「家と職場のちょうど真ん中で、いい感じに忙しいときよく来るんだよね」と、店主が下へ戻ってからささらは言った。
「浅いマンデリンって珍しいね」
「だよね?あんま見たことないから飲んでみたんだけど、それからずっと好き」
「私も、初めてです」
窓際のペンコは「へー」と、外の様子を眺めている。
「ここのね、マグとかお皿とか、大体わたしのつくったやつなの」
「え、すご」と振り向く。
「へえ、楽しみです」
「それで知り合ったの?」
「そんな感じ、たまたま来たらそうだったから話しかけてみて、めっちゃいい人だしさ」
「いい出会い方だね」
「だよね」
商店街を歩く人はほとんどいない。
全長からすると三分の二ほどを歩いただけだったけれど、その六割がシャッターを降ろしていたから当然なのかもしれない。
夕陽に変わる直前の陽が、アーケードのガラスを通り抜けて差し込む。
深い茶色の木材のおかげか、店内から外の寒さを想像することができない。
私は三人の会話を聞くともなし聞きながら外を眺めている。
私とささらとペンコの前に小ぶりだがどしっとした、藍色より濃い青のマグが置かれた。
あたるちゃんはワイングラスみたいに膨らみのあるガラスのカップで、これはさすがにささらの作品ではなかった。
中央には全体に波打ったような薄い丸皿が、大きなシフォンケーキを載せて配される。
「一つならみんなで食べて、夜ご飯も食べられるでしょう?」と彼は言って、淡い笑顔を向けた。
「おじちゃーんありがとー」
「ありがとうございます」と、輪唱のような声。
「ゆっくりしてってね」
「うん!」
どうすればこのようなバランスになるのか、キャラメリゼされたシフォンケーキは柔らかさも軽さも損なわれていない。
「美味すぎじゃない?」とペンコは歓喜して、私たちも同意する。
夕ご飯はもういいからホールで食べたい。
コーヒーも不思議な味わいで美味しい。
華やかさと重い味わいがいい塩梅で、温かくてもたくさん飲めてしまうし、マンデリンに感じやすい土の香りも立っている。
一時間ばかりそこにいて、帰る頃にはすっかり夜だ。
「帰り私が運転しようか?」ということで、私が帰路をを担当する。
体が予期していたよりも遥かに運転しやすかった。
ささらは助手席に、ペンコはまた眠っている。
「最近どうなの?」、と思えばここにきて初めて、空間的に二人きりなったささらは言った。
「最近、どうだろ」「毎日楽しく、うーん、昨日は楽しかったなーって日が毎日あるよ」
「つぐみは基本的にいつもそうじゃない?」
「まあ、そうだね」「仕事も別に変わりないし、今までと変わりないな」
「絵は?」「もう描かないの」
「描いてみようかな、とすら思わないな」「二年くらい前までは結構、思うことはあったんだけど」
「ふーん。もったいなく思っちゃうなー」
「好きだった?」
「うん、好きだし、いいと思う」
「何か、満足しちゃってる、というかしてるんだよね」
「性生活に?」とささらは笑い、私はこういう部分でもペンコと彼女に相通ずるものを、事前に感じていたのか。
「言うまでもなくね、でもそれだってその時々?、パートナーがいてもいなくても、不満って感じたことないんだよね」
「学生の頃とか、すっごいそういう話、最近誰とどんなことしたとかって聞いてたから、まあそうなんだろうね」
「それはささらが聞くからじゃん」
「まあね」「あー、だから、別にしてもしなくても、そういうことに特に執着がないってこと?」
「うーん、好き嫌いで言えば病的に、本当に病的に好きだと思うし、当時、学生の頃?とかはきっと私の及ぶ範囲手当たり次第って感じで、だから不満を感じてたのかもしれないけど、思い返すと別に、ずっとどっちでも良かったのかもなって」
