっちゅうずるいって言うよな」とクスノキ。
ささらは「起こしてあげれば良かったね」と、「口癖みたいなもんだよね」と私。
慣れた手つきでカングーを走らせる。
「いい車だね」
「でしょー」
「うん、乗りやすくて運転しやすくて、でもちょっと癖があって」
「愛着湧くよね」
「欲しいもん」
「まー、そっちだといらないもんねー」
十五分ほどの運転で、少し見覚えのある、ささらの家へ続く道に入る。
これほどまでに暗い公道があってもいいのか。
生き物の気配を感じない夜道は余計に空恐ろしかった。
立ったときの肩くらいの高さに小さな灯りが遠くに見える。
ひとまずそこを目指すが、そこがゴールだった。
藤富、の表札が淡く照らされている。
「あ」と減速する。
「どうした?」とささら。
「表札光ってたっけ」
「あ、消し忘れてた、ってかつけ忘れてた?」
「初めて見た気がする」
大きく膨らんだ右折にGを感じる。
適当な場所に車を停め、着いたー、と首を回した。
みんなが家の中へ入ってからようやくペンコは起きて、小走りで玄関の方へ走っていった。
外よりも寒い室内で、ささら以外はストーブの前に寄り集まる。
彼女は簡単に火をつけて、お酒飲む?、と立ち上がった。
私たちは震えながら頷いて、微かな炎に手をかざす。
足音が遠のき、ふわあっと温もりが広がっていった。
まだ誰も上着を脱いでいない-前すら開いていない-のに、ささらは薄手のセーター一枚で戻ってきた。
思えば彼女は昔から薄着だった。
しばらく付き合ってみよう、と数週間ほど付き合ったことがあったはずで、その頃に何度か一緒にお風呂へ入ったが、彼女の体は薄くて、だから脂肪も筋肉も印象的なものはなくて、どうしてひときわ寒さに強いのだろう。
出身地がどこだったか思い出せないけれど、特徴的なほど寒い土地ではなかったはずだ。
環境に対して対応する力が高いのだろうか。
ペンコが極端なほど寒さに弱いのは知っているけれど、私もあたるちゃんもクスノキも凍えている中でささらが平気な理由が見つからない。
抱えられるくらいの盆に徳利が二本と人数分のお猪口が載っている。
ストーブを囲んだ中央に盆が据えられた。
私とささらでそれぞれ八分目まで注いで、一斉にお猪口を手に取った。
全員が一息で飲み干し、クスノキとあたるちゃんが二杯目を注ぐ。
二杯目は時間を置いて二口、三杯目は短い間隔で四口、四杯目はまた一口で、そうして火は大きく育ち、私たちは内側にも熱を感じ始める。
あたるちゃんと私は上着を半分くらい脱いで、クスノキも前を開けた。
ペンコだけが震えているようにも見えてくる体勢でいる。
体が暖まるとそれぞれの匂いや日本酒の匂いが知覚されるようになった。
クスノキの強い香ばしいような、あたるちゃんのしとっとしたレモンのような、ペンコの粒状に甘い、ささらの濡れた古木のような、熟れた果実にも似た大吟醸の、めいめいの匂いが、起き上がったみたいに分かる。
「買ったやつ」とあたるちゃんが立ち上がり、何故かみんな式台に置いたままの袋を取りに行った。
戻ってきた彼女を中腰で迎え、袋を受け取る。
盆の上に取り出して並べ、またしばらくお酒だけが続いた。
一時間か三十分か経ってようやくペンコがコートを脱ぎ、私たちの円は少し広がっていた。
この短い時間にどれだけ飲んだのか、普段の量や酔い具合とあまりに違うために分からなくなってしまう。
ついつい進んだからといって酔いが酷いわけでもないし、まだ大丈夫だろうと立ち上がってぐらつくようなこともない。
焼き鳥や煮魚の缶詰はもう空っぽで、あとはするめやジャーキー、ナッツなどの乾き物ばかりだ。
