本の帯って基本的には装丁や装画を損なっている気がして、買ってすぐぐちゃぐちゃにして捨てるのだけど、帯文が本の中になくてしかもぐっとくるとき、外して取っておくほどでもなくて、捨てるのも、本の一部的にGOODだし、どうしようと思っているうちに、付けられたまま本棚やらへ収められていく。
背表紙だけにタイトル表記して、装画を見せてくれ、だって読まないし、読まなくてもいいし、でも表紙が素敵で買ったんだから、どこかに、そのタイトル表記をどこかにやっておくれ、というわけで。
調和されたもの、かといって、例えば『騎士団長殺し』の『殺し』が表紙でカクッとずれているのが不調和であるかと言えば、そんなことはなくて、違和感があること、全体の中で一部が目を惹きつける、よって全体に視線がまわるようになる、それは結局のところ調和が取れているというか、購買者が調和をとることができるということで、あ、じゃあそれで、調和されたものではなくて、もちろんそれが、もいいけれど、せめて、あとでやっときます!的なものであって欲しい。何の話?
同じことを何度も考えることは、普遍性を獲得する過程かどうか。
パソコンの画面の明るさを上げると、音量が上がったように感じた。DOCKが常に見えていると集中できないのと似たような感じかな。
予定を立てたり通販で何か買うのは、本当に体に悪い気が、ずっとずっとずっと、小さい頃からずっと、ずっとずっとずっと思っているような気がして、確かに思っていたし、今はより強く思っている。
それは目標を立てるとか夢を持つとか、そういったこと、必要?というか本当に出来てる?いや、必要?と思うタイプだからだろうか。
で、来月三食何を食べるかということを考えている。昼はクラッカーとかクッキーとかそういうのでいいが、朝夜一体なにを食べよう。
その時になれば分かるし、その時になれば考えるまでもないんだけど。うざったーい。
実際に引きちぎれてくれれば、俺はもっと生活しやすいのかもしれない。こっちだけの俺とあっちだけの俺の二人、仲良くやっていこうやぁ!なあ!
ありとあらゆるものは最初から決まっている、最初に決まる、最初が決めていく、最初だけ決まっている、最初と決まっていく、そんな感じ、誤謬が体を作り始めることを阻止すること、言語について考えること?、それは調べること、知ることと、何がどう違うのか、違っているのかな。
学問、と成った時間と先人への敬意、すべての認識と判断の間違いと前提的な形を取ることへの意識、何を志向する?、どうすれば?
永井均さんが『子どものための哲学』で「青年の哲学、大人の哲学、老人の哲学はそれぞれ、文学、思想、宗教で代用できるが、子どもの哲学には代用がきかない」と書かれている。
そうでしかないよーーーと泣き笑い、俺はずっと文学と思想の狭間、宗教と思想の狭間、代用のきかない場所、その三地点を行ったり来たり、どんどん奥へ、誰かの声しか聞こえないくらい奥へ、助けておくれー!助けてー!助けて助けてー!という感じでいる。
いつまで?