「まあそれも普段の、その、事後的な気配がないときとか、映画とか本の話、に限らず、話してるときを思うと分かるな」
「そう?」
「うん、こんなにあれこれ知ってるのに、今でも引いて見ると性欲ない人に見えるもん」
「何でだろう」
「実はある人なんだ、とも思えない」
「人一倍ある気がするのに」
ささらはひととき笑い声を上げて「それは多分事実だね」と言う。
それは多分事実だ。
でも、ささらが言ったことを、私は知ってもいた。
「他の三人はどうですか?」、身を乗り出したあたるちゃんが言う。
「クスノキは実はある人、ペンコはつぐみに近いけどある人、あたるはねー、あたるはめちゃくちゃある人、に見える」
「大体合ってます」
言葉にされるとそうであるように思えるが、「どこで判断してるの?」
「いやー、もう全身の雰囲気としか言えないなー、だって別にそれぞれとそれぞれの性的な話いっぱいしたわけじゃないし」
「別に他の人からも聞かないし?」
「うん、だからわたしの中での印象でしかない」
「これまで会った人に似た人がいるとかでもないんだよね?」
「うん、ほんと、優しそう、とか、恐そう、とか、そんなのと同じ」
慣れない土地の夜道の運転は心地好い。
ほとんど街灯に照らされない道は清潔に見えたし、どこまでも走っていけそうに広々と感じられた。
「でも、かなり正確な気がします」
「そうかなー、わたしはどう見える?」
「ささらさんは、ほとんどない人に見えますね」
「うん、正解」
「恐そうとか優しそうとかって、この人性欲強そうとかより日常的に思いそうだし、しかもそれが正解か不正解か知る機会が多いからさ、結果的に大体当たるけど外れることもあるなーって、でも性欲に関しては結構、関係性の進み具合に準ずるからデータが溜まりにくいのかな、あ、だから、他のと同じで、大体当たるけど不思議に思うというか」、ささらは身振り手振り説明してくれるけれど、一体どの動作が何を表しているのかは分からない、けれど分かりやすくなっていることだけが分かる。
「この五人はある程度、その、ささらさんからするとそういう、性的な?こととは切り離されてるけどもう他人ではなくって、その、印象も色んなフィードバックがあるから、性浴って一つにフォーカスしても精度が高いんですかね」
「うん、そうだと思う、今、このメンバーだから当たるし、だから不思議に思えるけど、全然関係ない人も含めば他のとおんなじくらいになりそう」
ナビを見ていても、総距離が体に入り込んでいないからか、どこをどれくらい走っているのか、走っていたのか、後どれくらい残っているのかが判然としない。
「あたるからするとつぐみはどうなの?」
「ささらさんと同じで、あ、思うことが一緒で、ない人に」
「見える?」
「はい」
海鳥たちはこの時間、一体どこで体を休めているのだろう。
何もいない岩の先を見て思われるが、その他の野生動物だって、どこでどうしているのか検討もつかない。
肉屋は途中に現れる小さな町にあって、短い行列ができていた。
店や街の規模からして、年の瀬も押し迫ったこんな日に開いていることも人集りがあることも信じられない。
三日か四日前から年末年始の休みを取っていても何の違和感も抱かないはずだ。
眠ったままのペンコを置いて、私たちは列に並ぶ。
「鶏肉がめちゃ美味しいんだけど、鳥多めでもいい?」
「私は全然、それでいいです」
「私も、うん」
すぐに私たちの番が来て、ささらが呪文のようにあれとこれとそれと、と注文を通していく。
ここはさすがに、と私は会計を済ませ、小さ過ぎる駐車場へ。
ペンコは車の外にいて、心細そうにドアへもたれかかっていた。
私たちを見つけると「あー!」と声を上げる。
ささらが「ごめんごめん」と言って、彼女はすぐに大人しくなった。