クスノキが何度目かのトイレに立ち、その後ろ姿を眺めていたあたるちゃんがつられたように立ち上がる。
残りの三人は彼女を見上げ、「だし巻き、つくります」と告げられた。
私は膝を立てたまま寝転んで、つやつやした天井を眺める。
ペンコとささらは小さな声で何かを話していて、戻ってきたクスノキが私のお腹辺りを跨いでいった。
何となく窓際に目がいき、寝転んだ彼と目が合う。
「疲れてないのか?」
「うん?」「あ、運転?」
「とか」
「全然、短かったし、道もね」
クスノキの声は畳を通して背中側から響き、私の体の中を通って聞こえてくる。
私は左手を伸ばし、胸の上にあるクスノキの右手の甲に触れた。
「ほとんど分かんないな、指」と彼は言う。
「うん、なんかまだ感覚が薄い気がするけど」
つわーっ、と、熱されたフライパンへ溶き卵が流れ落ちた音が聞こえる。
左手がクスノキの胸に触れ、彼は右手を伸ばして私の左腕の付け根を握った。
そこから肘を少し過ぎるあたりまで、程よい力で揉みほぐされていく。
「血行が悪い」と呟いて、また根本から、先より少し強い力が加えられた。
私は右の側頭部から後頭部にかけて二人の緩い視線を感じていて、それに気が付くとクスノキの手が性的な感覚に接続され始める。
視線を天井へ戻し、濃淡を空見して何かを形作った。
仔犬、かまぼこ、ビーカー。
温度計、風呂桶、樹木。
カンテラ、烏、小人。
フライパンが五徳にぶつかる音が木の爆ぜる音に混じっている。
下腹部に集まっていた血が散らばったように意識から外れ、体が汗ばむくらい熱くなっていた。
しゅちっ、とライターの音が聞こえ、右目の端に細く渦巻いた煙が二筋よぎる。
足を伸ばして息を深く吸い込んだ。
もう出汁巻の匂いが鼻の中にあった。
二人はまだ何かの話をしていて、切れ切れに聞こえる声は真面目そうだ。
私は血中や体内のアルコールを思い浮かべる。
誰かの頭の重みが右腿にのって、「明日もどっか行きたいなー」と、ペンコの声が近くなった。
途端にささらの声も聞き取れるようになり、「でもペンコが行きたがってたところは大体閉まってるよ」と答える。
菱形に近い皿とあたるちゃんが戻り、見上げていた天井が隠れた。
ささらが私とペンコの交点から-だから彼女が見えていた天井も見えなくなった-身を乗り出し、盆の上を片す。
お皿が置かれ、天井が現れた。
私とペンコは体を起こし、ストーブに向かって座り直す。
膨らんで揺れる出汁巻が食欲を呼び起こした。
四人がほとんど同時に箸を取り、一切れずつ一口で食べる。
あたるちゃんは各々が何か言うまで少し離れた位置に横座りしていて、うわあ、とか、うま、とか、あー、とか、うまいな、とか、そんな声が出ると箸を取るために腕を伸ばした。
味付けもタイミングも量も最適で、知らないうちになくってしまう。
「隠し味的に雪雀ちょっと入れました」とあたるちゃんが言って、「だからこんなに合うのかな」とささらが呟いた。
「雪雀?」とペンコ。
「ずっと飲んでるだろ」とクスノキが答え、また寝転がった。
「あ、これ、そうなんだ」
私も寝転がって、そうするとペンコも右腿に頭を載せる。
じゃっじゃっ、と擦れる音がして私の頭が浮いた。
さっきまでの姿勢でずれたあたるちゃんが持ち上げていて、その隙間に両膝が差し込まれる。
上目遣いで彼女を見、目が合うと優しく瞼を閉じられた。
「水族館は?」とペンコの声が、あたるちゃんの後ろの方から聞こえる。
「開いてないじゃないかなー、あとで調べてみるけど」
「何ですか?」
「明日どこ行くか考えてるんだって」
「あたるも何かない?」、ペンコの顔があたるちゃんへ向けられたのが分かる。
「うーん」と決めかねる彼女のお腹がくるくる鳴っていた。
