作品の中で紹介されているところから読み始めたものが、ここ数ヶ月、数年前から読んでいたものや気になっていたものと一致すると、共鳴してぐわんぐわんして何だか嬉しい気持ちになったあと、ずっとおんなじところを彷徨っていた、彷徨っているだけなのかなと少し恐ろしい気持ちになってしまう。
読書のきっかけみたいな穂村弘と、適当に読み始めた川上未映子が十年くらいして対談集を出して、それをおもしろがって読めたり、五年くらい前から近くにいれば必ず寄るCOW BOOKSの松浦弥太郎と、保坂和志から繋がって読んだ『読書の日記』の中の『オン・ザ・ロード』が響き合ったり、そのどれもが極めて最近に知った人や作品と繋がっていたり。巨岩のまわりを、小さなライト片手にふらふら歩きながら照らし見て、岩の全容を知ろうとしてるのかなって気がしてくる。自身のどこかと共振する何か一つか二つ、そんなものを、どんなものからも探し出そうとしている気がする、そんな気がしている。揺れを起こした何かを使って共振した部分を探しているのかもしれない。短歌を読まない人でも名前くらいは聞いたことがあるだろう穂村弘と俵万智も、穂村弘は短歌から入らず今もまだ読んでおらず、俵万智は短歌から入って今はまだ他は読んでいないというのが、別にどうってことない話ではあるけれど、なんとなくおもしろく、読める読めないという線引きが細かく色んなところにあって、なんだろなと、やはり、おもしろい。
男はこう、女はこう、の「こう」の部分を感じる作品が読めないことが多い気がする、「こう」から漏れていないというか、「こう」そのものじゃんみたいな、なんと言えばいいのか分からない、社会的に規定された性性というのか、ジェンダー?、とにかくそういったものを感じる、というのか感じてしまう作品を読めない、観れないことが多い、というより受け付けないくらいのことが多い気がする。なんでだろう。というようなことに『早稲田大学増刊女性号』を読んでいるときに思い至って、三分の二を残して本棚に収められている。なんでだろう。
登場人物それぞれが何かの総体みたいに書かれているものも割とすぐに閉じて、もう読まないことが多い気が今して、所謂、キャラが立っているというのが苦手なのかもしれない。キャラが立った、というか立ち過ぎた人が動き回ってる状態というか、そのような状態を招いた作者の運動というか。よく思い返してみると、繰り返し読む本の登場人物ってみんな「え、これ連作?」って思うような類似度というか、挿げ替えても成立するんじゃないかというか、あまり印象として変わっていない気がして、それで、物語然としたものがそれほど好きじゃないこととも繋がっているのだろうかという気もしてきた。効果的?煽情的?意図的?機能的?平面的?工作的?統合的?作為的?言葉が分からない、渾渾沌沌とした状態が好きというか、最早そうあるべきだとすら思っているというか、べきではないな、なんと言えばいいのか、綺麗に盛り付けされた料理を、物腰の柔らかい端正な顔立ちの人にサーブされるより、切っただけ、焼いただけ、煮ただけ、剥いただけの状態の、何とか料理と言えるだろうみたいなものをどちゃっと目の前に置かれた方がおもしろいというか、なんというか。理想としては独特の丁寧さや誠実さを感じる人に何かよく分からない料理をサーブされることで、でもそれはギャップというのでもなくて、なんて言えばいいのか。
あまりに何と言えばいいの分からない、その割にはしっかりした感触があって、鳩尾から首のくぼみまで搔きむしりたくなるような気持ちになってきた。