また同じ配置で座り、エンジンをかける頃には眠っている。
私はクスノキへ「お米炊いておいてほしい」とLINEを送り、車を走らせはじめた。
クスノキは縁側に座って煙草を吸っていて、私は反射的にiPhoneを見た。
了解、以外の連絡もないから-結果的にも-想像するにたまたまさっき出てきたのだろうが、小走りで彼の元へ駆け寄る。
「おかえり」と言う声は震えていないし、顔色も悪くない。
「ただいま、ずっとここにいるわけじゃないよね?」
「え?、ああ、違う」
「良かった」
彼は立ち上がってサンダルを履き、二人でトランクの荷物を取りに行く。
「ただいまー」
「火熾したけど良かったかな」
「え?」
「ストーブ」
「あー、もちろんもちろん」
クスノキは訝しげな表情で、多分ささらはこれから始まる夕食に紐づけて驚いていた。
「今日は焼肉だよ」と私は告げ、クスノキは返事と感嘆の間で「おお」と言う。
ペンコはあたるちゃんに支えられるみたいに、まだ眠ってるくらいの足取りで家へ入る。
私たちは台所で荷物を降ろし、「外でやるのか?」とクスノキ、私はバトンを渡すようにささらを見た。
「外だね」
「じゃあ、俺は火用意しとくよ」
「あ、ありがとー、えー、玄関出て左、裏に物置があってー、そこに」
「探してみる」
「じゃあお願いしまーす」
悪気もない自然な会話の制し方に、私はうっとりしたような心持ちになる。
私にはできないし、ここにいる誰もが会話が断ち切られたことを分かっているのに、嫌な気分になった人は誰一人いないことも共有されていた。
ペンコはストーブのそばで丸まっている。
また三人で諸々の準備を進めていくあいだ、部屋のどこかしらからごとごとと物音が聞こえた。
広くはない作業スペースの前を、言葉もなく器用に入れ替わっていく。
私は自然に、カウンターの向こうを見るように何もない壁を見、その時々で背後にあるはずの調理場の代わりに小さな机を振り返りかけ、窓の外の街路を見るように冷蔵庫のある方を見てしまう。
あたるちゃんにもそういう素振りがあって、二人とも慣れない場所での作業であるということ以上に、まだ人の家に対する緊張感が残っているように思える。
縁側からほど近い位置にコンロが置かれ、その向こうにアウトドアチェアが二脚、右手に折り畳みのテーブルが設置されていた。
ストーブの火とは違って見える。
クスノキはテーブルの届かない方の椅子に座って火を調整していた。
私はペンコを起こしに行って、ささらとあたるちゃんは食材を持って外へ。
なかなか起きないペンコも「バーベキューするよ」と言った途端に体を起こした。
「バーベキュー?」
「うん、もう準備終わったからすぐ始まるよ」
「やったー」と、ゆらりと立ち上がり、私のあとを着いてくる。
二人分の上着を持って、私たちも外へ出た。
割に大きな網だったから、それぞれ食べたいものを各自で焼いていった。
昨日と同じ日本酒を飲みながら、私とあたるちゃんはタンとセセリから食べ始める。
ペンコは色んな肉を少しずつ同時に焼いて、クスノキとささらは脂っこい部位を一枚ずつ焼いてビールを飲んでいた。
鶏肉は胸肉ですらしっとりと旨味が強く、それでいて歯切れも良くってどんどん食べ進めてしまう。
私たちは食の好みが近くて-それは食べ方や味わい方もそうだ-何か食べるたびに「これ美味しいですよ」、「これいいよ」と伝え合った。
「あ、そうだ」と、右側の椅子に座ったささらが立ち上がる。
薄暗闇に消え、小さな鉄板を持って帰ってきた。
そのまま玄関から中へ、しばらくすると窓が開いて袋の中華そばと水滴のついた鉄板を手渡される。
「端の方で焼きそばつくろうよ」と玄関から向かいながら言って、クスノキが立ち上がって準備を始めた。
ささらが腰を下ろしてから「あ」と言って、私は「ソース?」と腰を上げる。