「クスノキ送ってからさ、そのまま家に戻るのはあれじゃん」
「まあねえ、でも思いつかないなあ」
暗さが何段か増して、彼女の手のひらの冷たさを感じる。
骨が小さそうな、だから、柔らかい範囲の広いような手のひらだ。
眉の下と鼻梁の付け根が冷やされ、漏れ出たみたいな眠気が全身に広がっていく。
ほぐされた左手から徐々に弛緩していった。
浅く短な眠りが繰り返され、いくつも夢を見る。
歩道橋の上でけん玉を練習する夢、波打ち際をくねくね走る夢、街中ですれ違う人みんな何かを散歩させている夢。
首がずっと伸びていって、というのは感じないけれど、頭だけがどんどん下降していく感覚があった。
くぐもった声が色んな方向から聞こえてきて、私は後頭部で何かを割きながら落ちていく。
きぬずれや声を包むようにストーブの小さく乾いた音が散らばっていた。
「腹減ったなー」とクスノキ、私は頭の中で「確かに」と返す。
ペンコは「分かる」と言って、「ファミレス行く?」とささら。
私は思わず「うわっ」と声を出した。
視線が集まって、あたるちゃんの手が離れる。
「どうしたの?」とペンコ、「や、あまりにもファミレス最高過ぎて」と、固く瞬きを繰り返しながら体を起こした。
クスノキとささらが笑い、「何か嫌な夢でも見たのかと」とあたるちゃん、「行こー!」とペンコが応える。
すぐそこ、とは言えないファミレスまではささらが運転してくれた。
ジョイフルという名前で、何故だか懐かしい気持ちが湧いてくる。
広いのに間隔の狭い駐車場で何とかカングーを停め、溢れ出るように車外へ。
天井があるせいか、屋外よりも空間の広がりを感じる。
暖色でまとまった店内で、いくつかのグループが話し込んでいて、私たちもその中へ加わった。
クスノキとささらが並び、ペンコを真ん中に窓際があたるちゃん、通路側に私が座る。
私とペンコとクスノキはちゃんとお腹が空いていて、チキン南蛮、チキンステーキと明太パスタ、ミックスグリルを頼んだ。
人数分のドリンクバーと、あたるちゃんとささらの軽食、私たちもつまめるようなものも頼んで、クスノキと私がジュースやらを取りに立った。
ランニングあとの高揚感、だから私の体に収まりきらない興奮が浮き足立たせる。
「楽しそうだな」とクスノキは笑って、楽しいよー、と腕に抱きついた。
「ペンコなんだったっけ」
「レモンスカッシュ的なやつ、なければファンタの何か、って言ってた」
「ありがとう」
最初に出てきた唐揚げとフライドポテトをつまみつつ、煙草を吸いながら何でもない話が延々に続く。
「クスノキ明日帰らずさ、このままささらんとこに住み着こー」とペンコ。
「前例があるから怖いですね」
ささらは「確かに」と笑い声をあげ、私は何も言わずに微笑んでいる。
「引っ越すときは俺も合流するわ」と、そんなこと考えてたんだ、と嬉しくなってしまう。
「いいですねえ、何かお家もささらさんの家も、私たちの過ごし方に合ってますよね」
私は頷きながら「確かにね、ちょっと広めの部屋が二つ、隣り合ってるってのがいいのかも」と返す。
「私はどこでもいいから、次はどっちももうちょい広いとこ行こうよ」
「それもいいね」
「ささらはいつまでこっちにいるの?」とペンコは手を伸ばし、グラスを包む彼女の指に触れた。
「今年は、少なくともまだ半年はいると思うなー、来年はまだ全然分かんない」
「海外とか、も有り得るんですか?」
「有り得るね、今だって台湾かオスロにいたかもしれないし」「オスロ!」
「え、そうなんですか」
「何か言ってたねそれ」
「覚えてる?」
「うん」
「台湾と宇和島は同じような条件だったんだけど、オスロのはちょっとその時の私にはハードル高くて」
