ここ数本、映画を観ていて多分同じことで疲れている。どうしてそういう見方をしているのか分からないけれど、なんとなく、どっかしらで全部本当だと思っていて、隠し撮りとは思わないけど、そこに写る人に許可を得て撮っていて、それを編集して映画として、それを観ている気になっていて、それで何に疲れているのかと考えると、それは、物語を推進させる出来事やシーンを観ているときに起こることに対してで、それは、その空間というのか、そこに写る人ないし風景が、物語を推進させるためだけに使われているような気になってしまって、それは観終わってから言葉になるのだけど、感触としてここ数本はそれで疲れている。
完全に見方、感じ方の問題なのか、問題というかそれが原因なのか、単純に出ている人の演技が素晴らしく(現実的、映画的な現実味があるということ?)その誰か、何かに、観ている間中、没入し過ぎているのか、何か違和を感じるようなシーンの配置なのか、複合的なものか、分からないけれど、多分複合的なもので、でも映画を観る重きをそこに写る人に置いているのが大きくもあり「こんなにこの人たちが素晴らしいのに、どうして映画映画した展開が必要なんだ!」と思ってしまってるのかもしれず、思ってしまっているというのは、不必要なものだとは言い切れないからで、でもそういうふうに思ってもいて、多分ずっと何がしかが気になるんだろうと思い、二十二年生きていて三〇〇本も映画を観ていないし四〇〇冊も本を読んでいないのに、何を抜かすか坊主と思う。
とにかく最近、映画館で映画を観るのが楽しい。学生割引でだいたい八〇〇円浮くうちに、うちでもないけど、たくさん観たい。久々にオールナイトで映画を観たい。別に途中で帰ろうと思えば帰れるんだけど、強制的に観せられている感じがしていい、合間の短い休憩とか、全く知らない映画が挟まってることとか、観る場所に関わらずシネコン的ミニシアター的な感触と違っていい。
次に読む本、読みたい本がある状態に心安らぐ。読み終わったら探さないといけないんだというのが、かなり何かを消耗していく、本屋に入ってあてもなく歩き回って結局何も買わずに帰ることを繰り返さなくて済む。圧倒されて読む気が失せてしまう。それは非常によくないことで、そうなってから再び読み始めるまで時間がかかってしまい、時間がかかった分その間に目星をつけられたらいいんだけど、大抵はそうならず、一体いつもそこからどうやって脱しているのか思い出せない。とにかく次に読む本は多和田葉子と岡田利規で、じゃあその次は、と一ページも読んでいないのに考え始めているのは、大変よろしくない。