「上の段にあると思う」
「おっけー」
靴を脱いで縁側から中へ、蒸し暑いくらい熱気で満ちている。
冷蔵庫を開けてすぐにソースは見つかって、ついでに醤油と砂糖を持って外へ戻った。
全員が食べ過ぎていたし飲み過ぎていた。
珍しくささらも素面には見えないし、誰も口を聞かない。
動き出せたのは寒さのおかげで、そうでなければそこで眠っていてもおかしくなかった。
ペンコが初めに「凍死する」と家の中へ逃げ込み、つられて私とあたるちゃんも入っていった。
急いでストーブの前に集まって体を暖める。
それから三十分くらい、クスノキとささらはまだ何かちびちびと飲んだり食べたりしていて、私たちは眠気とシャワーの浴びたさの狭間でふらふらしていた。
次に動き出したのは私だ。
私たちは寝転がって丸まったペンコを挟むように三角座りでいて、ふと立ち上がって、それから「そろそろ立ちあがろう」と思いつく。
あたるちゃんは私を見上げ、何かを察したペンコも目を覚ました。
「シャワー浴びてくる、さすがに」と歩き出し、右足首を彼女に掴まれる。
「連れてってー寝ちゃうー」
「ちょっと待ってて、スペース確認してくるから」
「なくてもあっても一回戻ってきて」
「分かったよ」
廊下の突き当たり、右手に洗面所があって、同時に脱衣所でもあった。
妙に天井が高く、長細い箱に入り込んだような気分になる。
右側にくすんだ緑の扉、そこがお手洗いで、左手、擦りガラスの向こうが浴室だ。
あまりの寒さに体を震わせ、ガラス戸を開く。
想像なんてしていなかったけれど、予想外に広い浴室で、湯船でさえ大人が二人でゆうに足を伸ばせる大きさだ。
数センチ開いた蓋から湯気がのぼっている。
私は戸を閉め忘れたまま、いさんで和室へ戻った。
二人ともさっき見たままの姿勢で、周囲も揺らめいて見えるくらいうつらうつらとしている。
「かなり広いよ、入るならすぐ入ろう」と声をかけた。
真っ先にあたるちゃんが立ち、「入りましょう」と言う。
どこから起きていたのか、ペンコは悔しそうな声で「あー」とだけ発して手を伸ばした。
二人でその手を取って廊下まで引きずっていく。
脱衣所は二人に譲って、私は突き当たり、裏口のありそうな膨らみで服を脱いでいった。
寒さは露出した肌からするすると内側へ滑り込んでくる。
桶か何かで湯を浴びる音が続き、結構な量の湯が溢れる音がしてから、風を切らないようにゆっくりと進む。
二人とも湯船の中にいて、まだ眠そうな顔をしていた。
頭上の窓から淡い月とその光が見える。
「先洗ってて」とペンコ。
冷え切った木製の椅子に腰掛ける。
痛い気がしてくるほど冷たい。
体にかからないようにシャワーの温度を調整し、手の甲でぬるくなったのを確認してから浴びた。
戸に背中を、だから斜めになって頭や体を洗っていく。
気分も汚れもさっぱりしてくると眠気は後退していったが、代わりかなにか、満腹感が増したようだった。
ペンコはしっかり瞼を閉じ、あたるちゃんは一体どこを、何を見ているのか分からない目をしている。
私たちはいつからか、瞬きでさえ会話ができたけれど、今の二人からは何も想起されない。
すべての動作を最小限に、二人へ泡や飛沫が飛ばないよう注意した。
まだ冷えたままの浴室の中では、その動き方は正しかったようで、冬場の自宅でシャワーを浴びている時よりも温まった部分がひやりとしない。
ただ背中に湯を浴びながら「どっちが先?」と、水滴の垂れた目を瞬かせる。
あたるちゃんは「あ、じゃ、私、浴びます」と言って立ち上がり、残像が見えそうな緩やかな動きでシャワーヘッドを受け取った。
なみなみ注がれたグラスを持つように、そーっと湯船へ体を浸す。
壁を背に、ペンコの浮いた膝の下と腰の後ろへ足を伸ばした。