ペンコは「どういう?」と、ささらの指をたたた、たたた、たたた、と撫でている。
「んー、新しい陶器ブランドを立ち上げるのにって、職人さんたちに教えたり、デザイン出したり、あちこち営業行ったり、今は小さいけど、工場で生産できるように釉薬とか土とか、いくつもいくつも試したり、波佐見焼きがフィーチャーされたの知ってる?」
「何か見たことあるかもー」
「うん、そういうふうに、愛媛には砥部焼があるんだけど、昔からあるいいものを、盛り上げようって」
「すごいなー、オスロのはそういうのじゃなかったの?」
「そっちはもっと一人で頑張らなきゃいけなくて、というか、藤富ささらの作品、として作っていかなきゃいけなくて」
「それも楽しそうじゃん!」
「いいね」
「うん、今だったら、チャレンジしてるかもしれないけど、その時って別にそういうことにあんまり興味もなかったし、あとわたし言葉覚えるのめちゃくちゃ苦手なんだよね」
「言葉?」とあたるちゃんが首を傾げる。
「うん、何か手先でもの覚えるのは得意なの、目瞑ってても大体何でも当てれるし、点字もすぐに覚えられたし」
「点字!すご」
「で、好奇心も強い方だから、色んな人と話したい気持ちも強いし、英会話習ったり、集中的に勉強してみたりしたんだけど、全然駄目なんだよね」
「何か意外です」
「そう?」「耳もそんなに良くないと思うし」「つぐみはそういうの得意じゃない?」
「うーん、でももうほとんど話せないと思う」
「え、話せたの?」
「一人ですらすら話すのは難しいけど、大体意思疎通は取れてたよ」
ほぼ同時に全ての料理が運ばれ、テーブルの上は途端に賑わった。
ペンコは指を離して、どうしてか両手を愛おしそうに擦り合わせる。
「何で今は駄目なんですか?」
「や、そもそも単純に、そのとき大学で仲良かった人がポートランドの人で、その人と話すために覚えたようなもんだし、あっちが合わせてくれた部分もかなりあっただろうしね」
「むしろ二人の間でだけ通じそうだな」
「うん、そんな感じだと思う」
「でもつぐみは耳いいじゃん」
「どうかなあ、大抵は何言ってるかは分かるけど、それって単語覚えてる数が結構あるってだけな気もするし」
「エビフライ一口ちょうだーい!」「そういうもんかなー」
「ミックスグリルのエビフライやるわけないだろ」
「ケチだなー」「ペンコはオスロに何か思い入れがあるの?」とささらが訊ねた。
「ううん、ムンクの絵が好きなだけだよ」
「叫びの?」
「うん!チキン南蛮は?」
「ん、あげるよ」
「やったー、見習いなよークスノキー」
「ミックスグリルのエビフライはミックスグリルの要だろ」
「私は叫びより接吻と吸血鬼が好き」
ささらと私は同じ声で「ああ」と漏らす。
「全然知らないです」
「ペンコはエッチングのが好きでしょ」とささらが言う。私もそう思ってた、と言いたい。
「さすが元美大生!あれが一番好き」
「どこがいいの?」と、私は半ば身を乗り出す。
「うーん、これはストーリー的に観過ぎてるんだけど、ほんと、やっと会えた二人が、しかも出会い直したってか、初めて会ったわけじゃなくて、多分、このあとまた長い間会えなくなることが二人とも分かっててね、この瞬間のためにこれまで生きてたくらいの勢いでキスしてるの、裸で、カーテンも開いたままで、結構近いところに同じくらいの高さに建物も見えるのに、でも二人とも、肉感とか混ざって描かれた顔のとことかはエロく見えるんだけど、手!、手は全然これから先が予想できないところにあって、だからその、とにかく今この目の前にその人がいることを心底喜んでるみたいな手の位置というか、確かめてるみたいで」
