どこかへ行くか家にいるかと話し合うでもなく駄弁って、そのまま家にいることになった、というか、いた。
朝昼兼用の食事に雑煮と、車に置きっぱなしだった、と持ってきたおせちを食べる。
大体同じ味付けだからこそ、それぞれの味が分かりやすい。
雑煮はあたるちゃんと私が拵えて、三つ葉の代わりに余っていた春菊を細かく散らした。
台所に立っているあいだ、彼女は私の足に足でじゃれついている。
用はないらしい「つぐみさーん」と何度も呼んで、その度に私は「ん?」と顔を向けた。
何があって彼女は今日こんなふうなのか、分からないけれど、楽しそうにしているなら何だっていい。
私は神様へ五つ願い事をした。
ペンコが悲しむことのないよう、ささらがいたい場所へいれるよう、あたるちゃんが寂しい思いをしないよう、クスノキがどこかへ消えてしまわないよう、何事もなく家に帰れるよう、そのように願った。
熱い出汁の匂いが膨らんだり萎んだりしながら台所に充満する。
私はあたるちゃんを抱き寄せて、しばらく互いの唾液を欲しがった。
「どうしたんですか」と言わないから、多分、彼女も今日の彼女の違いに気がついている。
少しほつれた吊り紐を見ていると目のどこかに涙が滲んできた。
何も言い出さないで料理に戻って、仕上げていく。
テレビのつくる正月らしさというのも多大なもので、面白くもないし興味も惹かれないのに、こうしてだらだら眺めているだけで正月であることが意識の中で強まっていく。
火をつけないで煙草をくわえて数分が経った。
ささらは-内容にしては-大きな声で「あ」と言って、ペンコに耳打ちする。
「え、あ、ああ、いいよいいよ」「気にしないで」と彼女は言って、だから私とあたるちゃんは何を言ったか分かったし、後でペンコが言った通りのことで合っていた。
昨日買った小さなみかんをいくつか向いて机の上にひろげる。
大体クスノキとあたるちゃんが食べて、ささらは一つも食べなかった。
こんなに予定のない旅行は初めてだったが、退屈ではなかったし、慣れていないからこの時間の何もなさに気が向くだけで、満ち足りてはいた。
「つぐみさん、初日いつですか?」
「初日?」「働き始め?」
「うん」
「あー、帰った日の次の次の日だったかな」
「なんだ」
「被ってない?」
「その前の日です」「なんか想像つかない」
「働いてるのが?」
「はい、まったりしすぎて、これからもこうな気がします」
「まあね、すっごい落ち着いてるよね。気分が」
「ですね。なんかこう、寒いしお家から出たくないとか、めんどくさいとかじゃないし、でもめちゃくちゃ楽しいかっていうと、そういう激しい感じもないし、これでいいやあ、って」
「すごい分かる、なんかしたい気もするけどこれでも全然いいなー、って思いつつ過ごしてるこれでいいやって」
「ぐるぐるしてますね」
「してるね」
「なんか映画観たいかも」とペンコ。
「高速で一時間かかるかかからないか」、とささらが振り返った。
「え、近くにないの?」
「松山まで出なきゃね」
どうしよー、とペンコが左右に揺れる。
「私が運転しようか?」と全体へ向けて言った。
「何がやってるかなー」とささらは机の上のiPhoneを手に取る。
「私はお外出たいです、今、映画はどっちでも」
「俺も、俺は何でもいい」
「これってのは何もないね」と、確認するみたいにペンコを見た。
「じゃー、とりあえず出よう!」
と、私たちは上着だけ取って外へ、ぬかるんでいた地面もいつの間にか乾いていて、低い位置のボンネットの上をキーが飛ぶ。
何とかキャッチして解錠し、寒さから逃げ込むように車内へ。
後ろではクスノキを挟んで、しかし二人はまた言い合いをはじめ、彼は瞼を閉じて腕を組む。
ささらと私は半笑いで、あまり関心を向けない。
この短い時間で何が発端となったのか、「そっちがでしょ」とか、「だからそれは違うって」とか、「言った通りじゃん」とか、内容が分かるような言葉が全然聞こえてこなかった。
「高速の方がいい?」と誰にともなく声を出す。
「どっちも別に走ってて楽しい道ではないよ」
「どっちでも」と、ほとんど怒声に近いペンコ。
「急ぎでもないし、しばらく下道で行こうか」
「そうしよー」
発進してしばらくすると二人は静かになったけれど、騒がしい沈黙でもあった。
ささらは相変わらず、ドライブ中に読書ができる人だ。
自分自身で想像するだけで酔ってしまいそうになる。
新年早々に映画を観るのは久しぶりのことだったし、とりあえず外へ出たことは気持ちが良かった。
ナビによると高速でなくても二時間もかからない距離で、私はもう下道で最後まで行くつもりになっている。
「何読んでんの」、私は彼女を見てしまわないように言った。
「山尾悠子の『夢の遠近法』」
「小説?」
「うん」
「さすがに本屋はある?」
「近くに?、あるよー、新刊のも古本屋も」
「昔は映画よく観てたけど、今はどうなの」
「うーん、本読むことの方が多いかなー、やっぱ、どうしても時間つくれない」