瞼を閉じたまま顔を向け、一体どうして分かったのか?、ゆらーっと背中から流れてくる。
氷みたいな肩が胸に張り付き、私は背もたれになった。
そのまま頭を倒し、眠過ぎる、と声を出す。
「起きてたの」
「ずーっと起きてる、さっきも」
「さっき?」「ストーブの前?」
「うん」
ペンコは私の指を湯の中で握ったり離したりしている。
「あ」と言って、「初詣」と続く。
私も「あ」と言って、「忘れてた」と返す。
「行きたいけど無理そう」
「じゃあ私もいるよ」
「いいの?」
「絶対風邪ひくし、みんな忘れてたでしょ」
「私も、今思い出しました」、と、泡だらけのあたるちゃんは言う。
久々にペンコの目に光が差し、「起きたら行こー」と拳をあげた。
ストーブのある和室へ戻るが、信じられないことにクスノキとささらはまだ外にいた。
クスノキは左手に、ささらは右手にお猪口を持ち、何かこれまでとは違った親密さが見てとれる。
どちらかの口がしばらく動き、どちらかが口元を抑えて笑う。
ささらは自然に、しかし空いた右手を使って、わざわざ体を捻らせてクスノキの肩か太ももへ触れた。
私は口角が上がっていることに気がつく。
礼儀というか何というか、しゃがんだ私は襖をゆっくりと閉める。
窓際に布団を並べて敷く、我先にとペンコはストーブの側を取って、「つぐみは真ん中」と指示を出す。
言われた通り、敷布団の上に腰を下ろし、まだ立ったままのあたるちゃんへ目線を向けた。
「大丈夫ですよ」と彼女は答え、電灯を豆球に変えてから左端、私の右側の布団の上へ座った。
ペンコはもう薄くて保温性の高い毛布と羽毛の詰まった掛け布団の下にいて、仰向けのままiPhoneをいじっている。
私たちはまだ座ったまま、特に何かしたりせず、ぼんやりとも何か考えたりせず、ただいた。
時折、窓の向こうから笑い声とくぐもった爆ぜる音が聞こえ、いつもとは違う場所にいることが意識される。
ねーねーこれ見て、と、ペンコが馴染みのない生き物が走り回る動画を見せてくれた。
「かわいいね」
ささらの笑った声がよく聞こえるのは、いつもの十何倍もクスノキが話しているからだろうか。
彼女は自分自身の言葉にあまり笑わない人だから、そうなのだろうけれど、上手く想像ができない。
「盛り上がってますね」と、あぐらをかいた足首に開いたままの本を載せたあたるちゃんが言う。
「みたいだね」
「あんなに話すクスノキくん初めて見たかも」
「あたるいつからクスノキのことクスノキくんって呼んでるの?」
「え、いつからだろ、あれ、呼んでました?」
私は体を後ろへ倒し、両肘をついて二人の視界を開く。
さして含みのない声で「ささらとああいうの見て妬かないの?」とペンコは訊ねた。
「うーん、言われたらというか言われ続けたらそうなりそうな気もするけど、別に今は」
「ふーん」
「ペンコだって、つぐみさんと佐和子さんに妬いてはないでしょ」
「え、何それ、関係ないじゃん」
私は当然、不穏な気配を感じる。
「どう?」
「別に、どっちでもいいでしょそれは」
ペンコは片肘をついてあたるちゃんを見上げている。
「何?」
「何って、なんでそんなこと聞くの」
「ペンコから聞いてきたんじゃん」
「だから、それは今関係あるけど、あたるのは関係ないし」
「そう?同じでしょ」
思えばこんなに刺々しいあたるちゃんの声を聞くのは初めてだったが、喜ばしく思っている場合ではない。
「何が同じなの」
「答えたくない、答えにくいって分かってることをわざわざ聞くのが」
「ちょっとからかっただけでしょ、あたるはわざわざ聞いたのかもしれないけど」
「つもりじゃないからっていい訳じゃないよ」
「うざ」
一体何が起きてしまったのか。
おそらくこの数分の中に原因はなくって、もっと前にあった。