「これですか?」とあたるちゃんがiPhoneをテーブルの中心へ置いた。
私とささらが思い浮かべていたものだ。
「それ!肩と背中にあるでしょ?これが胸と腰だったら、展開というかセックスしそうじゃん、でも首から下に全然やらしさが感じられなくて」
「ああ」
「どこも同じ質感なのはエッチングのせいだけど、私が感じてることとマッチしててさ、全部一緒なの、全部なくなるし、全部ここに留まらない」
私はペンコの話に耳を傾け、チキン南蛮はどんどん冷えて硬くなっていく。
明太パスタを巻き続けるペンコは立ち上がりそうな勢いで話していた。
「遠近感が薄いのもみんな同じ位置にあるみたいだし、足元、ここ、何かこんなサイズのものが立つには点が小さいじゃん?、描かれてるもの全部が不安定で、色んな部分が色んなことのメタファーなんだけど、それでしかないようにも見えて」
あたるちゃんも真剣な表情で、右手でつまんだフライドポテトが萎びていく。
食事を続けているのはクスノキだけで、それでも顔はペンコへ向けられていた。
「言われるとそういうふうにしか見えない」とあたるちゃん。
ペンコはやっとパスタを食べて、もぐもぐ聞こえてきそうに噛んだ。
「二人は?好きな絵教えてよ」
「私はー、結構昔からジョンルーリーの絵は好きだなー」
「どんなだっけ、名前は聞いたことある気がする」
「まだ好きなんだね」
「うん、あ、それそれ」
腕を伸ばしていたあたるちゃんは手を引っ込める。
「へー、なんか意外かも」
「観てるとじわーってやる気湧いてくるんだよね」
「やる気?」とクスノキが訊ねる。
「うん、頼まれたもの作ったり、自分のために作ったり、色々あるんだけど、どうしてもこう、自然に体が動き出さないときってあるじゃん?」
「あるな」「うん」
「そういうときに眺めてるとふっと軽くなるんだよね」
「へー」とペンコは小刻みに頷いた。
「うん、だから好きな絵ってか、好きな画家かな、ごめん」
「つぐみは?」
「私はずっとベーコンかなあ」
「二人とも意外だなー」
「ずっと言ってるよね」
「うん、ベラスケスの絵を下敷きにした絵があるんだけど」とあたるちゃんの顔を見る。
彼女は「ベーコン ベラスケス 下敷き」と調べ、見知った絵が表示された。
「あ、観たことあります」
「うん、かなり有名な絵だけどね、惹かれるんだよね」
すでにかさかさし始めた平皿のライスを一口食べた。
「すっごい音聞こえてくる気がしない?」
「音がすごい?音量?」とあたるちゃんは目を上げる。
「あ、音量、画面が暗いし表情も表情だから恐ろしい場面にも見えるっちゃ見えるんだけど、そういうのあんまり関係なしに、こんなに音が聞こえてくるような絵って他にあんまり観たことなくてさ」
「顔の、口辺りだけくっきりしてるのも、叫びそのものっていうか、おっきい声ってそんな感じじゃん?」と私は身振り手振り、何の意味があるのか。
「そう見える、というか、そう感じてくる気がしますね」
「接吻と比べるとその、ストーリー的なものがかなり希薄じゃない?」
「あー、妄想はできるけどね」とペンコ、「苦しそうには見えるもんね」とあたるちゃん。
半分齧ったエビフライが明太パスタの皿の端に置かれ、ペンコは「ありがとー」とチキンステーキを一切れミックスグリルの鉄板の上へのせる。
「あるからいいよ」とクスノキ、私は「クスノキは好きな絵とか、画家とかいる?」と言った。
「いや」と何か思い出すように首を傾げ、「いないな」と続く。
「自分の興味で絵見に行ったこともないしな」
「お塩取ってー」
私はペンコに小瓶を手渡す。
「あたるちゃん何か飲む?」
「めんどくさいのでもいいですか?