「そうだよね」
「つぐみは?」
「最近だと映画かなあ、あんま読めてないかも」
「学生ん頃はつぐみ異常だったもんね」
「そう?」
「うん、はたから見てるとね」「この人いつ寝てるんだろうって、一緒に住んでて知ってるのに思うもん」
そうだったのかもしれない。体感をもって思い出すことはできないが、当時から遠く離れたと思うのは、時間を割く物事が減っているからだろうか。
ささらはいつでも本を読んでいるイメージが湧くし、思い出としても多いけれど、学生だった頃にフォーカスすると、暗い部屋でテレビの前に座っていた姿が浮かんでくる。
片膝を立て、開いた足の方に飲み物やお菓子を置いて、何本も続けて映画を観ていた。
テレビ台の下から何故か引っ張り出されたプレーヤーの上、左端に私が借りてきたもの、真ん中に彼女が借りてきたもの、右端にささらが借りて観終えたものが積まれている。
今ではどうやっても観たことを思い出せない映画がたくさんあった。
彼女は本や絵の話はしたがったし、価値観を共有したがったけれど、映画はそうではなかった。
「何観てるの?」、と私は何度訊ねたことか、その度に少しだけ恥ずかしそうな表情で、投げ出すようにタイトルを教えてくれる。
私は逆で、本や絵の話はあまりしたくなかった。
その頃であれば、私はどちらへ対しても入れ込み過ぎていて、そのものが私を表しているように思えていたのかも知れず、直接個人的な話をされるよりも照れがあったのだろうか。
「こきりこ覚えてる?」、首元が冷えるような視線を感じ、彼女を見やる。
「覚えてるよ」「思い出した」
「この前ささらが家に来たでしょ、その前の日かな、ペンコがささらって楽器の名前?みたいな話があって、その少し前に猫のこと考えてたんだけど、あ、その猫の名前こきりこだった!って」
「うん、そう」「いなくなったとき、なんて慰めてくれたかは覚えてる?」
「や、覚えてない、し思い出せないな」
「そっかー」、彼女は下唇を突き出しながら何度も頷いて、少し勢いをつけてシートへもたれた。
「覚えてるの?」
「ううん、でもねー、なんかそれから何年か、本当、なんて言えばいいか分かんないしつまんないけど、ものすごく支えになったの、こう、もうあらゆる意味で」
「ん?」
「だから、こきりこのことと切り離されて、わたしの中の基盤?、そういうのになったというか組み込まれたっていうか」
「うん」
「でも、その感触って言えばいいのかな、なんかそういうのがあまりに大き過ぎて、うー、はっきりし過ぎてかな、言葉の方思い出せないんだよね」
「それでいいじゃないの?」と、ペンコがにゅっと顔を出す。
ささらは「え」と言って、「まあ、そうなんだけど」
「今でもその手触りみたいなのはあるんでしょ?」
「まあ、あるかな、ある気もするしない気もする」
「あると思うよ、そういうのって絶対なくならないようにできてて、だから忘れるんだよ」
「どういうこと?」とあたるちゃんが次ぐ。
「だから、その、猫のことで落ち込んでたささらに、猫のことで落ち込んでるそのささらを励まそうとして、つぐみはそのとき何か言ったわけでしょ?」
「うん」と私は頷く。
「そういう、限定された状態で、そこへ向けて言ったことがさ、だからその言葉の源みたいなことから離れてもささらに残ってたのは、猫のことと関係なくささらに足りなかったものだからでしょ?」
「うん」とささらが頷く。
「で、多分、ささらのそこはずっとつぐみのその時の言葉なんだよ、これからずっと」
「うん」とあたるちゃんが頷く。
「だから絶対なくならないし、それがささらの一部としてあるためには、こう、文言?、表面的な部分は忘れられた方がいいんだよ」
ペンコはささらが言ったことを噛み砕きながらも、全く別の話法で言い表した。
彼女の声に、思い出せないこと自体、だから言葉そのものを忘れたことへ対する悔いや、誰へ向けてか、申し訳なさのようなものを感じたから、そんな言い方をしたはずで、でもその妙な反復が、ささらの後悔に似たものをなしくずしにした。
きっと、こきりこがいなくなった後の私も、今のペンコのような声で何かを言ったのだ。
釣り合った言葉が出てこなくて-彼女も返答を求めているわけではいだろうし-しばらく沈黙が続いた。
私はとりあえず目についたローソンの駐車場に車を停め、「何かいる?」、と振り返りつつ訊ねる。
「私も行くー」とペンコがドアを開け、「私も」、「あ、じゃあ」、とクスノキ以外みんな外へ出た。
両脇の二人がいなくなると彼が眠っていることが分かって、それが分かると肩から力が抜けた。
ペンコは「どうぞどうぞ」と言いながらカゴを持ち、私たちはそこへお菓子やら飲み物やらを入れていく。
二周ほどしてから「ポップコーン食べないの」と彼女が言って、私たちは棚へお菓子を戻していった。
結局、人数分のコーヒーとピノを二箱買って車へ戻る。
いつの間にかクスノキは外で煙草を吸っていて、さっきのは勘違いだったかも知れない、コーヒーを手渡し、ピノを一つ口へ入れた。