私は目玉だけを動かして、ストーブの陽炎に隠れる。
あらゆる出来事は、選択を間違わなかったから起こるのだと思われた。
飛び退っていくような考えが私の中で湧いてくる。
彼女たちは-もちろん私も含めて-ここに至る全ての原因となり得る場面で、間違った方を選ばなかった。
間違った方を選んだからといってよろしくはない出来事が起こるなんて単純すぎる。
もっと複雑であるべきだとも思えたし、それが事実だとも思えた。
間違ったことと正しくなかったことはイコールで結ばれず、間違ったことと間違わなかったこと、正しかったこと正しくなかったこと、としか成立しない。
二人は黙ったまま、iPhoneを見始めないし本も読み出さない。
あの時ああしていれば、の「ああ」として挙がる選択肢は、その時には可能性としても含まれていなくて、その場に漂ってもいない。
必ず、その場では起こり得ない物事が「ああ」として思われる。
ペンコは泣きそうなのか怒っているのか、震えた声で「ごめん」と呟いた。
数秒に感じられる一瞬の間があり、「うん、私もごめんなさい」とあたるちゃんは答える。
彼女は身をよじって腕を伸ばし、足の上に投げ出されたあたるちゃんの手に触れた。
顔を伏せたペンコから涙がぽたぽた落ちているのが、私にだけ見えている。
あたるちゃんは触れ合った手を注視していたし、私がつられて泣いてしまってはいけない。
窓の開く音、どたどたと足音が続いて二人の声がする。
続く音に私たちは音を立てずに急いで布団へ潜り込んだ。
同じ布団の中にいるペンコは泣き声のまま「まじ?」と囁く。
襖というのは意外にも遮音性が高いみたいだが、子犬がボウルの水を飲むような音は聞こえてきた。
掛け布団を被ったままあたるちゃんも擦り寄ってきて、「ですよね?」と言った。
私は「多分?」と答え、しーっと、暗闇で人差し指を立てる。
私たちはそれぞれに対してかなり明け透けだったけれど、ささらに関しては免疫がないというか、そういった接点がないように思えて、三人ともが妙に緊張していた。
普段なら、つまりこことよく似たつくりの自宅-割と広い部屋が隣り合っていて、互いに気がついている状況-で同じようなことが起こっても、それは私とクスノキだったり、ペンコとクスノキだったり、あたるちゃんと私だったり、クスノキとあたるちゃんだったり、ペンコとあたるちゃんだっり、その複合だったりするわけだけど、ある面では慣れてしまって「お」くらいで済むし、それでもやはり少しばかりは強張るが、これほどまでに慌てたりはしない。
ペンコが唾液を飲み込む音が聞こえる。
クスノキの聞いたことがない、私たちが発させたことのない声も聞こえた。
三人ともが笑い出してしまいそうな気配がある。
何が込み上げてきているのか、楽しくて堪らない気持ちになっていた。
私たちの体温で布団の中は汗ばむほど暑い。
少なくとも、ささらは私たちほど気にしないはずがなくて、今すぐ眠ってしまいたくもあった。
二人が今どんな体勢なのかは分からないけれど、誰が何をしているのかは確信がもてる。
私にとって、音から想像される像にはいつもあまり立体感がない。
局所的な映像が浮かぶというのか、さっき聞いた足音だって、縁側や畳の上に並ぶ四つの足、それも膝から下しか浮かんでこなかった。
シネマスコープみたいな形で、常に上下が断ち切られている。
私には今、どうにかして咥え込んだささらの口元と、どうやってか彼女の中に入った指先だけが自動的に出力されていた。
もう誰も、何も言わない。
私たちは体を縮こめ、ほとんど一つの布団に包まって息を潜める。
「ゴムある?」とささら。
「持ってきてるわけないだろ」とクスノキ。
「んじゃー、待ってて」と立ち上がる音が聞こえる。
意味もないのに瞼を強く閉じ、不自然にならないよう頭を外に出した。