「え、いいけどそんなのある?」
「じゃあ、ティーバッグのピーチかマスカットお願いします」
「あー、おっけー、ささらは?」
「オレンジジュース」
「はーい」
擦り切れているのに不思議と柔らかいフロアを横切った。
饐えた匂いと下水の匂いで店内は充満しているが、嗅覚は適宜麻痺する。
私は髪をほどいて頭を振った。
首筋から頭へかけてあった強張りがましになって、知らないうちに上がっていた肩が下がる。
マスカットはなかったけれどピーチの方はあって、包装を破いてカップへ、コーヒーマシンの湯を注ぐ。
その間にオレンジジュースを入れて、マシンにうつった自分が澄香に見えた。
ただそう見えただけで、掻き乱されるような部分は残っていない。
瞼を細めてまじまじと見る。
ほんの少しだけ顎のラインが変われば、あとは鼻筋か、彼女へ特にどのような印象も持っていない二度目か三度目かに会う人なら騙せそうだ。
行きにも通り過ぎたテーブルの四人組が私を見る。
男が二人、女が二人で、それぞれに一人ずつ私を目で追った。
視線というのはきっと見える見えないとに関わらず、距離に限界があるように思う。
振り返ってみたところでその姿が正解を表すのかは分からないけれど、男の視線の方が、長く私へ接触していた。
それはしかし、私の見当識の範囲が狭いのかもしれない。
最初にペンコと目が合って、それからあたるちゃん、クスノキ、と視線が接木されるようにつながる。
ささらは一瞥で湿気たナチョスを食べた。
「女の子かと思った」と、席へ着いた私へペンコが言う。
それぞれの前にグラスとカップを置き、「髪下ろしてんのみたことあるじゃん」、と髪を括り直した。
「いや、つぐみってことは分かるんだけど、何かそれとは別に」
「パフェとか食べない?」とささらが話を逸らしてくれる。
目配せもないし、声の調子も変わらない。
「あ、食べたい!」
もう意味のない「つぐみは?」という問いかけと視線でささらの意図を知る。
「私も食べようかな」、視線をメニューへ落とし、私たち二人に流れて過ぎた時間を思った。
まだ二桁ではないから長いとは言えないのかもしれないが、一番古い友人であることを忘れていた。
チョコケーキを二つとパフェを二種類頼むことにして、ボタンを押して店員を呼び寄せる。
二時間くらいはジョイフルにいたのだろう。
空の暗さが深まっていて、冷気も鋭く執拗だった。
カングーまでみんな小走りで、どっちが運転する?、というようなやりとりもなく、左の方を進んでいた私が途中でキーをキャッチする。
暖房をかけ、しばらく黙ったままでじっとしていた。
ささらですら少し震えているくらいだから、ペンコは見るまでもない。
温度を上げて風量を落とす。
何となく覚えた道を思い浮かべながら車を発進させ、ラジオの音量を下げた。
「着いたら起こして、どこでも」とペンコは揺れた声で言って、クスノキが返事する。
あたるちゃんは両腕をヘッドレストから前へ出し、私の胸で何かのリズムを取っていた。
あくびが出て、思い出した家の寒さに震える。
椰子の木はこの寒さをどう感じているのだろう。
騙された、というような生体的な反応なんかはあるのだろうか。
落語家みたいな、遠くへ飛ばすような抜けのいい声が聞こえる。
ささらはテクストを打っているのかiPhoneを小刻みに操作していて、ブーツを脱いだ足を私の腿の上に投げ出していた。
体温が高いのか私の体が冷え過ぎているのか、眠った小動物くらい暖かい。
少しだけ速度を抑え、右手でささらのふくらはぎを脛側から揉む。
「あー、いいねー」と、ばさっと手を下ろし、すぐにまた同じ動作へ戻った。
筋肉がないみたいに均一に柔らかく、手の中で収まりのいいところがない。
革とクッション越しに鼻歌が聞こえ、あたるちゃんは頬か額をつけているのだろうか、初めから耳の奥で鳴ってるみたいだった。
「何の歌?」
「え」と彼女の声が鮮明に、ちらっと振り返ると目が合った。
「歌ってました?」
「鼻歌だけどね」
「全然意識なかった」
彼女の指先が肩へ触れる。
「気にしないで歌ってて」
その手が伸びて私の視界を隠すのが想像された。
そのときの私がペダルを踏み込まなければ、特に何も起こらないはずで、しかしそうしないかどうか。
もう少しでペンコの誕生日だった。
私たちは何をあげよう。
まだ何も思い付いていなかったけれど、喜ぶ姿が浮かんでくる。
「あたるちゃん歌上手いでしょ?」
「いやあ、どうだろ、下手ではないと思いますけど」
もしくは、伸ばされた彼女の手が私の首を掴んだとして、体は咄嗟にブレーキペダルの方を選ぶだろうか。
理容室で剃刀が首元に滑るときと同じような考え方に捕らわれていた。
あたるちゃんだけではない。
ささらだって、私の顎を蹴り抜くことができた。
その場合、私の体は瞬時に力んで弛緩するはずで、ペダルは、ハンドルはどうなるのか。
すぐ左手のガードレールへ突っ込んで、くるっと天地が入れ替わるのもしれない。
私はどうしてそんなことを望んでいるのか?
「つぐみ、次のコンビニ寄ってー」
「おっけー」
前を走るトラックが道を譲ってくれる。
自然に目や指先が送られて、ほとんど知らないうちに追い越してしまう。
ささらの足が腹に食い込んで、ふっと離れた。
ナビ上にあるローソンはなくて、その少し先にセブンがある。
減速し左折、幹線道路沿いらしい広々とした駐車場へカングーを停め、ささらは足を折り畳んで靴を履いた。
起きていたのは三人で、ドアへもたれかかったペンコ、にもたれかかったクスノキの二人を起こすべきかどうか。
「一旦このままにしとこうか」と言って、「そうですね」とあたるちゃんが次ぐ。
「ま、トイレ行きたいだけだから」とささら、それでもあたるちゃんと私も外へ出た。
ハイライトとアメスピを交換し、私たちは灰皿のそばで彼女を待つ。
「ペンコよく寝ますね」
「ね、何もしてないとき全部寝てる気がする」
「ですね」
「コーヒー買うけどいる?」
「あ、じゃあホットで」
「はーい」
二口深く吸い込んで、灰皿へ落とす。
ドアを抜けるとちょうどささらが出てきて、「コーヒーは?」と声をかける。
「あー、アイス、小さいので」
「はーい」
氷の入ったカップを二つ持ってレジへ。
どこかの内側からよく見知った人を眺めると、途端に私たちの差異が露わになる。
このような今があったかもしれない、と私より先に体が思うのか。
二人を知らなくとも、今そこで笑い合うささらとあたるちゃんの姿はその日の私のハイライトに成り得る。
だから、そうだ。
私がいてもいなくても、あらゆるものはあったし、あることが、最も端的に表されているのだろう。
そこに見える人がよく知っている人であればあるほど、そこに浮かぶ表情に既視感があればあるほど、私のいくつもの過去にも接続され-それはその本人とも関係のない同種の表情にも繋がり-思い出から私が消えていく。
体感を伴った可能性や不可逆さは、何故だか私を安心させる。
できあがったコーヒーを二人へ、その間に私のアイスコーヒーが抽出され始めた。