静かに襖が開き、擦れた音がする。
足元に冷ややかでぬるい風が過ぎ、多分、彼女は膝をついた。
「あったかなー」と独り言が聞こえ、「ペンコが持ってた」とクスノキが声をかける。
私たちは一斉に心臓が跳ねた、はずだ。
「あ、そうなの、じゃあ、ごめん一個もらうねー」と、ふぁさふぁさした、誰かへ向けたような響きも独り言の響きもない声で言った。
ペンコは体をびくつかせ、それは真横の私だから気が付く程度だったけれど、私もどきりと弾む。
「寒過ぎない?」、と言いながら襖が閉じ、私たちは瞼を開けて小さく長く息を吐いた。
二人の音を聞きたい、というより、何がしかの音が私たちが起きていたことを露呈してしまう何かへ繋がりはしないか、と聞き耳が立っている。
だからこの数ヶ月で聞き慣れた、隣室からの性行為の音との差に、この音を聞いてみたいという方へシフトしてしまいそうになった。
よくある表現、それは映像的にも文章的にも、「獣のような」というのがあって、二人の吐息はまさにそういった類だ。
声を省けば、多分、クスノキは今下で、ささらが上、お互いそれほど激しいストロークではないはずで、だから声の獣性は行為の程度とはあまり関係がなさそうだった。
ここに至るまでの、二人に内在された、こうはならなかった時空を押しのけた何かが獣性そのものか、内在していた。
そうだからかどうか、あたるちゃんの手に触れたりペンコの匂いを感じたりした時のように、私の欲望が刺激されることはなかった。
まだ気が張っていたから、私に考えられたあれこれの成否は全く分からない。
誰かが感受しなくても存在するものを感受して発展させるから、私はここにだけいて、それはしかし私の存在する理由ではないことと両立した。
ペンコは私のTシャツの左袖を握り込んでいて、もう涙の気配はない、つまり湿り気がなくなった。
鼻先が左肩について、呼吸のたびにそこだけしっとりと重みを増す。
あたるちゃんの手は私の下着の中にするりと入ってきて、反射的に、そうか彼女は二人に刺激を受ける側だった、と思い出すように思った。
私が彼女に畏れに近いものを感じていたのは、今隣の部屋に満ちている獣性のようなものの一端に触れたか全容が透けて見えたからだ。多分。
右肩にのった彼女の表情は見ることができない。
瞼を閉じたままか、開いていたとしても何も見ていなそうな、とにかく集中しているような雰囲気はあった。
合わせていた膝を開き、少しだけ掛け布団の下に空間が生まれる。
彼女の手の動きはそれで分からなくなって、しかし大体同じ布の下にいて、勘のいいペンコがいつ気付くだろうか。
私の体もあたるちゃんもそんなことは構わないらしく、粘度も指の動き方も増していく。
耳の裏の窪みから首へかけて熱がこもっていくのが分かる。
「起きてる?」とペンコが囁いて、いくつも合わさって体が跳ねた。
「起きてる起きてる」と掠れた声で答え、どうしたの?、と訊ねる。
「ううん、あたるは?」
「起きてますよ」
私はむしろもうばれたかったし、いつもならそれで良かった。
多分、今日のペンコは不機嫌になるし、そうなるとさっきまでの言い合いがぶり返してしまいそうだった。
それで音が立つかも知れず、私はそろそろと両膝を立てようとするがあたるちゃんの左足首で静止される。
私は舌の両脇を奥歯で噛んだ。
「ただのかくにーん」とペンコは言って、くるっと背中を向ける。
さっきまで私たちは三人で一塊だったから大丈夫だったけれど、離れてしまえば彼女は気付くのではないだろうか。
あたるちゃんはここぞとばかりに指を器用に動かせる。
私は胸のあたりに冷たさを感じて、それは彼女の唾液だった。
どれだけ集中していたんだ、と笑ったのは次の日だから、そのときには何もない。