「はい」と手渡すとき、「え」、「何ですか」、と言われることを願っていたような気がする。
それは「ありがとー」、「つぐみさんは何にしたんですか」だった。
「アイスラテだよー」と言う私の声は震えている。
くるっと回って歩き出し、涙がいくつか流れた。
私が何に感極まったのか、今でも分からない。
マシンの前に戻ると出来上がっていて、取り出したまま蓋を付けずに外へ出る。
その短い間にペンコが外へ出てきていて、「起こせよー」と突進してきた。
液面を見ながら彼女を受け止め、「ペンコは?なんか飲む?」と言う。
腕を閉じながら「ホット、のコーヒー」と聞き、後ろ歩きで自動ドアの前まで進んだ。
残りの道はペンコが助手席へ座った。
思いたいことが溢れていて、私は三人の会話へ混ざれない。
クスノキは眠っているのか瞼を閉じているだけか、静かにもたれかかったままだ。
家の中の底冷えはさっきよりはましだった。
炭化した薪を掘り出して、そこから火を熾していく。
私とクスノキはそれぞれ端に座った。
窓のそばの畳には液状に感じる冷気が溜まっている。
隣ではペンコがぶるぶるしていて、あたるちゃんとささらは平気そうだった。
左目の暗闇を何かが通り過ぎ、自動的に目がそちらへ向かう。
短そうな尻尾の先が見えた気がしたが、痕跡らしきものは見当たらない。
後ろの方が明るくなって、火が膨らんだことが分かる。
暖かい空気が漂い始め、体が重くなった。
交互に大きなあくびをしながら、誰もシャワーを浴びに行かないし、このまま寝よっかとも言い出さない。
余ったおつまみを食べることも雪雀を飲むこともないし、まとまりのある会話もなかった。
五人ともがただ火を眺めていて、おそらく誰も何かを考えているわけでもない。
火は私たちの疲労感を吸い取って、勢いを増してゆくように見える。
クスノキが立ち上がったのも三十分くらい経ってからで、起きてからだと怠いからシャワー借りる、と言ってふらふらと廊下へ出ていった。
「ささらもどう」とペンコが言って、あたるちゃんが私とささらの顔を見る。
彼女は私の目をちらっと見てから「あー、どうしよっかな」と立ち上がった。
そのまま明確な言葉を残さずに廊下へ、左側の暗がりへと歩き出す。
何も聞き取れない声がひとしきり届き、風呂場の扉的な開放感のある反響音が聞こえた。
ペンコはストーブと平行になりながら寝転んで、私とあたるちゃんの上へ足を伸ばす。
がーっ、と弓形に、お尻が浮いて落ちる。
「座り疲れましたね」とあたるちゃん。
「確かに」とペンコが言って私も頷く。
私とささらはクスノキの同じ部分に惹かれているような気がしてならない。
あたるちゃんは「ちょっと待って」、と足を抜き、頭上の電気を消した。
閉じた襖に私と彼女の影が映って、ということは元々目に見えない薄さで影があったのだけど、そこにも私たちはいたのか、と思う。
「いい感じー」
「和むね」
「眠くなりますね」
私は二人の表情を見ていた。
ペンコはいまだ眠たそうに緩慢な瞬きをして、唇は繰り返し「ぱ」とか「ま」とか、母音が「あ」の一文字を形作っている。
長いまつ毛の影が揺れているあたるちゃんは、高校生の頃の彼女を思い出させた。
しがみつきそうな悲痛さや掴み取ろうとするような必死さはなく、ただ抗っていた。
吹き消されてしまわないよう、低い重心で構えてるみたいだ。
いくつかの層を抜けて笑い声が聞こえてくる。
私たちはその方向へ目や顔を向けた。
まだ見えない二人の顔が微笑んでいるのが分かる。
「起きたら何しよっか」、とペンコが呟いた。