せめてペンコが眠ったのが分かるまで我慢しようと思ったが、無駄だった。
へその辺りまで熱くなって、すぐに冷えていく。
彼女は消え入る声で「はい」と囁いて背を向けた。
私にはもう隣室の物音は聞こえていなくて、頭の中で鼓動が、手足は緊張したまま強張っている。
瞼を閉じて開けば朝だ。
眠った気がしないし、年を跨いだ気もしない。
私だけが布団にいて、広げられた布団も私のだけだ。
上半身を起こし、首をひねりながら背中を伸ばす。
布団には飛んでないが、Tシャツや下着は駄目だ。
気配からするとみんな隣にいて、そーっと起き上がってザックから下着とフーディを取り出す。
廊下に面したガラス戸をこれ以上ないくらい静かに引き、脱衣所へ向かう。
状況としては違うが状態は同じで、中学生の頃の朝を思い出した。
ちょろちょろと流した水で洗い終え、洗濯機の中へ放り込む。
ついでに洗顔やら化粧水やら何やら済ませてしまう。
スペースを出て曲がったところにあたるちゃんが立っていて、くすくす笑って踵を返した。
先導されるまま奥の和室へ、おはよー、と声を掛け合う。
「あれ、もう着替えてる、あ、下はまだか」とささら。
「もう出るの?」
「いや、もうみんな出れるは出れるけど、初詣!、忘れてたから」
「着替えるよ」
また隣へ移動して服を着替える。
少し張って「近いの?」と声をかけた。
「結構近ーい」とのことで、上はそのままで穿き替える。
居間に戻ってペンコとあたるちゃんの間に腰を下ろし、そういえばあったテレビをみんなと同じように眺めた。
机の向こうで並んで背中を向けたクスノキとささらは、昨日のあれは幻だったのか、特段いつもと違った態度でない。
空全体に薄く雲が広がっている。
私たちはサイコロの五の目のように歩いていた。
ささらとクスノキを先頭に、真ん中にペンコ、後ろ二つをあたるちゃんと私。
それぞれの間隔は伸び縮みして、十五分ほどの道のりを進んでいく。
「大丈夫でした?」と言うあたるちゃんの意地悪さは自然だった。
彼女はぼてっとしたMA-1のポケットに手を突っ込んでいる。
「まあ、何か色々、ばれなくて良かったよ」
一体彼女の今日の自然さは何だろう。
歩き出すとささらたちの距離はいつもより近いようにも見えたし、私はふくふくとした気持ちで、思いのほか寒い外気の中でも気分がよかった。
ペンコはくるくる回ったりしながらも黙って歩いている。
たまに私たちを振り返って「遅いよー」と言うくらいだ。
全身が硬直していたからか、腰の怠さがまだ残っていた。
冷ややかさを感じた後に若干の暖かさがある海風を抜けていく。
二人の笑い声が風に巻かれ、いくつかの方向から聞こえてきた。
しばらく歩くと-二十分くらいかな-遠目に明るく白い鳥居が見えてくる。
鎮守社だろう。
鳥居と賽銭箱、本殿と呼べばいいのか幣殿と呼べばいいのか、とにかく、小さな社がある。
手水舎もなく、寛容な神なのだろうか、私たちは順に小銭を入れ、錆びた鈴を鳴らした。
意外に涼やかな音がして、寒さが一段増したようだ。
鳥居の真新しさに対し、社はかなり古びていて、しかし崩れた箇所はない。
押し黙ったまま手を合わせ、ペンコとささらが最後まで残った。
私は一番初めに参拝を終え、すぐそこのカードレールに腰掛ける。
背後、数メートル下の方に海があって、自由自在に動き回っていた。
ここまで難なく会話していたから、みんなが黙ると波の音が騒がしい。
煙草をくわえ、こちらへ向かうクスノキへ手を挙げる。
「火あるか」
「うん、ちょっと待ってね」
あたるちゃんは私たちの間へ、そのすぐ後に二人が頭を上げて振り返る。
「つぐみ寒くない?」と、歩いてくるささらが言う。
「まあまあ」と答える。
帰り道は下り坂となって、行きの七割くらいで帰った。